1903年、北米ウイスコンシン州ミルウオーキーにおいて、一台のモーターサイクルが産声をあげました。生みの親は、ウイリアム・ハーレー(当時21歳)とアーサー・ダビッドソン(当時20歳)の二人です。鉄道メカニックのウオルター・ダビッドソンが二人を手伝い、工具の知識は長男ウイリアム・ダビッドソンの助けを借りました。ウオルターはできあがったモーターサイクルで、長男の結婚式のためにカンザスシティへ走りました。これが、記念すべきハーレー・ダビッドソンの第一号機でした。トマトの缶詰を加工したキャブレター、ドアのノブほどもある大きさのスパークプラグから発する24.74cu in(405.19cc)の出力は3馬力でした。単機筒、変速機なし、ベルトドライブ、ボディーカラーは、黒にゴールドのピンストライプ。始動はメインスタンドを上げて、自転車のペダルをこぐ方式でした。この年、3台のハーレーを生産しました。ハーレーダビッドソン・モーターカンパニー
H-D一号機と同じ頃、T型フォードとライト兄弟成功の記事が紹介されている。 H-Dの創始者。右からウイリアム・A・ダビッドソン、ウオルター・ダビッドソン、アーサー・ダビッドソン、ウイリアム・ハーレー。
モーターサイクルの生産を始めるにあたり、ダビッドソン兄弟は父親の協力を得て裏庭に10X5フィートの小屋を建てました。そして扉に、"HARLEY-DAVIDSON MOTOR CO."としるしました。サイレントグレーフェローの登場
社名を決めるにあたり、ウイリアム・ハーレーは、3DAVIDSON+1HARLEY="DAVIDSON-HARLEY MOTOR COMPANY" を主張しました。これに対してダビッドソン3兄弟は、「ウイリアム・ハーレーが第1号車を設計したのだから "HARLEY"の名を先にすべき」と主張。多数決の結果、"HARLEY-DAVIDSON MOTOR COMPANY"になったそうです。
H-D社最初の工場。
1904年、新たにバイクを生産。生産台数は8台(注1)作られたと言われています。第一号機の誕生から3年後の1906年、50台の発注と5台の別注をうけるまでになりました。それまでの黒のほかに、ルノーグレーに赤のダブルピンストライプがボディーカラーに加えられました(注2)。サイレントたる社命のもと静かなマフラーが取りつけられ、荒涼たる原野の同伴者の意味から「サイレントグレーフェロー」のニックネームで呼ばれるようになります。Vツインの誕生
(注)
- H-D初期の生産台数の記録は、1903年が3台、1904年が8台。この合計11台のうち、現在2台は存在しますが9台が行方不明のままです。ハーレー本社には第1号車が展示されていますが、この貴重なバイクのフレームも、創始者の手によって1905年製のフレームに交換されてしまったらしい...という話があります。
- グレーに塗られたバイクは、1904年に登場したという説もあります。しかし、これがはじめてカタログに登場したのが、1906年であり、この年を、サイレントグレーフェロー登場の年とする説が堅いようです。
1906年、叔父のジェームズ・マクレイからの融資をうけ新社屋を設立。ダビッドソン3兄弟とハーレーは本業を捨ててモーターサイクルメーカーとして生きる決心をしました。そして、すべてのフロントをスプリング方式とし、これをデザイン上の哲学とすることで彼らのファクトリーは出発しました。最初のVツインエンジンは、1907年に、スペシャリティモデルとして登場したといわれています。1909年には、ハーレーダビッドソンのトレードマークとも言うべきVツインエンジンの量産を開始しています。この年のVツインモデル(5D)は、27台が生産されました。1912年45度Vツインは、それまでの50cu inのモデルに加えて、61cu in(1000cc)にパワーアップします。その性能は、7馬力のパワーを発揮し、60マイルを引っぱったといわれています。郵政省御用達
1914年、ハーレーは郵便車に、馬よりも速いという理由で4800台以上が採用されました。イタリアのファルコーネ、イギリスのベロセットLE、そして日本のスーパーカブなど、郵政省御用達になることは名車のひとつの条件といえます。ハーレーはその上郵便切手にもなりました。社会への浸透
(注)つい最近では、ハーレー創設100周年記念切手のデザインを米国郵政省が思案中との話が伝えられており、現在は具体化に向けて動いています。
1914年という年は、ハーレーが乗り物として一般社会に浸透していく年でもあります。 ハーレーは郵政省だけでなく、アメリカ政府の9つの省で採用されました。軍用車の製作 (第一次世界大戦)
この年、ハーレーは、配送用ヴァン=商用3輪のGモデルを開発します。 後に登場するサービカーの先祖ともいえるGモデルは、”パッケージトラック”と呼ばれました。このモデルは、さまざまな目的に応じて改良した木製コンテナを装備し、配送用として広く社会に浸透していきました。 木製コンテナは、時には装飾が施され、宣伝カーとして利用されることもありました。
現在、文化的遺産として貴重なモデルですが、商用であったが故に現存している車両はほとんどないようです。
木製コンテナを積む商用3輪。
1912年、日本陸軍にバイクをはじめて輸出します。SV(サイドバルブ・Vツイン)の登場
軍用モデルとしては、1916年、国境でおこったメキシコ人による革命鎮圧の時に製作したバイクが最初といわれています。
1917年、第一次世界大戦が始まると、軍用車を大量に生産することになりました。 この頃より、長期に渡って、メインモデルのボディカラーは、オリーブグリーンに塗られることになります。
大戦中、ドイツ国境沿いをハーレーでパトロールしていた米軍兵士が誤って、敵陣地に入って捕虜となりました。三日後にドイツは連合国に降伏しましたが、この米兵はハーレーでドイツ入りした最初の米国人として話題となりました。(BMWの第一号車が登場したのはこの時から5年後のことです。)
第一次世界大戦。
1932年、SV=サイドバルブ・Vツインエンジンをリリースしました。シンプルでコストのかからないメカニズムのエンジンンは、その形状から、フラットヘッド、リカルトヘッドなどの別名で呼ばれ、45年間という長い期間に渡り生産されました。また、日本においても国産化され「陸王」の名前で親しまれました。日本とのかかわり(陸王の誕生)
SVとともに登場した三輪ハーレー=サービカーはあらゆる運搬、配達に便利と評判になり、多くの市民、警察にも使用されました。
1937ServiCar
H-D社と日本の関係は意外や古いことに驚かされます。 まず、 1912年、日本陸軍にバイクを輸出。これは、1917年まで続きました。ナックルヘッドエンジンの登場
1922年には、 民間のオークラとJSモデルを契約し、その翌年に最初のハーレー日本代理店が誕生します。1925年三共社の契約したバイクが日本に上陸。1932年三共社は、ハーレーと「陸王」のライセンス生産について契約します。当初は、H-D社製パーツが多く使われましたが、1937年日本陸軍に正式に採用される頃には、ほぼすべてが日本製パーツでかためられることになります。三共社は、陸王内燃機と社名をかえて大戦中はもっぱら軍用車を生産しましたが戦後の1949年に倒産。しかし陸王モーターサイクルが生産を再開。最終的には、東京立川の昭和飛行機で1962年まで組立て整備が行われていたとのことです。
1936年に、量産モデルとしては初のオーバーヘッドバルブのVツイン「ナックルヘッド」モデルが登場しました。1000cc、OHVで初めてオイル潤滑式を採用し、レースで常勝マシンとして活躍しました。軍用車の製作 (第二次世界大戦)
工場にて。ナックル採用ハーレー74がいよいよ発進。
第二次世界大戦の勃発により、ハーレーはふたたび軍用車の生産に追われることになりました。 この間、ハーレーは水平対向のツインモデル、XAを製造しました。750ccでシャフトドライブを用いたこのモデルは、ドイツ製BMW R75を意識し、実際にはR71を参考にミリ単位からインチ単位換算して作られたものです。ハーレーXAは、北アフリカの砂漠用に1000台が作られたにすぎず、ハーレー社はVツインモデルのWLAに力を注ぎました。BMW75のようなフラットツインを待ち望む同じ連合国側のロシアはしびれを切らして、自力でBMWのフルコピーを作ったというエピソードがあります。パンヘッドエンジンの登場
(注)XAは、スティーブ・マックイーンのコレクションにもなりました。
1947年、ハーレーは2ストロークに手を拡げ、国内のTTレースの上位を独占し、Vツインの力を示しました。パンヘッドエンジンは翌年の1948年に生まれました。スピードレコードの樹立
1947年8月23日ナショナルチャンピオンシップ(1マイルトラックレース-カリフォルニア)。
ハーレーは1970年までに偉大な3つのスピード記録を打ち立てています。まず、1937年、デイトナビーチにおいてナックルヘッドに乗るジョー・ぺトラリが136.183マイル(219km)を記録。1965年、250ccスプリントに乗るジョージ・ローダーがボンネビルで176.817マイル(284km)を記録。そして、1970年、長さ16フィートのモノコックボディ、ハイチューン・スポーツスターエンジンを搭載するストリームライナーに乗るカル・レイボーンが、265.492マイル(427km)を記録。これらの車両は、ハーレー本社、ディーラー、ハーレー移動ミュージアムのそれぞれで展示されています。AMFの傘下へ
ハーレー本社に置かれる、ナックルヘッド・スピードレコードモデル。
1968/69年、ハーレーはAMF(アメリカン・マシン・アンド・ファンダリ)の傘下に入りました。これまでの家族主義ムードを脱し、1974年に完成したペンシルバニア・ヨーク工場では、驚異的な増産を実現しました。ウイリー・G・ダビッドソンの活躍
しかし、その後の日本の4気筒エンジンに苦戦を強いられるようになったのです。
このような状況のもとで、ダビッドソン家直系のウイリー・Gは、活躍しました。1977年のXLCRカフェレーサーにはニュースイングアーム&フレームが施され、今日のXLH883系の源流となりました。また同時期のFXS1200ローライダーから1985年エボリューションを積むFXSBに至る過程で、ほぼ今日にみられるハーレーのコンセプトが形づくられていきました。 1980年にはツーリングモデルを大幅に変革したFLTツアーグライドを誕生させました。エボリューションエンジンの登場
1981年、ハーレーのトレードマーク”白頭鷲”は、大空に飛び立った。H−D重役グループは、AMFから会社を買い戻すことを決意する。
脱AMF体制を実現するうえで最大の課題とされたノーメンテナンスをエボリューション=ブロックヘッドによって克服しました。FXRPポリスバイクはCHPカリフォルニア・ハイウエイ・パトロール車の座をカワサキZ1000と競い、ハーレーはこれに150万ドルの設備投資を行って実現したといわれています。技術力、販売力ともに充実したハーレー社は、ソフテイルFXSTやFLST、スプリンガーFXSTSなどで、ほぼ完璧化したエンジンを現出したといわれています。ポリス・バイクの歴史
ここで、ハーレー・ポリスバイクの歴史を遡ってみたいと思います。ツインカムエンジンの登場
まず最初のH−Dポリスバイクは、1907/08年に製作。デトロイト警察、ピッツバーグ警察で最初に採用されました。1913年にはシンシナシティ市とオハイオ市でも採用されます。その後、北メキシコや第一次世界大戦における軍用モデルで評価を高め、急速に普及していきました。1925年には、全米2500市以上でハーレーが警察に採用されました。
1980年代、カリフォルニア警察で、カワサキとハーレーの比較テストが行われました。 それによると、走行距離50,000マイル時の燃料費は、48,264ドルハーレーが経済的である という結果でした。また、ハーレーはレーザー探索装置がスピードメーターについていたため、取締まりに便利だったとのことです。
現在では、北米1500以上の警察署と世界40カ国の警察で使用されているようです。
1955Police
完璧といわれたエボリューションエンジンは15年続きましたが、騒音対策、将来の排ガス規制クリアに向け新型エンジンの開発が課題となりました。ツインカム88の登場です。まず1999年のラバーマウントモデルに。そして2000年のソフテイルモデル全機種に投入されました。カムシャフトは、ギア駆動の1本からチェーン駆動の2本になり、排気量は1450ccにパワーアップしました。ソフテイル用のツインカム88Bには、振動軽減用に初のバランサー機構が採用されました。| BACK | モデル年表へ | 歴史リンクス | 参考引用文献 | H-Dクイズ