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「あらまほしき」 |
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「あらまほしき」の後には評論家像と続く。言うまでもなくオーディオの、である。
評論家というものは、考えてみればまことに気楽なものだ。その道のプロが懸命に造った、或いは書いたものを、言いたい放題コテンパンにこきおろして、それで銭になるとは、これをして好い商売と言わずして何をこそ言うか、である。
というのは、実は素人の僻み根性で、評論家の存在意義というものがしっかりと確立しているのが現代というものである。吉田秀和にそれを見る。
しかし、中には、というか相当数というか、よくも活字にして恥ずかしくないものだという手合いも居ないわけではない。
昔、志賀直哉が、若い文芸評論家が勝手なことを言うとして「それならお前書いてみろ」と言ったという。これも一つの真実である。
評論される立場に立つと、見当違いというか、評論のための評論、
すなわち、俺は文豪志賀直哉を射ったと広言したいガンマンもどきとか、ハッタリ的言辞で目立ちたいとか、何か書かなければ生活が成り立たないなどという、さもしい根性の評論くらい腹の立つものはない。
もしも、将来オーディオ評論家になりたいと考える人が居られたら、是非この一文を参考にしてもらいたい。
1. オーディオは工業技術の所産であるから、まず、機械、音響、電子技術の知識を確りと身につけることが必要である。多少オーディオを聞きかじった程度で書き始めてみても、本質に迫った評論は書けるものではない。書くことが無いときは音楽評まがいの感性論を持ち出してお茶を濁すなどというのは一番いけない。
2. 音の判別能力を修練することは当然であるが、その「音」の位置付けが正しく出来なければいけない。そして、その位置付けの説明に筋が通っていることが大切で、誰にも分かる言葉で表現できる能力が要求される。
「バッハの音楽の心が表現できるスピーカ」などという評はバッハにしか分かる訳がない。
3. 音楽に捉われてはいけない。オーディオの大きな目的は音楽の記録と再生であるが、音波は音波、あくまで物理現象なのである。
4. 無理な注文をしない。評論家の陥りやすい陥穽であるが、とかく自分の理想を押しつけて、神様以外に出来そうもないことを要求することがある。俗に言う「無いものねだり」である。それが出来ることなのか、無理なことなのかの判断において、専門知識の深浅が問われる。
「それが出来れば苦労しない」というプロのぼやきを聞くことがあるが、もし、その要求が現代の技術で実現可能であるのならばその方法を説明出来なければいけない。
5. 製品評の場合は、常に価格との対比で評価すること。価格無関係で採否を決心できるユーザーは極めてといってよいほど少ない。ユーザーは価格対満足度が知りたいのである。歴史を書いているのならばいざ知らず、製品案内的評論においては最重要項目である。
6. 恒産を用意すること。「恒産なければ恒心なし」(恒産:安定した資産)という言葉が英国の箴言にあると中学生の頃に聞いたときはひどく英国人を軽蔑したものであるが、その後何十年も世の中を見てくると、生身の人間とはそうしたものだとよく分かる。
人間、まず衣食住である。筆を曲げないためにはそれが安定していることが望ましい。資産家の息子で、機械の購入も自前ならば、雑誌の発行も自前というのがベストであるが、それが無理ならば、せめて評論をしなくても食うには困らない立場を確立してから始めるのがよい。そうでなければ足元を見透かされる。
7. 強靭な精神。「綸言汗の如し」という言葉がある。天子の発言は汗の如く元には戻せないことを言う。評論家の発言も同じと考えなければならない。
しかし、人間に過ちがついて廻るのは避けられないし、それは止むを得ない。問題は、過ち、誤りに気付いたとき、それを認め、きちんと釈明出来るかといういうことである。出来るために必要なのが「強靭な精神」なのである。誤りを訂正するのは勇気がいる。まして基礎的な問題で思い違いをしていたときの恥ずかしさは物書きならではの苦衷である。厳しいようだが、物書きにはそれが要求される。
勿論、現在のオーディオ評論家と呼ばれる人々はいずれも手本となる立派な方達である。そうでなければ権威あるオーディオ専門誌が起用するわけがないではないか。
と、いつも願っている。