民本主義
 Democracy(民主主義)の訳語のひとつだが、吉野作造が主張した政治理念の方で知られている。
 最初にこの訳語を使ったのは、茅原華山といわれている。
 吉野作造の民本主義は、雑誌「中央公論(1916年1月号)」に載った論文「憲政の本義を説いて其有終の美を済すの途を論ず」による。
 この論文で吉野は、
 「主権がどこにあろうと、政治の目的は国民の利福にある
 「政治の決定は、国民全体の意向に基づく
 という政治原理を元に論を展開し、そのために「主権在民」にはこだわらなかった。
 具体的にその過程として、二大政党制議院内閣制普通選挙社会政策を挙げた。
 政党によって議会が運営されるようになれば、多数政党による政党内閣によって国民の意見が反映されやすくなる。しかし、政党の利益が優先されて議会が運営されては、国民の意見が反映されないので、普通選挙を布く。
 普通選挙だと、政党はより(党員が当選するために)民衆の主張を受け入れざるを得なくなり、その結果で生まれる政府は、国民全体の意向で、国民のための政治を行うために社会政策を行うことになる。
 問題は、「主権在君」の場合に生じる天皇の「統帥権問題」である。民本主義は、普通選挙によって国民が政治に介入することで、政治を動かす議会(すなわち国民の意見)と議会多数派の政党内閣(すなわち国民の意見)が、統帥権を否定する力を持ち得ること、そして、同時に当時の政治権力の中枢であった枢密院の力も否定できると考えた。
 これによって、主権は君主にあっても、形だけのものとなる。事実上の政治は国民に握られているわけである。これは、象徴君主の立憲君主制や社会民主主義制度に近い。
 当時の社会体制下でできるだけ政治の理想を実現しようと、天皇機関説とともにバランスを取ろうとした政治理念だったが、必ずしも受け入れられたわけではない。
 国家主義、天皇絶対主義者が反発するのは当然だが、一方で、社会主義者、共産主義者らの反発も買った。
 ひとつには、主権在民を定めなかったこと。社会主義者は、これを厳しく批判した。
 共産主義者は、ロシア革命が進む中で、政治の決定は、プロレタリア主導の革命(プロレタリア独裁政治)によるものとしたため、政党政治による国民の意思の反映は甘すぎるとみた。
 つまり、政治思想全体でみれば、右派と左派は反発し、中間層に受け入れられた思想であった。
 事実、普通選挙と前後して、二大政党が出現しており、その思想にあった体制が生まれつつあった。
 しかし、政党の党利党略、経済の破綻、外交関係の悪化、軍部のクーデターなどで、政党政治は崩壊、民衆も体制に従ったため、民本主義は実現しないまま終わった。