| 大隈重信 |
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1838(天保9.2.16)〜1922.1.10 佐賀藩の上級士族の出自。 藩校弘道館で学ぶ。 蘭学を学ぶため、長崎に出てフルベッキの弟子となる。 1867年、脱藩上京し、徳川慶喜に面会して政権奉還を訴えようとして捕らえられる。 1868年、新政府の徴士参与で外国事務局判事に就任、キリスト教徒処分や贋貨対策を担当。 外国官副知事になった後、会計官副知事、民部大輔、を経て大蔵省に移り、大蔵大輔。 さらに大蔵省事務総裁、地租改正事務局総裁と歴任し、大久保利通政権で大蔵卿に就任。 インフラの整備や特に財政に関する改革を実施し、新貨条例、予算制度、地租改正、秩禄処分を行い、財政基盤の確立・国際収支の安定を目指した。このために、政商を保護、銀行を設置し、紙幣を増発したが、西南戦争もあってインフレを引き起こす。 そこで、内外債による紙幣を償却する計画を立てるがうまくいかず、反対も多くて紙幣整理は頓挫した。 一連の財政を大隈財政と呼ぶ。 1881年、薩長藩閥勢力と衝突して下野する(明治14年の政変)。 1882年、立憲改進党を創設。党首となる。同年10月に創設したのが東京専門学校、後の早稲田大学である。 1888年、外相に就任して条約改正交渉を行うがうまくいかず、国権論者の反発も買って失敗に終わった。 1889年、国権論排外主義者の爆弾テロで右足を失う。この負傷が元で外相を辞職。 1896年、進歩党を結成。 第2次松方内閣で再度外相に就任。 1898年、板垣退助と憲政党を結成。第1次大隈内閣を組織した(隈板内閣)。閣僚は旧進歩党と旧自由党から出て、初の政党内閣となった。しかしこの旧両党の対立によって瓦解する。 1907年、憲政党党首を辞し、早大総長。 1914年、シーメンス事件で倒壊した山本内閣の後を受け、第2次内閣を組織。与党に立憲同志会とし、同党と貴族院から閣僚を出した。第1次世界大戦の参加、対華21ヶ条要求、防務会議、二個師団増設など対外強硬と軍拡を計画。 軍拡計画が野党の反対を受けたため、議会を解散、選挙で買収工作を行い多数与党を得て軍拡を実行に移した。 しかし、この買収工作が問題化、工作をした大浦兼武内相などが辞任して内閣改造を行って乗り切ろうとするが、各界の反発を買って総辞職した。 死後、国民葬。 |