対ユダヤ人政策(たいゆだやじんせいさく)

 1940年8月末、リトアニア・カウナス総領事代理として、ユダヤ人難民にビザを発行したことで有名な杉原千畝は「日本のシンドラー」などと言われて、シンドラーと比較をされる人物だが、もちろんシンドラーとは行ったことが違うし、比較するようなことでもない。  彼が、ユダヤ人難民にビザを発行する過程については社会背景として様々な事情があった。特に当時の日本の政策には決まりがあった。 ビザ、つまり入国許可の査証の発行は、条件が必要である。ユダヤ人難民が必要としたのは、もはや数少ないヨーロッパからの脱出ルートとなったソビエトを通過し、太平洋岸に出て、米国とオーストラリア及びカリブ海のキュラソー島へ向かうために、日本領内を通過するための、通過ビザである。  それについて以下の規則がある。  外務省訓令(外国人入国取締規則)  1、行き先国の入国許可証を持つ。  2、必要な旅費を持つ。  3、1と2の条件を満たすものにビザを発行する。  これは外国人全般に対するもので、特にユダヤ人を対象としたものではない。  しかし、この時期はドイツにおけるユダヤ人差別は既に行われており、ドイツとの関係強化を狙う日本としては、少なからず影響があった。それについて政府は五相会議で検討した。その結果が以下の通りである。  ユダヤ人対策要綱  「人種平等主義に基づき、且つ戦争継続のため、経済建設のための外資導入の必要、及び対米関係悪化を避けるため」  1、日満華在住のユダヤ人に対しては、他国人と同様に公正に扱い、排斥はしない。  2、新しく日満華に来るユダヤ人に対しては、外国人入国取締規則に基づき公正に扱う。  3、ユダヤ人を日満華に積極的に招くことは避けるが、資本家・技術者等はこれに含めない。  ここで言う「戦争」とは日中戦争を指す。人道主義と称しているが、実際的には、ユダヤ系財閥の支援も考慮していた事が窺える。しかし、理由はどうであれ、排斥を行うことは政策になかった。   杉原千畝カウナス総領事代理が、「外務省の指示に逆らって」、といわれるのは、「外務省訓令」に逆らって、という意味である。対象者は「難民」であり(つまり訓令の1、2の条件には合わない)、かつ本音の部分では、日本国外地域での問題であり、ドイツとの余計な摩擦を生みたくなかったという事もあるだろう。 リトアニアを含むバルト三国は、この直前にソビエトに一方的併合を宣言され、在バルト三国の外国外交官は、退去命令が出ていた。当時、ナチスドイツに占領されていなかったヨーロッパ各国の内、ユダヤ人難民を受け入れる国はなかった。差別的な扱いは、ナチスドイツほどではなくても、ヨーロッパでは当たり前のことだったのである。またユダヤ系移民の多いアメリカでも消極的だった。この時期に、日本領事館に難民がビザ発行を求めたのは、日本列島が太平洋岸にあるという地理的な位置関係の問題だけではなかったといえる。  「外務省訓令」は伝えられたものの、杉原千畝は人道に基づいてビザを発行した。中には、身分証明書のないものもいたそうだが、区別はしなかったという。発行ビザの数は、現在となっては正確ではないが、2139通以上で、6000とも8000とも言う。 発行された難民が全て脱出に成功したわけではなく、ドイツの侵攻時に消息を絶ったものや、元々ユダヤ人対策には厳しい態度をとっていたソビエトから出られなかったものもいた。また旅費のないものも多かったが、それでも満洲、日本を経由して、日米関係断絶ぎりぎりでアメリカへ渡ったもの、オーストラリアへ渡ったもの、ユダヤ市民のいた上海へ渡ったものなどがいて、戦後まで生き延びた。杉原ビザが知られてるのはこの関係である。 杉原千畝が、戦後、抑留から解放されて帰国し、外務省を辞めたのは、「訓令違反」だからではなく、人員整理の関係である。当時の外務省職員3分の1が「クビ」になった。しかし、人道主義の措置を評価するのには、かなり時間がかかったのも事実である。  杉原氏以外にもユダヤ人難民に尽くした日本人として、満洲の通過や日本への渡航を支援した、笠井唯数満洲帝国外交官、根井三郎ウラジオストク総領事、また上海虹口地区への移住を強制された後も、文化活動等の制限をせず応対に当たった、真鍋良一上海領事館員などの現地関係者、東京や神戸などでアメリカ行きの船が出るまでの間面倒を見た無名の人々などがいる。