第1次近衛内閣の近衛文麿首相は、対中情勢の悪化などで政権を維持することに消極的になり、後継者として平沼騏一郎を推して総辞職した。平沼は、かねてより右翼勢力から期待されていたが、首相推薦に強い影響力を持っていた元老西園寺公望が反対していた。
その後平沼は、英米派とも妥協する姿勢を示すようになり、近衛内閣の跡を継ぐことが決まると、政策も近衛内閣をそのまま受け継ぐ形を見せた。
閣僚の人事も留任が見られ、枢密院議長に就任した近衛文麿前首相も無任所大臣として残留することになった。
平沼内閣は、対中問題では反共の汪兆銘政権を成立させることで、国民党勢力を分裂に持ち込み、汪勢力と外交的解決を図ることで、戦争を終結させる方向に持っていこうとした。しかし、国民党は重慶の蒋介石勢力に固まっており、この計画は成功しなかった。
このため、戦争による経済圧迫は強くなり、国内的には第1次近衛内閣の始めた国民総動員体制を、官民一体の挙国運動と位置づけ、制度(警防団設置など)、法律(米穀配給統制法、国民徴用令他多数)、組織化(国民精神総動員委員会など)で強化することになる。
また国際連盟が援蒋決議をするなどの動きは、陸軍対海軍・外務省の構図(ドイツ派と英米派の対立でもある)と絡んで、陸軍主導の反英運動につながる。そんな中、天津の親日派の海関監督が抗日派に暗殺される事件が勃発。事件調査にイギリスが応じなかったことから、陸軍の手による天津イギリス租界封鎖事件へと発展。これを、日英外交交渉で解決を図るが、有田・クレーギー協定で英国の譲歩を勝ち取ったことから、今度はアメリカが反発し、日米関係悪化につながる結果となった。
一連の問題は、閣内の英米派とドイツ派との対立を深めることになり、この上、ノモンハンでの日ソ両軍の衝突、日本軍の記録的大敗、さらにこの事変の最中に突如ドイツとソ連が相互不可侵条約を結んだことから、反共防共でドイツや中国の反共派と手を組もうとしていた平沼内閣は衝撃を受け、8月28日、「欧州情勢は複雑怪奇」という声明を出して、内閣は総辞職した。
ちなみに、「複雑怪奇」の言葉は、当時の流行語となった。
【平沼騏一郎内閣閣僚一覧】
総理 平沼騏一郎(男爵)
外務 有田八郎(貴族院・研究会)
内務 木戸幸一(貴族院・侯爵・火曜会)
大蔵 石渡荘太郎
陸軍 板垣征四郎(陸軍中将)
海軍 米内光政(海軍大将)
司法 塩野季彦
文部 荒木貞夫(男爵・陸軍大将)
農林 桜内幸雄(衆議院・民政党)
商工 八田嘉明(貴族院・研究会)
逓信 塩野季彦(兼任)
田辺治通 39. 4. 7〜
鉄道 前田米蔵(衆議院・政友会)
拓務 八田嘉明(兼任)
小磯国昭 39. 4. 7〜
厚生 広瀬久忠
無任所大臣 近衛文麿(貴族院・公爵・火曜会)
書記官長 田辺治通
太田耕造 39. 4. 7〜
法制局長官 黒崎定三(貴族院・研究会)