平沼騏一郎(ひらぬま きいちろう)
1867.10.2〜1852.8.22。 岡山県出身。
1888年帝大法律学科卒業。司法省に入り判事。1905年大審院検事、06年民刑局長。日糖事件の摘発を指揮する。07年大逆事件を捜査。11年第2次西園寺内閣で司法次官。12年検事総長、14年にはシーメンス事件を総指揮。21年大審院長。23年第2次山本内閣で法相。24年貴族院勅選議員。枢密顧問官となり、また国本社を創立。26年枢密院副議長。27年の若槻内閣や30年の浜口内閣など政党内閣を攻撃する。この結果元老西園寺公望に嫌われ、首相候補に推挙されず。34年の帝人事件や35年の天皇機関説事件にも背後で関わったと見られる。36年枢密院議長、同年国本社を解散。この頃から新米英派と妥協するようになる。39年に大命降下で組閣。国民精神総動員運動を展開する。しかし8月、ソ連との関係が悪化している中で、突如独ソ不可侵条約が締結されると、総辞職。「欧州情勢は複雑怪奇」という言葉は流行語になった。40年から41年に掛けて国務相。45年枢密院議長。ポツダム宣言受諾に反対した。48年A級戦犯で終身禁固刑となり、52年病気仮釈放直後に死去。