久原房之助(くはら ふさのすけ)
1869.7.12〜1965.1.29。山口県出身。
1889年慶應義塾卒業。森村組勤務を経て91年叔父の藤田伝八郎が興した藤田組に入社。小坂鉱山の再建に着手する。成功して99年藤田組支配人、1900年小坂鉱山事務所長。05年独立して赤沢鉱山を買収、日立鉱山と改称。08年鉱山用電気機械の修理工場を設置(後の日立製作所)。11年久原鉱業所を興す。14年第1次世界大戦で巨万の利を得るが、戦後恐慌のあおりを受けて経営は暗転、20年合名会社久原本社を興すが失敗。28年義兄の鮎川義介(後の日産創設者)に経営権を任せて自らは衆議院に立候補。当選すると5月には逓信相に就任。これは首相の田中義一と親しかったためといわれ非難を浴びる。31年3月政友会幹事長。同年末民政党の富田幸次郎らと組んで協力内閣運動、政党合一を掲げるが、主流派からはずれ久原派を結成。36年2・26事件に関わった亀川哲也に資金を提供、更に身柄を匿ったとして検挙される。38年無罪。39年5月政友会分裂を受けて正当派総裁に就任。12月内閣参議。40年6月挙国一致政党解消論を展開し、米内首相に強硬路線を進言するも受け入れられず辞職。その後第2次近衛内閣で再度参議。戦後公職追放。解除後51年政界に復帰し、55年日中・日ソ国交回復議長となり訪中。国交回復に尽力した。