昭和天皇(しょうわてんのう)
 1901.4.29〜89.1.7 。
 大正天皇と貞明皇后の第1皇子。廸宮裕仁親王。生後70日で枢密顧問官川村純義に預けられ川村の死す3歳までを過ごす。1908年学習院初等科入学し院長乃木希典の指導を受ける。卒業後東宮御学問所で学ぶ。21年御学問所修了後、欧州を視察旅行。英国王室との関係はこの時深まった。帰国直後の11月大正天皇病気のため、摂政となる。23年12月帝国議会開院式に向かう際に、虎の門で難波大助の狙撃を受ける(虎の門事件)。24年1月久迩宮良子と結婚。妃選定で宮中某重大事件が起こっている。26年12月25日、大正天皇死去で第124代天皇に即位。元号は昭和となる。29年の張作霖爆殺事件では、田中義一首相の対応を叱責している。36年、2・26事件で重臣などが殺害されると激怒し、自ら先頭に立って鎮圧すると意志を示した。37年日中戦争勃発後、事変拡大には反対し和平工作を支持しているが、拡大阻止もできず、また41年10月東条内閣成立に同意し、消極的ながら開戦に至った。戦時中、高松宮や近衛文麿などの終戦意見も憲法を順守する理由(立憲君主論)や一撃講和論から決定的な行動に出なかったが、45年8月、最高戦争指導会議で聖断を下し終戦となった。終戦時にクーデターを鎮圧した田中静一大将に謝意の言葉を伝えている。同年9月27日、マッカーサー司令官を訪問し、その際の写真は国民に衝撃を与えた。46年1月1日人間宣言を行う。以降、国内各地を巡幸した。日本国憲法制定以降は「象徴天皇」となる。この間、戦争責任をとるとして退位を3度表明したと言われる。その後は国事行為以外では、生物学の研究を行う。64年東京オリンピックに出席、70年には大阪万国博覧会に出席している。71年9月から訪欧。75年10月には訪米している。87年9月慢性すい炎で入院。一旦は回復するも88年9月19日に倒れ、89年1月7日早朝、十二指腸乳頭周囲腫瘍で死去。自著・共著併せて8冊の生物学の本がある。