−三国志年表1−
この年表は、中国後漢末の年表です。主に三国志に関係するところを挙げ、それより前の関係する事項を若干付け加えました。
陳寿の著した正史『三国志』を元に作成しております。よって、一般に有名な『三国志演義』とはかなり異なっています。
正史『三国志』にも必ずしも史実と一致しない事柄があると思われます。
また、前後矛盾する物が含まれている場合もあります。
正史『三国志』を注釈した裴松之の本を元に、同本に載せられている種々の史料も参考にしてあります。
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西暦年 号事 象出 典
155永寿元この年曹操生まれる。武帝紀
  孫堅生まれる(もしくは前年か?)。
159延熹2 8月桓帝、宦官とクーデターを起こし、梁冀一族を滅ぼす。これ以降宦官の権力が増大。
160延熹312月後の曹操の妻卞夫人が斉郡白亭で誕生する。魏書
161延熹4この年劉備生まれる。
165延熹8 7月陳蕃が大尉となる。陳蕃は李膺らの無罪を主張し、李膺は釈放され、司隷校尉に就く。
166延熹9 1月荀爽、後宮の縮小を建言。
   6月張奐が都に呼び戻されると、北方の異民族が相次いで漢の領土へ侵攻する。
  12月宦官の牢脩が李膺らを告発。党人200余名に逮捕状が出され、弾圧が始まる(第1次党錮の禁のはじまり)。
167永康1 6月永康に改元。同時に党人らを釈放してそれぞれの故郷で終身禁固(党錮の禁)とする。
  12月桓帝劉志が崩御、36才。竇皇后が皇太后として実権を握る。
168建寧1 1月劉宏(霊帝)が12才で即位し、建寧に改元。竇武は大将軍、陳蕃が太傅となる。
   9月竇武と陳蕃らが兵を率いて宦官一掃を謀るが失敗。宦官と曹節らがクーデターを起こし、竇武・陳蕃・尹勲・劉瑜・馮述らが殺害され、劉淑・魏朗らが自殺する。
169建寧2 春張奐、謝弼らが党錮の禁の緩和と宦官勢力の抑制を朝廷に訴えるが、認められず。謝弼は投獄される。
   4月謝弼獄死。
   9月丹陽で山越(山岳民族)が反乱。丹陽太守陳寅が討伐する。
   9月曹節が上奏し、李庸、虞放、杜密、朱寓、荀翌らに逮捕命令が出され党人への大弾圧が再度行われる。李庸ら100余人が死刑、そのほかの党人に禁錮、妻子を辺境へ流刑とする。(第2次党錮の禁
170建寧3 8月橋玄、司空となる。
   冬鬱林太守谷永が烏滸の十余万人を帰順させる。
171建寧4 1月霊帝劉宏が元服し、党人以外の大赦を行う。
   この頃孫堅、17歳で偶然遭遇した海賊の胡玉らを蹴散らし、名を知られるようになる(あるいは翌年か)。孫堅伝
172熹平1 5月熹平に改元。
  11月会稽の宗教指導者許生が反乱を起こし、陽明皇帝を名乗る。臧旻、陳寅らが討伐に向かう。
孫堅が会稽郡の司馬として千余人を集めて、許生討伐に向かう。孫堅伝
174熹平3 1月扶余国の使者が来る。
   8月臧旻、陳寅、孫堅らが許生を攻め滅ぼす。
  12月鮮卑が北地郡へ侵入し、太守夏育が迎撃する。
175熹平4 3月儒者に命じて五経を校定させが書に記し、石刻して太学の門外に建立する(熹平石経)。
   4月鮮卑が幽州に侵攻する。
  この年曹操、孝廉に推挙され、郎となり、洛陽の北部尉の職に就く。武帝紀
  この年孫策と周瑜が生まれる。
  この年王安国が拘弥の王を攻めてこれを殺す。
176熹平5この年に黄色い龍が出現する。橋玄に何の前兆かを尋ねられたは、新たな王者の出現と、50年以内に再度同じ兆候が起こることを示していると答える。文帝紀
179光和2この頃烏丸・鮮卑がたびたび漢に侵攻を繰り返す。光和年間、は、張純と烏丸の丘力居を攻め、騎都尉に昇進する(あるいは中平年間か)。
180光和3この頃曹操、歌妓の卞氏を側室に迎える。後に魏の初代皇帝を生む女性。武宣卞皇后伝
184中平元 2月太平道の教祖張角が信者とともに全土の36方(教区)で一斉蜂起。黄巾の乱が勃発する(3月とも言う)。張角はみずから天公将軍と名乗り、上の弟張宝を地公将軍とし、下の弟張梁を人公将軍とする。武帝紀、孫堅伝、献帝春秋
   孫堅、淮水、泗水の兵を集め、朱儁に従い黄巾賊討伐に出る。西華で負傷するが、敵を宛に追いつめる。孫堅伝、呉書
   5月皇甫嵩、長社で黄巾賊に包囲されるが、朱儁、曹操と共にこれを撃破する。
   6月盧植、張角を追いつめるも、宦官が讒言して免職となる。
   7月巴郡で五斗米道の張脩が挙兵する。
  10月皇甫嵩、張角の弟張梁を敗死させる。
  11月皇甫嵩、張角の弟張宝の軍を撃破する。
185中平2 2月黒山賊の張燕、朝廷に降伏。平難中郎将に任ぜられる。
   涼州で辺章と韓遂が叛乱を起こし、董卓が中郎将に任ぜられて討伐に向かう。董卓伝
186中平3 涼州の叛乱に対し、張温が孫堅を参謀にして討伐に向かう。張音と董卓はお互い軽視して共同作戦をとれず、孫堅は董卓を斬るよう進言するが張音はこれを採用せず。孫堅伝
187中平4 韓遂が辺章を殺す。
   4月韓遂の叛乱に馬騰も加わる。討伐軍を率いた耿鄙が敗北する。
   7月張挙、張純、丘力居らが幽州一帯で叛乱を起こし、右北平太守劉政、遼東太守陽終らを殺害。劉虞が幽州牧となって治めると丘力居らは劉虞と和睦するが、はこれを邪魔し、劉虞と対立するようになる。
  この頃長沙で区星が、零陵・桂陽で周朝と郭石が、協力して叛乱を起こす。朝廷は孫堅を長沙太守に任じ、討伐を命じる。孫堅、長沙郡に入ると3郡の叛乱を鎮圧し、烏程侯に封ぜられる。孫堅伝
   冬曹丕、で生まれる。文帝紀
188中平5 2月郭大が黄巾賊の残党を率いて白波谷で挙兵する(白波賊)。
   董卓に対して、中央に召し出して少府に任じ、皇甫嵩のもとに置くよう命じるが、董卓は涼州が争乱状態なのを理由に出頭を断る。霊帝紀
189中平6 4月霊帝が崩御。劉弁が皇帝となる(少帝)。光熹と改元。
   (光熹1)この頃荀攸ら20人あまりが何進に召され、荀攸は黄門侍郎に任ぜられる。荀攸伝
   董卓、再度中央から呼び出しを受けるが、再度辺境の情勢を理由にこれを断る。霊帝紀
   (昭寧1) 8月大将軍何進、宦官討滅のため、各地の将軍・牧を中央に呼ぶが、宦官の張譲に先手を打たれて殺されたため、袁紹が宮中に兵を入れて宦官らを次々と殺害。大混乱の中で少帝劉弁と弟の陳留王劉協は洛陽を脱出。城外にいた董卓と接触し、洛陽に戻る。董卓、皇帝を確保して権力を握る。
   8月董卓、執金吾の丁原をその養子の呂布をそそのかして殺害し、中央の軍権を一手に握る。董卓伝、呂布伝
   8月董卓、天候不順を理由に司空の劉弘を罷免し、自ら司空の地位に就く。董卓伝
   8月董卓、少帝を廃そうと群臣に諮るも、盧植が反対する。董卓、盧植を処刑しようとするが、がこれを制止する。董卓伝
   (永漢1) 9月董卓、少帝を廃し、陳留王劉協を皇帝に立てる(漢の最後の皇帝である献帝)。董卓、相国に昇進し、侯に封ぜられる。年号を永漢とする。
  この頃荀ケ、孝廉に推挙され、守宮令に任ぜられる。荀ケ伝
  12月曹操、董卓追討のため、衛茲の援助で兵5000を集め、己吾で挙兵する。武帝紀、世語
  12月年号を中平6年に戻す。 
  この頃董卓、周・伍瓊らの推薦で韓馥、劉岱、、張咨、を太守などに任じる。董卓伝
  この頃臧洪、張超らを説得して反董卓の挙兵を勧める。臧洪伝
  この年公孫度、遼東を事実上支配下に置く。公孫度伝
190初平元 1月袁紹、王匡、韓馥、、劉岱、、張超、橋瑁、袁遺、鮑信、曹操、袁術らが各地で董卓追討のため挙兵。袁紹を盟主とする。武帝紀
   1月王匡、河陽津に軍を置いて董卓を襲撃しようとしたが、董卓軍は背後に回って攻撃したため、王匡は大敗する。董卓伝
   1月董卓、李儒に廃帝劉弁を殺害させる。
   1月曹操、行奮武将軍に任じられ、夏侯惇を司馬に任じ、白馬に駐屯させる。夏侯惇伝
   2月王允が司徒になる。董卓、楊彪・・荀爽らの諫言を退け、長安に遷都し皇帝を長安に送る。その後洛陽を焼き払い、歴代皇族の陵墓をあばき、富豪を無実の罪で処罰しその財産を没収。袁紹らは、兵を動かさなかったため、曹操が単独で出兵し、徐栄の軍に敗北、曹操は負傷し曹洪に助けられて逃亡、徐栄も兵を引き上げる。曹操、酸棗の本営で酒宴を開いている諸将を批判し、関中攻略の策をたてるが受け入れられず。武帝紀、曹洪伝、漢書、続漢書
  この頃董卓、周・伍瓊らの推薦した韓馥、劉岱、らが叛乱に加わったことに腹を立て、周と伍瓊を処刑する(伍瓊ではなく伍孚ともいい、伍孚は、董卓暗殺に失敗して殺されたとも言う)。董卓伝、後漢書
  この頃荀攸・伍瓊らが董卓暗殺を謀るが、露見して失敗に終わり荀攸は投獄される。荀攸伝
  この頃曹操、夏侯惇・曹洪と、募兵のため揚州へ赴き、揚州刺史陳温、丹陽太守周マの支援を受け、兵4000人を集める。帰途、龍亢で兵士の大半が叛乱を起こす。1500余人を引き連れ河内に駐屯する。武帝紀、曹洪伝
 この頃孫堅、刺史王叡と南陽太守張咨を殺し、魯陽で袁術と会見する。袁術、孫堅を破慮将軍・豫州刺史とするよう上表し、南陽に進出する。孫堅伝、呉録、袁術伝
  この頃董卓、城を築き、30年分の穀物を蓄える。董卓伝
  この頃董卓、長安の横門(北西の門)で酒宴を開き、その場で北地郡の叛乱で降伏した者の体を切り刻み、大鍋で煮込む。かねて仲の悪かった大尉の張温を処刑する。また、秦の始皇帝が作らせた12の銅像のうち10の像を破壊する。董卓伝
  この頃劉表、の刺史となり、襄陽に役所を置く。
   6月董卓、五銖銭を廃止し、新たに銭を鋳造する。このため、物価は高騰し食糧難となる。董卓伝
  この頃公孫度、漢からの独立を家臣らに示唆する。公孫度伝
  この頃荀ケ、戦乱を避けるため、地方役人になることを願い出て亢父令に任ぜられるが、官職を捨て帰郷。荀ケは一族を説得して冀州へ移住する。荀ケ伝
191初平2この頃孫堅、から梁にかけての各地で、たびたび董卓軍と衝突する。陽人で董卓の将華雄を殺す。袁術、何者かの離間の策により孫堅を疑うようになり、兵糧を送らなくなる。孫堅、袁術のもとに直談判に行き、兵糧の手配を終える。一方、董卓、孫堅との和睦を画策。孫堅伝、江表伝
   2月董卓、太師の地位に就く。孫堅、廃墟の洛陽に入城。南郊の甄官井に駐留して、洛陽復興に手を付けていると、井戸の中から伝国の璽が発見される。袁術、そのことを聞き、孫堅の妻を人質にして、それを奪い取るという。孫堅伝、山陽公載記、江表伝、呉書
  この頃袁紹とが対立。袁紹は劉表と同盟し、は袁術と同盟。袁術は孫堅に劉表討伐を、劉表は黄祖に孫堅討伐を命じ、孫堅と黄祖が衝突。
  この頃張超、臧洪を劉虞の元に派遣して皇帝に擁立しようと図るが、華北の戦乱でたどり着けず、臧洪は袁紹と会見。袁紹は臧洪を青州に派遣し、同地の政治を任せる。臧洪伝
   2月袁紹と韓馥、幽州の刺史劉虞の皇帝擁立を図るが劉虞はこれを拒否する。武帝紀
  この頃孫堅、黄祖に勝利するも追撃戦中に単騎でいるところを狙撃されて戦死(翌年とも言う)。孫堅伝
   4月董卓、長安に引き上げる。武帝紀
   7月袁紹、韓馥を脅迫して冀州を奪い、勢力下に組み込む。その後、韓馥は恐怖にとらわれ自殺する。武帝紀、袁紹伝
  この頃、青州黄巾賊を撃破して北方に戻り、冀州に入る。袁紹伝
  この頃黒山賊の于毒、白繞、らが魏郡、東郡へ攻め寄せる。太守王肱はこれを防ぎきれず、曹操に援助を頼み、曹操は兵を率いて東郡に至り、濮陽城で白繞を破る。袁紹、曹操を東郡太守とするよう上奏。東武陽に官庁を置く。武帝紀
  この年荀ケ、袁紹に見切りを付け、単独で曹操のもとを訪れる。曹操は荀ケを司馬に任ずる。荀ケ伝
192初平3 春曹操が頓丘に出陣した隙をねらい、黒山賊が東武陽を攻撃する。曹操、引き返さずに黒山の本拠を攻撃して、于毒らが引き返すのを待ち伏せし、の軍勢を撃破。さらに内黄で漢領内の匈奴於夫羅を攻め、勝利を収める。武帝紀
  この頃袁紹、を界橋で撃破し厳綱を殺す。勢いに乗った袁紹配下の麹義が突出したため、袁紹の陣は薄くなり、そこをの残兵に襲撃される。袁紹は田豊によって救われる。劉備、田楷と共に側に参戦か。袁紹伝、
伝、先主伝
   4月23日、献帝の病気快癒の祝いの際、司徒の王允、飛将軍の呂布、尚書僕射の士孫瑞、騎都尉の李粛らがクーデターを起こし董卓を殺害。董卓の一族も殺され、呂布は主簿の田景を殺し、司徒の王允は、を処刑する。武帝紀、董卓伝、呂布伝
  この頃董卓が死んだため、荀攸は獄から出て官を棄てて帰郷する(異説には荀攸が人を介して董卓を説得してもらい釈放されたともいう)。荀攸伝、魏書
  この頃呂布、董卓の娘婿で遠征に出ていた中郎将の牛輔を李粛に攻めさせるが、李粛は敗北し呂布は李粛を処刑する。一方、牛輔は、訪れた中郎将の董越を疑いこれを殺害するが、麾下の軍勢内で叛乱が起きたため、財宝を持って逃亡を図る。しかし同行していた攴胡赤児に殺害される。董卓伝
   5月と郭は、上司の牛輔が死に、董卓の家臣が次々と処刑されてると聞き、故郷へ逃亡しようと考えるが、の進言を受けて、兵を集め、董卓の復仇戦のために樊稠・李蒙・王方と連合、長安を包囲。10日後の6月1日、包囲軍は城内に進入すると、呂布の軍勢を打ち破り、王允を殺害する。呂布は逃亡し武関から東へ向かう。は車騎将軍・池陽侯・司隷校尉に、郭は後将軍・美陽侯に、樊稠は右将軍・万年侯になる。張済は驃騎将軍・平陽侯となり、弘農に駐留する。武帝紀、董卓伝、
  この頃青州の黄巾賊100万人がに侵入し、任城国を攻め、国相鄭遂を殺し、さらに東平へ向かう。の牧劉岱は迎撃の用意をし、鮑信の諫めも聞かずに出兵し戦死する。鮑信と万潜は協議の上、曹操に使者を送り、の牧に就くよう求める。曹操、これを承認し、出兵して寿張で黄巾賊を撃破するが、鮑信が戦死する。武帝紀
   冬曹操、済北で青州黄巾賊が降伏してきたため、兵30余万、人民100余万を配下に治める。これをして青州兵を編成する。武帝紀
  この頃が劉備を高唐に、単経を平原に、陶謙を発干に置いて、袁紹に対抗したため、袁紹は曹操とともにこれらの陣営を破る。武帝紀
  この年曹植が生まれる。
  この年西涼の韓遂・馬騰らが降伏し、軍を率いて長安に至る。韓遂を鎮西将軍に任じて涼州に戻し、馬騰を征西将軍に任じてに駐留させる。馬宇とと劉範らが、馬騰と共謀し、馬騰が外から、馬宇らは内側から呼応して長安を攻めさせ、を滅ぼそうと計画する。馬騰、長平観まで来たとき、計画がばれ、馬宇らは槐里に逃亡する。樊稠が兵を率いて出撃し、馬騰と韓遂を撃破し陳倉まで追撃する。さらに槐里を攻めて馬宇らを殺す。董卓伝
193初平4 春曹操、に駐留する。劉表が袁術の糧道を絶ったので、袁術は陳留郡に進出して封丘に駐屯し、劉詳を匡亭に駐屯させる。曹操、劉詳を攻め、救援にきた袁術を撃破する。袁術は襄邑に退却したので、曹操は襄邑を攻め落とし、さらに袁術が逃亡した太寿を包囲して、水攻めにする。袁術は寧陵へ逃亡し、曹操が寧陵を攻めると九江へ逃走。曹操は軍を引き返す。袁術、揚州刺史陳温を殺害し、寿春一帯に勢力を拡大する(陳温ではなくを追い出して入城したという説もある)。武帝紀、袁術伝、英雄記
   3月袁術が揚州刺史の陳温を殺害し、淮南一帯に勢力を確保する。また、陶謙が徐州牧、趙cが広陵太守、王朗が会稽太守となる。
   で闕宣が挙兵し天子を自称。徐州牧陶謙と同盟し、泰山郡を攻め、ついで任城国を攻め落とす。
   秋曹操の父曹嵩が陶謙の関係者に殺害され、曹操、陶謙征討に向かい、徐州の十余城を攻め落とす(徐州侵攻戦)。陶謙、田楷に救援を求め、田楷は劉備を派遣する。劉備、私兵1000余人、烏丸の騎兵を率い、さらに飢餓難民数千人を加え、徐州に入る。陶謙、劉備に4000人を加える。武帝紀、陶謙伝、先主伝、世語、呉書
 10月が幽州牧の劉虞を撃破。劉虞を捕らえ処刑する。
  この年献帝、を使者に出して河北の諸侯の和解を図る。袁紹伝
194興平1 1月興平と改元。
   1月陶謙が上表して劉備を豫州刺史に任じる。劉備、小沛に駐屯する。先主伝
   春曹操、徐州から戻る。武帝紀
 夏曹操、再度徐州を攻め、劉備を撃破し、襄賁に至る。その途上虐殺を行う。曹操配下の陳宮とが謀反し、呂布軍をに招き入れたので、各城がこれに呼応する。荀ケと程c、夏侯惇が協力して東部の3城(、范、東阿)を維持する。夏侯惇は曹操の家族のいるへ向かう途上呂布と交戦。呂布は濮陽城へ行き、曹操は連絡を受けて軍を引き返し、濮陽城を攻撃する(濮陽城の戦い)。青州兵が撃破され、曹操はやけどを負い、夏侯惇も左目を失う。武帝紀、荀ケ伝、程c伝、夏侯惇伝、呂布伝、献帝春秋
   7月楊彪が大尉となる。
   9月曹操はに戻り、呂布は乗氏に入ったが、同県の李進が呂布を攻めたため、呂布は山陽に移動する。袁紹が曹操に和睦を求めたが、程cが反対し、曹操はそれに従う。武帝紀
  10月曹操、東阿に入る。武帝紀
  12月趙温が司徒となる。
  この年陶謙が死に、麋竺・陳登・孔融らの要請で劉備が後を継いで徐州の牧となる。武帝紀、先主伝
  この年穀物の値段が1石50余万銭にまで暴騰し、飢餓が広がり、人間同士が食い合う悲惨な状況となる。そのため曹操は軍吏と新兵の募集を中止する。武帝紀
  この年孫策、袁術のもとに身を寄せる。まもなく、叔父の呉景を救うために袁術から亡父の兵1000人を返してもらい、長江下流の横江攻略を目指す。孫策伝、江表伝
  この頃孫策、歴陽まで来たところで丹楊の叔父を訪ねていた周瑜に使者を送り、周瑜は軍を率いて合流。黄江と当利を攻略。さらに秣陵を攻める。このあと、向きを変え、曲阿へ向けて進軍。周瑜伝
  この頃樊稠がに東へ出兵したいので兵を求めたところ、かねてより樊稠に謀反の疑惑を抱いていたは、彼を会議に呼び出して謀殺する。またこの頃、が郭に婢妾をあてがうのではないかと郭の妻が疑い、両者の中を離間させようと謀る。このため両者はお互いに不信感を抱くようになる。董卓伝、九州春秋、典略
195興平2 1月曹操、定陶を攻めるが、済陰太守呉資が籠もって落とせず。攻城中に呂布が来襲したため、これを撃破する。武帝紀
  この頃楊奉と宋果らが暗殺を謀るが失敗したため、軍を率いて叛乱を起こす。張済がと郭に和解を斡旋し、献帝は長安を離れる。しかし、郭が献帝を強制的に自軍へ取り込もうとしたため、と争いとなり、献帝は楊奉の元へ逃亡する。董卓伝
   3月と郭、献帝を取り戻すために再度和解し、あとを追う。献帝は曹陽で追撃されて破れたため、楊奉は白波賊の韓暹・胡才・李楽らを呼び寄せて・郭連合軍を迎え撃つ。しかし楊奉側は大敗し、・郭連合軍は公卿を虐殺し、宮女を奪い、弘農に攻め込む。尚書令の士孫瑞は殺され、献帝は北方へ逃走。黄河を渡り、大陽に至り、楊奉と韓暹の軍に助けられ、安邑に入る。武帝紀、董卓伝、献帝紀
  この頃献帝、韓暹を征東将軍に、胡才を征西将軍に、李楽を征北将軍に任命。韓融を弘農へ派遣し、・郭に和睦を求めたため、・郭は、宮女や公卿ら、献帝の乗輿などを返す。董卓伝
  この頃袁紹、献帝の元に使者として郭図を派遣する。戻ってきた郭図は、献帝をに招くよう進言するが、袁紹はこれを聞き入れず。袁紹伝
   夏曹操、鉅野に駐屯していた呂布の将薛蘭と李封を攻める。呂布が救援にきたので、これを撃破し、薛蘭らを殺す。呂布、陳宮らと兵1万人を率いて再び曹操を攻め、曹操は兵が麦の刈り取りに出て少数しかいなかったので、婦女子も動員して防衛。呂布軍は策があるかと警戒して攻めず、翌日再度攻勢をかけたが、曹操は伏兵でこれを破る。武帝紀
   夏大飢饉が起こる。荀ケ伝
   曹操、定陶を攻め落とし、の諸県を平定する。呂布は徐州へ逃亡し、劉備を頼る。は呂布と同行し、弟の張超は雍丘を確保する。武帝紀
   8月曹操、雍丘を包囲。武帝紀
  10月曹操、朝廷から正式にの牧に任ぜられる。武帝紀
  12月曹操、雍丘を攻め落とし、張超は自殺し、の一族は処刑される。も袁術に救援を求めに行く途中、部下に殺される。曹操、陳を攻略する。武帝紀
  この頃張超と親しかった臧洪は、援軍を出そうと袁紹に許可を求めるが、袁紹に拒否され張超が滅亡したため、袁紹に謀反する。袁紹、陳琳をして降伏を勧めるが、臧洪は受け入れなかったので、これを攻め捕らえる。再度降伏を勧めたが、臧洪は拒否したため処刑し、処刑を批判した陳容もあわせて処刑する。臧洪伝
  この頃袁紹、を鮑丘で撃破する。袁紹伝
  この年孫策、の軍勢が支配する牛渚を攻め落とし、ついで配下のと薛礼を撃破する。樊能と于麋が牛渚を奪還したため、再度これを攻め落とすが、足に負傷する。孫策戦死の噂が流れたため、于茲が出撃してくるが、孫策は伏兵でこれを破り、さらにをそのままにして、海陵・湖孰・江乗を攻め落とす。人々が孫策を支持し勢いを増したため、結局は城を捨てて逃亡する。孫策は、軍勢が揃ったので、自らは会稽攻略と山越族の討伐を決め、周瑜に丹楊の防衛を頼む。孫策伝、周瑜伝、江表伝
  この冬袁術、献帝らの衰退をみて、帝位僭称をにおわすが、閻象が反対する。袁術伝
196建安元 1月建安と改元。
   1月曹操、武平を攻め、袁術が任命した陳国相袁嗣は降伏する。武帝紀
   1月袁術と劉備が争い、劉備が敗北。呂布はこの隙をねらい徐州を乗っ取り、劉備の妻子を捕虜にし、徐州牧を称する。この頃、曹操、上表して劉備を鎮東将軍・宜城亭侯とする。劉備、呂布に和睦を申し入れ、呂布は劉備の妻子を返す。劉備は関羽をに送り守備させる。先主伝
   2月曹操、黄巾残党の何儀、何曼、劉辟、黄劭を攻め、劉辟、黄劭を斬る(後の内容では劉辟は降伏している)。何儀は降伏。献帝は曹操を建徳将軍とする。武帝記
   6月曹操、鎮東将軍に昇進する。武帝記
   6月呂布の部将の萌が叛乱を起こす。高順と曹性が萌を殺して鎮圧する。呂布伝
   7月イナゴの害が起こり、献帝一行は食料が乏しくなり、楊奉らも混乱して秩序が乱れたため、献帝を洛陽へ送ることに決め、箕関を出て洛陽へ向かう。途中、張楊が食料を提供したので、彼を大司馬に任命する。洛陽に到達するが、都は廃墟と化し、誰も駆けつけなかったため、尚書郎以下飢餓で死ぬ者が相次ぐ。献帝は元中常侍趙忠の邸宅に入る。董卓伝、張楊伝、魏書
   7月楊奉らが離反し梁へ移る。曹操、荀ケの説得を受け、献帝を迎えに軍勢を率いて洛陽に入り、韓暹は逃亡する。曹操は帝都防衛に当たり、献帝は曹操に軍事権の節鉞を仮に与え、録尚書事に任ずる(『献帝紀』では司隷校尉兼任)。武帝記、荀ケ伝、献帝春秋、献帝紀
   8月董昭らは、献帝に廃墟の洛陽を離れ、許に移るよう遷都を薦める。武帝紀
   9月献帝は許都に入り、曹操を大将軍に任じ、武平侯に封じる。楊奉、遷都を阻止しようと出兵するが間に合わず。武帝紀
  10月曹操、楊奉を攻め、楊奉は袁術の元へ逃亡。楊奉の拠点だった梁は陥落する。献帝は袁紹を大尉に任じ侯に封じたが、袁紹が大将軍となった曹操の下になると拒否したため、曹操は自分の地位を袁紹に譲る。献帝、あらためて曹操を司空・車騎将軍とする。武帝紀
  この年曹操、棗祇・韓浩らの進言を入れて、許都の周辺で屯田制を本格的に開始する。武帝紀
  この頃呂布、劉備が小沛で兵力1万人を手に入れたため、これを攻撃し、劉備は敗れて逃亡、曹操を頼る。曹操は劉備殺害を進言する家臣の言を退け、劉備を豫州牧とするように計らう。先主伝
  この年孫策が会稽を攻め、太守王朗は降伏。
  この頃関中にいた張済が食糧難で逃亡、南陽に入るが、殺害される。張済の軍勢は甥のが吸収する(あるいは翌年か)。武帝紀
  この頃孫策は、鄒他、銭銅、王晟を破り、厳白虎を攻める。和睦に来た厳白虎の弟厳輿を殺し、厳白虎は許昭のもとに逃亡する。程普が許昭攻略を進言するが、孫策は許昭の忠義と尽誠を評価して攻撃をひかえる。また孫策は、会稽太守を称し、叔父の呉景を丹陽太守に戻し、孫賁を廬陵太守に、朱治を呉郡太守に任ずる。またこの頃、許都へ劉由と高承を使者として送り、江南の産物を朝廷に献上する。孫策伝
197建安2 1月曹操、宛に進出。宛城のは降伏するが、十余日後、は挙兵し曹操軍を襲撃する。曹操は大敗し、曹昂、曹安民、典韋らが戦死し、曹操も負傷する(宛城の戦い)。曹操は舞陰に退却したが、は勢いに乗じて進出したので、曹操は出兵してこれを撃破し、は穣に逃亡、劉表と同盟を組む。曹操も許都に戻る。曹昂が戦死したことに曹操の正妻丁夫人は悲しみ、実家に帰って戻らなかったため、曹操は卞夫人を正妻とする。武帝紀、魏書、魏略、武宣卞皇后伝
   春袁術、張烱が天が瑞兆を示したという説を採用して、帝位を僭称。南郊北郊の祭祀を行う。袁術伝
  この頃袁術、帝号を称する使者を呂布に送るが、呂布はその使者を捕らえて都に送る。呂布は陳登を使者に送るが、曹操は陳登と内応の約束を交わす。袁術、これを怒り呂布を攻めるが敗北する。武帝紀、呂布伝
  この頃孫策、袁術が帝号を称したため、関係を断絶。曹操は上表して、孫策を討逆将軍に任じ、呉侯に封じる(翌年とも言う)。孫策伝
  この頃朝廷、を派遣し、孫策を騎都尉に任じ、烏程侯の爵位と会稽太守の地位を認める。孫策、騎都尉と郡太守ではバランスが悪いので、将軍の称号を望む。、使者の権限で孫策を明漢将軍に任じる。、孫策に対抗するため、都尉の万演を派遣し、祖郎・焦已・厳白虎らを内応させる。孫策、呂範と徐逸を派遣し、のいる海西を攻め破る。は単騎で袁紹のもとに逃亡する。江表伝、山陽公載記
   9月袁術、陳に攻め込むが、曹操はこれを迎撃。袁術は逃走し、配下の、李豊、梁綱、楽就を残す。曹操、彼らを攻めて全員を殺す。袁術は淮水を越えて逃亡する。曹操、許に戻る。曹操が帰還すると、南陽と章陵の諸県が背いてに味方する。曹操、曹洪を派遣するが勝てず、曹洪は退却して葉に駐屯するが、・劉表連合軍としばしば戦闘となる。武帝紀
  この年曹操、裴茂を関西へ派遣し、諸将を統率させ、を捕らえて一族もろとも処刑する。董卓伝
  この年郭、で部下の五習に殺される。胡才も仇敵によって殺害され、李楽は病死する。韓暹は楊奉が捕らえられると逃亡するが、張宣に殺される。董卓伝、英雄記
  11月曹操、宛に進出。宛ので戦死将兵の追悼祭を行う。劉表の将ケ済を湖陽に攻める。湖陽と舞陰を陥落させ、ケ済を捕らえる。武帝紀
198建安3 1月曹操、許都に戻り、はじめて軍師祭酒を置く。武帝紀
   3月曹操、を穣に包囲する。
   5月劉表、穣に援軍を送り、曹操軍の背後を絶とうとしたため、曹操は退却。追撃してきた軍に対し、輜重を地下に隠して逃亡したと見せかけ、迫ってきたところを配置していた伏兵で撃破する。武帝紀
   7月曹操、許都に帰還する。武帝紀
   呂布と袁術が再び同盟し、呂布は高順を派遣して劉備を攻める。曹操は夏侯惇を救援に派遣するが、劉備は敗北する。劉備の妻子はふたたび捕らえられ、呂布のもとに送られる。武帝紀、呂布伝、先主伝
   9月劉備、呂布軍に敗北して沛城を失い逃亡する。武帝紀、先主伝
   9月曹操、呂布討伐のため出陣する。武帝紀
  10月曹操、彭城を攻め落とし、侯諧を捕らえる。そのまま呂布のいるに進出。呂布は迎撃に出撃するが敗北し将の成廉が捕まる。呂布は降伏を考えるが、陳宮らは袁術に援軍を求め、城外で戦うことを薦めたので、呂布は再度出撃する。しかし敗北し、籠城戦となる。曹操は城を攻めるが落とせなかったので、荀攸・郭嘉の策を採用して、泗水、水を決壊させ、水攻めにする。
  12月城水攻め約1ヶ月で、呂布の将宋憲と魏続が陳宮を捕らえて城を開いて降伏してきたため、呂布、高順らも生け捕られる。曹操、呂布・高順・陳宮を処刑し、降伏した張遼を配下に加える。また呂布に味方した臧霸、孫観、呉敦、尹礼、らを捕らえるが、許して青州・徐州に配置する。劉備は妻子を取り戻す。武帝紀、呂布伝、荀攸伝、英雄記、典略
   曹操、瑯邪・北海・東海を割いて城陽・利城・昌慮の3郡を設置する。武帝紀
  この年曹操、上奏して孫策を討逆将軍に任じ、呉侯に改封する(前年とも言う)。江表伝
  この年曹操・劉表の地を経て黄祖の元にいた狂士が殺される。
  この頃袁術が丹楊太守を周尚から袁胤に代えたため、周尚と周瑜は寿春に赴く。袁術は周瑜を配下の部将にしようとしたが、周瑜は袁術の将来性がないとみて、居巣県の長になることを願い出て認められると、居巣に向かい、さらに呉の孫策の元に戻る。孫策、周瑜に牛渚の守備を任せる。周瑜伝
199建安4 2月曹操、昌邑に戻る。張楊の部下の楊醜が張楊を殺し、が楊醜を殺して軍勢を吸収し、そのまま袁紹に従って射犬に駐屯する。
   3月袁紹軍、易京を攻め落とし、を自殺に追い込む(易京の攻防戦)。袁紹伝
  この頃袁紹、朝廷に貢納をしなくなり、一方でひそかに主簿の耿苞をして天意を示させ帝位につくようにと進言させるが、反発が広がったため、耿苞を処刑してごまかす。典略
   4月曹操、軍を黄河南岸に進め、曹仁と史渙を渡河させを攻撃する。、薛洪、繆尚らに防衛させて、自ら袁紹に救援を求めにゆくが、犬城で曹仁、史渙らと遭遇して敗死する。これを受けて曹操は、自ら黄河を北に渡河し、射犬を包囲。薛洪、繆尚は降伏したので、列侯に封じ、軍を引き上げて敖倉に入る。かつての家臣で射犬に逃亡していたを許して河内太守に任じ、河北を担当させる。武帝紀
  この頃董承、曹操暗殺計画を立て、説得して王子服、劉備らを参加させる。武帝紀、先主伝
  この頃劉備、曹操と食事中に、英雄であると指摘されて思わず箸を落とすという。先主伝
   6月袁術、孤立無援のため袁譚を頼り徐州を通って北へ向かう。曹操、劉備・朱霊・路招を迎撃に向かわせる。程cと郭嘉、劉備派遣を止めようと駆けつけるが間に合わず。袁術、北上中に病に倒れ病死する。徐、袁術の持っていた皇帝の印璽を漢の朝廷に届ける。武帝紀
   6月劉備、曹操軍の朱霊らが帰還すると、で徐州刺史車冑を殺害し曹操から独立する。昌覇が叛乱を起こし、各郡県がこれにあわせて劉備に味方したため、その軍勢は数万に達する。武帝紀、袁紹伝、先主伝
  この頃袁術の配下だった楊弘・張勲らが孫策のもとに身を寄せようとして、廬江太守の劉勲と衝突しため、孫策はまず劉勲と同盟して上繚の宗民(宗教勢力)を攻めさせ、その間に廬江を攻め落とす。劉勲は曹操のもとへ逃亡する。孫策伝
   8月曹操、軍を黎陽に進める。また、臧霸らを青州に侵攻させ、斉・北海・東安の諸郡を撃破し、また于禁を黄河沿いに駐留させる。武帝紀
   9月曹操、官渡に兵を置いて許都に帰還する。武帝紀
  11月の献策に従って曹操に降伏し、は列侯には軍師となる。武帝紀
  12月曹操、官渡に入る。武帝紀
  12月孫策、黄祖討伐のため、兵を進め、11日に黄祖の軍陣を撃破し、黄祖は逃亡。孫策はその妻子7人を捕らえ、劉虎・韓晞を殺して江南をほぼ平定する。張勲は曹操に身を寄せ、曹操は孫策の勢力拡大を危惧して、孫家と姻戚関係を結ぼうとする。孫策伝、呉録、呉歴
  この頃孫策、周瑜を中護軍・江夏太守に任じ、共にユを攻め落とし、橋公の娘2人を手に入れる。姉を孫策が、妹を周瑜がめとる。周瑜伝
  この頃劉備、袁紹に孫乾を派遣して盟を結ぶ。曹操、劉岱と王忠を劉備討伐に向かわせるが、敗北する。先主伝
200建安5 1月董承らの曹操暗殺計画が発覚し、関係者全員が処刑される。曹操、自ら劉備攻めを計画。諸将、袁紹と対立している中での出兵に反対するが、郭嘉が賛同したため、軍を率いて徐州を攻める。その情報を得た田豊は、袁紹に対し曹操を攻めるようにと進言するが、袁紹は、赤子の病気を理由に出兵せず。曹操は、劉備を撃破し劉備の妻子と将の夏侯博を捕らえ、続いてを攻めたため、関羽は降伏する。さらに劉備に味方したを攻め、これを撃破する。武帝紀、袁紹伝、先主伝
   2月袁紹、顔良・淳于瓊・郭図を渡河させ、白馬の劉延を攻める。袁紹は自ら黎陽から渡河すべく移動を開始する。袁紹伝
   4月曹操、荀攸の進言を受け、延津に軍を進めて袁紹自身の軍勢を誘い、その隙に白馬へ騎兵を率いて救援に向かう。張遼と関羽をして白馬で顔良を撃破して殺し、白馬の包囲を解いて、住民を避難させる。袁紹、渡河して曹操を追い、延津の南に至る。曹操、荀攸の策を入れて南阪で文醜・劉備の軍勢を破り文醜を殺す(白馬・南阪の戦い)。曹操、官渡に戻り、袁紹は陽武に入る。武帝紀、荀攸伝、袁紹伝
  この頃孫策、許都を攻めるために命令を発するが、出陣の前にかつて殺した呉郡太守許貢の食客に襲われて重傷を負う。孫策、孫権を後継とし、張昭をその後見と定めたあと没する(「呉歴」では顔に傷を負った孫策が、静養していれば治ると言われたのに、鏡を見て怒りを発して傷が裂けて死んだとあり、「捜神記」には孫策が道士の于吉を殺害した結果、鏡に亡霊をしばしば見るようになり、怒りを発して(襲われたときの)傷が裂けて死んだとある)。孫策伝、呉歴、江表伝、捜神記
  この頃周瑜、孫策の葬儀に駆けつけ、張昭と共に事後処理に当たる。周瑜伝
  この頃関羽、劉備の元に戻る。武帝紀
   8月袁紹、陣営を連ねてゆっくりと進軍して丘陵沿いに東西数十里の陣営をしく。曹操も約1万の兵で対陣するが敗北して退却し、官渡に戻る。袁紹、官渡に進軍し攻防戦が始まる。
地 図
袁紹伝
  この頃袁紹、劉備を曹操の背後に派遣。曹操は曹仁の進言を受けて曹仁に騎兵を率いさせて派遣。曹仁は劉備を破り、劉備に付いた諸県を平定した後、袁紹が西方の道路を遮断するために派遣した韓荀を撃破する。曹仁は史渙と合流して袁紹の輜重車を焼き払う。武帝紀、曹仁伝
  10月許攸が袁紹を裏切り、曹操に寝返って食料の在処を教える。曹操、自ら烏巣の食糧基地を攻めてこれを攻め落とす。と高覧が曹操に降伏し、袁紹軍は総崩れとなる。(官渡攻防戦武帝紀、荀ケ伝、袁紹伝
  この年張飛が夏侯氏の一族の娘を連れ去り自分の妻にする。後の蜀の張后の母親といわれる。魏略
  この年揚州刺史厳象が孫策の派遣した廬江太守理術に殺害される。三輔決録注
201建安6 袁紹と袁譚は単騎で黄河を越えて逃亡する。袁紹まもなく発病し吐血する。逢紀、出兵を諫めた田豊を讒言し、袁紹はこの言葉を受けて田豊を処刑する。武帝紀、荀ケ伝、袁紹伝、先賢行状
  袁紹、劉備を再度汝南に派遣する。武帝紀
   4月曹操、黄河を北へ横断し、倉亭の袁紹軍を攻撃する。袁紹敗北し、本拠に戻った後、兵を集めて離反した郡県の平定を行う。武帝紀
   9月曹操、許都に帰還する。また汝南の劉備とこれに呼応した共都に対し、蔡揚を派遣するが、蔡揚は共都に敗北したため、曹操は自ら兵を率いて征伐に向かう。劉備はそれを聞くと、劉表の元へ逃走し、共都らは散り散りとなる。武帝紀
   この年、劉表が西鄂を攻めるが、杜襲、柏孝長らが立て籠もって防衛する。九州春秋
202建安7 1月曹操、故郷のに入り、戦死将兵の家督後継を定め、その者に田地と耕牛を支給し、教育を行うよう布告を発する。また、後継者のいる家には戦死者を祀る廟を立てることを併せて布令する。ついで陽渠を修理し、使者を出して若い頃親しんだ橋玄の霊を祀る。曹操、軍を官渡に進める。武帝紀
   5月袁紹死去する。後を末子の袁尚が継ぎ、兄の袁譚は車騎将軍を自称して黎陽に駐留する。武帝紀
   9月曹操、袁譚と袁尚を攻撃する。武帝紀、荀攸伝
  この頃曹操、孫権に息子を人質に出すよう求め、孫権は周瑜と協議の上、これを拒否する。江表伝
203建安8 3月曹操、袁譚と袁尚を攻撃し撃破する。袁譚と袁尚は夜陰に紛れ逃亡する。武帝紀
   4月曹操、軍を付近まで進軍する。武帝紀
   5月曹操、買信を黎陽に置いて、許都に帰還する。武帝紀
   5月25日、曹操、軍事に関する信賞必罰の布令を発する。武帝紀
   7月曹操、学校を設置し若者に教育を施すよう布令を発する。武帝紀
   8月曹操、劉表征討の兵を挙げ、西平に入る。曹操軍が南下したため、袁譚と袁尚が冀州の覇権をめぐって争うようになり、袁譚が敗北して平原に入り、さらに攻撃されたため、を派遣し、降伏と救援を求める。曹操の諸将は反対するが、荀攸が薦めたため、曹操はそれに従い、西平から軍を引き上げて帰還する。武帝紀、荀攸伝
  10月曹操、黎陽に入り、子の曹整と袁譚の娘の縁組みを行う。袁尚は西平の包囲を解いてに戻る。呂曠と呂翔が袁尚に背き、陽平に駐留し、袁譚から将軍の印綬を与えられるが、それを携えて曹操に降伏し列侯に封ぜられる。武帝紀、魏書
  この年曹操、荀ケの功績を賞して上表し、万歳亭侯に封じる。荀ケ伝
204建安9 1月曹操、黄河を渡り、淇水をせき止めて白溝に水を入れて糧道を開通させる。武帝紀
   2月袁尚、に蘇由と審配を守備として残し、自ら出兵して袁譚を攻める。曹操はその隙をねらい北上し、水に至る。蘇由は降伏する。曹操、の攻略を開始し、土山と地下道を築いて攻める。武帝紀
   4月曹操、曹洪に城を攻めさせておき、その間に上党からへの糧道を確保している武安の長尹楷を自ら兵を率いて毛城に攻め撃破する。さらに沮鵠の守る邯鄲を攻め落とす。易陽の令韓範と渉の長梁岐が降伏してきたので、関内侯の爵位を与える。武帝紀
   5月攻めに作った土山と地下道を壊し、あらためて城の周囲に壕を作り、水を決壊させて城を水攻めにする。城中の半数以上が餓死する。武帝紀
   7月袁尚、の救援に戻り、西山を経て邯鄲付近の水河岸に駐留する。曹操、袁尚の敗北を予言する。夜中、袁尚が曹操の包囲軍を攻撃するが、曹操はこれを撃破する。曹操はそのまま、袁尚の陣営を包囲するため軍勢を進める。袁尚、恐怖してと陳琳を派遣して降伏を願い出たが、曹操は認めず包囲を狭めたため、袁尚は闇夜に紛れて逃亡。山に至るが、さらに曹操の追撃にあうと戦闘の前に馬延と張が降伏し、軍勢は総崩れとなったため、袁尚は中山まで逃亡する。袁譚、この間に甘陵・安平・渤海・河間を攻略する。武帝紀
   8月曹操が、袁尚の敗走で手に入れた印綬と節鉞を示したため、の城内は戦意を喪失し、審栄が東城門を開けて曹操軍を招き入れたため、城内で戦闘となる。審栄の叔父審配は敗れて捕らえられ処刑される。曹丕は先頭を切って宮中に入り、かねて目をつけていた袁煕の妻で美女で知られる甄夫人を奪う。曹操は城中にはいると、袁紹の墓を詣でて哭泣し、袁紹の妻の下僕と宝物を返し、扶持米を支給することを命じる。袁紹の甥の高幹が降伏する。武帝紀・文帝紀
  この頃夏侯惇、伏波将軍に昇進し、法令に関係なく、自己判断で処置を執ることを認められる。夏侯惇伝
   9月曹操、河北の戦災にともない、当年の租税を免除するよう布告し、また、権勢のある者が土地と財貨を併せ持つことに対する法令を厳しくして太守・相らに監視を命じ人民を慰撫する。武帝紀
   袁譚、中山に逃亡した袁尚を攻撃し、その兵を併合する。袁尚は故安に逃亡。曹操は、袁譚に対し、約を違えたとして縁戚関係を断絶し、袁譚の娘が帰国するのを待って進軍。袁譚は恐怖して本拠の平原を逃亡し、南皮に入る。武帝紀
  この頃高幹、曹操の留守を狙いを攻める計画を立てるが、荀衍(荀ケの兄)が気づき、襲撃しようとした兵らを誅殺。この功績で荀衍は列侯に封ぜられる。荀ケ伝
  12月曹操、平原に入り、周囲の諸県を平定する。武帝紀
  この年遼東の公孫度が死に、公孫康があとを継ぎ、弟の公孫恭を永寧郷侯に任じる。公孫度伝
205建安10 1月曹操、南皮に遠征し、袁譚を攻撃。袁譚の反撃を受けて被害が出たとき、曹純が曹操を説得し攻撃を続行、曹純、荀攸は袁譚の首を斬る。曹操は袁譚の妻子を処刑する一方、袁譚の旧臣を許し、また人民に布告して個人的復讐と贅沢な葬儀を禁止する。武帝紀、曹仁伝、荀攸伝
   1月袁煕の将焦触と張南が袁煕・袁尚兄弟に背き、彼らを攻めたため、袁煕と袁尚は烏丸三氏(遼西の・遼東の蘇僕延・右北平の烏延の国内烏丸)のもとに逃亡する。焦触ら曹操に降伏し、列侯に封ぜられる。武帝紀
  この頃曹操、役務をいやがって逃亡した住民が戻ってきたため、法令に基づいて処罰することになるが、自首してきた者を処刑することにもなる。だから山中に隠れて役人に見つからないようにせよ、と命じる。しかし結局住民は役人に見つかり逮捕される。武帝紀
   4月黒山賊の張燕が曹操に降伏し、列侯に封ぜられる。武帝紀
   故安の張犢と霍奴らが幽州の刺史と郡の太守を殺害する。また、烏丸三氏が_平の鮮于輔を攻める。武帝紀
   8月曹操、兵を送って張犢らを討伐し、鮮于補を救援させたので、烏丸勢力は国外へ逃亡する。高幹、州で反乱を起こし、上党の太守を捕らえ、壺関を防衛する。曹操、楽進と李典を派遣して壺関を攻める。高幹、壺関城に入り防衛する。武帝紀
   9月曹操、阿諛迎合したり、謂われ無き誹謗することを戒め風俗を整えるよう冀州の住民に布令を発する。武帝紀
  10月曹操、に帰還する。武帝紀
206建安11 1月曹操、州の高幹を再度攻め、高幹は匈奴へゆき単于(部族王)に救援を求めるが、単于は断る。武帝紀
  4月曹操、曹仁の進言を受けて、この頃までに高幹勢力の壺関城を陥落攻め落とす。高幹は、への逃亡を図るが、上洛都尉のが捕まえ処刑する。曹操、曹仁の功績を賞して都亭侯に封じる。武帝紀、曹仁伝
   8月曹操、東方に兵を率いて赴き、淳于で楽進と李典を派遣して海賊の管承を討伐する。管承は海中の島へ逃亡する。東海郡から襄賁・・戚の諸県を分割して瑯邪郡に併せ、昌慮郡を設置する。武帝紀
  10月曹操、治中・別駕の役人に対し、毎月1日に政治に関する進言をするよう布令を発する。武帝紀
  この頃曹操、烏丸征伐のため、呼から水にかけて開削し、平虜渠と名付け、また河河口から河にかけてを開削して泉州渠と名付ける。武帝紀
  この頃孫権、孫瑜を山越討伐に派遣し、周瑜を同行させる。孫瑜と周瑜は、山越の麻屯と保屯を攻め落とす。周瑜伝
207建安12 2月曹操、淳于からに帰還する。
   2月5日、曹操、功臣20余人の戦功報償として封爵を行う。また戦死者の孤児にも特別待遇を行う。
   曹操、烏丸遠征を計画し、諸将が劉表と劉備の動きを警戒して反対するが、郭嘉は劉表は劉備を使いこなせないだろうとして、北方遠征を勧める。武帝紀
   5月曹操北征軍、無終に到達する。武帝紀
   7月北方で大雨となり道路が不通となり、曹操軍は立ち往生する。北の地理に詳しい田疇が道案内を願い出て、軍を導く。盧龍から先は道が途絶していたため、山を堀、谷を埋めて500余里にわたって道路を造成し、白壇、平岡を通り、鮮卑族の領土を通過して、遼東に近い柳城に向かう。柳城の200里手前で烏丸勢力が曹操軍に気づき、袁煕・袁紹兄弟と・楼班・能臣抵之の烏丸三氏が数万の騎馬軍を率いて迎撃にでる。武帝紀
   8月白狼山で曹操軍と袁・烏丸連合軍が遭遇。曹操は、山上から観測して敵陣が整っていないのを確認すると、張遼を先鋒に攻撃を仕掛けたため、烏丸軍は総崩れとなり、とその部下の名王(烏丸の官職)を斬り殺す。速僕丸をはじめとする烏丸の人々は逃亡し、袁煕・袁尚兄弟も逃亡したが、残された烏丸族と漢人の20余万人が降伏する。曹操、家臣の遼東遠征の進言を抑え、袁氏兄弟の処分は遼東の太守公孫康に任せる。武帝紀
   9月曹操、柳城を出発し帰途につく。公孫康、曹操が帰途についたと知ると、袁氏兄弟の勢力復活を恐れ、袁煕・袁尚と速僕丸を殺して首を曹操に送る。曹操、公孫康を襄平侯・左将軍に取り立てる。武帝紀、公孫度伝
  11月曹操、易水に到着する。代郡の烏丸単于代行の普富盧、上郡の烏丸単于代行那楼が曹操の元に祝賀に来る。武帝紀
  この年朝廷、夏侯惇のこれまでの功績を賞して、1800戸を加増し、2500戸とする。夏侯惇伝
  この年朝廷、荀ケのこれまでの功績を賞して、1000戸を加増し、2000戸とする。荀ケ伝
  この年朝廷、荀攸のこれまでの功績を賞して、400戸を加増し、700戸とする。曹操は荀攸を中軍師に任ずる。荀攸伝
208建安13 1月曹操、に帰還し、先に烏丸征伐に反対した人に恩賞を与える。の玄武池で水軍の訓練を行う。また三公の官を廃止し、丞相と御史大夫を設置する。武帝紀
   6月献帝、曹操を丞相に任命する。徐、丞相の印綬を曹操に届け、曹操は自分の官位を徐に譲る。武帝紀、献帝起居注
   7月曹操、劉表征討に出発する。武帝紀
   8月劉表が病死し、劉jが跡を継いで襄陽に入り、劉備は樊に駐留する。武帝紀
  この頃孫権、江夏攻略に出陣。周瑜を前部大督に任命する。周瑜伝
   9月曹操、新野に到達。劉j、曹操に降伏し、劉備は夏口方面へ逃走する。曹操、江陵へ軍を進め、の人民に対し、過去を洗い流し新たに出発することを布告する。併合の功績として15人を列侯に封じ、また劉表の武将だった文聘を江夏の太守とし、韓嵩・ケ義を任用し、書家の梁鵠を取り立てる。また、旧知で死去した王儁の遺体をあらためて江陵に葬る。武帝紀、四体書勢、逸士伝
   9月曹操がを併合したため、呉の家臣団の大半は曹操を迎え入れることを決定するが、魯粛が反対、周瑜を呼び戻し、周瑜も反対をしたため、かねて曹操と闘う決意を秘めていた孫権は両者の意見に同意し、曹操との決戦を決定する。魯粛伝、周瑜伝
   益州の牧劉璋が曹操の元に役夫のための兵を派遣して提供する。武帝紀
  12月曹操、赤壁で周瑜・劉備の連合軍と衝突し大敗する。疫病が軍中に流行し、官吏や兵士らが多数死ぬ。同じ時、孫権は合肥を攻めたため、曹操は張熹を援軍に派遣し、孫権は張熹到着前に退却する。劉備、江南の諸郡を手に入れる。<赤壁の戦い武帝紀、呉志、山陽公載記
  この頃江陵の曹仁と周瑜が対峙。曹仁は包囲に陥った牛金を自ら出陣して救助する。周瑜は甘寧を夷陵へ派遣し、曹仁も援軍を派遣したため、周瑜は救援に赴く。周瑜・劉備が曹仁主力と衝突。周瑜は左鎖骨に矢を受け重傷を負う。曹操、曹仁を安平亭侯に封じる。周瑜伝、呉録、曹仁伝
  この年曹操の子曹沖が病死する。
209建安14 3月曹操軍、に入る。快速船を作って水軍の訓練を行う。武帝紀
   7月曹操軍、渦水から淮水を経て肥水に入り、合肥に至る。合肥で布令を発し、死者を出した家に官倉から支給を出すことを命じる。また、揚州の郡県に長吏を置き、陂に屯田を開く。武帝紀
  12月曹操軍、に帰還する。武帝紀
  この頃夏侯淵を行領軍に任じ、廬江郡で叛乱を起こした雷緒を攻めさせる。夏侯淵伝
  この年曹仁が南郡を放棄ししたため、孫権は、周瑜を南郡太守に任ずる。また、孫権は妹を劉備の妻に与える。周瑜伝
  この年曹操の側近だった中領軍の史渙が死去し、史静があとを継ぐ。魏書
210建安15 春曹操、地位・身分や行いの善し悪しに関係なく才能のある人物を推薦するよう「求賢令」を発する。武帝紀
  この年劉備、長江下流の京に赴き、占領中のの借用を求める。周瑜は、劉備を呉に留め、関羽と張飛を自らの配下に起くこと、さらに益州を攻略し、馬超と同盟、呉と蜀から曹操を攻める計画を進言する。孫権は劉備を留めるのは不可能と判断したが、益州攻略は許可する。周瑜はその準備のために任地の江夏に戻る途中、巴丘で死去。36歳。周瑜伝
   冬曹操、銅雀台を築く。また布告を出し、領地3万戸のうち2万戸を返上することを決める。武帝紀
  この年曹純が死去し、曹演があとを継ぐ。曹仁伝
211建安16 1月献帝、曹丕を五官中郎将・副丞相に任じる。また、曹操の子のうち、曹植を平原侯に、曹拠を范陽侯に、曹豹を饒陽侯に封じ、曹操の返上した2万戸のうち、1万5千戸をそれぞれ5千戸ずつに分けて与える。武帝紀、文帝紀
   1月太原の商曜らが大陵で叛乱を起こす。曹操、夏侯淵を行征西護軍に任じて徐晃とともに派遣する。武帝紀、夏侯淵伝
  この頃張魯が漢中を占拠する。武帝紀
   3月曹操、を漢中に派遣し張魯を討伐させ、また夏侯淵に河東を出てと合流するよう命じる。武帝紀
   の漢中遠征に疑念を抱いた馬超、韓遂、楊秋、李堪、成宜が挙兵する。曹操、曹仁を派遣する。馬超らは潼関に布陣したため、曹操は出撃を禁じる。武帝紀
   7月曹操、出兵して馬超らの陣と対陣、蒲阪津を渡河させて進軍する。馬超らは渭口へ退いたため、渭水でこれを撃破する。馬超は領土を譲渡して和睦を願ったが、曹操はこれを拒否。の策を入れて馬超と韓遂を分裂させる。<潼関・渭水の戦い武帝紀
  10月曹操、楊秋征討のため、安定に向かう。族の地を平定した夏侯淵と合流し、安定を包囲すると楊秋が降伏したので、元の爵位を与え、その地で住民を慰撫させる。武帝紀、夏侯淵伝
  12月曹操、安定から帰途につく。夏侯淵を長安に残し駐留させる。武帝紀
212建安17 1月曹操、に帰還する。献帝、曹操に対し、拝謁の際の呼称をしなくてよい、拝殿の時小走りに歩かなくてよい、剣を帯び履き物を履いて殿上に登ってよい、と言う特権を認める。武帝紀
   1月曹操、夏侯淵を行護軍将軍に任じ、朱霊・路招らをその配下に置く。夏侯淵、南山の劉雄を降伏させる。夏侯淵伝
  1月?曹操、藍田にいた馬超の残党の梁興らを夏侯淵に撃破させる。武帝紀
  1月?曹操、河内郡の蕩陰県・朝歌県・林慮県、東郡の衛国県・頓丘県・東武陽県・発干県、鉅鹿郡の陶県・曲周県・南和県、広平郡の任城県、趙国の襄国県・邯鄲県・易陽県を切り離して、魏郡に編入する。武帝紀
  この頃董昭らが、曹操の爵位を国公に進め功績を賞すべきではないか、と荀ケに相談するが、荀ケは曹操が兵を起こしたのは忠節によるものであり、徳義から見ればよろしくないと答え、曹操との間にしこりが残る。荀ケ伝
  10月曹操、孫権討伐に出発する。武帝紀
  この頃荀ケ、曹操の孫権討伐軍に侍中・光禄大夫として参加するが、病気となり寿春で死去。50歳。敬侯とおくりなされる。荀ツがあとを継ぐ。一説には、曹操から見舞いに空の器を送られ、その意図を察して自殺したという。荀ケ伝、魏氏春秋
  この頃馬超、涼州刺史の韋康を攻めたため、夏侯淵が救援に向かう。しかし到着前に韋康は敗死。夏侯淵伝
213建安18 1月曹操、軍を濡須口に進め、長江西岸の孫権の陣営を攻める。孫権の都督公孫陽を捕虜にして帰還する。武帝紀
   1月献帝、詔勅を発して、天下の14州を9州に統合する。武帝紀
   4月曹操、に到着する。武帝紀
   5月22日、献帝、曹操を魏公に封じる旨を伝えるが、曹操これを再三辞退する。武帝紀
   7月曹操、魏公となり藩国の魏を興し、社稷と宗廟を建立する。献帝、曹操の娘3人を貴人として迎え入れる。武帝紀、献帝起居注
   9月曹操、金虎台を築く。運河を開削し、水、白溝につなげて黄河へ通じさせる。武帝紀
  10月曹操、魏郡を東西両部に分け、都尉を置く。武帝紀
  11月魏国に尚書、侍中、六卿を設置する。尚書令に荀攸を、尚書僕射に涼茂を、尚書に・常林・徐奕・を、侍中に王粲・杜襲・衛覬・和洽を任命する。武帝紀、魏氏春秋
  この頃馬超、漢陽で羌族と組んで兵を起こし、族の王千万が呼応して興国に陣を置く。曹操、夏侯淵をして、これを討伐する。夏侯淵敗北し、軍を引き上げる。武帝紀、夏侯淵伝
214建安19 1月曹操、はじめて籍田を耕す。武帝紀
   南安の趙衢、漢陽の尹奉らが馬超を討伐し、その妻子を処刑する。馬超は漢中へ逃亡する。韓遂は金城の王千万の元にゆき、羌族の軍勢1万余騎を率いて夏侯淵と戦う。夏侯淵はこれを破り、韓遂は西平に逃亡する。夏侯淵はさらに興国を攻め落とす。安東と永陽の両郡を省く。武帝紀、夏侯淵伝
  この頃夏侯淵の功績を賞して仮節を与える。夏侯淵伝
  この頃安定の太守にを派遣する。武帝紀
   3月献帝、魏公の地位を諸侯王より上に置き、金璽・赤・遠遊冠を曹操に授ける。武帝紀、献帝起居注
   7月曹操、傅幹の諫めも聞かず、孫権の征討に出る。途上、随行していた荀攸が死去。58歳。後に敬侯とおくりなされる。武帝紀、荀攸伝
  10月曹操、隴西で河首平漢王を称して独立していた宋建を夏侯淵をして攻め滅ぼす。武帝紀、夏侯淵伝
  11月献帝の皇后伏氏が董承一派が処刑されたことで帝が曹操を恨んでいるという内容の書簡を父の伏完に送ったことが発覚し、曹操は、伏后の皇后の位を廃し、伏皇后・伏完をはじめ一族数百人を処刑する。武帝紀
  12月曹操、孟津に到着する。献帝、曹操に天子の旄頭(旗に付ける牛の飾り)と鐘虚(宮殿の鐘を吊る台)を認める。武帝紀
  12月19日、曹操、布令を発し、優れた士人は短所があっても用いること、刑罰裁判は公平に行うことを命じ、理曹掾属を設置する。武帝紀
215建安20 1月献帝、曹操の娘を皇后とする。武帝紀
   1月曹操、雲中・定襄・五原・朔方の4郡を省いて4県を置き、4県を合わせて新興郡を設置する。武帝紀
   3月曹操、張魯征討のため、西へ向かい、陳倉に入る。さらに武都からへ向かうと人らが道を塞いだので、と朱霊に撃破させる。武帝紀
   4月曹操、陳倉から散関へ出て、河池に到る。武帝紀
   5月曹操、王竇茂の拠点を攻め落とす。同じ時、西平と金城を占拠している麹演と蒋石らが韓遂を殺し、その首を曹操に送る。武帝紀
   7月曹操、陽平に至る。張魯が張衛、楊昂を陽平関に籠もらせ、山沿いに十余里の城壁を築いていたので、これを攻めるが陥せず。そこで曹操は、一旦軍を引き上げ、敵が守備を解いたところを見計らって、と高祚に山上から夜襲させ楊任を殺し、さらに張衛を攻める。張衛は敗れ張魯とともに巴中へ逃亡する。張魯は逃亡の際に、倉の宝物を焼き払おうという家臣の言を否定し、封印して立ち去った。曹操は南鄭に入り倉の中の宝物を得る。巴と漢が降伏したので、漢寧郡を漢中郡とし、さらに安陽県と西城県を分離して西城郡を、錫県と上庸県を分離して上庸郡を設置する。武帝紀、張魯伝
   8月孫権が出兵し、合肥を包囲。張遼と李典がこれを迎撃し、孫権は大敗を喫する。武帝紀
   9月巴の7豪族のうち、蛮王朴胡と侯のが、巴との住民を率いて帰順する。そこで巴郡を巴東と巴西に分け、巴東太守に朴胡を、巴西太守に杜胡を置いて列侯とする。武帝紀
   9月献帝、曹操に対し、恩賞を速やかにするため、詔勅を得ずして諸侯・太守・国相を任命できる権限を認める。武帝紀
  10月曹操、従来の列侯・関内侯にさらに五大夫、関外侯、関中侯、名号侯を追加し6等級とする。武帝紀
  11月張魯が曹操に降伏する。張魯と5人の子供を列侯とする。武帝紀、張魯伝
  11月劉備が益州を奪取し、巴中を占領する。曹操、を派遣する。武帝紀
  12月曹操、関中に夏侯淵を残し、南鄭から帰還の途につく。この頃、夏侯淵を征西将軍に任じる。武帝紀、夏侯淵伝
216建安21 2月1日、曹操、に帰還し、官吏が宗廟に勲功を記録する。武帝紀、魏書
   2月24日、曹操、春の祭りを行う。布告して儀式を形式から内実の伴ったものにすることを宣言する。魏書
   3月3日、曹操、籍田を耕す。武帝紀
   3月官吏が、現在は有事なので、平素から訓練されているため、制度としての軍事演習を立秋の時のみと定め閲兵を行うべきと上奏し許可される。魏書
   5月献帝、曹操を魏王とする。武帝紀
   烏丸の行単于(代王)普富廬が来朝する。武帝紀
   献帝、曹操の娘を公主と呼ぶことを認め、湯沐の邑を領地として与えることを許す。武帝紀
   7月匈奴の南単于呼廚泉が配下の名王(官職)を引き連れて来朝する。単于を待遇して留め、右賢王の去卑に領地を支配させる。武帝紀
   8月大理のを相国とする。また奉常と宗正の官を設置する。武帝紀、魏書
  10月曹操、閲兵を行い、それから孫権討伐に出発する。武帝紀
  11月曹操、に入る。武帝紀
  この年朝廷、夏侯淵を300戸加増し、800戸とする。夏侯淵伝
217建安22 1月曹操、居巣に陣を置く。武帝紀
   2月曹操、軍を長江西方の谿に陣を置く。孫権は濡須口に城を築いたため、これを攻める。孫権は退却する。武帝紀
   3月曹操、夏侯惇を26軍の総司令官に任じ、曹仁、張遼とともに居巣に配置して帰還する。武帝紀、夏侯惇伝
   4月献帝、曹操に、天子の旌旗と警蹕を許可する。武帝紀
   5月曹操、宮(学校)を作る。武帝紀
   6月曹操、軍師のを御史大夫に任命する。また初めて衛尉の官を置く。武帝紀、魏書
   8月曹操、身分の低いもの・評判の悪いもの・嘲笑されている者・不仁不孝の者でも、才能のある者を推挙するよう布告する。魏書
  10月献帝、曹操に、12の旒(冠から下げる飾り玉−皇帝は12個)、6頭立ての金根車、5色の副車を認める。また曹丕を魏の太子とする。武帝紀、文帝紀
   冬疫病が流行する。武帝紀
  この年劉備、張飛・馬超・呉蘭を派遣して下弁に駐屯する。曹操、曹洪と曹休を派遣する。武帝紀、曹休伝
218建安23 1月、吉本、耿紀、韋晃らが、許都で叛乱を起こす。許都を管理していた丞相長史の王必は重傷を負うも潁川の典農中郎将の厳匡と鎮圧する。14日後に王必は傷が元で死ぬ。曹操、王必が死んだのを怒り関係者を処刑する。武帝紀、山陽公載記
   曹洪、呉蘭を撃破し、を殺す。武帝紀
   3月張飛と馬超は漢中へ退却する。陰平の族の将強端が呉蘭を殺し、その首を曹軍へ送る。武帝紀
   4月代郡と上谷の烏丸が叛乱を起こしたので、曹彰を派遣し、これを撃破する。武帝紀
   曹操、疫病と戦乱による損害を考慮し、官民に対し、身よりのない老女や子供、障害者に対し扶養を行うよう布令を発し、また90歳以上の老人がいる家の賦役を免除する。武帝紀
   6月曹操、埋葬に関する布令を発する。武帝紀
   7月曹操、閲兵を行い、そのあと劉備征討のため西へ向かう。武帝紀
   9月曹操、長安に入る。武帝紀
  10月宛の将侯音が関羽と結んで叛乱を起こし、太守東里袞を捕らえ宛を占拠する。宗子卿、侯音に太守を追放するよう進言し、侯音がそれに従い東里袞を追放すると、宗子卿も城外へ逃走し、東里袞と兵を集めて宛を包囲する。武帝紀、曹瞞伝、曹仁伝
219建安24 1月曹操、宛の叛乱に対して、関羽と対戦していた曹仁に兵を派遣するよう命じ、東里袞と宗子卿は、曹仁軍と協力して宛を攻め落とし、侯音を斬る。武帝紀、曹瞞伝、曹仁伝
  この頃夏侯淵、陽平関で劉備軍と戦闘になったの救援に兵を割いたところを劉備に襲撃され敗死。愍侯となされる。張飛の妻は夏侯氏の出自だったので、夏侯淵を埋葬して欲しいと願い出たといわれる。武帝紀、夏侯淵伝、魏略
  この頃曹操、曹真を征蜀護軍とする。曹真伝
   3月曹操、長安から斜谷を通り、陽平に入り、漢中の劉備と対峙する。武帝紀
   5月曹操、鶏肋の布令を発して、軍を長安へ引き上げる。武帝紀、九州春秋
   7月曹操、卞夫人を王后とする。武帝紀
   7月曹操、曹仁の救援に于禁・を派遣する。武帝紀
   8月漢水が氾濫し、孤立した于禁は関羽に降伏する。は最後まで抵抗し、関羽に殺される。曹仁が敵中に孤立したため、曹操は徐晃を新たに派遣する。武帝紀
   9月魏諷がで叛乱を企てる。徒党を組んだが裏切って曹丕に通報したため、曹丕は魏諷を捕らえて処刑し、魏諷を推挙した相国のは免職となる。武帝紀、世語
  10月曹操、洛陽に帰還する。洛陽の北部尉の役所を修復して立派なものに変える。武帝紀
   孫権、曹操に帝位につくよう上奏し、また関羽討伐を願い出る。曹操の臣らも、曹操に帝位に就くことを訴えるが、曹操は周の文王に倣うとしてこれを承知せず。武帝紀
   曹操、自ら関羽討伐のため南へ向けて出発する。徐晃、曹操の到着前に関羽の陣を撃破し、孤立していた曹仁らを救う。武帝紀
  この頃夏侯惇、前将軍として寿春に帰還し、召陵に軍営を移動する。夏侯惇伝
220建安25 1月曹操、洛陽に戻る。あらたに建始殿の建設を計画するが、病に倒れる。武帝紀、世語、曹瞞伝
   1月孫権の将呂蒙、関羽を殺し、孫権はその首を曹操のもとに送る。曹操、これを丁重に葬る。武帝紀
 (延康1) 1月23日、曹操、洛陽にて没する。66歳。武王と諡される。遺令で儀式を質素にし、埋葬後すぐに喪をやめ、武将は任地を離れず、官吏は職をつとめるよう命じる。また、遺体は平服で包むよう、墓には金銀財宝を埋葬しないように命じる。曹丕が跡を継ぎ、魏王・漢の丞相となる。卞王后を王太后とする。延康元年に改元する。武帝紀、文帝紀
   2月16日、曹丕、を大尉に、を相国に、王朗を御史大夫に任じ、散騎常侍と侍郎を各4人設置する。また、宦官を署官の令以上の地位を得ることを禁止し、金製の札に布令を記して書庫に保管する。文帝紀
   2月21日、曹操の遺体を高陵に埋葬する。武帝紀
   3月に黄色い龍が出現。45年前にそのことをが予言した際にその場にいた殷登が、まだ生存していて、昔のことを思い出し、予言は証明される。曹丕は、殷登を招き、彼の記憶を賞し、300石の穀物を与える。文帝紀
   3月3日、前将軍の夏侯惇を大将軍とする。と扶余の単于、焉耆との王が朝貢する。文帝紀
   3月4日、曹丕、関所と津の税を十分の一とし、池にやなを張る禁令を廃止する。文帝紀
   3月10日、史官に天文を観測し、四季を奉ずるように命じる。文帝紀
   3月11日、すでに故人となっている、王脩、涼茂、袁渙、謝奐、万潜、徐奕、国淵の男子を郎中に任じる。文帝紀
   4月12日、饒安県で白い雉があらわれたという報告が朝廷に届けられる。曹丕、県のある勃海郡に対し、100戸ごとに牛と酒を与えて3日間の酒宴を認める。文帝紀
   4月15日、大将軍の夏侯惇が没する。文帝紀
   5月3日、献帝、曹丕に対し、曹丕の祖父の曹嵩を追尊して太王とし、その夫人の丁氏を王太后とするよう命じ、さらに曹丕の子の曹叡を武徳侯に封ずる。文帝紀
   5月馮翊の山賊と王照が降伏し、列侯に封ぜられる。文帝紀
  10月?李伏が曹丕に上書してその徳をたたえる。曹丕、返答してこれは武王曹操の徳であるとする。文帝紀
  10月?曹丕の家臣らが、そろって曹丕に言上し、その徳を偉大な聖人帝王になぞらえてたたえる。曹丕、返答して、ものには似て非なる物がある。自分はそのような徳のあるものではないと答える。文帝紀
  10月9日、許芝が、曹丕に対し、予言書を示して、魏が漢に代わるときが来たことを説明し、帝位に就くよう進める。曹丕、周の文王や周公旦を事例に出し、帝位には就かないと答える。文帝紀
  10月曹丕の家臣らが、曹丕が許芝の言上に拒否したことをうけ、そろって上奏し、帝位に就くよう進める。曹丕は人民が困窮しているのを理由にまたもこれを拒否する。文帝紀
  10月11日、司馬懿らが言上し、天下の十分の九が服しているときに周の文王に倣うのは過剰な謙虚というものです、として曹丕に帝位に就くよう進める。曹丕、これに答え、古の人々の例を挙げて、天下に道義を示すためにも帝位には就かないと拒否する。文帝紀
  10月13日、献帝、曹丕に対し禅譲の詔勅を下す。桓階らはこれをうけて、曹丕に上奏し日を定めて儀礼を行い帝位に就くよう進める。曹丕、これを拒否する。文帝紀
  10月らが、奏議して、17日が吉日なので、この日を禅譲をうける日とし、壇場を作って儀式を行うよう上奏する。曹丕、これに対し、帝位には就かないが、詔勅に対する儀礼は行うこととし、また壇場の建設の中止を命じる。文帝紀
  10月17日、曹丕、禅譲の詔勅に対し辞退の旨を布告する。文帝紀
  10月劉若ら120人が上書し、曹丕に帝位に就くよう進める。曹丕、これを拒否し、璽綬を返上するよう命じる。劉若ら120人はあらためて曹丕に上奏し、帝位に就くよう進める。曹丕、これも拒否し、璽綬を返上するよう再度命じる。そこでらが上奏し、帝位に就くよう求め、曹丕はこれも拒否する。文帝紀
  10月18日、曹丕、献帝に上奏し、禅譲の璽書を返上する。文帝紀
  10月19日、蘇林と董巴が曹丕に上奏し、天文の兆候を示して、帝位に就くよう進言する。曹丕、天の予兆があっても自分には徳がないからと拒否する。文帝紀
  10月20日、献帝、詔勅を出し、天命に逆らわず、人民に背かず、魏王曹丕に対し帝位を譲るので受けるよう命じる。尚書令の桓階らはあらためて上奏し、曹丕に帝位に就くよう進める。曹丕、これも拒否する。文帝紀
  10月22日、曹丕、献帝に上奏し、再度璽綬を返上する。ら、曹丕に上奏し、禅譲を拒否しないよう、あらためて求める。曹丕、これに答え、臣らにとって主君がいなくなったわけでもないし、帝位に就くのを固辞した結果を見極めてから論議しても遅くはないだろう、としてこれを拒否する。文帝紀
  10月25日、献帝、あらためて魏王曹丕に詔勅を下し、帝位を譲る旨を命じる。、王朗と九卿がそろって曹丕に上奏し、帝位に就くよう進める。曹丕、これに対し自分は不徳であり、外敵は残っている、魏王の地位として十分であり、帝位に就くつもりはない、と拒否する。文帝紀
  10月27日、曹丕は献帝に上奏し、詔勅を伝えた勅使の張音が帝位を固辞する旨を復命しないので、皇帝より張音を朝廷に召還するよう願い出る。、王朗と九卿が再度、曹丕に上奏し、これは天命だから皇帝の詔勅をお受けするよう進める。曹丕、これに対し、本当に天命があるのなら、どうして辞退をしようか、と答え、受諾の意思を表す。文帝紀
  10月28日、献帝、魏王曹丕に詔勅を下し、帝位を禅譲する旨を命じる。尚書令の桓階らが、曹丕に上奏し、詔勅に従い、29日に壇場で天命を受ける儀式を行うよう進める。文帝紀
 (黄初1)10月29日、曹丕、壇に登り、献帝からの禅譲をうけて、天地・五岳・四を祭り、年号を黄初元年とあらため、魏帝国を興す。これをもって漢朝24代426年の幕が下りる。文帝紀
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