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この年表は、中国三国時代前後の年表です。 陳寿の著した正史『三国志』を元に作成しております。 よって、一般に有名な『三国志演義』とはかなり異なっています。 正史『三国志』にも必ずしも史実と一致しない事柄があると思われます。 また、前後矛盾する物が含まれている場合もあります。 正史『三国志』を注釈した裴松之の本を元に、同本に載せられている種々の史料も参考にしてあります。 年号と出典は魏を緑、蜀を黄、呉を赤、晋を青で表示してあります。 |
| 魏 | 蜀 | 呉 | 出 典 | ||
| 220年(黄初1) | |||||
| 10月、漢の献帝が、曹丕に帝位を禅譲し、曹丕は魏を建国。年号を黄初と改める。 | |||||
| 11月、曹丕は、漢の献帝に山陽公の称号を与え、河内郡山陽県1万戸に封じ、天を祀ることを認め、すべての待遇を皇帝と同じとする。また献帝の4人の子供を列侯に封じる。曹嵩を太皇帝と追尊し、曹操に武皇帝の称号を奉る。 | 文帝紀 | ||||
| 12月、魏は都を洛陽とし、洛陽宮(北宮?)を造営。17日に曹丕は洛陽に行幸する。 | 文帝紀 | ||||
| この年、長水校尉の戴陵が、文帝曹丕に狩猟に出かけるのは良くないと諫めるが、曹丕の怒りを買う。死罪になるところを罪一等減じられる。 | 文帝紀 | ||||
| 221年(黄初2、章武1(4月より)) | |||||
| 1月、曹丕は天地の祭りと明堂の祭祀を行う。 | 文帝紀 | ||||
| 1月3日、曹丕は狩猟を行い、原陵に行き、漢の光武帝を祀る。 | 文帝紀 | ||||
| 1月4日、曹丕は太陽を祀る。 | 文帝紀 | ||||
| 1月10日、曹丕は、三公の領邑を分割し、子弟のうちそれぞれ1人を列侯に取り立てる。 | 文帝紀 | ||||
1月11日、曹丕は、潁川郡の1年間の田祖を免除する。旧都の許県を許昌県とし、魏郡から陽平郡と広平郡を設置する。長安、 、許昌、 、洛陽を5都とする。中都の地域を定め、人を集めるために租税を免除する。 | 文帝紀、魏略 | ||||
| 3月、曹丕は遼東の公孫恭を車騎将軍に任じる。また、漢の五銖銭を復活する。 | 文帝紀 | ||||
| 4月、曹丕は曹仁を大将軍に任じる。また、漢の五銖銭を復活する。 | 文帝紀 | ||||
| 4月、蜀において、曹氏が漢の皇帝を殺して即位したとの噂が流れ、家臣らに推されて劉備は皇帝に即位、章武の年号を建て蜀を建国。諸葛亮を丞相に、許靖を司徒に任じる。 | 先主伝 | ||||
| 5月、劉備、呉夫人を皇后に、劉禅を皇太子とする。 | |||||
5月、曹丕は叛乱を起こした 甘を曹仁に討伐させる。 | 文帝紀 | ||||
| 6月1日、曹丕は五岳(泰山・華山・衡山・恒山・嵩山)と四涜(黄河・淮水・済水・長江)を祭る。 | 文帝紀 | ||||
| 6月28日、曹丕は妻の甄氏を殺す。 | 文帝紀 | ||||
| 6月29、30日、魏領で日食がある。役人がこれを理由に大尉を免職にするよう上奏するが、曹丕は災異は君主を譴責するもので臣下に責任を取らせるものではない、としてこれを認めず。 | 文帝紀 | ||||
| 6月、劉備、劉永を魯王に、劉理を梁王に任じる。 | 先主伝 | ||||
| この頃、劉備、関羽のかたきとして呉への出兵を命じる。 | 先主伝 | ||||
| 6月、張飛が部下に殺害される。 | 先主伝 | ||||
| 7月、劉備、軍を総動員し、呉へ侵攻。 | 先主伝 | ||||
| 8月19日、曹丕、呉から臣下の礼を取る使者を受けて、刑貞を使者として呉に派遣し、孫権を呉王・大将軍とし、九錫を賜う。 | 8月、孫権、劉備軍を迎え撃つ役目を陸遜に命じる。魏に対し臣下の礼を取り、使者を送って、人質となっていた于禁を魏に帰す。 | 文帝紀、呉主伝 | |||
| 10月、曹丕、楊彪に光禄大夫の官を授ける。 | 文帝紀 | ||||
| この頃、曹丕、穀物の値が高騰したため、五銖銭を廃止する。 | 文帝紀 | ||||
| 11月13日、曹丕、曹仁を大司馬に任じる。 | 文帝紀 | ||||
| 12月、曹丕、東方へ巡行する。 | 文帝紀 | ||||
| この年、曹丕は、孔羨を孔子の家を継がせる宗聖侯に取り立てる。 | 崔林伝 | ||||
| この年、曹丕、陵雲台を築く。 | 文帝紀 | ||||
| この年、曹叡、斉公となる。 | 明帝紀 | ||||
| この年、馬超、驃騎将軍となる。 | 馬超伝 | ||||
| 222年(黄初3・章武2・黄武1(10月より)) | |||||
| 1月1日、日食がある。 | 文帝紀 | ||||
| 1月5日、曹丕、許昌宮に行幸。郡国に対して人士の推薦を老弱でこだわることがないよう詔勅を発する。 | 文帝紀 | ||||
1月、劉備、 帰に帰還。呉班・陳式の水軍が夷陵に駐屯する。 | 先主伝 | ||||
2月、劉備、夷道の に入る。馬良を派遣して、五谿の蛮族を慰撫させ、味方に付ける。黄権に江北の諸軍を指揮させ、呉軍と夷陵道で対戦させる。 | 先主伝 | ||||
| 2月8日、孫権、魏帝に上書し、劉備の軍勢4万が出撃したので迎撃する旨を述べる。曹丕も武功を期待する旨の返書を送る。 | 魏書 | ||||
2月、西域の亀茲・ などの国が魏に朝貢する。曹丕、西域との交流を命じ、戊己校尉を設置。 | 文帝紀 | ||||
| 3月1日、曹丕、子の斉公曹叡を平原王とし、弟の曹彰ら11人を王とする。さらに封王の庶子を郷公に、嗣王の庶子を亭侯に、公の庶子を亭伯とする制度を制定。 | 文帝紀 | ||||
| 3月10日、曹丕、子の曹霖を河東王とする。 | 文帝紀 | ||||
| 3月30日、曹丕、襄邑に行幸する。 | 文帝紀 | ||||
4月14日、曹丕、弟の曹植を 王とする。 | 文帝紀、陳思王植伝 | ||||
| 4月29日、曹丕、各地の行幸を終えて許昌に戻る。 | 文帝紀 | ||||
5月、曹丕、 ・揚州のうち江南の8郡をあらためて とし、江北を郢州とする。 | 文帝紀 | ||||
6月、 帰から十余里の所に黄色い雲気が出現。10日後、陸遜軍が劉備軍を攻撃。馮習、張南が戦死。劉備は敗走し、兵士を集めながら魚復へ帰還し、同地を永安と改める。 | 呉の総大将陸遜、軍に総攻撃を命じ、火攻でもって劉備の陣営を攻める。劉備が敗走すると、李異・劉阿を派遣し、南山に駐屯させる。 | 先主伝、陸遜伝 | |||
| 閏月、曹丕、呉に侵攻した劉備が700里に渡って陣を敷いていると聞いて、劉備の敗北を予言。7日後に劉備大敗の報が入る。 | 文帝紀 | ||||
| 7月、冀州で蝗害が起こり、飢饉となる。曹丕、杜畿を使者として送り、官倉を開いて救済する。 | 文帝紀 | ||||
| 8月、劉備、兵を率いて巫に帰還。この月、司徒の許靖が死去。 | 先主伝 | ||||
| 8月、蜀の黄権が魏に降伏する。 | 8月、大将の黄権が魏に降伏する。 | 文帝紀 | |||
8月、呉の孫権が家臣を引き連れて 刺史の夏侯尚のもとに出かけ、ついで許昌を訪れる。曹丕、承光殿でこれを歓待し、孫権を侍中鎮南将軍とし、宝物や妻妾を与える。同行した孫権の家臣らにも下賜し、42人を列侯に封じる。 | 魏書 | ||||
| 9月3日、曹丕、詔勅を発して、太后に奏上すること、后の一族が政治に関与したり領土をともなった爵位を受けることを禁じる。 | 文帝紀 | ||||
| 9月9日、曹丕、皇后に郭氏を立てる。また、天下の男子に二級ずつ爵位を授け、独り身の男女、重病者、自活できない貧窮者に穀物を下賜する。 | 文帝紀 | ||||
| 10月3日、曹丕、葬礼の制度を制定し、古の聖帝をまねて、陵墓の土盛と植樹を禁じ、自然の山林を利用することとし、首陽山の東に自らの寿陵(生前墓)の建設を命じる。 | 文帝紀 | ||||
| 10月、劉備、丞相の諸葛亮に勅を下して、成都で南郊北郊の祭祀場を造営させる。 | 先主伝 | ||||
10月、孫権が反逆したため、分置した郢州を に戻す。孫権討伐の兵を起こす。 | 10月、呉が独自に年号を建て、黄武元年とする。南下してきた曹丕の軍を長江を持って防衛する。 | 文帝紀 | |||
この頃、孫権、劉備に和を請う。劉備これを認め、 を派遣する。 | 孫権、劉備が白帝城にいることを恐れ、和を請う。 | 先主伝 | |||
| 11月11日、曹丕(文帝)が宛を訪れるが、市場が繁栄していないことを知って腹を立て、太守の楊俊を逮捕する。司馬懿、王象らが命乞いをしたが、曹丕はこれを許さず、楊俊は自殺。一説には、皇帝が宛に赴いた際、連絡の行き違いで市場の門を閉めさせたため、曹丕は腹を立てたという。 | 文帝紀、楊俊伝、魏略 | ||||
| 11月30日、日食がある。 | 文帝紀 | ||||
| 12月、劉備が病に倒れる。漢嘉太守黄元はこれを聞いて挙兵。 | 先主伝 | ||||
| この年、曹丕、霊芝池を作る。 | 文帝紀 | ||||
| この頃、劉備、李厳を永安に呼び、尚書令に任ずる。 | 李厳伝 | ||||
| この年、馬超死去。47歳。家は子の馬承が継ぐ。 | 馬超伝 | ||||
| この年、許靖死去。 | 許靖伝 | ||||
| この年、劉巴死去。 | 劉巴伝 | ||||
| 223年(黄初4・章武3/建興1(5月より)・黄武2) | |||||
| 1月、曹丕は復讐を禁じる詔勅を発する。 | |||||
| この頃、曹丕、宛に南巡台を築く。 | 文帝紀 | ||||
| 2月、諸葛亮が永安の劉備の元を訪れる。 | 先主伝 | ||||
| 3月8日、曹丕、宛から洛陽に帰還する。 | 文帝紀 | ||||
| 3月15日、月が心の大星を蝕する。 | 文帝紀 | ||||
| 3月18日、曹丕、詔勅を発して、呉に疫病が発生したため、あえて江南遠征を中止し、国境警備任務を削減し、労役を中止させる。 | 魏書 | ||||
| 3月19日、大司馬の曹仁が死去する。 | 文帝紀 | ||||
| 3月、疫病が大流行する。 | 文帝紀 | ||||
3月、黄元が 県へ進攻。 を討伐に派遣し、黄元は敗北して長江を下り、捕らえられる。黄元は成都で処刑される。 | 先主伝 | ||||
| 4月24日、劉備、永安宮で死去。63歳。死に臨み、諸葛亮に遺言し、劉禅が君主としての器がなければ、取って代われ、と述べ、馬謖を重んじるべきではないと忠告する。また子の劉永を呼び、諸葛亮を父と思って仕え、大臣らに諸葛亮と協力するようになすことを命じる。また、李厳に諸葛亮と共に劉禅を補佐するよう遺言し、中都護に任じて、永安を守るよう命じる。 | 先主伝、諸葛亮伝、李厳伝 | ||||
| 5月、霊芝池にペリカンが多数飛来。曹丕は、この鳥が、君主が賢人を遠ざけて小人を近づけるのを示していると捉え、詔勅を発して賢人を推挙するよう命じる。 | 文帝紀 | ||||
| 5月、劉備の棺が成都に戻る。昭烈皇帝と諡される。劉禅が即位。 | 先主伝、後主伝 | ||||
| 6月17日、皇弟の任城王曹彰が死去。 | 文帝紀 | ||||
6月27日、 が死去する。 | 文帝紀 | ||||
| 6月、太白星(金星)が昼間に見える。また大雨があり伊水と洛水が氾濫し被害が出る。 | |||||
夏、 太守朱褒・ の異民族の王高定が叛乱を起こす。また、これより先、益州郡で が反乱し、太守の張裔を呉に追放する。 | 後主伝 | ||||
| 7月、曹丕が東方に行幸するのに従うため軍が出発する。この時、都の郊外で天を祀る。 | 魏書 | ||||
8月11日、 を大尉に任ずる。 | 文帝紀 | ||||
| 8月、劉備を恵陵に埋葬する。 | 先主伝 | ||||
| 9月17日、曹丕、許昌宮に行幸する。 | 文帝紀 | ||||
11月、呉に 芝を送り、和親を図る。 | 後主伝 | ||||
| 12月12日、曹操の娘である山陽公(献帝)の夫人に、化粧料として五百戸を与え、公の娘の曼を長楽郡公主として五百戸の領地を与える。 | 魏書 | ||||
| この年、芳林園に甘露が降る。 | 魏書 | ||||
| この年、皇后に張飛の娘をたてる。 | 後主伝 | ||||
| この年、呉と友好関係を強化。 | 後主伝 | ||||
| この年、趙雲、中護軍・征南将軍となる。 | 趙雲伝 | ||||
| この年(5月以降)、李厳を仮節・光禄勲とし、都郷侯に封ずる。 | 李厳伝 | ||||
| この年、魏延を都亭侯に封ずる。 | 魏延伝 | ||||
| 224(黄初5・建興2・黄武3) | |||||
| 1月、曹丕は令を発し、反逆と大逆以外の密告を禁止する。 | 文帝紀 | ||||
| 3月、曹丕、許昌から洛陽へ戻る。 | |||||
春、民に農耕に努めさせ、叛乱を起こしている への関門を閉ざし、民に休息を取らせる。 | 後主伝 | ||||
| 4月、曹丕、大学を設置し、五経の試験の法を定め、穀梁博士を置く。 | |||||
| 5月、役人が公卿の朔望(1日と15日)の参朝に疑事の上奏、判断、議論を行うよう定める。 | |||||
| 蜀に張温を派遣し、前年の蜀の使者に返礼する。 | 呉志 | ||||
| 7月、曹丕、東方を巡行し許昌に行幸する。 | 文帝紀 | ||||
| 8月、水軍を作って、曹丕自ら龍舟に乗って、蔡河・潁水を経て淮水に入り、寿春に行幸。揚州の州境にいる将兵や人民のうちで、5年以下の刑にあるものを全員赦免する。 | 文帝紀 | ||||
| 9月、曹丕はそのまま広陵まで行き、青州と徐州にも赦免令を発し、また守備の将を変更する。 | 文帝紀 | ||||
| 10月6日、太白星(金星)が昼に見える。この月、曹丕は許昌に戻る。 | 文帝紀 | ||||
| 10月24日、曹丕、刑罰の軽減を論じるよう詔勅を発する。 | 文帝紀 | ||||
| 11月11日、冀州で飢饉が起こったため、使者を派遣し、官倉を開いて救済する。 | 文帝紀 | ||||
| 11月29日、日食がある。 | 文帝紀 | ||||
| 12月、曹丕、無節操な祭祀を禁じ、令を定め、祭祀の規則を法典に記すよう詔勅を出す。 | 文帝紀 | ||||
| この年、天淵池を掘る。 | 文帝紀 | ||||
| 225(黄初6・建興3・黄武4) | |||||
| 2月、文帝、使者を許昌以東の沛郡全域を視察させ、貧民を救済する。 | 文帝紀 | ||||
| 2月?、陳羣を鎮東大将軍、司馬懿を撫軍大将軍に任じる。 | 魏略 | ||||
| 孫権、太子の孫登に周瑜の娘をめとってやり、程秉を太常に任じて、呉まで妃を迎えに行かせる。 | 程秉伝 | ||||
| 3月、召陵に行幸し、運河「討虜渠」を開通。 | |||||
| 3月、諸葛亮、軍を率いて南方4郡の征討戦に出発。 | 後主伝、諸葛亮伝、諸葛亮集 | ||||
| 3月28日、文帝、許昌に帰還。 | 文帝紀 | ||||
この頃、 州の刺史梁習、鮮卑族の軻比能を撃破する。 | 文帝紀 | ||||
| 閏3月24日、文帝、水軍を整えて東方征討に出陣。 | 文帝紀 | ||||
5月2日、文帝、 に行幸する。 | 文帝紀 | ||||
| 6月利成郡の蔡方らが反乱を起こし、太守の除質を殺害。屯騎校尉の任福・歩兵校尉の段昭を派遣し討伐する。 | 文帝紀 | ||||
| 7月、皇子の曹鑒を東武陽王とする。 | 文帝紀 | ||||
8月、文帝、水軍を率いて、 を出発し、徐に行幸する。 | 文帝紀 | ||||
| 9月、文帝、東巡台を築く。 | 文帝紀 | ||||
秋、諸葛亮ら孟獲を服従させ、南方4郡を平定。平定後、益州郡を建寧郡と改め、建寧郡と永昌郡から一部を割いて雲南郡を、建寧郡と 郡の一部を割いて興古郡を設置する。 | 後主伝、諸葛亮伝、漢晋春秋 | ||||
| 10月、文帝、広陵古城に行幸し、長江を前に兵十余万の閲兵を行う。 | 文帝紀 | ||||
| 寒さが厳しく、水路が氷結して長江へ艦隊を入れられず、文帝は帰還する。 | 文帝紀 | ||||
| 11月、曹鑒が死去。 | 文帝紀 | ||||
12月、文帝、 を出発し梁に行幸。使者を派遣して橋玄を祭らせる。 | 文帝紀 | ||||
| 12月、諸葛亮、成都へ帰還する。 | 後主伝 | ||||
| 226(黄初7・建興4・黄武5) | |||||
| 1月、文帝、許昌へ行幸しようとしたが、許昌の南門が自然崩壊したために、不吉だと考えて入城せず。 | 文帝紀 | ||||
| 1月10日、文帝は洛陽へ帰還する。 | 文帝紀 | ||||
| 3月、文帝は九華台を築く。 | 文帝紀 | ||||
| 孫権、太子の孫登に周瑜の娘をめとってやり、程秉を太常に任じて、呉まで妃を迎えに行かせる。 | 程秉伝 | ||||
| 春、都護の李厳が永安より帰還し、江州に駐留して城を築く。 | 後主伝 | ||||
| 5月16日、文帝が危篤に陥って、曹真、陳羣、曹休、司馬懿を召し寄せ、後継者に曹叡を立てて、補佐するよう遺命する。後宮の淑媛・昭儀以下の宮女を自宅へ帰らせる。 | 文帝紀 | ||||
| 5月17日、文帝、嘉福殿で崩御する。40歳。即日、曹叡が即位し、大赦を行い、文帝の皇太后を太皇太后、皇后を皇太后とする。 | 文帝紀、明帝紀 | ||||
| 6月9日、文帝の遺体を首陽陵に埋葬する。 | 文帝紀 | ||||
6月14日、明帝、生母の を文昭皇后と追贈する。 | 明帝紀 | ||||
6月23日、曹 を陽平王とする。 | 明帝紀 | ||||
| この年、李厳を前将軍とする。 | 李厳伝 | ||||
大司農の秦 死去。 | 秦 伝 | ||||
| 227(太和1・建興5・黄武6) | |||||
| 孫権、太子の孫登に周瑜の娘をめとってやり、程秉を太常に任じて、呉まで妃を迎えに行かせる。 | 程秉伝 | ||||
| 春、諸葛亮、上奏文を奉り、趙雲らと軍を率いて北上し、漢中に駐屯。陽平郡石馬県に陣を置く。魏延を督前部とし丞相司馬・涼州刺史を兼務させる。 | 後主伝、諸葛亮伝、諸葛亮集、趙雲伝、魏延伝 | ||||
| 228(太和2・建興6・黄武7) | |||||
春、諸葛亮、北へ兵を進め、趙雲と 芝を囮にして曹真を攻撃させ、自らは 山に進出し、馬謖を街亭に、高詳を列柳城に派遣させる。馬謖は山上に陣を敷いたため、 に敗北し、高詳も郭淮に敗北して蜀軍は退却した。諸葛亮は馬謖を斬り、自らを右将軍に降格させ、趙雲も鎮軍将軍に格下げとする。 | 後主伝、諸葛亮伝、諸葛亮集、趙雲伝、馬良伝、襄陽記 | ||||
| 冬、蜀の諸葛亮が出兵し陳倉を攻撃したので、これを防衛。諸葛亮が退却したのを王双が追撃するが迎撃されて敗死。 | 冬、諸葛亮が軍を率い散関を出て、陳倉を攻撃するが落とす事が出来ず、兵糧が尽きて退却する。魏の王双が追撃してきたため、これを迎撃し王双を敗死させて漢中に帰還する。 | 後主伝、諸葛亮伝 | |||
| この年、諸葛瑾の次男で諸葛亮の養子となっていた諸葛喬が死去。25歳。 | 諸葛亮伝 | ||||
| 229(太和3・建興7・黄武8/黄龍1) | |||||
| 孫権、太子の孫登に周瑜の娘をめとってやり、程秉を太常に任じて、呉まで妃を迎えに行かせる。 | 程秉伝 | ||||
| 春、諸葛亮、陳式を派遣して武都と陰平の2郡を平定。 | 後主伝 | ||||
| 4月7日、孫権、帝位に就き、呉帝国を建国。黄龍と改元。蜀と天下を分割統治する盟約を結ぶ。 | 呉主伝 | ||||
| 冬、諸葛亮、平原に陣を移し、漢と楽の2城を築く。 | 後主伝 | ||||
| この年、趙雲死去。趙統があとを継ぐ。 | 趙雲伝 | ||||
| 230(太和4・建興8・黄龍2) | |||||
| 孫権、家臣の反対を押し切って、衛温と諸葛直を派遣し、亶洲と夷洲の探索させる。亶洲の発見は出来ず、夷洲(台湾)には到着するが、病人が続出し、引き上げざるを得なくなる。 | 呉主伝 | ||||
| 曹真、三道から漢川に向け進軍。 | この年、李厳を驃騎将軍とする。曹真軍が侵攻してきたので、諸葛亮は、李厳に2万の兵で漢中に向かわせ漢中の政務を任せ、李厳の子の李豊を江州都督督軍として、李厳の留守職を預からせる。李厳は李平と改名。 | 李厳伝 | |||
| 蜀の魏延が羌中に進出したため、後将軍の費瑶と雍州刺史の郭淮が応戦するが敗北する。 | この年、魏延を羌中へ派遣。魏の費瑶・郭淮と戦い、これを撃破。魏延は戦功により前軍師・征西大将軍・仮節となり、南 侯に封ぜらる。 | 魏延伝 | |||
| 231(太和5・建興9・黄龍3) | |||||
春、諸葛亮、 山に進出。李厳に軍需物資の輸送を一任する。 | 諸葛亮伝、李厳伝 | ||||
| 夏、長雨で食糧輸送が滞り、李厳は狐忠と成藩を前線に派遣してその旨を伝えさせ、諸葛亮は撤退する。戻ってきた諸葛亮に対し、李厳は食糧輸送はうまくいっているのになぜ戻ってきたのかと、諸葛亮に責任転嫁しようと図り、また後主劉禅には敵を誘い込む作戦だと上表したため、諸葛亮が李厳の書簡を証拠として提出すると、李厳は窮し食糧輸送の失敗を認める。そこで諸葛亮が諸臣と諮り、上表してその罪を明らかにし、李厳を庶民に落として、梓潼郡に流す。 | 李厳伝、陳震伝 | ||||
| 232(太和6・建興10・嘉禾1) | |||||
| 諸葛亮、兵士を休養させ、黄沙で農耕を行う。流馬木牛を作り、兵士を訓練して演習を行う。 | 後主伝 | ||||
この年、劉 と魏延が不仲となり、でまかせの発言をしたため、諸葛亮が詰問し、劉 は謝罪。諸葛亮は官位はそのままに劉 を成都へ送り返す。 | 劉 伝 | ||||
| 233(太和7/青龍1・建興11・嘉禾2) | |||||
| 冬、諸葛亮、諸軍に米を運搬させ、斜谷口に集めさせ、斜谷に邸閣を(食料庫)を整備する。 | 後主伝 | ||||
| 冬、南方蛮族の劉冑が反乱を起こしたため、馬忠がこれを平定する。 | 後主伝 | ||||
| 234(青龍2・建興12・嘉禾3) | |||||
1月、劉 の妻の胡氏が太后に年賀のため参内したところ、太后に1ヶ月も留められたため、劉 は美貌で知られた妻が後主劉禅と私通したと思いこみ、吏卒を呼んで妻をむち打たせ、顔を草履で殴り離縁した。胡氏がこの事を訴えたため、劉 は投獄され、吏卒を使っての妻への暴力を理由に市場で処刑される。この事件がきっかけで、大官の妻や母が年賀で参内する習慣は途絶える。 | 劉 伝 | ||||
| 蜀の諸葛亮が出撃し五丈原に陣を置いたため、司馬懿は渭水で対峙する。 | 2月、諸葛亮が斜谷から出撃し、武功郡五丈原に陣を置き、司馬懿と対峙する。流馬で輸送を行う。蘭坑で屯田を行う。魏延を先鋒とする。 | 後主伝、諸葛亮伝、魏延伝 | |||
5月10日、出戦しない司馬懿に魏の諸将が不満をつのらせたため、司馬懿は に 山の何平を攻撃させ、自らは諸葛亮に向かうが、諸葛亮は魏延・高翔・呉班で迎え撃ち、司馬懿は大敗し、陣に戻って立て籠もる。 | 漢晋春秋 | ||||
この頃?、司馬懿は、諸将が出戦を求めたため、上奏して出戦を求めたが、明帝は に節を持たせて出戦をやめさせる。 | 諸葛亮は、司馬懿が明帝に出戦の上奏をした話を聞き、司馬懿は元々出戦する気がなく、諸将を抑えるためにわざと君主に上奏したのだと姜維に説明する。 | 漢晋春秋、漢晋春秋 | |||
| 諸葛亮の使者が司馬懿の元を訪れた際、司馬懿は諸葛亮の日常を尋ね、その激務を聞いて、「諸葛亮はまもなく死ぬだろう」と述べる。 | 魏氏春秋 | ||||
| 8月、蜀軍が退却し始めたので、司馬懿は一旦、追撃するが、姜維と楊儀が軍を返したため、驚き引き上げる。「死せる諸葛、生ける仲達を走らす」と人々が言うと、司馬懿は「生者は相手に出来るが、死者を相手にするのは不得手だ」と答える。司馬懿は諸葛亮の陣跡を視察し、「天下の奇才である」と賞賛。 | 8月、諸葛亮、五丈原で死去。54歳。蜀軍は退却するが、魏延と楊儀が指揮権をめぐって争い、魏延は敗死。成都に帰還後、大赦が行われ、左将軍の呉壱を車騎将軍・仮節・漢中都督に任ずる。蒋 を尚書令とし国事を統括させる。諸葛亮を定軍山に葬る。 | 漢晋春秋、諸葛亮伝、後主伝、諸葛亮伝 | |||
| 235(青龍3・建興13・嘉禾4) | |||||
| 1月、中軍師楊儀が罷免され、漢嘉郡に流される。 | 後主伝 | ||||
4月、蒋 を大将軍とする。 | 後主伝 | ||||
| この年、陳震死去。 | 陳震伝 | ||||
| 236(青龍4・建興14・嘉禾5) | |||||
4月、劉禅、 県に赴いて観阪に登り、 水を見学。10日後に成都に戻る。 | 後主伝 | ||||
武都の 族の苻健王と民400戸を広郡に移住させる。 | 後主伝 | ||||
| 237(青龍5/景初1・建興15・嘉禾6) | |||||
| 司徒と司空が空席になる。崔林が司空に推されて、後に就く。列侯に封じられ、三公の貴族化の先例となる。 | 崔林伝 | ||||
| 6月、皇后の張氏が死去。 | 後主伝 | ||||
| 238(景初2・延熙1・嘉禾7/赤烏1) | |||||
| 1月、先年亡くなった張皇后の妹を新たに皇后とし、大赦を行い、年号をあらためる。劉濬を太子とし、劉揺を安定王とする。 | 後主伝 | ||||
| 4月、任ぜられて間もない司徒の韓曁が死去する。 | 韓曁伝 | ||||
11月、大将軍蒋 が出陣し、漢中に駐屯する。 | 後主伝 | ||||
| 239(景初3・延熙2・赤烏2) | |||||
3月、蒋 を大司馬とする。 | 後主伝 | ||||
| 240(正始1・延熙3・赤烏3) | |||||
春、 太守の張嶷に、 郡を平定させる。 | 後主伝 | ||||
| 241(正始2・延熙4・赤烏4) | |||||
10月、費 が漢中に赴き、蒋 と計策を協議するが、年末に帰還。 | 後主伝 | ||||
| 242(正始3・延熙5・赤烏5) | |||||
1月、姜維が1軍を率い、漢中より 県に帰り駐屯する。 | 後主伝 | ||||
| 243(正始4・延熙6・赤烏6) | |||||
10月、蒋 が漢中より帰還し、 にとどまる。 | 後主伝 | ||||
11月、大赦が行われ、費 を大将軍とする。 | 後主伝 | ||||
| この年、趙儼を西方から呼び戻し、驃騎将軍・司空に任じる。 | 趙儼伝 | ||||
| この年、諸葛瞻、公主を娶り、騎都尉に任ぜられる。 | 諸葛亮伝 | ||||
| この年、董允を輔国将軍とする。 | 董允伝 | ||||
| 244(正始5・延熙7・赤烏7) | |||||
| 光禄大夫の裴潜が死去。太常を追贈される。 | 裴潜伝 | ||||
| この年、諸葛瞻、羽林中郎将となる。 | 諸葛亮伝 | ||||
この年、董允を侍中守尚書令のまま大将軍費 の次官とする。 | 董允伝 | ||||
| 245(正始6・延熙8・赤烏8) | |||||
| 246(正始7・延熙9・赤烏9) | |||||
11月、蒋 が死去。劉禅が国事を見るという。 | 後主伝、魏略 | ||||
董允死去。その後、代わって陳 が侍中となり、宦官の黄皓と協力するようになる。 | 董允伝 | ||||
| 247(正始8・延熙10・赤烏10) | |||||
| 248(正始9・延熙11・赤烏11) | |||||
| 249(正始10/嘉平1・延熙12・赤烏12) | |||||
| 250(嘉平2・延熙13・赤烏13) | |||||
| 251(嘉平3・延熙14・赤烏14/太元1) | |||||
| 樊建を校尉の資格で呉に使者として派遣。孫権は重病で面会できず。 | 諸葛亮伝 | ||||
この年、呂乂死去。陳 が鎮軍将軍の官を加えられる。 | 呂乂伝、董允伝 | ||||
| 252(嘉平4・延熙15・太元2/神鳳1/建興1) | |||||
| 253(嘉平5・延熙16・建興2) | |||||
| 254(嘉平6/正元1・延熙17・五鳳1) | |||||
| 255(正元2・延熙18・五鳳2) | |||||
| 256(正元3/甘露1・延熙19・五鳳3/太平1) | |||||
| 257(甘露2・延熙20・太平2) | |||||
| 258(甘露3・景耀1・太平3/永安1) | |||||
陳 死去。後主劉禅、子の陳粲に関内侯の爵位を与え、陳裕を黄門侍郎とする。 | 董允伝 | ||||
| 259(甘露4・景耀2・永安2) | |||||
| 260(甘露5/景元1・景耀3・永安3) | |||||
| 261(景元2・景耀4・永安4) | |||||
| 諸葛瞻、行都護衛将軍・平尚書事となる。輔国大将軍の董厥、平尚書事となる。 | 諸葛亮伝 | ||||
| 262(景元3・景耀5・永安5) | |||||
| 263(景元4・景耀6/炎興1・永安6) | |||||
| 春、詔勅によって諸葛亮の霊廟を眄陽に建設させる。 | 諸葛亮伝 | ||||
| 秋、魏の鍾会、漢川まで来ると、諸葛亮廟を詣で、諸葛亮の墳墓の近くで勝手に草を刈ったり薪を取ったりすることを禁じる。 | 諸葛亮伝 | ||||
11月、魏の別働隊 艾の軍勢が陰平から景谷道へ侵入し、緜竹県で諸葛瞻軍を撃破し、成都へ進軍。後主劉禅は降伏。 | 冬、魏の 艾の軍勢が陰平から景谷道へ侵入し、諸葛瞻、迎撃のために に駐留するが、先鋒軍が敗北したため退却し、緜竹県に駐留。 艾から降伏を求める使者が来たため、これを斬り、 艾軍を攻撃したが大敗し諸葛瞻・諸葛尚・張遵は戦死。 艾軍はそのまま成都まで進撃し、後主劉禅は降伏し、蜀は滅亡する。 | 後主伝、諸葛亮伝、張飛伝 | |||
| 264(景元5/咸熙1・永安7/元興1) | |||||
| 春、元蜀の政治家董厥・樊権ら洛陽に行き、相国参軍となる。 | 諸葛亮伝 | ||||
| 秋、董厥と樊権、参騎常侍を兼任し蜀の人の慰撫にあたる。 | 諸葛亮伝 | ||||
| この年、諸葛亮の次男諸葛京と諸葛攀の子の諸葛顕、劉封の子で牙門将の劉林、魏に移る。 | 諸葛亮伝、劉封伝 | ||||
| 265(咸熙2/泰始1・元興2・甘露1) | |||||
| 12月、晋王司馬炎、魏帝曹奐に迫り、皇位を禅譲。司馬炎は帝位に就き(武帝)、魏は滅び、晋帝国が樹立。 | 晋書武帝紀 | ||||
| 265(泰始2・甘露2/宝鼎1) | |||||
| 265(泰始3・宝鼎2) | |||||
| 265(泰始4・宝鼎3) | |||||
| 265(泰始5・宝鼎4/建衡1) | |||||
| 265(泰始6・建衡2) | |||||
| 271(泰始7・建衡3) | |||||
| 晋の制度作成を担当した司空の裴秀が死去。元公と諡される。 | 文章叙録 | ||||
| 272(泰始8・鳳凰1) | |||||
| 273(泰始9・鳳凰2) | |||||
| 274(泰始10・鳳凰3) | |||||
| 275(咸寧1・天冊1) | |||||
| 276(咸寧2・天冊2/天璽1) | |||||
| 277(咸寧3・天紀1) | |||||
| 278(咸寧4・天紀2) | |||||
| 279(咸寧5・天紀3) | |||||
| 不準が魏の襄王(春秋戦国の王)の塚を堀り、竹簡の書物(『竹書紀年』)を発見する(281年?)。 | 晋書武帝紀 | ||||
| 280(咸寧6/太康1・天紀4) | |||||
| 3月、晋の軍勢が呉の都に迫り、呉の皇帝孫晧の降伏を受諾。 | 皇帝孫晧、晋の大軍が目前に迫ったため、降伏を申し出る。晋の軍勢はこれを受諾し、呉は滅亡。 | ||||
| 4月、晋は太康と改元。5月、孫晧を帰命侯とし、洛陽へ送る。 | |||||
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