古今東西絶句帳


010  まだ早い (日常生活での笑い話)

 『菊五郎百話』からの紹介がつづいたので、今回は『巷談宵宮雨』などでしられる劇作家宇野信夫が綴る六代目の横顔である。
 六代目は明治十八年に生まれて、昭和二十四年になくなった。文字通り明治大正昭和の時代をいきた役者であった。病床に伏した六代目を二代目河原崎権十郎が見舞ったときのエピソードである。



 先代の権十郎は平素「話にならない」というクセがあった。例えば「暑いね」というと、「話にならない」「景気はどうです」と言うと、「話になりません」
 だいぶ容体が悪くなってから、その権十郎が見舞にきて「いかがです」というと、六代目は薄眼をあけて、権十郎の方を見た。そして、
「権ちゃんかい、話にならないよ」と言ったそうだ。
 亡くなる数日前、元の支配人の牧野老が見舞に行った。その時はもう口もきかれないような状態なので牧野老は六代目の手をとって、泣いてしまった。まわりの人も、泣いた。すると六代目は小さな声で、
「まだ早いよ」と言った。
 命の瀬戸ぎわにのぞんでも、六代目という人は、そんなうまいセリフを言う人であった。
 (宇野信夫『歌舞伎役者』より)



 もうひとつ、戒名についてのはなしである。



青山の団十郎の墓に詣でた時、六代目はそばの者にむかって、
「お前は親の戒名がソラで言えるか」
 ときいたところ、ソラで言える人は、殆どいなかった。
「これだから戒名などというものはいけない。あれは坊主の金儲けから割り出したものだ。己が死んだら戒名は六代菊五郎で結構だ」
「六代菊五郎じゃああんまりあっさりしすぎます。その下に居土とつけたらどうでしょう」
「それじゃあ六代菊五郎居士とでもするのだな」
「やっぱり院号がないと戒名になりません」と言うと、
「そんなに院号がつけたかったら、おれは芸術家だから、芸術院とでもするんだな」
 この時の意を体して、六代目の戒名は「芸術院六代菊五郎居士」としたのである。芸術院にあたり障りがあってはならないから、芸能院とでもしようかという説もあったが、人を介して文部省に問合わせると、芸術院は、正確には日本芸術院であるから差支えないだろうということであった。
(宇野信夫『歌舞伎役者』より)



009  六代目のトチリ帳 (舞台の上の笑い話)

 六代目の弟子たちは舞台上のトチリばなしを漫画入りで書きためておいたらしい。とうぜん、六代目もそれを読んでおもしろがっていたようが、悲しいことに大正十二年九月の関東大震災で焼けてしまったという。
 いまさらわたしが嘆いても仕方がないのだが、いろいろな資料を読んでいると、この震災で歌舞伎関係だけでも大変貴重な本や日記、手紙、衣装などが灰燼に帰している。もしそれらがのこっていたら、江戸から明治にかけての豊穣な歌舞伎世界をかいま見せてくれたことであろう。
 さて、震災当時の六代目に関してはべつの機会にふれるとして、その燃えてしまった音羽屋のトチリ帳を記憶の中から再現したのがつぎの菊五郎のことばである。




 神田三崎町の東京座で、『義経干木桜』の四の切が出た時、團三郎の川連法眼役が手紙を持って出る事を忘れて、『心引き見る此贋状』という所で、懐中を探してもそれがないので、慌てながらも急場の間にあわせに、袖口から越中褌の端を引き出して濱夕に示し『これを見よ』と胡麻化したのを、濱夕の役者が鼻をつまんで、『きたねえ手紙だ』といいました。 
 まだおかしいのは、市村座で『先代萩』の出た時、序幕に花水橋の場があって、ここヘ勘蔵始め覆面の侍が大勢出て、頼兼を闇討ちにしようと打合わせて、いづれも小蔭へ身を隠すという所で、いつもは勘藏の台詞に、『向うへ見える提燈は』というと、一同が『たしかに頼兼』というのを、ある日の事『向うへ見える頼兼は』といった爲に、大勢の侍が仕方がなく声を揃へて、『たしかに提燈』といいましたよ。これなどはかなりおかしいものでした。
 (川尻清潭『六世菊五郎百話』より)





008  六代目のいたずら その2 (日常生活での笑い話)

 六代目のいたずらを紹介していたらきりがないのだが、とりあえずもうひとつ。
 明治十八年生まれの六代目は当然、小学校に通っている。しかし、その当時はいまのようなきちんとした学区制度もなく、公立私立が入りみだれ、こどもたちはそれぞれおもいおもいの学校に通っていたようだ。私立の小学校は先生がひとりという、昔の寺子屋のようなところもあったらしい。
 現在の築地周辺に住んでいた歌舞伎役者のこどもたちは、近くの丸山学校、文海学校、などに通ったが、六代目はそのほかに宝田学校にも通っている。しかも、ずべての小学校でいたずらが過ぎて退校になったらしい。本人の弁である。




 その退校の理由というのが、始めの学校では先生の弁当箱の中へ小便をしたのが失敗でした。次ぎが教揚の道具を叩きこわしたり、窓硝子を打破ったりして勿論失敗です。その次ぎは机を焚火に燃してこれも同じく大失敗。更にその次ぎに至っては、黒板へ白墨で先生の顔を書いて、紙を噛んでその顔へぶつけて、鼻の頭へ当たった者が高点を取りッこしていたのを、御本人の先生に見付けられてしまったのだからたまりません。六七人でこの遊びをやっていただけの生徒が皆んな退校を命じられたのです。
 退校もこう度々になって来ると、家の者の小言の方も、その度毎にきびしさを増して、私を懲りさせる仕置はますます烈しくなる、最後には物を喰べさせないで、土藏の中へ入れられたものでした。
 初めの間こそ泣いたり謝ったりしましたが、それでも許されないとなると、決してじっとしてはいません。幸ひ家の土藏の中には、方々から貰った菓子折が沢山ありましたから、手当たりしだいに折の蓋を開けては、うまそうな物から順々に食べて行って、腹がくちくなると、今度は棚に積み重ねてある、箱入の道具類をどれでもかまわずに放り出すのです。それが掛物や金具のような物ばかりなら壊れもしませんが、中には親父が秘藏の陶器などもあるわけで、静まり返っていた土藏の中が、俄にガタガタと騒々しくなるので、『又何か始めたらしい』、と見に来るとこの始末なのですから、驚いてすぐに土藏から出されるという段取になるのです。
 (川尻清潭『六世菊五郎百話』より)





007  六代目のいたずら (日常生活での笑い話)

 六代目は五代目菊五郎の実子だが、踊りだけは九代目團十郎にじっくりと仕込まれた。そのことを多少意図的に吹聴した気配を感じるのだが、それはともかく六代目の昔ばなしに團十郎とすごした茅ヶ崎の別荘の思い出がよく登場する。男の子のいなかった團十郎は六代目とその弟の栄造(後の六代目坂東彦三郎)をわが子のようにかわいがり、夏になると妻や娘や弟子たちとともに茅ヶ崎に避暑にでかけた。そこで六代目兄弟は踊りだけでなく、習字や釣りなど様々な教えをたたき込まれたのである。
 そんな茅ヶ崎での一こまにわたしの大好きなエピソードがある。語るのはもちろん六代目である。



 茅ケ崎にいたある日の事、私が便所へ入ろうと思って、戸を開けると先きに人が入っていたのを、てっきり家の弟子の音平だとばかり思って、私が平手ヘウンと力を入れて頭のてっぺんを押したのです。そうすると『誰だ』といった声が團十郎ぢやアありませんか。しかも團十郎は、私に力強く押されたので、きんかくしの中へ尻餅を突いてへたばってしまった訳ですから、南無三しまッたと思ったが、やってしまつた事は仕方がない。一目散に座敷の方へ逃げて来ているとやがて便所から出て来た團十郎が、今のいたづらは誰だという取調べなのです。もうこうなっちやア仕方がないと覚悟をきめて、いさぎよく、『僕です、御免なさい』と白状をして謝って『僕は音平だと思ってやったのです。團十郎(おじさん)が入っているとは知らなかったのです』というと、『馬鹿ッ、弟子でも誰でもあんな事をしてはいけないぞ』とやっつけられたのですが、全く誰でもいけませんや、その時ばかりは引込みがつきませんでしたね。
  (川尻清潭『六世菊五郎百話』より)





006  馬医者菊五郎 (日常生活での笑い話)

 五段目の話題はひとまずおいて、つぎに六代目のはなしを紹介しよう。歌舞伎の世界では六代目といえば、六代目尾上菊五郎のことを指す。それだけ傑出した役者であった証拠であろう。現代の歌舞伎役者の大半は、この六代目の影響を受けているといっても過言ではない。
 六代目の特徴をひとことでいえば、リアリズムということになるだろうか。安易に従来の型通り演じるのではなく、その役になりきるために様々な工夫をこらした。
 父五代目菊五郎が初演し、大好評を博した『塩原多助』をはじめて演じたときも、「チョボにつく芝居を嫌って写実」で通したらしい。渥美清太郎の評伝には「チョボにつかない写実の芝居は、着物を着て湯に入るような気持ちで見ていて実に困った」と書かれている。
 つぎのはなしは、もっとのちに多助を演じたときのエピソードであろうが、なにごとにも凝り性な六代目の性格がよくあらわれている。



 芝公園の菊五郎の家の前には、かつて人殺しのあった時に血の附いたという電信柱が、その痕を削られて一入(ひとしお)目立っている所へ、ある夏の日中に日射病に罹った馬が、又その柱へぶつかって倒れたのを、物好きの菊五郎が早速に飛出して来て、馬の口に水を含ませるやら、頭へ氷を結附けるやらの大働き、そうして馬の耳に念仏はまだ早いと、声に力を入れて舞台口調に、「コレ馬よ、私は塩原多助を勤めた菊五郎でがんす、われ早く癒ってくんろ」。  (川尻清潭『六世菊五郎百話』より)




 最近はこの演目がでることもないので、はなしをしらない人のために野暮を承知で説明をくわえるが、多助はちいさい頃から手塩にかけて育てたアオという馬を持っていた。そのアオがその日に限って多助と一緒に歩もうとしない。

 「アレどうしただ、サア歩いてくんろよ」

 多助がうながしても、アオは動こうとしない。そこに同じ村に住む円次郎が通りかかり、かれが引くとアオは歩く。

 「アレ、歩くようになったかね。有難うがんした。こんな横着なやつァがんせんよ」

 しかし多助がひくとアオは後ずさる。結局円次郎がアオをひいてたんぼ道を先にゆくと、 悪者が物陰から円次郎を多助と間違えて槍で突く。アオはこの危険を察知して、多助がひいても動かなかったのだ。女房たちが自分をじゃまにして殺そうとしたことをしった多助はアオを置いて故郷をあとにする。

 「おおアオよ、われ泣いてくれるか……アオよ辛かんべえが辛抱してくんろ。アア、いつまでいっても名残りは尽きねえ、アオよ、これが別れだぞよ。」

 このアオと多助の別れが、名舞台として語り継がれているわけだが、そのときに多助がつかう上州訛り、「くんろ」とか「がんす」言葉がまた話題になった。とくに初演時の五代目菊五郎は江戸前のいなせな役者としてしられていたのだから、そのギャップはおおきかったのだろう。こうした前提をしった上で、六代目のエピソードをよむと、なんともいえずおかしさがこみ上げてくる。



005  くさい勘平 (地方巡業の笑い話)

五段目の悲劇は暗闇ゆえにおきたともいえる。与市兵衛はまさか、腰を下ろしたうしろの稲叢に悪党がひそんでいるとはおもいもよらなかただろうし、勘平も猪と定九郎を間違えて撃つこともなかったであろう。夏の夜の闇、さらにその日は雨が降り続いていた。  雨を象徴しているのが、勘平がつけている蓑である。現代の雨具とくらべて貧弱さはいなめないが、それでもないよりはましであったのであろうか。農村では明治にはいっても蓑や笠はまだまだ実用品であったらしい。
 そんな時代の地方巡業でのはなしである。七代目市川團藏が高崎で興行をうち、その後弟子たちでさらに田舎をまわったとき、五段目の舞台でおもわぬ悲劇が役者たちを襲った。



 『忠臣蔵』で喜猿が「蓑と笠がいる」といいますと、世話人が、「蓑や笠なら何百枚でも持ってきます」「イヤ勘平で着るのだから一枚で好い」「よろしゅうございます」と受け合ったまま、なかなか持って来ない。五段目は弥五郎との出会がなかったので、幕があいてから蓑を着ようと思うとない。「オイ蓑はどうした」というと世話人が、「アア忘れた今直ぐ持っていきますから、花道へいって下さい」と、裏の方へ走っていきました。
 そのうち、定九郎が死んで勘平の出になったので喜猿が、「早く蓑を持って来い」とせきたてている所へ、ようやく持って来たので手を通して、急いで花道から駆け出して、いつもの七三で極まると四辺(あたり)の見物が、「ああ臭い臭い」「コリャ臭い勘平だ」などというのが耳に入ったので、ムッとして、(何をいやァがる、今出たままで、別に気障に当て込みもしないのに、臭いもまずいも分かるものか、この百姓め)と思いながら、火縄を振って下手へ来て火が消え、松の木のもとへ蓑をぬぎ、鉄砲を乗せて蓑を巻くと、手にグシャリとついたものがある、ハテナとよくよく見ると人糞です(世話人が急いだため、畑で肥料をやっていた百姓の蓑をぬがしてきたのです)。なるほどこれは「臭い勘平」だわいとおかしく思ったのですが、そのての始末に困り、そのまさぐり寄って種五郎の定九郎の顔へぬりつけたので、死人が思わず声を出して「アウプウ、コリャ臭い」。
  (市川團藏『七世市川團蔵』より)

 ※ 職業差別ともとれる発言がありますが、当時の状況をそのままお伝えすることが本稿の意図でもありますので、そのまま掲載しておきます。



004  四段目の猪 (舞台の上の笑い話)

 今回も『忠臣蔵』の笑い話を紹介しよう。五段目ではいちばん運がよかった猪だが、中にはいる役者にとっては、この猪はよい役とはいいがたい。なにしろ顔はみえないし、馬の脚のように特別手当がでるわけでもない。出番はわずか数秒、しかも客席からはかならずといってよいほど失笑がもれる。どうみても好んでする役ではないようだ。

   さて、『忠臣蔵』四段目の判官切腹の場は昔から「とうさん場」ともよばれて、芝居茶屋の出方の出入りを禁止するほど特別な場面としてしられていた。劇場中しわぶきひとつせず、判官の無念さをわがものとしてかみしめる。諸氏(しょし)とよばれる判官の家来たちも、たとえ舞台袖の客席からみえない位置にすわっても、全員が涙を流さんばかりに主人の死を悼む。そんな厳粛な四段目でおきた珍事である。



 昔、といっても、舞台と楽屋が背中合せになってたというんですからずいぶん昔の頃の話でしょうが、やっぱりこの『忠臣蔵」の猪で、猪役者が楽屋で昼寝をしてた。そのうちにわかに舞台のほうが騒がしくなって、「シシ、シシ」って口々に言ってる声がする。南無三宝トチッちゃあ大変だてんで、いきなり縫ぐるみを引っ担いで、揚幕へ飛んでってよくも見ないで、一散走りに駆け出した。ところが、舞台は今や判官切腹の真っ最中で、そこへ猪が出てきましたからとうとう一段メチャクチャにされちまったというんです。「シシ、シシ」って聞えたのは、四段目に出る諸士を「ショシショシ」って呼んでたのを聞き間違えたわけです。
(千谷道雄『秀十郎夜話』より)



003  湯殿で放つ二つ玉 (楽屋での笑い話)

 前回紹介したのは、あまりお目にかかりたくない「二つ玉」であったが、本来の『忠臣蔵』五段目の二つ玉とは、勘平が猪めがけて撃った二倍の火薬をつめた鉄砲の弾のことである。ただし現在の菊五郎系の演出では、この「二つ玉」を文字通りに解釈して、揚幕の中と花道の二回、鉄砲を撃つことになっている。七三で鉄砲を撃つ形をみせたがった五代目菊五郎がはじめたらしい。こまった型である。

   今回紹介するのは、純粋に二回放たれた「二つ玉」のおはなしである。被害者は三代目中村歌六、中村勘九郎さんのおじいさんである。明治から大正初期にかけて活躍した役者で、吉右衛門、時蔵、勘三郎という三人の名優を育てた功績はなにものにもかえがたい。現在の播磨屋、萬屋、中村屋はすべて歌六の子孫だし、高麗屋も外孫ではあるが、血はつながっている。『浪人街』で話題の松たか子さんも中村獅童さんもその子孫なのだ。
 大阪生まれの歌六(当時は時藏を名乗っていた)が、九代目團十郎によばれて、兄とともに上京したのが明治六年。しかし、つまらぬことから團十郎や菊五郎と対立して一緒の舞台に立つことができず、二流の劇場や地方廻りを余儀なくされた。ようやく日の目があたりはじめたのは團菊がなくなって、長男の吉右衛門が注目されはじめた明治末期のことである。 



 歌六が、前名の時蔵時代、今からやがて三十年前にもなりましょう、京都の歌舞伎座が舞台開きの時だそうです。播磨屋当年の人気盛りで、得意の出し物に喝采を博し、一役済ませて楽屋風呂へ行った時におこったのが、此の屁の事件でした。
 楽屋の風呂は、名題俳優の入るのと下廻りの入るのと二ツになっているのですが、その時名題風呂の方がすてきに熱かったので、時蔵は下廻りの風呂の方へ入って、
 「あゝいゝ湯やな。」
 とゆっくり浸かりました。時蔵は若い時から疝気が持病でぬるい湯に長々と入って  いるのが慣れになっていたそうで、あたまへ濡手拭を畳んでのせ、眼を閉じていかにも快い心持よさそうに入っていたのですが、そこへ手拭をブラ下げて鼻唄か何かでやって来たのが下廻りのなにがし、風呂に誰か入っているとはもちろん気がついたが、手拭をあたまへのせているし、まさか播磨屋の親方が下廻りの風呂に入っていようとは思わない、そこでその下廻りは、舞台でこそ大名になって並ぶ事もあるが、自分の体になればぞんざい者ですから、ものにはばかりはありません。風呂の前にしゃがんで湯を浴びながらその愛嬌者を一発、然もすてきなやつを放したのでした。
 風呂の中で眠くなる程快い心持になっていた時蔵は、その砲発でビックリして眼を開きましたが、こごとをいうのもかわいそうだと、苦笑いをしながら、
 「ホウすばらしいもんやなア。」
 と、こう大まけにまけていいました。するとその下廻りは、どこまでも同じ仲間の並び大名と思い込んでいるのですから、さらに調子づいたわけで、
 「このくらいなのが何ですばらしい、こりゃホンの揚幕の内や、五段目の勘平ちゅう所で花道へかゝった一発放したろか、ソラえゝか二ツ玉の強薬切って放てばあやまたず……。」
 と勘平の台詞か何かいいながら、凄いやつをもう一発放して、
 「どうや、五段目の勘平の息込みはこれやハヽヽヽヽ。」
 と大得意で風呂へ躍り込んだものです。
 元来潔癖の時蔵ですから堪りません、あたまの手拭を取って立ち上がると、
 「阿保ッ。」
 とばかりカンカンに怒って、その下廻りの横ッ腹を蹴りつけると、裸体のまゝで風呂場を飛び出し、部屋へ入ったが体から湯気の立つまんまで、
「頭取を呼べ頭取を呼べ。」
 と眼の色を変えて呼びつけました。
 「親方、何か御用で……。」 
 「御用も何もあった事かい、わしが今風呂へ入っていたら、鼻の先でエライやつを二ッ放して、勘平の息込みはこれやと威張った奴があるのや。」
 「エライやつを二ッと申しますと。」
 「屁やッ。」
 と、時蔵は怒り切っている調子で云ったのですが、どうもその屁という事がおかしい、頭取もまた面食らいはしたが、これまたおかしい。
 「そら、とんだこッて。」
 といったが、思わず、
 「ウプッ。」
 とフキ出しました。
 「わしが屁を放されたのが何がおかしい。」
 と時蔵はムキになって云ったものゝやっぱりおかしくッて、これまた、
 「ウフヽ。」
 とフキ出してしまいました。
 ところへ、屁二発でクビになり兼ねない、とんだものを放したものだと、シオシオしながら入って来たのはその下廻りです。
 「な、な、何ともハヤ……。」
 と部屋の隅ッこに、縮み固まった様子に座って平蜘蛛の如くヘタ張っていいますと、既に時蔵もおかしくなってフキ出してしまったくらいですから、もう怒る気も抜けています。怒りがぬければそこは流石に播磨屋の親方です。
 「アハヽヽよしよし心配するな、わしがお前たちの風呂へ入ったのが悪いのや、然し、役者は色気がなきゃいかんぜ、気ィ着けろや。」
 とやさしく云って、なにがしか紙に包んでその上へ、
 二ツ玉の屁ン礼
 と記して出しながら、
 「これで一杯飲んでくれ。」
 と大きな腹を洒落のめして見せましたが、恐縮そのものゝ態で、汗を拭き拭き有難く頂戴に及んで頭取と下廻りが立ち上がろうとする時、親方思い出した様に、
 「まったく強薬やッたな。」
 とつくづく感心の態でいいました。
(『演藝画報』昭和3年3月号)



002  与市兵衛はみた (素人芝居の笑い話)

 もういちど定九郎の見得にまつわるはなしである。明治にはいると、素人が余興で芝居を演じることが、ひとつのブームになったようだ。もちろん、江戸の昔から農村を中心に村芝居は盛んに演じられていた。本格的な舞台を今にのこしている地方も少なくない。しかし、江戸や大坂などの大都市では舞台にあがるのはやはり役者に限られていたようだ。
 演じてみたいというのは、人間の本能なのかもしれない、ひごろ歌舞伎の舞台を見馴れている連中は、役者の声色だけでは満足できず、同好の士をつのって舞台に立ったのである。
 つぎに紹介するのは、江戸戯作者松亭金水の門弟があつまって、『忠臣蔵』を演じた時のエピソードである。定九郎役を買ってでた梅亭金鵞というおとこにある悲劇がおそった。



 山崎街道の幕が開いて与一兵衛が出て来る、定九郎が追って来て財布を奪い、斬り殺して見得をする時に、此処ぞ見物のドッと来る処だと両足を割って念入りに睨むと、舞台の前にいる人がワアと声を揚げる、遠くの人もワアワア沸き出して場内は急に賑やかになったので、梅亭は「受けたナ」と得意になってまた同じ所作を繰り返すと、今度はウワアとみんな笑い出したので極りが悪くなり、鉄砲のところも気の抜けた形をして役を済まし楽屋へ入って来ると、与一兵衛老人が転げて笑っている。定九郎変な顔をして「どうしたのだ」と言うと、「どうしたどころか苦しくって弱った。お前は気がつかなかったのかい。死んで倒れている俺は可笑しくて可笑しくてたまらなかったが、ウッカリ笑い出したら、殺された人が蘇生したと笑われるだろうと我慢したが、何故フンドシを好く締めなかったのだ」
 といわれて定九郎初めて心づき「アア、そうか、此奴ァ失敗した」と頭を抱えて笑い出したのは珍しい二つ玉の五段目であった。
 (鶯亭金升『明治のおもかげ』より)



001  定九郎の見得 (舞台の上の笑い話)

 まずはつぎの川柳をみてほしい。

 五段目で運がいいのは猪(しし)ばかり    (「いろは藏新柳樽」)

 この川柳をみてニンマリしたあなたは立派な歌舞伎通。なんじゃこりゃ、とおもわれたあなたにちょっとしったかぶりの解説を。

 この「五段目」は『仮名手本忠臣藏』の五段目のことである。お家の一大事がおきているとも知らず、恋人お軽との楽しい逢瀬に時をわすれた勘平は、大騒ぎの城内に戻ることができず、あまりの面目なさにお軽とともに塩谷家を出奔。いまはお軽の故郷、京の郊外で狩人をして暮らしている。松の廊下の刃傷、そして判官切腹という悲劇から一年あまりが経過した雨降る夏の一夜が舞台となる。
 この五段目に登場するのは、勘平とかつての同輩千崎弥五郎、お軽の父与市兵衛にこれもかつては塩谷家に仕えていた斧定九郎の4人だけ。そうそう、もう一人ではなくもう一匹、忘れてならないのが猪である。一気に結論を言ってしまうと、勘平はその後腹を切り、弥五郎は討ち入りを果たした後に切腹。与市兵衛は定九郎に殺され、定九郎は勘平に猪と間違えられて撃ち殺されてしまう。つまりこの五段目に登場人物する四人と一匹のうち、生きのこったのは猪だけなのである。しかも鉄砲を撃たれても弾はあたらなかったのだから、運のよいことおびただしいというわけだ。

 さてこの五段目でもっとも印象的な人物は猪のかわりに弾にあたってしまった定九郎だ。もともとの文楽台本では、どてら姿の山賊で、五十両の金を懐にして我が家へといそぐ与市兵衛をうしろから追いかけてきて、金を奪うさえない役であった。それを江戸中期の名優中村仲蔵が白塗りのいきな浪人姿に扮して大喝采を浴びて以来、若手の二枚目役者が演じるようになっている。しかも、雨宿りする与市兵衛のうしろの稲叢からぬっと手をだし財布をつかみ、その脇腹を抉ってからはじめて観客の前に登場するかっこよさ。チチチチチチという蜩三重の三味線の音をバックに、財布を口にくわえ、黒羽二重のすそで血に染まった刀を拭う姿は色敵のあやしい魅力にあふれている。そして台詞はたったひとこと、「五十両」だけ。

 はなしは明治末期のことである。劇聖とよばれた九代目團十郎が亡くなり、その弟子の市川新十郎は六代目菊五郎や、七代目三津五郎、吉右衛門たち当時の若手が中心となった市村座のお師匠番としてにらみをきかせていた。それぞれの役を日替わりでかわって演じた『忠臣藏』で、トラブルが起きた。だれがこの定九郎を演じても、新十郎からダメがでるのだ。どうやら例の刀を拭うところでみんなが見得をすることが気に入らないらしい。師匠(團十郎)は見得などしなかったというのが、新十郎の主張だ。そこで……。



 六代目始め皆定九郎は落第なので、六代目が一日だけ小山(新十郎の本名)に演って貰おうじゃないかと言い出して、新十郎が定九郎を演る事になりました。さあ、その日は新十郎を観るために、楽屋総出で五段目の舞台を睨んでおりました。と、新十郎がいつもの型通り稲叢から出て、左の足をふみ出して忍び三重で刀を拭うと、六代目が「あっ小山、見得をしているじゃねえか」。皆が「見得をしている」「見得をしている」と大騒ぎになり、幕になると六代目が「小山、お前だって見得をしたじゃねえか」というと、新十郎が頭をかいて「どうも彼処は見得をしたくなりますねえ、それを師匠は演ないのだから、偉いものですね」と言ったので、みんな大笑いになりました。
(坂東三津五郎『父 三津五郎』より)











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