|
神田大火の焼跡だった錦町へ家を新築して引移りました。ところが焼野原の一軒家なので毎夜賊につけられ、門弟が二人ずつ交替で見回ることになりました。そのこしらえが芝居がかりで黒装束に黒覆面、芝居の小道具から借りた木刀を差し、龕燈(がんどう)を持っているので、二人が出くわしたときは、「今晩のお役目ご苦労に存ずる」と時代にいわねばうつらぬようでした。この見回りは、形は物々しいが人影でも見えると直ぐ内へ逃げ込みます。家の中では父(七代目團藏)が、みしりッとでも音がすると、床の中で大声に「先生泥棒が来たようです」といい、直ぐ鼻をつまみ、「大丈夫、おれがここにいる」と、剣術の先生の声色をつかっていました。 ある夜半に女中が便所へいくと、賊は便所の窓の戸をはずし、這入りかけ双方顔を見合わせびっくりしたくらいで、幸い家の中へは這入りませんでしたが、父は俳名が三猿なので、庭に猿が飼ってあった。それが夜中にいなくなったので、父が「とられたか逃げたか分からないから探して来い」と猿吉にいいつけたので、一日中尋ね歩いて「親方、方々の猿を見て来ましたがわかりません」「なぜわからぬのだ」「へい、どれを見ても同じ顔です」。 (八代目市川團藏『七世市川團蔵』より) |
|
この猿吉は團藏の地方興行のときに無理矢理弟子入りしたおとこで、いろいろ面白い話が残っている。動物からは離れるが、團藏が錦町に新築した家から二長町の焼け跡にあらたに家を建ててうつりすんだときのもうひとつの泥棒話である。
|
|
この家は門が母屋から離れていました。ある夜おそく父が帰って来ると門が閉まっていたのです。いくら呼んでもたたいても誰もあけに来ない。そこで供をしていた猿吉が塀を乗り越えて門をあけたので、「えらいえらい、玄武門を開いた原田重吉のようだ」と大層誉められたので、猿吉得意になり、(コリャ明日褒美が貰えるナ)と思っていたのです。
その夜寝てから考えたものとみえ、翌朝起きると直ぐ大工を呼びにやり、塀に忍び返しをつけさせ、そして手代の杉松に「アノ猿吉は泥棒するかもしれねえ、油断はできねえぜ」。 (八代目市川團藏『七世市川團蔵』より) |
|
何でも夏の夕方であったと覚えております。その時、八代目半四郎は芝居から帰って着換えをした所と見えて、派手な首抜きの浴衣着て緋鹿の子のしごきを締め、真っ赤な座布団の上に座り込んで、定紋の蒔絵した煙草盆を引附け、銀の煙管か何かで煙草をのんでいました。(中略) さて、座敷には真鍮の燭台に百目蝋燭が点って、一座の飾附は細々したものばかりで、まるで女の部屋です。それも花魁の部屋といった方がふさわしい有様でした。半四郎さんは、話の間にもお茶やお菓子などを薦めたりして、色々ともてなしてくれましたが、私は何だかその女のような所が気に入らなかったから、「なアんだ、あんなおデコ(半四郎さんは大変なおでこでした)の女みたような奴の所へ養子なんか行ってやるものか」と内心ひそかに嫌気がさして来ました(後略)。 (中村歌右衛門『歌右衛門自伝』より) |
|
結局、芝翫の養子となり女形の道を歩むことになるのだが、養子にはいって翌年、初舞台をつとめる頃の姿は、「下に赤い長襦袢をまとって、友禅か何かの派手な着物に加賀紋の羽織で、頭を莨盆に結って紫のキレをかけて」と、半四郎と良い勝負の女のなりであった。その姿で大手を振って大道を闊歩していたのだから巡査に怪しまれるのも当然だ。
|
|
今の白魚橋あたりにあった交番所の巡査が私の姿を見咎めて、女のクセに威張って歩く、と言いますので、負けず嫌いの私は「女じゃない、男だ」「イヤ、女に違いない」「イヤ、男だ」と押し問答がはじまり、私が「役者の芝翫の倅だ」と言っても、田舎出の巡査であったと見えて、それが分からず、「芝翫とは何だ」と承知しません。「じゃ、前をまくって見せてやろう」と言ったんで、やっと承知したような事がありました。 (中村歌右衛門『歌右衛門自伝』より) |
|
ある時の事、歌舞伎座で『紅葉狩』が出まして、旦那(※六代目菊五郎)が姫から鬼女へかわるので、道具裏で早ごしらえ、留爺が鏡台を持って、楽屋の裏階子(ママ)を下りて来ますと、ちょうどいま歌右衛門(五世)さんが湯殿から出て、階段を上がりかけたところでした。見ると上から下りて来るから、 「留爺や、どいておくれ」 と声をかけました。ほかならぬ歌右衛門(なりこまや)さんのことですから、たいていの者なら、恐れ入るところを、そこが留爺です。 「貴方は役がすんで帰る人、こちらは早ごしらえ、どいて下さいまし」 と言下に答えました。理の当然ですから成駒屋さんも、 「ああそうかえ」 と脇へよけた。留爺は鏡台を持ってそのまま下りましたが、役目がすんでから、歌右衛門さんの部屋へまいりまして、 「まことにただいまは、申しわけございませんでした。戦場の儀は是非なしと御勘弁願います」 男らしく無礼を詫びた。これには歌右衛門さんも感心したという逸話があります。 (牧野五郎三郎『楽屋ばしご』より) |
|
横浜の大金持ちで半四郎を大好きな男があって、度々酒席へ呼ぶのですが、半四郎はどういう訳か、この男が又大嫌いなので、どうしても行きません。そこでその金持ちが、半四郎の男衆を買収し、名前をかたって半四郎を呼び出したのです。 半四郎は行ってみて吃驚したが、それでもさりげなく応対して、急いで暇ををつげて表へ出ると、その男衆に向かい、「お前、よくも私をだましたね」と怒って、持っていた黒縮緬の頭巾で男衆をぶったそうですが、これが半四郎の生涯にただ一度の激怒だったそうですが、その打ったのが頭巾だというところに、いかにもしおらしい女形の本領が現れています。恐らくこんな痛くないぶたれ方は世の中にありますまい。この人が恐らく歌舞伎の最後の女形でしょう。 (「昔の女形の話」『演藝画報』昭和十三年八月号より) |
|
内は猿若町一丁目の裏で、玄関構えのなかなか立派な家でした。(中略)外へ出るのが嫌いな人でして、大抵内にいます。そして茶の間に夫婦差し向かいで、長火鉢のそばに胡座、なんて事は決してありません。チャンと自分の部屋、四畳半位ですが、そこにチマンと坐っていたもんです。(中略) 態度(とりなし)が女らしくって、しとやかで、眼に一杯の愛嬌のある人でした。眉毛は無論剃って居ます。なりはというと大抵縞縮緬か何かの地味な着物を着て、伊達巻をしめています。裾は引摺っているので、どう見たって女です。見習いに毛の生えたような我々が行っても、チャンと蒲団をすべって手を突いて、「いらっしゃいまし」という有様。それも決して安っぽいんじゃありません。丁寧でいて、しかも品があり、威厳がありましたナ。(中略) 座敷を見ると、どうしてもお嬢さんの部屋へ行ったようなんで、飾ってあるものといったら、人形だとか、針箱だとか、女の物ばかりで……こんな事言ったって今の方は本当にしやァしますがいが、千代紙を切って貼りつけたり、人形の着物を縫ったりするのが道楽なくらいで、ただモウ平常(ふだん)からどこまでも女の本分を守っていたんで、恐れ入ったもんでした。(中略) 半四郎が楽屋入りの時間になると、模様物の縮緬か何かに着替えます。左の手で褄をとって歩くので、ちゃんと緋の蹴出しをしめています。すこしも女と変わりません。その上へ紋付の羽織を着ます。(中略)化粧をして、頭はやっぱり鬘下地で、その上へ紫のきれをかけ、平打の簪でとめて置きます。(中略)着物は勿論振袖で、畳のない黒塗のぽっくりを穿いております。(中略)後には男衆と送りが付いています。(中略) 雨が降った時は、天鵞絨(ビロード)の襟のついた雨合羽を着て、女のように扱帯(しごき)ではしょって、雨傘は男衆がさしかけさせたものでした。 (竹柴其水「明治初年の女形」『演藝画報』大正九年九月号より) |
|
先日も春木座へ出て狂言をしまい、家へ帰ろうとすると少し胸が痛み出したので芝居茶屋にて暫時休息いたし、池之端茅町まで来るとまた痛み出して、苦しいゆえ、唐物屋の見世をかりてまた休息し、其内弟子が廣小路の医師をよびにゆくと生憎に弟子ばかりで、早速弟子がかけて来て脈を見るが早いか、「是はお産後の血の道のところへ邪気をおうけなされたので有ります」と真面目になっていったので、女寅はじめ傍のものもドットふき出して大笑い、その弟子は真ッ赤な顔をして早々かえったというが、此様な男と女と間違える程のお医師さまにかかつている人は嘸(さぞ)かしハヤ。 (『讀賣新聞』明治九年五月一二日) |
|
「親父は松王をどう勤めるか知らないが、ぜんたい在来の首実検の型のように、首桶の蓋の上へ両手を頬杖にして、両眼をぱちぱちするなんていうのは、灸でも据えられているようでいけない。また紫色の病鉢巻をだらりと結び下げにするのは、中村家の型だとは聞いているが、見た目が弱々しくっていけない。私ならば鉄色にでも改めて箱結びにするね。 それにだれでもやっていることだが、あの場合に松王が菅秀才の首を玄蕃に見せる必要はない、玄蕃は菅秀才の顔を見知らないからこそ、松王に目利きをしてもらうくらいだから、玄蕃は松王の顔ばかり、目を離さずに見ている。それゆえ松王としては、まず首桶の蓋を取ったら、これを玄蕃のいる方、つまり上手の方に置いてだね、この上へ松王が左の臂を頬杖に突くことにして、この時手先を開くくらいに広げる、というのは、松王として見れば自分の顔色を玄蕃に気取られまいとする用意なのだ。 松王は前方わが子の小太郎、菅秀才の身替り首につかってもらおうために源蔵の寺子屋へよこしてはあるものの、さて今実検する首が、はたしてわが子の小太郎を身替わりに斬ってあるか、それとも真の菅秀才の首を打ったのではあるまいか、と松王の胸はそれが心配でいっぱいになっている。そこで左の手先を拡げるばかりでなく、体をやや斜めに下手向きに坐るが方がよいい、そうすればいっそう玄蕃の目を逃れるのと同時に、一方で源蔵のそぶりにも十分に注意をすることができる。なんと一挙両得のいい工夫だろう、私がやればこうしてみせるよ」 右はまったく一言一句、理非明白な説明で、目の前に話を聞いていた弟子たちより、襖の蔭で立ち聞きをしていた、父親の多見藏さんが、膝を打ってことごとく感心をしてしまって、おそらく倅は贋気ちがいなのであろう、それでなくては、こうまで理屈に合ったことが言えるものではない、とそう思われたということです。(中略) 「それでいよいよ首実検になる、ここが松王の見せ場であり、また役者のしどころでもあるから、一幕中の眼目として、親父の松王ならば俺が後見に出てやろう。そうして後ろにいて、いざ小太郎の死首を見るという時に、仕掛けの糸を引く、松王のあの五十日鬘の中から、ぴんと大きな耳が二本飛び出す趣向だ。見物はかならずわーっと声をあげて、ほめてくれるにちがいない」 と言ったので、おやおややっぱりまともな人ではなかったのかと、多見藏さんも弟子たちも、がっかりしてしまったという話です(後略)。 (市川中車『中車芸話』より) ※ この引用の中に、現在の観点からみると差別につながる不適切な表現があるが、書かれた時代性を考慮して、原文のままとしている。 |
|
これは私が子供時代に、『一谷嫩軍記』の遠見の熊谷を勤めた時の事、鎧を着てホニホロの馬へ乗るのが嬉しくって、喜んで出ていたわけなのですが、或日狭い二重舞台を踏み外して落ちてしまったのを、それでも又這い上って立廻りをしたのですから、見物から見れば一度浪の中へ沈んだ人間が、又すぐに出て来たのは、おかしかったでしょうけれど、それは無事に済んだものの、更に或日今度は刀を平舞台へ落してしまったところから、腹這いになって拾い取って、義太夫の「♪互ひに打物抜かざし」の所で、得意になって「♪蝶の羽返へし諸鎧、駒の足並かっしかっし」と、立廻りを済まして部屋へ帰ると、それが親父に知れていてこの時には叱られましたね。 『海の中へ落した刀を拾う奴があるか、敦盛はそんな手の長い人間ぢやアねえ』 といわれたのです。ごもっともな事ですよ。 後年市村座で先代訥子が『戻橋』の綱をした時、幕切に北野の廻廊の屋根の上へ落ちるはづみに、刀を平舞台へ落したのを、手を伸して拾い取って見得をした事がありましたが、往来へ落ちた刀は屋根の上からでは拾えません。なるほど私の熊谷にも此手の長さがあったのかと、思い当った事がありました。 (川尻清潭『六世菊五郎百話』より) |
|
『忍の惣太』で惣太を演じた時、丑市をを勤める仲蔵が腹をこわし、殊には老年のせいか舞台で所々そそうをする。潔癖の父(七代目市川團藏)も舞台ですから仕方なく、情けない顔をしながらそこをよけて芝居をしていました。 そこへ花子を勤めていた多賀之丞が出てきて坐る様子なので、父が「ソコはいけないいけない」と小声でいったが聞こえぬとみえ、傍へ坐り片手をその上へついたので、「アアきたねえ」と父がいうと、多賀之丞も何か手についたと思ったのでしょう、「コリャなんや」と小声でいいながら、よくよく見て「アラばばや、オオ臭さ」と大きな声を出したので、父は元より見物まで笑い出し、一幕滅茶々々にしたのです。 幕になって父が舞鶴屋の部屋へ行き、「伯父さんひどいじゃないか」と難じるとすましたもので、「仕方がねえ。出物はれもの所嫌わずだ」。 (八代目市川團藏『七世市川團蔵』より) |
|
ある田舎にて、「三段目」の本蔵が「天を拝し、地を拝し、お次の間にぞ」にて這入りしが、もはや役をしまひし心にて衣裳を脱ぎ、湯にはいる。 舞台では喧嘩になり、師直へ切付け、早舞になって立廻っていても本蔵が出ず、田舎のことなれば、大名はみな竹田奴になっていて、本蔵ばかり留めるところ、その本蔵が湯にはいりおるゆえ、判官、師直、天地山形そっちへ廻れ、振り上ぐる留めろと、いろいろ立廻っても誰も留めぬゆえ、もはや魂(こん)につき、師直上手へ逃げにかかるを、判官背中を一刀きる。 師直「ハッ」ト言って、後を振り向く。判官、師直の腹へ刀を突込み一緒にきりきりと廻り「チヽヽチ」と師直苦しむ。判官刀を抜く。師直仰向けに倒れる。判官乗り掛り「思ひ知ったか」と止めを差す。頭取、先づ今日は是切。 (三代目中村仲蔵『手前味噌』青蛙房より) |