古今東西絶句帳


020  どれを見ても同じ顔 (日常生活での笑い話)

 今週から何回か、歌舞伎役者と動物のはなしを紹介する。最近林丈二著『東京を騒がせた動物たち』という面白い本が出版されたが、明治初期の東京には現在からは想像できないほどの動物たちが生息していたようだ。
 そのころ活躍した役者たちの様々なエピソードを読んでいると、いろいろな動物を飼っていたことが分かる。演技の参考にするつもりだったのだろうか、猿がよく登場するのにはいささか驚かされる。
 きょうは九代目團十郎に匹敵するといわれた藝の持ち主、七代目市川團藏と猿のはなしである。この当時、明治二十六年頃はまだまだ物騒な時代だったようで、泥棒につけ狙われしばしばあったようである。



 神田大火の焼跡だった錦町へ家を新築して引移りました。ところが焼野原の一軒家なので毎夜賊につけられ、門弟が二人ずつ交替で見回ることになりました。そのこしらえが芝居がかりで黒装束に黒覆面、芝居の小道具から借りた木刀を差し、龕燈(がんどう)を持っているので、二人が出くわしたときは、「今晩のお役目ご苦労に存ずる」と時代にいわねばうつらぬようでした。この見回りは、形は物々しいが人影でも見えると直ぐ内へ逃げ込みます。家の中では父(七代目團藏)が、みしりッとでも音がすると、床の中で大声に「先生泥棒が来たようです」といい、直ぐ鼻をつまみ、「大丈夫、おれがここにいる」と、剣術の先生の声色をつかっていました。
 ある夜半に女中が便所へいくと、賊は便所の窓の戸をはずし、這入りかけ双方顔を見合わせびっくりしたくらいで、幸い家の中へは這入りませんでしたが、父は俳名が三猿なので、庭に猿が飼ってあった。それが夜中にいなくなったので、父が「とられたか逃げたか分からないから探して来い」と猿吉にいいつけたので、一日中尋ね歩いて「親方、方々の猿を見て来ましたがわかりません」「なぜわからぬのだ」「へい、どれを見ても同じ顔です」。 
 (八代目市川團藏『七世市川團蔵』より)


 この猿吉は團藏の地方興行のときに無理矢理弟子入りしたおとこで、いろいろ面白い話が残っている。動物からは離れるが、團藏が錦町に新築した家から二長町の焼け跡にあらたに家を建ててうつりすんだときのもうひとつの泥棒話である。



 この家は門が母屋から離れていました。ある夜おそく父が帰って来ると門が閉まっていたのです。いくら呼んでもたたいても誰もあけに来ない。そこで供をしていた猿吉が塀を乗り越えて門をあけたので、「えらいえらい、玄武門を開いた原田重吉のようだ」と大層誉められたので、猿吉得意になり、(コリャ明日褒美が貰えるナ)と思っていたのです。  その夜寝てから考えたものとみえ、翌朝起きると直ぐ大工を呼びにやり、塀に忍び返しをつけさせ、そして手代の杉松に「アノ猿吉は泥棒するかもしれねえ、油断はできねえぜ」。
 (八代目市川團藏『七世市川團蔵』より)




019  前をまくって見せてやる (日常生活での笑い話)

 前回登場した五代目中村歌右衛門は、明治の中頃から昭和の十年代まで女形として活躍し、團菊左亡きあとは、政治的な意味合いで歌舞伎界に君臨した。もちろん技藝もすぐれていたのではあるが、若くして鉛毒におかされたことで晩年はからだがいうことをきかず、かなり苦しいおもいをしたようだ。
 歌右衛門は歌舞伎の世界の生まれではなく、十歳をこえて中村芝翫の養子となった。その時、あいだに立った人がまず紹介したのが、八代目岩井半四郎であったことがおもしろい。歌右衛門の回想をちょっとのぞいてみよう。



 何でも夏の夕方であったと覚えております。その時、八代目半四郎は芝居から帰って着換えをした所と見えて、派手な首抜きの浴衣着て緋鹿の子のしごきを締め、真っ赤な座布団の上に座り込んで、定紋の蒔絵した煙草盆を引附け、銀の煙管か何かで煙草をのんでいました。(中略)
 さて、座敷には真鍮の燭台に百目蝋燭が点って、一座の飾附は細々したものばかりで、まるで女の部屋です。それも花魁の部屋といった方がふさわしい有様でした。半四郎さんは、話の間にもお茶やお菓子などを薦めたりして、色々ともてなしてくれましたが、私は何だかその女のような所が気に入らなかったから、「なアんだ、あんなおデコ(半四郎さんは大変なおでこでした)の女みたような奴の所へ養子なんか行ってやるものか」と内心ひそかに嫌気がさして来ました(後略)。
 (中村歌右衛門『歌右衛門自伝』より)


 結局、芝翫の養子となり女形の道を歩むことになるのだが、養子にはいって翌年、初舞台をつとめる頃の姿は、「下に赤い長襦袢をまとって、友禅か何かの派手な着物に加賀紋の羽織で、頭を莨盆に結って紫のキレをかけて」と、半四郎と良い勝負の女のなりであった。その姿で大手を振って大道を闊歩していたのだから巡査に怪しまれるのも当然だ。



 今の白魚橋あたりにあった交番所の巡査が私の姿を見咎めて、女のクセに威張って歩く、と言いますので、負けず嫌いの私は「女じゃない、男だ」「イヤ、女に違いない」「イヤ、男だ」と押し問答がはじまり、私が「役者の芝翫の倅だ」と言っても、田舎出の巡査であったと見えて、それが分からず、「芝翫とは何だ」と承知しません。「じゃ、前をまくって見せてやろう」と言ったんで、やっと承知したような事がありました。
(中村歌右衛門『歌右衛門自伝』より)




018  戦場の儀は是非なし (舞台裏での笑い話)

 前回紹介した男衆とは、いまでいえば付き人のようなものである。役者の身の回りの世話から、舞台の準備まで様々な役をこなしていた。しかし身分は役者ではないのだから、上草履を履くことも許されなかったという
。  そんな男衆のなかでも「名物男」として知られていたのが、音羽屋の留爺であった。かれは五代目の坂東彦三郎についたのを振りだしに、五代目の尾上菊五郎、その息子の六代目菊五郎と三代にわたる看板役者の男衆を勤めている。昭和の初期に亡くなったようだが、その実直な勤めぶりと、半世紀におよぶ経験と知識で幕内から尊敬を集めていた。まさに芝居の生き字引のような存在であったが、残念ながらその本名や家族のことなどはまったくわからない。
 留爺に関していくつかのエピソードが伝わっているが、そのなかでもとっておきの素晴らしいはなしを紹介しよう。



 ある時の事、歌舞伎座で『紅葉狩』が出まして、旦那(※六代目菊五郎)が姫から鬼女へかわるので、道具裏で早ごしらえ、留爺が鏡台を持って、楽屋の裏階子(ママ)を下りて来ますと、ちょうどいま歌右衛門(五世)さんが湯殿から出て、階段を上がりかけたところでした。見ると上から下りて来るから、
 「留爺や、どいておくれ」
と声をかけました。ほかならぬ歌右衛門(なりこまや)さんのことですから、たいていの者なら、恐れ入るところを、そこが留爺です。
 「貴方は役がすんで帰る人、こちらは早ごしらえ、どいて下さいまし」
と言下に答えました。理の当然ですから成駒屋さんも、
 「ああそうかえ」
と脇へよけた。留爺は鏡台を持ってそのまま下りましたが、役目がすんでから、歌右衛門さんの部屋へまいりまして、
 「まことにただいまは、申しわけございませんでした。戦場の儀は是非なしと御勘弁願います」
 男らしく無礼を詫びた。これには歌右衛門さんも感心したという逸話があります。
 (牧野五郎三郎『楽屋ばしご』より)




017  生涯一度の激怒 (日常生活での笑い話)

 岩井半四郎のはなしをもうひとつ。かれは決して美人タイプの女形ではなかったようだが、それでも十分美しかったという。なんだか矛盾するようだが、キリリと小股の切れ上がったチャキチャキの江戸っ子美人というのではなく、たとえていえば鈴木春信の浮世絵にでてくるような、ぼんじゃりした美しさである。ただし春信の浮世絵の娘とちがうのは、ほっそりとした柳腰の姿ではなく、ぽてっとしたふくよかさを感じさせる体つきであった。
 性格もおとなしく内気で、終始おどおどしているようなもののいいようで、前回の竹柴其水がかたるところによると、役不足でもめたことなどは皆無であったようだ。
 黙阿弥はこの半四郎にはめて『十六夜清心』や『三人吉三』などをかいたのだが、半四郎の評判はさほどでもなかった。内気さが仇になったのであろう。また九代目團十郎が歌舞伎十八番の『鳴神』を演じなかったのも、半四郎が亡くなって絶間姫になる女形がいなかったせいといわれている。
 そんな半四郎が、生涯一度激怒したことがあるという。



 横浜の大金持ちで半四郎を大好きな男があって、度々酒席へ呼ぶのですが、半四郎はどういう訳か、この男が又大嫌いなので、どうしても行きません。そこでその金持ちが、半四郎の男衆を買収し、名前をかたって半四郎を呼び出したのです。
 半四郎は行ってみて吃驚したが、それでもさりげなく応対して、急いで暇ををつげて表へ出ると、その男衆に向かい、「お前、よくも私をだましたね」と怒って、持っていた黒縮緬の頭巾で男衆をぶったそうですが、これが半四郎の生涯にただ一度の激怒だったそうですが、その打ったのが頭巾だというところに、いかにもしおらしい女形の本領が現れています。恐らくこんな痛くないぶたれ方は世の中にありますまい。この人が恐らく歌舞伎の最後の女形でしょう。
(「昔の女形の話」『演藝画報』昭和十三年八月号より)




016  天下無双の美しさ (日常生活での笑い話)

 前回話題にした、女形の続きである。八代目岩井半四郎は七代目半四郎の実子で文政十二(1829)年江戸生まれ。黙阿弥が半四郎にあてて書いた『十六夜清心』が大評判となったことは有名だ。この時、相手役の市川小團次が「あれなら迷うはずだ、寺を開いたって構わねえ」と驚嘆したはなしが、伊原敏郎の『明治演劇史』にのっている。
 また中村仲蔵も「半四郎だけは長襦袢一枚で投げ出して置いても立派に女で通る」と語っているし、團十郎も「容貌の美しかりし事は天下無双。余りに愛嬌ありて泣く時も笑いおるかと思われし」と述べている。  つぎに紹介するのは、半四郎の自宅によく出入りした狂言作者河竹其水の証言である。



 内は猿若町一丁目の裏で、玄関構えのなかなか立派な家でした。(中略)外へ出るのが嫌いな人でして、大抵内にいます。そして茶の間に夫婦差し向かいで、長火鉢のそばに胡座、なんて事は決してありません。チャンと自分の部屋、四畳半位ですが、そこにチマンと坐っていたもんです。(中略)
 態度(とりなし)が女らしくって、しとやかで、眼に一杯の愛嬌のある人でした。眉毛は無論剃って居ます。なりはというと大抵縞縮緬か何かの地味な着物を着て、伊達巻をしめています。裾は引摺っているので、どう見たって女です。見習いに毛の生えたような我々が行っても、チャンと蒲団をすべって手を突いて、「いらっしゃいまし」という有様。それも決して安っぽいんじゃありません。丁寧でいて、しかも品があり、威厳がありましたナ。(中略)
 座敷を見ると、どうしてもお嬢さんの部屋へ行ったようなんで、飾ってあるものといったら、人形だとか、針箱だとか、女の物ばかりで……こんな事言ったって今の方は本当にしやァしますがいが、千代紙を切って貼りつけたり、人形の着物を縫ったりするのが道楽なくらいで、ただモウ平常(ふだん)からどこまでも女の本分を守っていたんで、恐れ入ったもんでした。(中略)
 半四郎が楽屋入りの時間になると、模様物の縮緬か何かに着替えます。左の手で褄をとって歩くので、ちゃんと緋の蹴出しをしめています。すこしも女と変わりません。その上へ紋付の羽織を着ます。(中略)化粧をして、頭はやっぱり鬘下地で、その上へ紫のきれをかけ、平打の簪でとめて置きます。(中略)着物は勿論振袖で、畳のない黒塗のぽっくりを穿いております。(中略)後には男衆と送りが付いています。(中略)
 雨が降った時は、天鵞絨(ビロード)の襟のついた雨合羽を着て、女のように扱帯(しごき)ではしょって、雨傘は男衆がさしかけさせたものでした。
 (竹柴其水「明治初年の女形」『演藝画報』大正九年九月号より)




015  女形の血の道 (日常生活での笑い話)

  歌舞伎をはじめてみて、一番に違和感をいだくのはたぶん女形ではないだろうか。考えてみればたしかにどこからみても本物の女性とはいいがたいし、とくに声や大柄な姿に奇妙な印象を持たれる方もおおいであろう。しかし、歌舞伎を見なれてしまうと、いつの間にかそんな感覚はきえてしまうし、逆に私など女優さんの小柄なほっそりとした体つきに違和感をついついいだいてしまうほどだ。
 先ごろ復刊された戸板康二さんの『歌舞伎への招待』でも、花道につづいて女形が述べられているのも、歌舞伎のおおきな特色といえるからであろう。
 最近の女形さんは、舞台以外はふつうの男性として生活しているが、明治以前にはまるで女性同様に暮らしていた女形もおおかったようだ。その代表的なひとりが幕末から明治にかけて活躍した八代目岩井半四郎である。かれのエピソードは別の機会に紹介するとして、今日登場するのは五代目市川女寅である。
 伊原敏郎の『明治演劇史』によれば、五代目市川門之助の弟子で、門之助は「女方として自分の跡をつがす考えがあるので、髪かたちから衣服まで女の風俗をさせ、決して男の児と遊ばせないで、みめよき女の児五六人を選んで友とせしめた」という。残念ながら「技倆はあまり振るわず」、病気がちで明治十二年、二十六歳で亡くなったのだが、その姿はどこからみても女であったらしい。



 先日も春木座へ出て狂言をしまい、家へ帰ろうとすると少し胸が痛み出したので芝居茶屋にて暫時休息いたし、池之端茅町まで来るとまた痛み出して、苦しいゆえ、唐物屋の見世をかりてまた休息し、其内弟子が廣小路の医師をよびにゆくと生憎に弟子ばかりで、早速弟子がかけて来て脈を見るが早いか、「是はお産後の血の道のところへ邪気をおうけなされたので有ります」と真面目になっていったので、女寅はじめ傍のものもドットふき出して大笑い、その弟子は真ッ赤な顔をして早々かえったというが、此様な男と女と間違える程のお医師さまにかかつている人は嘸(さぞ)かしハヤ。 
  (『讀賣新聞』明治九年五月一二日)




014  松王の工夫 (日常生活での笑い話)

 前回同様、今月の歌舞伎座にでている『寺子屋』から、古いエピソードを紹介しよう。
明治初期の大阪を代表する役者は尾上多見藏であった。生まれたのが寛政十一年というから西暦になおすとなんと一七九九年、一八世紀末に生をうけた、劇壇最古老である。
 この多見藏には二人の息子がいて将来を嘱望されていたのだが、ともに父親より早く亡くなっている。明治十一年、四十七歳で亡くなった長男の和市に関するうわさ話がのこっている。
和市はなんらかの理由で精神病をわずらい舞台を引いたが、その日常生活は特別かわったこともなかったようだ。そのため、多見藏としては病気を装っているのではないかとの疑いを捨てきれず、たまたま『寺子屋』の松王役を引きうけたところから、和市の意見を聞いてみることにした。



 「親父は松王をどう勤めるか知らないが、ぜんたい在来の首実検の型のように、首桶の蓋の上へ両手を頬杖にして、両眼をぱちぱちするなんていうのは、灸でも据えられているようでいけない。また紫色の病鉢巻をだらりと結び下げにするのは、中村家の型だとは聞いているが、見た目が弱々しくっていけない。私ならば鉄色にでも改めて箱結びにするね。
 それにだれでもやっていることだが、あの場合に松王が菅秀才の首を玄蕃に見せる必要はない、玄蕃は菅秀才の顔を見知らないからこそ、松王に目利きをしてもらうくらいだから、玄蕃は松王の顔ばかり、目を離さずに見ている。それゆえ松王としては、まず首桶の蓋を取ったら、これを玄蕃のいる方、つまり上手の方に置いてだね、この上へ松王が左の臂を頬杖に突くことにして、この時手先を開くくらいに広げる、というのは、松王として見れば自分の顔色を玄蕃に気取られまいとする用意なのだ。
 松王は前方わが子の小太郎、菅秀才の身替り首につかってもらおうために源蔵の寺子屋へよこしてはあるものの、さて今実検する首が、はたしてわが子の小太郎を身替わりに斬ってあるか、それとも真の菅秀才の首を打ったのではあるまいか、と松王の胸はそれが心配でいっぱいになっている。そこで左の手先を拡げるばかりでなく、体をやや斜めに下手向きに坐るが方がよいい、そうすればいっそう玄蕃の目を逃れるのと同時に、一方で源蔵のそぶりにも十分に注意をすることができる。なんと一挙両得のいい工夫だろう、私がやればこうしてみせるよ」
 右はまったく一言一句、理非明白な説明で、目の前に話を聞いていた弟子たちより、襖の蔭で立ち聞きをしていた、父親の多見藏さんが、膝を打ってことごとく感心をしてしまって、おそらく倅は贋気ちがいなのであろう、それでなくては、こうまで理屈に合ったことが言えるものではない、とそう思われたということです。(中略)   
 「それでいよいよ首実検になる、ここが松王の見せ場であり、また役者のしどころでもあるから、一幕中の眼目として、親父の松王ならば俺が後見に出てやろう。そうして後ろにいて、いざ小太郎の死首を見るという時に、仕掛けの糸を引く、松王のあの五十日鬘の中から、ぴんと大きな耳が二本飛び出す趣向だ。見物はかならずわーっと声をあげて、ほめてくれるにちがいない」
 と言ったので、おやおややっぱりまともな人ではなかったのかと、多見藏さんも弟子たちも、がっかりしてしまったという話です(後略)。
   (市川中車『中車芸話』より)


※ この引用の中に、現在の観点からみると差別につながる不適切な表現があるが、書かれた時代性を考慮して、原文のままとしている。




013  手の長い敦盛 (舞台の上の笑い話)

新海老蔵の『助六』をみていたら、こんな台詞が耳に残った。かんぺら門兵衛とのやりとりである。
 「なんだ、わしだ」
 「ムウ、わしだァ」
 「うぬが鷲なら、おらァ熊鷹だ」  「熊鷹長範、手が長い」

 正確には「熊鷹の長範、貴様は手が長いな」といわねばならないところだが、まあそれはさておき、この「手の長い」ということばで思いだしたはなしがある。ふたたび、六代目菊五郎に登場してもらおう。



 これは私が子供時代に、『一谷嫩軍記』の遠見の熊谷を勤めた時の事、鎧を着てホニホロの馬へ乗るのが嬉しくって、喜んで出ていたわけなのですが、或日狭い二重舞台を踏み外して落ちてしまったのを、それでも又這い上って立廻りをしたのですから、見物から見れば一度浪の中へ沈んだ人間が、又すぐに出て来たのは、おかしかったでしょうけれど、それは無事に済んだものの、更に或日今度は刀を平舞台へ落してしまったところから、腹這いになって拾い取って、義太夫の「♪互ひに打物抜かざし」の所で、得意になって「♪蝶の羽返へし諸鎧、駒の足並かっしかっし」と、立廻りを済まして部屋へ帰ると、それが親父に知れていてこの時には叱られましたね。
 『海の中へ落した刀を拾う奴があるか、敦盛はそんな手の長い人間ぢやアねえ』
 といわれたのです。ごもっともな事ですよ。
 後年市村座で先代訥子が『戻橋』の綱をした時、幕切に北野の廻廊の屋根の上へ落ちるはづみに、刀を平舞台へ落したのを、手を伸して拾い取って見得をした事がありましたが、往来へ落ちた刀は屋根の上からでは拾えません。なるほど私の熊谷にも此手の長さがあったのかと、思い当った事がありました。
(川尻清潭『六世菊五郎百話』より)




012  出物腫れ物 (舞台の上の笑い話)

前回紹介した三代目中村仲蔵、なかなかのやかましやのじいさんだったらしい。
 あるとき、作者が稽古でト書きを「上手(うわて)より」と読んでしまったからさあ大変。
 「一寸待ってくんねえ、おらァ此の年まで芝居にいるがまだ上手(うわて)ってェ所から出た事がねえ。そいつァこんど新規に出来たんだろう、上手ッてなァどこから出ていいんだか一寸教えてくんねえ」
 とやらかしたそうだ。結局、立作者があやまるはめになったのだが、仲蔵平然として、
 「そうだろうおれも上手(かみて)だろうたァ思ったが、また新規な出所が出来たかも知れねえと思って一寸聞いたんだ」(『演藝画報大正九年二月』)
 といったそうだ。なんとも嫌みな性格だ。
 九代目團十郎は、「彦三郎、仲蔵などが存生の頃にはお互いに舞台にて、突然種々なる不意を喰らわせ、応答(うけこたえ)をなしたること多く、われらもわざと台詞や動作(しうち)をとり違えては先方(むこう)の応接如何と伺うに、此の両人は何時にても即答せぬことはあらざりき」(『團洲百話』)とたいそう褒めている。
 さてその仲蔵もよる年並みに勝てぬのか、舞台でとんでもない粗相をしでかしたことがあるようだ。明治十四年六月の久松座、七代目市川團藏の証言である。



 『忍の惣太』で惣太を演じた時、丑市をを勤める仲蔵が腹をこわし、殊には老年のせいか舞台で所々そそうをする。潔癖の父(七代目市川團藏)も舞台ですから仕方なく、情けない顔をしながらそこをよけて芝居をしていました。
 そこへ花子を勤めていた多賀之丞が出てきて坐る様子なので、父が「ソコはいけないいけない」と小声でいったが聞こえぬとみえ、傍へ坐り片手をその上へついたので、「アアきたねえ」と父がいうと、多賀之丞も何か手についたと思ったのでしょう、「コリャなんや」と小声でいいながら、よくよく見て「アラばばや、オオ臭さ」と大きな声を出したので、父は元より見物まで笑い出し、一幕滅茶々々にしたのです。
 幕になって父が舞鶴屋の部屋へ行き、「伯父さんひどいじゃないか」と難じるとすましたもので、「仕方がねえ。出物はれもの所嫌わずだ」。
 (八代目市川團藏『七世市川團蔵』より)



011  師直に止めを差す (舞台の上の笑い話)

 そもそもこの「絶句帳」というタイトルは、三代目中村仲蔵の著書からいただいたものである。三代目仲蔵は文化六年(1809)江戸に生まれ、明治十九年(1886)、七十八歳でなくなった、幕末から明治にかけての名優である。
 仲蔵は文筆もよくし、めずらしい自叙伝ともいうべき『手前味噌』を明治の歌舞伎雑誌、「歌舞伎新報」に連載した。
 「絶句帳」はその第四号の付録として刊行されたもので、その裏には「左に掲ぐる絶句帳は、当今俳優中にて老練、熟達の聞えある三代目中村仲蔵秀鶴氏が、数年間親しく見聞せし、演戯上にありし奇説珍話を筆記したる自著の書たり」と説明がある。(『手前味噌』青蛙房より)明治十二年三月発行、仲蔵七十一歳の時のことである。
 きょうはこの本家本元の「絶句帳」から、わかりやすいはなしを紹介する。



 ある田舎にて、「三段目」の本蔵が「天を拝し、地を拝し、お次の間にぞ」にて這入りしが、もはや役をしまひし心にて衣裳を脱ぎ、湯にはいる。
 舞台では喧嘩になり、師直へ切付け、早舞になって立廻っていても本蔵が出ず、田舎のことなれば、大名はみな竹田奴になっていて、本蔵ばかり留めるところ、その本蔵が湯にはいりおるゆえ、判官、師直、天地山形そっちへ廻れ、振り上ぐる留めろと、いろいろ立廻っても誰も留めぬゆえ、もはや魂(こん)につき、師直上手へ逃げにかかるを、判官背中を一刀きる。
 師直「ハッ」ト言って、後を振り向く。判官、師直の腹へ刀を突込み一緒にきりきりと廻り「チヽヽチ」と師直苦しむ。判官刀を抜く。師直仰向けに倒れる。判官乗り掛り「思ひ知ったか」と止めを差す。頭取、先づ今日は是切。
(三代目中村仲蔵『手前味噌』青蛙房より)











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