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湛海は、近頃、大層立派になりましたが、あんなに立派でない方がいいと思います。松助さん、片市さんなど、もっと安手でよろしうございました。 歌舞伎座(明治三十三年十月)の楽の日に、松助さんの湛海が九代目(おじさん)の鬼一に、「これは先生」と云う台詞を申しましたら、九代目が、「これは松つァん」と云いました。普段滅多にこんなことを云わない九代目が、突然、こんな台詞を云いましたので、流石の松助さんも、ドギモを抜かれて、暫く黙っていました。 (井上甚之助『三津五郎藝談』より) |
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その時は團藏の鬼一法眼に、私(七代目松本幸四郎)は知恵内で出たのですが、帝劇女優たちの扮した腰元に手をとられて出るのを團藏はひどく喜び、 「ああ、長生きはしたいもんだ。この年になって若い女の子たちのふかふかした柔らかい手で握られて舞台に出ようとは思わなかったよ。女形よりはこの方が気持ちがいいよ」 などといって、女優たちの手ざわりに悦に入っていたものでした。 (七代目松本幸四郎『一世一代』より) |
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このとき團藏は75歳。亡くなる三か月前、最後の舞台であった。 この團藏の話で、江戸末期の四代目市川小團次の恐ろしいまでの名優ぶりが紹介されている。舞台はおなじ『菊畑』、小團次はわざと自分から志願して「申し上げます」の侍に扮して登場した。ちなみに高島屋とは小團次の屋号、七代目とは市川團十郎のことである。 |
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初日に『菊畑』の幕があき、鬼一、虎蔵、智恵内の三人の極りなど、見物が贔屓々々の屋号を呼んで嬉しがっている所へ、名は聞き漏らしましたが、有名な女形の皆鶴姫がでると、またわっと見物がほめる。そのあとへ高島屋の侍が出て、「ハッ申上げます、只今ここへ笠原湛海様お入りにござりまする」といいすててはいった。それを見た見物は「高島屋々々々」と暫くワアワアいって後の芝居ができぬほどで、とうとう『菊畑』一幕は申し上げますの侍にさらわれた。(中略) いかなる演方(しかた)想像もつかぬので、父(七代目團藏)に聞きましたら、 「おれは七代目の後見をして見ていたが、こうだと口ではいえぬ。ただ初めて役者になった者が出たという演方だった。しかし決して絶句や、出這入りにヒョロツイたり、つまずくような当て込みでは無く、素人が舞台に出たとしかみえなかった」といいました。さすがの七代目も、「アレが米(よね)か、ウム」とうなったそうです。 (八世市川團藏『七世市川團蔵』より) |
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028
名前は改めた (地方巡業の笑い話) さきほど、文楽の吉田簑助さんの『頭巾かぶって五十年』という本を読んでいたら、よく名前を間違えられる話がでていた。当然「たけかんむり」の簑助が正しいのだが、「くさかんむり」の『蓑』という字もあって、よく間違えられるという。ひどいものになると、『衰』助や『哀』助になってしまうこともあるという。「私も衰えたり、哀れだったり、忙しいことです」と簑助さんは書いている。 と書きながら、おもわずもう一度正しく変換できているか、チェックしてしまった。 そこで思いだしたのが、おなじみの七代目市川團藏さんのエピソード。明治十九年ごろの話である。 |
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山形地方を巡業して米沢に乗り込むと、他座に市川九蔵という立派な庵を上げて芝居をしている。父はそれを聞いて笑っていたが、門弟が納まらず、その座へ掛合にゆくと、先方では恐縮し、「早速庵の名を替えます」と詫をしたので、その日は戻り、翌日見るとやはりそのままなので、立腹してなじると、「いえ、直ぐに改めました、よくごらん下さい」ときっぱりいうので不審に思いながら見直すと、九の中へ小さなゝ(てん)を入れ、『市川丸蔵』。
(八世市川團藏『七世市川團蔵』より)
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027
鰻と入れ歯 (日常生活の笑い話) もう何回も登場してもらっているが、七代目の市川團藏は名優ではあったが、おかしな人でもあったようだ。引用している『七世市川團蔵』はその團藏の長男で八代目を継ぎ、昭和40年代まで活躍した團藏が戦前に書きしるしたものである。現在の團藏さんのおじいさんにあたる人である。 |
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舞台で大立回りのとき、捕手の棒があたり前歯を四五本打ったので、入歯をしていました。これも隠していたのですが、ある夜遊びにいき、多勢の芸者を相手にいい気持ちで騒いだ末「サアみんなで鰻飯を食おう」と鰻飯がとり寄せられ、食いかけると、何がさて、当時の不完全な入歯なので、糸が切れて抜け落ちた。アッといって手で口を隠したので、芸者達は心配して、「どうしましたどうしました」と尋ねるので、口中の痛む思い入れをしながらそこらを見回したが見当たりません。仕方なく、そのまま口を押さえて宅へ帰りました。暫くたつと料亭から食べかけた鰻飯が届き、添え状に「食べたいと思いこもって『いれば』こそ、落ちてくやしきこの玉手箱」芸者乙女連と書いてあり、重箱の蓋をあけて見ると、食べかけた鰻の上にチョコンと入歯がのっていた。
(八世市川團藏『七世市川團蔵』より)
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昔の人の粋な計らいがわかるエピソードだ。恥をかかせず、それでもちょっとからかってみせるのに、狂歌を詠む、しかも「乙姫連」とはしゃれている。この余裕、遊び心がいつの間にか消えてしまったのが近代化のもたらした弊害ともいえるのではないだろうか。 |
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026
蟹十郎のチョキチョキ (舞台の上の笑い話) 今回も六代目菊五郎のいたずら話である。明治四十四年一月、市村座で『白菊金五郎』(渥美清太郎によれば「榎戸賢二が柳沢騒動の一節をとって脚色したもので、甚だしい愚作であった…」と書いている)という新作物がでたとき、九代目團十郎の弟子蟹十郎が、お白洲で取り調べの役を演じた。そのときのことである。 |
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その(蟹十郎の)台詞の中に、「曲直」という言葉があるのですが、蟹さんが、それをどうしても「チョキチョキ」というので、みんなが笑いました。やっと「キョクチョク」といえるようになりましたが、六代目の金五郎が、いたずらをして、蟹さんが、そこの台詞のところへ来ると、鋏を出して見せましたので、蟹さんが、また「チョキチョキ」といって、大笑いしたことがありました。 (井上甚之助『三津五郎藝談』より) |
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この部分はいつ読んでもクスクス笑ってしまう。「曲直」が「チョキチョキ」もおかしいのだが、折角正しくいえるようになったのにハサミをみてまた「チョキチョキ」になってしまうのが、なんともユーモラスだ。しかもそれをいっているのが「蟹」十郎というのが、二重三重のおかしさである |
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舞台でくすぐる (舞台の上の笑い話) 今月の『宇都谷峠』をみていたら、初代吉右衛門が六代目菊五郎に仕掛けられたいたずらの話を思いだした。大正四年九月の市村座である。もちろん重兵衛が吉右衛門、文弥が菊五郎である。 |
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この初演の時で思い出しますのは、六代目の文彌に悪戯をされて困った事でございます。 何しろ、悪戯好きの六代目の事ですから、宿屋の場で文彌に肩を揉んで貰う時、どうも、毎日擽られるのには弱りました。何しろ、重兵衛は屈託し通しの役ですから、まさか笑う訳にも行かず、止してくれとも云えません。我慢してくすぐったいのを堪えているつらさといったら一通りではなく、ところが先方はそれを楽しみにしているのですからまことに始末が悪いと云うわけでした。 所で、これには後日談がありまして、その後、二度目にいつか新橋演舞場(昭和二年十一月)で出した折、私はこの初演の時のつらさを思い出したものです。今度もあのデンでやられたら堪ったものではない。これは何とかして封じなければいけない。そう思って、稽古場に入った時、私は六代目に談判いたしました。今度は是非あれは止して貰いたい、どうしても止さないなら、私は舞台の上から、構わずに大声をあげて、「皆さん、尾上菊五郎が唯今私を擽りまァす。いけませェん」と訴える。怒鳴るといったら、本当に怒鳴るから覚悟してくれと、こう掛け合ったものなんです。これには流石の六代目も参ったと見えて、そこは負けない気の人ですから、今度は本格的に療治してくれました。(後略) (初代中村吉右衛門『吉右衛門自伝』より) |
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六代目は自分も按摩をとるのが道楽で、名人、上手という評判の按摩にはほとんどかかっていたという。いわば『按摩の通』だったそうで、吉右衛門は「実にどうもいい心持ちになり、一日の疲れがこの幕で抜けてしまう程で、毎日この場に出るのが楽しみでした」と語っている。 考えてみれば、今回文弥を演じた勘九郎さんはこの六代目の孫(母親の父)であり、吉右衛門の甥(父親の兄)でもあるという、対照的な二人の名優の血を受けたなんとも贅沢な役者といえるであろう。 |
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024
古狸を一喝 (楽屋での笑い話) 以前精神を患った長男の話に登場した関西の長老尾上多見藏にも、たぬき話がのこっている。前回同様、二代目延若が耳にした話である。 |
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いつのことでしたか多見藏さんが巡業(たび)に出た田舎のある小屋の奈落で何気なく唾をペッと吐いたところ、それがその小屋に棲んでいる古狸の顔へベットリかかった。古狸君、どうもこの仕打ちが腹に据えかねたと見え、多見藏さんの男衆に乗り憑(うつ)った。 乗り憑られた男衆こそいい面の皮で四ッばいになって鼻をクンクン鳴らし、あらぬことを口ばしり始めたのには一座の面々も吃驚して、わいわい騒ぎ出したが、これを聞いた多見藏さん、カンカンに怒って、折から得意の『一谷陣屋』の熊谷の、それこそ大阪風の金ピカ衣装に赤面の舞台姿そのままで、狸憑きの男衆の傍らへ走って行くなり、破れ鐘のような大きな声で、「コラ、おのれ奴畜生の分際で人間さまを馬鹿にするなッ」と怒鳴ったが、あの大きな身体にあの衣装で、その上、隈のとった物凄い熊谷の眼で睨まれたのには、さすがの古狸もすっかり縮みあがったものとみえ、スーッとその晩から憑きものがオリたという話でございます。 (二代目實川延若『延若藝話』より) |
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この實五郎さんが或る冬の雨夜、生國魂神社(いくたまさん)の石段を通りかかったところ、急に傘の上が重くなって歩けない。さては豆狸(まめだ)の仕業に違いないと、これも傘をさしたまゝで一つトンボを返って、そのまゝスタスタ帰宅してしまったが、翌日その石段の上に、昨夜(ゆうべ)の豆狸がぺちゃんこになつて死んでいたといふ逸話(はなし)も上方劇壇の故老(ママ)の思ひ出として伝わっております。 (二代目實川延若『延若藝話』より) |
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祝詞をあげて拝んでいる中に、この神主さんにお狸様が憑(の)り移られますので、その又凄いの何のといったらなく、あの怖さは未だに忘れられませんが、まるで普段の神主さんとは違ふ人の様になっていろいろな事を口走ります。無論声の調子も変わり、それも何かいうだけならまだしも、確にお狸様の憑(の)り移っている証拠には、到底人間業では出来ない様な事を致しますので…というのは、この神主さん、あれを持って来い、これを持って来いと、一々命令しては、お供物を片ッ端から喰べ、それも、一番始めに私の供えた盤台の鯛を両手で持ちながら、頭からモリモリ喰べるのですから肝を潰してしまいます。金花糖の鯛なら知らぬ事、生の大鯛を頭から尻ッ尾迄骨も剰(あま)さずムシャムシャ喰べるのですから、全く呆気に取られていますと、サアそれからはお神酒でござれ、お赤飯でござれ、油揚、お煮染、何でも彼でも、片ッ端から一つ残さずガツガツと喰べる所は到底人間業ではなく、そして、揚句の果にはお燈明油を一滴も余さず飲み干した上、その土器(かわらけ)迄、バリバリ、ムシャムシャ喰べてしまう恐ろしさ……私はもうびっくりしてしまい、息をのんで見ておりましたが、一座の者も皆幼少な子供達とて、中にはワアワア泣き出すのもある騒ぎで……。 (初代中村吉右衛門『吉右衛門自伝』より) |
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021
月に四・五回の畳替え (日常生活の笑い話) 團藏が飼っていた猿について、『演藝画報』の「梨園逸話」というコーナーでなかなか面白い話が紹介されている。 |
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畳建具と女房とは、新しいに限る、とは下世話にいうことだが、老優團蔵は、現にそれを実行して来た男で、この点においても、彼は大々的豪の者である。また彼の潔癖と来たら驚くべきもので、三好屋の癇性といったら有名なものである。女房の取り替えと建具の新調とは、ここには別として、彼がかつて東京住居の頃、月に四回も五回も畳替えをしたことについて、すこぶる滑の稽なる話があるから、それをご紹介する。 彼はその頃一頭の猿を飼って、これを非常に寵愛していた。猿もよく彼に馴れ親しんで、お茶を持てと命ずれば、早速心得て誰かに茶を汲んで貰い、それを茶托に載せて給仕をする。その他いろいろの藝もする。言うこともよく聞いたが、ただ一つ團蔵の恐ろしく閉口したことは、時々座敷で所構わず大小便をするのであった。そこで直ちに畳替えが始まる。畳屋はニコニコものだが、團蔵はシカメッ面をする。家人は怖ず怖ずで、これもシカメッ面をするという始末であったそうだ。 (『演藝画報』明治四十三年六月号より) |
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いっぽうこちらは十一代目片岡仁左衛門、現在の仁左衛門さんのおじいさんであるが、なかなかユニークな人物であった。その面白いエピソードはまた別の機会に紹介するが、その仁左衛門がやはり猿を飼っていたようだ。
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猿も飼いまして、これはよく馴れて可愛かったのですが、所構わず糞をするので潔癖性から追放しました。狸を飼った時は臭いばっかりで、ちっとも化けぬから面白くないと止めたのですがから洒落ています。 (片岡千代之助編『十一世仁左衛門』より) |