私の歌舞伎ノート

(歌舞伎を観ていて疑問に思った事などを調べて書いておきます。)



021  ついでに七九もやってたも
 (『野崎村』で久作が久松に頼んでいうせりふ)

 『野崎村』のこのシーンには耳慣れないことばが沢山でてきます。

 「橙の数は争われぬもの」
 「孝行に片身うらみのないように」
 「三里をすえてくれぬか」
 「もぐさもけんびきもおおづかみにやってくれ」
 「ついでに七九もやってたも」

 上から順に、お正月にお供えの飾りに橙を用いることから、年をとること。「片身うらみ」とは不公平から生じる恨み事のこと。三里はお灸のツボ、手と足にあり「三里当て」は以前に説明しました。
 「けんびき」とは「痃癖」と書き、「けんぺき」がなまったもので、首から肩にかけて筋がつること、またそのことから肩もみ=按摩のことをいいます。
 さて問題の「七九」ですが、白水社の『歌舞伎オンステージ15 新版歌祭文』をみますと「背骨と肩胛骨の間にある八ヶ所の灸をすえる場所」とあります。これは多分岩波の「日本古典文学大系 浄瑠璃集下」の注釈をそのまま用いたようです。しかし、ここは久作が肩を揉んでいる久松にむかっていっているので、お灸のはなしをするのはヘンですね。お灸をすえているのはお光です。
 正解は『名作歌舞伎全集 第七巻』(東京創元社)の戸板康二さんの解説にありました。
『「七九」は「糸竹」と書いて、こめかみの事を意味する言葉だという。』
 調べてみますと、目の周りには多くのツボがあるのですが、「糸竹空」は眉毛の一番外側に当たる場所のようです。たとえばこちらにくわしくのっています。
 歌舞伎座にでかけたら、鴈治郎さんが富十郎さんのどのあたりを揉むのかよ〜〜く見ておきましょう。

20050214記



020  様子あって久離切り
 (『新口村』で孫右衛門が忠兵衛についていうことば)

 久離=きゅうりと読みます。広辞苑には「旧離」とも書かれています。雪の中鼻緒が切れてころんだ孫右衛門を梅川が助けおこしたあとの会話です。
 「わしにも年たけた悴があったが、様子あって久離切り」「久離切った親子なれば、好かろうが悪かろうが、構うことはなけれども」といったせりふになります。
 広辞苑には「自分より目下の親族で欠落(かけおち)をした者に対し、役所に届け出て、関係を断絶すること」。また大辞林には「江戸時代、不身持ちのため別居または失踪(シツソウ)した子弟に対し、目上の者が連帯責任を免れるため親族関係を断絶すること」とあります。どちらも欠落や失踪を理由にしていますが、これはそうした情況の時に多く「久離切り」がおこなわれたからにすぎません。江戸語の辞典をみますと「正式に勘当をする。すなわち官に届け出て久離帳に登録し、人別帳から削除してもらう」となっています。
 落語などでもおなじみの「勘当」と久離はどこがちがうのでしょうか。たまたま最近文庫になった『おもしろ大江戸生活百科』(北村鮭彦・新潮文庫)をよんでいましたら、そのくわしい区別がでていました。
 簡単にいうと勘当には大きく3つのランクがあって、軽い順に「内証勘当」「勘当」「久離」となります。「内証勘当」は非公式な勘当で身内だけの処置です。落語の若旦那の多くはこれでしょう。公式にどこかに届けるということはありません。本当の「勘当」になりますと、名主に正式に届けでます。「久離」は重勘当ともいわれ、「家主、町役、五人組、名主が添え書きをして奉行所へ届けます。」さらに係の役人が慎重に調査して受理し、「奉行所に保管してある人別帳の名の上に『久離』と書いた札が付き、いわゆる『札付き』者になります。」とあります。
 ただし少々おかしいのは、町の人別帳は奉行所には保管されていないはずです。江戸幕府や諸藩はそこまで管理していません。人別帳を管理しているのは、町村役人のはずですね。

20050212記



019  ドレ添乳してやりましょう
 (『葛の葉』であそびから帰ってきた童子に葛の葉がいうせりふ)

 文字通り「乳児に添い寝して乳を飲ませること」(広辞苑)なのだが、この後に安倍晴明になる童子はいったい何歳だとおもいますか?保名のせりふに「ここにすまいいたすもはや五年、安倍の童子と申す五つになる倅をもうけ」とありますから、数えで五歳、少なくとも満で四歳にはなっているでしょう。そんな現在では幼稚園に通う子どもに、おっぱいを飲ますのでしょうか?
 じつは平安時代はいざしらず、江戸時代には数え年の六〜七歳まで乳を飲ませていたらしい。これは『江戸の子育て』(中江和恵・文春新書)にでていて驚愕したおぼえがあります。前の民主党代表で国会議員の鳩山由紀夫氏や鳩山邦夫氏の曾祖母にあたる鳩山春子はその自伝で,、「一番末っ子の為か私は六歳位まで乳を呑んで居たので、身体が非常に丈夫でありました。」と書いています。乳を十分に飲ませることは、子どもへの愛情だと当時の多くの人は考えていたようです。
 それにしてもちょっと現在では考えられないことですが、そのために乳母が重要視され、歌舞伎にもよく登場する「お乳の人」がお家騒動の原因となったり、大切な若君を守ったりするわけです。これがいまのように一歳くらいで乳離れをさせていたら、乳母のことなどちっとも記憶にのこりませんものね。このことは意外に知られていない、江戸時代の盲点でしょう。

20041125記



018  たがよたがよ
 (子どもが泣き出した時あやすことば)

 考えてみれば、何だかヘンなことばですよね。これはどうやら泣いている子どもにむかって「誰が泣かしたんだい」という問いかけなんだそうです。それがつまって「誰がよ」になったのです。

20041125記



017  三里当て
 (中間や奴などが膝の下にあてている三角形の布・紙のこと)

 正式にはなんというのでしょうか?専門家の方に教えて貰いたいのですが、広辞苑などの辞書では『三里紙』(さんりがみ)となっており、「土下座用とも、灸のあとを隠すためともいわれる」などと書かれています。『三里当て』とは、七代目三津五郎さんの著書にでてくることばです。
 
三里当ての三角なのは、二枚目とか、その他柔らかみにある役のもので、丸いのは敵役や赤ッ面のものです。『靫猿』では三角なのを、『供奴』では丸いのを当てます。芝居に例をとると、『妹背山』の御殿で、左右に同じように並んでいても、弥藤次は三角ですが、玄蕃は丸いのを当てるものなんです。(『舞踊藝話』より)

 常々三角と丸があるのに気づいてはいたのですが、こうした区別があったことは、この本を読むまで知りませんでした。そこで疑問だったことは、今月の国立劇場の『伊賀越道中双六』の序幕で行家を殺す沢井股五郎の奴が、三角の三里当てをしていたことです。見間違いだったのかなあ。

20041030記



016  理を非に曲げていわして見しょう
 (『沼津』で平作が出立した十兵衛を追う時にいうことば)

 「理」とは道理のこと、つまり正しいこと、「非」はその反対。簡単にいえば、「なにがなんでもいわせるぞ」と平作はお米にむかって決意表明しているわけです。
 もちろん、十兵衛にいわせるのは仇股五郎の居場所あるいは逃亡先です。そして自らの命をすてることであの有名な「落ちつく先は九州相良」ということばを引きだすことになります。
 この「理」と「非」は反対ことばといえるのでしょうが、最近は「是」と「非」をつかうようになりました。「理が非でも」は聞き慣れませんが、「是が非でも」「是非にも」は日常的に耳にすることばです。どちらも古くからつかわれているようですが、なぜか最近は「理」がつかわれなくなりました。「理非曲直」なんて、いかめしくてちょっと迫力を感じさせることばなのですが……。この「理非曲直」については面白い笑い話がありますので、絶句帳で紹介します。
 今回このことばが気になったのは、宇野信夫さんのこんなはなしが記憶にあったからです。

 たしか「雪地獄」だったと思うが、その中に「是が非でもやりとげなければ」というセリフを書いたことがある。六代目は「一般にはこの頃そう言ってるようだが、これは邪が非でもじゃないかな」と言った。成程そういわれて気がつくと、是が非でも、とはわけのわからない言葉だ。(宇野信夫『菊まくら』より)

 この時はなるほどとおもって読んだのですが、よくよく考えてみると、「邪が非でも」というのはヘンですね。なんで宇野さんは「是が非でも、とはわけのわからない言葉だ」なんて、なんども書いたんだろう。どうも不思議だ。その理由を「是が非でも」しりたくおもう。

20041015記



015  手が長い
 (『助六』でかんぺら門兵衛と助六とのやりとりで出てくることば)

 門「なんだ、わしだ」
 助「ムウ、わしだァ」
 門「うぬが鷲なら、おらァ熊鷹だ」
 助「熊鷹の長範、貴様は手が長いな」
 門「おきゃァがれ」
とまあこうなります。

 わし→鷲→熊鷹→熊坂長範→手が長い、という連想ゲームですが、熊坂長範とは平安末期に活動した大泥棒です。長範の伝説は各地に残っているようで、たとえばこことか、こことかを参照してください。
 問題はなぜ「手が長い」か?じつは「手癖がわるい」「盗み癖がある」ことを「手が長い」といったようです。いわれてみれば、イメージがわいてきますね。
20040618記



014  大杯を飲む前の「ふぅ〜〜」

 (『勧進帳』の舞台で弁慶が葛桶から大酒を飲む前に、「ふぅ〜〜」
     と、酒の表面に息を吹きかける行為。)            

 これも渡辺保さんの『芝居の食卓』にのっています。それによりますと、これは九代目團十郎の工夫だそうで、九代目が成田山に参詣した折り、朱塗りの大盃に酒を何升か注いで飲む、儀式を見せられた。その時の飲み手がそうした行動をとった。これは立ちのぼる酒の気を吹き払わないと、アルコールの気に先に酔ってしまうためだということで、九代目團十郎は早速その行為を、舞台に取り入れたということです。
 昨年12月の團十郎さん、猿之助さんの『大杯觴酒戦強者』でも、團十郎さんが生真面目に息を吹きかけて演じていました。
20000207記



013  竹村伊勢

 (『助六』の舞台で上手、下手に積み上げられた箱状のものに書かれている文字。)

 正確には、「新吉原 竹村伊勢」と書かれています。お気づきになった方も多いと思います。渡辺保さんの『芝居の食卓』によりますと、あれは、「竹村伊勢」という菓子屋の蒸籠(せいろう)だそうです。
 竹村伊勢は新吉原仲の町、江戸町二丁目への曲がり角にあって、宝永4(1707)年には万屋太郎兵衛といい、巻煎餅を売り出して評判になったと、興津要さんの『江戸味覚歳時記』から引いて説明しています。
 考えてみれば、『助六』には台詞の中にも様々な広告がちりばめられていますので(福山かつぎ、朝顔仙平の台詞は煎餅尽くし、など)、スポンサーの一つだったのかもしれませんね。助六の台詞にもある「店先へ煙草を蒸籠のように積んで置いた。」も、この「竹村伊勢」から来たようです。
20000207記



012  ひえもん

 (『助六』の中で、助六が花道から舞台中央へ出ていく時の言葉。)

 じつはこれ、冬に銭湯で湯船に入る時の挨拶の言葉なんです。
 ひえもん=ひえもの=冷物、つまりまだ身体が冷たい状態であることを断っている訳です。助六はその言葉をしゃれの感じで言っているのでしょう。
 また、辞典には「後から寝床に入る時」にも使われたとあります。こちらの意味で助六は使ったのでしょうか? 
20000207記



011  しらにせ

 (『伊勢音頭』の中で、万野が貢の頬を団扇の柄でつつきながら、言うことば。)

 「アア聞こえた。お紺さんが聞いてじゃによってそのようにとぼけるかいなア。むごいぞえ。折角お鹿さんが上げたお金を、今となって取らぬのなんのと、お前も余っ程しらにせじゃなア」 

 舞台を見ている時は、聞き取れなかったのですが、家に帰って調べてみると、しらにせ。あいかわらず『江戸語の辞典』を見ると「そらとぼけること。しらばくれること。」と説明されています。
 『白似』という漢字があてられています。 
19990630記



010  いりまめにはな

 (『河内山』で、宗俊が上州屋の娘を助け出す約束で百両せしめて帰ったあと、後家おまきと後見役の清兵衛との会話で出てくることば。)

 漢字で書くと『煎豆に花』でそうと分かれば意味は想像できます。
 『江戸語の辞典』では『煎豆に花が咲く』の略で、あるはずがないことのたとえ、あるはずがないことがあったたとえ(願ってもない幸い)、九死に一生を得るたとえ、などと説明されています。  
 おまきは「(娘が)首尾良く戻れば煎豆に、花じゃと思うているわいな」と語りますからあるはずのないことがあった、つまりは戻ってくれば大変ラッキーと思う、と言っているのでしょう。 
19990422記



009  けなりかろう

 (『寺子屋』で松王丸が桜丸を思い出して、「さぞ羨ましかろ、けなりかろう」と泣き出します。)

 『けなるい』というのは羨ましいの意で、『けなるがる』は羨ましがる、うらやむ、という意味。どうやら同じ意味を違う表現で表しているんでしょうね。
 わたしはここで桜丸が出てくるのは、桜丸に事寄せて、わが子の死を悲しみ嘆く隠れ蓑にしている、と解釈しているのですが、いまもっと想像力をたくましくして、桜丸と小太郎が良く似ていた、叔父甥としても顔が似ていたのでは、と勝手に思っています。 
19990422記



008  長竿にする

 (同じく『盟三五大切』の中で、源五兵衛が小万たちの行動についていうことば。)

 深川の岡場所で言い始めたことばだそうで、芸者や娼妓が客を振る、あるいは冷遇すること。『長竿で突き出す』ともいいます。    
 また同様の意味で単に『突き出す』という表現もあり、絶縁する、手を切る、捨てるなど。後に男が女に対しても使うようになったそうです。
19980909記



007  あひるを追いに行く

 (コクーン歌舞伎『盟三五大切』の中で、ごろつきたちが寝る間際にかわすことば。)

 休憩時間に笹野さん扮する町人があれは一体どういう意味だ、と話していましたが、『あひる』とは深川あたりにいた私娼のことで、当然『あひるを追う』とは売春婦を買いに行くという意味です。      
 なぜ深川周辺の私娼があひると呼ばれたのかは諸説あるようですが、『江戸語の辞典』では二百文をガアと言い、私娼の値段が四百文でガアガアだから、あひると呼ぶ、という極めて理解しやすい当時の資料をあげています。
19980909記



006  まんがちな人

 (同じく『義経千本桜』の川連法眼館の場で、静が義経と再会した後、忠信の姿を発見して、「ちっとの間に先に抜け駆け。まだ戦場かと思うてか。ほんに、まんがちな人ではあるわいなア。」と語ります。)

 まんがちとは漢字では、目勝と書き、身勝手、我勝ち、利己排他、こすいなどの意味があります。
19980721記



005  チチュウがあれば容赦しない

 (『義経千本桜』の椎の木の場で、権太と小金吾が言い争う際に、何度も出てくることば。)

 調べてみますと、難しい字ですね。足偏に知る(踟=チ)に足偏に厨(チュウ)でチチュウ。もともとはためらう事、転じて万一の事、あやまち、まちがいの意に使われたそうです。 
19980721記



004  これはといちお嬢様

 (『弁天小僧』で番頭がお嬢様に化けた弁天小僧を見てつぶやくことば)

 調べてみれば簡単な話で、「といち」とは「ト一」、つまり「上」という字を分解したもので、美しいとか美女、を意味するそうです。元来は呉服屋などで、符丁として用いられていたもので、上等の隠語だったようです。そこから派生して、『といちぽちぽち』なることばも出来たようです。つまり『上ゞ』。
 探すとまだあるのでしょうが、例えば『といちのくちじるし』は、『吉』のこと。これは江戸のことばではないのでしょうが、『にかいのおんながきにかかる』=『櫻』なんて言い回しを子供の頃に聞いたことがあります。 
199800202記



003  からすがおきゅうをすえるぞえ

 (『曾我対面』で化粧坂の少将=今月は孝太郎さんが兄弟を笑った大名たちに対して言うことば)

 なかなか耳慣れないことばで気になりました。『江戸語の辞典』で調べてみると・・・、嬉しい事に載っていました。              
 「諺。悪口をいったり憎まれ口を利いたりすると口角瘡ができるぞと、たしなめることば。」                         
 どうやら幼児などの口角にできる瘡のただれたのを「烏の灸」といい、また、悪口や憎まれ口を「烏」というところから、こうした表現になったのでしょうね。
199800128記



002  青貝師(『石切梶原』の六郎太夫の仕事)

 今月又五郎さんが演じられた、青貝師六郎太夫。あれ!?青貝師って何をする人、と思って調べてみますと、青貝とは螺鈿(らでん)の事だそうです。
 三省堂の大辞林で螺鈿の項を引くと、「漆工芸技法の一。貝殻の真珠光を放つ部分を磨(ス)り平らにして細かく切り、文様の形に漆器や木地にはめこんで装飾するもの。中国唐代に発達、日本へは奈良時代に伝来、平安時代には盛んに蒔絵(マキエ)に併用された。薄い貝を用いたものは特に青貝ともいう。」と記されています。
199800128記



001  あもつき(『廓文章』の吉田屋店先の場より)

 やたら「あもつき」ということばが出てくるので、なにかと思って調べてみました。                             
 あもとは『餅』のことで関東では小児語として使われたということです。
199800128記







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