岩佐 正人 

岩佐です。


 小倉高校同窓の皆さんに私のことを少し紹介させていただきたいと思います。
 昭和47年に三菱油化という石油化学会社(製造業)に入社し、社会人の第一歩をスタートしました。大学でコンピュータシミュレーションもどきをほんの少し勉強しましたので、生意気にもコンピューターで制御すべき大規模プロセスを相手にしたいと考え、石油化学プラントを選びました。

 三重県四日市市の事業所の計装課(計装といっても何のことかご存じない方も多かろうと思いますが、取りあえず軽い装いのことではなく化学プラントの制御をする仕事とご理解下さい)に所属し、プロコン(この言葉にも少し説明が必要でしょうか、プロセスコンピューターの略です。ワードマシンで主メモリ24KW・補助メモリ512KWのドラムメモリ、今で言うUPSはフライホイールという、最近のパソコン社会では考えられない代物)を新設プラント及び自動倉庫に導入する仕事を担当しました。
 昭和51年に三菱油化エンジニアリングが発足し、新会社設立・出向(製造業からエンジ業へ)となりました。仕事の内容は 相変らず化学プラントの計装です。ただし、自分の技術をお客様に買っていただく 立場になりました。中国・アフリカのナイジェリア・アメリカと海外の仕事もたくさん経験させてもらいました。
 平成3年に東京本社に移り仕事の内容ががらりと変りました。
 お客様はこれまでの化学会社ではなく、 松野明美さんで有名な熊本の(株)ニコニコ堂様(商品配送センター)・ミツカン酢で有名な(株)中埜酢店様(シャブシャブのたれを作る工場・五目ずしの素を作る工場)・皆さんがソフトクリームを買われるとき良く目にされるコーンの日世(株)様(コーンではなくソフトクリームの素を造る工場)等々種々様々で、求められる技術要素もPA(プロセスオートメーション)・FA(ファクトリーオートメーション)・情報システム(生産管理・工程管理・物流システム)と、これも種々様々です。 慣れない仕事に多少苦労もしました。
 平成8年に三菱化学エンジニアリング発足(実は平成7年に三菱油化と北九州で生れ育った同窓の皆さんにはおなじみの三菱化成が合併し三菱化学となり平成8年にその子会社同士が合併し新社設立)となりました。  サラリーマンとして、2度の新会社設立に立会うことが出来、出向・合併も経験し、仕事の内容も、出会いを持たせてもらった人々も、幅広く経験でき、得をした気分です。


 以上が私の社会人としての略歴ですが、皆さんと共に過した小倉高校の3年間の中で、特に思い出として心の中に残っている2点を次に記させていただきます。
 第1点、確か私たちの同期は6百数10名でそのうち女子生徒(女性と書かなければいけないのでしょうが、当時は男子・女子であった)は数10名、しかも男女一緒のクラスが1組から4組までで、残りはむくつけき野郎ばかりのクラスであったと記憶しております。 そういった特殊な環境の中、大変幸せなことに私は3年間とも男女一緒のクラスであった。


 第2点、高校入学直後、私は硬式テニス部(当時テニスはかっこよく見える物と思っていた)へ入部しました。しかしながら根性の無さ・素質の無さ・素直さの無さを悟り、2ヶ月で退部しました。そこで何を思ったか(記憶が定かではない)陸上部へ入り直しました。 ところが、100Mを走ってみると、私よりも早く走る同学年の女子部員が居るではありませんか。ショックの余り、またまた退部を考えたが、ここは何とか頑張って彼女よりは早く走れるようになりたいと一念発起し、2年生の時には、何とか、リレーメンバーの補欠なれども大分で行われたインターハイにも行く事が出来た。3年生の夏まで、何が面白いのかただ走ることに打込めたことが、共に汗を流した仲間との熱い思い出となっております。
 昨年11月の小倉での記念同窓会、又今年5月の東京での同窓会と、30年ぶりに、当時大変お世話になった先生方、全員おじさん・おばさん(言葉の不適切ご容赦)になった同窓の皆さんとお会いすることが出来、本当に懐かしく又愉快な一夜を過すことが出来ました。


 皆さんお忙しい中幹事役の労をとっていただいた方々に深謝の気持でいっぱいです。
 50歳はまだまだ人生の発展期と心得、何かと厳しく難しい世の中ではありますが、新しい出会いと交流を目指して努力していきたいと思っております。今後とも宜しくお願いいたします。
 最後に、皆様のご健康とご発展を心よりお祈り申し上げます。


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