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(September 18, 2001)
Von Dutch is Still alive
Von Dutch Originals が気になります。
Von Duch(ヴォン・ダッチまたはフォン・ダッチ)とは、40‐50年代のホットロッド・ムーブメントにおける伝説的人物の1人です。フレイムやピンストライプ、フライング・アイと呼ばれる独特のロゴが有名ですが、数年前に、これらをモチーフにした、Tシャツやジーンズのブランド"Von
Dutch Originals" がアメリカにオープンし、今では原宿、札幌やアメ横など、国内でも買えるようになりました。
フライング・アイ - http://www.vondutch.com/
上記のような、フライング・アイや、"Von Dutch"と渋くプリントされたTシャツを見たことがある人も多いのではないでしょうか。
自分も何点かTシャツ等を所持しており、現在も、Tシャツ以外のアイテムを物色・入荷待ち中です。

Von DutchのTシャツ。色は、白や黒、グレーが一般的。
フライング・アイやプレーンな"Von Dutch"のロゴを手に入れた後、さらにもう1枚欲しくなってしまう。
これはピンストの赤だが、この他にも、まだたくさんのヴァリエーションがあるようだ。
ツナギ。フライング・アイのバックプリント系アウター類は、今のところこれだけか。
サイズはM、L。かなりゆったりと着るのが、Von Dutch流。
ハンカチにもVon Dutchのロゴ。
Von Dutch Originals の製品を日本で扱う、HUNTINGTON GARAGE が発行するカタログが手元にあるのですが、製品紹介よりもむしろ、Von
Dutchという人物や、Kustom Kultureの紹介が大半を占めており、とてもためになります。(日本であまり見られないその内容を全面的に紹介してしまおうか?)
そのカタログの記事は、以下のような内容です。
アメリカが依然保守へと動いた50年代、LAのストリートシーンに20世紀を代表するアンダー・グラウンド・ヒーローが登場した。Von
Dutch。大量生産社会に真っ向から立ち向い、フリーハンドで土曜の夜を塗り替えた孤高のピンストライパー。 KustomこそVon Dutch流のヒューマニズムであり、社会へのアンチテーゼだった。
Von Dutchという名のKustom Kulture ― それは、永遠に続く、「LA流カウンターカルチャー」に他ならない。
天使達の街、ロサンジェルス。太陽が燦々と降り注ぐこの街に、どれだけのカウンターカルチャーが誕生していっただろう。ホットロッド、サーフィン、ヘルスエンジェルス、スケートボード、ローライダー、ゴシックシルバー。全ては既成社会にアンチを掲げ、自宅裏の小さなガレージで穏やかに成熟していった。そんなLAストリートシーンで今なお「アンダー・グラウンド・ヒーロー」に君臨し続けるのが故Von
Dutchである。大量生産時代に対抗し、フリーハンドで唯一無二の世界を描き続けた生涯。それは、真夏の日差しに輝きつづける終わりなき「LA流カウンターカルチャー」である。
1929年、Von Dutchはロサンジェルスに生まれた。"Von
Dutch"とはきかん坊の彼に家族がつけたニックネームで、彼には、ケネス・ハワードという本名がある。つまり、Von Dutchとは幼きケネス少年にとっても自分自身をカスタムした「もう1人の自分」だったのだろう。
LAで名の知れた看板屋の父を持った彼は10歳でプロレベルの技術をマスター。学校では「最も絵を早く描く男」として輝光を放っていたという。
まだルート66を中心にLAが栄えていた40年代、Von Dutchの育ったコンプトンは巨大産業を支配するサウスサイドにあった。 ベルには後に世界的なヘルメット会社に成長したロイリチャーの「Bell
Auto Parts」、ノーフォークにはディーン・ムーンの「Moon Automotive」と20世紀のカスタム界を担う若きイノベーターで溢れていたのだ。コンセプトもまた80年代に「ローライダー文化の発祥地」になった場所であり、Von
Dutchという文化が誕生する条件が全て揃っていたといえるだろう。
Kustom Kulture の著者クレイグ・ステシックはホットロッド黎明期を振り返る。
「50年代初頭のLAは兵役から若者達が戻り、様々な文化が開花した時だった。LAではじめてサーフショップを開いたデイル・ベルジーや、ジョンスンモーターズのトライアンフに跨って米バイク史を変えたバド・イーキンス、そして車業界にはコンプトンのジョージ・バリスというカスタム界のトップに立つ男がいた。当時私の父親は、そのパリスと仕事関係にあって、周りにはいつもカスタム業界のパイオニア達が集まっていたよ。Von
Dutchに会ったのも私が4歳、1954年のことで、まだ誰も見たことがないオープントップのフォード・サンダーバードを観に行った時のことだった。その時、彼は私にピンストライプ用の小さな筆をくれたんだ。彼は子供が大好きで、よく子供達の自転車にただでペイントしてあげていたよ。」
1948年、すでに「Hot Rod
Magazine」がLAで創刊。1930年代に始まったカーカスタム文化は「ホット・ロッド」という名に変わって全米規模のビッグカルチャーに成長していくことになる。同時に即効で奇抜なペイントを描くVon
Dutchはオートグラフィック界のパイオニアとして黄金時代を迎えた。
「当時誰もが彼を気狂いと呼んでいた。しかし、あまりにエキセントリック過ぎただけ。50年代はまだ保守的で、新車にピンストライプを入れるなんてとても考えられない時代だったんだ。それでもVon
Dutchは周りの目を気にせず、独自の表現を完成させていった。彼にとってルールは自分でつくるものだったのさ。」
この時期、Von Dutchはジョージ・バリスを介して若き"ビッグ・ダディ"・エド・ロス、ロバート・ウイリアムスに会う。ここに"C"を"K"に変えた"Kustom
Kulture" がこの3大巨匠によって誕生することになった。時代はエルビス・プレスリーが登場し、ジーンズに革ジャン、そしてアメ車に乗って土曜の天使を探すティーンエイジャーで溢れていた。そんな映画「アメリカン・グラフティ」の世界はケネディ暗殺の1960年代初頭まで続いたという。
70年代に訪れた2度のオイルショックは米産業界に大きな打撃を与え、それは実質「アメリカン・グラフティ」の終焉となった。しかしVon
Dutchは親友スティーブ・マックイーンの依頼を受けて映画「栄光のルマン」で車にペイントするなど、既にハリウッドという新たな基盤を獲得していた。同時にKustom
Kultureは車業界に留まることなくアートの世界にまで多大な影響を及ぼし、Von Dutchは広く知れ渡ることになる。
アンディ・ウォホールを頂点とするNYアンダーグラウンドカルチャーが世界を席巻した時も、LAにはVon
Dutchがいるという誇りがあった。ただ彼自身は金とか名誉には全く興味のない人で、いくら成功しても古いトラックハウスに隠っては仕事をしていたという。
1992年、Von Dutch死去。
Von Dutchの死後も彼のフォロワーは後を絶たない。ヴォン・フランコを頂点とする「ローブロー系」が台頭し、LAは第二次Kustom Kultureムーブメントを迎えている。
一方、故Von Dutchの遺志を継いだファッションブランド"Von Dutch Originals"が、メルローズ通りにオープンした。コンセプトは「デニムバー」。バーでカクテルをオーダーするように、カスタムメイドのジーンズを作ってくれるらしい。ここには、かつてベニスの不良少年だったオーナー、マイケルカーセル氏の揺るぎなき信念が存在する。
「アメリカの大企業がチープなジーンズしか作れないなら、俺達は数少ないメイドインUSAの本物を作っていくだけさ。別に万民に支持されようなんて思っちゃいないよ。でも解る客は必ずこの店にアメ車を飛ばしてやって来てくれるはずさ。」
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