-櫻前線- Page6 



 単純な話だった。

 父が札幌の支店に転勤になったのは去年の春だった。最初は家族全員で一緒に行こうという話もあったけど、1年や2年じゃなく、ずっと札幌勤務になりそうだということで、父には1年だけ単身赴任で我慢してもらって、その間にむこうに家を建ててしまうことにしたのだ。
 そうすれば、ちょうどわたしが高校を、弟は小学校を卒業するタイミングに合う。そしてわたしは、早々と推薦入学が決まった。札幌の大学で、学科も希望どうりだった。
 何もかも単純で順調で完璧だった。そのときはそう思えたのだ。

 どちらかというと、あまり自分の話はしたがらない倉沢くんだったが、わたしが次々と臆面もなく浴びせる質問に根負けしたのか(話を切り出すのは、いつもわたしのほうだった)、少しずついろんな話をしてくれるようになった。そして、彼が見かけによらす、まわりの人間が思ってもみないほどの夢を抱えてること、そしてそのために努力を続けてることを知ったときは、意外だったのと同時に嬉しくもあった。なにしろこの秘密を共有してるのはわたしたち2人だけなのだ。
 わたしが卒業と同時に、札幌に引っ越すという話が喉まで出かかった時、彼はぽつりと言った。
「横浜の大学受けようと思ってるんだ」
 わたしも自分でわかってなかったはずがなかった。高校3年になって、これからどうするつもりなのか、考えてない人がいるはずはない。きっと知るのが怖かったのだと思う。だから無意識のうちにその質問を避けていたんだ。
「あそこにしかない学科なんだ、どうしても入りたい…」
そういう彼を見て、わたしはただ微笑むことしかできなかった。
「そう… 夢、かなうといいね…」
 たぶん、そのときにすぐ、わたしも言うべきだったんだと思う。けど、わたしにはできなかった。
 時計の針を戻すことはできない…


 人はあんまり真剣になると、気のきいたセリフなんか言えないものだ、という言葉を聞いたことがある。たしかにその通りだ。
 わたしがやっとの思いで口にした言葉も、それはそれは陳腐なものだった。
「…ごめん」
 わたしはそっと彼の腕に触れた。震える指先に彼の体温を感じる。
「ずっと前から決まってたんだけど、言いだせなくて… ごめんね…」
 まったく、なんて気のきいたセリフだ。張り詰めていた胸に風穴が開いたみたいな気持ちだったが、涙は出なかった。
 わたしは、このままこの世から消えてしまいたい気がした。

 先に沈黙を破ったのは、意外にも倉沢くんのほうだった。
「いいよ…」
 わたしは思わず顔をあげた。彼はわたしのほうを向いて、微笑みながら話し続ける。
「そうだなあ、文通でもしようか? 電話より安上がりだし。
 札幌かあ… 北海道って行ったことないんだよなあ。夏休みになったらさ… 」
 倉沢くんの不自然に明るい声は、波の音と風のうねりの中で、わたしの耳にこの上なく虚ろに響いた。わたしの中で、自分でもよく理解できない、不条理な気持ちがわき起こってくる。
 珍しく饒舌に話し続ける倉沢くんに、わたしはぽつりと言った。
「…平気なんだ」
 凍りついたように、彼の動きが止まる。
「もう、めったに会うことも… 一緒に歩いたり、話したりすることもできなくなっちゃうのに…」
 人が涙を流す時というは、けっこう自分で自分の気持ちを追い込んでいってることが多いものだ。でも、そうではない時、人はしばしば自分で自分をコントロールできなくなってしまう。まさにわたしはそういう状態だった。
「忙しい時期だから、あんまり誘わなかったんじゃないんだね… 
 あたしが一人で勝手に… 」
 今まで二人でいた時の記憶も、わたしの言葉も、輝いていたはずの全てのものが、苦々しいものに感じられた。わたしの手が、彼の腕から離れた。
 わたしの意向を無視して、大粒の涙がこぼれた。
「……ばかみたい」
 自分自身の感情にむせかえりそうになって、わたしは手で顔を覆った。なんとか自分の感情を絞めあげて、これ以上みっともない真似をさらさないようにしたかったが、それはほとんど無駄な努力だった。

「…わかってたよ」
 倉沢くんの穏やかな声が、いつもとは違って聞こえた。わたしのぼやけた視界の隅に、うつむいた彼の姿がうつった。
「ああ… わかってたよ、必ず離れるって、僕にも君にも…、誰にもどうしようもないって…」
 わたしは唇をかんで、彼を見上げた。
「誰のせいでもないさ…」

 今日のために、何度も考えたシナリオの中で、どうしても埋まらなかったのが倉沢くんの反応の部分だった。そもそもわたしは、倉沢くんにどうしてほしかったのだろう?
 できの悪いドラマみたいに、札幌なんか行くなって、引き止めてほしかったのか?それとも、笑ってさよならを言ってほしかったのだろうか?
「それで…、逃げまわってたの?」
 そう、誘うのはいつもわたし、話しかけるのもいつもわたし… なるほど、気のない返事も、つきあいの悪さも、みんなそういう理由だったわけだ… 
「ん… よくわかんないけど、そうかもね…」
 わたしの中でなにかが音をたてて切れた。わたしは流れる涙をぬぐいもせずに、正面から彼を見据えた。
「…卑怯だよ」
 静かに震える声で言ったこの一言が、今までわたしが言ったどんな言葉より、倉沢くんに衝撃を与えたように見えた。もうわたしは、なにひとつ冷静には考えられなくなって、感情を爆発するにまかせて、拳で彼の胸を叩きながら叫んだ。
「卑怯だよ、そんなの! 最初からあきらめて、なにもしないで! 避けられないって、どうしようもないってわかってるなら、一緒にいればいいじゃない! 二人して一緒に傷つけばいいじゃない!! そうやって、自分ばっかり楽して、傷つかないとこに逃げ込んで!」
 二人とも、傷ついてないはずがなかった。楽な場所なんてあるわけがなかった。そうだとわかってても、わたしは叫ばずにいられなかった。
 彼は黙ってわたしが叩くにまかせていたが、そっとわたしの腕をつかんだ。とたんに全身の力が抜ける。
「ずるいよ…」
 絞り出すようにつぶやいたわたしの言葉には答えずに、倉沢くんはわたしの肩に手を置いて言った。
「…ごめん」

 人はあんまり真剣になると、気のきいたセリフなんか言えないものだ…
 わたしは顔をあげて、倉沢くんとむきあった。彼は涙を流してはいなかったけど、心から悲しそうな目をしていた。
 わたしたちは二人とも泣いている、二人ともすまないと思ってる、そして二人とも同じように、どうしようもなく無力だった。
 
 わたしは倉沢くんにしがみついて、大声をあげて泣いた。彼の体温と鼓動だけを感じながら、心が流れ出してしまうくらい泣き続けた。
 海から吹いていた風の向きが変わって、松林のむこうの桜並木から桜の花びらが飛んできた。いくつかは砂の上に落ちると、波にさらわれて海に浮かび、ゆっくりと漂っていった…





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