もう秋ですね。夜が長くなってきます。存分に議論してください。
元の発言 [ Re: よくわからないので、全部書きます ] お名前 [ マルセ ] 日付 [ 8月30日(木)21時46分37秒 ]
>兵庫にはこのグループの鏡が見当たりません。2世紀のものが入っているかどうかはよくわかりませんので、全部を抜書きします。『古代「おおやまと」を探る』218ページ(小山田宏一)
>千葉 高部32号 上方作系浮彫式神獣鏡
>千葉 高部30号 斜縁ニ神ニ獣鏡
>長野 弘法山 上方作系浮彫式神獣鏡
>長野 中山36号 上方作系浮彫式神獣鏡
>岐阜 象鼻山1号 き鳳鏡
>三重 東山 斜縁四獣鏡
>奈良 ホケノ山 画紋帯同向式神獣鏡
>奈良 ホケノ山 半肉彫表現の鏡
>奈良 中山大塚 上方作系浮彫式神獣鏡
>京都丹波 園部黒田 双頭龍紋鏡
>京都丹波 太田南2号 画紋帯環状乳神獣鏡
>岡山 七つ[土丸]1号 き鳳鏡
>岡山 宮山 飛禽鏡
>徳島 萩原1号 画紋帯同向式神獣鏡
>香川 丸井 画紋帯環状乳神獣鏡
>愛媛 朝日谷2号 斜縁ニ神ニ獣鏡
>福岡 汐井掛28号木棺 飛禽鏡
>福岡 馬場山41a土壙 双頭龍紋鏡
>福岡 野方中原1号石棺 上方作系浮彫式神獣鏡
>
> この19面です。それと、邪馬台国の考古学(石野博信)の42ページから上記にない10面も加えるべきかも知れません。
>福井 岩内山D 飛禽鏡
>奈良 見田大沢4 四獣鏡
>京都山城 芝ヶ原 四獣鏡
>京都丹波 狸谷17 獣帯鏡
>京都丹波 成山2 飛禽鏡
>徳島 庄 神獣鏡
>香川 円養寺C 変形神獣鏡
>福岡 外之隈II−2 飛禽鏡
>福岡 郷屋 四禽鏡
>大分 赤塚方周1 飛禽鏡
> 合計すると29面で、関東甲信4、東海2、北陸・山陰5、畿内5、山陽2、四国5、九州6となります。>二つ本で記述法が異なりますので、モレや重複が数面あるかも知れません。
# 兵庫(播磨)のものが全部欠落している意味はよくわかりません。
# 福岡汐井掛28号木棺出土鏡は原報告書では弥生後期とあり、飛禽鏡の破鏡(1枚の半分弱)です。
福岡馬場山41a土壙の双頭龍紋鏡は3cm×6cmくらいの破片がたった一つです。双頭龍紋鏡というのは中国でもどちらかというとランクの下のほうの鏡です。弥生V期とあります。
福岡野方中原1号石棺の上方作系浮彫式神獣鏡は1/4くらいの大き目の破片を副葬した古墳前期のものです。
福岡郷屋の四禽鏡は径11.6cmの完鏡。これは古墳時代初期のものです。
福岡 外隈II区2号木槨墓の飛禽鏡も破片です。
これらを1枚と数えるべきかどうかも問題ですね。
小山田氏の表は本来、どの期の漢鏡がいつ日本列島に入ってきたかを分析する意図で書かれていますので、完鏡でも親指大の破片でも扱いが同じなのです。ところが、この表で作者小山田氏の意図を越えて中国本土との交流の濃度を見ようとすると、些かミスリーディングということになろうと思います。
またホケノ山については、国学院所蔵の画文帯2枚、大神神社蔵の長宜子孫内行花文鏡1枚がホケノ山出土のものであると言われて伝わっています。今回の発掘で出た画文帯2枚と内行花文鏡2枚と考え合わせると、1古墳で畿内が大きく突出することになります。もちろん内行花文鏡の製作地議論もありましょうが、上記の北部九州の例と比べて格差があまりに大きくはないでしょうか?
元の発言 [ Re: 「邪馬壹国」(正史及び梯儁と張政編) ] お名前 [ 大和猫 ] 日付 [ 9月5日(水)01時31分32秒 ]
>> 景初二年六月は景初三年六月の誤りとするのが正しいでしょうね。
※※ 明帝は、景初二年の十二月に急死しています。
景初三年六月の遣使とすると、死亡後に詔書を出しているということになる。
こんなことがありうることだろうか。
>> 晋書倭伝には、
※※ 今回は、「三国志」をとりあげています。
後代の晋書などは、3世紀になかったものなので、これの論議をしても、陳寿のあずかり知らぬこと。
論議にならないのでは?
元の発言 [ Re: 「邪馬壹国」(正史及び梯儁と張政編) ] お名前 [ 紀 智明 ] 日付 [ 9月5日(水)08時29分33秒 ]
>> ※※ 明帝は、景初二年の十二月に急死しています。
>> 景初三年六月の遣使とすると、死亡後に詔書を出しているということになる。
>> こんなことがありうることだろうか。
明帝が詔書を出したなんて魏志倭人伝には書いてないのだから関係ないのでは?
>> ※※ 今回は、「三国志」をとりあげています。
>> 後代の晋書などは、3世紀になかったものなので、これの論議をしても、陳寿のあずかり知らぬこと。
>> 論議にならないのでは?
張政が20年も滞在したという説も3世紀になかった後代の晋書に依っているなら、そんな論議をしても、陳寿のあずかり知らぬことということになって、これまた論議にならないのでは?
元の発言 [ Re: 「邪馬壹国」 ] お名前 [ 牛頭天王 ] 日付 [ 9月4日(火)20時50分11秒 ]
>> で倭人が戸数と人口を間違えて魏使に伝えた・・かも。(~_~;
#確かに、糸島平野=2万人、福岡平野=7万人というのはちょうどよさそうな数字ですね。ただ、古田史学はこういう根拠の無い憶測を認めない「はず」。
「単なる観光案内ではなく、きわめて政治的・軍事的な面をもっていること忘れてはならないはず」の正史ですから。
>> あるいは倭人が自国を大国に見せるため多めの戸数を教えた。
>> もしくは魏側に何らかの都合で多めに書く理由があった。
>> など妄想を廻らせてます。
#なるほど。牛頭天王さんは、まだ妄想段階ということですね。
元の発言 [ Re: ロストワックス&鋳砂 ] お名前 [ 牛頭天王 ] 日付 [ 9月4日(火)06時40分37秒 ]
>> >> >> ホケノ山の画紋帯神獣鏡なんかどうでしょう。
>> >> #ホケノ山の画紋帯神獣鏡をロストワックス法でどうやって作るのですか?
>> ホケノ山の画紋帯神獣鏡がロストワックス法で作られたと主張したい訳ではありません。
>> 石膏によるロストワックス法でやればあの鏡の肌のきめ細かさやくっきりした襞の線などが可能ですが、粘土では出せないと言いたいのです。
>> 一番肌が綺麗になるのは石か金属の型ですけどね。
>> 型の段階で磨けますから。
そうなんですか?
私は、青銅には門外漢なんだけど、鉄の場合、黒鉛なんか
塗ることで結構きれいな肌になる場合が有るんですけど。
砂型でも何か目の細かい粒子の物を塗り込むことで
結構きれいになるんじゃないかと思うんですけど。
ロストワックス法にシェルモードなんて聞いたかな
(もう名前覚えていないけど)有るんだけど結構きれいです。
粘土でも乾かしてから磨けば結構きれいになるんでは?
金属型は、確かにその点はきれいにできるでしょうね。
プロジェクトXの流しの金型のエピソードを思い出しました。
元の発言 [ Re: 「邪馬壹国」 ] お名前 [ EK ] 日付 [ 9月5日(水)12時31分54秒 ]
>> >> で倭人が戸数と人口を間違えて魏使に伝えた・・かも。(~_~;
>> #確かに、糸島平野=2万人、福岡平野=7万人というのはちょうどよさそうな数字ですね。ただ、古田史学はこういう根拠の無い憶測を認めない「はず」。
古田先生は七万戸の問題をどう説明しておられるんでしたっけ。
魏志に書いてあるから福岡に七万戸があったに決まっていると言う説明では困ります。
私は邪馬台国は筑後川を中心とし有明海から豊前海岸までの広さを持った国と考えていますから、35万人でもかまわないのですが、
もし福岡だとすればどのように考えられるかと言う事を述べて見たのです。
>> 「単なる観光案内ではなく、きわめて政治的・軍事的な面をもっていること忘れてはならないはず」の正史ですから。
それはその通りで倭人伝の記述を軽々しく改訂すべきではないという考えには同意します。
但し、考古学上どうしても説明のつかない所は解釈が必要になる。
>> #なるほど。牛頭天王さんは、まだ妄想段階ということですね。
証拠もなく、自分でも確信が持てない事は妄想と表現する事にしています。
元の発言 [ Re: 「邪馬壹国」 ] お名前 [ 牛頭天王 ] 日付 [ 9月5日(水)17時14分15秒 ]
>> 古田先生は七万戸の問題をどう説明しておられるんでしたっけ。
#この問題に関しては、あまり積極的な発言は無かったような気がします。基本的には、邪馬台国は領域を広く考えることで説明していたと思います。
>> 私は邪馬台国は筑後川を中心とし有明海から豊前海岸までの広さを持った国と考えていますから、35万人でもかまわないのですが、
>> もし福岡だとすればどのように考えられるかと言う事を述べて見たのです。
#紀 さんのお考えを伺いたいものです。
>> >> 「単なる観光案内ではなく、きわめて政治的・軍事的な面をもっていること忘れてはならないはず」の正史ですから。
#これも、私の考えというよりは、紀さんの意見の引用です。
>> それはその通りで倭人伝の記述を軽々しく改訂すべきではないという考えには同意します。
#これ、麻薬ですからね。きりが無い。
私は、南は東だ、というのがすごく居心地悪くて、なじめません。
元の発言 [ Re: 倭国に中国人はいなかったのか? ] お名前 [ 牛頭天王 ] 日付 [ 9月4日(火)17時51分37秒 ]
>> >> 現在のところ可能性の高いのは、徐州の銅であると考える方が
>> >> 普通でしょう。すると、前から言われている1トンものインゴット
>> >> を持ってきたかという話になりますが、それは完成品を持ってきたか
>> >> 原料を持ってきたかの違いでしかないので、どちらとも言えない。
>> 紀年鏡と言うのはすごく悩ましい。
>> 鏡が注文生産だったとすればカスタマーの生年月日を入れたとか。
#なんか皆さん、硬く考えているような気がきします。
もっと簡単、単純な事なんじゃないかと思いますが。
銅の比重8.94で不純物が有り重くなるとして9とします。
10Cm角の銅魁で約9Kgfだとしてレース用ボートクラスの
くり船カヌーに乗せられのは乗員を食料や水、他の交易品を
含め5人から6人としたら最低5個は乗るんじゃないの?
つまりこれだけで、45Kg
インドやハワイ当たりの適当な外洋性の船に乗せた場合と考えて似たもんだと思いますけど
あちらじゃ、もっと乗せそうですが。
このくらいの船なら弥生の村なら2から4隻くらいは、
ありそうですよね。
>> >> 何も一度に持ってくる必要はないのでね。1トンというとすごい量に
>> >> 聞こえるが、500kgくらいなら、ちょっと魚でも獲ってくれば
>> >> 結構な重さになるのでね。(水は結構重いですから)
>> そうですね。50kgの人間が20人来ればいいわけだから。
>> 一人10kgの銅抱えて100人やって来てもいい。たいした事はない。
>> >> それもあって、水路の発達した地域の方が、都にふさわしいと思って
>> >> いるのですが。マキムクは海から遠すぎる。
>> 小さな船なら大和川でも上れたのでは?
>> 人は陸から船を綱で曳いてもいいような気がします。
>> 筏なら浅くても大丈夫。
>> 同様に九州でも筑後川を使ってかなりの山中に入れると思います。
>> 筑後川の方が川としては大きいですから人が乗ったまま遡上できたと思いますが。
#で、重さは兎も角大きさ考えてみてください。
今発掘されてる丸木舟に、2から3人乗せたとして
10個から20個は乗せて川をさかのぼれるんじゃ?
球磨川下りなんかから類推して。
90Kgfから180Kgf
でもって、直径20Cm厚さ5mmの鏡で約2.8Kgf
かな全部が銅だとした場合
作業上の必然的なロス(湯口や湯渡りの確認口など)含めて
90Kgの銅で10枚は作れたと思うけどいかが?
つまりは、小船1隻の交易でも結構な量の鏡は作れということです。
>> >> これは、デザイン技術の流行と考えてしまえば、当たり前なので
>> >> これでは確定はできない。(流行を知っている工人が一人でも、
>> >> 倭国にくればできる。すでに工人は来ているのだから。)
>> 「師出洛陽」は「私の先生は洛陽出身だよ。」と言っているだけじゃないでしょうか?
>> 洛陽出身の鏡職人が日本に来て倭人の指導をしていたと解釈しても問題ないでしょう。
>> だからこれも魏鏡とする決め手にはならない。
>> 年号鏡が何とも・・・
>> ただ三角縁の年号鏡って特に出来の悪いものが多いような気がしますけどどうでしょう。
#私も、これは指示してよいと思います。
ぶっちゃけた話、この件で思い出すのは、昔テレビでみた
南太平洋の交易風景がダブる気がします。
カヌーで1隻または、数隻で貴重な貝や品物を探して交易に出るんです。
これは、ある面成人の儀礼でもあるわけです。
船のリーダーといえる長老やなんかが、知り合いの村を
尋ね歩きながら目指す品物を捜んです。
尋ねた村では、歓待され仲の悪い部族とは戦いになりかけたり
もし、村に品物が有れば、分けてもらえます。
無い場合、量が足りない場合、必ず持っている品物の情報
とその先を紹介してくれるんです。
そのこねは、絶対的に見えました。
日本でも同じなんじゃないでしょうか。
成人儀礼としての航海なら毎年行われるでしょう。
それに、古くからの儀礼を止めさせるのは大変だし。
目こぼしして上がりをかすればよいなんて取締も熱心には、行なわないんじゃないですか。
で、その交易に便乗させたもらって渡来した工人やその弟子が、言うわけです。
”鏡を作る銅や錫は、徐州の産が一番なんだが、手に入らないか?”
そこで、その村の交易元締めの老人が、
”分かった、今回は、始めてなのでどの位手に入るか分からないがやってみよう”て、
そして前記の光景となるわけです。
>> 別の正当な魏鏡の銘文をコピーしたなんていうのはあり?
まあ、今でも有ることだけど、偽ブランドじゃないんですかね。
刀で、言うと村正、正宗、虎鉄なんかのり何だと思いますけど、
鑑定団で、よく有る本物に見せるための質の悪い偽者ってことですね。
正宗なんか、天下人の秀吉が偽者作らせたなんて有名でしょう。
まあ、妄想御免てなもんです。
元の発言 [ Re: Title神獣鏡の鋳造法 ] お名前 [ ALEX ] 日付 [ 9月4日(火)21時48分15秒 ]
ALEXさんこんばんは。
>> # 全く話が見えないまま一方的に打ち切られても困ります。
#見えないのは当たり前です。こんな論議いつまでやっても同じ。
いいですか、あなたは『・・・つまり同型鏡の大半を製造した工法がロストワックス法であると推定することには高い合理性が認められます。』と発言し、推定の言葉はあるもの『高い合理性が認められる。』として上記工法を紹介された。そこで、この工法の検証をお尋ねした。何も、お答えなし。ものが造れることが検証できて初めて言えることです。
前回も書きましたが、どんな、高名な学者先生が主張する説でも検証がなければ、あくまでの仮説、机の上。仮説の上にたったどんな立派な結論でも、これまた仮説。とても高い合理性などとはいえないはず。
更に、記憶を呼び起こした「岸本直文氏?」「2次笵ロストワックス法?」に対しても一言もナシ。この議論の原点を抜きにして何が出来ますか。
その上に、「指摘せよ」「根拠を示せ」「明確に説明せよ」「理由を言え」「解説せよ」とくる、更に「私が・・・」発言にいたっては、あなたが何を言おうとしているのか何を考えているのか、真意をはかりかねています。
こんなことをいくら続けても、話は見えませんよ。
>> これは『私が』と言っているのではないのですか?
#何を仰るのですか!!チャンと「ALEXさんが納得して投稿されたとは思えない」と書いているではないでか。!!!
>> # 同一笵から複数の蝋雄型を製作する際の笵傷進行です。
#そんなことを言っているのではありません。
『・・・同笵を繰り返し使用しても原笵の損傷が少なく・・・』の部分で文頭の同笵の「笵」は現在では「型(モデル)」と言うのが普通です。しかし、この説(又、勝手に2次笵ロストワックス法と決めつける)が発表された頃には両方を区別してない人がいたのかもしれない。ゴッチャ?とはこのことです。
>> # それは定義の問題であって、岸本、福永ら現役の学者が同型鏡に分類している以上デファクトスタンダードでありましょう。少なくとも同笵で鋳造した鏡でないなら同笵鏡ではないのであって、同型と同笵ごっちゃにしているという指摘は当らないものです。
#今の分類はどうなっているか知りません。しかし、記憶を辿ればこの説(あくまでも岸本直文氏の2次笵ロストワックス法と勝手に決めさせてもらえば)は「権現山古墳」(?)かなにかの報告書の中だったかな。当時、「同型鏡」、「同笵鏡」論争がまだ続いていた時期。
『同笵鏡説』の理論的な行き詰まりに対して「これならつくれるだろう」と同笵鏡論者はこぞって飛びついた。こんな背景から、「同笵鏡説」を支える有力な(唯一?)仮説でした。それが、いつ頃「同型」へ変わったのだろう?
元の発言 [ Re: 青銅の成分調整 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 9月3日(月)23時50分17秒 ]
>>
>>
>>
#前半部分の意味がよく理解できません、
#後半については鉛同位体比は信じる信じないし、
#「同位体比の異なる鉛を混合しないと成分調整できないし」という意味もわかりません。
#銅に元々含まれている鉛と、成分調整で混合した鉛の同位対比が同じ(鉱山が同じ)とは限らない。
#つまり、成分調整された青銅器の“銅の産地”は鉛同位対比では確定できないと言うことです。(「同位体比の異なる鉛を混合」しているとすると鉛の鉱山もです)
元の発言 [ Re: Title神獣鏡の鋳造法 ] お名前 [ ALEX ] 日付 [ 9月1日(土)19時44分14秒 ]
すばやいレス有難うございます。
>> >> 神獣鏡の中には乳と呼ばれる突起を沢山持っているものがありますが、乳の部分などを使ってガス抜きをする事は不可能でしょうか。
>> # 乳がガス抜き穴を隠す意匠だという説もあります。乳の先端にバリが発見された例もあるとのことで、現実性があります。
やっぱり。あのデザイン見た瞬間そうではないかと直感しましたが狂いは無かった? ¥(^。^)/
元の発言 [ Re: 内行花文鏡も加えるべきですか ] お名前 [ ALEX ] 日付 [ 9月2日(日)23時39分22秒 ]
ALEXさん こんばんは。遅くなってしまいすみません。
>>これまで別々に副葬された鏡片が接合できた例はないと思います。
#やはり、そうですか。
>>スクラップ扱いされていた破片を輸入したという説もあるくらいです。
#孫引きで恐縮ですが、「三角縁神獣鏡の時代」(岡村秀典、吉川弘文棺)の74ページによりますと、「藤丸詔八郎氏は、・・・副葬時に鏡に意図的に破砕して埋めるとともに、破片の一部を取りだして破鏡として利用する儀礼を推測している」とあり、この考え方が正しいのであれば、墳墓から鏡の一部分しか見つからなくても、1枚とカウントすべきということになります。
>>あれ?「10点の破片が大きく2片に接合し」ですよ。
#既報の54ページの図11に鏡片の写真が載っていて、繋ぎ目の部分が不鮮明で、はっきりとはわかりませんが、鏡片1の方が6つか7つ、鏡片2の方が3つか4つを接合しているみたいです。どちらも全体の1/50〜1/30くらいの破片ですので、「小さな破片が二つ」と書きました。41ページに説明されていることがこの2片上に見て取れますので、これで発見された全部だと思います。ちょっと不正確な書き方でしたでしょうか?
それと、前にあげた一覧表の訂正というか、
>>奈良 見田大沢4 四獣鏡
>>京都山城 芝ヶ原 四獣鏡
については、「三角縁神獣鏡と卑弥呼の鏡」(西川寿勝、学生社)の202ページに倣製鏡との記述があり、この2枚については、国産の疑いが強いのでリストから外した方がよいのでしょう。他にもあげた鏡の中で倣製鏡あるのでしょうか。
元の発言 [ Re: 青銅の成分調整 ] お名前 [ 牛頭天王 ] 日付 [ 9月4日(火)19時25分37秒 ]
>> なるほど倭国内で錫の成分調整が出来たということはクズ銅だけ輸入して、
>> 三角縁鏡のような割と細かい彫刻の鏡に対しては錫を多くして鋳造しやすく
>> するなんて芸当も倭国内で可能だった訳ですね。
#ですネ。(^_^)v
元の発言 [ Re: Title神獣鏡の鋳造法 ] お名前 [ 三河 太郎 ] 日付 [ 9月5日(水)21時08分52秒 ]
こんばんは。
>> ものが造れることが検証できて初めて言えることです。
# 蜜蝋を用いた銅鏡鋳造の史的記録はあるものの、鋳造実験が行われない限り、この工法で鏡が鋳造できるか否かは検証されているとはいえません。従ってこの工法の検証を聞かれても回答不能であります。
しかし、当初より「・・・つまり同型鏡の大半を製造した工法がロストワックス法であると推定することには高い合理性が認められます。」と言っているとおり、『推定すること』の『合理性』を主張しているのですから、この『推定』の『合理性』について反論あるなら、『推定』の『不合理』を指摘すべきものであります。
「怪しげ」と呼ぶ理由が鋳造実験が実施されていないということなのであれば、それは個人的な行動規範であって、あらゆる推理推論の全てを否定する極論であります。
>> 前回も書きましたが、どんな、高名な学者先生が主張する説でも検証がなければ、あくまでの仮説、机の上。仮説の上にたったどんな立派な結論でも、これまた仮説。とても高い合理性などとはいえないはず。
# これは暴論です。高い合理性のある仮説というものは存在しないのですか?仮説というものはすべて怪しげなのですか?
>> 更に、記憶を呼び起こした「岸本直文氏?」「2次笵ロストワックス法?」に対しても一言もナシ。この議論の原点を抜きにして何が出来ますか。
# 当初から「岸本さん」の説として紹介したのですから言うまでも無いでしょう。
前回
「 あなたの仰る岸本さんとは岸本直文氏のことですか。間違いなければ、この工法とは、俗に「2次笵ロストワックス法」と呼ばれるものでよろしいですね。間違いなければ、これの位置付けや、評価がわかりましたので議論の余地はありません。」
との発言に
「『2次笵ロストワックス法』の位置付けと評価とは何ですか?
」
と答えているのですから、「一言もナシ」ではなく端的に認めているのです。『2次笵ロストワックス法』はどのように位置付けられ、どう評価されているのですか?
>> その上に、「指摘せよ」「根拠を示せ」「明確に説明せよ」「理由を言え」「解説せよ」とくる
# 具体的な指摘がなく、根拠が示されず、明確に説明されず、理由を言わないからです。
>> 『・・・同笵を繰り返し使用しても原笵の損傷が少なく・・・』の部分で文頭の同笵の「笵」は現在では「型(モデル)」と言うのが普通です。しかし、この説(又、勝手に2次笵ロストワックス法と決めつける)が発表された頃には両方を区別してない人がいたのかもしれない。ゴッチャ?とはこのことです。
# 陰刻を施した真土型を「笵」と呼んではいけないのですか?
明確に、蝋原型を製作する原笵(陰)と鋳造用の笵(陰)と区別して説明しているのに「ゴッチャ」というのは不適切でしょう。
>> 当時、「同型鏡」、「同笵鏡」論争がまだ続いていた時期。
>> 『同笵鏡説』の理論的な行き詰まりに対して「これならつくれるだろう」と同笵鏡論者はこぞって飛びついた。こんな背景から、「同笵鏡説」を支える有力な(唯一?)仮説でした。それが、いつ頃「同型」へ変わったのだろう?
# 最初から、権現山の論文で「同型」としています。つまり上記の説明は全くの誤りです。
元の発言 [ Re: トランジスタとLSI ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 9月5日(水)09時55分21秒 ]
おにりんさん 今晩は、由です。
> ただ、この話は重要でね、技術系統とはなにか、っていう意味では
了解いたしました。
それでは、青銅鏡鋳造技術の移転に題材を切り替えて、話を続けさせていただきます。
発言がかなり長くなりますが、ご勘弁を願います。
以下は、現代の技術移転で一般的な手法を青銅鏡鋳造に置き換えてみたものです。
まず、私が当時の倭国にいて、何らかの理由によって三角縁に相当する青銅鏡を
大量供給したいものと仮定いたします。その方法は以下の二案を両極端として、
何通りもの方法が考えられますが、この両極端の案はどちらも得策ではありません。
・純粋に貿易により入手する。
・完全に倭国で生産する。
貿易に頼る案はコストがかかり過ぎますし、完全国産はリスクが大き過ぎます。
通常こういった場合にとられる手法は、ライセンス生産です。
技術を移転しようとした場合、まず移転しようとする技術を細かく分析し、
移転国(このケースでは倭国)の技術レベルと比較する事が必要です。
その時に気をつける事は、技法と技能とを分けて考える事です。
技法/工法/設備/構造/etcといったものは、金を払ってライセンスを購入し
設備を導入すれば、その日からでも使えるものです。
それに対して技能/職人芸といったものは、習得に大変に期間がかかるものです。
私は青銅鋳造技術については素人ですが、これまでの皆さんの議論を読ませて
いただいた限りでは、ポイントは
・原料調達、意匠、型作成、成分調整、鋳込み温度の管理、湯渡り、ガス抜き、補修
といった辺りではなかろうかと思います。
(型抜きがどういうものなのかが、ちょっと分かりません)
当時の銅鐸製造技術との比較で言えば、
・鋳込み温度の管理、湯渡り、ガス抜き、といった辺りは習得に
期間の掛かる技能ですが、これは既に倭国にあったようです。
・補修はそれほど習得の難しくない技能でしょう。
残るのは、原料調達・成分調整/意匠・型作成です。
・原料関係で言えば、成分調整が習得にそれほど期間のかからない技能であれば、
銅と錫を輸入して倭国で調製すればいいでしょう。成分調整が習得に難しい技能で
あれば、青銅のインゴットを輸入する事にいたしましょう。
・意匠は一般的には習得に最も期間のかかる技能です。型作成も技法自体は簡単で
しょうが、半肉彫りの彫刻は習得に期間の掛かる技能であろうと推察いたします。
従って、原盤となる青銅鏡を輸入し、踏み返しによって製造をおこなう事とします。
以上で技術移転の戦略が決まりました。次に手順を考えてみます。
・尚方に、倭国で銅鐸鋳造に秀でた者を何名か、客員として受け入れてもらう。
期間としては、朝見から次の朝見まで位が丁度よいでしょう
この者達の使命は
・青銅鏡製造の技法を学ぶ事
・客員期間程度で身につけられる技能を習得する事
・原料/工具/副資材の調達先の調査・選定・交渉をおこなっておく事
・原盤となる三角縁鏡の調達交渉をおこなっておく事
です。
・次の朝見では、適宜、運搬手段を用意し、客員技師を引き取り、
原料/工具/副資材/原盤の購入をおこない、これを倭国に持ち帰ります。
*以下はかなり大雑把な推定です。
*1人の人足は50Kgの荷物を運べるものとします。
*3日毎に水と食料を補給できるものとすると、
*天幕/寝袋/炊事用具/燃料/食料/水は、1人足あたり25Kgほどです。
*つまり1人足で運搬できる資材は25Kgとなります。
*40人の人足を調達できれば1トンの資材を運搬できる事になります。
*上記の推定では牛馬にる運搬の効率化は考えていません。
・型の材料となる粘土や砂、補修用の彫刻刀や鏝などの工具類も全て輸入する必要が
あります。倭国の粘土や砂などで代替する事ができるかも知れませんが、
こういった副資材を選定するのには、かなり年季のいった技能が必要とされるのが
通常でしょう。
これで、三角縁相当の青銅鏡を倭国に大量供給する事はできると思います。
優れた経営者は、次の段階の事まで考えているものです。次の段階では、当然
・倭人による意匠設計/半島・倭国からの原料調達/倭国での副資材・工具の調達
となるでしょう。注意しなければならないのは、安定生産にはいって顧客の信頼を
得ている三角縁でこれらの新機軸を試してはならない、という事です。
三角縁は、あくまでもオリジナルと同じ原料/副資材/工具でなければなりません。
三角縁とは違った系統の商品を開発し、これに上記の新機軸を適用して、
三角縁との置き換えを推奨するのが上策です。
現代の最先端の技術移転の一般的な手法を基に、
青銅鏡鋳造技術の移転を論じてみましたが、どうでしょうか?
元の発言 [ Re: ロストワックス&鋳砂 ] お名前 [ 馬頭鬼 ] 日付 [ 9月5日(水)12時58分56秒 ]
>> >> 一番肌が綺麗になるのは石か金属の型ですけどね。
>> >> 型の段階で磨けますから。
>> そうなんですか?
>> 私は、青銅には門外漢なんだけど、鉄の場合、黒鉛なんか
>> 塗ることで結構きれいな肌になる場合が有るんですけど。
>> 砂型でも何か目の細かい粒子の物を塗り込むことで
>> 結構きれいになるんじゃないかと思うんですけど。
>> ロストワックス法にシェルモードなんて聞いたかな
>> (もう名前覚えていないけど)有るんだけど結構きれいです。
ロストワックス法についてよく知ってる訳では有りませんが、青銅彫刻(ロダンの考える人とか)の複製作る時なんか石膏使う訳で、その複製なんか艶もすばらしいし、多分歪なんか発生していないんだろうなと思ってるのです。
あれはロストワックス法じゃないと思うけど石膏を元型につけたまま乾かすから歪は出ないし元型の艶もそのまま出せている。
ロストワックス法も上野のロダンの彫刻のような出来栄えになるかなと思っているのです。
>> 粘土でも乾かしてから磨けば結構きれいになるんでは?
私の数少ない(中学校の職業科のたった一回の授業)経験では元型を粘土から外した状態であまり美しくなかった。
中央部が盛り上がったりした所とか、溝が欠けた所とか多少の修正を加えて乾かすともう表面がざらざら。
乾いた後で磨くなんて・・・水をつけてもう一度滑らかにする位はできるかも知れませんが乾いたらまた?
元の発言 [ Re: Title神獣鏡の鋳造法 ] お名前 [ ALEX ] 日付 [ 9月5日(水)22時31分27秒 ]
なんか大変なことになっていますが、
一つ質問なのですが、ロストワックス法で
同型鏡の鋳造実験って行われていないのですか?
もし行われていないのなら、三河さんの気持ちは
大変よくわかります。
どうなんでしょう?
元の発言 [ Re: Title神獣鏡の鋳造法 ] お名前 [ yaohide ] 日付 [ 9月5日(水)23時19分52秒 ]
>> 一つ質問なのですが、ロストワックス法で
>> 同型鏡の鋳造実験って行われていないのですか?
# 聞いたことがありません。しかし、出来ないという理由があるでしょうか?ここに無理があるとかいう指摘があるのでしょうか?
現に奈良時代の作鏡時に大量の蜜蝋を仕入れた記録があるわけです。
鋳造実験が未実行であるというだけの理由で、怪しげであると論断するとか、推定に合理性があるという意見を問答無用とばかりに切り捨てるのは全く納得がいきません。
元の発言 [ Re: ロストワックス&鋳砂 ] お名前 [ 牛頭天王 ] 日付 [ 9月5日(水)23時14分36秒 ]
>> あれはロストワックス法じゃないと思うけど石膏を元型につけたまま乾かすから歪は出ないし元型の艶もそのまま出せている。
>> ロストワックス法も上野のロダンの彫刻のような出来栄えになるかなと思っているのです。
>> >> 粘土でも乾かしてから磨けば結構きれいになるんでは?
>> 私の数少ない(中学校の職業科のたった一回の授業)経験では元型を粘土から外した状態であまり美しくなかった。
>> 中央部が盛り上がったりした所とか、溝が欠けた所とか多少の修正を加えて乾かすともう表面がざらざら。
>> 乾いた後で磨くなんて・・・水をつけてもう一度滑らかにする位はできるかも知れませんが乾いたらまた?
確かに、粘土で行なう粗描ですか、これは、余りきれいにならない。
ただ、私は、古代の鏡を研きなをしたのを見たことが有ります。
鏡面に、巣の後が有りました。
つまりは、今日面を上にして鋳造されたことになります。
蝋を、抜き取る時十分に乾燥させると結構硬くなる。
そして、その表面には、蝋が塗られた形でしょう。
これを、乾いたまま磨き上げるということです。
布に、油で研磨剤を染み込ませれば、何とか可能であろうと思います。
ロストワックスでなく、木型や現物を使う場合。
型から抜き取る時に、破損やすい。
金属型を、使うなら元型を抜き取ること事態が大変でしょう。
元の発言 [ Re: Title神獣鏡の鋳造法 ] お名前 [ ALEX ] 日付 [ 9月5日(水)23時46分22秒 ]
>> 現に奈良時代の作鏡時に大量の蜜蝋を仕入れた記録があるわけです。
奈良時代ですか、、、
元の発言 [ Re: Title神獣鏡の鋳造法 ] お名前 [ 牛頭天王 ] 日付 [ 9月1日(土)19時34分41秒 ]
>> 銅鐸鋳造技術があれば鏡くらい朝飯前。問題は意匠だけですね。
# 銅鐸の鋳造技術は大量溶解、肉厚調整、鋳型材料選定から製作技術は応用可能でしょう。ただ、薄肉の鋳物鋳造の技術の工夫が必要だったと思います。
三角縁神獣鏡はご存知の通り、肉厚が薄い。
鋳造欠陥から良い物が出来にくい。反りや歪が大きくなるなどがあります。
それらの対応策として、外周を△形状にしたと考えています。
紋様の精緻さは意匠の問題で、意匠師、デザイナーがいれば、そんなに問題ではないと思いますよ。
元の発言 [ Re: 青銅の成分調整 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 9月6日(木)15時14分53秒 ]
>>
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>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
ところで鏡の鉛同位体の検査はどのくらいのサンプルで実施されたのでしょう。
サンプル数が少なければ偶然と言う可能性も有りえますね。
元の発言 [ Re: 里程にこだわりすぎとは? ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 9月6日(木)15時22分44秒 ]
国の力は大きくなったり小さくなったりするもの
でしょう。
邪馬台国が発展して大和朝廷へと、ストレートに
考えない方がいいと思いますよ。
もしストレートに発展したのなら、もっと
日本書紀などにきちんと記載されて当然
ですから。
それがないので、畿内説とか九州説になって
いるのです。
元の発言 [ Re: 里程にこだわりすぎとは? ] お名前 [ 山川晴夫 ] 日付 [ 9月4日(火)16時13分52秒 ]
もう一つ、記すのを忘れていましたので。
>> 近畿説では倭国の大乱を経て……
※※ この“大乱”とはなんですか?
魏史倭人伝には、“大乱”などとは記されていません。
“大乱”は、この倭人伝を誤読した范曄(後漢書)です。
男王の在位期間である“とどまること七・八十年”を、王不在期間と誤ったもの。
王の不在は、“暦年主なし”です。
元の発言 [ Re: Title神獣鏡の鋳造法 ] お名前 [ ALEX ] 日付 [ 9月5日(水)23時46分22秒 ]
銅鐸などは造ってみようとか、いろいろ行われているのに
なぜ神獣鏡の同型鏡を造ろうとか言わないのだろう?
実験したっていいんじゃないですか?
不思議だ
元の発言 [ Re: ロストワックス&鋳砂 ] お名前 [ 馬頭鬼 ] 日付 [ 9月6日(木)08時33分35秒 ]
>> 鏡面に、巣の後が有りました。
>> つまりは、今日面を上にして鋳造されたことになります。
と言う事はロストワックス製法ではないということですね。
>> 蝋を、抜き取る時十分に乾燥させると結構硬くなる。
>> そして、その表面には、蝋が塗られた形でしょう。
>> これを、乾いたまま磨き上げるということです。
>> 布に、油で研磨剤を染み込ませれば、何とか可能であろうと思います。
どうもイメージが巧く繋がらない。蝋はとけちゃいますから。
>> ロストワックスでなく、木型や現物を使う場合。
>> 型から抜き取る時に、破損やすい。
>> 金属型を、使うなら元型を抜き取ること事態が大変でしょう。
昔は離型剤はなかったんでしょうか。
熱に強い鉱物油が有れば型抜きも簡単ですね。
蝋がついた鏡が見つかったとここで誰かが言っていましたが、これ離型剤にしていたのかも。
少し熱を加えれば溶けて型が外しやすくなり、それに更に熱すれば蝋は流れて消えてしまいますからね。
元の発言 [ Re: 青銅の成分調整 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 9月6日(木)20時59分04秒 ]
>>
>>
>>
#「邪馬台国物産帳」(河出書房新社)にも乗ってます。
#銅鐸のデータもある。
おにりんさんの、
>>
>>
#ということは知ってます。
#加えられる鉛が複数鉱山の混合鉛でなければ特定の領域に収まるでしょう。
#馬淵氏の調査では、三角縁神獣鏡は華中・華南の鉛が検出されているが、後漢中期以降の鏡一般と比べるとかなり偏った数値だそうですネ。
#少なくとも、華北の鏡とは離れた領域にあるんでしょう。
元の発言 [ Re: 青銅鏡鋳造技術の移転 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 9月6日(木)10時20分17秒 ]
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
材料はいずれにしろ輸入していたし、技術的インフラは十分ありました。
昔ソウルに言った時、ギャランやアコードが沢山走り回っているので驚きました。
ベンツと見まごう車も有りました。
輸入制限がされている筈だがと思ってよく見ると現代や大宇のマークがついてました。
形だけなら比較的簡単に真似られる。
品質は真似られませんでしたが。品質は哲学みたいなもの。
>>
>>
>>
中国本土で薄葬令のせいで食えなくなって日本にきた。
戦乱に追われて逃げてきたなんて有りそう。
>>
>>
>>
>>
日本国内で原料が取れなければ製品輸入のほうが効率的です。
元の発言 [ Re: Title神獣鏡の鋳造法 ] お名前 [ ALEX ] 日付 [ 9月1日(土)19時44分14秒 ]
>> # いいえ。大型の立体造形の難易度と細かい半肉彫りを鋳出す難易度は異質のものでしょう。
>> 鉛と錫の混合比問題もあり、従来の日本列島に無かった異種の技術が投入されている事実は歴然としています。
#生産技術の基本技術では応用可能な技術はあります。
それから、組成の成分比率が異種の投入された技術となぜいえるのでしょうか。中国からですか?
青銅器の成分分析のデータはありますが、決して特異な数値ではありませんが。
元の発言 [ Re: 里程にこだわりすぎとは? ] お名前 [ 紀 智明 ] 日付 [ 9月4日(火)17時27分15秒 ]
>> このとき、継体が、総大将である物部麁鹿火大連に指示したことに、
>> 長門以東は、朕之を制らむ。
>> 筑紫以西は、汝之を制れ。
>> とある。
>> これは、何を意味するのだろうか。
>> 少なくとも、大和朝廷は、中国地方以西は、勢力下にないということを告白している。
ここの箇所は一応,岩波文庫版の注によると,
そもそも『芸文類聚』から言い回しを借りた,
「漢文的修飾の典型的な例」(同書191頁)ということなので,
読み方があるみたいです。
まず磐井が依ったのは,火国と豊国であって,
九州全部ではありません。
大和朝廷としては,磐井が新羅と結んで,
半島への通行・出兵の邪魔を始めたので排除する,
という感覚です。
次に,麁鹿火に対し,論功行賞の権限を,
筑紫より西に限って委せることの意味ですが,
この辺の感じは一口には表現し難いです。
磐井方も見方も「継体天皇が自分で来ねぇのかよ〜」
てなことを言い出すかもしれないので,
麁鹿火が軽んじられる事態を避けるためだったんでしょうか,,,(^^;
磐井というのは,いわば,
倭人伝で言うと,「一大率」の権限を侮るか悪用して,
利権の独占に走った,という感じなのでは。
>> 六世紀において、九州は勢力下にないというのに、
従って,この前提は独断的な感じがします。
元の発言 [ Re: 里程にこだわりすぎとは? ] お名前 [ ちょっと一服 ] 日付 [ 9月7日(金)00時03分04秒 ]
横から失礼します
>> >> このとき、継体が、総大将である物部麁鹿火大連に指示したことに、
>> >> 長門以東は、朕之を制らむ。
これは少なくとも長門及びその東側(何処迄かは不明)は継体の勢力下にはないことを示している。
>> >> 筑紫以西は、汝之を制れ。
これも文面を素直に読めば筑紫及びその西側は継体の勢力下にはなかったという以外に解釈しようがないでしょう。
元の発言 [ 「邪馬壹国」 ] お名前 [ 紀 智明 ] 日付 [ 9月1日(土)09時08分55秒 ]
>>「7000+1000+1000+1000+500+100=10600」で、1400の不足があるようだが.....
>>これは、対海国(方 400里)、一大国(方 300里)を、それぞれ半周ずつ陸行した、と計算できる。
#ということは、狗邪韓国〜末廬国間は4400里ということですね。
#海峡幅はおおよそ230qですから、1里は約50mということですか?
新聞に「三ケ日人は縄文人か」という記事が出ていますが、今までの旧石器時代という定説はたいした根拠が無かったのでしょうか。年代を決めるのが大変難しいのは想像できますが、それにしても大した反対意見は今まで無かったようです。数字(に類する情報)はひとり歩きするから怖いですね。
元の発言 [ Re: ロストワックス&鋳砂 ] お名前 [ 牛頭天王 ] 日付 [ 9月6日(木)21時52分18秒 ]
>> >> 鏡面に、巣の後が有りました。
>> >> つまりは、今日面を上にして鋳造されたことになります。
>> と言う事はロストワックス製法ではないということですね。
いいえ、違います。
巣が有るということは、
まず、密閉した空洞の中に湯が流し込まれたと見るべきです。
つまり、ロストワックスであっても湯を流し込まれた時、
鋳物の上部にガスが溜まることになるのは同じです。
この鏡は、湯を流し込まれた時。
鏡面となる上部の型に湯が触れた時、急に冷えてガスが十分に抜けなかったのでしょう。
でも、鏡として表面に傷のあるものは価値が有りませんから。
最初、磨いた時は表面に傷はなかったと思います。
腐食してしまい、錆を落として再研磨した状況で隠れていた巣が出て来たと見るべきでしょう。
>> >> 蝋を、抜き取る時十分に乾燥させると結構硬くなる。
>> >> そして、その表面には、蝋が塗られた形でしょう。
>> >> これを、乾いたまま磨き上げるということです。
>> >> 布に、油で研磨剤を染み込ませれば、何とか可能であろうと思います。
>> どうもイメージが巧く繋がらない。蝋はとけちゃいますから。
>> >> ロストワックスでなく、木型や現物を使う場合。
>> >> 型から抜き取る時に、破損やすい。
>> >> 金属型を、使うなら元型を抜き取ること事態が大変でしょう。
>> 昔は離型剤はなかったんでしょうか。
少し表現が悪かったようです。
離型剤は、使われていたと見るべきだと思います。
ただ、何が使われていたのか?
>> 熱に強い鉱物油が有れば型抜きも簡単ですね。
>> 蝋がついた鏡が見つかったとここで誰かが言っていましたが、これ離型剤にしていたのかも。
ありえます。
ロストワックスで作られた型に蝋が残っていて鋳造後に残ったんでしょうね。
ただ、青銅の湯温度は、千℃といはれています。
材質により上下するでしょうが、かなりの高温です。
鋳鉄の場合、黒鉛を離型剤兼表面を滑らかにするために使うことは、
前に書きました。
この場合、型の表面にあると言うより残った蝋が同じ役目をしたのでしょうか?
>> 少し熱を加えれば溶けて型が外しやすくなり、それに更に熱すれば蝋は流れて消えてしまいますからね。
金属型の場合、巧みに抜きしろ(適切な言葉ではないですね。何というか忘れました。)
を作ってないと、型ばかりか成品まで壊すことになり兼ねません。
石型も同じです。
両方とも通気性が無いことは、分かると思います。
巣が、入らない様にするのはかなり大変でしょう。
元の発言 [ Re: 青銅の成分調整 ] お名前 [ オヤジッチ ] 日付 [ 9月5日(水)22時03分55秒 ]
>> >> なるほど倭国内で錫の成分調整が出来たということはクズ銅だけ輸入して、
>> >> 三角縁鏡のような割と細かい彫刻の鏡に対しては錫を多くして鋳造しやすく
>> >> するなんて芸当も倭国内で可能だった訳ですね。
>> #ですネ。(^_^)v
成分調整用の錫だけど、これやっぱり輸入かな?
錫の鉱脈はかなり早い時機から見つかっているらしいけど。
記録が残るころには既にかなりの鉱山が採掘されていたらしい。
錫って、錫石ってのから取るんですね。
ほとんど錫(90%以上)だって調べたら書いてあったみたいですが。
鉱山の感じから言うと微少だけど、鉛だって混じってそうだけと。
これ分析には、気にならないほどなのかな?
元の発言 [ Re: 里程にこだわりすぎとは? ] お名前 [ 紀 智明 ] 日付 [ 9月6日(木)17時04分22秒 ]
>>この“大乱”とはなんですか?
>>魏史倭人伝には、“大乱”などとは記されていません。
#そりゃそうですが・・・
#単に倭国乱を後漢書の表現を借りて大乱としているだけでしょう。
#そんなに目くじらたてるほどのこともないように思われるのですが。
#それともこれも原文改定だとおっしゃりたいのですか。
#乱と大乱では、倭人伝解釈上、どれほどの違いがありましょうや。
>>“大乱”は、この倭人伝を誤読した范曄(後漢書)です。
>>男王の在位期間である“とどまること七・八十年”を、王不在期間と誤ったもの。
#住七八十年のどこをどう解釈すれば、これが王不在期間と誤って解釈できるのでしょうか。
>>王の不在は、“暦年主なし”です。
#歴年無主は後漢書ですね。
元の発言 [ Re: Title神獣鏡の鋳造法 ] お名前 [ 三河 太郎 ] 日付 [ 9月1日(土)21時20分43秒 ]
>> 生産技術の基本技術では応用可能な技術はあります。
>> それから、組成の成分比率が異種の投入された技術となぜいえるのでしょうか。中国からですか?
>> 青銅器の成分分析のデータはありますが、決して特異な数値ではありませんが。
# 中国の伝統的な銅・錫・鉛の混合比は哲学的というか、予定調和的な比率を志向しています。
結果的に言えば、銅鐸や[イ方]製鏡と錫の含有比率が著しく異なりますでしょう?倭人は工作精度を犠牲にしても白銅色よりも黄金色を好んだようです。
いわゆる舶載鏡の成分データが特に錫の含有比率において伝統的な倭人の鋳造工人の視点から十分に特異であることをご確認いただきたいと思います。
元の発言 [ Re: 「邪馬壹国」(正史及び梯儁と張政編) ] お名前 [ 岡野熊鰐 ] 日付 [ 9月5日(水)08時53分26秒 ]
>> 明帝が詔書を出したなんて魏志倭人伝には書いてないのだから関係ないのでは?
※※ 「景初二年六月、倭の女王、大夫難升米等を遣わし、郡に詣り、天子に詣りて朝献せんことを求む。
太守劉夏、吏を遣わし、将いて送りて京都に詣らしむ。
其の年十二月、詔書して倭の女王に報じて曰く、親魏倭王卑弥呼に制詔す。」
と記されていますが、これで、明帝が詔書を出したと理解していますが。
元の発言 [ Re: 里程にこだわりすぎとは? ] お名前 [ 南田幹太 ] 日付 [ 9月7日(金)17時05分31秒 ]
>>
>> >>この“大乱”とはなんですか?
>> >>魏史倭人伝には、“大乱”などとは記されていません。
>> #そりゃそうですが・・・
>> #単に倭国乱を後漢書の表現を借りて大乱としているだけでしょう。
>> #そんなに目くじらたてるほどのこともないように思われるのですが。
>> #それともこれも原文改定だとおっしゃりたいのですか。
>> #乱と大乱では、倭人伝解釈上、どれほどの違いがありましょうや。
>> >>“大乱”は、この倭人伝を誤読した范曄(後漢書)です。
>> >>男王の在位期間である“とどまること七・八十年”を、王不在期間と誤ったもの。
>> #住七八十年のどこをどう解釈すれば、これが王不在期間と誤って解釈できるのでしょうか。
>> >>王の不在は、“暦年主なし”です。
>> #歴年無主は後漢書ですね。
それと肝心なこと、ちと外れるが、実やこする場所から近い所に、丹すなわち硫化水銀が採れなきゃならないんでしょ。
字面からするに、見える範囲の山って気がするが。
そして、青玉って何を意味するんだろ?。
ガーネットじゃないよね?
そして海沿いって条件、少なくとも歩いてすぐ行ける距離。
この地形条件に合うのどの編かな?
元の発言 [ 「邪馬壹国」 ] お名前 [ 紀 智明 ] 日付 [ 9月1日(土)09時08分55秒 ]
>> はじめまして、紀 智明です。
はじめまして、おんじです。
>> 7 行程
>> 「三国志」に出てくる、「至」と「到」の字を調べると、2つの字には意味の使い
>> 分けはなく、これらの字の用法は、次の2種類ある。
>> ア 先行動詞(行く、渡る、遠征するetc.)+「至(到)」・・この形が基本
>> (〜して〜に到着する)
>> イ 先行動詞がない場合
>> a 文脈上、明らかなので省略している(この場合は、アと同じ)
>> b 実際にそこに到着していない場合=傍線行程
>> これで倭人伝の行程記事をみると、先行動詞がないのは「奴国」「投馬国」と「邪
>> 馬壹国」の3つであるが、そのうち邪馬壹国は最終目的地だから、イのaの場合であ
>> る。
>> よって、魏の使者の行程は、以下のとおりとなる。
>> 7000 1000 1000 1000 500 100 0
>> 帯方郡→狗邪韓国→対海国→一大国→末盧国→伊都国→不弥国→邪馬壹国
>> (100)↓ ↓(水行20日)
>> 奴国 投馬国
>> 注) 上記の( )はイのbで、実際の行程ではない。
>> 奴国と投馬国には、魏使は行ってない。
>> 邪馬壹国に近づくにつれて、各区間距離が減少している。
>> この結果、最後は(不弥国からは)、「0(ゼロ)」で、邪馬壹国に到着する。
>> 都の中心部まではどれくらいか(面積的にも)記されていないが、行路記事として
>> は、これで充分。
各区間距離が減少しているからといって、次も短くなるという根拠がありません。
各区間距離は不弥国まで中心部間(あ、島はちがいますね)なのに、最後だけ国境が接す場合は「0」とする事例がありますか?
記されていないのは行路記事として不十分です。
陳寿は、女王国まで戸数と道里を書いた事を記しています。明記されたと考えるのが陳寿の意にそうと思いますがね。
>> 9 部分里程の総和は、総里程
>> 陳寿は、『穆天子伝』という先行史書に倣い、“部分里程の総和は、全里程とす
>> る”という記述をしているだけである。
>> すなわち、「邪馬壹国に至る」に続いて記された「水行十日、陸行一月」は、全行
>> 程1万2千余里を日数で表したものである。
>> すなわち、総里程である。
>> 「7000+1000+1000+1000+500+100=10600」で、1400の不足があるようだが.....
>> これは、対海国(方 400里)、一大国(方 300里)を、それぞれ半周ずつ陸行し
>> た、と計算できる。
この里程の計算だと、部分里程は不弥国で女王国までの総里程になります。
「部分里程の総和は総里程」で、この計算が正しいなら、不弥国が女王国となります。
>> 魏使が陸行した(全部の国を通過したのではないだろうが)結果、知りえた国の名
>> 前を、記載したのは、魏朝として、先行史書に記載されていないことを知りえたとい
>> う誇りを表しているのである … 漢書・西域伝のように。
>> そう、これからみても、“韓国の西岸・南岸に沿って水行した”は成り立たない。
>> もっとも、韓国水行では、
>> 帯方郡治〜韓国国境まで 約1500里
>> 韓国西岸・南岸で 約8000里(方4000里)
>> となり、2500里も違ってくる(短里か長里の論争以前の問題として)。
>> * いくらなんでも、こんな算数はしないだろうから、韓国水行説は、小学生以下の
>> レベルといわれても仕方がないのでは?
対馬に行くには、端までいかなくても、海流の関係もあって、半島南岸の中央程度でもいいのでは?
それなら、7千余里で水行で行った可能性もなくはないかと。
元の発言 [ Re: 磐井の乱 ] お名前 [ 櫟 ] 日付 [ 9月7日(金)11時43分53秒 ]
>> これも文面を素直に読めば筑紫及びその西側は継体の勢力下にはなかったという以外に解釈しようがないでしょう。
ですから,その,漢文的の文飾なんです。
基本的には,応神天皇の時代以来,
古墳期を通じて日本では統一的な政権(大和朝廷)が成立し,
海外と折衝し,
東も西(九州)も傘下に属したわけです。
ただし,部族連合的なもので,
国造らは,けっこう気ままにやっていたらしい。
日本古代史は,もともと,けっこう自治的のようですから,
磐井の件くらいのことで騒ぐにはあたらない。
しかし,
九州方面を一時は磐井にぶんどられた,
半島経営に行き詰まった,
朝廷の地位が相対的に低下した,
という危機感があったのでしょうね。
磐井の乱の後,直轄領の拡大とか,
蘇我氏の台頭とか,大化の改新とか,いろいろ。
元の発言 [ 三ケ日人は縄文人か ] お名前 [ EK ] 日付 [ 9月7日(金)12時24分45秒 ]
話がずれますが,
テレビを見ていた人によると,
縄文人と言えば,NHKの例の番組では,
「縄文人の起源はブリヤート人」とか。
しかし,現在のブリヤート人の顔つきは,
いわゆる弥生系の類だったとか。
元の発言 [ Re: 「邪馬壹国」(正史及び梯儁と張政編) ] お名前 [ 紀 智明 ] 日付 [ 9月7日(金)17時13分22秒 ]
>> ※※ 「景初二年六月、倭の女王、大夫難升米等を遣わし、郡に詣り、天子に詣りて朝献せんことを求む。
>> 太守劉夏、吏を遣わし、将いて送りて京都に詣らしむ。
>> 其の年十二月、詔書して倭の女王に報じて曰く、親魏倭王卑弥呼に制詔す。」
>> と記されていますが、これで、明帝が詔書を出したと理解していますが。
明帝が詔書を出したなんて魏志倭人伝には書いてないですよね?
なんで明帝なんですか?
元の発言 [ Re: 青銅の成分調整 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 9月7日(金)15時42分02秒 ]
>>
>>
>>
>>
>>
#行き着くところはそこでしょうネ。
#久々に意見が合った(のかナ)。(^^)v
元の発言 [ Re: ロストワックス&鋳砂 ] お名前 [ 馬頭鬼 ] 日付 [ 9月7日(金)12時52分24秒 ]
>> 巣が有るということは、
>> まず、密閉した空洞の中に湯が流し込まれたと見るべきです。
>> 石型も同じです。
>> 両方とも通気性が無いことは、分かると思います。
>> 巣が、入らない様にするのはかなり大変でしょう。
#石鋳型の場合、湯口の左右にガス抜口を作ってあります。
#鏡はロストワックス法だと思います。
#中国では水銀アマルガムで仕上げ研磨したんだそうで、錫皮膜が出来るそうです。
元の発言 [ 破片でも1枚とカウントしてよいという考え方も ] お名前 [ マルセ ] 日付 [ 9月5日(水)22時01分47秒 ]
>> #孫引きで恐縮ですが、「三角縁神獣鏡の時代」(岡村秀典、吉川弘文棺)の74ページによりますと、「藤丸詔八郎氏は、・・・副葬時に鏡に意図的に破砕して埋めるとともに、破片の一部を取りだして破鏡として利用する儀礼を推測している」とあり、
#三角縁にも破鏡があるんですか。知りませんでした。
元の発言 [ Re: 三ケ日人は縄文人か ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 9月7日(金)12時40分54秒 ]
>>
>>
>>
>>
#骨のC14法をやったら一万年以前に遡ることはないとの結論が出たそうです。
元の発言 [ Re: Title神獣鏡の鋳造法 ] お名前 [ ALEX ] 日付 [ 9月1日(土)23時29分08秒 ]
毎度ありがとうございます。
>> # 中国の伝統的な銅・錫・鉛の混合比は哲学的というか、予定調和的な比率を志向しています。
>> 結果的に言えば、銅鐸や[イ方]製鏡と錫の含有比率が著しく異なりますでしょう?倭人は工作精度を犠牲にしても白銅色よりも黄金色を好んだようです。
#仰っていることを良く理解できません。白銅鏡などを念頭に置かれているのでしょうか。中国出土の青銅器の成分比率も非常にバラツキが大です。成分比率が哲学的などとむずかしいことを持ち出すまでもないでしょう。
>> いわゆる舶載鏡の成分データが特に錫の含有比率において伝統的な倭人の鋳造工人の視点から十分に特異であることをご確認いただきたいと思います。
#錫の含有量が舶載鏡の方が多い。と言うことでしょうか。それを主張されている方も知っています。本当に差があると言えるか否か疑問です。
百歩譲って、差があるとしても、錫は溶解するたびに消耗して成分比率が低下します。その辺りを考慮すべきです。
元の発言 [ Re: ロストワックス&鋳砂 ] お名前 [ 馬頭鬼 ] 日付 [ 9月7日(金)12時52分24秒 ]
>> >> 蝋がついた鏡が見つかったとここで誰かが言っていましたが、これ離型剤にしていたのかも。
>> ありえます。
>> ロストワックスで作られた型に蝋が残っていて鋳造後に残ったんでしょうね。
>> ただ、青銅の湯温度は、千℃といはれています。
>> 材質により上下するでしょうが、かなりの高温です。
>> 鋳鉄の場合、黒鉛を離型剤兼表面を滑らかにするために使うことは、
>> 前に書きました。
>> この場合、型の表面にあると言うより残った蝋が同じ役目をしたのでしょうか?
蜜蝋は有機物ですから1000℃の熱には耐えられないでしょうね。
沸騰したり爆発して鏡に穴をあけてしまうかも知れない。
ロストワックス法なら型は割って捨ててしまいますから離型剤は不要でしょう。
離型剤が必要だったのは所謂踏み返しをする時、粘土と模型を剥がすときだと思います。
ですから蝋がついた鏡は踏み返しの親型だったことになります。
>> >> 少し熱を加えれば溶けて型が外しやすくなり、それに更に熱すれば蝋は流れて消えてしまいますからね。
>> 石型も同じです。
>> 両方とも通気性が無いことは、分かると思います。
>> 巣が、入らない様にするのはかなり大変でしょう。
ALEXさんが乳がガス抜き穴であった可能性を教えてくれました。
他にも意匠でガス抜き穴を隠す工夫があったかも知れません。
元の発言 [ 「邪馬壹国」 ] お名前 [ 紀 智明 ] 日付 [ 9月1日(土)09時08分55秒 ]
>> 5 三世紀の「ヤマト」とは?
>> そもそも、「邪馬臺国」と改訂したのは誰であるかを考えてみよう。
>> それは、鎌倉時代の北畠親房の「神皇正統記」が第一歩であるが、
本当ですか?神皇正統記を繰って見たけど、それらしいのは、序文に、
「後漢書ニ大倭王ハ耶麻堆ニ居ストミエタリ<耶摩堆ハ山トナリ>」
とあるところぐらいでしたが。これは、後漢書倭伝の
「其大倭王居邪馬臺國。<案、今名邪摩(惟)堆、音之訛也。>」
という部分を、本文と注をごっちゃにして引用したものでしょう。誉められたことではないにせよ、そもそも後漢書の引用ですし、あなたが言う「改訂」とは何の関係もありませんよ。
それとも、他に「改訂」をおこなっている個所があるのでしょうか?勿論、私の見落としかもしれませんから、そういうことであれば、どこで「改訂」が行われているのかきちんと指摘してくださいネ。
>> 親房は文字の改訂だけで、近畿説とも九州説とも明言していない。
そうでしょうか?神功皇后のところで、この頃中国と通じたのだといって、
「倭國ノ女王遣使テ來朝スト後漢書ニ見エタリ」
とあります。引用書目を誤っていることはさておき、畿内大和説だと言っていいでしょう。
>> それを受け、江戸初期の松下見林の「異称日本伝」に引き継がれたが、ここで初めて近畿説が唱えられた。
>> しかし、いずれも、改訂の根拠など、何も明示していないのである。
>> まさに、ヤマトの“音当て”から始まっているのであらる。
>> 以後、本居宣長や新井白石といった大家(?)に引き継がれたのである。
>> すべて、「ヤマト」と読みたいがために………。
史料を利用するにあたって、校勘を加えるのは当然のことです。それはもはや失われた、真の原本の復原作業にほかなりません。その際、諸版本を利用するのは当然のこととして、各種の書物中の引用文や、その本の記述を継承している書物等を参照することは、好ましいことでありこそすれ、非難する理由はありません。
魏志倭人伝の現存諸版本に見える「邪馬壹」の「壹」の場合、「太平御覧」や「隋書」中の引用に「臺」とあり、また、魏志倭人伝を継承していると考えられる「後漢書」・「梁書」・「北史」にも皆「臺」とあります。こういう状況では、「壹」は「臺」の誤りという判断が出てくるのも当然です。
江戸時代の諸家の場合、日本書紀の紀年が根本的に批判される以前の時代で、魏志倭人伝の時代は神功皇后の時代と重なると考えられていたわけですから、倭王の都が「邪馬壹」と表記されていれば、これはヤマトの地名を写したもので「壹」は何か「ト」にあたる文字の誤だという考えに傾きやすいということはあったでしょう。しかし、それと明記していなくても、彼等は諸書に「邪馬臺」とあることも十分知っていたのですから、それを無視して、「ヤマトの“音当て”から始まっ」たとか、「すべて、『ヤマト』と読みたいがために」等と実態を無視した非難を浴びせるのはいかがなものでしょうか。それでは、新井白石が九州説に変わった後も、九州内に「ヤマト」という地名を探し出した理由がわからないでしょう。
明治になって近代的な史学の手法が導入され、利用する史料の出処や校勘の経緯を明らかにすることが定着しました。もちろん、そのような作業が既に行われていれば、後続論文では省略されることもあるのは当然です。
内藤虎次郎氏は論文「卑弥呼考」(明治四十三年)において、まず魏志倭人伝の全文を掲げていますが、そこでは「邪馬壹」となっています。ついで、これに考証を加えて「邪馬壹は邪馬臺の訛なること、言ふまでもなし。梁書、北史、隋書皆臺に作れり。」と書いています。
末松保和氏は論文「太平御覧に引かれた倭国に関する魏志の文について」(昭和四年)において、太平御覧の魏志を引用し、現存版本の魏志と対比・考証していく中で、太平御覧所引魏志に「耶馬臺」とあることに関連して「耶は、邪に作る。音通である。臺は魏志に壹に作る。魏志の壹が臺の誤であることは、早くから、隋書に『都於邪馬堆、則魏志所謂邪馬臺者也』とあるによって知られてゐたことである。」と書いています。
橋本増吉氏は、大著「東洋史上より見たる日本上古史研究」(昭和三十一年)において、やはり「邪馬壹」とある魏志倭人伝の全文及び魏略逸文を掲げた後、末松氏の上記論文に言及した中で、「『壹』が『臺』の誤りであることも、梁書、北史、翰苑にも凡べて『臺』とあるので、異論なきところであろらうが」と記しています。
これらの諸家に到っては、「改訂の根拠など、何も明示していないのである」とか、「ヤマトの“音当て”から始まっている」、「すべて、「ヤマト」と読みたいがために」などという非難が的外れであることは異論なきところでしょう。
>> ところで、三世紀の日本列島で「ヤマト」という読みをするところが、どこかにあったのだろうか?
>> 少なくとも、記紀には記されていないのに、なぜ「ヤマト」に拘泥するのだろうか。
意味不明です。記紀には「ヤマト(乙)」という地名が出てきています。
>> 6 「後漢書」と斐松之
>> 「邪馬臺国」説の人は、「後漢書」を持ち出すのであろうが………。
>> 「後漢書」の選者は、南朝宋の范曄(398-445)だが、斐松之(372〜451)より先に死んでいる。
>> そこで、斐松之は、「後漢書」で「邪馬臺国」と記されているのを見ていると考えられるのに、
多分見ていないでしょう。筑摩書房の世界古典文学全集に入っている「三国志」の巻末に斐松之注引用書目が載っています。後漢を対象とした史書がいくつか出ていますが、范曄「後漢書」はありません。ただ、謝承「後漢書」がでており、これは韓伝の逸文が残っているそうですから、そうすると、倭伝もあった可能性が高いと考えられます。で、謝承の「後漢書」は范曄が利用した本の一つですから、これに范曄「後漢書」と同様に「邪馬臺国」とあったとすれば、下記のとおり、斐松之が施注した当時の三国志には「邪馬臺国」とあったことになりましょう。
>> 「三国志」に注を付していないのは、何を意味するのだろうか。斐松之は、その記録の姿勢としても、明らかな誤りだと考えられることについても原文を勝手な改訂はしていない。
>> 原文をそのままにして、それに自分の意見を併記しているのである。
>> よって、斐松之は、まったく別の資料により、「三国志」は「邪馬壹国」で、「後漢書」では「邪馬臺国」とあり、「三国志」は「邪馬壹国」で誤りではないという認識をもっていたことを示していることになる。
>> したがって、「三国志」の“「邪馬壹国」は、間違いではない”と断定してよいと考える。
これは、妙な理屈ですね。斐松之が施注した魏志に「邪馬臺国」と書いてあっても、後漢書と異同がないわけですから、注がなくて当たり前です。逆に「三国志」の「邪馬壹国」で、「後漢書」の「邪馬臺国」がそれぞれ正しいと言うことであれば、施注する理由は充分にあると言えます。現に後漢書の注に、上掲のとおり、その種のものがあります。
今宵はここまでです。 (続編未定)
元の発言 [ Re: 三ケ日人は縄文人か ] お名前 [ オヤジッチ ] 日付 [ 9月7日(金)21時50分16秒 ]
>> #骨のC14法をやったら一万年以前に遡ることはないとの結論が出たそうです。
#しかし、縄文土器は1万5千年前とか言われていますよね。これもどこまで信憑性があるのか、疑問になってきた。
元の発言 [ Re: 「邪馬壹国」(正史及び梯儁と張政編) ] お名前 [ 岡野熊鰐 ] 日付 [ 9月7日(金)20時36分57秒 ]
>> 明帝が詔書を出したなんて魏志倭人伝には書いてないですよね?
>> なんで明帝なんですか?
1 「制詔」とは、天子にのみ許される用語です。
2 いずれにしろ、景初三年は、すべての国事行為は中止されているのに、下賜品を“装封し”などという詔書は誰であっても出せるはずがない。
本件のテーマは、景初三年が誤っていると言うこと。
元の発言 [ Re: 「邪馬壹国」(正史及び梯儁と張政編) ] お名前 [ 大和猫 ] 日付 [ 9月5日(水)01時31分32秒 ]
>> 先の梯儁は、使者としての役目を果たしたら、直ちに帰国しただろうが、張政は、かれこれ20年(途中で帰国したかどうかは定かではないが)も滞在した。
>> なんのために、軍事司令官を20年の長きにわたり派遣したのかを考えれば、わかると思う。
張政は軍事司令官などというほどの者でもなく、その倭國滞在が20年の長きにわたったという事もないけれど、それでも、彼は数年程度は滞在していたと考えられます。それは何故か?「先の梯儁は、使者としての役目を果たしたら、直ちに帰国しただろうが」と書かれていることから推し量ると、張政は使者としての役目を果たしても帰国しなかったとお考えのようですが、それは違います。張政も任務を終えたら直ちに帰国したのであって、ただ任務の遂行に数年かかってしまったのです。
張政が倭国に派遣された際、負った任務は二つありました。
任務1.正始六年の詔と黄幢を難升米に引き渡すこと。
任務2.正始八年の帯方太守王[斤頁]の檄を卑弥呼に齎し告喩すること。
任務1の方は問題なく遂行されたのでしょうが、任務2の方はそうはいきませんでした。何故なら、張政が倭国に着いた時には、卑弥呼は既に死んでいたからです。ここで張政が、任務2の方をどうすべきか太守にお伺いを立てたかどうかは判然としません。が、ともかくも結果としては、臺與が即位して遂に倭国内が定まったのを見届けた後、臺與に告喩することで任務2を果たし帰国したのです。
元の発言 [ Re: 「邪馬壹国」(正史及び梯儁と張政編) ] お名前 [ 紀 智明 ] 日付 [ 9月8日(土)07時48分51秒 ]
>> 2 いずれにしろ、景初三年は、すべての国事行為は中止されているのに、
三国志魏書三少帝紀の景初三年の所を読んでネ。
元の発言 [ Re: 「邪馬壹国」(正史及び梯儁と張政編) ] お名前 [ 紀 智明 ] 日付 [ 9月8日(土)07時48分51秒 ]
>> >> なんで明帝なんですか?
>> 1 「制詔」とは、天子にのみ許される用語です。
>> 2 いずれにしろ、景初三年は、すべての国事行為は中止されているのに、下賜品を“装封し”などという詔書は誰であっても出せるはずがない。
だから、なんで少帝曹芳じゃなくて明帝なんですか?
明帝が詔書を出したなんて魏志倭人伝には書いてないですよね?
元の発言 [ Re: 里程にこだわりすぎとは? ] お名前 [ 馬頭鬼 ] 日付 [ 9月7日(金)17時23分28秒 ]
>> そして、青玉って何を意味するんだろ?。
>> ガーネットじゃないよね?
>> そして海沿いって条件、少なくとも歩いてすぐ行ける距離。
>> この地形条件に合うのどの編かな?
倭の特産ってことだから硬玉翡翠じゃないですか。
元の発言 [ Re: 「邪馬壹国」(邪馬臺国編) ] お名前 [ 大和猫 ] 日付 [ 9月7日(金)22時20分55秒 ]
初めまして。今後ともよろしくお願いします。
>多分見ていないでしょう。筑摩書房の世界古典文学全集に入っている
>「三国志」の巻末に斐松之注引用書目が載っています。後漢を対象と
>した史書がいくつか出ていますが、范曄「後漢書」はありません。
裴松之が宋の文帝に命じられて『三国志』の注を作成して上表したのは
元嘉6年(429)のことで、范曄『後漢書』の成立は元嘉9年頃と推定
されていますから、妥当な推測だと思います。
元の発言 [ Re: 青銅鏡鋳造技術の移転 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 9月6日(木)10時20分17秒 ]
おにりんさん 今晩は、由です。
# 改行位置変更しています。
> 現代において、知財権が強調されたり、ライセンス生産云々の話ができる理由は、
> 中略
> あるいは、設計図、企画書の類もきっちりフォーマットができているわけだし。
これが成り立つのは、現代においても、同系統の製造技術が既に成立している場合に限ります。
同系統の製造技術が確立していない地域/国に新技術を移転する場合には、こうはいきません。
単に実験的に新技術を試すならばともかく、生産として確立させるには、
その技術に特有の管理ノウハウも込みで技術移転する事が必須です。
生産管理/製造管理/品質管理/etc といったノウハウは一朝一夕で身につくものではありません。
「情報」として入手できれば実現できるというものでは、決して、ありません。
啓蒙/教育/訓練/派遣/応援/etc といった手段を駆使して、やっと何とかできるものです。
> そこで、人と設備と材料を全部持ち込まないとできないってことになる。
これは古代においてのみならず、現代においても全く同様です。
> 当時の中国本土と日本との技術格差、生活水準の違い、などを考慮したときに、
> 中国の工人がどのようにして、日本にわたってこれたのか、、。
時の政府(魏朝)の命令でもない限り、難しいでしょうね。
私の述べた「ライセンス生産」とは、
・移転の難しい部分は移転しない。
・中国の工人の倭国への派遣を必要としない。
を骨子としております。
移転が難しく中国の工人が必要な部分は尚方で作業をおこなってもらい、その成果を購入すれば良い、
則ち、原盤となる鏡/原料(又は成分調整済みの材料)/粘土・砂/工具/etc 一式を輸入してしまえば良い、
「三角縁神獣鏡踏み返し製作セット」を購入すれば良い、という事です。
この方法でも、必要供給量が一定量をこえれば全量輸入よりはコストを押さえられ、
完全国産化よりはリスクを軽減できるものと考えます。
私が述べているのは「私が当時の倭国にいて、三角縁に相当する青銅鏡を
大量供給しなければならないとしたらばこうする。」という方法論であって、
歴史的・考古学的にみて、にそうした技術移転のおこなわれた可能性があるか
どうかについては、皆さんの議論を拝聴したいと思います。
元の発言 [ Re: 青銅の成分調整 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 9月10日(月)11時39分25秒 ]
>>
>>
#もうちょっと詳しく知りたいです。
#殷代の青銅器文様の精細さはきめが細かい黄土を鋳型に使ったからだということを、
#NHKで再現してました。(中国文明展のPR?)
>>
>>
>>
#は本で読んで知ってます。
>>
>>
>>
#卑弥呼が魏鏡をもらったころは、まだ呉がありました。
#滅んだのは280年でしたっけ。
またまた馬鹿馬鹿しい思いつきを一つ。
赤鳥七年五月廿五日なんてぇのが有りますね。
年号鏡の日付でふと気が付いたんですが、奇数が圧倒的に多いんですね。
年号にしても元年、三年、五年、七年、と別に景初四年だけが偶数。
里数の時は奇数が多いとか問題にされても鏡では問題にされない。
でも、この数字の方が実数ではなく、縁起担ぎの虚数ではないかと言う説はこれまで誰か言った人はありませんか。
景初三年も正始元年も単に縁起のいい文字と数字だから使われたと言うのはどうでしょう。
当時は四も縁起のいい数字だったのではないかという気がするんですか。
ちょっと気になって、鏡と青銅と銅鐸について知りたくなり博物館を訪ねました。
そこでは、同じ成分で復元した鏡と銅鐸他に触ることができます。
成分は、銅鐸では銅75%,錫20%,鉛5%とありました
鏡は、忘れてしまいましたが一つ確かな記憶はやはり鉛が5%はいっていたことです。
では、鉱石を精錬した粗銅や銅魁には、鉛が5%も含まれているのか?
ちょっと、考えにくい
また、錫の鉱石にも鉛が含まれているらしい
現代では、青銅に、5%も混入する場合は切削特性をよくするために入れるようです。
鏡は、磨くので理解できますが
銅鐸は、なぜでしょう。
そして、もう一つ不思議なことは、
錫製の器の発掘実績を見つけることができなかったんですね。
これどういう訳、事情は違うにしろ普通、銅の器と対等ぐらいの価値が無いのか?
知ってる方、教えてください。
元の発言 [ Re: Title年号鏡の数字は虚数 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 9月11日(火)11時10分52秒 ]
>> またまた馬鹿馬鹿しい思いつきを一つ。
>>
>>
有り難う御座います。
>>
と言う事はやっぱり日本で発掘された紀年鏡は
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
で問題の景初四年を除くと全部奇数ですね。
中国では偶数年が沢山出ているのに日本では景初四年を除くと奇数しかない。
月も五月が多くなかったですか?偶然でしょうか?
四という数字も当時の日本人の間で好かれる数字だったとすれば景初四年をでっち上げても不思議はない。
中国人には数に対する特別な思い入れはなかったが日本人にはあったとすれば納得が行きます。
大和人からの注文で年号鏡も作られた?
元の発言 [ Re: Title神獣鏡の鋳造法 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 9月2日(日)00時27分51秒 ]
>>
>>
>>
同じ銅の鋳型の技術の話を、LSIと漆と一緒にしても
議論にならんでしょう。
残念ながら、ちょっと例が悪すぎませんか?
元の発言 [ Re: 青銅の成分調整 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 9月11日(火)00時22分29秒 ]
>>
#不謹慎だジョー。(^_^;)
>>
#三国の中でもっとも長く続いたのは呉です。
>>
#?“魏”が卑弥呼に下賜した「三角縁神獣鏡」ですか?
元の発言 [ Re: Title年号鏡の数字は虚数 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 9月11日(火)16時05分00秒 ]
>> 中国では偶数年が沢山出ているのに日本では景初四年を除くと奇数しかない。
>> 月も五月が多くなかったですか?偶然でしょうか?
>>
>>
>>
>>
私に言わせれば卑弥呼の為に特製の鏡を作るなら100枚全てに同じ年号が書いてない事がすごく不自然に思えます。
>> 四という数字も当時の日本人の間で好かれる数字だったとすれば景初四年をでっち上げても不思議はない。
>>
>>
>>
四・・・四天、四海、四方、四囲、四散、四書、四恩など、四という数字は全て、多数などの意味があるように思います。
当時の倭人がそのような意味を理解していれば悪い数字ではなく良い意味があると言う事で好んだ可能性があります。
今でも四天王とか四角四面とか四方八方とか四と言う数字が結構すかれているんじゃないでしょうか。
>> 中国人には数に対する特別な思い入れはなかったが日本人にはあったとすれば納得が行きます。
>> 大和人からの注文で年号鏡も作られた?
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
倭鏡説の立場から言えば後世の倭人が景初三年、景初四年、正始元年が縁起がいいから使ったので現実の年を意味していないのですから除けません。
>>
>>
>>
おにりんさんが一覧にしてくれた鏡の数(種類?)をざっと数えてみたら83個(種類)あり、日本で発見の五つを除くと78個(種類)そのうち偶数年号が37個(種類)。
(印刷して数えた訳でないので数え違いが有るかも知れません。)
元年が多くなりやすい状況なのにも関わらず41対37です。
日本では景初4年が有るだけ。
景初2年や正始2年が有っても不思議は有りませんが有りません。
その代わりに景初4年がある訳です。
このあたり日本人好みの年号だった可能性を考えてしまう訳です。
当然魏鏡説をとっておられるおにりんさんは魏の年号だからその年に作られたに決まっていると仰るのは判っています。
景初4年問題を除けば実に簡単です。
倭鏡説の立場を取る私達は何故、景初三年、四年、正始元年でなければならないのか説明に苦慮している訳です。
倭鏡説の人も魏鏡ではおかしい事が多いから倭鏡に違いないと言うだけで何故、景初三年、四年、正始元年なのかと言う説明をしてくれません。
その解決手段として考えついた事なので、倭鏡説を取る人にも私の案をどのように評価してもらえるかも聞いて見たいです。
元の発言 [ Re: 三ケ日人は縄文人か ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 9月11日(火)13時04分03秒 ]
そう言えば,血液型の判断でもありましたね。
NHKのは,DNAの検査の結果,らしいです。
20体の遺骨から抽出したサンプルのうち,
17体のものが一致したとかなんとか・・・。
えー、みなさん血なまぐさい・・・もとい真剣な論争ご苦労様です。
ここらでちょっと一服(ちょっと一服さん失礼します)して、妄想世界で遊びませんか。
(と言うより私は鏡のなかには入っていけない。)
いきなりトンデモが飛びすぎると話にならないので、まずは穏便に
通説に近いところからじわじわ行きます。
まず寺澤氏の王権の誕生を基に、弥生末の大型墳丘墓について考えてみます。
この本の中では、西谷3号、西桂見、楯築、今井赤坂など最大級の墳墓が、
暦年代で200年前後とされています。
同じ本の中で、寺澤氏は倭国乱の時期を3世紀初頭としています。
つまり倭国乱の実態を、このような地域の王の権力の成長による、相互牽制が実態であって、
実際の戦闘をあまり伴わないものであるとしています。
しかし三国志魏書中には、倭國亂相攻伐歴年、とあって、個人的には違和感があります。
下記ウェブページに見るように、大型墳丘墓の祭祀圏の交流の証拠をみると、とても
相攻伐歴年の状況には思えません。
http://www2.pref.shimane.jp/kouhou/esque/25/menu09.html
倭国乱を北部九州に限定する案もありますが、ほぼ同時期に奈良盆地の弥生文化に
ある種の断絶を伴って突然出現する纏向遺跡の存在や、大型墳丘墓がこの時期のあと
続かない、あるいは小型化することを考えると、倭国乱を3世紀初頭として
これら弥生終末の大型墳丘墓は、ぎりぎり乱の直前とすることは出来ないでしょうか。
倭国乱直前には大型墳丘墓祭祀圏と、残り二つの青銅器祭祀圏が、競い合いながらも
ある種の政治的バランスをとり、交流していたと考えるのです。
この政治的バランスが崩れたときに乱がおこり、各勢力のせめぎあいの内から、
卑弥呼共立へとつながって行くと考えてみます。
さらに、この乱直前の秩序ですが、これら祭祀圏をまとめる存在があった可能性は
無いでしょうか。
例えば、王権の誕生では乱直前の秩序をイト倭国と表して、伊都国中心の秩序を
考えていますが、この本の中ではイト倭国は、北部九州を中心とする広型銅矛、銅戈
を祭器する地域と限定されています。
私の考えるのは、異なる祭祀圏であっても、対外的窓口として、共通の王を戴くことが
有るのではないかということです。
実際の政治=祭祀であって、各祭祀圏の政治的独立性は疑いないとしても、
言語や風俗の共通性によって、精神的なまとまりを作ることは考えられるし、
中華王朝や、韓といった外部にたいする窓口として、いくつかの祭祀ブロックにまたがる
ゆるい政治的まとまりはありうるのではないかと思います。
ここで私が直接イメージするのは、辰王です。
これがまた三国志魏書東夷伝を読んでも、よく分からない部分があるのですが、
馬韓と辰韓にまたがる王がいたことは間違いなさそうです。
後漢書ではもう少し踏み込んで、辰王の支配を整理して有るようですし、
時代は下がりますが、三国史記などでも、馬韓による弁韓辰韓の支配が書かれています。
後代の書による勝手な解釈の可能性もありますが、独自情報による補強の可能性も残ります。
このような邪馬台国時代にさかのぼる広域の倭国については、西嶋氏の倭国の登場にも
倭国の地理的領域を明示してはいませんが、伊都国を中心として現われています。
この本のなかでは、後漢書中の帥升の倭国がのちの邪馬台国を含む領域であり、
帥升をして初代の倭国王としています。
この第一次倭国は、中華帝国の存在を前提にした外的要因を主とした政権で、
従って内政的には、倭国乱の収束を目的とした内在的要因によって成立した
第二次倭国に比べて、ずっと脆弱で名目的であり、支配浸透力も弱かったと考えます。
(つづく)
元の発言 [ Re: 破片でも1枚とカウントしてよいという考え方も ] お名前 [ オヤジッチ ] 日付 [ 9月7日(金)21時44分00秒 ]
オヤジッチさん こんばんは
>> >> 孫引きで恐縮ですが、「三角縁神獣鏡の時代」(岡村秀典、吉川弘文館)の74ページによりますと、「藤丸詔八郎氏は、・・・副葬時に鏡に意図的に破砕して埋めるとともに、破片の一部を取りだして破鏡として利用する儀礼を推測している」とあり、
>> 三角縁にも破鏡があるんですか。知りませんでした。
#すみません。引用部分が短くて、誤解させてしまったようです。この本での、ここでいう破鏡というのは、三角縁神獣鏡のことを言っているのではありません。方格規矩四神鏡などのことです。
例がないわけではありませんが、画文帯神獣鏡や三角縁神獣鏡の破鏡の例は少ないようですね。同じ本の137ページに「画文帯神獣鏡の破鏡は日本全体をみても九州の三例だけであり、破鏡への分割は北部九州でおこなわれたと考えられる。弥生後期をつうじて北部九州は漢鏡の分割とその破鏡を分割する中心であったが、漢鏡7期の鏡から段階的に終焉にむかっていた。福岡市老司古墳から出土した三角縁神獣鏡の破鏡はおそらくその最後のものであろう。」とあります。
元の発言 [ Title:トンデモワールドへようこそ(その1) ] お名前 [ ピクポポデミ ] 日付 [ 9月11日(火)21時27分01秒 ]
>> まず寺澤氏の王権の誕生を基に、弥生末の大型墳丘墓について考えてみます。
>> この本の中では、西谷3号、西桂見、楯築、今井赤坂など最大級の墳墓が、
>> 暦年代で200年前後とされています。
>> 同じ本の中で、寺澤氏は倭国乱の時期を3世紀初頭としています。
>> つまり倭国乱の実態を、このような地域の王の権力の成長による、相互牽制が実態であって、
>> 実際の戦闘をあまり伴わないものであるとしています。
>> しかし三国志魏書中には、倭國亂相攻伐歴年、とあって、個人的には違和感があります。
>> 下記ウェブページに見るように、大型墳丘墓の祭祀圏の交流の証拠をみると、とても
>> 相攻伐歴年の状況には思えません。
>> http://www2.pref.shimane.jp/kouhou/esque/25/menu09.html
>> 倭国乱を北部九州に限定する案もありますが、ほぼ同時期に奈良盆地の弥生文化に
>> ある種の断絶を伴って突然出現する纏向遺跡の存在や、大型墳丘墓がこの時期のあと
>> 続かない、あるいは小型化することを考えると、倭国乱を3世紀初頭として
>> これら弥生終末の大型墳丘墓は、ぎりぎり乱の直前とすることは出来ないでしょうか。
>> 倭国乱直前には大型墳丘墓祭祀圏と、残り二つの青銅器祭祀圏が、競い合いながらも
>> ある種の政治的バランスをとり、交流していたと考えるのです。
>> この政治的バランスが崩れたときに乱がおこり、各勢力のせめぎあいの内から、
>> 卑弥呼共立へとつながって行くと考えてみます。
>> さらに、この乱直前の秩序ですが、これら祭祀圏をまとめる存在があった可能性は
>> 無いでしょうか。
ちと私の気になるのは、群雄割拠たる戦国時代との類似です。
ただきになるのは、戦国時代には、
朝廷と言う権威があったと言える点です。
最も有名無実であることは、あるんですが、この権威を利用した信長は、不利な戦を休戦に持ち込んで時間稼ぎに成功しています。
この時代と言っても、何か休戦や仲裁に機能を果たす物があったのか?
無ければ、戦略奇襲なりで戦を始めて一気に相手を滅ぼすしかない。
さもなくば、慢性的戦闘状態となり収集がつかなくなる。
周りが迷惑するため休戦の斡旋は、行なわれるでしょうが、
この時、保証になる物が無い。
これは、大きな問題ではないでしょうか!
卑弥呼の権威とは、このような必要性を求められたから生まれたのではないでしょうか?
縄文にも、戦はあったでしょうが、山内丸山のような、祭祀のセンター的な所が間に立てば、収まりやすいでしょう。
問題は、縄文晩期から弥生までそんなものが残っていたかだと思います。
この考えは、如何でしょう。
>> 例えば、王権の誕生では乱直前の秩序をイト倭国と表して、伊都国中心の秩序を
>> 考えていますが、この本の中ではイト倭国は、北部九州を中心とする広型銅矛、銅戈
>> を祭器する地域と限定されています。
>> 私の考えるのは、異なる祭祀圏であっても、対外的窓口として、共通の王を戴くことが
>> 有るのではないかということです。
>> 実際の政治=祭祀であって、各祭祀圏の政治的独立性は疑いないとしても、
>> 言語や風俗の共通性によって、精神的なまとまりを作ることは考えられるし、
>> 中華王朝や、韓といった外部にたいする窓口として、いくつかの祭祀ブロックにまたがる
>> ゆるい政治的まとまりはありうるのではないかと思います。
>> ここで私が直接イメージするのは、辰王です。
>> これがまた三国志魏書東夷伝を読んでも、よく分からない部分があるのですが、
>> 馬韓と辰韓にまたがる王がいたことは間違いなさそうです。
>> 後漢書ではもう少し踏み込んで、辰王の支配を整理して有るようですし、
>> 時代は下がりますが、三国史記などでも、馬韓による弁韓辰韓の支配が書かれています。
>> 後代の書による勝手な解釈の可能性もありますが、独自情報による補強の可能性も残ります。
>> このような邪馬台国時代にさかのぼる広域の倭国については、西嶋氏の倭国の登場にも
>> 倭国の地理的領域を明示してはいませんが、伊都国を中心として現われています。
>> この本のなかでは、後漢書中の帥升の倭国がのちの邪馬台国を含む領域であり、
>> 帥升をして初代の倭国王としています。
>> この第一次倭国は、中華帝国の存在を前提にした外的要因を主とした政権で、
>> 従って内政的には、倭国乱の収束を目的とした内在的要因によって成立した
>> 第二次倭国に比べて、ずっと脆弱で名目的であり、支配浸透力も弱かったと考えます。
>> (つづく)
それが上手く行かないので超大国今で言うアメリカのような立場の中国に権威を求めたんでしょうか。
侵略される危険を冒して。
当時の倭国に中国人が一人もいなかったのでしょうか?
みんな倭国人ばかりだったのでしょうか?
そんな事はありえないと思います。
朝鮮とか中国とか、とても自国の料理を大事にします。
一人で外国に来て、そこの土地の食事を摂ることは
まず無いと思われます。
当然、少なくとも数十人単位では、来ていたと思われる。
男も女も来ていたでしょう。役人や武人だけでなく、
料理人もいれば、商人だって、来ていると考えて当然。
早い段階で、青銅関係者が来ていてもなんの不思議もない。
それがなければ、日本独自で鏡を作ったことになるから
そんなことはない。
鏡工人は、来ていたのでしょう。
倭国にいれば、魏も呉も関係ないのだから、両方の技術が
交わってもおかしくない。
倭国での三角縁神獣鏡の制作は可能だと思われますが、
いかがでしょう?
元の発言 [ Re: ロストワックス&鋳砂 ] お名前 [ 牛頭天王 ] 日付 [ 9月7日(金)22時03分05秒 ]
>> 沸騰したり爆発して鏡に穴をあけてしまうかも知れない。
>> ロストワックス法なら型は割って捨ててしまいますから離型剤は不要でしょう。
>> 離型剤が必要だったのは所謂踏み返しをする時、粘土と模型を剥がすときだと思います。
>> ですから蝋がついた鏡は踏み返しの親型だったことになります。
ただ、私は、三角の縁は、大元の型抜きのためではなっかったか? と思っています。
やってみたら型ぬきには、都合よいは、意匠的にもOKてな事なんじゃないかと。
>> >> >> 少し熱を加えれば溶けて型が外しやすくなり、それに更に熱すれば蝋は流れて消えてしまいますからね。
>> >> 石型も同じです。
>> >> 両方とも通気性が無いことは、分かると思います。
>> >> 巣が、入らない様にするのはかなり大変でしょう。
>> ALEXさんが乳がガス抜き穴であった可能性を教えてくれました。
>> 他にも意匠でガス抜き穴を隠す工夫があったかも知れません。
あるでしょうね。
元の発言 [ Re: Title:トンデモワールドへようこそ(その1)チャチャ ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 9月12日(水)16時27分37秒 ]
>>
>>
発掘内容からすると後漢が衰える前からかなり騒がしくなっているように思えるんですけど。
また、九州出雲北陸はよいとしても、東海関東方面は権威が及んでいると言えるのか?と
いかがでしょう。
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>> さもなくば、慢性的戦闘状態となり収集がつかなくなる。
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>> 周りが迷惑するため休戦の斡旋は、行なわれるでしょうが、
>> この時、保証になる物が無い。
>> これは、大きな問題ではないでしょうか!
>>
>>
>>
>>
>>
そうはいっても、戦国の場合、東北の場合どうも、地縁血縁の迷惑てな感じで仲裁されている。
それと同じじゃないけれども、似た状況の方が考えやすい。
また、牽制と言うものと思われるものも多いし。
>> 卑弥呼の権威とは、このような必要性を求められたから生まれたのではないでしょうか?
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
それでも、上手くいかな渇たって事ですよね。
元の発言 [ Re: 青銅の成分調整 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 9月12日(水)16時19分10秒 ]
>>
#了解しました。
#三角縁鏡は近畿説の“物証”とは言えないってことですネ。
元の発言 [ Title:トンデモワールドへようこそ(その1) ] お名前 [ ピクポポデミ ] 日付 [ 9月11日(火)21時27分01秒 ]
>> 馬韓と辰韓にまたがる王がいたことは間違いなさそうです。
鳥越説によると,三韓の領域は辰国と呼ばれており,
三韓分立後も,辰韓・弁韓の王も馬韓人であり,
馬韓の辰王に服属していたそうです。
馬韓の月支国が首都。
馬韓が百済に制圧されたのは,4世紀のことらしく,
『晋書』武帝紀の太庚七年(286)には,
まだ馬韓として健在であったそうです。
# この年代は興味深い。
馬韓の王統譜や歴史は,
百済に抹殺されて何も残っていないそうです。
以上,鳥越憲三郎『古代朝鮮と倭族』(中公新書)参照。
# 辰国の韓民族=雲南系倭族,という説ですね。
さてまだまだトンデモパワー炸裂の準備です。
その1では、倭国乱を寺澤氏の説に基づいて3世紀初頭としました。
ここで土器の寺澤編年を修正することを考えます。
土器編年は、各地の膨大な遺物の出土状況から、各地各時代の土器の相対的な時間関係を
織ってゆき、そこに年代の分かる遺物で実年代の目盛りを振ったようなものと
理解しています。
実際には、土器と同時に出土した、製作年代の分かる貨泉や鏡、
そして伐採の年輪年代の分かる木片などからその土器の実年代を割り出すわけでしょうが、
そのような年代遺物の表す年数は、その土器様式の土器が最後に作られた時期の
上限を表すだけです。
したがって編年は、理論上は新しいほうには制限がありません。
弥生時代の鏡がずっと伝わって、昨日われたお茶碗と埋まったとしてもよいわけですから。
実際には常識的な線で、決めているのでしょう。
年代遺物が複数ある場合は、年代分布に比べてその最後の年代から余りに離れるのは
不自然でしょうし。
逆に上限は明らかなわけです。
私の力では、膨大な遺跡と遺物を整理して、独自の年代を構成することは出来ません。
そこで、寺澤年代の相対関係をそのままにして、全体の時間メモリを年代遺物と
矛盾の無い範囲で並行移動することを考えます。
ただし遺物を個別にチェックする力も無いので、他の人の立てている年代との比較で検討します。
とてもずるいですが、北部九州部分の編年は、あまり動かす例が無いので動かしません。
まず弥生後期初頭ですが、寺澤編年では1世紀中葉、森岡氏の編年では1世紀初頭と
なっています。
森岡編年が存在するということは、後期初頭では約50年近く寺澤編年を引き上げても、
年代遺物との矛盾が無いということでしょう。
後期初頭の土器様式と、紀元14年以降製作された貨泉が一緒に出るようですから、
これ以上引き上げるのは不可能でしょう。
次に庄内0式ですが、寺澤編年では210年頃開始になっています。
一方石野氏の邪馬台国の考古学では、纒向一式が180年開始になっています。
これから見ると、庄内式のあたりで、寺澤編年は30年引き上げても矛盾は起きないようです。
次に布留0式ですが、寺澤編年では280年頃開始になっています。
しかし都出編年ではこれは250年頃開始になっています。
椿井大塚山を布留0最後として、舶載三角縁神獣鏡が極短い(20年程度)で作られたとすれば
布留0式開始250年までは問題なく行けるような気がします。
年代を引き上げる積極的な理由はあるでしょうか。
まず弥生後期初頭を1世紀初頭に引き上げた森岡編年は、鏡や貨泉等の出土物や、
土器文様などから、推察されたもので、後に年輪年代の裏付けが出た物です。
決して理由の無いものではありませんが、必ずしも現在一般的ではないようです。
庄内式については、続々見つかる年輪年代の示すところが、一致して古いほうを
指し示すことは重要であると思います。
たった一点であれば、再利用などの色々な解釈ができるでしょうが、
幾つもの点が同じ方向へほぼ同じ程度の引き上げを示唆している場合には
考慮する必要があると思われます。
木片の中には、たまたま伐採から時を経ず、再利用を受けずに埋まったものもあるでしょうから、
纒向石塚に続いて、勝山古墳と古い年代ばかりが続いてくると、年代を引き上げる立場は
次第に補強されてゆくでしょう。
まだ二点ばかりではなんともいえませんが。
布留0式については、舶載三角縁神獣鏡が魏鏡である立場では、年輪年代に関わらず250年頃開始を
主張されるように思います。
そこで北部九州を除く寺澤年代観を、全体で時間目盛り30年だけさかのぼらせます。
王権の誕生では、倭国乱を200年から210年頃としているようです。
私の場合200年頃の大型墳丘墓の時代を、倭国乱の直前としていますから、
乱自体は210年直前の短期間としましょう。
この時間目盛りを30年引き上げると、大型墳丘墓の時代は170年前後、
倭国乱は180年直前の短期間になります。
これは梁書や、北史の光和年間に該当してきます。
其國本亦以男子爲王住七八十年倭國亂
と
安帝永初元年倭國王帥升等獻生口百六十人願請見
にもはまります。(はめたのだとも言われていますが)
さていよいよトンデモ離陸開始。
(続く)
元の発言 [ Re: Title:トンデモワールドへようこそ(その1)チャチャ ] お名前 [ 馬頭鬼 ] 日付 [ 9月12日(水)12時39分13秒 ]
>> ちと私の気になるのは、群雄割拠たる戦国時代との類似です。
>> ただきになるのは、戦国時代には、
>> 朝廷と言う権威があったと言える点です。
>> 最も有名無実であることは、あるんですが、この権威を利用した信長は、不利な戦を休戦に持ち込んで時間稼ぎに成功しています。
>> この時代と言っても、何か休戦や仲裁に機能を果たす物があったのか?
>> 無ければ、戦略奇襲なりで戦を始めて一気に相手を滅ぼすしかない。
>> さもなくば、慢性的戦闘状態となり収集がつかなくなる。
>> 周りが迷惑するため休戦の斡旋は、行なわれるでしょうが、
>> この時、保証になる物が無い。
>> これは、大きな問題ではないでしょうか!
>> 卑弥呼の権威とは、このような必要性を求められたから生まれたのではないでしょうか?
>> 縄文にも、戦はあったでしょうが、山内丸山のような、祭祀のセンター的な所が間に立てば、収まりやすいでしょう。
>> 問題は、縄文晩期から弥生までそんなものが残っていたかだと思います。
>> この考えは、如何でしょう。
私は戦国時代と弥生時代は、その精神世界、つまり生死観、世界観、ものの所有や財産についての観点、集団と個人の関係性などがまるで違うと思っています。
この時代の政治軍事には、祭祀が極めて大きな意味を持っているのではないでしょうか。
戦国時代の例があまり通じないような気がするのですが。
元の発言 [ Re: トンデモワールドへようこそ(その1) ] お名前 [ ちょっと一服 ] 日付 [ 9月12日(水)21時32分16秒 ]
>>
>> >> 馬韓と辰韓にまたがる王がいたことは間違いなさそうです。
>> 鳥越説によると,三韓の領域は辰国と呼ばれており,
>> 三韓分立後も,辰韓・弁韓の王も馬韓人であり,
>> 馬韓の辰王に服属していたそうです。
>> 馬韓の月支国が首都。
>> 馬韓が百済に制圧されたのは,4世紀のことらしく,
>> 『晋書』武帝紀の太庚七年(286)には,
>> まだ馬韓として健在であったそうです。
>>
>> # この年代は興味深い。
>>
>> 馬韓の王統譜や歴史は,
>> 百済に抹殺されて何も残っていないそうです。
>>
>> 以上,鳥越憲三郎『古代朝鮮と倭族』(中公新書)参照。
>>
>> # 辰国の韓民族=雲南系倭族,という説ですね。
どっかでそういうの見たと思っていたのですが、鳥越説でしたか。
三国志魏書東夷伝には、馬韓と辰韓/弁辰では言語も風俗も異なるように書いてあります。
辰王はこれらの上にいるのに(すくなくとも月支国と辰韓12国)あまり軍事的政治的には強力ではない様ですね。
元の発言 [ Re: Title年号鏡の数字は虚数 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 9月12日(水)10時38分44秒 ]
>>
>>
>>
三角縁神獣鏡は卑弥呼の鏡ではないが魏鏡である事は間違いないという意見ですね。
邪馬台国畿内説の標準的な意見ですね。
了解しました。それを前提に話をしましょう。
>> 倭鏡説の立場から言えば後世の倭人が景初三年、景初四年、正始元年が縁起がいいから使ったので現実の年を意味していないのですから除けません。
>>
元年も三年も四年も五も縁起の良い日本人好みの数であると言う仮説が成り立てば、景初四年鏡も単に日本人が好きな数字だから使われた。
景初四年が実在したかどうかは当時の倭人にとってどうでもいい事だった。
どうせ墓の中に入れるためにだけ作った物だから。
とすればわたし的には景初三年も四年もクリヤできます。
30年後、50年後に作られたとしても成り立ちます。
景初2年や正始2年が有れば私の仮説は成り立ちませんが。
>>
いろんな種類の鏡があると言う事はそれらの鏡は卑弥呼の遣使にあわせて作られたものではない事を示しています。
だから景初三年や正始元年が有るのでは?
従って作り置きを入れてもかまわないのでは?
だから景初2年や正始2年が有っても不思議は無い事になります。
>> その代わりに景初4年がある訳です。
>>
>>
単に倭人の好きな数字ですから後世に作られても差し支えないと言うのが私の意見です。
>>
>>
後世に作られた鏡説では 邪馬台国と何の関係も無い大和が、かって卑弥呼が魏に遣使した事を聞きつけ、景初三年や正始元年鏡を作った。という仮説も成り立ちます。
>>
>>
>>
>>
リアルタイムに製作された鏡ならばその通りでしょう。
でも後世に作られた物なら攻め滅ぼされた国の年号を使うのはいやだったのでは有りませんか?
元の発言 [ Re: Title神獣鏡の鋳造法 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 9月2日(日)00時27分51秒 ]
こんばんは。
>>
>>
>>
#この光沢云々は、西川○○(名前失念)著『卑弥呼の鏡』(書物が手元にないので記憶を頼りに)からの入手ですか。かの書物にも記載されていますが。この西川先生、日本にある鏡全数、2000枚(だった?)以上を見たと豪語するだけあって、鏡の情報は詳しいですね。真偽はともかくとして。
しかし、「物つくり」、に関しておかしなところがありますね。この光沢云々もその一つ。単純な話をします、御貴殿も技術屋とお見受けしますので考えてください。光沢を出すには、普通、半溶融の状態だ必要ですが、コテの大きさ、温度、押し付け圧力、時間などどんな条件が必要でしょうか。はたして可能?
私は不良品の手直しの痕跡だと見ています。
中国の技術レベルを評価できる事柄ではないでしょう。
元の発言 [ Re: Title:トンデモワールドへようこそ(その2) ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 9月13日(木)00時05分19秒 ]
>>
>>
実はトンデモ離陸に成功したら、50年ずり上げの線も検討しています。
貨泉とのからみで、これが限界でしょうが、可能性充分と思っています。
実は私は纏向開始を150年にして、倭国乱を180年前後という構想を持っています。
ただ50年ずらすと吉備=狗奴 説は厳しくなりませんか。
ところでおにりんさんは、三国史記にある卑弥呼の記事をどう思われますか。
元の発言 [ Re: トンデモワールドへようこそ(その1) ] お名前 [ ピクポポデミ ] 日付 [ 9月12日(水)22時31分51秒 ]
>> 三国志魏書東夷伝には、馬韓と辰韓/弁辰では言語も風俗も異なるように書いてあります。
辰韓については,
「其耆老伝世、自言古之亡人避秦役来適韓国、馬韓割其東界地与之」
「有似秦人、非但燕、斉之名物也」
という事情が絡んでいる,と。
弁辰については,辰韓と似ている,と。
一方,倭人も雑居していて,一部に文身の風があった,と。
>> 辰王はこれらの上にいるのに(すくなくとも月支国と辰韓12国)あまり軍事的政治的には強力ではない様ですね。
倭国に較べても,小ぶりな印象はあります。
元の発言 [ Re: トンデモワールドへようこそ(その1) ] お名前 [ ちょっと一服 ] 日付 [ 9月13日(木)12時22分54秒 ]
>> 辰韓については,
>> 「其耆老伝世、自言古之亡人避秦役来適韓国、馬韓割其東界地与之」
>> 「有似秦人、非但燕、斉之名物也」
>> という事情が絡んでいる,と。
私は徐福を思い出すんですが・・・
ところで石野氏の邪馬台国の考古学で、江の川をさかのぼった三次の四隅突出墓について
これを作った人々が、仙薬の知識を持っていて、発展したと書いてあります。
たぶんその手の土器(ってなんだろう)が出ているのでしょう。
四隅突出墓はその後、石見、出雲、伯耆、因幡に展開します。
山陰は後に朝廷に多くの薬草を届けることになったようです。
この山陰は距離の割に、届けられる薬草の種類が多く、古くからの伝承があったのではないでしょうか。
だからどうだというわけではありません。
ただ書記の一書では、スサノオは可愛川(江の川?)のほとりに下ります。
またスサノオは朝鮮半島からきたとも書いてあります。
スサノオが一族の族長名で、長い期間に渡る名称だったら・・・
まあどっちでもいいですが。
元の発言 [ Re: 倭国に中国人はいなかったのか? ] お名前 [ yaohide ] 日付 [ 9月5日(水)02時53分08秒 ]
>倭国に中国人はいなかったのか?
鏡工人かどうかはともかく、魏志倭人伝には、伊都国に中国人が常駐していたような言い方ですよね。
これを裏付けるように、三雲遺跡では、弥生中期末(紀元前1世紀後半)から弥生終末(三世紀)にかけて楽浪系土器が結構出ています。特に三雲では、番上地区という部分で集中的に出てます。
土器そのものが交易品と言える程には広域に出ていませんし、また何かの容器としてのカメやツボだけでなく、日常什器的な鉢なども多く出ているので、つまり、セットとして出ているので(三雲とその周辺の糸島の沿岸遺跡と原の辻のみ。他の遺跡ではあっても単発的)、生活様式をたずさえた中国人(楽浪人)が、ある程度行ったり来たりしながらも定着していた可能性があります(ただし上記の特定遺跡のみ)。
あと楽浪郡庁の遺物を、最近東大で再整理している様ですが、後漢代に青銅器鋳造をやった証拠があるようです。鋳型破片(銭か)、銅滓、再溶解するための鏡のスクラップなどです。(東大の考古学研究室紀要の最近の号)
参考までに記しておきます。
元の発言 [ Re: トンデモワールドへようこそ(その1) ] お名前 [ ピクポポデミ ] 日付 [ 9月13日(木)12時52分38秒 ]
>> またスサノオは朝鮮半島からきたとも書いてあります。
>> スサノオが一族の族長名で、長い期間に渡る名称だったら・・・
韓伝魏略に,漢人戸来という妖しい名前の人物が登場しており,
「我等漢人、名戸来、我等輩千五百人伐材木」という段がありますが,
スサノヲは木種・植林をあつかっていますね。
薬草については,
大国主命と少彦名命の伝承かもしれません。
療病方と禁厭法を定めていますから。
これは,神仙道系などの神道の教義にも伝わっています。
元の発言 [ Re: Title年号鏡の数字は虚数 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 9月12日(水)23時48分52秒 ]
>>
>>
>>
私は魏志倭人伝はおにりんさんよりずっと深く信じていると思いますよ。
魏志倭人伝をよく読んだ結果邪馬台国は畿内ではありえないという結論に達したのです。
書いていない所は想像で補うしかありません。
考古学的なものも納得いくものなら信じます。
納得いかないものも多いんですよね。
http://www.mmjp.or.jp/chinasaloon/kakami1.htm
にある画紋帯神獣鏡は「イ方」製鏡と言う事になっていますが黒塚古墳の画紋帯神獣鏡
http//fukuoka.cool.ne.jp/chikuzen/enjoy/mirrorkuro07.html
よりよほど出来がいい。
考古学的事柄も私なりに調べて変だなと思って変だと申し上げているのです。
>>
いかなる説も作れます。これが九州説のみなさんのきわめて特徴的な態度です。
畿内説の方たちは畿内説に有利と言われる考古学的証拠も、他の証拠と付き合わせれば変な事に気が付く筈なのに
敢えて気づかないふりをしているとしか思えません。
元の発言 [ Re: トンデモワールドへようこそ(その1) ] お名前 [ ちょっと一服 ] 日付 [ 9月13日(木)21時53分47秒 ]
>> 韓伝魏略に,漢人戸来という妖しい名前の人物が登場しており,
>> 「我等漢人、名戸来、我等輩千五百人伐材木」という段がありますが,
これは知らないです。
何を読めばよいのでしょう。
はじめまして、紀 智明です。
しばらくの間、この論争を読んできた。
5月度に、里程についてかなり意見があったが、これについて、ひとつ。
なお、小生、
邪馬壹国 九州・博多湾岸説
里数値 短里説
です。
そうです、古田武彦先生の手法(結果ではありません)に全面賛成です。
1 はじめに(文献と出土物)
“「邪馬壹国」論争”とは何だろう。
発端は、“三国志”であることには異論はないだろう。
出土物などの考古学が初めではないということを、念を押しておきたい。
2 正史とは
中国は歴代、夷蛮の国とは、常に交戦状態になったり、和睦したりを繰り返してき
ている。
その最たるものが匈奴だろうが………。
となると、倭国と交戦状態になるか、あるいはどこかと戦争するようになったとき
に、倭国の支援を求めるというような状態をいつも考えていたはず。
結果的には、7世紀の白村江になったが………。
実際の国王の居場所がどこで、そこまで行くにはどれくらいかかるか、人口(兵
力)はどれくらいかを調べるのは、軍事司令官としては、最も初歩的な情報収集の事
項のはず。
また、倭国がどこか別の国と戦いになったときに、中国の柵封体制下にある国(歳
時貢献し、臣下としての授号をしている)に対し、その支援を行うことは当然のこと
であろう。
支援しないなどということになれば、周辺の夷蛮の国々からの朝貢などはなくなっ
てしまうのは明白のはず。
このような、威信を欠くようなことをするのは「中華思想」ではないはず。
一方、倭国と交戦状態になったときも同様で、急に何を準備すればよいのかを考え
るなどという泥縄式な対応しかできないということでは、国体を維持することなどで
きるはずがない。
正史は、単なる観光案内ではなく、きわめて政治的・軍事的な面をもっていること
忘れてはならないはずで、これを考えると、張政(後述)の見聞した報告書を利用し
ないはずがない。
* なにせ、報告書を読むのは、魏朝の天子であり、また、高級官僚たちなのであ
るから。
以上の二人の記録をみると、“里数値が誇大だ”、とか“南は東の誤りだ”などと
いうことは考えられない。
3 梯儁と張政
景初2年(3年ではない)の朝貢に対する明帝の詔書がだされたが、その際に金印
の他に膨大な下賜品を与えることにした。
ところが、明帝の急逝により、国事行為が中止された。
喪があけた正始元年に、建忠校尉梯儁を遣わし、倭王に拜仮している。
これに対し、倭王は、使者を通じ、謝恩の上表文を出している。
使者が、直接、倭王に会わずして、“倭王に拜仮したり”、“倭王が、謝恩の上表
文を出す”などとは考えられない。
また、当然のこととして、梯儁は明帝(太守弓遵を通じてだろうが)に報告書を提
出しているはず。
* “伊都国までしか行っていない”という説をとなえている人は、文書を正しく
読んで理解しているとは思えない。
次に、塞曹掾史(軍事司令官でしょう)の、張政が来ている。
先の梯儁は、使者としての役目を果たしたら、直ちに帰国しただろうが、張政は、
かれこれ20年(途中で帰国したかどうかは定かではないが)も滞在した。
なんのために、軍事司令官を20年の長きにわたり派遣したのかを考えれば、わか
ると思う。
魏使としてはいろいろな目的があったと考えられるので、倭人伝に記載された行程
とは異なることもあるかもしれないが、正史としての記載は魏使の実際の行程を記し
ているというより、張政の軍事報告を基に記載しているほうが、ウェイトが高いと考
える。
* ということは、1回だけの魏使の渡航で、海が荒れていたら1ケ月かかるだと
かの理屈(推測)を言う人がいるようだが、まさに、噴飯ものである。
* また、“倭人は、里数を知らないから、日数で答えた”などということを言う
人がかなりいるようだが、まったくのお笑い種である。
* よしんば、倭人が里数を知らなかったとしても、張政は、長期の滞在中に調べ
ることはできた。
4 文献解読の手順
@ ところで、「魏史倭人伝」は、これ単独で処理するのではなく、“三国志”全体
を見つめ、その一部であるという位置づけから考察すべきである。
A さて、先に自らの定める(希望する)場所を決めて、それにあわせて原文を改訂
するのではなく、忠実に解読して行く。
注) 原文:陳寿の原本などないので、現存する写本・版本。
この過程で、誤りがあると思われるときは、それを改訂するのは已むを得ない
が、それには、“明らかな根拠(文献として)を開示して”行うのが、絶対条件で
ある。
B 三世紀の漢字の読みも、現代とどう違うかという資料(音韻書)すらないので、
勝手な読みによる“音当て”も行わない。
注) 音当て:国名・地名・人名・官職名等。
“「邪馬壹国」は、「邪馬臺国」の誤り”は、もともと「ヤマト」と読みたいと
いう“音当て”から始まっているのである(詳細後述)。
C 目的地が比定できて初めて、現代のあるいは中世などの確実な資料(和名抄な
ど)による類縁地名の推定はよいと考える…それも一つの仮説として。
D 次に、文献に記された「物」の出土物との検証で、“比定地の裏付け”を行うこ
とにより、「邪馬壹国」が確定できることになるはずである。
その結果として、“考古学の編年がおかしい”ということになれば、そちらを見
直す必要が生じてくるのでは?
要するに、冒頭で記したとおり、出土物の全てに紀年が記されていない以上は、
“文献が先で、考古学は後”であり、決して、この逆ではない。
5 三世紀の「ヤマト」とは?
そもそも、「邪馬臺国」と改訂したのは誰であるかを考えてみよう。
それは、鎌倉時代の北畠親房の「神皇正統記」が第一歩であるが、親房は文字の
改訂だけで、近畿説とも九州説とも明言していない。
それを受け、江戸初期の松下見林の「異称日本伝」に引き継がれたが、ここで初
めて近畿説が唱えられた。
しかし、いずれも、改訂の根拠など、何も明示していないのである。
まさに、ヤマトの“音当て”から始まっているのであらる。
以後、本居宣長や新井白石といった大家(?)に引き継がれたのである。
すべて、「ヤマト」と読みたいがために………。
ところで、三世紀の日本列島で「ヤマト」という読みをするところが、どこかに
あったのだろうか?
少なくとも、記紀には記されていないのに、なぜ「ヤマト」に拘泥するのだろう
か。
なにか、資料(歴史書や神社等の縁起など)が残っていないのだろうか。
残念ながら、それらしいものがあるとは聞いたことがないが。
それなのに、奈良の大和に拘っているとしか思えない。
6 「後漢書」と斐松之
「邪馬臺国」説の人は、「後漢書」を持ち出すのであろうが………。
「後漢書」の選者は、南朝宋の范曄(398-445)だが、斐松之(372〜451)より先
に死んでいる。
そこで、斐松之は、「後漢書」で「邪馬臺国」と記されているのを見ていると考
えられるのに、「三国志」に注を付していないのは、何を意味するのだろうか。
斐松之は、その記録の姿勢としても、明らかな誤りだと考えられることについて
も原文を勝手な改訂はしていない。
原文をそのままにして、それに自分の意見を併記しているのである。
よって、斐松之は、まったく別の資料により、「三国志」は「邪馬壹国」で、「後
漢書」では「邪馬臺国」とあり、「三国志」は「邪馬壹国」で誤りではないという認
識をもっていたことを示していることになる。
したがって、「三国志」の“「邪馬壹国」は、間違いではない”と断定してよい
と考える。
7 行程
「三国志」に出てくる、「至」と「到」の字を調べると、2つの字には意味の使い
分けはなく、これらの字の用法は、次の2種類ある。
ア 先行動詞(行く、渡る、遠征するetc.)+「至(到)」・・この形が基本
(〜して〜に到着する)
イ 先行動詞がない場合
a 文脈上、明らかなので省略している(この場合は、アと同じ)
b 実際にそこに到着していない場合=傍線行程
これで倭人伝の行程記事をみると、先行動詞がないのは「奴国」「投馬国」と「邪
馬壹国」の3つであるが、そのうち邪馬壹国は最終目的地だから、イのaの場合であ
る。
よって、魏の使者の行程は、以下のとおりとなる。
7000 1000 1000 1000 500 100 0
帯方郡→狗邪韓国→対海国→一大国→末盧国→伊都国→不弥国→邪馬壹国
(100)↓ ↓(水行20日)
奴国 投馬国
注) 上記の( )はイのbで、実際の行程ではない。
奴国と投馬国には、魏使は行ってない。
邪馬壹国に近づくにつれて、各区間距離が減少している。
この結果、最後は(不弥国からは)、「0(ゼロ)」で、邪馬壹国に到着する。
都の中心部まではどれくらいか(面積的にも)記されていないが、行路記事として
は、これで充分。
よって、行き着いたところは、博多湾岸を示しており、文身の後にある、「其の道
里を計るに、當に會稽東治(東冶ではない)の東に在り」と、現代の地図をみても、
その距離感はピッタリ。
誇大値などという論理は、どこからもでてこない。
8 『穆天子伝』
西晋の太康二年(281年)、河南省汲県の古墓から多数の竹簡史料が発見された。
これらの竹簡は「汲冢書」(汲県の古冢から発見された書物)と総称されている
が、この「汲冢書」の一つに、『穆天子伝』がある。
[西周第5代の王・穆天子(在位 前1001-947 あるいは 前1029-975)が黄河
を渡って、西方は崑崙に至り、その地の女王・西王母と宴した]とが記されてい
る。
これには、穆王が西王母に臣従しているような記述があり、「中華思想」からみる
と、大義名分が立たないようなところもあるが、今回は、これには触れない。
この『穆天子伝』を判読し、現在の形にしたのは、西晋の荀勗等である。
『穆天子伝』には、里程が記されており、“部分里程の総和は、全里程になってい
る”。
したがって、陳寿(297年没)は、荀勗と同時期に西晋朝に仕えているので、この
『穆天子伝』を見ていると考えられる。
9 部分里程の総和は、総里程
陳寿は、『穆天子伝』という先行史書に倣い、“部分里程の総和は、全里程とす
る”という記述をしているだけである。
すなわち、「邪馬壹国に至る」に続いて記された「水行十日、陸行一月」は、全行
程1万2千余里を日数で表したものである。
すなわち、総里程である。
「7000+1000+1000+1000+500+100=10600」で、1400の不足があるようだが.....
これは、対海国(方 400里)、一大国(方 300里)を、それぞれ半周ずつ陸行し
た、と計算できる。
全行程日数のうち、陸行1ヶ月の大部分は韓国内部で行なわれている。
これらをふまえると、従来、韓国の西岸・南岸にそって水行した、というのが定説
であったようだが、行程記事を読むと、
[郡より倭に至るには、海岸に従いて水行し、韓国を歴るに、乍ち南し乍ち東
し、其の北岸狗邪韓国に至る七千余里]とある。
「韓国を歴るに」とは、韓国の陸地部分を通り、ということ。
「水行」は、帯方郡から狗邪韓国まである、と考えられる。
「乍」という字は2つ続けて用いられると、「〜したとおもえば、たちまち〜」と
いう用法である。
ところで、韓伝に、国の名前だけが列記されているのは、何故だろう。
史記や漢書などの先行史書に記載されていれば、ダブって記すことはない。
魏の使者は、倭への下賜品を韓国人にみせながら旅行をしたのである(朝貢すると
良いことあるよと)。
魏使が陸行した(全部の国を通過したのではないだろうが)結果、知りえた国の名
前を、記載したのは、魏朝として、先行史書に記載されていないことを知りえたとい
う誇りを表しているのである … 漢書・西域伝のように。
そう、これからみても、“韓国の西岸・南岸に沿って水行した”は成り立たない。
もっとも、韓国水行では、
帯方郡治〜韓国国境まで 約1500里
韓国西岸・南岸で 約8000里(方4000里)
となり、2500里も違ってくる(短里か長里の論争以前の問題として)。
* いくらなんでも、こんな算数はしないだろうから、韓国水行説は、小学生以下の
レベルといわれても仕方がないのでは?
※ 短里論は、詳細はまた別に論ずるとしても、韓国の方4000里だけをとっても、
長里とはなりえないことは、「其の道里を計るに、當に會稽東治の東に在り」とあわ
せれば明白である。
※ 出土物については、この「三国志」の文献の解読で、「邪馬壹国」の場所を比定し
てからにすべき。
元の発言 [ Re: Title神獣鏡の鋳造法 ] お名前 [ yaohide ] 日付 [ 9月2日(日)01時24分58秒 ]
>> >> 高度っていう意味では、サブミクロンまで加工できる半導体技術はすごいが、それと漆の
>> >> 蒔絵の技巧はまるっきり違うのだから、半導体技術者が蒔絵ができるってもんじゃないって
>> >> いうことを理解しないとねー。
>> 同じ銅の鋳型の技術の話を、LSIと漆と一緒にしても
>> 議論にならんでしょう。
>> 残念ながら、ちょっと例が悪すぎませんか?
その通りですね。
おにりんさんの議論は倭人がLSIを作る技術が有るのにトランジスタは作れないと言っているようなもの?
元の発言 [ Re: Title年号鏡の数字は虚数 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 9月14日(金)01時20分05秒 ]
>> 考古学的なものも納得いくものなら信じます。
>> 納得いかないものも多いんですよね。
>> http://www.mmjp.or.jp/chinasaloon/kakami1.htm
>> にある画紋帯神獣鏡は「イ方」製鏡と言う事になっていますが黒塚古墳の画紋帯神獣鏡
>> http//fukuoka.cool.ne.jp/chikuzen/enjoy/mirrorkuro07.html
>> よりよほど出来がいい。
>>
>>
>>
>>
>>
図案はまねすれば似たようなものができるのでは?
教えて下さい。一見して判る倣製鏡の見分け方って何ですか?
>>
>>
錆びのせいだけじゃないと思いますよ。
http://fukuoka.cool.ne.jp/chikuzen/enjoy/mirrorkuro05.html
は踏み返しを繰り返した為に刻印が不鮮明になったように見えます。
まるで数度使用した粘土型を使って鋳造したような。
>>
ぼちぼちとやって行こうと思っています。
よろしくご教授のほどお願いします。
元の発言 [ Re: Title神獣鏡の鋳造法 ] お名前 [ yaohide ] 日付 [ 9月6日(木)13時36分46秒 ]
>> >> 現に奈良時代の作鏡時に大量の蜜蝋を仕入れた記録があるわけです。
>> 奈良時代ですか、、、
奈良時代なら貨幣がロストワックスで鋳造されていました。
コインは表裏に刻印が必要ですから鏡のような鋳造法は取れません。
粘土ではなく鋳砂の型を使った事でしょう。
元の発言 [ Re: Title神獣鏡の鋳造法 ] お名前 [ yaohide ] 日付 [ 9月6日(木)21時21分25秒 ]
>> 銅鐸などは造ってみようとか、いろいろ行われているのに
>> なぜ神獣鏡の同型鏡を造ろうとか言わないのだろう?
>> 実験したっていいんじゃないですか?
>> 不思議だ
当然やっています。
その結果が膨大な数の三角縁神獣鏡です。きっと。
古田さんが神獣の神仙とされているのは実は仙人や神ではなく、鏡の注文主の姿だみたいな事をいっています。
家族構成に合わせて奥さんを配したりして二神だったり、主君を入れて3,4神になったり、子供を入れたりとか種類が沢山ある。
元の発言 [ Re: Title:トンデモワールドへようこそ(その1)チャチャ ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 9月13日(木)00時30分57秒 ]
>>
>>
>>
>>
>>
>>
私の言い方は不十分だったと反省しています。
人間集団の行動として、ある種の並行現象があることは分かります。
>>
その根本ですが、まず戦国時代の農民が自分の畑に刀が落ちているのを見つけたら、
たぶん自分の物にするか、市で売り払って生活の糧にするでしょう。
しかし弥生時代の農民が、自分の畑で剣をみつけたら、まず長に報告するでしょう。
剣など売り払う市は無かったでしょうし、あっても持っているはずの無いものを売れば怪しまれたと思います。
ましてや自分の物にしても、使うわけにも行かず、どうしようもない。
もっといえば、自分の畑と言うのは、無かったと思います。
農業技術の発展した戦国では、成人男子を中心に、一家で農業を行うことも可能かもしれませんが、
おそらく弥生期には、農業生産の単位がもっと大きかった。
もう少し大きな集団の中でしか生きられなかった。
もっといえば、私有財産に対する考えも大きく変わっていて、一応その家族の物、あるいはその人の物という考えはあったでしょうが、
市農民にとってはそれは共同体の物でもあって、通常の使い方をする限りは問題なくても、勝手に買ったり、勝手に売ったりは出来ないと考えます。
自分の生命についても、自分の子供についても、共同体の財産であって自由にはならない。
また本人もそれについて特に違和感も不満も無かったのでは無いかと思います。
つまりは支配者階級は別にして、自分とか個人とかの概念が薄かったと考えます。
しかも剣であろうと、土地であろうと、どんなものにも霊がやどり、それを考えるとうかつなことは出来ない。
したがって、支配者であろうと、隣村の土地が欲しいからといって、無闇に戦を仕掛けるわけにも行かず、
共同体の意思を神の意志として代弁させ、それなりの儀式があって戦いが始まるのではないかと思います。
したがって、個人のレベルから、小集団、国のレベルまでが、実力主義ですきあれば隣の土地や物を狙った戦国時代と違って、
統治のための武力はそれほど要らなかったのではないかと思います。
つまり隙あれば常に誰かが裏切るとか、いつ盗人に代わるか分からないという状況ではなかったのではないかと思うのです。
よく似た並行現象は有るでしょうが、根本的に個人とその欲望によって動く戦国時代と、
生きるためには最小限ある程度の人間集団が前提になる弥生とでは、
大きく違ってくる面があると考えています。
元の発言 [ Re: Title:トンデモワールドへようこそ(その1)チャチャ ] お名前 [ ピクポポデミ ] 日付 [ 9月14日(金)09時55分36秒 ]
>> >> 堺屋太一の時代区分からすれば、
>> >> 弥生時代は、始代であり、古代以前。
>> >> 戦国時代は、中世末であり、近代以前。
>> >> というような捉えかたができると思います。
>> >> 古代と、近代との類似点がおおいことを考えれば、
>> >> 弥生時代の末と、戦国時代との関係もおおいに「似ている」といえなくもないが、
>> 私の言い方は不十分だったと反省しています。
>> 人間集団の行動として、ある種の並行現象があることは分かります。
>> >> でも、根本はかなり違っていますね。
その点は認めますが、如何でしょう。
アジア、アフリカの部族社会、また日本他の伝説をみて分かる通り
文化英雄神てきな、ことができた人は、婿入り等の方法で、
王になることが可能ではないか?
その点、かなり風通しのよいのが原始の社会では?
>> その根本ですが、まず戦国時代の農民が自分の畑に刀が落ちているのを見つけたら、
>> たぶん自分の物にするか、市で売り払って生活の糧にするでしょう。
>> しかし弥生時代の農民が、自分の畑で剣をみつけたら、まず長に報告するでしょう。
>> 剣など売り払う市は無かったでしょうし、あっても持っているはずの無いものを売れば怪しまれたと思います。
>> ましてや自分の物にしても、使うわけにも行かず、どうしようもない。
>> もっといえば、自分の畑と言うのは、無かったと思います。
>> 農業技術の発展した戦国では、成人男子を中心に、一家で農業を行うことも可能かもしれませんが、
>> おそらく弥生期には、農業生産の単位がもっと大きかった。
>> もう少し大きな集団の中でしか生きられなかった。
これもどうでしょうね?
焼畑やなんかだと、知恵さえあれば、結構少数で生活可能だし。
縄張り問題を、上手く解決できるなら、新しい部族を起こして長になれるんじゃないかな。
近くでも、アラスカ物語に見られるように。
>> もっといえば、私有財産に対する考えも大きく変わっていて、一応その家族の物、あるいはその人の物という考えはあったでしょうが、
>> 市農民にとってはそれは共同体の物でもあって、通常の使い方をする限りは問題なくても、勝手に買ったり、勝手に売ったりは出来ないと考えます。
>> 自分の生命についても、自分の子供についても、共同体の財産であって自由にはならない。
>> また本人もそれについて特に違和感も不満も無かったのでは無いかと思います。
>> つまりは支配者階級は別にして、自分とか個人とかの概念が薄かったと考えます。
>> しかも剣であろうと、土地であろうと、どんなものにも霊がやどり、それを考えるとうかつなことは出来ない。
>> したがって、支配者であろうと、隣村の土地が欲しいからといって、無闇に戦を仕掛けるわけにも行かず、
>> 共同体の意思を神の意志として代弁させ、それなりの儀式があって戦いが始まるのではないかと思います。
>> したがって、個人のレベルから、小集団、国のレベルまでが、実力主義ですきあれば隣の土地や物を狙った戦国時代と違って、
>> 統治のための武力はそれほど要らなかったのではないかと思います。
>> つまり隙あれば常に誰かが裏切るとか、いつ盗人に代わるか分からないという状況ではなかったのではないかと思うのです。
>> よく似た並行現象は有るでしょうが、根本的に個人とその欲望によって動く戦国時代と、
>> 生きるためには最小限ある程度の人間集団が前提になる弥生とでは、
>> 大きく違ってくる面があると考えています。
それも、認めますが、
争いと野心によって起こされることは、本人の思惑なんかはるかに超えるなんて
珍しくないし。
結果、戦国と同じであることは、大和武の神話で明らかなんでは?
そして、ナムジって漫画があったけど似た感じなんじゃないでしょうか。
わたしの好きな漫画ですが。
元の発言 [ Re: トンデモワールドへようこそ(その1) ] お名前 [ ピクポポデミ ] 日付 [ 9月13日(木)22時50分57秒 ]
戸来については,以下のサイトにありました。
『三國志』魏書第三十烏丸鮮卑東夷傳/韓
http://www.ceres.dti.ne.jp/~alex-x/kanseki/gi-toui.html#kann
木屋の資料館3.33 ●廉斯国
http://www.intacc.ne.jp/HP/kiya/sehaci/kiya333.htm
薬草など日本古来の医術については,
漢方に対して「和方」と呼ぶわけですが,
出雲薬とかいって大国主命の流派という話です。
元の発言 [ Re: 青銅の成分調整 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 9月12日(水)23時46分34秒 ]
>> #三角縁鏡は近畿説の“物証”とは言えないってことですネ。
>>
#例えとしては面白いけど、
>>
>>
>>
#上々のレスは、
>> >> 私は、魏志倭人伝記載の銅鏡百枚と三角縁神獣鏡を同一視はしていません。
#と言うことでしょ。
#華中〜華南産の“鉛”を使っていることを示す物証というだけで、
#卑弥呼がもらった魏鏡とは限らないじゃないですか。
#それが何で「100%支持する物証」になるんですか。
#大和が南部九州の狗奴国を通して、呉と繋がっていたことを示すって言う証拠にもなりえます。
#鉛が華中〜華南産で、銅鐸を鋳潰しても数値的には近いものになるし。
元の発言 [ Re: Title神獣鏡の鋳造法 ] お名前 [ 牛頭天王 ] 日付 [ 9月14日(金)09時31分59秒 ]
>> 古田さんが神獣の神仙とされているのは実は仙人や神ではなく、鏡の注文主の姿だみたいな事をいっています。
>> 家族構成に合わせて奥さんを配したりして二神だったり、主君を入れて3,4神になったり、子供を入れたりとか種類が沢山ある。
# 日本で作られたであろうイ方製三角縁神獣鏡は、大半が獣文帯三神三獣鏡ばっかりですけどね。
元の発言 [ Re: 青銅の成分調整 ] お名前 [ オヤジッチ ] 日付 [ 9月14日(金)20時30分01秒 ]
>> 大和が南部九州の狗奴国を通して、呉と繋がっていたことを示すって言う証拠にもなりえます。
# 呉鏡の鉛とは異質なので、そうでない証拠だと言えるでしょう。
>> 鉛が華中〜華南産で、銅鐸を鋳潰しても数値的には近いものになるし。
# 銅鐸を鋳潰したら数値的には全くかけはなれたものになりますから、それは無いでしょう。
元の発言 [ Re: トンデモワールドへようこそ(その1) ] お名前 [ ちょっと一服 ] 日付 [ 9月14日(金)17時16分01秒 ]
>> 戸来については,以下のサイトにありました。
>>
>> 『三國志』魏書第三十烏丸鮮卑東夷傳/韓
>> http://www.ceres.dti.ne.jp/~alex-x/kanseki/gi-toui.html#kann
>> 木屋の資料館3.33 ●廉斯国
>> http://www.intacc.ne.jp/HP/kiya/sehaci/kiya333.htm
ありゃりゃ見落としでした。
失礼しました。
元の発言 [ Re: Title神獣鏡の鋳造法 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 9月2日(日)00時27分51秒 ]
おはようございます。
>>
#そんなに難しいもんかなぁ。
鏡に比べれば、かなり簡単に出来るような気がするが。
>>
>>
>>
>>
>>
#ただ、”手先が器用”といった点では共通した話です。
まるっきり違うものであっても、手先が器用な人間であれば習得は可能なわけです。
あくまで「可能だ」と言うだけの話ですよ。どんなに手先が器用でも芸術的センスがなければ、おにりんさんのいわれる通りできないでしょう。
ただ、「器用」な方が「不器用」より確率的には高い。
学校でもいたでしょう。勉強はできんでも図画工作のうまい人が。
元の発言 [ Re: Title年号鏡の数字は虚数 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 9月15日(土)01時02分05秒 ]
>> 錆びのせいだけじゃないと思いますよ。
>> http://fukuoka.cool.ne.jp/chikuzen/enjoy/mirrorkuro05.html
>> は踏み返しを繰り返した為に刻印が不鮮明になったように見えます。
>> まるで数度使用した粘土型を使って鋳造したような。
>>
>>
踏み返し鏡と倣製鏡の定義は判っているつもりですけど。
私には黒塚古墳の画紋帯神獣鏡はどうみても踏み返しに見えるということを問題にしているのです。
おにりんさんは黒塚古墳の画紋帯神獣鏡は魏鏡だと思われますか?
同じ黒塚古墳の三角縁神獣鏡の方が画紋帯神獣鏡より鋳上がりがいいものもある事に疑問は持ちませんか?
一方にホケノ山出土の
http://osaka.yomiuri.co.jp/kodai/news/hozon2/000328/
の下の方にあるすばらしい画紋帯神獣鏡があり、一方に
http://fukuoka.cool.ne.jp/chikuzen/enjoy/mirrorkuro07.html
のようなお粗末なものがあります。
これが踏み返しだとすれば、こんな鏡を大事に頭の所に飾り、三角縁神獣鏡は棺の外に立てかけて置くというのはどんな意味があるのでしょう。
さていよいよトンデモパワーで離陸開始。
まず最初のターゲットは伊都国と奴国です。
もともと伊都国と奴国は一つの国だったのではないかと言う説を、松本清張氏が
以前書いていました。
私はこう言う説が出てくるのはもっともだと思います。
現在までの考古学的成果をみると、王墓の出土物は、イト郡の地域に厚く、
王墓自体も全部で三基、長期間に渡って出ています。
これは三国志に記述された、伊都国の王の存在と、地域の政治的中心であったような
内容とも合い、イトの地域に長く王がいて、少なくとも三世紀中葉には玄海灘地域での
覇権があったことをうかがわせます。
ナの地域には今のところ王墓は一基しか見つかっておらず、
また三国志でも三世紀中葉には、王の存在は書かれていません。
すると玄海灘地域での覇権は、長くイトの領域にあったと思いたいのですが、
後漢書によると初の倭人の朝貢の記録は、漢の倭の奴国であり、少なくとも最初は
ナの領域に覇権があったように見えます。
するとナからイトへ覇権の移動を考えねばならず、この小さな地域に他を圧する大国、
伊都国と奴国の争乱があったことになりますが、その明確な痕跡はありません。
またナの領域には、弥生後期の漢の倭の奴国に相当する王墓が出てこないのも気になります。
こんなところから、漢の倭の奴国を漢のイト国とする考えがいつまでもしつこく
出てくるのだと思います。
すべては今後の発掘なのかも知れませんが・・・
地域の開発が本格化した江戸期以降ずっと出てきて、さらに開発の進んできている現在
まだ出てきていないのは、重要な遺跡が神社などの敷地になっているせいでしょうか。
少なくともトンデモをやるのに、出てきていないものをあてにすると、
収集がつかなくなるので、出ているものを中心に議論します。
私は松本清張氏の広域奴国説を支持します。
国は分かれることがあるというのが理由の一つです。
三国志東夷伝の辰韓の条に
始有六國稍分爲十二國
という一節があります。
あたりまえですが国と言うものは分かれることも有るようです。
単刀直入に言えば、イトとナの領域は一時、祭祀王を共有し、Great奴国だった時期が
あるのではないかと思います。
弥生後期初頭ごろ、イトとナの領域は、中間の早良の領域を含めて、
一つの国になったとします。
この地域は既に弥生中期頃から、それほど厳しく対立することは無くなっていた
のではないでしょうか。
再び王権の誕生を基にすると、弥生中期頃から戦死者の人骨の分布がこの地域を離れて、
周辺へ拡散してゆくことに見て取れると思います。
この狭い玄海灘沿岸で、他を抜きん出て強大なイト領域とナ領域が対立することは
得策でなく、むしろ連携することで大陸貿易の独占を完全なものにするなどの
メリットが多いように思います。
この領域の王は、前漢が朝鮮半島を押さえ四郡を設けたときに、共に漢王朝から
周辺慰撫のために、その支配者としての権威を認められたでしょう。
しかし小さな領域に並び立っているために、その勢力が生かされないことも
多かったのではないでしょうか。
三雲南小路と須久岡本の前後に、匹敵する王墓が出てこないのは、
現時点でたまたまかも知れませんが、実際それほどの大量の威信財を手に入れられたのは、
最初の一回だけだった可能性もあると思います。
この連合は次のような手順で、一つの国になったのではないでしょうか。
もしも両国が祭祀王の血統を大事にする段階に無かったとしたら、
双方の共同体の合意により祭祀の合同を行えばよかったと思いますし、
もしも両国が祭祀王の血統を大事にする段階に有ったとしたら、
両国が密接に婚姻を交わすうちに、偶然か故意か、片方の血統が絶えて、
両国の王権を持つ王が生まれたとすればよいと思います。
(双方の血統に属するヒメとヒコが合体したりして・・・???)
こうして一つになったGreat奴国は、北部九州で隔絶した強国になり、
大陸交易を独占したでしょう。
Great奴国は、玄海灘沿岸の倭人の代表として後漢に朝貢します。
漢の倭の奴国として金印を受け、冊封体制に組み入れられます。
恐らく祭祀の中心はイトの地域にあり、経済的中心はナの領域にあったのではないでしょうか
この偉大なGreat奴国の王が死ぬと、冊封を受けたときにもらった、
莫大な威信財が井原鑓溝に入れられます。
しかし帥升の墓が見つかっていません。
一体どこに行ってしまったんでしょう。
私はGreat奴国は、この合体、冊封のあと、その王が死ぬと急激に政治的に
弱体化したのでは無いかと思います。
これはいったんは合体したGreat奴国も、もともと歴史的に別の国であった、
イトとナの領域の間がうまくいかなくなったせいか、逆に政治的に絶頂期を越えたために、
両領域の不満がたまり、分裂してしまったかだと考えます。
この地域は独立心の強い交易者が多く、環濠集落社会(ポリス的社会)からの脱却に
失敗したのだと思います。
こうしてイトの領域は伊都国として小領域が独立し、残りの部分が奴国として残ったのだとします。
あるいはひょっとして奴国には極めて現実的な精神が現われ、祭祀王権を嫌い、
一部分がバチカン市国のように祭祀王を戴いて分離したのか。
三国志によると伊都国は千余戸で、奴国の戸数二万余とは大差があります。
韓愈では一万戸ですが・・・
この二国の政治的関係については、何か謎を感じます。
もう一つ言えば、末櫨、奴の読み方が上古音読みで、伊都が中古音読みであることも
引っかかります。
末櫨、奴は前漢代から知られた国で、伊都は後から出来たのではないでしょうか。
私には両国の分裂に関しての別案があります。
(まだ続く)
元の発言 [ Title EKさん、良い本みっけたです。 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 9月16日(日)03時09分03秒 ]
やっと、「ことばの始まりと進化の謎を解く」を読んで、今発言をまとめたところです。
>>
>>
#早速読んでみます。
ジーン・エイチスン「ことばの始まりと進化の謎を解く」は、あまりまとまりのない議論であると感じました。
1.クレオールはそれほど短時間のうちにできたのではないということ
クレオールの本質について思い巡らせば、これは当然のことです。
例えば日本人の幼児が日本語を習得するのと、ピジンを母語として与えられた子供がクレオールを作り出すのは、当然同じメカニズムに従っています。日本の幼児が与えられるのは、決して洗練された日本語ではありません。周囲の大人はわざわざ赤ちゃん言葉という奇妙な日本語もどきを与えるのです。そんな劣悪な情報源から、幼児は正しい日本語を再構成していきます。
ピジンを与えられた幼児が「正しい」ピジン(=多分、言語にとって必要な、そのピジンには不完全にしかない、あるいは全く欠落している、機能を持ったピジン=クレオール)を再構成するのは、日本人の幼児が日本語を習得する過程と全く同じです。しかし、日本語を習得する幼児にはいわゆる日本語という規範があり、成長にしたがって個々の幼児のクレオール日本語は標準日本語に収束していきます。ピジンの場合は、個々の幼児がかってに作り出したクレオール部分を制約する規範がありません。したがってこの段階では、この原始クレオールは、コミュニケーションを行う道具という意味での言語ではありません。個々の幼児の原始クレオールが共通言語としてのクレオールになるためには、単一の言語コミュニティ(例えば保育所)が絶対に必要になります。そして第二世代の幼児のコミュニティができて初めてクレオールは安定した共通言語になります。
標準クレオールになりそこなったコミュニティ・クレオールなどごまんと有ったに違いありません。
クレオールが徐々に発展したというのは共通言語としてのクレオールについての記述です。
2.ヒトの言語能力は徐々に進化してきたということ
これは、当然です。ヒト属の言語能力が成長曲線を描いて発展したであろうというのは妥当な意見でしょう。
問題は、私の進化観によればこの言語能力の進化はイブの時代にはすでに完了していたのであり、おにりんさんはイブの時代はまだ進化の途中であって5万年前に完了したと考えていることです。我々の年代観の相違に一石を投じる記述は見当たらなかったように思いますが。
元の発言 [ Re: Title神獣鏡の鋳造法 ] お名前 [ 三河 太郎 ] 日付 [ 9月1日(土)20時53分24秒 ]
どうも、お久しぶりです。質問です。
鏡の製法として、蝋の円盤に彫り物をして、それを粘土で包み火にくべて、
蝋が流れ出したあとに銅を流し込む・・・という製法を聞いたことがあります。私もこの方法で造ったのだろうと考えていたのですが、どうもここまで読んでいると違った製法だったようです。
私の聞いた製法とはいつの時代のものだったのでしょうか?
元の発言 [ 「邪馬壹国」 ] お名前 [ 紀 智明 ] 日付 [ 9月1日(土)09時08分55秒 ]
1 文献解読
当初の趣旨は、あくまでも“文献の解読”です。
文献解読は、小説や詩歌のように情緒で判断するものではなく、純然とした科学
的な学問のはず。
通説とか定説に惑わされないで、論理的な争い(これが論争では?)を展開したい。
また、専門家とか素人というような区分けも行わない。
2 出土物
ここでは、出土物(考古学)は扱わないものとしたい。
解読結果をもとに、「邪馬壹国」を比定し、第二段階として、その結果を基に、出
土物を扱いたい。
3 後代史書
三国志(魏史東夷伝倭人条)の解読をしたいので、先行史書を利用するのは、一向
に差し支えはないが、後代史書は、これの裏付けの資料として活用することにとど
める。
後漢書などを基に、「邪馬臺(台)国」と表記する人は、参画して欲しくない。
ただし、三世紀においても、「邪馬臺(台)国」が正しく、「邪馬壹国」は誤りだと
いう人は、その根拠を示してからにしてもらいたい。
同様に、後代資料を基に、三国志の字句の改訂は、絶対に行わない。
元の発言 [ Re: 青銅の成分調整 ] お名前 [ ALEX ] 日付 [ 9月14日(金)20時40分20秒 ]
>> >> 大和が南部九州の狗奴国を通して、呉と繋がっていたことを示すって言う証拠にもなりえます。
>> # 呉鏡の鉛とは異質なので、そうでない証拠だと言えるでしょう。
>> >> 鉛が華中〜華南産で、銅鐸を鋳潰しても数値的には近いものになるし。
>> # 銅鐸を鋳潰したら数値的には全くかけはなれたものになりますから、それは無いでしょう。
#銅鐸が元々含んでいた鉛の同位体の比率と鏡にする時に加えた鉛の同位対比がその混合比に従っていずれかへシフトするはずですよネ。
#後から加えた量が多ければ、元の数値からはかけはなれる。
#それぞれの鉛混合比は?
元の発言 [ Re: 「邪馬壹国」、もう一度原点に ] お名前 [ 紀 智明 ] 日付 [ 9月16日(日)15時00分11秒 ]
>> 3 後代史書
>> 三国志(魏史東夷伝倭人条)の解読をしたいので、先行史書を利用するのは、一向
>> に差し支えはないが、後代史書は、これの裏付けの資料として活用することにとど
>> める。
そんなことを言うのは
「軍事司令官を20年の長きにわたり派遣した」
というような自分の発言を撤回してからにしてはどうですか?
元の発言 [ Re: 青銅の成分調整 ] お名前 [ オヤジッチ ] 日付 [ 9月16日(日)18時08分56秒 ]
>> 銅鐸が元々含んでいた鉛の同位体の比率と鏡にする時に加えた鉛の同位対比がその混合比に従っていずれかへシフトするはずですよネ。
>> 後から加えた量が多ければ、元の数値からはかけはなれる。
>> それぞれの鉛混合比は?
# それは私がお聞きすることでしょう?
仮に、銅鐸廃材と江南の銅の任意の混合比を考え出すことによって三角縁神獣鏡の鉛同位対比に近い数字が出せるというような試算が出来たとしても、それは「大和が南部九州の狗奴国を通して、呉と繋がっていたことを示すって言う証拠」にはなりえないでしょうし、なぜそのような混合比が維持されるのかも説明できないと思います。
むろん、三角縁神獣鏡の鉛同位対比のばらつき幅が比較的狭いという事実は、そのような『混合』が行われたという想像をすることにとってには不都合でしょう。
ここは素直に、一貫して特定産地の素材が使われ続けたと考えるのが妥当であると思います。
元の発言 [ Re: Title年号鏡の数字は虚数 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 9月15日(土)15時05分19秒 ]
>>
>>
>>
>>
倣製鏡では無いが踏み返しの可能性はあると言う事ですね?
33枚の三角縁神獣鏡の数の多さに圧倒されて画紋帯の方の分析は忘れられているのかも知れませんね。
>>
>>
写真で見る限り画紋帯の錆びはひどくありません。
他の三角縁鏡で錆びのひどい物も有りますが、錆びていない部分は線刻などもはっきりしていますし、ひどい所は確かに錆びのせいで状態が悪いんだなと判りますが、黒塚の画紋帯は錆びていないのに全体に刻印がひどく不鮮明です。
>>
>>
一枚しか鏡の無い墓もありますが大抵、頭の所に置かれていたようですが?
>>
大和説も憶測がなければ成り立たないでしょ?
南と東を間違えているとか、魏使は邪馬台国まで言っていないとか、倭人伝に書かれた風俗は邪馬台国ではないとか。
>>
>>
分析と言うほどの資料が無いから皆さんいろんな仮説を立て議論されているのでしょう。
考古学的にも文献資料にも無い事は現代にも通じる人間の心理なんかも参考にして
元年、三年、四年、五年は実際に鏡を作った年ではなく、日本人が好んだ数字が使われたのではないかと言う仮説を立てました。
当然、魏鏡説の方は容認できないでしょうがそれは私にとって問題ではありません。
倭鏡説をとる人も魏鏡とするにはおかしな事が沢山あるから倭鏡に違いないとは言いますが、何故景初三年なのかをこれまで合理的に説明してきませんでした。
私の仮説は倭鏡説の立場からはかなり合理的じゃないかと思っています。
元の発言 [ Re: 「邪馬壹国」、もう一度原点に ] お名前 [ 岡野熊鰐 ] 日付 [ 9月16日(日)19時14分14秒 ]
>> 「軍事司令官を20年の長きにわたり派遣した」
>> というような自分の発言を撤回してからにしてはどうですか?
張政は、狗奴国の攻撃をうけた卑弥呼が帯方郡に救援を求めた際に、帯方郡の太守の命を
うけてきたのが正始8年(247)。
帰国したのは、泰始2年(266)だったのは、晋書倭国伝に、西晋朝の記録官により記され
ている。
どうして、上記のような意見がでるのか理解できない。
元の発言 [ Re: Title神獣鏡の鋳造法 ] お名前 [ 池ちゃん ] 日付 [ 9月2日(日)09時41分48秒 ]
こちらこそ。お元気ですか。
>> 鏡の製法として、蝋の円盤に彫り物をして、それを粘土で包み火にくべて、
>> 蝋が流れ出したあとに銅を流し込む・・・という製法を聞いたことがあります。私もこの方法で造ったのだろうと考えていたのですが、どうもここまで読んでいると違った製法だったようです。
>> 私の聞いた製法とはいつの時代のものだったのでしょうか?
#ロストワックス法の原形ですね。そのものとも言えるかな。一説にはこの時代、2,3世紀にも使われていた言う先生もいます。使われていても少数派ではなかったでしょうか。材料は蜜蝋。この工法が威力を発揮するのは仏像などの繊細、精緻な仏教美術品の鋳造なんです。
専門的になりますが、抜き勾配のオーバーハングなど気にする必要はないし、古代の仏教美術品の工法はほとんどこれ。ロストワックス法は現在でも精密鋳造法の代表格です。
しかし、この方法で製造した鏡を正倉院展で見たことがあります。見た目には分かりませんが、蜜蝋が残っていると説明がありました。鏡背の図案は鳥と花が主で細い線、など非常に精緻、繊細な図でした。これらは他の工法では製作は困難でしょう。
橋本進吉「古代国語の音韻に就いて」のサイトがありましたが。
# 「万葉仮名類別表」が付録についています。
元の発言 [ Re: 橋本進吉「古代国語の音韻に就いて」のサイト ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 9月17日(月)18時18分02秒 ]
「三国史記」という古代朝鮮の史書がありますが、この伝本調査が正確に行われているのでしょうか?東京帝国大学本と顕宗本と慶州重刊本と、いろいろ、挙げられているようですが、結局は慶州重刊本と同じか、東大本と同じなのですか?確かに、あちらこちらからの寄せ集めみたいなものですから、「藝文類聚」などの類書的な要素はあるにしても、「三国史記」の伝本系統などを具体的に調査したもの、例えば校本の作成などはちゃんと行われているのでしょうか?韓国での註釈書では、諸本が挙がっているのですが、結局は東大本をもとにした活字本ばかり挙がっていて、あまり校異がなく有効ではないように思うのです。論証の資料に使うとなると、「三国史記」という、テキストの有効性が検証しにくく、躊躇してしまいます。初学の不勉強と叱責されるだけでしょうが、ご存じの方がいらっしゃいましたら、ご教示願えませんでしょうか?
元の発言 [ Re: 「邪馬壹国」、もう一度原点に ] お名前 [ 紀 智明 ] 日付 [ 9月17日(月)08時42分30秒 ]
>> 張政は、狗奴国の攻撃をうけた卑弥呼が帯方郡に救援を求めた際に、帯方郡の太守の命を
>> うけてきたのが正始8年(247)。
>> 帰国したのは、泰始2年(266)だったのは、晋書倭国伝に、西晋朝の記録官により記され
>> ている。
>> どうして、上記のような意見がでるのか理解できない。
理解できない? なぜ理解できないの?
自分でこう言ったでしょ!
>> 三国志(魏史東夷伝倭人条)の解読をしたいので、先行史書を利用するのは、一向
>> に差し支えはないが、後代史書は、これの裏付けの資料として活用することにとど
>> める。
晋書は後代史書だから裏付けの資料として活用することにとどめるんじゃないの?
なのに自分では後代史書の晋書を利用して、張政は20年も滞在したのだから「“倭人は、里数を知らないから、日数で答えた”などということを言う人がかなりいるようだが、まったくのお笑い種」と述べていますね。裏付けの資料じゃなくて主張の根拠にして「お笑い種」とまで言っている。
そのことに大和猫さんが晋書を引いて反論すると
>> 今回は、「三国志」をとりあげています。
>> 後代の晋書などは、3世紀になかったものなので、これの論議をしても、陳寿のあずかり知らぬこと。
>> 論議にならないのでは?
と返答している。
自分が後代史書の晋書から引いて主張しておいて、他人が晋書から引くと「論議にならない」と言う。おかしいよね?おかしいでしょ?
おかしくない?
そして今度はまた「後代史書は、これの裏付けの資料として活用することにとどめる。」と言う。
だから「軍事司令官を20年の長きにわたり派遣した」とか言うのは撤回してもらわねばならない。
でなきゃダブスタ言行不一致でしょ?
まだ理解できない?
それに、晋書には張政が帰国したのは、泰始2年(266)だったなんて一言も書かれてない。
理解できますか?
元の発言 [ Re: 青銅の成分調整 ] お名前 [ ALEX ] 日付 [ 9月16日(日)21時54分13秒 ]
>> >> それぞれの鉛混合比は?
>> # それは私がお聞きすることでしょう?
#浅学にて、その資料を持合せていないのでお持ちだったら教えていただきたいと思いまして。m(__)m
>> 仮に、銅鐸廃材と江南の銅の任意の混合比を考え出すことによって三角縁神獣鏡の鉛同位対比に近い数字が出せるというような試算が出来たとしても、それは「大和が南部九州の狗奴国を通して、呉と繋がっていたことを示すって言う証拠」にはなりえないでしょうし、なぜそのような混合比が維持されるのかも説明できないと思います。
>> むろん、三角縁神獣鏡の鉛同位対比のばらつき幅が比較的狭いという事実は、そのような『混合』が行われたという想像をすることにとってには不都合でしょう。
#銅鐸も新段階のものは極限られた一点に集中(華北画一的)するそうです。
#それに特定産地の鉛を一定比率で混ぜるとばらつき幅は狭いままスライドするんじゃないですか?
>> ここは素直に、一貫して特定産地の素材が使われ続けたと考えるのが妥当であると思います。
#鉛は、一貫して特定産地のものだったということです。
#あくまでも、“鉛”の産地ですけど、それがドウ(銅)したと言われると困る。
#そもそも、おにりんさんの
>> 近畿説を100%支持する物証です。
>> これがあるかぎり、九州説は、完全に否定される
#に対する、「100%」でも「完全」でもないと言う主旨のレスであることをお忘れなく。
元の発言 [ 橋本進吉「古代国語の音韻に就いて」のサイト ] お名前 [ ちょっと一服 ] 日付 [ 9月17日(月)17時14分41秒 ]
>> 橋本進吉「古代国語の音韻に就いて」のサイトがありましたが。
なんでこんなもんが青空文庫にあるんでしょうね。
こんなもんがって言ったら悪いですけど、あまりに異質ですよね。
元の発言 [ Re: 倭国に中国人はいなかったのか? ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 9月17日(月)13時50分26秒 ]
>>
おっ!!もしかして、私の「ライセンス生産」仮説を認めて下さっている??
各位
いつもお世話になっております。
この度古田史学の会のホームページ『新古代学の扉』は、プロバイダーの営業停止に伴い、Dream.netに移動いたしました。新しい日本語のホームページのアドレスは
http://plaza14.mbn.or.jp/~sinkodai/jfuruta/jfuruta.html
です。
また最新の追加として、『靖国の本質』(会報46号予定)も掲載しました。なおこの報告は、八月十三日の前、つまり総理大臣小泉純一郎の靖国神社参拝の前の見解ですので、続編も考えられます。
それで古田史学の会のホームページ『新古代学の扉』は、七月にアップできなかったので、一挙6点を、このたび掲載いたします。
1、古田武彦氏の『教科書の聖域』(会報四十五号)
2、古賀達也氏の 『「三笠山」新考 』(会報四十三号)
3、『これは大和で天皇家を奉った歌ではない』、『これも近江で天皇家を奉った歌ではない』を掲載(英文を含む)。 これは『古代史の十字路 万葉批判』(東洋書林)の解説です。
4、『三角縁神獣鏡の盲点』を掲載 。これは『新・古代学』 第5集 (新泉社)三角縁神獣鏡の史料批判(古田武彦)の解説です。
5、また上の項目4に関連して『さよなら!「邪馬台国」』を改訂し、アップデイトしました。
これは、私横田が古田氏の見解を、がさつなというか分かりにくい理解にもとづいて記録したところ、更にがさつな議論がここ「大論争」で展開されていたように感じましたので厳密を期すために再度改定して掲載しました。
それで今回は見送りましたが、次回の改定には、中国(曹)魏・(西)晋の墳墓から出てきた鏡の状況(全部後漢式・前漢式の鏡である。『洛陽晉墓的發掘』ー中華人民共和国河南省文化局文物工作隊第二隊 一九五七年ー)について報告することを考えています。
以上、ご覧いただければ幸いです。
新古代学の扉インターネット事務局
sinkodai@dream.com
横田幸男
元の発言 [ Re: 倭国に中国人はいなかったのか? ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 9月18日(火)02時09分26秒 ]
>>
>>
# 三角縁の同型鏡どうしでは面径の差が個体差+計測誤差の範囲におさまるものが大半なので、大量踏み返し説というのは成立の余地はないでしょう。
元の発言 [ Re: 橋本進吉「古代国語の音韻に就いて」のサイト ] お名前 [ イリヒコ ] 日付 [ 9月17日(月)23時33分28秒 ]
>> こんなもんがって言ったら悪いですけど、あまりに異質ですよね。
おにりんさんのもたらしたブームでしょうか,,,(^◇^)
この文庫は趣味がいいですよ,なかなか。
「万葉仮名類別表」が便利なので,デスクトップに置いてあります。
元の発言 [ Re: 青銅の成分調整 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 9月17日(月)21時51分29秒 ]
>>
>>
>>
#私は、スクラップ銅なんて言ってないでしょう。
>>
>>
>>
>>
>> #あくまでも、“鉛”の産地ですけど、それがドウ(銅)したと言われると困る。
>>
>>
#もう一度私のレスをよく読んでからレスをお願いします。
>> #に対する、「100%」でも「完全」でもないと言う主旨のレスであることをお忘れなく。
>>
>>
#近畿説が「100%」でも「完全」でもない以上、九州説も可能だし、
#蓋然性が0%だと言う方には、ここでの議論自体がナンセンスでしょう。
#おにりんは私に対して「レス不要」と仰っているとものと解釈します。
#管理人さんには申し訳ない言い方だとは思います。(T_T)/~~~m(__)m
元の発言 [ Re: 橋本進吉「古代国語の音韻に就いて」のサイト ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 9月18日(火)17時58分26秒 ]
>>
>>
リンクの張ってある次の研究機関に相談されては如何でしょうか。
中国思想史研究室オンライン授業
http://hyena.hle.niigata-u.ac.jp/files/jugyo/jugyoix1.html
福井大学教育地域科学部・言語教育講座
http://kuzan.f-edu.fukui-u.ac.jp/
>>
>>
作者別の【は】でした。
元の発言 [ Re: Title年号鏡の数字は虚数 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 9月17日(月)10時52分46秒 ]
>>
>>
倭人伝に記述と全く一致しない資料が沢山あるのは認めます。
畿内説の証拠は殺人事件の捜査に例えると、傷跡とあまり一致しないナイフを持ち出してこれが証拠だと強弁しているような物です。
無理に見れば似ていなくも無いが全く一致しているとは言いがたいものが証拠。
邪馬台国が畿内にあった事を前提に証拠さがしをすると何でも畿内説の証拠に見える。
一方、畿内説を疑わせる証拠は無視する。
昔の冤罪事件を起こした警察のやり方に似ている。
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
中国で発見された年号鏡は偶数年と奇数年が拮抗しています。
僅かに奇数年が多い程度。
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
邪馬台国大和説は何が何に対して一致しているんでしょう。
>>
>>
歴史は偶然と言った方が合っていると思いますが。
歴史的な発見、発明も大抵が偶然が成せる技です。
歴史は後から考えると何であんな愚かしい事をしたのだろうと思う事ばかりです。
先の大戦で宣戦布告が遅れて日本が非難されるような事になったのも偶然が成せる起こした事です。
これは必然でしょうか。
元の発言 [ Re: 倭国に中国人はいなかったのか? ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 9月18日(火)02時09分26秒 ]
>>
いや、踏み返しを前提に原料・副資材・工具 一式で売ったとすれば、ライセンス生産そのもの。
>>
私の「ライセンス生産」説では、原料も原盤となる鏡と一緒に輸入。
まぁ、ALEXさんの発言から、私の「ライセンス生産」説の成立する余地はないのかも知れませんが
元の発言 [ Re: 倭国に中国人はいなかったのか? ] お名前 [ ALEX ] 日付 [ 9月18日(火)06時44分09秒 ]
>> # 三角縁の同型鏡どうしでは面径の差が個体差+計測誤差の範囲におさまるものが大半なので、大量踏み返し説というのは成立の余地はないでしょう。
了解しました。
技術移転論としては私の「ライセンス生産」説は成り立ち得ると思っていますが、
いかんせん、考古学的事実がそれに反しているのでは、砂上の楼閣ですね。
元の発言 [ Re: Title神獣鏡の鋳造法 ] お名前 [ 三河 太郎 ] 日付 [ 9月2日(日)00時13分06秒 ]
>> >> いわゆる舶載鏡の成分データが特に錫の含有比率において伝統的な倭人の鋳造工人の視点から十分に特異であることをご確認いただきたいと思います。
>> #錫の含有量が舶載鏡の方が多い。と言うことでしょうか。それを主張されている方も知っています。本当に差があると言えるか否か疑問です。
>> 百歩譲って、差があるとしても、錫は溶解するたびに消耗して成分比率が低下します。その辺りを考慮すべきです。
漢鏡の銅・錫・鉛比率が70:25:5を指向していることはよく指摘されるとおりです。孔祥星が『中国古代銅鏡史』に掲げた漢鏡18例の数値も、錫成分25%弱を示しています。
椿井大塚山出土鏡うち24例の調査(『三角縁神獣鏡綜鑑』所収:山崎、室住、馬淵)では、三角縁神獣鏡22例と漢式鏡2例がすべて20〜25%強の範囲に収まっています。
沢田正昭の報告では舶載三角縁神獣鏡51例、[イ方]製鏡22例の錆の調査で、両者を完全に層別できるとしています。
平尾良光は銅鐸7例を編年的に見て、前期には10%台前半程あった錫が中期から後期には5%未満に収斂していく減少傾向を示しました。
山崎が『考古学のための化学10章』p151に掲載したグラフでは、銅鐸と前漢鏡の分布の乖離が非常にわかりやすく出ています。銅鐸40例中33個が錫の含有比率10%以下。15%に達したのは僅か1例です。前漢鏡は全7例が25%前後に集中しており、20%を割った例はありません。
再融解による錫の減少は、同p152に松野貞ならびに久野雄一郎の試験例が掲載されていますが、久野例でいえば13回融解後に錫が約4%減少となっています。したがって、輸入青銅鏡の再鋳を10回繰り返しても両者の差は埋まりません。
錫の含有比率15%未満と20%超とでは、成品の呈する色彩に明瞭な相違がありますので、この差異は明確に意識的な、たぶん使用者の嗜好を反映したものと考えられます。
以上から、弥生の青銅器及び古墳時代の[イ方]製鏡と、舶載三角縁神獣鏡及び中国鏡とでは、銅・錫・鉛の含有比率が著しく異なり、必然的に必要とされる鋳造技術も異なることが明らかであります。
元の発言 [ Re: 倭国に中国人はいなかったのか? ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 9月17日(月)13時50分26秒 ]
>>
>>
#でも、現に「4)子孫繁栄 5)持った人の幸福」の鏡が棺の周りに並べられています。誰も吉祥句を気にしなかったようです。
1)陳さんは一応字が読めたけど、葬儀用の銘文を書けるほどの教養はなかったので、手持ちの型を流用した。
2)陳さんの弟子の漢字の読めない二世が、葬儀社を開業した。
思いつきならいくらでも提案できます。
近畿の権力者が服属した各地の権力者に鏡を与えたという「定説」って、何か裏づけがあるんでしょうか。近畿の鏡商人が純粋な経済活動として各地に鏡を売りさばいたという私の思い付きよりマシな点は何ですか。
三角鏡は明らかに埋葬の小道具として使われていますよ。
>>
#食うためなら何でもするっちゃ。
元の発言 [ Re: 倭国に中国人はいなかったのか? ] お名前 [ ALEX ] 日付 [ 9月18日(火)06時44分09秒 ]
>> # 三角縁の同型鏡どうしでは面径の差が個体差+計測誤差の範囲におさまるものが大半なので、大量踏み返し説というのは成立の余地はないでしょう。
元鏡は出ていなくて
どれも踏みかえしだったというのは?
元の発言 [ Re: 倭国に中国人はいなかったのか? ] お名前 [ yaohide ] 日付 [ 9月19日(水)01時12分20秒 ]
>> 元鏡は出ていなくて
>> どれも踏みかえしだったというのは?
# 三角縁神獣鏡同型鏡の面径というのは、だいたい個体差+計測誤差の範囲内のところでダンゴになっていますが、中にときおりポコンと外れて小さい物があります。
その中身を見ると、初期古墳でなく関東の後代の古墳から出たものだったりするわけです。それでハハアこれは踏み返しだなと解る。
それでは上のほうに突き抜ける出土例があるかというと、これが無いんですね。
つまり、同型鏡は最初から複数枚作られているということで、それが踏み返し手法によって量産されたとするなら、そこで使った原型は流通するような「成品」ではなく、生産の為の雄型であったと考えるのが合理的でしょう。たとえば鈕孔が無く代わりに抜型のためのハンドルを差し込む穴があるような純粋に笵作成のための陽型ですね。
しかし、三角縁神獣鏡は何百枚も出ますが、型は未発見です。
そこで、そういう金属雄型もあったろうが、粘土の笵から作られた蝋型(つまり残らない)もあったろうと、そういうふうに考えられている訳です。
もちろん、原鏡は卑彌呼から貸し出されて踏み返しを作った後返却され、結局ぜんぶ彼女の未発見のお墓に入っているという想定だって、あっていかんとは申しません。
元の発言 [ 三角縁神獣鏡の破鏡 ] お名前 [ マルセ ] 日付 [ 9月11日(火)22時14分41秒 ]
マルセさん こんばんは
>> #すみません。引用部分が短くて、誤解させてしまったようです。この本での、ここでいう破鏡というのは、三角縁神獣鏡のことを言っているのではありません。方格規矩四神鏡などのことです。
>> 例がないわけではありませんが、画文帯神獣鏡や三角縁神獣鏡の破鏡の例は少ないようですね。同じ本の137ページに「画文帯神獣鏡の破鏡は日本全体をみても九州の三例だけであり、破鏡への分割は北部九州でおこなわれたと考えられる。弥生後期をつうじて北部九州は漢鏡の分割とその破鏡を分割する中心であったが、漢鏡7期の鏡から段階的に終焉にむかっていた。福岡市老司古墳から出土した三角縁神獣鏡の破鏡はおそらくその最後のものであろう。」とあります。
#なるほど、了解しました。勉強になりました。
#元々は鏡分配の中心であった奴〜伊都国で漢式鏡の入手が難しくなって破鏡を分配するようになったということでしょうか。
#とすると、老司の三角縁もですが平原の大量の破鏡は何でしょうネ。
元の発言 [ Re: Title年号鏡の数字は虚数 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 9月19日(水)14時07分58秒 ]
>> 邪馬台国大和説は何が何に対して一致しているんでしょう。
>>
>>
景初四年鏡もありますね。
私の仮説の方が判りやすいのでは。
>>
>>
>>
>>
>>
「封土作冢」
葺石に覆われた古墳は土を盛って冢となすという記述と合っていません。
また箸墓以前にもホケノ山や石塚など全長100m前後の大きい墓があるわけですが、倭人伝には邪馬台国には魏や高句麗や韓国にも無い巨大な墓についての記載は有りません。
むしろ私は巨大古墳こそが畿内が邪馬台国でない証拠だと思っています。
>> 歴史は偶然と言った方が合っていると思いますが。
>> 歴史的な発見、発明も大抵が偶然が成せる技です。
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
いや、宣戦布告を告げるように指示する電報の翻訳に手間取って遅れたと言うことになっていますが、実は大使館員が飲みにいって二日酔いだったとか、宣戦布告指示電報が来る事を始めから知っていたアメリカの陰謀で飲みに連れ出されていたため電報を見るのが遅れたとか、この大使館員は始めからアメリカに買収されていたとか色々な説があります。
その大使館員は戦後順調に出世したそうです。
この事に注目するとどれが正しそうか見えてくるような気がします。おにりんさんは判りますか?
目に見える証拠もその背景や前後の状況から解釈が必要になります。
鏡も何故、景初三年なのか、正始元年なのかも鏡の作者の事情を想像してみると。
「魏の景初三年に作られた鏡だから景初三年鏡がある」と想像する事も出来ますし、「後世に景初三年という言葉がかっこいいから使った」と想像する事も可でしょう。
それで私は三角縁は魏で作られたとするにはやや問題があるので後者をとる訳です。
元の発言 [ Re: 倭国に中国人はいなかったのか? ] お名前 [ ALEX ] 日付 [ 9月19日(水)06時37分22秒 ]
>> # 三角縁神獣鏡同型鏡の面径というのは、だいたい個体差+計測誤差の範囲内のところでダンゴになっていますが、中にときおりポコンと外れて小さい物があります。
>> その中身を見ると、初期古墳でなく関東の後代の古墳から出たものだったりするわけです。それでハハアこれは踏み返しだなと解る。
踏み返しは、小さくなるのですか?
元の発言 [ Re: Title神獣鏡の鋳造法 ] お名前 [ 三河 太郎 ] 日付 [ 9月2日(日)11時04分30秒 ]
>> ロストワックス法の原形ですね。そのものとも言えるかな。一説にはこの時代、2,3世紀にも使われていた言う先生もいます。使われていても少数派ではなかったでしょうか。材料は蜜蝋。この工法が威力を発揮するのは仏像などの繊細、精緻な仏教美術品の鋳造なんです。
# 岸本さんが同型鏡の製法の一つとして指摘しているのがこのロストワックス法で、支持者も多いと思います。金属原型を用いたグループとロストワックス法を用いたグループの両方がいた可能性が指摘されていますね。
元の発言 [ Re: 里程にこだわりすぎとは? ] お名前 [ 岡野熊鰐 ] 日付 [ 9月8日(土)10時03分59秒 ]
>> >> そして、青玉って何を意味するんだろ?。
>> >> ガーネットじゃないよね?
>> >> そして海沿いって条件、少なくとも歩いてすぐ行ける距離。
>> >> この地形条件に合うのどの編かな?
>> 倭の特産ってことだから硬玉翡翠じゃないですか。
この条件で、現在条件を満たす場所は、2個所のみ、翡翠さとすると。
大阪から兵庫にかけた海沿い、または、四国の高知県と言うことになるんだけど。
翡翠以外だとするともう数箇所増えそうですが。
元の発言 [ Re: 里程にこだわりすぎとは? ] お名前 [ 馬頭鬼 ] 日付 [ 9月20日(木)12時14分31秒 ]
>> >> >> そして、青玉って何を意味するんだろ?。
>> >> >> ガーネットじゃないよね?
>> >> >> そして海沿いって条件、少なくとも歩いてすぐ行ける距離。
>> >> >> この地形条件に合うのどの編かな?
>> >> 倭の特産ってことだから硬玉翡翠じゃないですか。
>> この条件で、現在条件を満たす場所は、2個所のみ、翡翠さとすると。
>> 大阪から兵庫にかけた海沿い、または、四国の高知県と言うことになるんだけど。
>> 翡翠以外だとするともう数箇所増えそうですが。
失礼、大阪は全くの間違いです。
兵庫それも日本海側と言うことになる。
となると、日本海側とは、思えないので自動的に、
高知と言うことになってしまうんですが?
青玉が、ガーネットの種類のうち緑色の物だとすると
近畿地方でもありえるが?
ガーネットは、飛鳥時代あたりまで近畿で取れたらしいのです。
ただ取り尽くされたとどの本か忘れましたが、
いくつか読んだ覚えがあります。
あと、瑪瑙他は、まだ調査中なので後日。
元の発言 [ Re: Title年号鏡の数字は虚数 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 9月20日(木)10時37分03秒 ]
>>
>>
未だ見つかっていないだけかも。
>>
>>
ホケノ山は土を盛ったというより削ったと言う方があっているし、石囲い木槨は石を積んだと言うに相応しい。
>> また箸墓以前にもホケノ山や石塚など全長100m前後の大きい墓があるわけですが、倭人伝には邪馬台国には魏や高句麗や韓国にも無い巨大な墓についての記載は有りません。
>>
>>
>>
大いに冢を作ると言うのは必ずしも大きい塚と言う意味ではないと思いますが?
一歩は26,7cmという話もあるし。
しかも大いに冢を作ると言う事には初めて作ると言うニュアンスがこめられている。
前から大きい墓があることと一致しない訳です。
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>> むしろ私は巨大古墳こそが畿内が邪馬台国でない証拠だと思っています。
>>
>>
百余歩30〜40mの墓の可能性だってあるのですから証拠になりません。
>>
>>
>>
歴史は確率や平均では動かないです。
>>
おにりんさんはどうしてこうなんでしょう。
元の発言 [ Title:トンデモワールドへようこそ(その3)伊都国と奴国 ] お名前 [ ピクポポデミ ] 日付 [ 9月15日(土)16時57分42秒 ]
>> もともと伊都国と奴国は一つの国だったのではないかと言う説を、松本清張氏が
>> 以前書いていました。
>> 私はこう言う説が出てくるのはもっともだと思います。
>> 現在までの考古学的成果をみると、王墓の出土物は、イト郡の地域に厚く、
>> 王墓自体も全部で三基、長期間に渡って出ています。
>> これは三国志に記述された、伊都国の王の存在と、地域>> 内容とも合い、イトの地域に長く王がいて、少なくとも三世紀中葉には玄海灘地域での
>> 覇権があったことをうかがわせます。
>> ナの地域には今のところ王墓は一基しか見つかっておらず、
数の暗号、古事記の日本書紀の3貴神、三種の神器、三つ巴の紋はこの場合ちと違うか!
宗像の三神、住吉の三神、那国伊都国末羅の3つの国加えて
アマテラスの岩戸こもりの時には、3枚の鏡、そして三貴神を合わせると、3つの神のグループとなる。
また住吉の神を祭る神社は、元は志賀島にあったと言います。
なんの符号暗号なんだろう。
この符合からすると、3貴神を祭る神社がその当たりにあったことになる。
今は、知る由も無いが。
また、卑弥呼とは元々邪馬台国の女王だったのだろうか?
塚を作るとは、幾つかの意味に取れる。
1.卑弥呼は、邪馬台国の王族ではない。
邪馬台国の王族なら、その王族の墓所に葬られるだろう。
2.新しく塚を築くとは、新しい王家を邪馬台国が迎えたと取れる。
3.塚とは、新しい王家の陵墓域を塚として築いたのでは。そして、墳丘墓なのでは?
4.前の関係からアマテラス=卑弥呼なら卑弥呼は伊都国のでなのでは?
などと、飛躍してみましたが、いかが?
元の発言 [ Re: 三ケ日人は縄文人か ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 9月21日(金)10時06分57秒 ]
>>
>>
>>
#で、現代語を話していた、と。
元の発言 [ Re: 「ことばの始まりと進化の謎を解く」を読みました ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 9月17日(月)13時37分26秒 ]
>>
>>
#いいえ。リストに入れておきます。
>>
>>
>>
#言語の習得はかなり厄介な問題です。
知人に13才(中2)の時に台湾からやってきた人がいます。彼は日本に来て初めて日本語に接したそうですが、今では中国語より、ちょっと訛があるが日本語の方がずっと楽だそうです。
言語が思考の道具として完成するのは、例えば16〜17才位なのではないでしょうか。
>>
>>
>>
>>
#ふむふむ。
>>
>>
#私の「イブは現代人だ」仮説が、このあたりをきちんと説明できていないことはもちろんしっかり認識しています。おもいつきとしては、
1)解剖学的現代人でも、知能のルビコンをまだ渡っていない種がそこそこ繁栄していた、逆に真の現代人は非常に人口が少なかった、かもしれない。
2)現代人の知能だけでは、新しい文化を創出する十分条件ではない、のかもしれない。なんといっても、にんげんは結構怠け者だから。
ただ、「イブは現代人でない」仮説はず〜〜っといかがわしいので、私はとりません。
この大論争9月の第二投稿に紀 智明さんの「邪馬壹国」が投稿されております。積極的な反論を期待しております。
紀 智明さんへ。大論争への「邪馬壹国」という投稿、ありがとうございます。古田氏とは違った見方から証明されたり、見方をされており頼もしく感じます。今後このような投稿が続々出てきて、それに対する反論で、以前の九州にありました当時の大論争のように活気がみなぎると良いですね。私も今後このような議論が復活することを願って、お礼の書き込みをさせて頂きます。それでは。
(以前案内した『洛陽晉墓的發掘』ー中華人民共和国河南省文化局文物工作隊第ーで報告されている鏡は、漢鏡そのものです。またずさんな案内をしました。すみません。)
新古代学の扉インターネット事務局
sinkodai@dream.com
横田幸男
『新古代学の扉』
http://plaza14.mbn.or.jp/~sinkodai/jfuruta/jfuruta.html
元の発言 [ Re: 「ことばの始まりと進化の謎を解く」を読みました ] お名前 [ EK ] 日付 [ 9月21日(金)18時19分27秒 ]
>> >> これが、後期旧石器時代になると、そうではない状態
>> >> になるわけです。
>> #私の「イブは現代人だ」仮説が、このあたりをきちんと説明できていないことはもちろんしっかり認識しています。おもいつきとしては、
>> 1)解剖学的現代人でも、知能のルビコンをまだ渡っていない種がそこそこ繁栄していた、逆に真の現代人は非常に人口が少なかった、かもしれない。
>> 2)現代人の知能だけでは、新しい文化を創出する十分条件ではない、のかもしれない。なんといっても、にんげんは結構怠け者だから。
>> ただ、「イブは現代人でない」仮説はず〜〜っといかがわしいので、私はとりません。
すべての現代人の直系の母上様だけど、今は御遺骨は、見付らない方が良い!
間違いなくその方が良いと思う。
誰が祭るかで、けんかになりかねない。
まして、少し前ぐらいだと戦争の種になってしまう事疑いなし。
余りに、情けないと嘆かれるか、頼もしいと思われるか分からないけれど。
まして場所は、多分アフリカ、それだけでイスラムをも巻き込んでの大喧嘩間違いなしって事だろう。
キリスト教徒だって、マジに証明されれば、粗末にはできないだろうしね。
元の発言 [ Re: 倭国に中国人はいなかったのか? ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 9月19日(水)12時40分56秒 ]
既にALEXさんに
・ライセンス生産(踏み返し生産)が大量におこなわれた形跡はない
との事で否定されてしまった後ですので、何をいってもしょうがないのですが
>>
現代でも、このような形でのライセンス生産は頻繁におこなわれています。
理由は、それでも人件費の高いところで生産するよりは安くあがるからです。
もちろん技術協力で応援にいく工人は生産/製造を監督するだけで、
実際の製造に携わるのは現地の人々です。
古墳時代の銅鏡の製造についても、ある一定の数量を超えた場合は、
現地でのライセンス生産の方が安くついたであろう事は自明だと思えます。
元の発言 [ Re: 三ケ日人は縄文人か ] お名前 [ EK ] 日付 [ 9月21日(金)18時11分44秒 ]
>> >> アフリカのHP文化だって、10万年前ですが、これは、
>> >> mtイブ仮説と整合するし、考古学的に見ても、この時代
>> >> には、確実に、解剖学的現代人は登場している。
>> #で、現代語を話していた、と。
#いいえ、バベル語でしょう。
#塔を造るまでですけどネ。(^。^)
投稿者 7月度の蛟児さんの下記の提言に対しての反論です。
下記のページを御覧の上、感想をお聞かせいただければ幸いです。
『九州王朝説批判』
まだ、すべてについての分析は終わっていません。
今後、少しずつ意見を述べたいと思います。
とりあえず、第1章 2.『新唐書』日本伝も一元説だったの中の、下記の部分について。
その2。
αの末尾に「其王姓阿毎氏」とあり、これはその1から倭国の王と見なしているが、
その直後の神代から神武にかけての記述で「初主號天御中主、至彦瀲、凡三十二丗、
皆以尊爲號、居筑紫城。彦瀲子神武立。更以天皇爲號。徙治大和州」と、『記・紀』の
“天孫降臨”から“神武東征”までの説話と同じ事を記しており、これは(大和朝廷
の公式見解としては)大和朝廷の歴史であり、倭国と大和朝廷を同一視していること
を意味する。
『記・紀』の記述と、新唐書と同じ事を記しているということが問題です。
すなわち、『記・紀』に記されていることが、本当に大和朝廷の史実でしょうか。
特に、神功紀の例を挙げてみましょう。
神功紀 39年 魏志に云はく、明帝の景初三年(二年の誤り)の6月、倭の
女王、大夫難升米を遣わして、郡に至りて、天子に詣りて朝献
せんことを求む。太守劉夏、吏を遣わし、将いて送りて京都に詣ら
しむ。
40年 魏志に云はく、正始元年に太守弓遵、建中校尉梯儁等を遣わし、
詔書・印綬を奉じて、倭國に詣らしむ。
43年 魏志に云はく、正始四年、倭王、復た使大夫伊声耆・掖邪狗等八
人を遣わして上献す。
66年 晋の泰初(泰始の誤り)二年、貴倭の女王、重訳を遣わして貢
献。
このうち、39、40、43年の記事は、卑弥呼のことであり、66年は、壹与のことなの
は間違いのないことでしょう。
したがって、九州王朝の記事をそっくりそのまま、神功紀に引用しているのですから、新唐
書等の中国の史書と合うのは当然のことでしょう。
ということは、日本書記の記事が、大和朝廷の史実ではないことを告白していることになり
ます。
この「九州王朝説批判」は、中国の史書の解読については、頭がさがりますが、肝心の『記・紀』の解読に問題があると考えます。
元の発言 [ Re: ライセンス生産 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 9月25日(火)09時10分18秒 ]
おにりんさん 今晩は、由です。
私のライセンス生産説は、
・銅鐸の製造経験が銅鏡の製造に関わる最低限のインフラと成り得ていた。
・上記インフラではカバーできない点は輸入でまかなえた。
・結果として、踏み返しによる大量生産なら、当時の倭国でもおこなえたであろう。
というものでした。しかしこのライセンス生産説は、ALEXさんの、
「大量踏み返し説というのは成立の余地はないでしょう。」との御発言により、
すでに撤回させていただいています。
従いまして、これ以上この話題を続ける事には意味が無いように感じているのですが・・
とりあえず、論点を整理してみます。
・論点1
・中国の工人が来倭しなくては銅鏡の製造はできなかったかどうか。
由 尚方で1〜2年学んだ倭人がいれば、踏み返しならば製造できたのでは。
おにりん 技術の飛躍があり、無理だったろう。
私には青銅鋳造技術の素養がないので、どちらが正しいかは判断できません。
・論点2
・古代であっても人件費の安い場所でのライセンス生産が経済的であったかどうか。
由 現地でのライセンス生産の方が安くついたであろう。
おにりん 疑問である。
これも当時の材料費/人件費/収益構造/etcが不明ですので、決着の付く問題ではなさそうです。
特に、論点1の中国の工人の来倭が必要かどうかで、ライセンス生産のコストはまるっきり変わってきます。
製品輸入と踏み返し生産のコスト要因を比較してみます。
・往路の人足代/護衛代、購入手続き費用
尚方で100枚を超える面数の鏡を作ってもらうとしたらば、
それなりの官職の人にそれなりの贈り物が必要だったのでは。
さらに、これらを倭から運んでくるのに人足代/護衛代という形で運送費が掛かります。
原盤/材料/副資材/工具の購入程度ならば、それほどの手続き費用は掛からなかったでしょうから
人足代/護衛代もその分安くてすんだと思います。
・購入代金そのもの
中国の工人の人件費は、当時の倭人のそれとは比較にならないほど高かったものと思います。
中国の工人に100枚を超える面数の鏡を作ってもらうのと、原盤数面を製作してもらい
材料/副資材/工具を購入するのとでは、材料の歩留りを考えても、後者の方が安くついた
はずです。2回目以降からは、副資材/工具は消耗分だけを購入すればいいのですから
さらにコスト的メリットがでます。
・復路の人足代/護衛代
製品輸入よりは材料輸入の方が運送する量が増えますので、人足代は材料輸入の方が掛かる。
製品の方が材料よりも盗賊に狙われ易いので、護衛代は製品輸入の方が高くつく。
・機会損失
全量を輸入に頼る状況は、機会損失に対して非常に脆弱です。
有力者が急死などにより、早急に大量の銅鏡が必要のなった時など、
全量輸入では対応できなくなる危険があります。
ここまでで考えれば、踏み返し生産の方が製品輸入より安くついたであろう事は自明だと思えます。
問題はこの先で「中国の工人が来倭しなくては製造ができなかったかどうか」
さらには、仮に中国の工人の指導が必要だったとして、
「技術協力で応援にいく工人は生産/製造を監督するだけで実際の製造に携わるのは倭の人々」
で製造が成り立ったか、それとも
「10人の工人が、10人の弟子で、1年から2年の育成期間」が必要だったのか。
結局は、この「中国の工人の来倭」が必要か否か、で経済的かどうかが決まるように思います。
残念ながら私には青銅鋳造技術の素養がないので、これ以上の判断は出来ません。
ということで、私の先の発言の、
> 古墳時代の銅鏡の製造についても、ある一定の数量を超えた場合は、
> 現地でのライセンス生産の方が安くついたであろう事は自明だと思えます。
を、「古墳時代の銅鏡の製造についても、ある一定の数量を超えた場合で、
かつ、中国の工人多数の来倭が必要無い場合は、現地でのライセンス生産の方が
安くついたであろう事は自明だと思えます。」と、訂正させていただきます。
元の発言 [ Re: Title神獣鏡の鋳造法 ] お名前 [ ALEX ] 日付 [ 9月2日(日)12時41分34秒 ]
今日は。
>> # 岸本さんが同型鏡の製法の一つとして指摘しているのがこのロストワックス法で、支持者も多いと思います。金属原型を用いたグループとロストワックス法を用いたグループの両方がいた可能性が指摘されていますね。
#同型鏡製作へのロストワックス法の適用ですか。初めて聞くことです。鏡そのものをロストワックスで彫り出すのでしょうか。それを同型鏡へどんな方法で使うのでしょうか。面白そうですね。もっと詳しいこと紹介していただけるとありがたいです。
元の発言 [ Re: ライセンス生産 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 9月26日(水)09時48分34秒 ]
>>
>>
>>
う〜ん、これはライセンス生産説を考えた私にとっては、魅力的な案ですね。
・当時の倭は踏み返しによる大量生産をおこなう事はできた。
・しかし、倭はそれをおこなわなかった。
・なぜならば、九寸以上の鏡に呪術的意味を見出していた倭は、
その仙道の発祥の地である中国で作られた鏡をこそ欲していたからだ。
さて、本当のところはどうだったんでしょうかね。
元の発言 [ Re: Title:トンデモワールドへようこそ(その3)伊都国と奴国 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 9月26日(水)20時56分45秒 ]
>> さていよいよトンデモパワーで離陸開始。
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
もしかすると、那国、伊都国は、それぞれ、幾つかの部族から成り立っていたのかも?
これらの、共通点として海洋民族であることと山の民であること。
加えて、国譲りの神話の解釈の一つとして
水葬の風習を持つ種族であること。
この幾つかかの、部族が、選帝候として並立しており、
その部族のもつ風習を尊重する形で、
玉座を持ち回ってたとしたら如何だろう。
先に書いた通り、那国の重要な部族の祭神が、
海洋の神である住吉の3神であり、その部族が、
近畿に拠点を移した時、志賀島に祭っていた社を移したとしたら。
王墓が無いのもうなずける。
志賀島の社が、寂れて一時消えたまたは、争いがあり破壊された時に紛失したカムタカラの金印が江戸時代に見付ったのでは?
元の発言 [ Re: Title:トンデモワールドへようこそ(その3)伊都国と奴国 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 9月26日(水)20時56分45秒 ]
>>
>>
もともと物証のある話ではないんで・・・
弥生中期までは別々に発展して、一世紀中一時統合という設定ですが。
それにしても何か裏は取れないかなとは考えています。
中間の早良のあたりはどんな運命をたどったのか。
1対20という人口比率が正しければ、どういう地理的配分になっていたのか・・・
>>
>>
ところで岡村氏の本の中で、漢鏡5期以降北部九州を別格として、かつ伝世鏡まで入れると、近畿に弱いながらも分布の中心があるようですが、これは現在一般的にはどのような解釈をなされているのでしょうか。
今回は環濠集落を中心とした小規模な政治集団から、もっと広がりをもった政治集団へ
の変革を考えてみます。
この変化は最終的に、古墳時代の環濠を伴わない集落と、豪族居館/巨大古墳の
組み合わせによる社会構造につながります。
環濠集落についてはそれ自身興味深い要素が多くあります。
これがどの程度その時代の社会構造を表していたかですが、円形を基にした
集落の構造には、比較的縦の階級的構造を含まない、共同体的構造を見て取る向きが
多いようです。
環濠自体の戦闘時の防御力ですが、立地、環濠の多重度、逆茂木など他の要素との
組み合わせで大きく変わるものの、しばしば余り評価されていないように思えます。
代表的な環濠の構造では、壕は土塁の内側にあり、外敵からの防御よりも、
排水や共同体の一体感を高める働きがあったとされています。
日本の歴史上このような構造の環濠が現われるのは、弥生時代の中西部日本以外では
平安期の北部東北地方だけです。
それも前九年の役のあとの、源頼俊の荒夷征討以後はなくなります。
そのあと後三年の役が起こるわけで、東北地方は政治的に安定しているわけでは
ありませんが、律令制度に組み入れられることで、環濠は消えてなくなるのです。
私は環濠には一定の防御力を見て取ります。
しかし壕の外側に土塁を置く構造は、壕を防御線とすると外敵の状況を目隠しして
しまい、土塁を防御線とすると土塁と集落の連絡の障害になります。
私はこのような環濠は小規模な戦闘を対象にしたものと考える必然性があると思います。
集落内に存在する人員が、侵入者に比べて多数であれば、侵入する敵を矢の的にし、
集落内から退却する敵の障害となり、防御の機能を発揮すると考えます。
環濠はこのような防御機能に、排水や、ゴミだめ、共同体の一体感の高揚など
平時の機能を併せ持ったもののように思います。
つまり環濠集落はそれなりの軍事的緊張感はあるものの、小集団間の日常的抗争を
意識したつくりになっていると思います。
このような環濠集落の最盛期は弥生中期であるようで、弥生後期には衰え始めます。
環濠の消長は平安期の北部東北に見られるように、何がしかの政治的変化を感じさせます。
私はそのような政治的変化が最も早く起こったのは、瀬戸内であると思います。
弥生中期末、西日本一帯に高地性集落が現われます。
しかしこの分布は明らかに、瀬戸内の海岸沿いを中心にしています。
私が種本にしている王権誕生では、この最初の高地性集落の発生(第一次としている)を、
一時的な軍事的緊張によるもので、実際の戦闘をほとんど伴わなかったとしています。
私はこの考えには賛成できません。
なぜなら軍事技術は科学技術の発達した現代以前では、実績のある古い技術が重んじられる
傾向が強かったからです。
しばしば武器や戦術は、階級や社会構造にまで結びついて、むしろ保守的な
ものだったからです。
高地性集落と言う新しい軍事技術が広まったからには、それが有効性を発揮するような
戦闘が多発したに違いありません。
私はここに瀬戸内のオープンスペースを利用した、活発な人間集団の軍事的/平和的移動と
激しい戦闘を見て取ります。
それがなんに起因したのかよくわかりません。
わずかでも鉄器が普及したせいか、あるいは大量の流民が流れ込んだかも知れません。
しかし結果として重大な社会的変化を呼び起こしたのではないでしょうか。
高地性集落はしばしばのろしの痕跡を伴い、その集落ネットワークの作り方といい
広い地域の集落が連携して行動したことを物語っています。
土塁で目隠しされた、閉じられた環濠集落社会とは異質な社会がそこから
生まれてきたとしても不思議ではありません。
このような変化は、
戦闘の大型化→高地性集落のネットワーク化→広域社会→戦闘の大型化
というフィードバックを伴うでしょう。
やがて瀬戸内社会に、広い地域の集落の連合による、広域の国の胎動が生まれてきます。
古代国家が必要とした、情報の集約、すばやい伝達、大量の人員の組織化が
次第に訓練されてゆきます。
このような変化の先端を走ったのが吉備の瀬戸内沿海地方ではないかと思います。
ここでは、河川による強い地形変化の作用により、もともとあまり環濠集落は
発達しなかったようです。
そのかわりに集団の一体感を保つ方法として、やがて集落から離れた山地に
墓地領域を発達させます。
吉備固有の自然条件と、瀬戸内のオープンスペースが新しい政治形態を生んだとします。
吉備地方を中心に、次第に大型の政治集団が生まれてゆき、戦闘規模が大型化すると
拠点環濠集落は崩壊し、それに代わって大型の高地性集落が生まれます。
王権の誕生で、第二次高地性集落と呼ぶものです。
このような傾向は北部九州と奈良盆地を除く、ほとんど西日本全域に及びます。
やがて吉備ではそれまでの青銅器祭祀にかわって、墓制に基づく首長霊祭祀が起こり始めます。
このような動きは山陰にも伝わって、瀬戸内中国地方一帯に新しい社会が到来したことを
物語ります。
私のずり上げ編年で、1世紀末から2世紀初頭、経済/技術/文化的に圧倒的先進性を持つ
北部九州を追い抜いて、政治=祭祀の新しい中心が東へ移動し始めます。
(まだまだ勝手につづく)
元の発言 [ Re: Title:トンデモワールドへようこそ(その3)”3”の暗号(暗黒神話風) ] お名前 [ 馬頭鬼 ] 日付 [ 9月21日(金)16時23分50秒 ]
>> 宗像の三神、住吉の三神、那国伊都国末羅の3つの国加えて
宗像の三神については、鬼の逆鱗に触れるようなすんごいトンデモを練っています。
いつか発表しようかな・・・
元の発言 [ Re: Title:トンデモワールドへようこそ(その3)伊都国と奴国 ] お名前 [ 馬頭鬼 ] 日付 [ 9月27日(木)18時05分13秒 ]
>> この幾つかかの、部族が、選帝候として並立しており、
>> その部族のもつ風習を尊重する形で、
>> 玉座を持ち回ってたとしたら如何だろう。
もちまわりと言うのは考えたんですよ。
当時の北部九州がそういう社会であってもおかしく
ないような気がします。
青銅祭祀の社会は案外そういう世界だったのかも知れませんね。
もっとも階級分化はかなり進んでいたでしょう。
元の発言 [ Re: Title神獣鏡の鋳造法 ] お名前 [ ALEX ] 日付 [ 9月2日(日)12時29分37秒 ]
ALEXさん今日は。御教示あえいがとうございます。
>> 再融解による錫の減少は、同p152に松野貞ならびに久野雄一郎の試験例が掲載されていますが、久野例でいえば13回融解後に錫が約4%減少となっています。したがって、輸入青銅鏡の再鋳を10回繰り返しても両者の差は埋まりません。
#この数値は溶解条件によって差があるようです。IPG燃料の黒鉛ルツボ炉では一回の溶解の減少絶対量は0.94%との例もあります。更に古代の溶解では、粘土中の珪酸と反応して消耗が促進されます。
いずれにしても、全体にまだデータが少ないのは残念です。
わたしが、疑問を払拭して「明らかに」とか、「絶対」とか言えないのはその辺りなのです。
『考古学のための化学10章」のP154に「筆者らの考え方はまだ作業仮説の域を出ない」と述べています。
今後サンプル数が増えることによって解明されるでしょうが。
元の発言 [ Re: Title:トンデモワールドへようこそ(その1)チャチャ ] お名前 [ 馬頭鬼 ] 日付 [ 9月14日(金)12時20分35秒 ]
>> これもどうでしょうね?
>> 焼畑やなんかだと、知恵さえあれば、結構少数で生活可能だし。
>> 縄張り問題を、上手く解決できるなら、新しい部族を起こして長になれるんじゃないかな。
>> 近くでも、アラスカ物語に見られるように。
焼畑ってそんなに少数でやるもんでしたっけ。
それと弥生人って生活の基盤は焼畑?
>> それも、認めますが、
>> 争いと野心によって起こされることは、本人の思惑なんかはるかに超えるなんて
>> 珍しくないし。
>> 結果、戦国と同じであることは、大和武の神話で明らかなんでは?
>> そして、ナムジって漫画があったけど似た感じなんじゃないでしょうか。
>> わたしの好きな漫画ですが。
だまし討ちにするにしても神がかってません?
元の発言 [ Title 円墳のまわりに? ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 9月26日(水)21時03分43秒 ]
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
私もイリヒコさんのページで過去のニュースから引用
09月03日 纏向出土瓦質土器片、国内に類例のない成分組成 (読売新聞関西 奈良発掘トピックス)
1996年に奈良県桜井市の纏向遺跡で出土した三世紀後半といわれる瓦質(がしつ)土器片は、胎土分析の結果、国内に類例のない成分組成であることが判明した。瓦質土器は、この時期の日本では作られておらず、この土器片も朝鮮半島系と判断されていた。
瓦質土器は日本では中世から作られるようになったもので、
それ以前の出土品は各地で発見されていますが楽浪系と三韓系だそうです。
「国内に類例のない成分組成」というとこれは楽浪系でも三韓系でもないということでしょうか?
興味が湧きます。
元の発言 [ Re: Title 円墳のまわりに? ] お名前 [ 牛頭天王 ] 日付 [ 9月29日(土)11時23分46秒 ]
>> 「国内に類例のない成分組成」というとこれは楽浪系でも三韓系でもないということでしょうか?
これは日本製の土器としては類例がないということです。
以下、その記事からの引用です。
うち三点を民間の研究機関に依頼し、微量成分を電子線を利用して分析する計測器で測
定。酸化アルミニウムが平均41・2%と最も多く、ケイ酸が36・3%だった。酸化マグネシウ
ムを19・7%、微量の硫黄やタングステンも含んでいた。
日本の土器は通常、酸化アルミニウムが10―30%、ケイ酸が50―70%で、酸化マグネ
シウムはほとんど含まないという。中国の土器には酸化マグネシウムを多く含む例もあるとい
い、日本製の可能性は低いと結論付けたが、産地の特定はできなかった。
土器を見た寺沢薫・県立橿原考古学研究所調査第一課長は「色や粘土は(中国・漢が朝
鮮半島に置いた出先の)楽浪郡のものに似ているが、形が違う」と首をひねり、韓国の朴淳
發(パクスンパル)・忠南大百済研究所長は「ソウル近郊の漢江流域の土器に近いが、製法
に違いもみられる」と指摘している。
元の発言 [ Re: Title 円墳のまわりに? ] お名前 [ イリヒコ ] 日付 [ 9月29日(土)17時17分07秒 ]
>> >> 「国内に類例のない成分組成」というとこれは楽浪系でも三韓系でもないということでしょうか?
>> これは日本製の土器としては類例がないということです。
>> 以下、その記事からの引用です。
>> うち三点を民間の研究機関に依頼し、微量成分を電子線を利用して分析する計測器で測
>> 定。酸化アルミニウムが平均41・2%と最も多く、ケイ酸が36・3%だった。酸化マグネシウ
>> ムを19・7%、微量の硫黄やタングステンも含んでいた。
>> 日本の土器は通常、酸化アルミニウムが10―30%、ケイ酸が50―70%で、酸化マグネ
>> シウムはほとんど含まないという。中国の土器には酸化マグネシウムを多く含む例もあるとい
>> い、日本製の可能性は低いと結論付けたが、産地の特定はできなかった。
>> 土器を見た寺沢薫・県立橿原考古学研究所調査第一課長は「色や粘土は(中国・漢が朝
>> 鮮半島に置いた出先の)楽浪郡のものに似ているが、形が違う」と首をひねり、韓国の朴淳
>> 發(パクスンパル)・忠南大百済研究所長は「ソウル近郊の漢江流域の土器に近いが、製法
>> に違いもみられる」と指摘している。
ご教授有難う御座います。
結局、産地が特定できないと言う事ですか。
でもどうやら中国よりも半島に近いところで作られたらしいが楽浪とも三韓とも違っているらしいと言う事は
判りました。
私の持論である「畿内大和国は高句麗人が作った。」と言う説の補強材料になるかも知れないと思ったんですが、
まだなんとも言えませんね。
先々月はさぼりました。すいません。
ど素人が無知をさらけ出してお叱りを頂いてばかりですが、又馬鹿な質問を。
先月号でおにりんさんが三角縁神獣鏡は鋳砂による砂型で鋳造されたと発言されました。
私は粘土ではないかと思っていますが実際はどちらでしょう。
黒塚古墳の画紋帯神獣鏡の銘文なんかは粘土型に後から文字のはんこを押したように見えるんですがどんなもんでしょう。
また石に彫刻して型を作ったものもあると言う事になっていますが、量産向きだと思われるのにこの方法はどうして主流でなかったのでしょう。
元の発言 [ Re: Title神獣鏡の鋳造法 ] お名前 [ 三河 太郎 ] 日付 [ 9月2日(日)15時08分12秒 ]
>> 同型鏡製作へのロストワックス法の適用ですか。初めて聞くことです。鏡そのものをロストワックスで彫り出すのでしょうか。それを同型鏡へどんな方法で使うのでしょうか。
# 原笵(陰)から複数の蝋原型を製作し、この蝋原型(陽)を真土に押し付けて鋳造用の笵(陰)を製作、この鋳造用の笵1個について1面の銅鏡を鋳造する方法です。蝋型製作は高温の青銅の湯を注ぐのとは違いますから、同笵を繰り返し使用しても原笵の損傷が少なく、多少の補修で続行可能であると考えられるものです。
この方法ですと、僅かながら笵傷が進行する現象と押し付け時のミスにより二重線が発生する現象が同時に発生しうることが説明可能になります。
また蝋原型には鈕孔がなく鈕孔用のブリッジは各々の鋳造用笵に付加されますので、同型鏡の大半で起こっている鈕孔方向がばらつく現象も説明がつきます。
同時に、原笵の笵傷進行状況によって蝋原型製作を続行するか止めるかを個別に決めたと推定すると、同型鏡の数が一定しない現況も合理的に説明できます。
つまり同型鏡の大半を製造した工法がロストワックス法であると推定することには高い合理性が認められます。
もちろん笵傷進行が全く認められない同型鏡群もありますので、金属原型を使用する製作者グループの存在も推定できます。指摘のあったオーバーハング鏡も特定の鏡群に偏在している状況がありますので、異なる鋳造技術をもった数グループが存在したことは確実視できると思われます。
元の発言 [ Re: Title神獣鏡の鋳造法 ] お名前 [ 三河 太郎 ] 日付 [ 9月2日(日)16時18分25秒 ]
>> 『考古学のための化学10章」のP154に「筆者らの考え方はまだ作業仮説の域を出ない」と述べています。
# この文章は「銅鐸中の鉛同位対比を測定してみると《中略》もちろん20個という測定値は400個以上といわれる銅鐸の発見数の数十分の一に過ぎず、筆者らの考え方はまだ作業仮説の域を出ない。」と続いており、明らかに銅・錫・鉛組成の話題とは違う文脈で語られています。
これだけ明瞭な差異が数値で出ている以上、反証とみなしうる実例が見出されない限り、技術上の断絶もまた確実視してよろしいと思います。
元の発言 [ Re: Title神獣鏡の鋳造法 ] お名前 [ ALEX ] 日付 [ 9月2日(日)19時15分13秒 ]
>> >> 『考古学のための化学10章」のP154に「筆者らの考え方はまだ作業仮説の域を出ない」と述べています。
>> # この文章は「銅鐸中の鉛同位対比を測定してみると《中略》もちろん20個という測定値は400個以上といわれる銅鐸の発見数の数十分の一に過ぎず、筆者らの考え方はまだ作業仮説の域を出ない。」と続いており、明らかに銅・錫・鉛組成の話題とは違う文脈で語られています。
>> これだけ明瞭な差異が数値で出ている以上、反証とみなしうる実例が見出されない限り、技術上の断絶もまた確実視してよろしいと思います。
先月のおにりんさの投稿に「半島からスクラップ銅が輸入されていた」との話がありました。
このスクラップと言うのはリサイクル品で錫の含有量が少なくなったものでは有りませんか?
好んだ訳ではなくやむを得ず仕方が無く錫含有量が少なかった。
品質の悪い倭鏡と言われるものはスクラップ銅を使用した。
一方、三角縁神獣鏡用としては葬具用として特別に新品の青銅を輸入していた可能性はないのでしょうか?
元の発言 [ Re: Title神獣鏡の鋳造法 ] お名前 [ ALEX ] 日付 [ 9月2日(日)18時57分49秒 ]
>> # 原笵(陰)から複数の蝋原型を製作し、この蝋原型(陽)を真土に押し付けて鋳造用の笵(陰)を製作、この鋳造用の笵1個について1面の銅鏡を鋳造する方法です。蝋型製作は高温の青銅の湯を注ぐのとは違いますから、同笵を繰り返し使用しても原笵の損傷が少なく、多少の補修で続行可能であると考えられるものです。
>> この方法ですと、僅かながら笵傷が進行する現象と押し付け時のミスにより二重線が発生する現象が同時に発生しうることが説明可能になります。
>> また蝋原型には鈕孔がなく鈕孔用のブリッジは各々の鋳造用笵に付加されますので、同型鏡の大半で起こっている鈕孔方向がばらつく現象も説明がつきます。
>> 同時に、原笵の笵傷進行状況によって蝋原型製作を続行するか止めるかを個別に決めたと推定すると、同型鏡の数が一定しない現況も合理的に説明できます。
>> つまり同型鏡の大半を製造した工法がロストワックス法であると推定することには高い合理性が認められます。
>> もちろん笵傷進行が全く認められない同型鏡群もありますので、金属原型を使用する製作者グループの存在も推定できます。指摘のあったオーバーハング鏡も特定の鏡群に偏在している状況がありますので、異なる鋳造技術をもった数グループが存在したことは確実視できると思われます。
ロストワックス法にしろ鋳砂法にしろ鏡のような片面は平らでいい物に何故適用しなければならないのでしょう。
ロストワックスは粘土ではなく石膏を使うのではないですか?
私の聞いた方法は元型にワックスをぬって固め、元型を外して出来たやつに石膏を塗って固め焼くとワックスが溶けて流れ出し、空洞が出来るそこに原料を流し込む。
石膏型を壊して製品を取り出すと言うものです。
これはコインのように両面に彫刻印が無いものには全く必要のない技術です。
しかも雄型、雌型二つに分離する金型では不可能な複雑な加工を必要とするものに使われる技術ですね。
蝋型に粘土貼り付けてまともな鋳型が出来るのでしょうか?
石膏なら水で溶いて塗るだけで簡単に固まりますが、粘土ではねえ。
元の発言 [ Re: ロストワックス&鋳砂 ] お名前 [ 牛頭天王 ] 日付 [ 9月2日(日)21時56分41秒 ]
>> ロストワックス法にしろ鋳砂法にしろ鏡のような片面は平らでいい物に何故適用しなければならないのでしょう。
# 文様をこまやかに転写する素材として蜜蝋が適切だからです。金属の雄型を作るより工作が容易でもあります。実際に蝋型や鋳砂で鏡を作っています。
インターネットでちょこっと調べても現代の彫金家のノウハウくらいしかわかりません。少し読書して基礎的な歴史知識をつけることをお勧めします。
元の発言 [ 承前:よくわからないので、全部書きます。>マルセさん ] お名前 [ ALEX ] 日付 [ 9月1日(土)20時19分14秒 ]
ALEXさん こんばんは
>> 兵庫(播磨)のものが全部欠落している意味はよくわかりません。
#?内行花文鏡も加えるべきだということでしょうか?それとも、これらの鏡種が播磨にも見つかっているということでしょうか。「全国古墳編年集成」を見ると、天王山4号墳から八禽鏡(径9.6センチ)が出ているようですので、この分は欠落といってよいかも知れません。あとはよくわかりません。
>>福岡 外隈II区2号木槨墓の飛禽鏡も破片です。
>>これらを1枚と数えるべきかどうかも問題ですね。
#「破片に分割されれば、枚数が多くなるのだから、当然、発見率は高まるはずである。したがって、見つかった枚数を少なく数えるべきだ。」ということですね。そうかもしれません。しかし、逆にこうとも考えられます。「九州では鏡を分割して、小さな地域の首長(王でなく、その下の村長みたいな)にまで分配された。このような小地域の首長墓は検出されにくいので、破鏡としない地域より九州の発見率は低くなっている。」鏡の副葬に関して異なった風習を持っている地域を比較する場合、それぞれの地域に流入した鏡の量に対して、現在見つかっている量の比率がほぼ等しいと仮定して議論するのは危険なような気がします。
汐井掛28号と外隈II区2号は両方とも飛禽鏡ですが、同じ鏡の破片なんでしょうか。だとすると、ALEXさんの考え方のほうが正解なのかもしれません。
>>またホケノ山については、国学院所蔵の画文帯2枚、大神神社蔵の長宜子孫内行花文鏡1枚がホケノ山出土のものであると言われて伝わっています。今回の発掘で出た画文帯2枚と内行花文鏡2枚と考え合わせると、1古墳で畿内が大きく突出することになります。もちろん内行花文鏡の製作地議論もありましょうが、上記の北部九州の例と比べて格差があまりに大きくはないでしょうか?
#盗掘を受けている古墳は全国どこでも多いので、ホケノ山だけ加えるのは、ずるいような・・・。内行花文鏡と方格規矩鏡は、平原の取り扱いもありますので、とりあえず外して考えました。
ホケノ山の今回出土の2面のうちの1面は「ホケノ山調査既報」を見ますと、小さな破片が二つだけですので、結局、ホケノ山の分は「1枚とちょっとだけ」ということになり、重さで比べても、畿内の方が突出しているとまでは言えないということになりませんでしょうか?
元の発言 [ Re: Title神獣鏡の鋳造法 ] お名前 [ 牛頭天王 ] 日付 [ 9月2日(日)19時41分55秒 ]
>> 一方、三角縁神獣鏡用としては葬具用として特別に新品の青銅を輸入していた可能性はないのでしょうか?
# その分だけ本場中国の鏡特有の調合をしたというなら、古来なかった技術が投入されたことにほかなりません。つまり弥生青銅器の製造技術の延長線上には無いという証明にほかならないでしょう。
元の発言 [ 内行花文鏡も加えるべきですか ] お名前 [ マルセ ] 日付 [ 9月2日(日)22時40分40秒 ]
こんばんは
>> 汐井掛28号と外隈II区2号は両方とも飛禽鏡ですが、同じ鏡の破片なんでしょうか。
# これまで別々に副葬された鏡片が接合できた例はないと思います。スクラップ扱いされていた破片を輸入したという説もあるくらいです。
いづれにせよ、この時期の九州の鏡は質量ともに、点数で数えたときの印象を大幅に下回るものです。
>> ホケノ山の今回出土の2面のうちの1面は「ホケノ山調査既報」を見ますと、小さな破片が二つだけですので、結局、ホケノ山の分は「1枚とちょっとだけ」ということになり、重さで比べても、畿内の方が突出しているとまでは言えないということになりませんでしょうか?
# あれ?「10点の破片が大きく2片に接合し」ですよ。
同じ論理でいくと九州も「1枚とちょっとづつ」になっちゃうんですが…
元の発言 [ Title神獣鏡の鋳造法 ] お名前 [ 牛頭天王 ] 日付 [ 9月1日(土)11時35分51秒 ]
>> また石に彫刻して型を作ったものもあると言う事になっていますが、量産向きだと思われるのにこの方法はどうして主流でなかったのでしょう。
#石よりも鋳砂、粘土の方が細かい模様を作ることが可能で修正、追加も出来る、 牛頭天王さんも記しているように母型を押し付ける(鏡そのものなら「踏み返し」)ことで量産が可能です。
#鋳砂ならなんどもつかえるし、中国では前漢の終わりころからそのようにして作ったそうです。
元の発言 [ Re: 倭国に中国人はいなかったのか? ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 9月3日(月)00時54分13秒 ]
>>
>>
>>
だから、魏の時代に日本との交流が途絶えたのですか?
一般に言えることは、官職が正式な訪問をする回数よりも
民間の交流の方が圧倒的に多いということです。
元の発言 [ Re: Title神獣鏡の鋳造法 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 9月3日(月)00時47分26秒 ]
>>
>>
>>
では、どちらがプログラミング能力で、どちらが器用といわれるのですか?
僕は調理師ですけど、これも一応技術かな?
料理も味付けと素材の加工といえると思うけど、
片方だけでは存在できないが。
調理の世界で言えば、片方だけでいけるのは、魚屋だけ
だと思いますが、それは今回の例でいえば、合金の含有
量のコントロールをいうのではないかな。
鏡を作る技術と銅鐸の技術との差異のことを言っている
とすると片手落ちじゃないかな?
だから例が悪いと指摘したのです。
元の発言 [ Re: ロストワックス&鋳砂 ] お名前 [ ALEX ] 日付 [ 9月2日(日)22時31分05秒 ]
>> >> ロストワックス法にしろ鋳砂法にしろ鏡のような片面は平らでいい物に何故適用しなければならないのでしょう。
>> # 文様をこまやかに転写する素材として蜜蝋が適切だからです。金属の雄型を作るより工作が容易でもあります。実際に蝋型や鋳砂で鏡を作っています。
三角縁神獣鏡にロストワックス製法ならではの美しい仕上がりの物が無いのは現実です。
ロストワックスなら踏み返し(複製)をやってももっと綺麗な仕上がりになるんじゃないですか?
ああ、出来が悪いのは粘土を使ったせい?
元の発言 [ Re: ロストワックス&鋳砂 ] お名前 [ 牛頭天王 ] 日付 [ 9月3日(月)06時08分11秒 ]
ロストワックス製法ならではの美しい仕上がりの物とは何ですか?
現実をお示しください。
元の発言 [ Re: 倭国に中国人はいなかったのか? ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 9月3日(月)01時14分54秒 ]
>>
>>
だから、僕が言ってるのは、中国人が日本で作った可能性
のことを言ってるのですよ。
魏の工人や呉の工人が、日本で交流して新しいデザインの
鏡を作ったという。
日本人も真似して作ってみても、同じようなデザインは
できないかもしれません。いくら、アメリカで日本の
アニメが人気でも、アメリカの漫画家がアメリカスタイ
ルの絵しか描かない、また描けないのと同じでしょう。
元の発言 [ Re: Title神獣鏡の鋳造法 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 9月3日(月)00時47分26秒 ]
>>
>>
どういう方法を使ったのか解らないと言うだけでは?
>>
>>
>>
作者が死にノウハウの伝承が行われない可能性は確かにありますね。
昔、韓国や中国と技術提携し、一定の水準の製品が出来るようになったからと言って技術者を引き上げたらとたんに品質が下がるなんてことは良くありました。
中国人や韓国人が勝手にコストダウンしたり、手抜きしたりするんですね。
±5%の許容誤差の部品でも日本人は±0を目指して管理をする。
抜き取りで2%位狂ってくると行程にチェックをいれて0に戻そうとする。
ところが中国人や韓国人は規格が5%以内と有るのだから抜き取り試験でも5%を越えなければ行程を見直す事はしない。
結果誤差が±5%を越える部品も出荷される訳です。
それで文句をいうと「中国ではこのレベルで文句を言われた事がない。」と言うんですね。
それで工場を海外に移転してもやはり日系の部品メーカーを使わざるを得ない。
>>
>>
>>
製品に対する思い入れやプライド、品質に関する哲学などがちゃんと伝わらなかった可能性はあります。
まさにそういう事ではないでしょうか。
>>
>>
>>
>>
>>
先月も書きましたがLSIが出来ればトランジスタは出来るんです。
同じシリコンをベースにしているのですから。
同じく青銅で銅鐸が作れれば鏡なんか朝飯前に作れた。
但し、品質にそれほど強い要求がなくクレームがなければ「陳」さんのように品質にプライドを持っていない人間は
コストダウンに走り、品質が下がっていくのは当然なのです。
>>
元の発言 [ Title神獣鏡の鋳造法 ] お名前 [ 牛頭天王 ] 日付 [ 9月1日(土)11時35分51秒 ]
はじめまして。先月より議論されている古代の鋳造技術について一言。
>> 私は粘土ではないかと思っていますが実際はどちらでしょう。
#鋳型の材料として真土(まね)と称する粘土と砂の混合したものが使用されていたようです。砂だけを使うのはもっと、もっと後世です。鋳型の重要な特性に通気性があります。鋳造時に発生するガスを逃がす必要があって、砂を混合するのは通気性を良くする意味合いもあります。
初期の出来の悪いホウ製鏡などは、ただ粘土に押し付けただけで鋳造していたと考えています。
それから、誰かが言っていた鏡のモデルに木型を使ったというのは考え難い。鏡背の意匠は「ヘラ押し法」と言ってヘラで彫り込んでいました。
>> 黒塚古墳の画紋帯神獣鏡の銘文なんかは粘土型に後から文字のはんこを押したように見えるんですがどんなもんでしょう。
#この鏡に銘文ありました?
一般に鋳型の文字は逆文字ですから、ハンコもあっておかしくないです。手書きが歴然としているものも、多いですが。
>> また石に彫刻して型を作ったものもあると言う事になっていますが、量産向きだと思われるのにこの方法はどうして主流でなかったのでしょう。
#石型も出土されていますね。性状が砂に近い砂岩が使われています。しかし、石と溶湯の相性が非常に悪いです。業界用語で「キラウ」とか「ハジク」などと言います。それに通気性もない。鋳造に使用したのでなく、別の用途だったでしょう。
で、銅鐸の石型は湯が接触する内側には、粘土、砂などを内張りしています。鋳型の補強としていたようです。
蛇足ですが、鋳造技術面から考えると、鏡よりも銅鐸の鋳造のほうがはるかに難易度が高いですよ。
元の発言 [ Re: 倭国に中国人はいなかったのか? ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 9月3日(月)08時48分56秒 ]
>>
>>
>>
>>
彼らの子孫までが、後継者として残ったかどうか
わからないので、数代で無くなっても仕方ないで
しょう。
はじめて投稿します。
過去の論争に重複していましたらお許しください。
邪馬台国の位置を推定するのに里程にこだわることは反って邪馬台国を見失うことになるような気がします。
倭人は魏の使節を伊都国に留めて倭国の詳細な地理情報を隠しておきたかったのではないでしょうか。朝鮮の史記によれば倭国は古くから朝鮮半島南部にちょっかいを出していましたので、敵となるかもしれない相手に詳細な都の所在地を知られたくなかったために、水行十日陸行一月と表現することで距離を曖昧にし領土を誇張したのではないでしょうか。倭人が里を理解できないとの記述もありますが漢の時代から朝貢し朝鮮半島にも行き来していたのだから里を理解できる者が全くいないことの方が不自然です。
私は女王国は久留米から八女にかけての筑後平野南部にあったと思います。なぜなら、女王国に属する国々は女王国より北に位置していたわけですから、吉野ヶ里の集落規模が一国とすれば背振山地山麓や耳納山地山麓一帯にそういう国々が多数存在したと思えるからです。
ともあれ文献の解釈だけでは水掛け論になるので筑後平野南部から吉野ヶ里を上回る規模の遺構が見つかることを期待しています。
元の発言 [ Re: Title神獣鏡の鋳造法 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 9月3日(月)10時51分46秒 ]
>> 先月も書きましたがLSIが出来ればトランジスタは出来るんです。
>>
>> 同じシリコンをベースにしているのですから。
>> 同じく青銅で銅鐸が作れれば鏡なんか朝飯前に作れた。
>>
>>
LSIってのは、乱暴に言えばトランジスタの高度な固まり。
トランジスタの高度な固まりが作れて単固体が作れないなんて
おしゃるわけですか?
鋳造技術自体を、まったく理解されてませんね。
あなたの、問題にしているのは、ただのデザインのみです。
それが高度であることは、認めなければならない。
それから、文字の件ですが、センスのあるひとであればあるほど文字の読めない人がつくる場合両極端の結果が、出ると思います。
鋳造については、私のような素人が説明するのもなんですが、
あえて説明すると、型ぬき、湯渡り、ガス抜きこれに尽きるんです。
かたぬき、鏡の形状を見れば非常に簡単な物が多いと思います。
湯渡り、均一な銅魁から調合されているようです。
ゆえに、鋳込み温度の管理のみが問題でしょう。
鏡は、湯の巡りがよくない形だといえますか?
最後に、ガス抜き、極端なことを言うと鏡では気にする必要が無い。
写す面を上にして厚めに鋳造すれば型の通気はほとんど考えなくてよい。
空気に直接さらしてやればよいのだから。
もし表面に近いところ巣ができていれば、
磨く前に表面の黒皮部分を含めて厚く削ればよいだけ。
かなり乱暴で問題のある表現だけど、ある面熟練者のサポートが有れば初心者でも可能な物が多いといえる。
で、銅鐸、これはもう熟練者が音を上げかねない代物。
まず、湯渡り、これは大変薄いものの中に粘りの強い
湯を注ぎ込むんだから大変、大きさと薄さをみてまず途中で冷えて固まっちまうでしょうね。
型自体破損やすいと思う。
湯自体クズ銅のリサイクル品ならもっと大変。
成分が均一では、ありえない。
冷えて行く過程でどう粘性が変化するかここだけ書いても想像がつく。
次、型抜きこれも大変でしょうね。
けれしか書けない。
ガス抜き、さて如何でしょう。
どっかに巣が一個所でもできていたらおしまい。
わかりやすい例だとギターの中に何かコインでも落とした状態で引くとどうなる。
リカバリー方法などない。
こんな所です。
まあ、技術の消滅なんて幾つも有るじゃないですか。
船舶叱り、勾玉叱り、ETC
元の発言 [ 里程にこだわりすぎ ] お名前 [ 山川晴夫 ] 日付 [ 9月3日(月)13時14分17秒 ]
>> 倭人は魏の使節を伊都国に留めて倭国の詳細な地理情報を隠しておきたかったのではないでしょうか。
“張政が約20年も滞在した”というのに、倭人が地理を隠しておきたかったからとはどういうことですか?
小生のコメントを読みなおしてください。
倭人が隠したかったといっても、魏朝ではチャント調べたはずです。
元の発言 [ Re: Title神獣鏡の鋳造法 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 9月3日(月)10時51分46秒 ]
>> 先月も書きましたがLSIが出来ればトランジスタは出来るんです。
>>
>> 同じシリコンをベースにしているのですから。
>> 同じく青銅で銅鐸が作れれば鏡なんか朝飯前に作れた。
>>
日本では初めにトランジスタから製造を始め、次第に集積回路、LSIと順に技術を進展させていきました。
一方、韓国のサムソンやヒュンダイは初めに取り組んだのがLSIです。
外国からの技術導入によってメモリーの製造を始め、今ではICやらトランジスタも作るようになっている。
トランジスタ製造はこれから需要が大幅に伸びると思えないのにLSI作るよりやさしい技術だからやってみよう位で始めたのだと思いますよ。
>>
私、どこかで自分は技術屋だなんて言いましたっけ。
元の発言 [ 「邪馬壹国」 ] お名前 [ 紀 智明 ] 日付 [ 9月1日(土)09時08分55秒 ]
今日は。牛頭天王と名乗っています。
>> はじめまして、紀 智明です。
>> しばらくの間、この論争を読んできた。
>> 5月度に、里程についてかなり意見があったが、これについて、ひとつ。
>> なお、小生、
>> 邪馬壹国 九州・博多湾岸説
>> 里数値 短里説
>> です。
>> そうです、古田武彦先生の手法(結果ではありません)に全面賛成です。
古田武彦先生の手法については私もかなり評価しています。
初めて読んだ邪馬台国関係の本が「邪馬台国はなかった」なんで。(^^;
ここでの論争にも時々「邪馬台国はなかった」は利用させてもらっています。
ところで
>(結果ではありません)
とおっしゃっていますが結論が博多湾岸説では全く古田先生と同じような気がしますが?
それに論点が沢山有るとコメントが付けにくいです。
通説と古田先生の方法の違いを一点だけあげて、この所について議論したいといえば賛成反対のコメントが沢山つくんではないでしょうか。
元の発言 [ Re: ロストワックス&鋳砂 ] お名前 [ ALEX ] 日付 [ 9月3日(月)06時42分22秒 ]
>> ロストワックス製法ならではの美しい仕上がりの物とは何ですか?
>> 現実をお示しください。
殷の時代の遺物とか・・・あまり適切では有りませんかね。
ホケノ山の画紋帯神獣鏡なんかどうでしょう。
石型鋳造とも言われていますが(私は石型であってほしいんですが)あのくらい美しいとロストワックス法で作られたと
言われても納得します。
これほどのものがかって倭人達が手に入れたことが有るなら、明帝が「好き物をやろう」と言って三角縁神獣鏡をくれても
「もっといいものもってるもんね。」てなことになりませんか?
私はホケノ山の鏡を見て△鏡は卑弥呼の鏡ではないと確信するようになりました。
100枚とも卑弥呼の墓の中にあるかも。
元の発言 [ Re: Title神獣鏡の鋳造法 ] お名前 [ ALEX ] 日付 [ 9月2日(日)18時57分49秒 ]
こんばんは。
>> # 原笵(陰)から複数の蝋原型を製作し、この蝋原型(陽)を真土に押し付けて鋳造用の笵(陰)を製作、この鋳造用の笵1個について1面の銅鏡を鋳造する方法です。蝋型製作は高温の青銅の湯を注ぐのとは違いますから、同笵を繰り返し使用しても原笵の損傷が少なく、多少の補修で続行可能であると考えられるものです。
#これは、誰かの怪しげな説を丸投げですね。§^。^§
博識、博学で聡明なALEXさんが納得して投稿したとは思えません。この工程の工法があったかなかった、ロストワックス工法の技術的議論はやめますが、もう一つだけ。
この工法で造った鏡の製作日数と、出来映えはどんなものだったでしょうか。何か、言及しておられますか?
>> また蝋原型には鈕孔がなく鈕孔用のブリッジは各々の鋳造用笵に付加されますので、同型鏡の大半で起こっている鈕孔方向がばらつく現象も説明がつきます。
#これまちがいです。説明で来ません。鈕穴方向のバラツキはこの工法以外でも同様に発生します。
それと、同型と同笵ごっちゃにしていませんか。
元の発言 [ Re: Title神獣鏡の鋳造法 ] お名前 [ 牛頭天王 ] 日付 [ 9月2日(日)19時41分55秒 ]
>> 先月のおにりんさの投稿に「半島からスクラップ銅が輸入されていた」との話がありました。
>> このスクラップと言うのはリサイクル品で錫の含有量が少なくなったものでは有りませんか?
>> 好んだ訳ではなくやむを得ず仕方が無く錫含有量が少なかった。
#「吉野ヶ里」で細形銅矛鋳型片が出土したトレンチのすぐ北側の土壙から炭など鋳造遺物と一緒に高純度の錫槐が出土しており、
#すでに、青銅の成分調整を行っていたと考えられます。
元の発言 [ Re: ロストワックス&鋳砂 ] お名前 [ 牛頭天王 ] 日付 [ 9月3日(月)17時12分31秒 ]
>> >> ロストワックス製法ならではの美しい仕上がりの物とは何ですか?
>> >> 現実をお示しください。
>> 殷の時代の遺物とか・・・あまり適切では有りませんかね。
#殷の時代はロストワックス法じゃないじゃないですか。
#私が数年前にロストワックス法じゃないかとレスしたのは、
#石鋳型が大量に出土している春日丘陵がかつて櫨蝋の産地だことからの思いつきだったけど、
#皆さんの詳しいレス、勉強になりました。
元の発言 [ Re: Title神獣鏡の鋳造法 ] お名前 [ 三河 太郎 ] 日付 [ 9月1日(土)14時05分27秒 ]
>> この鏡に銘文ありました?
#方枚の吾作明鏡自有紀□□公宜子の銘があります。
はんこみたいというのは方枚の形のことでしょうか?なら、ちょっと違います。
元の発言 [ Re: ロストワックス&鋳砂 ] お名前 [ 牛頭天王 ] 日付 [ 9月3日(月)17時12分31秒 ]
でした。NHKでやってた。
元の発言 [ Re: Title神獣鏡の鋳造法 ] お名前 [ 三河 太郎 ] 日付 [ 9月3日(月)21時01分07秒 ]
>> これは、誰かの怪しげな説を丸投げですね。§^。^§
# なぜ怪しげだと考えるのですか?
>> これまちがいです。説明で来ません。鈕穴方向のバラツキはこの工法以外でも同様に発生します。
# なぜ説明できないのか指摘してください。
また、どのような工法で発生しうるのかも解説してください。
>> それと、同型と同笵ごっちゃにしていませんか。
# 何故そのように仰るのですか?
元の発言 [ Re: ロストワックス&鋳砂 ] お名前 [ 牛頭天王 ] 日付 [ 9月3日(月)17時12分31秒 ]
>> ホケノ山の画紋帯神獣鏡なんかどうでしょう。
#ホケノ山の画紋帯神獣鏡をロストワックス法でどうやって作るのですか?
元の発言 [ Re: Title神獣鏡の鋳造法 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 9月3日(月)00時47分26秒 ]
こんばんわ
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
#ありゃま。プログラムの話だったんですか?
”LSIを作る半導体技術を持っている人が・・・”
っておっしゃったから実装とかそういう技術かと思いましたよ。
確かにプログラマーと工芸家では全くの畑違いですね。
・・・というか、手先の器用さをうんぬんするような話ではない。工芸家は指先の技術だし、プログラマーはつまるところ頭脳労働です。
私が言いたかったのは工芸と工業の違いがあっても手先が器用という点では共通したものがあると言いたかったのです。
>>
>>
#まぁ確かによい例とは言えんわなぁ。
元の発言 [ Re: 倭国に中国人はいなかったのか? ] お名前 [ yaohide ] 日付 [ 9月3日(月)12時31分37秒 ]
>> 彼らの子孫までが、後継者として残ったかどうか
>> わからないので、数代で無くなっても仕方ないで
>> しょう。
# yaohideさんは我々の「三角縁神獣鏡の制作期間は比較的短い」という考えに同意してくれているのですか?
元の発言 [ Re: Title神獣鏡の鋳造法 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 9月3日(月)10時51分46秒 ]
>> 先月も書きましたがLSIが出来ればトランジスタは出来るんです。
>>
え〜っと、この発言はおにりんさんの勇み足と思います。
青銅の鋳造技術については知りませんので、
銅鐸と鏡の技術論については発言を控えます。
ですが、LSIとトランジスタの技術については多少は知っていますので、
上記発言は不適当だと断言できます。
「LSIが出来ればトランジスタは出来ます。」っていうか、
LSIが出来た時には付随的にトランジスタもできちゃっています。
LSIってのは、ものすごく大雑把に言えば、
シリコンベース上にトランジスタ/抵抗/キャパシタ/etcを作り
そられの素子を配線で繋いだシロモノです。
要するに、LSIが出来た時にはトランジスタも出来てるんです。
そうじゃなければ、LSIは動作しません。
銅鐸と鏡に関する青銅の鋳造技術と、
LSIとトランジスタに関するシリコン加工技術の間に
どれだけの類似性が見いだせるかは、浅学ゆえ、存じませんが
「LSIが出来ればトランジスタは出来ます。」これ、本当です。
元の発言 [ Re: Title神獣鏡の鋳造法 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 9月3日(月)23時41分40秒 ]
おにりんさん 今晩は、由です。
引用の順番を変えています。
>>
>>
これについては同意いたします。ですが・・・、
>>
>>
>>
LSIの制作技術はトランジスタの制作技術の延長線上にあります。
LSIが作れれば、トランジスタは、嫌だといっても、出来ちゃっています。
青銅鋳造技術を知らないので、コメントしづらいのですが、
技術の系統論に使うには Tr→LSI は不適当な例ではないでしょうか。
元の発言 [ Re: Title神獣鏡の鋳造法 ] お名前 [ ALEX ] 日付 [ 9月1日(土)18時55分13秒 ]
ALEXさん本当にお久し振りです。
>> >> この鏡に銘文ありました?
>> #方枚の吾作明鏡自有紀□□公宜子の銘があります。
#確認しました。私、見落としていました。御教示ありがとうございました。
元の発言 [ Re: Title神獣鏡の鋳造法 ] お名前 [ ALEX ] 日付 [ 9月3日(月)22時05分21秒 ]
こんばんは。
>> # なぜ怪しげだと考えるのですか?
#この工法をどれくらいご存知の方の説なのでしょうか?
実際に製作可能か否かの検証はできているのでしょうか。
手間ひまをかけて、出来映えはどうだったのでしょうか。
机上で考えだけのような気がします。
全文を読めばひょっとすると、納得できる部分もあるかも知れませんが。
>> # なぜ説明できないのか指摘してください。
>> また、どのような工法で発生しうるのかも解説してください。
#この工法特有のものではありません。モデルを鏡そのもの、鋳型を真土でつくる鋳造法、一般に言われる「踏み返し法」でも鈕穴の方向、形状はバラツキます。鋳物師のやり方一つでどうにでもなります。
蛇足ですが、ロストワックス法では鈕穴の方向を一定にすることが、出来ます。千数百年前にはやられていたかどうかは疑問ですが、
如何でしょうか。
元の発言 [ Re: Title神獣鏡の鋳造法 ] お名前 [ 三河 太郎 ] 日付 [ 9月4日(火)00時07分59秒 ]
>> 机上で考えだけのような気がします。
# そうおっしゃる理由がわかりません。理由を仰ってください。
>> この工法特有のものではありません。モデルを鏡そのもの、鋳型を真土でつくる鋳造法、一般に言われる「踏み返し法」でも鈕穴の方向、形状はバラツキます。鋳物師のやり方一つでどうにでもなります。
# 踏み返しの場合、全般に鈕孔方向は一致します。原鏡の鈕孔の痕跡が笵に出ますので修正の痕跡が残るか、鈕孔位置を一致させるかになるはずです。明確にブリッジを渡す目印が出来ているのだから、意図的に違う位置に鈕孔を設けようとしない限り鈕孔方向が一致することになる訳です。
>> 蛇足ですが、ロストワックス法では鈕穴の方向を一定にすることが、出来ます。千数百年前にはやられていたかどうかは疑問ですが、
# 意識的に位置決めをしておけば方向を一致させることは可能でしょう。問題は、蝋型の場合は必然的に鈕孔方向が特定されないということと、同型鏡に鈕孔方向のばらつきがあるという事実であります。
裏を返せば、意識的に鈕孔方向を統一させようとしなければ、鈕孔方向はばらつくことになります。
# 私が同笵鏡と同型鏡を混同しているというのは、どういう根拠でそう仰るのですか?明確に根拠をお示しいただきたいと思います。
元の発言 [ Re: 倭国に中国人はいなかったのか? ] お名前 [ ALEX ] 日付 [ 9月3日(月)22時55分36秒 ]
>> # yaohideさんは我々の「三角縁神獣鏡の制作期間は比較的短い」という考えに同意してくれているのですか?
もともと青銅技術は中国から伝わったものであるし
どの時点で倭鏡というか、三角縁神獣鏡にしても同じで
倭国にいた中国人が作ったものと、中国にいて
中国人が作ったものの区別がつくのでしょうか?
製作期間にしても、鏡に対する意識がわからないので
一概にいえないと思うのです。
どなたかが言われた、花輪のようなものというのも
極端ではあるが、言えないこともない。
しかし、家宝として伝世させたかもしれない。
まだ、その判断がつきかねています。
元の発言 [ Re: ロストワックス&鋳砂 ] お名前 [ ALEX ] 日付 [ 9月3日(月)22時09分10秒 ]
>> >> ホケノ山の画紋帯神獣鏡なんかどうでしょう。
>> #ホケノ山の画紋帯神獣鏡をロストワックス法でどうやって作るのですか?
ホケノ山の画紋帯神獣鏡がロストワックス法で作られたと主張したい訳ではありません。
石膏によるロストワックス法でやればあの鏡の肌のきめ細かさやくっきりした襞の線などが可能ですが、粘土では出せないと言いたいのです。
一番肌が綺麗になるのは石か金属の型ですけどね。
型の段階で磨けますから。
元の発言 [ Re: Title神獣鏡の鋳造法 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 9月4日(火)00時36分21秒 ]
>> LSIの制作技術はトランジスタの制作技術の延長線上にあります。
>>
>>
大きくても小さくてもトランジスタはトランジスタ。
LSIはトランジスタが沢山集まったものと理解すべきです。
接合型トランジスタは確かに製法がちょと違うけれど、MOSトランジスタはLSIの製法で作られている。
元の発言 [ Re: Title神獣鏡の鋳造法 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 9月3日(月)23時41分40秒 ]
>> #ありゃま。プログラムの話だったんですか?
>> ”LSIを作る半導体技術を持っている人が・・・”
>> っておっしゃったから実装とかそういう技術かと思いましたよ。
>>
>>
>>
>>
>>
>> 私が言いたかったのは工芸と工業の違いがあっても手先が器用という点では共通したものがあると言いたかったのです。
>>
>>
>> #まぁ確かによい例とは言えんわなぁ。
>>
>>
>>
>>
>>
>>
鋳造を馬鹿にするにもほどがある。
だったらデザイン彫刻といいなさい。
もっとも、天才的なのが一人いれば良いレベルを絶対的とは、呆れ返る。
言ってることは、当時の職人や漢字が読める人がいない様に行っていることに気づかないんだから
元の発言 [ 「邪馬壹国」 ] お名前 [ 紀 智明 ] 日付 [ 9月1日(土)09時08分55秒 ]
こんにちは。EKです。
牛頭天王さんのおっしゃるように、
>> それに論点が沢山有るとコメントが付けにくいです。
>> 通説と古田先生の方法の違いを一点だけあげて、この所について議論したいといえば賛成反対のコメントが沢山つくんではないでしょうか。
です。で、勝手に論点を人口問題に絞りますと、
>> 実際の国王の居場所がどこで、そこまで行くにはどれくらいかかるか、人口(兵
>> 力)はどれくらいかを調べるのは、軍事司令官としては、最も初歩的な情報収集の事
>> 項のはず。
>> 以上の二人の記録をみると、“里数値が誇大だ”、とか“南は東の誤りだ”などと
>> いうことは考えられない。
#当然、“戸数が誇大だ”などということは考えられない、わけです。
そうすると単純な私は、福岡平野を中心とする邪馬壱国に7万戸=35万人を想定することになります。これは、まあどうにでもなるとして、糸島平野に収まる奴国に2万戸=10万人と、を想定することになりますが、これはかなり難しいのではないかと考えています。
この問題をどうお考えですか。
戸数問題について kouji さんが優れた議論を展開しています。
http://www.d8.dion.ne.jp/~kouji-kd/hougen/7Days/kosu.html
ちなみに、わたしは九州説で、古田武彦を高く評価しています。
元の発言 [ Re: Title神獣鏡の鋳造法 ] お名前 [ 三河 太郎 ] 日付 [ 9月1日(土)14時05分27秒 ]
こんばんは。
ご教授有難う御座います。さすが詳しい方がいらっしゃいますね。質問してよかった。
>> #鋳型の材料として真土(まね)と称する粘土と砂の混合したものが使用されていたようです。砂だけを使うのはもっと、もっと後世です。鋳型の重要な特性に通気性があります。鋳造時に発生するガスを逃がす必要があって、砂を混合するのは通気性を良くする意味合いもあります。
>> 初期の出来の悪いホウ製鏡などは、ただ粘土に押し付けただけで鋳造していたと考えています。
>> それから、誰かが言っていた鏡のモデルに木型を使ったというのは考え難い。鏡背の意匠は「ヘラ押し法」と言ってヘラで彫り込んでいました。
>> >> 黒塚古墳の画紋帯神獣鏡の銘文なんかは粘土型に後から文字のはんこを押したように見えるんですがどんなもんでしょう。
>> #この鏡に銘文ありました?
ALEXさんが答えてくださいました。一文字一文字四角い枠で囲われた不鮮明な文字が書いてあります。
>> 一般に鋳型の文字は逆文字ですから、ハンコもあっておかしくないです。手書きが歴然としているものも、多いですが。
>> >> また石に彫刻して型を作ったものもあると言う事になっていますが、量産向きだと思われるのにこの方法はどうして主流でなかったのでしょう。
>> #石型も出土されていますね。性状が砂に近い砂岩が使われています。しかし、石と溶湯の相性が非常に悪いです。業界用語で「キラウ」とか「ハジク」などと言います。それに通気性もない。鋳造に使用したのでなく、別の用途だったでしょう。
神獣鏡の中には乳と呼ばれる突起を沢山持っているものがありますが、乳の部分などを使ってガス抜きをする事は不可能でしょうか。
プラスチックの射出成型のように空気を抜く方法などが当時はなかった?・・・のでしょうね。(汗
>> で、銅鐸の石型は湯が接触する内側には、粘土、砂などを内張りしています。鋳型の補強としていたようです。
そうですか銅鐸は石型を使用したと聞いていたので当然ガス抜き技術はもっていたのじゃないかと思ってました。
>> 蛇足ですが、鋳造技術面から考えると、鏡よりも銅鐸の鋳造のほうがはるかに難易度が高いですよ。
銅鐸鋳造技術があれば鏡くらい朝飯前。問題は意匠だけですね。
元の発言 [ Re: 倭国に中国人はいなかったのか? ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 9月4日(火)11時45分14秒 ]
>1)三角縁神獣鏡の青銅の鉛同位体比は、中国のおそらく、
> 徐州のものを示している可能性が非常に高い。
> どちらにせよ、弥生時代中期の半島産鉛でもなけれ
> ば、弥生後期の、華北の鉛でもない。
鉛同位体比は、徐州の可能性が高いのでしょう。となると
可能性としては、中国産か、もしくは同じような鉛同位体比を
もつ華北や半島産以外の場所から採ってきた銅を使った。
現在のところ可能性の高いのは、徐州の銅であると考える方が
普通でしょう。すると、前から言われている1トンものインゴット
を持ってきたかという話になりますが、それは完成品を持ってきたか
原料を持ってきたかの違いでしかないので、どちらとも言えない。
何も一度に持ってくる必要はないのでね。1トンというとすごい量に
聞こえるが、500kgくらいなら、ちょっと魚でも獲ってくれば
結構な重さになるのでね。(水は結構重いですから)
それもあって、水路の発達した地域の方が、都にふさわしいと思って
いるのですが。マキムクは海から遠すぎる。
中国の黄河や長江と違って、日本の川は流れが急で、川幅が狭い。
>それから、
>2)同様の技術様式が、3世紀後半から末の西晋代の鏡
> に現れ、銘文も共通(同出徐州、師出洛陽)するの
> で、西晋代にも活躍した鏡工人と同一、ないし同じ
> 系譜の工人が作ったものであると考えられる。
これは、デザイン技術の流行と考えてしまえば、当たり前なので
これでは確定はできない。(流行を知っている工人が一人でも、
倭国にくればできる。すでに工人は来ているのだから。)
元の発言 [ Re: 「邪馬壹国」 ] お名前 [ 牛頭天王 ] 日付 [ 9月3日(月)16時49分33秒 ]
>> それに論点が沢山有るとコメントが付けにくいです。
※※ 今回は、「三国志」もには、“誤りなどない”という観点から、それを裏付ける資料などを集めましたので、項目的にはかなりの数になりましたが、どれかがかけても、陳寿の正しさを立証できないと考えたためです。
>> >(結果ではありません)
>> とおっしゃっていますが結論が博多湾岸説では全く古田先生と同じような気がしますが?
※※ チョット言葉が足りませんでしたが、「三国志」だけでなく、古田先生の全著作について、(結果ではありません)と記したものです。
「三国志」に関しては、確かに結果もまったく同じです。
>> 通説と古田先生の方法の違いを一点だけあげて、この所について議論したいといえば賛成反対のコメントが沢山つくんではないでしょうか。
※※ 通説とか定説というのは、小生まったく考えていません。
これを全面的に否定しているのが、古田先生ですので。
通説とか定説にこだわっている方が、それを提示して反論される(根拠を明示して)ことを期待しているのです。
元の発言 [ Re: 里程にこだわりすぎとは? ] お名前 [ 紀 智明 ] 日付 [ 9月3日(月)15時43分22秒 ]
貴殿の投稿を見ずに投稿しましたので、確認いたしました。
私は研究者でもなんでもない歴史愛好家といったところですが、本意が伝わらなかったようなので再投稿します。
先ず貴殿の説に関して反論する資料も知識も持ち合わせておりませんが、拝見するに木左敬久氏の考えに基づいての意見と推察します。これは晋書を根拠にしてあることですから編纂された時代が6〜7世紀とのことですので、その信憑性が別途議論されることと考えます。
また、博多湾岸説も委奴国王印が志賀島から出土しているためありえないことではないと思いますが個人的な見解としましては、目と鼻の先である伊都国の一大卒の存在や投馬国の水行二十日、及び狗奴国との全体的な整合性が取れないような気がします。
次に私が里程にこだわりすぎではないかという趣旨は、そもそも邪馬台国の位置問題は日本の国家形成すなわち大和朝廷の成立過程を解き明かすことが目的であろうと思います。
近畿説では倭国の大乱を経て邪馬台国が奈良盆地に成立し、その後の大和朝廷に発展していってめでたしめでたしとなりますが、九州説を唱える場合、邪馬台国がその後東遷したのかあるいは大和朝廷に統合されたのかという問題に直面します。
私の言わんとするのは邪馬台国が九州の何処かというより倭国から日本国への政権交代がいつ頃どのような過程を経たのかを究明することにより必然的に邪馬台国が九州にあったという定説を導きだす方が先決ではないかと思うのです。九州の何処かの議論はそれからでも遅くはないのではないかと。(比定しても発掘調査するすべがない)
また、論より証拠と言いますが、本来なら魏誌が証拠になってよいのですが、いかようにも解釈できる証拠では証拠の役割を発揮できません。「〜であるはず」とか「はずがない」といった憶測で結論を導いても、同じ手法で切り返されてしまうでしょう。
従って、多数の状況証拠を集めて邪馬台国九州説を肉付けし検証して行かないことには近畿説に押し込まれてしまうのではないでしょうか。
因みに私も古田説の多くを支持しておりまして、倭国が少なくとも磐井が討たれるまでは存続したのではないかと思っております。そしてその痕跡が神籠石遺跡群ではないのかと。
とりとめもないことを長々と書きましたが、大論争の意に添わないような気がしますのでこの辺で失礼します。
元の発言 [ Re: 里程にこだわりすぎとは? ] お名前 [ 山川晴夫 ] 日付 [ 9月4日(火)16時13分52秒 ]
>> 近畿説では倭国の大乱を経て邪馬台国が奈良盆地に成立し、その後の大和朝廷に発展していってめでたしめでたしとなりますが、九州説を唱える場合、邪馬台国がその後東遷したのかあるいは大和朝廷に統合されたのかという問題に直面します。
※※ 日本書紀の継体紀に、「磐井の反乱」があります(527年)。
このとき、継体が、総大将である物部麁鹿火大連に指示したことに、
長門以東は、朕之を制らむ。
筑紫以西は、汝之を制れ。
とある。
これは、何を意味するのだろうか。
少なくとも、大和朝廷は、中国地方以西は、勢力下にないということを告白している。
六世紀において、九州は勢力下にないというのに、“倭国の大乱を経て邪馬台国が奈良盆地に成立し”ということは、成り立たないのではないか。
>> 九州説を唱える場合、邪馬台国がその後東遷したのかあるいは大和朝廷に統合されたのかという問題に直面します。
※※ これは、別に論議をしなければならないとは考えますが、今回は、三世紀に焦点を当てましょう。
三世紀が決まらずに、その後の論議をしても……。
元の発言 [ Re: 倭国に中国人はいなかったのか? ] お名前 [ yaohide ] 日付 [ 9月4日(火)15時42分18秒 ]
>> 現在のところ可能性の高いのは、徐州の銅であると考える方が
>> 普通でしょう。すると、前から言われている1トンものインゴット
>> を持ってきたかという話になりますが、それは完成品を持ってきたか
>> 原料を持ってきたかの違いでしかないので、どちらとも言えない。
徐州の銅なら魏の時代は敵対関係にあった呉の銅と言う事になり、入手できたのは呉が滅びた265年以降の物と言う事になりますね。
紀年鏡と言うのはすごく悩ましい。
鏡が注文生産だったとすればカスタマーの生年月日を入れたとか。
>> 何も一度に持ってくる必要はないのでね。1トンというとすごい量に
>> 聞こえるが、500kgくらいなら、ちょっと魚でも獲ってくれば
>> 結構な重さになるのでね。(水は結構重いですから)
そうですね。50kgの人間が20人来ればいいわけだから。
一人10kgの銅抱えて100人やって来てもいい。たいした事はない。
>> それもあって、水路の発達した地域の方が、都にふさわしいと思って
>> いるのですが。マキムクは海から遠すぎる。
小さな船なら大和川でも上れたのでは?
人は陸から船を綱で曳いてもいいような気がします。
筏なら浅くても大丈夫。
同様に九州でも筑後川を使ってかなりの山中に入れると思います。
筑後川の方が川としては大きいですから人が乗ったまま遡上できたと思いますが。
>> >それから、
>> >2)同様の技術様式が、3世紀後半から末の西晋代の鏡
>> > に現れ、銘文も共通(同出徐州、師出洛陽)するの
>> > で、西晋代にも活躍した鏡工人と同一、ないし同じ
>> > 系譜の工人が作ったものであると考えられる。
>> これは、デザイン技術の流行と考えてしまえば、当たり前なので
>> これでは確定はできない。(流行を知っている工人が一人でも、
>> 倭国にくればできる。すでに工人は来ているのだから。)
「師出洛陽」は「私の先生は洛陽出身だよ。」と言っているだけじゃないでしょうか?
洛陽出身の鏡職人が日本に来て倭人の指導をしていたと解釈しても問題ないでしょう。
だからこれも魏鏡とする決め手にはならない。
年号鏡が何とも・・・
ただ三角縁の年号鏡って特に出来の悪いものが多いような気がしますけどどうでしょう。
別の正当な魏鏡の銘文をコピーしたなんていうのはあり?
元の発言 [ 青銅の成分調整 ] お名前 [ オヤジッチ ] 日付 [ 9月3日(月)21時17分08秒 ]
>> >> 先月のおにりんさの投稿に「半島からスクラップ銅が輸入されていた」との話がありました。
>> >> このスクラップと言うのはリサイクル品で錫の含有量が少なくなったものでは有りませんか?
>> >> 好んだ訳ではなくやむを得ず仕方が無く錫含有量が少なかった。
>> #「吉野ヶ里」で細形銅矛鋳型片が出土したトレンチのすぐ北側の土壙から炭など鋳造遺物と一緒に高純度の錫槐が出土しており、
>> #すでに、青銅の成分調整を行っていたと考えられます。
ご教授有難う御座います。
なるほど倭国内で錫の成分調整が出来たということはクズ銅だけ輸入して、
三角縁鏡のような割と細かい彫刻の鏡に対しては錫を多くして鋳造しやすく
するなんて芸当も倭国内で可能だった訳ですね。
元の発言 [ Re: 倭国に中国人はいなかったのか? ] お名前 [ yaohide ] 日付 [ 9月4日(火)01時39分04秒 ]
>> どなたかが言われた、花輪のようなものというのも
>> 極端ではあるが、言えないこともない。
陳葬儀社をよろしく! v ^_^)
元の発言 [ Re: Title神獣鏡の鋳造法 ] お名前 [ 牛頭天王 ] 日付 [ 9月1日(土)19時34分41秒 ]
>> 神獣鏡の中には乳と呼ばれる突起を沢山持っているものがありますが、乳の部分などを使ってガス抜きをする事は不可能でしょうか。
# 乳がガス抜き穴を隠す意匠だという説もあります。乳の先端にバリが発見された例もあるとのことで、現実性があります。
>> 銅鐸鋳造技術があれば鏡くらい朝飯前。問題は意匠だけですね。
# いいえ。大型の立体造形の難易度と細かい半肉彫りを鋳出す難易度は異質のものでしょう。
鉛と錫の混合比問題もあり、従来の日本列島に無かった異種の技術が投入されている事実は歴然としています。
元の発言 [ Re: Title神獣鏡の鋳造法 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 9月4日(火)11時48分37秒 ]
おにりんさん 今晩は、由です。
この件は、本掲示板の趣旨と違ってきてしまっていますので、この発言で最後にします。
> へえー、トランジスタって、露光とエッチングで作るんですか?そりゃすごい。
> じゃあ、普通のトランジスタって、マスク何枚くらい使うんですか?アルミは何層ですか
ようやっと、おにりんさんの仰っている事がわかりました。
おにりんさんの言わんとする「トランジスタ」って
プレーナー型トランジスタの事じゃなかったんですね。
であれば、おにりんさんの主張もわかります。
トランジスタは、点接触型→接合型(成長型→合金型→拡散型)→プレーナー型
と進化してきています。現在の一般的なトランジスタはプレーナー型です。
プレーナー型 以降は、プレーナー型→IC→MSI→LSI と発展してきています。
点接触型/接合型/プレーナー型は、確かに系統の違う技術ですが、
プレーナー型 以降 LSIまでは、同系統の技術の延長線です。
現在の普通のトランジスタは、MOSでもバイポーラでも、プレーナー型で作られています。
当然、露光とエッチングで作られます。マスクの層数は個々の製品で異なるものと思います。
以下はバイポーラトランジスタの例ですが、参考になるかと思います。
http://www.infineon.com/jp/products/wireless/sieget/c9806j.pdf
配線層は、通常は素子からボンディングパッドまで配線すれば良いだけなので、1層ですが
上記の製品では Al/Ti-Pl-Au の2層になっているようです。
現在、普通に「トランジスタ」と言えばプレーナー型の事をいいますので、おにりんさんが、
それ以前の点接触型や接合型のトランジスタの事を言っているとは気がつきませんでした。
# 普通に「ペン」とだけ言って「羽ペン」の事を言っていたみたいなものですね。
元の発言 [ Re: Title神獣鏡の鋳造法 ] お名前 [ ALEX ] 日付 [ 9月4日(火)00時40分32秒 ]
ALEXさんこんばんは。
あなたの仰る岸本さんとは岸本直文氏のことですか。間違いなければ、この工法とは、俗に「2次笵ロストワックス法」と呼ばれるものでよろしいですね。間違いなければ、これの位置付けや、評価がわかりましたので議論の余地はありません。打ち切りましょう。
最後に、あなたからの質問にお答えして。
>> # そうおっしゃる理由がわかりません。理由を仰ってください。
#理由?単純です。この工法で物が出来るか否かの検証が出来ていますか?検証の出来ていないものは、あくまでも仮説、机の上です。これが、わたしの「物作り」に対するスタンスです。
そして、お尋ねしたのに答えが聞けなかった、「製作日数と出来映え」についてはもうレス不要です・
>> # 私が同笵鏡と同型鏡を混同しているというのは、どういう根拠でそう仰るのですか?明確に根拠をお示しいただきたいと思います。
#いつ『あなたが』と言いましたか?!!失礼センバン!!
で、あなたは「同型鏡への適用」と紹介され、わたしはそれに興味を持ったわけです。ところがあなたの説明された文章には『・・・、同笵を繰り返し使用しても原笵の損傷・・・』これは本当に范ですか?。一般にはモデル(型)です。
そして、このような工法で鋳造した鏡は「同笵から作った形状の同じモデルから鋳造した鏡」であって「同型鏡」ではないでしょう。
長い間、お付き合いいただき感謝!!
元の発言 [ Re: 「邪馬壹国」 ] お名前 [ EK ] 日付 [ 9月4日(火)13時10分04秒 ]
>> です。で、勝手に論点を人口問題に絞りますと、
>> >> 実際の国王の居場所がどこで、そこまで行くにはどれくらいかかるか、人口(兵
>> >> 力)はどれくらいかを調べるのは、軍事司令官としては、最も初歩的な情報収集の事
>> >> 項のはず。
>> >> 以上の二人の記録をみると、“里数値が誇大だ”、とか“南は東の誤りだ”などと
>> >> いうことは考えられない。
>> #当然、“戸数が誇大だ”などということは考えられない、わけです。
でも私は魏使や郡使が奴国や邪馬台国、狗奴国の戸数を数えて記載したとは思えません。
千戸、二千戸なら目視で数える事も可ですが万を越えると難しくなります。
平らな所に並んでいる家だけじゃないですから。
この辺は倭人からの伝聞だったのではないかと推測します。
で倭人が戸数と人口を間違えて魏使に伝えた・・かも。(~_~;
あるいは倭人が自国を大国に見せるため多めの戸数を教えた。
もしくは魏側に何らかの都合で多めに書く理由があった。
など妄想を廻らせてます。
元の発言 [ Re: Title神獣鏡の鋳造法 ] お名前 [ 三河 太郎 ] 日付 [ 9月4日(火)20時45分00秒 ]
>> あなたの仰る岸本さんとは岸本直文氏のことですか。間違いなければ、この工法とは、俗に「2次笵ロストワックス法」と呼ばれるものでよろしいですね。間違いなければ、これの位置付けや、評価がわかりましたので議論の余地はありません。打ち切りましょう。
# 全く話が見えないまま一方的に打ち切られても困ります。「2次笵ロストワックス法」の位置付けと評価とは何ですか?
>> いつ『あなたが』と言いましたか?!!失礼センバン!!
# 9月3日(月)21時01分07秒の書き込みで、私の発言に対して
>> それと、同型と同笵ごっちゃにしていませんか。
とお書きです。これは『私が』と言っているのではないのですか?
>> で、あなたは「同型鏡への適用」と紹介され、わたしはそれに興味を持ったわけです。ところがあなたの説明された文章には『・・・、同笵を繰り返し使用しても原笵の損傷・・・』これは本当に范ですか?。一般にはモデル(型)です。
# 同一笵から複数の蝋雄型を製作する際の笵傷進行です。
>> そして、このような工法で鋳造した鏡は「同笵から作った形状の同じモデルから鋳造した鏡」であって「同型鏡」ではないでしょう。
# それは定義の問題であって、岸本、福永ら現役の学者が同型鏡に分類している以上デファクトスタンダードでありましょう。少なくとも同笵で鋳造した鏡でないなら同笵鏡ではないのであって、同型と同笵ごっちゃにしているという指摘は当らないものです。
元の発言 [ Re: トランジスタとLSI ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 9月4日(火)22時00分08秒 ]
おにりんさん 今晩は、由です。
> この件は、本掲示板の趣旨と違ってきてしまっていますので、この発言で最後にします。
舌の根も乾かぬうちに、またもやオフトピックな発言で申し訳ありません。
>>
まあ「3年一昔」といわれる業界ですから・・・。
>>
>>
>>
>>
>>
http://www.infineon.com/jp/products/wireless/sieget/c9806j.pdf
これは1998年の文書ですので、半導体業界風に言えば「一昔前」の技術になりますが、
エミッタウィンドウ形成が0.5μmリソグラフィで、実効エミッタ幅が0.25μm
となっています。
>>
>>
>>
上記URLを見ていただければ分かりますが、抵抗成分減少のため2層配線を使い
キャパシタ成分減少のためタングステンプラグ技術を使って絶縁層厚をかせいでいます。
まさに最新LSIのテクノロジーを利用しまくっています。
上記製品ではありませんが、配線層でインピーダンスマッチングをおこなっている製品も出ています。
>>
>>
>>
これは、青銅鋳造技術のお話ですね。
青銅鋳造に関しては、私はド素人ですので、皆さんのご意見を拝聴したいと思います。
トランジスタ製造技術とLSI製造技術が、銅鐸鋳造技術と青銅鏡鋳造技術の
アナロジーとしては不適当であろう、という事がご理解いただければ、満足です。
元の発言 [ 「邪馬壹国」 ] お名前 [ 紀 智明 ] 日付 [ 9月1日(土)09時08分55秒 ]
>> 2 正史とは
>> 中国は歴代、夷蛮の国とは、常に交戦状態になったり、和睦したりを繰り返してきている。
>> その最たるものが匈奴だろうが………。
>> となると、倭国と交戦状態になるか、あるいはどこかと戦争するようになったときに、倭国の支援を求めるというような状態をいつも考えていたはず。
(中略)
>> 正史は、単なる観光案内ではなく、きわめて政治的・軍事的な面をもっていること忘れてはならないはずで、これを考えると、張政(後述)の見聞した報告書を利用しないはずがない。
一軍を率いる将が、もっぱら正史を頼りに具体的な作戦を計画・立案すると思っているわけですかあ?
それにね、正史・正史というけれど、三国志はもともと私撰の書。陳壽の死後、勅命により写本を作成して宮中に収めることになったが、その理由は、「辭多勸誡、明乎得失、有益風化」(辭は勸誡多く、得失を明かにし、風化に益する有り)です。
東夷伝の序文の結びには、東夷傳編纂の目的が書いてあります。「雖夷狄之邦、而俎豆之象存。中國失禮、求之四夷、猶信。故撰次其國、列其同異、以接前史之所未備焉」(夷狄之邦といえども、俎豆之象を存す。中國が禮を失えば、之を四夷に求むるとも、猶信ず。故、撰して其國を次ぎ、其同異を列して、以って前史之未だ備えざる所に接す)。どう読んでも、軍事的な目的に供しようとするところはないんですけどネェ。
>> 3 梯儁と張政
>> 景初2年(3年ではない)の朝貢に対する明帝の詔書がだされたが、その際に金印の他に膨大な下賜品を与えることにした。
魏志韓傳に、
「景初中、明帝密遣帶方太守劉[日斤]、樂浪太守鮮于嗣越海定二郡」(景初中、明帝密に帶方太守劉[日斤]、樂浪太守鮮于嗣を遣し海を越え二郡を定む)
とありますから、難升米たちが帯方郡を訪れたのが公孫氏滅亡前の景初二年六月なら、帯方太守は劉[日斤]の筈。しかし、魏志倭人傳には、
「景初二年六月、倭女王遣大夫難升米等詣郡、求詣天子朝獻、太守劉夏遣吏將送詣京都」(景初二年六月、倭の女王、大夫難升米等を遣わして郡に詣し、天子に詣り朝獻するを求む。太守劉夏、吏を遣わし將い送りて京都に詣す)
とあり、太守が劉夏に変わっています。この点からしても、日本書紀や各種類書所引の魏志や後続史書などにあるとおり、景初二年六月は景初三年六月の誤りとするのが正しいでしょうね。
>> 次に、塞曹掾史(軍事司令官でしょう)の、張政が来ている。
軍事司令官はいくらなんでも大げさにすぎます。帯方郡に属する塞曹という役所の属吏に過ぎません。塞曹は、はっきりとはわかりませんが、名称からすれば、郡内の塞にかかわる事務を所掌とする役所でしょう。
>> 先の梯儁は、使者としての役目を果たしたら、直ちに帰国しただろうが、張政は、かれこれ20年(途中で帰国したかどうかは定かではないが)も滞在した。
晋書倭伝には、
「及文帝作相、又數至。泰始初、遣使重譯入貢」(文帝相と作るに及び、又數至る。泰始の初め、使を遣わし重譯入貢す)
とあり、司馬文王が大将軍録尚書事を拝命した正元二年(A.D.255)年以降、晋朝成立(A.D.265年)までの間に、複数回の倭の入貢があったことが記述されています。この一連の入貢の最初のものが、魏志倭人傳に見える臺與の最初の遣使貢献、即ち張政の帰還の時であったはずです。張政の倭国滞在がかれこれ20年に及ぶようなことはなかったでしょう。
>> 魏使としてはいろいろな目的があったと考えられるので、倭人伝に記載された行程とは異なることもあるかもしれないが、正史としての記載は魏使の実際の行程を記しているというより、張政の軍事報告を基に記載しているほうが、ウェイトが高いと考える。
韓伝にはどの国についても行程記事がありませんね。どうしてどの国の位置も書いていないのでしょうか。諸韓国と戦った樂浪太守劉茂や、倭国を訪れたときに韓を経由した建忠校尉梯儁・塞曹掾史張政などの軍事報告はどこに行ったのでしょうネ!
今宵はここまでです。(続編未定)
元の発言 [ Re: 倭国に中国人はいなかったのか? ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 9月4日(火)19時48分32秒 ]
>>
卑弥呼の好物は鏡だった。(好物を好きな物と解釈すればですが)
つまり以前から卑弥呼の周りには鏡があったという
ことになります。
ですから以前から、すでに工人は倭国にきていて商売を
していたのでは?いわゆる倭鏡といわれるものを作って
いた。もちろん日本人の工人も一緒にいたのでしょうが。
年号鏡はなんとも言えません。
確実なことは、その年号の前には作られていなかった
ことだけでしょう。
別に製造年月日を入れる必要のあるものではないです
から。
僕の店も大正13年創業なんて書いてますが、古いと
それなりに看板になったりして。
いっそ日付なら、正確にいれるか、何年何月吉日とかね。
元の発言 [ Re: 倭国に中国人はいなかったのか? ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 9月4日(火)19時44分09秒 ]
>>
>>
昔、あなたが言われた
>特鋳というわけではないにしても、さまざまな工人が集まって作った鏡であると考えるのが筋だろうと思うわけです。とすると、その当時、工人があっちこっちからあつま
って作るとしたら、場所は、魏の都か、あるいは、原料などの系統からすると、楽浪か、あるいは遼東か、そのあたりになるんではないか。そう思いますけどね。
その場所が、寄せ集めのたまり場の倭国内でもいいのでは
ないかという解釈です。都だから集まる、はわかりますが
それなら、すべてブランドでと考えてもおかしくない。
寄せ集めより統一のほうがいいような。
元の発言 [ Re: 「邪馬壹国」(正史及び梯儁と張政編) ] お名前 [ 大和猫 ] 日付 [ 9月5日(水)01時31分32秒 ]
>> 魏志韓傳に、
>> 「景初中、明帝密遣帶方太守劉[日斤]、樂浪太守鮮于嗣越海定二郡」(景初中、明帝密に帶方太守劉[日斤]、樂浪太守鮮于嗣を遣し海を越え二郡を定む)
>> とありますから、難升米たちが帯方郡を訪れたのが公孫氏滅亡前の景初二年六月なら、帯方太守は劉[日斤]の筈。しかし、魏志倭人傳には、
>> 「景初二年六月、倭女王遣大夫難升米等詣郡、求詣天子朝獻、太守劉夏遣吏將送詣京都」(景初二年六月、倭の女王、大夫難升米等を遣わして郡に詣し、天子に詣り朝獻するを求む。太守劉夏、吏を遣わし將い送りて京都に詣す)
>> とあり、太守が劉夏に変わっています。この点からしても、日本書紀や各種類書所引の魏志や後続史書などにあるとおり、景初二年六月は景初三年六月の誤りとするのが正しいでしょうね。
景初二年六月はまだ戦闘中ですから劉夏は暫定太守だったとも考えられます。
公孫氏が滅んだ後、劉[日斤]が正式に任命されて赴任したと考えれば合理的です。