Re: Title神社形式

投稿者[ 牛頭天王 ] 発言日時 [6月17日(月)23時09分31秒]

元の発言 [ Re: Title神社形式 ] お名前 [ 韓国から ] 日付 [ 6月16日(日)14時27分11秒 ]

>> おっしゃった部分は現在, 私としては言い切って申し上げるちょっと難しいです. リンクさせてくださった絵のような形式の積石塚に対する消息は韓国でも接することができました. 私が聞くには日本の江上先生がこの墓たちを直接見たと聞きました. TVでも放映になったと言っていたが, 私はその姿を直接見られなかったし, ただリンクさせてくださった絵のような図面だけちょっと見ただけです.

>> 私が見る視覚ではまず, 前方後圓墳, そして四隅突出形墳丘墓みたいな場合, その淵源を彌生墳丘墓発達を考慮する方がずっと自然ではないか思います. まず彌生墳丘墓 場合, 封土に葺石をあげる形式は封土自体よりは遅く出たと思います. 原型は封土を積んで上げてその上に墓を造営する形式ではなかったんでしょうか? 韓国の積石塚の場合, その淵源が?東地域の石棺墓とその周辺の積石にあると思います. 高句麗の積石塚たちを見ても土を積んで上げてその中に売場主体部を配置するのではなくて, 売場主体部は積石に席を取るようになるから見掛にはどうだろうか分からないですが内部の構造は相当な差を見せると思います. 特に前方後圓墳 持っているさまざまな文化的な要素たちを考えて見ればこの墓を高句麗と直接連関をつけられる難しいと思います. 高句麗墓には周溝がないですが, 前方後圓墳は周溝がある彌生墳丘墓影響の下ではじめから作われると思いますが, 土器類の場合にも前方後援分の場合, 彌生土器類と関連がないでしょうか? 高句麗土器は彌生土器と直接関連を作らせる難しいと見えます.ただ, この前にも申し上げたんですが, 周溝墓と墳丘墓自体が韓半島南部と密接な関連を持って造成され始めた可能性は考えて見られる見ます. 韓半島西南部地域では最近?代がよほど上がる周溝墓や墳丘墓が発掘され始めているのに, この墓たちは他の彌生文化たちと同じく彌生文化が展開される過程で韓半島から日本列島で伝えて入って行った可能性を排除することができないと思います.

私は高句麗の積石塚古墳がそのまま前方後円墳になったのではなく弥生墳丘墓とMIXしてあのような形になったのだと考えます。
土器を作る職人が共に日本にやってこなければ高句麗式の土器は作れません。
あまり大きな話題にはなりませんでしたが初期前方後円墳の沢山ある纏向遺跡で、三韓式でも楽浪式でもない産地の特定できない瓦質土器が発見されました。
三韓式でも楽浪式でもないと言う事は高句麗式の可能性もあると思います。
日本で瓦質土器が作られるようになったのは7世紀くらいです。
高句麗人が来てもInfrastructureがなければ継続は出来ません。
倭人にも出来る土器しか作れないのです。
しかしデザインなどは影響を受けて倭人の作る土器も変化します。
それが庄内式とか布留式の土器ではなかったかなどと考えるのです。

>> たぶん古墳中期に見える性格上の急変のため高句麗系統と前方後圓墳を連結させて見ようとする気がすることも自然だと考えて見ますが, 古墳中期に出現し始めるさまざまな韓半島関連遺物たちが高句麗に淵源を直接置くことができることか, する問題はちょっと考慮の余地があると見えます.

>> 古墳中期に見える遺物たちは正確に申し上げれば, 高句麗の遺物ではなくて, 伽揶係遺物です. 伽揶の遺物は土器と甲紬類などにいて皆差があって, この遺物たちが 5世紀以後大型化する前方後圓墳で発見され始めます. 伽揶地域では後代の前方後圓墳で発見されることと類似の遺物たちが 3世紀末-4世紀初めの大成洞古墳という所で発見されたが, この墓の様式は木槨墳です. 木槨墳というのは東アジア一帯に広く広がっていたからその系統を把握しやすくないのに, 慶尚道地域には申し上げた中山里古墳や大成洞古墳のような形式の木槨墳が西紀 2-3世紀頃多数発見されました. このような木槨墳は大同江流域の木槨墳とは関連がないと見えてもしかしたら韓半島外地域の木槨墳と関連があることもでき, 木槨墳を高句麗と連結させることは現在としてはちょっと難しいと見えます. なによりも高句麗地域で木槨墳がたくさん使われた跡を捜しやすくないと考えられます. 一例を見れば大成洞古墳みたいな場合, その遺物や売場方式において北方遊牧民足跡特徴がたくさん現われます. この古墳の主人公はおわかりの通り金官伽揶だと思うのが一般的な解釈です.

5世紀頃に日本でも馬が飼育されるようになり、古墳にも馬具が副葬されるようになります。
これをベースに江上波夫さんが騎馬民族征服王朝説を唱えたのです。
この説はいまではあまり支持されていませんが、この時期にも半島から沢山の人間と文化が流入した事は間違いありません。
そして3,4世紀と違いこの時は韓半島南部を経由していろいろな技術も一緒に入って来たのだと思います。
貴方のおっしゃっていることと関連があるかもしれません。

>> >> >> http://www.metro.seoul.kr/kor2000/vr_gallery/sub/vestiges/vestiges5/image/vestiges5_1.jpg

このリンクは今日は見る事ができました。

>> >> 階段式は定型化したといわれる前方後円墳も同じです。

>> この部分は上にあげた内容で代わりをしたいです. こぶ, 異見があったらもう一度文を載せてくださったらと思います

先のリンクの写真と日本の前方後円墳の階段式はかなりの違いがありますね。まるでお城の石垣みたいです。

>> この部分については私も報告書を求めて読んで見なければなりませんが, 存じていらっしゃると思いますが, 考古学で?代を求める時はカーボンデーティングみたいな絶対編年にだけ寄り掛からなくて, 相対的編年を考慮するのが常例だと思います. 周溝墓の場合, 韓半島では石棺墓という墓祭りは青銅器前期に見えるよほど早い時期に造成された墓祭りなのに, この間に石棺墓周りで周溝の発見された場合があって周溝墓の?代の上がる可能性がもう一度申し立てられたことがありました. 今度発見されたことはその可能性を明らかにさせてくれることだと思います.特に共伴遺物たちを見る時よほど?代が上がることは排除しにくくないか思います.

日本でも時折年代の見直しがされる事がありますが正しくなる事ばかりではなく間違った方向に進む事もあります。

例えば勝山古墳の周濠から出た板材の年輪年代を測定した結果、三世紀初期と出た事を受けて勝山古墳まで三世紀初頭の築造としてしまいました。
冷静に見れば古墳築造から何十年も経ってから流れ込んだ得体の知れない木片の年代でその墓の築造年代を推定する事は不可能なのですが、誤った年代観が一人歩きしています。

日本の考古学の年代は韓半島のように中国の歴史的遺物と絶えず比較し校正しながら編年を決めているのではなく、ブート・ストラップしていくのです。
得体の知れない木片の年代の解釈を間違う事により、他の遺物の年代を引き上げ、それによって又別の年代も更に引き上げていくと言う事をやるのです。
箸中山古墳の周濠から輪鐙が発見されたら普通はこの古墳が4世紀末か5世紀始め築造とするのが常識なのですが、日本では馬の飼育は三世紀に始まった事になってしまうのです。

>> >> 積石木槨墓と言うのは新羅時代の特徴的墓制と聞いています。
>> >> 蔚山中山里古墳2,3世紀というのは本当なのでしょうか?
>> >> 高句麗、百済、新羅の三国時代ならば高句麗の影響を受けて積石木槨墓が出来ても不思議はありませんね。

>> 木槨墓だと言うことは私が知っている限りでは東北アジアで ある一つの民族だけ持ったことで理解することはちょっと難しいと思います. おわかりの通り韓国には日本の大和にあたる一番目国家で古朝鮮を上程しているのに, 現在古朝鮮社会が準国家段階に入って行くことはこの地域で発見される細形銅劍文化段階の木槨墓社會だと見ています. (B.C. 3-2世紀頃) この段階になれば, 細形銅劍と鉄器が副藏されて, 車馬附属が埋藏され始めるなど, 社会の変化様相を濃厚に見せてくれています.
>> しかしこのような木槨墓は古朝鮮地域でばかり使われたのではなくて, 広くは鮮卑, 匈奴があったと考えられる地域でも発見されています. 申し上げた伽揶と新羅地域の大成洞及び中山里古墳の場合, 木槨墓でもこのような北方係木槨墓にその淵源を置いているから木槨墓の段階になれば鉄器が大量部長されて, 馬具類が出土され始めます.3世紀末を起點して初めて人と言葉(馬)を殉葬(殉葬)と, 武器を曲げて部長する習俗とともに騎馬用(騎馬用)の鉄製甲紬(鉄製甲冑), 北方遊牧民族的墓祭り, 馬具類(馬具類), 陶質土器(陶質土器), オルドス型冬服(銅復) など北方遊牧民族の習俗と遺物が多量で反映されるとか出土されている事実だという...,

>> >> 弥生時代に九州よりはるかに遅れていた畿内が九州に先駆けてホケノ山古墳などの前方後円墳を作って、その後、九州を凌駕していくと言う事を考えると外来勢力の影響を考えずにはおれません。
>> >> そしてそれは九州と似た風俗を持った馬韓や辰韓ではなく高句麗あたりではないかと想像するのです。

>> この部分に対してはちょっと説明が必要のようです. まず, 高句麗を北方係, 百済と新羅は南方係だと把握する方式に対してはちょっと考慮する部分があると思うのに, まず, 韓国の場合, 青銅器時代を見れば北方係と南方係の仕分けというのが明らかでないです. 勿論, 地域的な差と言う事は確かに存在するが, 遼東半島と南満洲, 韓半島地域は無文土器の盛行, 支石墓, 石棺墓の盛行, 琵琶形銅剣, 細形銅劍 等 青銅器の様式とか, 他の諸般文化的な特徴において大きい差がないです. 人種的でも文化的でもほとんど類似の集団が居住したと見ても良いことだと思って, まるで日本列島に大きくほとんど等しい性格の集団が居住したようにこの地域も似ている状況だったと見ても良いと思います.

考古学的に地域差が見られないと言う事ですが魏志東夷伝を読む限り三世紀においては南と北ではかなり差があったように思います。
南部は有棺無槨、北は有槨無棺など。

>> 韓半島の場合におっしゃった北方係の性格というのをもし遊牧的特性を示すお話なら, 大成洞古墳のようなことは必ず高句麗と連結させるにはちょっと困難があります. 墓制とか副藏遺物において高句麗と差があって, 敢えて外部から移して来たと見做そうとすると韓半島以北地域どこから来たが, 高句麗とは無関したようです. このような視覚は勿論, 学者たちの中にはこのような移動自体を否定する方々もよほど多いと見えます.

>> 一応私の考えを申し上げると, まず前方後圓墳の場合, 前期と中期の性格に対して明確にあると見えます. 私の場合には中期の場合は, 大成洞古墳に代表される伽揶地域と密接な関連を持って変化が招来されたし, 前期, すなわちホケノ−ヤマに象徴される成立期の場合には日本列島自体でその発展の起源を求めるのが正しいが, 前方後圓墳の起源になる彌生後期の墳丘墓 場合, 韓半島との関連性がこれからの研究によってどんな方式でも返事をズル 可能性が高いと考えて見ます.

ホケノ山古墳と言えば楽浪で見つかった画文帯神獣鏡と同じく画文帯神獣鏡が見つかっています。
また四国徳島県の萩原1号「積石塚古墳」から見つかった画文帯神獣鏡は割れ跡から楽浪の画文帯神獣鏡の踏み返し鏡だといわれています。
画文帯神獣鏡は畿内を中心に幾つか見つかっていますが品質から言ってホケノ山以外は踏み返し鏡のようです。

このあたりも畿内に韓半島の北部から直接やってきた人々によって作られた国があったと推測する理由です。




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