Re: 正始六年の詔勅

投稿者[ 大場嘉門 ] 発言日時 [7月5日(金)12時25分24秒]

元の発言 [ Re: 正始六年の詔勅 ] お名前 [ ALEX ] 日付 [ 7月5日(金)02時04分59秒 ]

ALEXさん お久し振りです。

先ず、
>> それ以前に、「到官」が詣臺朝見と同義に使われている実例というのはあるのでしょうか?

倭人伝以外では「着任」としての用例のようです。
私の着想は官も臺も天子を意味して用いられることから、八年条は冒頭句の「到官」と最終句の「詣臺」に解読の謎があるのでは、というものです。

>>  「…新太守王王[斤頁]が赴任したところ
>>  倭女王が…してきたので
>>  張政を派遣して…させた。」

誰もがこのように読んでいると思います。(安本美典も、「倭載斯、烏越」<倭載斯の烏越?>を遣わしたのは卑弥呼であり、張政等を遣わしたのも王[斤頁]であるとしているようです。)
しかしこう読むと、「倭女王が…してきた」のはどうしてなのか、「張政を派遣して…させた。」のは何のためなのかが今一良く判りません。

これを、
>> 黄幢下賜の理由は対高句麗戦を睨んだその側面支援、つまり高句麗に同調しそうな勢力の背後に強力な味方を配置して動きを牽制しようという戦略の一環である

という魏の軍事要請に対し、
『帶方に助太刀の兵を送らなかったことを、新太守に弁明している』(会員論文館:犬山犬彦さん)のであり、
張政派遣の目的も『倭國が先年「魏の藩屏として有効に機能」できなかったことについての妥当な理由の有無を見定めること』にあったとしたら、
どうして王[斤頁]は古証文のような六年の詔書や黄幢を持たせる必要があったのでしょうか?

>> そうすると、なぜ六年の詔勅が遅々として実施されなかったのでしょうか?

何故ですか?

>> 帯方太守弓遵は死亡して帯方太守は欠員という状況で、「現」玄菟太守の王[斤頁]が倭国の使いに同道して任地を8か月留守にするというのは、半島の政情不安を勘案せずともリアルな想定とは言えません。

誤解があるようです。
倭国の使いを同道して「到官」したのは、八年の「現」帯方太守の王[斤頁]です。



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