Re: 主食の定義

投稿者[ くみ ] 発言日時 [7月13日(土)09時33分08秒]

元の発言 [ 主食の定義 ] お名前 [ マルセ ] 日付 [ 7月12日(金)21時28分06秒 ]

マルセさん、こんにちは。

>> それと、昭和の初期の頃だけが、異常にコメに頼る比率が高かったのでは。今の日本人の1日摂取カロリーにうちのコメの占める割合は、たった24%だそうです。

今は24%ですか。少ないですね。でもそうですね。私はそのくらいかもしれない。
食事の半分がご飯で、その時ご飯とおかずのカロリーが半々だったら25%ですね。
でも前回出した昭和初期のデータも低いですよ。%までは書いてなかったですけど。
江戸の時代劇にはいつも蕎麦屋がでてくるし。

>> で、生産性の低いのになぜ陸稲をつくるのかといえば、やっぱり、水田にしにくい土地しか持っていなくても、コメを作って食べたい(たぶん、おいしいから)という生産メの強い願望があったからだと思います。

今はコメより美味しいものがたくさんあるから?
でもコメがもっと安ければみんなもっと食べると思います。パンやパスタの方が安いような気がしませんか?
お米を作るのはやっぱり大変です。(コメは国産だから高いだけだったりして。)


縄文時代もコメは作られていたのだから、コメの味は知っていたはずです。でも弥生時代以降ほtDュ着しなかったのはなぜでしょうか?
やっぱり米を作るのが大変だったのではないでしょうか?
ならば弥生時代に始まった水田での稲作は画期的だったのでしょうか?
しかし、「縄文農耕を捉え直す 対談 佐藤洋一郎VS」(勉誠出版)によると、

> ・・・弥生の稲作は、縄文的な、どっちかっていうと焼畑的な、移動を繰り返していているようなスタイルを保っているような気が。・・・それは中世の終わりぐらいまでそうだという・・・(P17)

どうもよくわからないのですが、弥生時代以降、日本人がコメuDュ着したのは支配メ層がコメにこだわったから、お祭りに必要だったから、そんな理由もあるような気がします。

以下は「縄文人・弥生人は何を食べていたか」(雄山閣)からの引用です。
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弥生人の食料(P70/甲穴チ之)
・・・弥生時代の研究は常に縄文時代との違いを強調することで、その時代的性格が把握されてきた。・・・こうした背景のもとに・・・水田址から収穫できる米の量を推定し、大幅な余剰があることを指摘して“豊かな農総」゚会”としての弥生時代をとらえたのであった。・・・上記した人々の計算は・・・休耕のシステムを考慮に入れれば・・・登呂遺跡の最も収穫の多い例でしても、コメだけで食料をまかなうとしてもせいぜい4か月程度にしかならない・・・。

畑作物(P86/寺沢薫)
・・・稲ばかりが強調されがちであった弥生農業・・・むしろコメ以外のデンプンソ食料の比率の方がはるかにまさっていたと言うべきである。
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というわけで弥生時代にとって、本当に画期的だったのは金属器の出現で、水田技術は縄文時代の陸稲の延長線上にあったのではないかと思うのです。
水田を作るために指悼D瘻wが生まれたと歴史で習いましたが、縄文時代も指悼D瘻wがいなければ大きな建物は作れなかったでしょう。縄文時代のお墓にもランクがあったそうです。縄文時代は土偶を作る村、貝の加工をする村、石器を作る村など、特長があったのだそうですし、そのためには流通機構も整備されていたはずです。

関係ないことを書いてしまいましたが、高処」迪囎ィを伴う稲作が南から、金属器が朝鮮半島から来たのではないか。
そして朝鮮半島から来た人達が稲作にこだわったのではないか。というより、コメは保存できるので、貨幣価値をもたせたのではないか。
などと考え始めているのですが・・・。


> このへんに関連しては、講談ミ現代新書の「貧農史観を見直す(佐藤常雄・大石慎三郎、650円)」がおもしろいです。参考まで。

面白そうです。今日早速買ってきます。


> ところで、珪酸体が見つかったからって陸稲が作られていたってわかるもんなんでしょうか。畑に稲わらが使われていた(敷わらしてスイカを作ってたとか)だけだったりして。

うえの「縄文農耕を捉え直す 対談 佐藤洋一郎VS」(勉誠出版)に面白いことが書いてありました。
プラントオパールは黄砂によって中国大陸から運ばれた可能性もあるのではないか。(P31・P99)というのです。
でも私は日本列島でも陸稲が行われていたと思います。日本列島には黒潮が流れているのだから。


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