Re: タミル語に関して

投稿者[ 游惟 ] 発言日時 [8月7日(水)17時35分13秒]

元の発言 [ Re: タミル語に関して ] お名前 [ ピクポポデミ ] 日付 [ 8月7日(水)13時53分57秒 ]

>> こんにちは、遊惟さん。
>> お世話になります。

>> >> 正確に言えば、「東北地方は当時の技術では稲作農耕に適さないと、
>> >> 関越線まで来た弥生人達は判断したのだろう」ということです。
>> >> おそらく福島南部あたりでもやってみたけど、うまくいかなかったから
>> >> やめた、ということではないでしょうか。

>> 会津盆地では四隅突出型の墓が見つかっていますし、4世紀初頭とされる
>> 前方後円墳もありますので、関越線は突破してると思いますが。

>> >> 亀ヶ岡式土器のことは知っていますが、それが関越線の南北で大きな
>> >> 文化断層があったということにはなっていないでしょう。
>> >> もちろん、縄文時代だって様々なイノベーションがあり、
>> >> 一カ所でイノベーションが起こればそこを中心として同心円的に周辺地域に
>> >> 波及していきます。ただ交通・通信の発達していない縄文時代には
>> >> その波及は緩慢であり、亀ヶ岡に発した(亀ヶ岡が震源地かどうかは判りませんが)
>> >> イノベーションがやっと東北南部まで達した頃に北上してきた
>> >> 弥生人達とぶつかったということでしょう。
>> >> また、縄文海進が終わって海が後退して以降、関東地方は人口が
>> >> まばらだったと思われ、集落と集落の距離が遠かったため技術が
>> >> 伝わるのが遅かったのかも知れません。

>> 亀ヶ岡式の時代は縄文晩期(=西日本の弥生早期)で、まだ関東までは弥生人は来てないようです。
>> 縄文時代の文化圏としては、西日本は割と一体ですが、東日本は時代によって色々あるようです。
>> 現代に残る日本の文化圏の差は、水田稲作が入ってきたときの各地の受容度の差によって
>> 形成されたとされる説もあります。

>> >> >>その後古墳文化は宮城-山形の線まで北上し、それ以北には蝦夷の文化が成立します。

>> >> 日本書紀には応神朝から清寧朝にかけて、蝦夷の服属や反乱の記事があり、
>> >> その頃に栃木あたりの豪族が北上して蝦夷部族を支配下に於いたということではないでしょうか。

>> 確かに宮城県あたりには、関東の豪族の北上があったようです。
>> ただし弥生遺跡も存在するので、農民の北上の方が早かったと思います。

>> >> >>同一集落内での共存と思われる例もあるようです。

>> >> 世の中には様々な人間がいます(^ヘ^)
>> >> シュバイツァーのように、アフリカ原住民の病気を治すために命を捧げる人もいれば、
>> >> アフリカへ行って人間狩りを楽しむ人もいるのです。
>> >> 弥生人の酋長の中には縄文人達と仲良くして農耕や弥生式土器の作り方を親切に教えてやった者もいるでしょうし、

>> こっちの証拠は各地に残っているわけです。

>> >> むやみやたらと縄文人をぶち殺し、女を強姦するのを楽しみにしていた者もいるでしょう。
>> >> ただ、大局的に見れば後者に近い者の方が多かった、というだけのことです。

>> こっちの証拠は明白には残っていません。

>> >> >>mtDNAなどからすると、大陸からやってきた集団には女性も含まれていたようです。
>> >> 弥生人社会がある程度安定してきた時期には、女性連れでやってきた者もいるでしょう。

>> 弥生人社会がある程度安定してくると、そちらの方の人口が多く少数の渡来系の遺伝子は
>> 残りにくくなると思います。
>> もっともmtDNAの結果はあまり定量的とは私には思えませんが・・・

>> >> >>もしも女性を含む渡来集団が、最初は縄文人とテリトリーを分けて住み分けたなら、母系言語の継承仮説に反します。

>> >> それは「もしも」の話でしょ?(^ヘ^)

>> 畿内に進出した弥生集落は住み分けていた証拠があります。

>> >> >>民族移動に近いものが有ったのではないかと思っています。

>> >> 一気に何千人もの大規模な移動があれば、その痕跡が残るはずですが、
>> >> それは今のところ見つかっていません。可能性としてあるのは秦の徐福伝説ぐ>> らいです。(中国では日本人は徐福の子孫であるという説が俗説と

>> して広まっているようです)

>> 民族移動というのは適切では有りませんでした。
>> 数家族づつの渡来と言う説が強いと聞きました。

>> >> >>いずれにせよあまり簡単にモデル化できない部分があります。

>> >> これまで誰もモデル化した者がいないから、私がたたき台としてモデル化したまでです。(^ヘ^)

>> モデル化は大切な作業であると思います。
>> 私は遊惟さんのモデルを、考えを進める上で大変参考にさせていただいております。
>> どちらかというと自説に都合の良いモデルですので・・・
>> ただモデルはモデルに過ぎないので、さまざまな事実をもとに精密化してゆく必要はあります。

>> >> >>琉球語については、沖縄にも弥生文化が波及しており、縄文以来12世紀頃まで、
>> >> >>人が南下しているように思います。沖縄の貝塚時代が長く続くの>> >>は、何かの条件で続縄文同様、むしろ採集と交易に特化したほうが有利で
>> >> >>あったからかもしれないと思います。

>> >> 三々五々人が移住したり、交易があったことぐらいのことで社会全体の言語が変わったりはしません。
>> >> せいぜい外来語が増えるぐらいのものです。
>> >> 琉球人が本土日本人(弥生人の子孫)と遺伝形質的に異なることには疑問の余地がなく、
>> >> 弥生人が琉球人の祖先になったのではないことは確かです。

>> 下記サイトをみると疑問の余地が有るようです。

>> http://www.nichibun.ac.jp/omoto_home/members/jinrui.htm

琉球王国は17世紀初頭に薩摩藩の支配下に入り、薩摩の役人と警備兵が常駐していたはずです。また、それ以前に遣唐使などが漂着した事もあり、明治以前にも多少の混血はあったでしょう。しかし、琉球の言語が弥生人もしくは日本人がもたらしたものとは考えられません。


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