Re: 箸墓にこだわるのはわかる気がしますが

投稿者[ ちょっと一服 ] 発言日時 [8月26日(月)12時46分20秒]

元の発言 [ Re: 箸墓にこだわるのはわかる気がしますが ] お名前 [ 牛頭天王 ] 日付 [ 8月26日(月)08時18分37秒 ]

>> 考古学者の多くが自説に有利だとする材料、つまり古墳や住居跡、土器、青銅器といった考古学的史料は、考え方や視点によってどうとでも言えるのだ、ということである。


その主張は,どこかのサイトで見ました。

>> ま、神話をベースに歴史の全体像を組み立てるのは無理と言う事です。


ですから,総合的な探求の一環としての,神話の読み方という課題ですネ。


>> つまり、朝貢に対する返礼として下賜された(選ばれた)土器が対馬・壱岐・北部九州にしかなく、漢や公孫氏に朝貢していたの
>>はこれらの地域であるといえるのではないでしょうか。


研究してみます。

この地域には注目していますので,貴重な情報でした。


>> という所から出発しているのでここにこだわります。
>> 畿内は弥生時代末期も大陸と交易をしていなかった。
>> (選ばれた)楽浪土器が存在する国だけが楽浪に朝貢をしていた。
>> 『今使譯所通三十國』に畿内は含まれていない。
>> というものです。


ここも牛頭さんらしい鋭い着眼だと思います。

一方,いろいろと推理がふくらみます。

その貴重なサイトについては拝見させて頂きましたが,
高度である上,以下に引用する内容を含むことでもありますので,
ここで,すぐに結論は出しがたいです。

掲載の史料の中で,高句麗の土器は「6世紀までの日本での出土例が知られていない」とある情報について,
また,岡山・門前池東方遺跡の楽浪土器との器形類似について,
あるいは,「纒向遺跡の重要性」という表現が採られている訳についても,
それぞれ興味深く,皆様の注目を引くのではないか,と思います。


−−−−−(以下引用)−−−−−

考古学のおやつ/
日本出土の朝鮮産土器・陶器−新石器時代から統一新羅時代まで−/
出典:『日本出土の舶載陶磁』(2000)
http://www.ops.dti.ne.jp/~shr/lib/wrk/2000a_41.html#4

北方の高句麗にも独自の土器があったが,6世紀までの日本での出土例が知られていないので、本章では扱わない。

また、岡山県赤磐郡山陽町・門前池東方遺跡4号住居跡の柱穴からは筒杯形土器が出土している。器形は楽浪土城の出土例を彷彿とさせるが、胎土・焼成は在地の弥生土器のそれであり、楽浪土器に特徴的な底部の糸切りも行わない。しかし、この器形の類似は、何らかの理由で楽浪土器を知りうる状況が弥生後期後半ごろに存在したことを示していよう〔則武ほか1994:47-48〕。

福岡市早良区・有田遺跡群第81次調査の谷SD07上層上面からは、ほぼ完形の瓦質土器平底壺(図24)が出土している。削平された集落遺物の再堆積と思われ、弥生・古墳時代の遺物を多く含んで時期を限定しがたいが、弥生終末ごろに山陰・畿内など外来系遺物が多く流入することが知られており、示唆的である〔濱石(編)1986〕。

瓦質土器でも末期のものと思われ、かつ示唆的な例として、奈良県桜井市・纒向(まきむく)遺跡巻野内地区出土のものが挙げられる〔橋本・村上1998〕。布留0式に位置づけられており、この時期の纒向遺跡の重要性に照らしても、注目される事例である。

−−−−−(以上引用)−−−−−


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