Re: 訂正の訂正

投稿者[ ピクポポデミ ] 発言日時 [9月28日(土)03時05分00秒]

元の発言 [ Re: 訂正の訂正 ] お名前 [ 牛頭天王 ] 日付 [ 9月26日(木)22時16分39秒 ]

>> >> >> >> 客観的に見て、鐙は農民のものとする理由はありません。

>> >> >> 鐙が権威のしるしであれば他の馬具と同じくらい多数、馬具と一緒に出てくる筈だ。
>> >> >> 極端に少ない鐙は権威の象徴ではない。だから4世紀の鐙は少ない。と考えるのです。

>> >> 鐙も総体としては他の馬具と同じくらい出ています。

>> ですからそれは5世紀の話でしょう?
>> 日本では初めは馬具があっても鐙はなく5世紀の末になって鐙の副葬が出てくるようです。

残っている馬具はほとんど金属製でしょう。
初期の鐙が木製なら偶発的に、湿った土の中に密閉されたケースを除いてほとんど残らないでしょう。
実際残っている木製鐙は、偶発的に土に埋まったもののようです。
そもそも馬が権威の象徴であるという話をしていたはずです。
初期の鐙が実用品で、副葬が遅れたとしても他の馬具が副葬されているなら、馬は権威の象徴と見るのが妥当ではないですか。
そうするとその馬に乗るための鐙は一般の農民のものではないでしょう。
以下は下記URLからのコピペ
http://osaka.yomiuri.co.jp/nara/hakkutu/011201.htm
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馬の博物館(横浜市)の末崎真澄学芸部長は「馬は、現代で言えば高級外車のロールス・ロイス以上の存在。人々は恐れ、権威の象徴として極めて有効だったのでは」と指摘する。
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>> >> 戦国時代の胡服騎射の時期、前四世紀にはあったとどこかで読みましたが、手元に資料がありません。
>> >> 手元にある資料では、後漢代2世紀の山東出土の画像石に、前輪後輪のある鞍の絵があります。

>> それが硬式鞍であるという確証はないのでしょう?「前後に盛り上がりが見られる」程度のものだったのでは?
>> 軟式鞍というのは多少の補強がなされて少し前後の盛り上がりはあっても鐙が付くようなものではないそうです。
>> 下の訂正了解しました。

いやそうではなくて、テン国や紀元前のインドのもの、それと中国の初期の片鐙などは、馬に乗るときのためのもので、これは軟式鞍でも大丈夫でしょう。
実際テン国や紀元前のインドには硬式鞍は無かったでしょうし。
硬式鞍が必要なのは、乗馬した状態で足をかける両鐙になってからでしょう。
乗馬した状態で足を掛ける、現代と同様の鐙の使い方では、騎乗者の尻の位置(鞍の居木)と鐙の距離関係が
一定である必要があります。
軟式鞍では、鞍がゆがみ正しい位置関係は保てないでしょう。
しかし乗馬時の足掛けなら、軟式鞍であっても問題はありません。

>> >> 私の知る限り、テン国のものに疑問を持っている話は聞いていません。
>> >> もっとも最古の鐙とはなっていないところをみると、鐙と認めない意見があるのでしょう。
>> >> 片足の親指を引っ掛けるだけなので鐙と呼ばないのかもしれません。

>> テン国は裸足で生活していたのでしょうか。それとも馬に乗るときだけ裸足になったのでしょうか?
>> 子供だけの練習用だったのかも。子供なら裸足でいても不思議は無いですから。
>> 体重も軽いし軟式でもよかったかも。

子供なんぞどこにも出てきませんよ。

>> >> >> 木製鞍について考えてみました。
>> >> >> 私は木製鞍はむしろ荷物を運ぶ馬の為に開発されたのではないかと思います。
>> >> >> 重い荷物を縄で縛って両側にぶら下げたとき鞍が柔らかいと重みが一点集中してしまい皮膚を痛めます。
>> >> >> 硬い材質であれば重量が分散し痛くありません。しかも安定がよくなる。
>> >> >> 鞍の使用により荷物を高く積む事もできるようになった。
>> >> >> それを騎乗に応用して人間用が出来た。
>> >> >> それに鐙をぶら下げたと言った感じではないか。
>> >> >> 人間の尻だけなら馬の皮膚にダメージを与える事は無いので木製鞍は必要なかった。

>> >> 馬の背は滑りやすいので、乗馬時に滑り止めの布をかけることは古くから(前7世紀)ありました。
>> >> 紀元前5世紀のアルタイの絵には、すでに前後に高まりのある鞍らしきものが乗馬風景に描かれています。
>> >> 一方牛頭さんの説ではそれ以前にあったはずの、荷物を載せるための鞍の前身になるものは、実物、絵、人形とも全く発見されていません。

>> 木製鞍は5世紀以降のものも殆んど残っていないと思います。鞍も飾り金具などでその存在を推測するのみです。
>> 檜や槇で作ってあれば多数残ったのでしょうが。腐りやすい木をつかっていたのではないでしょうか。

そうですか、荷物用はたくさんあったのに木製なので残っていないというわけですか。
一方で乗馬用の木製の鞍などは、4世紀中葉からしか残っていないので、それ以前にはなかったというわけですね。
荷物ようについては、そういう用法をした、絵も人形の類も残っていないのですよ。

>> >> 鞍自体は古いものですが、たしかにアルタイのものを含めて、材質の確認されている古い鞍は皮製の軟式鞍らしいです。
>> >> 硬質鞍の発見は三世紀中葉(340年以前)の中国の墓の出土品が最古であるらしいです。
>> >> この点は訂正します。

>> 4世紀中葉の間違いかと思います。(^^)

4世紀中葉です。

>> >> ただこの時点で、ほぼ同時期の馬俑からは両側鐙が確認されているらしく、硬質鞍と本格的鐙の発明が同時期と考えられます。

>> 西晋の時代に片足で、続く南北朝で両足になったというので鐙の年代観に変更はないということですね。

現時点での出土例では、明らかに片足鐙の発想は古いものであることが事実として残っています。
判るのは親指だけでなく足を入れる片足鐙は、西晋の時代以前のいつ頃からか現れたという程度でしょう。
後漢代の俑もありますし、時代的にはそれほど限定できません。

残された事実のみから見ると、鐙が先行し、両足の本格的な鐙の登場と、硬式鞍の登場が同期するようです。
鐙が単なる馬に乗るときの足掛けから、乗馬時にバランスを取る道具に変わろうとしたときに、硬式鞍が現れたように見えます。
この両鐙の時期はどうも、発見された4世紀中葉からそう大きく離れないように思います。
それでも4世紀中葉の墓に俑として入れられたのなら、発明は3世紀末葉まで遡ってもおかしくないように思います。

>> >> 少なくともテン国やインドの、馬に乗るときだけの鐙の前身は、軟式鞍についていたものでしょう。
>> >> 片鐙の発見された、西暦302年埋葬の湖南省西晋墓発見の馬俑の鞍が軟式か硬式かもちょっと確認できません。
>> >> 馬に乗った状態で使用する本格的な鐙の使用が、硬式鞍の発明を促したとも取れます。

>> 可能性はありますが片足だけの鐙の時は余計に硬くなければ実用にならないので硬式鞍が先だと思います。

現実に硬式鞍が生まれる前に、インドや南部中国に、片足だけの馬に乗るための道具があるのだから、これは成り立ちません。
それとも紀元前に硬式鞍が有ったのでしょうか。

>> >> いずれにせよ硬式鞍もまた鐙同様、その始まり年代を数十年単位で推定できるほどの資料はないと考えられます。

>> 確かに10年単位の年代は難しいですが日本の遺跡で推定した年代より中国の年代の方が史書があるだけに正確と言えるでしょう。

見つかった遺物の年代が確定できても、その遺物が極めてまれで、302年埋葬墓に一個、340年埋葬墓に一個という状況では、それが最初に生まれたのがいつか漠然としかわかりません。
極端に数の少ない初期の鐙の場合、それをもって年代を決めるのは大変むずかしいでしょう。
実際に年代のわからない遊牧民の遺跡の年代を、鐙の有無で決めた例があるようですが、だいたい何世紀かというような、100年掴みの話です。
したがって、箸墓の鐙のみで布留1の年代を決めるとしたら、3世紀から4世紀のどこか、あるいはそれ以降というぐらいにしか言えません。



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