Re: 神社形式

投稿者[ ちょっと一服 ] 発言日時 [6月9日(日)07時24分24秒]

元の発言 [ Re: 神社形式 ] お名前 [ 牛頭天王 ] 日付 [ 6月9日(日)04時57分28秒 ]


>> なるほど道教の一派が鬼道と呼ばれていたらしい事は判りました。
>> 卑弥呼の鬼道がこの流れを汲むものとすると2世紀末〜3世紀始めくらいに伝播してきた新興宗教と言うことになります。

中国での動向や,倭の動きから見て,
ちょうど興味深い時期なわけです。

諸説とも,以下が軸ですね。
年次・事実関係等は再確認して下さい。
 >複雑で間違いやすいものでして(ーー;)


184年の「黄巾の乱」は,太平道の創立者・張角が起こした叛乱で,
この教団は,河北・山東の農民層が信者です。

蜀(四川)では,五斗米道(天師道)の創立者・張陵の孫である張魯が,
国家統治ふうのことを行ったわけです。

この五斗米道(天師道)の第2代教祖の死後,
その妻が「鬼道」に仕えて教祖代行(?),
第3代教祖の張魯が「鬼道」による宗教国家を樹立したが,
後ろ盾の劉焉に疎んじられた後で,
215年,曹操に就いています。翌年,曹操は魏王になった,と。


こう見ると,組み立てが出来すぎかもしれないですね。
倭人伝のは「黄巾の乱」「五斗米道」に借りた作り話,
という辛口の向きもあります。

この線で,しかも,あくまで倭人伝を尊重して推理する場合には,
「卑弥呼」「台与」というものの姿を,
いわば「倭風」に洗い直す必要も出てくるでしょう。

というわけで,牛頭さんにも下に御指摘がありますが,

どうせなら「うん,倭風!」でキメルには,
記紀とか風土記とか伝承の研究も必要になってくるわけです。

倭人伝というものが,
倭人情報に中国の風を被せて書き直したものであるのならば,
卑弥呼より「台与(壹与)」とは誰で何者か,
という視点のほうが重要か,という考え方も出てくるでしょう。


# 最近,この線かな?


「倭風」というのは,大和朝廷からは外れている可能性もあるから,
「和風」とは置き換えられないことの意味ですけどね。

>> このような新興宗教で広範囲な国家統治は難しいのではないでしょうか?


というわけで,

それは可能みたいですね。民衆の間で流行っちゃうわけです。
また,鬼道集団の場合,軍事組織を持っていたようですから,
政治,宗教(呪術),軍事の権限を握っていた,と。

しかしながら,この仮定に立つ場合でも,
背景に何か土壌がないか,というわけで,
倭,南方,半島など,アジア一帯の民俗は必要ですし,

他説によると,中国系に押されていた土着派に知恵がつき,
土着派の伝統を元にして巻き返したのではないか,とか,
土着系の卑弥呼を中国系が担いだのではないか,とか,
いろいろ言われていますから。


近世日本でキリスト教が民間に流行った背景としては,
イコンだったかな,聖母子像が日本人の間でウケテしまい,
宣教師は急遽取り寄せに奔走したほどだそうです。

また,武将の間にキリスト教が流行った背景としては,
科学技術や新しい知識などが武将の間で求められ,
これは商売になったわけですね。


とうことは,土着の倭人が意図的に水準を変えて,
学ぶべきは学び,輸入すべきは輸入して,
それなりに渡り合ったものか,とも考えられます。

>> 形式が非常に良く似ていただけか、旧来からの信仰に道教の形式を取り入れたか、などが合理的解釈ではないでしょうか?


だろうとは思いますが,・・・,

半島の民俗は,それらしいのが採録されているのに,
倭人伝では「事鬼道」とされているわけでして,

ひょっとすると,鬼道はオリジナルなものかもしれないわけで,
当時,極東随一だった,なんてことも考えられないではありません。

いずれにしろ,列島の考古学的遺産は侮れませんよね。




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