悪魔の演説
1999.04.18作成
文責:飯島麻夫

衛星放送で「ディアボロス(悪魔の扉)」を見た。
ラストでアル=パチーノ演じる悪魔が、主人公のキアヌ・リーブスに長々とまくし立てる演説は説得力がある。録画しておけば良かったと思うほど。

「私(悪魔)はあるがままの、欠点だらけの人間を愛する。いわば私は最後のヒューマニストだ。そして、20世紀こそ我々の時代なのだ。」

確かに悪魔と違って、たいがいの神様ってあるがままの人間が持っている欠点や欲望を、認めてくれない。

1.自分のことしか考えていないと「隣人を愛せよ」と怒られる。
2.女をたらし込んでいたら「汝、姦淫するなかれ」と怒られる。
3.ひっぱたかれたので復讐しようとすると「汝、憎むなかれ」さらには「左の頬を差し出せ」とまで言われる

神様に気に入られようと思ったら自分を歪め、賢明に押さえつけなくちゃならないのだ。

悪魔はその手のストイックなことは一切要求しないし、修行や禁欲を強いることはない。
どう見ても悪魔の方が現代の価値観にマッチしている。

今風の価値観ってこんな感じだろうか?

1.自分のことしか考えないで何がいけないの?
2.人を憎んだり、復讐したりして何がいけないの?
3.女をたらし込んで何がいけないの?

1.2.3.ともそれに伴うデメリットとリスクがある。たとえば、自分のことしか考えず、他人に迷惑ばかりかけていてはそのうち他人から相手にされなくなって、結局自分の不利益になる。その辺のバランスさえとれていれば何をやろうがかまわないじゃないか?
こういう価値観には「〜してはいけない」という宗教的な価値観はない。きわめてビジネスライクでプラグマティックだ。

過去数千年にわたって当然のように考えられてきた倫理観や価値観が、20世紀も後半に入ってから音を立てて崩壊しつつある。

「ディアボロス」のなかで、主人公は悪魔の誘惑に抵抗し、自分の頭をピストルで撃ち抜いてしまうのだが、彼がそうしなければならなかった理由って一体何だったのだろう?と考えてしまう。
あの時点で彼の愛妻はすでに死んでいた。失うものなど何もないではないか?

いまどき悪魔の誘惑に負けたぐらいで誰が彼を責められるだろう?誰だって悪魔の誘惑に負けている。
自分が一番かわいいし、人を憎むし、欲におぼれる。

ラストのカットは非常に象徴的。何をしようが、どんな手段をとろうが、我々は悪魔の誘惑を逃れることはできないのだ。
一応ラストのカットを説明しておきますか?

自害した彼は悪魔と関わりを持つ前の分岐点、映画の最初のシーンまで時間をさかのぼる。そこで弁護士としてではなく、人間として正しい行いをするに至る。
これで悪魔の誘惑からは逃れられた、しかし、弁護士としてのキャリアは終わりだ...と考えていたところに、ある記者から「あなたはヒーローだ!是非大々的に取材させてくれ。」と申し出を受ける。
主人公は少し安心した様子で「明日電話してくれ」と言って愛妻の肩を抱きながらその場を去る。

...と、記者の顔が例の悪魔(アル=パチーノ)の顔に変わり「虚栄は俺が最も好む人間の悪徳の一つなんだ。」とつぶやく。

面白い映画なので見ても損はないでしょう。

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