チベットの七年
1999.06.05作成
文責:飯島麻夫

映画を観てからわざわざ原作を読みなおすようなことをしたことがないのだが、「セブン・イヤーズ・イン・チベット」に関してはなぜか気になったので、原作「チベットの七年」を読んでみた。

ハインリヒ・ハラーによる原作は、ブラッド・ピットが出演していた、あの映画の話はまったく別の話だと思ったほうが良い。映画「セブン・イヤーズ・イン・チベット」のシナリオは、ノンフィクションの原作をヒントに、新しく創り上げたフィクション、といった方が正しい表現だろう。(※)

なぜ?なぜ?なぜ、何から何まで違うんだろう。
原作があんなに面白いのに、わざわざ有りもしない物語をでっち上げなければならない理由は一体何なのだろう?

1.シナリオライターの、少しでも自分の仕事を目立たせたいがためのスタンドプレー。
2.何といってもハリウッド映画。興行成績が最優先なので観客の嗜好にあったシナリオを別途創作した。

たぶん両方なのだろう。
確かに原作は驚くほど冷静にかかれていて、感情的な記述は一切ないといってよい。
そこで、ハリウッド映画として受けが良さそうな「家族愛」とか「恋愛」とか「侵略行為」とか...観客が感動してくれそうな、ありもしないエピソードを創り上げた、というわけだ。

「カラマーゾフの兄弟」とか「赤と黒」とか...文芸大作のほとんどが映画化されているが、基本的には原作に忠実だ。
これは原作に大きな敬意が払われているからで、原作に忠実でないということは敬意が払われていない、ということだろう。

原作を読む人よりはおそらく「セブン・イヤーズ・イン・チベット」だけを見る人の方が多いだろう。私がもし原作者だったらこれだけ勝手なことをされたらおそらく黙っちゃいない。

確かにノンフィクションでは「文芸大作」とは呼べないけれど、原作者の貴重な体験にもっと敬意が払われてしかるべきではないだろうか。
映画製作者の心ない行ないに憤慨の想いがたえない。

とにかく、原作は「素晴らしい」の一言なので是非読んでみよう。

※ たとえば...
原作には主人公ハインリヒ・ハラー氏の奥さんも息子も登場しないし、
アウフシュナイター氏も時計のことで怒ったりしないし、結婚しないし、
ダライ・ラマも「民のためにこの地にとどまる」みたいな感傷的なことも言わない。
ダライ・ラマが悪夢を見たなんて記述もないし、
共産主義中国の残虐行為のことだって、
チベット政府官僚の裏切りのことだって、原作には一言も書いてない。
これらは全部映画のシナリオライターの創作だ。

また、当時、外国人が聖なる都=ラサに入ることが不可能に近いことだったとか、主人公らがどんなにひどい目に合いながらもめげずにラサを目指したか、ということも、時間の制限からやむ得ないことといいながら、映画からは十分に伝わってこない。
一応努力しているのは認めるけど、「よく生きてたどり着けたな〜」というぐらいの苦難に満ちた大冒険談のあとでないと聖なる都におけるまるで極楽のような生活ぶりが十分生きてこない。

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