時代劇
1999.02.18記入 → 1999.02.20修正

「マカロニ・ウェスタン」に関連して...

確かに西部開拓時代があまり権力の統制が効きにくい、比較的アナーキーな状況であったであろうことは想像がつく。
激動の時代だからこそ西部劇が面白いのだ。

しかし、日本の時代劇ってどうなのだろう。ほとんどが日本の歴史の中でももっとも平和で、また治安がよかったであろう江戸時代が舞台ではないか?

日本の時代劇の場合、基本的にならず者同士の争いになる西部劇と異なり、敵役はたいていの場合、役人、商人などの有権力者、あるいは有権力者とつるんでいることが多い。

また主人公は「水戸黄門」「大岡越前」「遠山の金さん」などなど国家権力側の人物がほとんどだ。アウトローなのもないことはないがあまり長続きしない。マンネリ路線の主人公は全部お役所側。

そして舞台は「水戸黄門」を除けば江戸、もしくは大坂、いずれにしても大都市が多い。
確かに平和ではあったが経済、社会、文化の面で活気のある時代でもあったわけで、そういう時代背景を映し出すには田舎ではなくて都会が舞台である必要があるのだ。

ところでモーツァルトの時代のオペラにはあきれた結末のものが多い。政府の規制が厳しかったと言うのがその理由なのだろうが、たとえば「後宮からの逃走」はどういうお話かと言えば、

さらわれてトルコの王様の後宮(ハーレム)にいる恋人を救おうと、若者がハーレムに乗り込み、まんまと連れ出せるか、と思いきやつかまってしまって状況は絶望的となる。もはや死罪はまぬがれない、と観念する。ところがトルコの王様がどういうわけか「二人を許してあげよう」と寛容なことを言い出す。「なんてやさしい王様だろう」と二人は深い感謝をささげつつ、故郷への船路に就くのであった。(「それなら最初から連れてくるなよ!このスケベ親爺!」とでも言いたくなるが...)

「なんじゃこりゃ?」といいたくなるようなつまらないハッピーエンド。考えてみれば日本の時代劇にしても似たような結末が多い。水戸黄門、大岡越前、遠山の金さん、いずれも権力を悪用する悪党には厳しいが無力な一市民に対してはきわめて寛容だ。観ている我々がさほどの違和感を感じないのは、それぞれの主人公の人間性が前面に出されて、観る方もそれがわかっているからに他ならない。最後になっていきなり現れて変なことを言い出す「後宮からの逃走」ほどの違和感は感じない、というだけのこと。

時代劇の主人公のような賢い統治者を待ち望んでいるのか、あるいはこのような楽観的な物語によって統治者への楽観的な態度を潜在的に植え付けられているのか?いずれにしても危険な状況だと思うな。


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