愛より愁いは生じ
1999.06.04作成
愛より愁いは生じ
愛より不安は生ぜん
愛を超越し人こそ愁いなし
かくていずこにかおそれあらん
お釈迦様の言葉を記した「法句経」の一遍。
少なくとも、原始仏教では愛は煩悩の一つに過ぎず、克服されるべきものだったらしい。そもそも多くの東洋の思想では、「愛」なんてそれほど重要視されていないのだ。というよりほとんど無視されている。
やたら、愛、愛、と騒ぐのはそもそもキリスト教の風習だ。
東洋人の我々までがなんで愛、愛と騒がなければならないんだろう。
誰かが「愛なんて甘いものをほうばるようなものだ。」と言っていたけれど、確かに愛なんて無くても生きて行くのに困ることはない。
甘いものを食べないと確かに寂しいけれども、無ければ無いでなんとかしのげるのが人間というものだ。
愛情がないと人間がねじ曲がる?十分な愛情を受けて育った人間だってねじ曲がる人間はねじ曲がる。それに悟りを開いて愛を克服してしまったお釈迦様がねじ曲がった人間だったとは、私には到底思えない。
ようするに、今になってマスコミが「愛は地球を救う」とか馬鹿げたスローガンを掲げるのは「神」とか「天皇=王」とか「国家」とか今の先進国社会が精神的なよりどころを無くしてしまったからだろう。
かつてなら「神のお告げ」とか「天皇の御心」とか「お国のため」と言っておけば良かったのに今時そんなものに関心があるのはごく一部の人だけなので、仕方なく「愛」というわけだ。
追記:とはいうものの誰もが「親を愛していないのか?」と問われると「愛している」と答えざるを得ない。「愛より愁いは生じ」といわれても簡単に割り切れないところが辛い。
修行を積んだ仏教僧は「親を愛していません」と言い切ることができるのだろうか?
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