仕事と私
1999.08.16作成

ごく最近、ある試験問題で「仕事と私」というタイトルで文章を作成せよ、という課題をだされた、が、ろくな文章を書くことができなかった。
くやしいのであらためて書いてみようと思う。

家事、たとえば母親の料理の手伝いをすると、こういう仕事において自分がいかに無能かを思い知ることになる。

たとえば、母が忙しそうにしているのでコロッケをつくるための玉ねぎと人参をみじん切りにするのを手伝う。
まず、何も考えずに人参を横方向(切った後は丸くなる)に切りはじめると、たちまち母から、

「みじん切りにするには最初に縦方向に切らなければならない」とアドバイスをうける。

なんとか縦方向に切り終わっていよいよみじん切り状に切りはじめると

「それはみじん切りではない。縦方向に切るときに十分細く切らないとみじん切りにならない。人参は固いので大きく切ると食感がそこなわれる」とのこと。

「しまった。どうしよう。」と思っていると母が包丁を取り上げ、横方向に非常に細かく切りはじめ、あっという間に私の失敗をカバーしてしまった。縦方向に荒い分だけ横方向に普通より細かく切れば、人参の粒の形は平たくなってしまうものの、大きさは変わらない、というわけだ。

考えるに、プロの仕事とはこういうものだろう。
自分なりの一番速い仕事の手順というものをしっかりと持っているし、もしそれが守り通せれば彼女にとってそれがベストである。
しかし、私のような未熟者の失敗、あるいは不測の事態によって、その手順が崩されてしまっても、臨機応変の対応によって、食材や時間を無駄にすることなく、夕食の時間までにおいしい料理をつくることができるのである。

仕事のプロたる条件を凝縮すると次のようなことになるのではなかろうか?

1.仕事の質が高く、しかも早いこと
2.不測、あるいは未経験の事態に対しても、豊富な経験や知識や調査などによって充分対処できる。

以上の条件を満たしていない人間を仕事のプロとは呼ばない。
たとえばプロスポーツでも長帳場となるプロ野球は、例として考えるには非常に良い。
いいときだけははいい仕事とをする、といったタイプの選手はさほど高い評価をうけることができない。いくら素晴らしい力を持った選手でも調子が悪いなどの理由によって本来の実力が発揮できないときが必ずあるからだ。
基本的に高い能力を持っていて、しかも調子の悪いときでも自分なりの対処方法や工夫によってなんとか周囲の期待に答えることができる選手こそが真の名選手と呼ばれるのである。

私は常に仕事のプロでありたい、と思っている。


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