奇跡
1999.09.10作成
ここ数年、テレビ番組、特に民放の番組を観ることがほとんどない。
そういうわけで、いわゆる「奇跡」を行うために興味本位に取り上げるテレビ番組が多いこの人(サティア・サイババ)は、一般には有名らしいにもかかわらず、ごく最近まで知らなかった。
さて、「奇跡」が本物かどうか、という不毛な議論はさておいて、問題にしたいのは、なぜ奇跡を行うか、ということだ。
もし本物の神様が何の変哲もない人間の姿で現れて「私は神である」と言ったとしたら、それを聴いた人たちはどう反応するだろうか?「こいつは頭がおかしい」と思われるのが関の山だろう。
いくら口で「私は神だ」と言ったところで誰も信用してくれない。
本物の神様を神と認めないのは人間の罪なのだろうか、というとそうでもない。自分を神だと言い触らす人なんてたいていは狂人に決まっている。もしその人が神とまでいかないにしろ、少なくとも特別な人間であるなら、持てる特別な能力を示してあげない限り誰も彼を特別な人であるとは信用してはくれないだろう。
もし自分を神、あるいは神の化身である、と主張する人がいるのなら奇跡を行う義務があるし、我々そうでない人たちも奇跡を行うことを要求し、それがインチキでないことを検証する権利ぐらいはある。
「奇跡を行え!」と要求すること自体は恥ずかしいことでも何でもないのだ。
実際、キリストだって、ジャンヌ=ダルグだって、サティア・サイババだってそうして多くの「信者」の信頼を勝ちとってきたのだ。
いや、これは聖人や預言者に限ったことではない。力も能力も地位もない人の言うことなど誰もきかないのが当然だ。他人の信頼を勝ちとるには先立つ「何か」が必要なのだ。
マホメットのように「預言者」ぐらいならともかく、その人が「神」、あるいは「神の化身」である、と主張するならば、奇跡が行えないならそれは偽物だ。
世界を変えようと言う人がそれぐらいのことができなくてどうする?
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