優しい
1999.11.25作成
「優しい」を広辞苑で調べてみたら...
(1)恥ずかしい (2)優美である (3)おとなしい (4)情深い (5)けなげである
現代語としていまでも広く使われているのはおそらく(3)おとなしい、と(4)情深いの意味だろう。
数週間前の日経新聞の文化欄に「最近の若者はやさしい」と書いてあった。
記事によると、他人を痛烈に批判したりすることはエネルギーを要することであり、いまどきのごく若い人たちはあえて事態を荒立てるようなことを好まない、とのこと。
この記事で使っている「優しい」は(4)情深いではなく、(3)おとなしいの意味だ。
固の用法の場合、猛々しくない、攻撃的でない、寛容、ひいては無関心、無能などなど積極的な意味合いが薄いので省略。以下、ごく普通に「優しい」と言ったときに意味する(4)情深いという意味での「優しい」について考えてみる。
さて、情深いという意味の「優しさ」を発揮するためには多かれ少なかれ、自己犠牲の精神が必要だ。たとえば...
寒い日に彼女に自分のコートを着せてあげるとか...(彼女は暖かいが自分は寒い目に合う)
落ち込んでいる友だちのために夜通しつきあってあげるとか...
(睡眠時間を友だちのために裂いてあげなくてはならない)
他人に優しく接してあげるためには自分の時間、エネルギー、思考力、苦痛、金銭、能力等々いろいろな犠牲を強いられる。
とすれば、たとえばある男が、ある女に対して、本当の意味でどの程度優しいか、はその男がどの程度の自己犠牲を甘受できるか、にかかってくる、と考えて良いのではなかろうか?
しかも優しくあるための自己犠牲の度合いは、二人の関係が親密になればなるほど高くなる。
何の縁もゆかりもない浮浪者に食事を与えた人は「優しい」と言われるだろう。しかし自分の息子に食事を与えても誰も「優しい」とはいわない。
子供の親が「優しい」と言われるためには当然食事を与える以上の自己犠牲が強いられるわけだ。
男女の関係を考えてみても恋人間の「優しい」と夫婦間の「優しい」は同じようで同じでない。
優しさと強さは対比されることが多いけれど、強さを伴わない優しさは到底信頼できるものではないし、実際役には立たない。単なるいい人で終わってしまうものだ。
結論:
強くて優しい人が最高。
弱くて優しくない人は生きている価値もない。
強くても優しくない人は嫌われる。
そして、弱い人は、優しい人であることだけが唯一の美点となる。
男も女も、強くなくっちゃ世の中やっていけない、と思う。
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