秋葉原の人気店、じゃんがらの味、僕は全く支持はしないし、その味は明らかに以前より変わっている(僕の感覚では「落ちている」)と思います。この店、かつてはAAC 8/13がついてましたから(現在の評価の詳細はデータベース参照)。しかしながら、じゃんがららーめん原宿一階店で食べることの出来る「ぼんしゃん」を食べていると、確かに波はあるのですが、低調のときでもそこそこ、好調のときはかなりいけてるわけで、少なくともここについては「なにが旨いか(ただし、僕にとっての、ですが)」はわかっていると思います。それでも2階では(僕の感覚では)まずい、「じゃんがら」を出していて、客は同じように入っているです。
僕の感覚では「じゃんがら」はまずいんですが、それはあくまでも僕の感覚で、もちろんじゃんがらが好きな人もいるということです。じゃんがらは僕からみれば確信犯で「まずい」ラーメンをだしていて、しかも成功してるってことです。もしかしたらじゃんがらがまずくて、ぼんしゃんが旨いと感じる僕がマイノリティなのかもしれない。
価値観が多様化してきている現在では、こういった戦略(色々なラーメンを出す)だって、もちろん「あり」で、じゃんがらはそれをやって成功している事例なわけです。じゃんがらがまずく感じたとしても僕はぼんしゃんを食べればいいわけで、「ここへ来てじゃんがらをたべるなんて信じられん」というのは心の中で思えばいいことです。
世の中には麺が柔らかいものが好きな人もいれば、あっさりしている九州ラーメンが好きな人もいるわけで、十分な市場性があると判断されれば、そのニーズにあった商品を投入するのは企業として普通なことです。
僕の今までの経験からするとラーメンを食べる頻度が多い人(いわゆるラーメン好き、ラーメン通と呼ばれる人)は、硬めの麺、濃い味付け、こってりしたスープなどを好む傾向があると思うのですが、そうでなければいけない、ということはもちろんないです。それに、世の中にはこういった「ラーメン好き」以外の人で「たまにちょっと、食べてみたい」という人が山ほどいるはずで、そういった人達のニーズは僕等(貪欲においしいラーメンを食べようとする人)のそれとは大きく異なっていても不思議はありません。また、異なっているからといって、それを否定できるわけでもない。
まぁ、何が言いたいのかよくわからなくなっちゃいましたが、要はじゃんがららーめんが、本店、原宿2階店などで「うすくてこくのないラーメンを出している」のは確信犯である。その結果ラーメン屋として好調を維持しているのだから、普通の「まずい」ラーメン屋と同一線上でじゃんがらを語ることは出来ないのではないかということです。僕から見ると不可解なことが多く、また、その味の変遷(僕からみれば凋落)の具合は故意ではない、と推測される部分が多いじゃんがららーめんではあるのですが、商売と成功している以上、そこには何らかの理屈があるのではないか、と感じています。ラーメンは奥が深い(^^。
97.7.31
かつて、看板すらなく、都内に幾つかある、謎のラーメン屋、ということで世のラーメン好きを悩ませたがんこですが、最近はその実態が比較的明らかになっています。
がんこの「看板なし」という業態はその原始においてはどうだったのか定かでないですが、今では、それが一つの「看板」として作用しています。都内のどこかにマンションの一室にある完全会員制のラーメン屋がある、という話を聞いたことがありますが、これとは明らかに異質です。がんこのいわば「看板にあらざる看板」は知名度があがった状態においてはじめて有効な看板として作用するわけですが、その効能としては
「客をラーメン通になった気にさせる」
というのが絶大だと思います。まぁ、マスコミにも結構出てくるがんこですが、このホームページを見に来ている人だって、おそらく二人に一人はどこにあるか知らない人だと思います。で、何かの拍子に看板のない怪しいラーメン屋があって、かなりうまいらしい、という情報を聞きつけ、それを口コミで探し当てた日には「俺って、ラーメン通なんぢゃないのかな」って勘違い(とは限りませんが(^^;)することだってあります。で、そう いう人に限ってぺらぺら人にしゃべりたがるものだから(失礼(^^;)普通の店以上に口コミの効果が上がるわけです。
家元(がんこラーメンの総本家、現在は西早稲田店)がはじめっからこういった効果を考慮して今の業態を考えたのなら正に脱帽モノ(^^;。看板がないことによって、客に自己満足を与え、さらに多少口に合わなくても「うまい(はず)!」と錯覚させることが出来るわけです。
結果としてか、狙ってかはわかりませんが一つの立派な戦略です。ただ問題点が一つ。やはり誘発効果が少ないんです。ふらっと入ってくる人もいない。そういうわけで、マスコミには名前を出すし、店の前には「やってるよ」と書いたりとか、ラーメン回数券をはったりとか、看板を出す代わりのことをやってるわけです。店のキャパを小さくして、行列を外に並ばせているのも看板の代わりになってます。看板を出さないだけで、こうしたアピールをする、という矛盾した行動は新しい支店になるほど積極的なようです。まぁ、当然といえば当然ですが。
店の前に看板を出さないことにより、自己満足を与え、スイートスポットにはまらなかった客さえも取り込むことを可能にし、本来看板が果たすべき役割はマスコミを積極的に利用する、ってことです、がんこの基本姿勢。
まぁ、我々としてはたまたまがんこを知っているからといって優越感に浸らず(これが結構難しかったりして(^^;)、美味しいと思えばまたいけばいいし、まずいと思ったらもう行かなきゃ良いわけです(^^;。
ちなみに僕の場合、がんこ末広町の塩は東京では最上クラスに評価していますので、こういった業態でなかったとしてもやはり定期的に通ってはいたでしょうが、家元の焦がしネギはよっぽどのことがない限り、もうたべないです。家元のラーメンは味噌以外は食べる気がしません(^^。もっとも味噌は、1年に1回くらいしか食べるチャンスがないようですが。
ま、皆さんも一度は食べてみて下さい。特に末広町の塩。
97.7.31
大安食堂がラーメン博物館にくる際、店主は夫婦が離れ離れになってしまうことからかなり難色を示したらしい。博物館側はかなり難航した交渉の末、なんとか親父さんを新横浜に連れてくることに成功し、博物館の中に御当地ラーメンの雄、喜多方の大安食堂を誘致することになったのである(一部伝聞)。
しかしながら、いざ、ラーメン博物館が開館してみると、その営業成績は必ずしも芳しいものではなかったようである。すみれ、一風堂(こうして並べると一昔前の歌のようですね)などが30分待ち、といった行列になっているにもかかわらず、「いつでも待たずに食べれる店」として僕にとっては重宝な店であった。では、この店のレベルが低かったのか、というと決してそうではない。個人的な評価(味に関する評価とは、すべてが個人的なものであるが)では、当時のこむらさき、一風堂よりも上だったと思う。特に塩ラーメンは絶妙なダシ、スープがよく絡み、その主張が口の中でしっかり展開される麺、ラーメンの中で完全に融合し、絶妙なアクセントを提供しつつ、決して自己主張しすぎないチャーシュー、とほぼ完璧な作品に仕上がっていた。東京の水という大きなハンデを背負いながらこのクオリティは今から考えるとほとんど奇跡であったと思う。喜多方ラーメンはスープも水に左右されるところが大きいが、非常に含水率の高い多加水麺を利用することから麺の面でもハンデが大きいのである。
なぜ、はやらなかったのか。原因は幾つか考えられる。一つには巷に喜多方ラーメンのチェーン店が氾濫していたことがあげられる。実際に喜多方に行って食べ比べてみればはっきりと判ることであるが、首都圏にある喜多方ラーメンは、本場の喜多方のラーメンに比べるとあまりにも劣悪である。こうした喜多方ラーメンの首都圏における大量の看板が「喜多方のラーメンは大したことない」と感じさせたことが考えられる。また、それら、多くのチェーン店があまりにも氾濫していたため、それを美味しいと感じた人達も「家のそばで食べれるのだから、わざわざ博物館で食べなくても」と考えたのかもしれない。また、博物館内の環境ということもあげられるかもしれない。すみれは強烈な個性で来館者に歓迎され、九州系の2店はそれなりの九州ラーメンの味を提供していた。全部で4軒あった地方ラーメンの中ではその味の個性からいっても、関東から日帰り圏内であるという地理的な立地からいってもほかの3店に比べると明らかに不利な状況に置かれていた。
これは勝手な想像であるが、夫婦別居までして東京にでてきて、地元に比べれば麺についても、水についても思い通りにならないことが多いといった悪条件で、それでも美味しいと信じてラーメンを作っているにもかかわらず、それが客に理解してもらえない、という状況は決して幸せとは言えないだろう。親父さんは横浜という土地に出てきたことを後悔しているんじゃないかな、と考えたりもした。
やがて、親父さんの還暦を機に、大安食堂はラーメン博物館から姿を消すことになる。これは我々にとっては本当に大きな損失であったと思う。まともな喜多方ラーメンが関東から姿を消してしまったのだから。しかし、このことを本気で悲しく感じた人は当時もそうはいなかっただろうし、今でもそれほどはいないのではないかと思う。
96年秋、僕は喜多方に行く機会があったので、もちろん大安食堂本店にも立ち寄った。ラーメン博物館店に比べると収容能力はやや少な目かな、と思われる店内にはラーメン博物館のポスターがはってあり、幾つかの関連グッズが所々においてあった。そして、テレビの下のちょっとした、でも、よく目立つところにラーメン博物館からおくられた感謝状(といっても、盾だけど)が丁寧に飾られていた。これを見て「ああ、この親父さんは決して負けたとは思っていないんだな。自信を持って、故郷に帰ったんだな」と感じた。そしてとても安心した。
先日、ラーメン博物館の館長さんや広報の武内さんなどと話をしたとき、その点がちょっと気になったので、さらに確認してみた。「大安食堂は営業成績が悪くて、撤退したような形なんですか?」という問いに返ってきた言葉は「いや、ただ、純粋にもう、喜多方に帰りたかったようです。決して撤退とか、そういうものではないです」というような内容だった。
本当にうまいものが必ずしも正当に評価されるわけではないし、うまい店がはやらなかったといっても、それが不当なことではない。だけれども、やはりうまい店はそれなりに評価されて欲しいとは思う。
今、ラーメン博物館に喜多方ラーメンの店はまだ、ない。
97.8.1
化学調味料、横浜系(家系)は勿論、とんこつ中心のところはまず間違いなく入ってます(とんこつはとりがらと違って味が薄いですからね)し、東京ラーメンもほとんど入ってます。逆に入れてないめんめん@秋葉原みたいなところのほうがぼくは味気なく感じます。ちなみに東京ラーメンでは僕の一押しのピカ一@神保町もスープがトンコツベースなので化学調味料のお世話になってます。
ちなみに総合食品辞典(同文書院)によると化学調味料とはグルタミン酸ナトリウムや他のアミノ酸塩、核酸塩などのことで、食塩は該当しないようです。通常、これらの化学調味料はアミノ酸生産菌によるアミノ酸醗酵などで合成されており、化学合成(薬品Aと薬品Bを混合して合成する、といった方法)とはかなり異なります。
ここら辺の「化学調味料」については、いろり@札幌が一つのケーススタディになると思います。この店は化学調味料を使ってない店ですが、通常のラーメンはかなり薄味で、非常に物足りなく感じます。これは化学調味料を使わない事のデメリットです。ところがスペシャルラーメンになると色々な旨味が混合して、非常に複雑な味わいになります。これは魚介系の具からしみだした旨味がダシと絡み合って創出されたもので、化学調味料がなくても素晴らしい味になっています。ただし、高い。つまり、化学調味料を使わずに安価なラーメンを作ろうとすれば淡白なものになり、深い味わいのものを作ろうと思えば高価になる。結局化学調味料というのはB級グルメとしてのラーメンの必要悪だと思います。
まぁ、程度問題なんですけどね(^^。井上@築地とか、広豚麺@祖師谷大蔵みたいにダシが薄くて化学調味料が極端にきついと気になりますから。ただ、これは化学調味料の利用がへたくそな例であって、化学調味料を利用する事自体を否定する性質のものではないと思います。
時々グルメ本なんかで、「厨房に化学調味料がおいてあって興ざめ」とか、「客の前で平然と化学調味料を入れていて不愉快」などといった記述が載っているのを見ると、「やれやれ」と思ってしまいます。どんな材料(化学調味料を含む)を使っていようとうまい店はうまいし、高価な材料、特に天然材料を沢山使っていてもその使い手の腕が悪ければろくでもないものになります。化学調味料、化学調味料と、その外見だけを騒ぎ立てるのではなく、旨いかどうかをみるべきではないかと思います。その上で「化学調味料が強すぎていただけない」というのはそれはそれで一つの意見ですが、味を論じるときに上に挙げたような一種の偏見を持つ事は納得しかねるところです。
97.8.8
僕の記憶が確かなら、映画「たんぽぽ」の中で「正しいラーメンの食べ方」というのが論じられたことがある。「まず、スープを二口飲む」などといったところから始まっていたと思うのだが、その中で「レンゲを使わない」というのがあったと思う。そして、この映画の影響もあるのだろうか、レンゲを使うことを拒否し、どんぶりから直接飲むことをモットーとしている人も少なくない。それにとどまらず、「レンゲを使うのは邪道だ」「レンゲを使うのは通ではない」「スープはどんぶりからガーっと飲まなくちゃ」などと余計なおせっかいをやく人まで存在する。また、食べる側だけでなく、わざわざ「うちのラーメンはどんぶりから直接スープを飲んでくれ」という意図を店側から打ち出しているところもある。ここまで極端ではなくても、わざとレンゲを置いてないラーメン屋も決して少なくはなく、それらの店が「通好み」と評価されているケースも少なくないと思う。
なぜ、レンゲを使ってはいけないのだろうか?
レンゲというものは昭和40年ぐらいまでは存在自体が稀だったらしい。だから、この時代からラーメンに親しんできている人々にとってはあまりファミリアな存在ではないようだ。したがって、こういった人達が「食べにくいから」とか、「必要ないから」といった理由でレンゲを拒否することは十分に理解ができることである。しかし、レンゲを拒否している人の大部分がこのセグメントに属しているわけではないと思う。
レンゲを使うことの利点としてすぐにあげられることは、
○どんぶりを持たずにすむので、熱くない
○どんぶりを持たずにすむので、重くない
○どんぶりを持たずにすむので、手が脂等で汚れない
といったことがあるだろう。
これに対して、不都合な点とは
○スープを飲み干すことが難しい
○一度に大量のスープを飲めない
といったことがあげられるだろう。
つまり、レンゲを使う、ということは、どんぶりの熱さに耐えられなかったり、どんぶりの重さが負担だったり、手が汚れるのがいやだったり、スープを飲み干す気がなかったり、一度に大量のスープを飲めなかったり、ということの現れであると判断できる。ラーメンがB級グルメ、つまり下品で粗野な食べ物の代表である(ただし主観)ことを考慮すると、ある意味で「軟弱な人間と他人から判断されるのが嫌」というセグメントに属する人達が、自分自身が軟弱と思われないためにレンゲの利用を拒否するケースが多いであろうと推測できる。
個人的な見解を述べさせてもらえば、レンゲから飲もうが、どんぶりから飲もうが、スープの味なんてそうは変わらないし、レンゲを使わないことのメリットというのはほとんど感じられない。ラーメンを食べる、という行為は我慢大会でも、筋トレでも、大食い競争でもないのだから、使いたい人は遠慮なく使うべきだと思う。
ちなみに僕は食事の際に重いものを持つのは嫌だし、脂で手が汚れるのも嫌だから、レンゲがある店ではほぼ間違いなくレンゲを利用する。それに、レンゲを使わずにスープを飲んだら火傷しちゃってラーメンどころではなくなる店も少なからず存在する。例えばすみれ@ラ博および北海道のスープなんて、レンゲなしでは飲めたものぢゃないと思う。それから、スープの絡みが悪い麺を使っている店などにあたった時などは、レンゲにスープをすくい、その中に麺をいれて、丸ごと口に放り込んだりする。また、刻みニンニクやトウバンジャン、酢といった、ラーメン自体の味を激変させてしまう調味料を添加する時にも、取り敢えずレンゲの中で混ぜてみて、その味の具合を確かめることにも利用している。かように、レンゲとは非常に便利なもので(だって、利用者がいないならわざわざこんな道具、作らないだろうし、ここまで普及もしなかったでしょう(^^;?)、ラーメンを美味しく食べるために必要であれば、心置きなく利用すべきだと思う。これって、軟弱なのかな(^^;?ちなみに、使いたくない、と思っている人に「使え」と言っているわけではないんですよ(^^;。
最近はレンゲ自体もいろいろなバージョンがあらわれ、竹でできた高級感のあるものからプラスチック製でどんぶりに引っ掛けられるように切り込みがはいた量産タイプまで、多様になってきている。レンゲ一つとっても店の個性が現れているわけで(置いてない、というのも一つの個性)、こうした視点でラーメン屋さんをみてみるのもなかなか楽しいものかもしれない。
97.8.25