ブウ*の視点
九州じゃんがららあめんについて

秋葉原の人気店、じゃんがらの味、僕は全く支持はしないし、その味は明らかに以前より変わっている(僕の感覚では「落ちている」)と思います。この店、かつてはAAC 8/13がついてましたから(現在の評価の詳細はデータベース参照)。しかしながら、じゃんがららーめん原宿一階店で食べることの出来る「ぼんしゃん」を食べていると、確かに波はあるのですが、低調のときでもそこそこ、好調のときはかなりいけてるわけで、少なくともここについては「なにが旨いか(ただし、僕にとっての、ですが)」はわかっていると思います。それでも2階では(僕の感覚では)まずい、「じゃんがら」を出していて、客は同じように入っているです。

僕の感覚では「じゃんがら」はまずいんですが、それはあくまでも僕の感覚で、もちろんじゃんがらが好きな人もいるということです。じゃんがらは僕からみれば確信犯で「まずい」ラーメンをだしていて、しかも成功してるってことです。もしかしたらじゃんがらがまずくて、ぼんしゃんが旨いと感じる僕がマイノリティなのかもしれない。

価値観が多様化してきている現在では、こういった戦略(色々なラーメンを出す)だって、もちろん「あり」で、じゃんがらはそれをやって成功している事例なわけです。じゃんがらがまずく感じたとしても僕はぼんしゃんを食べればいいわけで、「ここへ来てじゃんがらをたべるなんて信じられん」というのは心の中で思えばいいことです。

世の中には麺が柔らかいものが好きな人もいれば、あっさりしている九州ラーメンが好きな人もいるわけで、十分な市場性があると判断されれば、そのニーズにあった商品を投入するのは企業として普通 なことです。

僕の今までの経験からするとラーメンを食べる頻度が多い人(いわゆるラーメン好き、ラーメン通 と呼ばれる人)は、硬めの麺、濃い味付け、こってりしたスープなどを好む傾向があると思うのですが、そうでなければいけない、ということはもちろんないです。それに、世の中にはこういった「ラーメン好き」以外の人で「たまにちょっと、食べてみたい」という人が山ほどいるはずで、そういった人達のニーズは僕等(貪欲においしいラーメンを食べようとする人)のそれとは大きく異なっていても不思議はありません。また、異なっているからといって、それを否定できるわけでもない。

まぁ、何が言いたいのかよくわからなくなっちゃいましたが、要はじゃんがららーめんが、本店、原宿2階店などで「うすくてこくのないラーメンを出している」のは確信犯である。その結果 ラーメン屋として好調を維持しているのだから、普通の「まずい」ラーメン屋と同一線上でじゃんがらを語ることは出来ないのではないかということです。僕から見ると不可解なことが多く、また、その味の変遷(僕からみれば凋落)の具合は故意ではない、と推測される部分が多いじゃんがららーめんではあるのですが、商売と成功している以上、そこには何らかの理屈があるのではないか、と感じています。ラーメンは奥が深い(^^。

97.7.31

がんこラーメンについて

かつて、看板すらなく、都内に幾つかある、謎のラーメン屋、ということで世のラーメン好きを悩ませたがんこですが、最近はその実態が比較的明らかになっています。

がんこの「看板なし」という業態はその原始においてはどうだったのか定かでないですが、今では、それが一つの「看板」として作用しています。都内のどこかにマンションの一室にある完全会員制のラーメン屋がある、という話を聞いたことがありますが、これとは明らかに異質です。がんこのいわば「看板にあらざる看板」は知名度があがった状態においてはじめて有効な看板として作用するわけですが、その効能としては

「客をラーメン通になった気にさせる」

というのが絶大だと思います。まぁ、マスコミにも結構出てくるがんこですが、このホームページを見に来ている人だって、おそらく二人に一人はどこにあるか知らない人だと思います。で、何かの拍子に看板のない怪しいラーメン屋があって、かなりうまいらしい、という情報を聞きつけ、それを口コミで探し当てた日には「俺って、ラーメン通 なんぢゃないのかな」って勘違い(とは限りませんが(^^;)することだってあります。で、そう いう人に限ってぺらぺら人にしゃべりたがるものだから(失礼(^^;)普通の店以上に口コミの効果 が上がるわけです。

家元(がんこラーメンの総本家、現在は西早稲田店)がはじめっからこういった効果 を考慮して今の業態を考えたのなら正に脱帽モノ(^^;。看板がないことによって、客に自己満足を与え、さらに多少口に合わなくても「うまい(はず)!」と錯覚させることが出来るわけです。

結果としてか、狙ってかはわかりませんが一つの立派な戦略です。ただ問題点が一つ。やはり誘発効果 が少ないんです。ふらっと入ってくる人もいない。そういうわけで、マスコミには名前を出すし、店の前には「やってるよ」と書いたりとか、ラーメン回数券をはったりとか、看板を出す代わりのことをやってるわけです。店のキャパを小さくして、行列を外に並ばせているのも看板の代わりになってます。看板を出さないだけで、こうしたアピールをする、という矛盾した行動は新しい支店になるほど積極的なようです。まぁ、当然といえば当然ですが。

店の前に看板を出さないことにより、自己満足を与え、スイートスポットにはまらなかった客さえも取り込むことを可能にし、本来看板が果 たすべき役割はマスコミを積極的に利用する、ってことです、がんこの基本姿勢。

まぁ、我々としてはたまたまがんこを知っているからといって優越感に浸らず(これが結構難しかったりして(^^;)、美味しいと思えばまたいけばいいし、まずいと思ったらもう行かなきゃ良いわけです(^^;。

ちなみに僕の場合、がんこ末広町の塩は東京では最上クラスに評価していますので、こういった業態でなかったとしてもやはり定期的に通 ってはいたでしょうが、家元の焦がしネギはよっぽどのことがない限り、もうたべないです。家元のラーメンは味噌以外は食べる気がしません(^^。もっとも味噌は、1年に1回くらいしか食べるチャンスがないようですが。

ま、皆さんも一度は食べてみて下さい。特に末広町の塩。

97.7.31

大安食堂について

大安食堂がラーメン博物館にくる際、店主は夫婦が離れ離れになってしまうことからかなり難色を示したらしい。博物館側はかなり難航した交渉の末、なんとか親父さんを新横浜に連れてくることに成功し、博物館の中に御当地ラーメンの雄、喜多方の大安食堂を誘致することになったのである(一部伝聞)。

しかしながら、いざ、ラーメン博物館が開館してみると、その営業成績は必ずしも芳しいものではなかったようである。すみれ、一風堂(こうして並べると一昔前の歌のようですね)などが30分待ち、といった行列になっているにもかかわらず、「いつでも待たずに食べれる店」として僕にとっては重宝な店であった。では、この店のレベルが低かったのか、というと決してそうではない。個人的な評価(味に関する評価とは、すべてが個人的なものであるが)では、当時のこむらさき、一風堂よりも上だったと思う。特に塩ラーメンは絶妙なダシ、スープがよく絡み、その主張が口の中でしっかり展開される麺、ラーメンの中で完全に融合し、絶妙なアクセントを提供しつつ、決して自己主張しすぎないチャーシュー、とほぼ完璧な作品に仕上がっていた。東京の水という大きなハンデを背負いながらこのクオリティは今から考えるとほとんど奇跡であったと思う。喜多方ラーメンはスープも水に左右されるところが大きいが、非常に含水率の高い多加水麺を利用することから麺の面 でもハンデが大きいのである。

なぜ、はやらなかったのか。原因は幾つか考えられる。一つには巷に喜多方ラーメンのチェーン店が氾濫していたことがあげられる。実際に喜多方に行って食べ比べてみればはっきりと判ることであるが、首都圏にある喜多方ラーメンは、本場の喜多方のラーメンに比べるとあまりにも劣悪である。こうした喜多方ラーメンの首都圏における大量 の看板が「喜多方のラーメンは大したことない」と感じさせたことが考えられる。また、それら、多くのチェーン店があまりにも氾濫していたため、それを美味しいと感じた人達も「家のそばで食べれるのだから、わざわざ博物館で食べなくても」と考えたのかもしれない。また、博物館内の環境ということもあげられるかもしれない。すみれは強烈な個性で来館者に歓迎され、九州系の2店はそれなりの九州ラーメンの味を提供していた。全部で4軒あった地方ラーメンの中ではその味の個性からいっても、関東から日帰り圏内であるという地理的な立地からいってもほかの3店に比べると明らかに不利な状況に置かれていた。

これは勝手な想像であるが、夫婦別居までして東京にでてきて、地元に比べれば麺についても、水についても思い通 りにならないことが多いといった悪条件で、それでも美味しいと信じてラーメンを作っているにもかかわらず、それが客に理解してもらえない、という状況は決して幸せとは言えないだろう。親父さんは横浜という土地に出てきたことを後悔しているんじゃないかな、と考えたりもした。

やがて、親父さんの還暦を機に、大安食堂はラーメン博物館から姿を消すことになる。これは我々にとっては本当に大きな損失であったと思う。まともな喜多方ラーメンが関東から姿を消してしまったのだから。しかし、このことを本気で悲しく感じた人は当時もそうはいなかっただろうし、今でもそれほどはいないのではないかと思う。

96年秋、僕は喜多方に行く機会があったので、もちろん大安食堂本店にも立ち寄った。ラーメン博物館店に比べると収容能力はやや少な目かな、と思われる店内にはラーメン博物館のポスターがはってあり、幾つかの関連グッズが所々においてあった。そして、テレビの下のちょっとした、でも、よく目立つところにラーメン博物館からおくられた感謝状(といっても、盾だけど)が丁寧に飾られていた。これを見て「ああ、この親父さんは決して負けたとは思っていないんだな。自信を持って、故郷に帰ったんだな」と感じた。そしてとても安心した。

先日、ラーメン博物館の館長さんや広報の武内さんなどと話をしたとき、その点がちょっと気になったので、さらに確認してみた。「大安食堂は営業成績が悪くて、撤退したような形なんですか?」という問いに返ってきた言葉は「いや、ただ、純粋にもう、喜多方に帰りたかったようです。決して撤退とか、そういうものではないです」というような内容だった。

本当にうまいものが必ずしも正当に評価されるわけではないし、うまい店がはやらなかったといっても、それが不当なことではない。だけれども、やはりうまい店はそれなりに評価されて欲しいとは思う。

今、ラーメン博物館に喜多方ラーメンの店はまだ、ない。

97.8.1

化学調味料について

化学調味料、横浜系(家系)は勿論、とんこつ中心のところはまず間違いなく入ってます(とんこつはとりがらと違って味が薄いですからね)し、東京ラーメンもほとんど入ってます。逆に入れてないめんめん@秋葉原みたいなところのほうがぼくは味気なく感じます。ちなみに東京ラーメンでは僕の一押しのピカ一@神保町もスープがトンコツベースなので化学調味料のお世話になってます。

ちなみに総合食品辞典(同文書院)によると化学調味料とはグルタミン酸ナトリウムや他のアミノ酸塩、核酸塩などのことで、食塩は該当しないようです。通 常、これらの化学調味料はアミノ酸生産菌によるアミノ酸醗酵などで合成されており、化学合成(薬品Aと薬品Bを混合して合成する、といった方法)とはかなり異なります。

ここら辺の「化学調味料」については、いろり@札幌が一つのケーススタディになると思います。この店は化学調味料を使ってない店ですが、通 常のラーメンはかなり薄味で、非常に物足りなく感じます。これは化学調味料を使わない事のデメリットです。ところがスペシャルラーメンになると色々な旨味が混合して、非常に複雑な味わいになります。これは魚介系の具からしみだした旨味がダシと絡み合って創出されたもので、化学調味料がなくても素晴らしい味になっています。ただし、高い。つまり、化学調味料を使わずに安価なラーメンを作ろうとすれば淡白なものになり、深い味わいのものを作ろうと思えば高価になる。結局化学調味料というのはB級グルメとしてのラーメンの必要悪だと思います。

まぁ、程度問題なんですけどね(^^。井上@築地とか、広豚麺@祖師谷大蔵みたいにダシが薄くて化学調味料が極端にきついと気になりますから。ただ、これは化学調味料の利用がへたくそな例であって、化学調味料を利用する事自体を否定する性質のものではないと思います。

時々グルメ本なんかで、「厨房に化学調味料がおいてあって興ざめ」とか、「客の前で平然と化学調味料を入れていて不愉快」などといった記述が載っているのを見ると、「やれやれ」と思ってしまいます。どんな材料(化学調味料を含む)を使っていようとうまい店はうまいし、高価な材料、特に天然材料を沢山使っていてもその使い手の腕が悪ければろくでもないものになります。化学調味料、化学調味料と、その外見だけを騒ぎ立てるのではなく、旨いかどうかをみるべきではないかと思います。その上で「化学調味料が強すぎていただけない」というのはそれはそれで一つの意見ですが、味を論じるときに上に挙げたような一種の偏見を持つ事は納得しかねるところです。

97.8.8

レンゲについて

僕の記憶が確かなら、映画「たんぽぽ」の中で「正しいラーメンの食べ方」というのが論じられたことがある。「まず、スープを二口飲む」などといったところから始まっていたと思うのだが、その中で「レンゲを使わない」というのがあったと思う。そして、この映画の影響もあるのだろうか、レンゲを使うことを拒否し、どんぶりから直接飲むことをモットーとしている人も少なくない。それにとどまらず、「レンゲを使うのは邪道だ」「レンゲを使うのは通 ではない」「スープはどんぶりからガーっと飲まなくちゃ」などと余計なおせっかいをやく人まで存在する。また、食べる側だけでなく、わざわざ「うちのラーメンはどんぶりから直接スープを飲んでくれ」という意図を店側から打ち出しているところもある。ここまで極端ではなくても、わざとレンゲを置いてないラーメン屋も決して少なくはなく、それらの店が「通 好み」と評価されているケースも少なくないと思う。

なぜ、レンゲを使ってはいけないのだろうか?

レンゲというものは昭和40年ぐらいまでは存在自体が稀だったらしい。だから、この時代からラーメンに親しんできている人々にとってはあまりファミリアな存在ではないようだ。したがって、こういった人達が「食べにくいから」とか、「必要ないから」といった理由でレンゲを拒否することは十分に理解ができることである。しかし、レンゲを拒否している人の大部分がこのセグメントに属しているわけではないと思う。

レンゲを使うことの利点としてすぐにあげられることは、

○どんぶりを持たずにすむので、熱くない
○どんぶりを持たずにすむので、重くない
○どんぶりを持たずにすむので、手が脂等で汚れない

といったことがあるだろう。

これに対して、不都合な点とは

○スープを飲み干すことが難しい
○一度に大量のスープを飲めない

といったことがあげられるだろう。

つまり、レンゲを使う、ということは、どんぶりの熱さに耐えられなかったり、どんぶりの重さが負担だったり、手が汚れるのがいやだったり、スープを飲み干す気がなかったり、一度に大量 のスープを飲めなかったり、ということの現れであると判断できる。ラーメンがB級グルメ、つまり下品で粗野な食べ物の代表である(ただし主観)ことを考慮すると、ある意味で「軟弱な人間と他人から判断されるのが嫌」というセグメントに属する人達が、自分自身が軟弱と思われないためにレンゲの利用を拒否するケースが多いであろうと推測できる。

個人的な見解を述べさせてもらえば、レンゲから飲もうが、どんぶりから飲もうが、スープの味なんてそうは変わらないし、レンゲを使わないことのメリットというのはほとんど感じられない。ラーメンを食べる、という行為は我慢大会でも、筋トレでも、大食い競争でもないのだから、使いたい人は遠慮なく使うべきだと思う。

ちなみに僕は食事の際に重いものを持つのは嫌だし、脂で手が汚れるのも嫌だから、レンゲがある店ではほぼ間違いなくレンゲを利用する。それに、レンゲを使わずにスープを飲んだら火傷しちゃってラーメンどころではなくなる店も少なからず存在する。例えばすみれ@ラ博および北海道のスープなんて、レンゲなしでは飲めたものぢゃないと思う。それから、スープの絡みが悪い麺を使っている店などにあたった時などは、レンゲにスープをすくい、その中に麺をいれて、丸ごと口に放り込んだりする。また、刻みニンニクやトウバンジャン、酢といった、ラーメン自体の味を激変させてしまう調味料を添加する時にも、取り敢えずレンゲの中で混ぜてみて、その味の具合を確かめることにも利用している。かように、レンゲとは非常に便利なもので(だって、利用者がいないならわざわざこんな道具、作らないだろうし、ここまで普及もしなかったでしょう(^^;?)、ラーメンを美味しく食べるために必要であれば、心置きなく利用すべきだと思う。これって、軟弱なのかな(^^;?ちなみに、使いたくない、と思っている人に「使え」と言っているわけではないんですよ(^^;。

最近はレンゲ自体もいろいろなバージョンがあらわれ、竹でできた高級感のあるものからプラスチック製でどんぶりに引っ掛けられるように切り込みがはいた量 産タイプまで、多様になってきている。レンゲ一つとっても店の個性が現れているわけで(置いてない、というのも一つの個性)、こうした視点でラーメン屋さんをみてみるのもなかなか楽しいものかもしれない。

97.8.25

見て判る「おいしいラーメン屋」

ラーメン屋さん、町中にはいくらでもあるのだが、はじめていく町などだと、本当に美味しい店はどこなのか、なかなか判らない。しかしながら、うまい店独特の店構えの傾向というのがあることも確かである。まぁ、見てくればかりを信用するとホイホイラーメンに捕まってショックを受けることもあるわけだが、以下に僕の経験から割り出された傾向をまとめて見よう。もちろん下記の条件を全部満たす必要はないが、観察しただけでうまい店かどうかを判断する場合、最重要事項は8個、重要事項は7個、ローカルルールは該当するものは全て満たす必要があるだろう。逆に半分以上あてはまらないような店であれば、かなりの高確率でまずいので、食べてみてまずくても文句を言ってはいけない。

最重要評価事項

1 店頭に「うまい」と書いてない。

2 店頭に「ニンニク」だとか「江戸だし」だとか、ダシにかかわることが書いてない。

3 ラーメン以外のメニューがない。あっても餃子程度。

4 ラーメンのスープが「トンコツスープも鶏ガラスープもあります」みたいに分かれていない。

5 ラーメンの種類が少ない。せいぜいチャーシューメン、海苔ラーメン、ネギラーメン程度。

6 24時間営業でない(営業時間は短い程よい)。

7 店員が少ない。バイトが少ない。できれば麺方(麺を茹でる人)は店主のみ。

8 「中華料理」の看板がない。

9 客席が少ない(限界は20)。

重要事項

1 店の前にメニュー代わりにラーメンの写真が貼ってない。

2 麺を茹でる時にタイマーを利用していない。

3 一度に作るラーメンの数が少ない。

4 店のテントが赤、黄色ではない。

5 白か紺の暖簾。

6 駅のホームからみえない。

7 大規模チェーン展開をしていない。

8 店員が厨房で喫煙しない。

9 清潔な店。

ローカルルール

1 喜多方ラーメンの場合、喜多方地域にある(つまり、喜多方以外の地域のはダメ)。

2 九州系の場合、あまり行列していない。

3 九州系の場合、ニンニククラッシャーがある。または生にんにくラーメンのメニューがある。

4 替え玉が可能な店の場合、うまみ汁かそれに類するものがある。

5 北海道系の場合、ウニラーメンとか、カニラーメンとかを出していない。

6 東京、神奈川の場合、ラーメンが500円より高い。

97.9.21

ぴあランキングルメについて

ぴあといえば、ラーメンについては赤本黒本が有名で、これらは確かになかなかの良書だと思う。そして、97年3月、首都圏版ラーメンランキングが発売された。これは、読者投票だけで決めたラーメンのランキングなのだが、あくまでも「人気店」であって、「うまい店」のランキングでないことに注意が必要である。「人気店とうまい店の違いとは何だ?」という声が聞こえてきそうだが、つまり

・母集団100人のうち、50人が知ってる店があって、そのうち15人が「この店が一番」と思った場合

・母集団100人のうち、10人知っている店があって、そのうち10人が「この店が一番」と思った場合

の2種類のケースを想定した時、「どちらが人気店か」という切り口では前者が該当する、といっても差し支えがない。しかし、「どちらがうまいか」となると30%の人間がうまいといった店と、100%の人間がうまいといった店では、おそらく後者が該当することになるだろう。この、ランキング上位 の店が必ずしもうまい店ではない、という状況は、アンケート結果の中に店自体の「知名度」が内包されていることによる。つまり、ぴあのランキングルメはこの「知名度」というファクターが排除されていないので、どうころんでも「うまい店のランキング」には成り得ないのである。では、そのランキング内容を僕のデータベースによって再検討してみよう。

ぴあランキング 店名 ブウ*評価 備考
1 九州じゃんがらラーメン 8
2 天下一品 5
3 桂花 1
4 げんこつ屋 8 渋谷店
5 えぞ菊 6
6 恵比須ラーメン 9 店主交代
7 二郎 8 新橋店
8 香月 5 横浜店
9 坂内 4
10 味源 6
11 ふくちゃん 未食
12 屯ちん 3
13 こうや 7
14 はしご 8
15 大勝軒 未食
16 日高 3 渋谷店
17 ザボン 6
18 壱発 未食
19 満来 1
20 山頭火 6
21 喜楽 6
22 春木屋 5
23 博多天神 3
24 ABCラーメン 未食
25 利しり 6
26 香蘭 未食
27 豪快 未食
28 黒兵衛 未食
29 はせ川 6
30 がんこ 12 末広町店

なお、集計に当たっては、チェーン展開している店については、一番評価の高い店の得点を採用した。また、恵比須ラーメンについては店主が交代しているため、現在の正確な味は不明である。旧店主は六本木あたりで「元祖恵比須ラーメン」の名前で営業しているようである。

ご覧の通り、確かにランキングに載っている店は平均得点で5.74と、そこそこに高評価のところが掲載されているともいえるが、天下一品、坂内といった大規模チェーン店、じゃんがら、桂花、香月といった有名店など、それ程実力があるとは思えない店が上位 に名前を連ねていることも指摘できる(なお、じゃんがらについては「ぼんしゃん」があるために8点という高評価になっている)。

こうしてあらためて再評価してみると、やはりあくまでも「人気ランキング」であり、実力ランキングでないことはよく判る。勿論、ラーメンの評価なんて個人個人の好みではあるのだが、たとえば「くじら軒」、「山形家」、「中島家」といった無名実力派が全くランキングされておらず、がんこ、にんにく屋なども下位 に甘んじているのをみると、「やっぱりあてにならないな」と思わざるをえないのである。まぁ、ぴあも「実力ランキング」とはうたってないわけで、こういった指摘をすれば「うちは実力ランキングなんてことは言ってません」という返事が返ってくることはまず間違いのないところではある。

では、このランキングをどのように利用したら良いか、ということになるが、例えば誰かが自分の身の回りの人100人に、「このランキングに載っている店のうち、どれを知っているか?」と質問してみれば良い。そして、その知名度が判ったら、5段階ぐらいにそれを分類し、知名度が上のものから順に5、4、3、2、1と、得点をつける。そして、ぴあに掲載されている点数をそれで割ってみれば良いのである。こうすることによって、知名度のファクターはある程度除去することが出来る。これは近いうちに自分の知り合いに対してアンケートを実施してみようと思うので、もしそれが実現したら、本文章のパート2として、その結果 を発表しようと思う。

97.9.21

ラーメンと健康

ラーメンの栄養価を調べてみると、大体蛋白質30g、脂肪10g、炭水化物90g、塩分6グラムといったところである。総カロリーは550-600kcal程度。栄養のバランスから考えるとNa以外のミネラル、ビタミン、食物繊維などが非常に少なく、炭水化物、塩分が非常に多い。蛋白質も質的にはあまり良いものとは言えず、栄養面 からは完全な嗜好品といえる。もちろん、時々ラーメンを食べるのであれば、不足している野菜や乳製品などを適切に摂取すれば良いのだが、こればかり食べているとちょっと困ったことになるだろう。思い付くところで考えられる障害をあげてみると肥満、高脂血症、高血圧、肝機能障害、腎機能障害、動脈硬化、胃癌、糖尿病・・・・。これらはどれも生活習慣病であるから、食生活だけが関連するわけではもちろんないが、ラーメンを頻繁に食べる生活を続けていれば、こういった病気になってしまう可能性はそうでない人に比べて当然高くなる。

時々、ラーメンを大量に食べているにもかかわらず、全然太らない人もお目にかかるのだが、これはあくまでも「太らない体質」によるもので、上にあげた症状のうちの一つが発症していないだけである。当然塩分を処理するために胃、肝臓や腎臓に負担がかかるわけで、太らないから体に負担がかかっていないというわけではない。同様に、糖尿病になりにくい人もいるし、高血圧になりにくい人もいるわけで、こういった症状が出ないからといって油断してはならない。生活習慣病は環境要因もさる事ながら、遺伝的資質というものも大きく作用すると考えられている。したがって、広い世の中には全然太らない、肝臓や腎臓も頑丈、血圧も問題ない、という鉄人も存在するのかもしれないが、今のところそういった人にお目にかかったことはない。僕自身週に5杯ぐらいはラーメンを食べるのだが、この状況で自分の体調をベストに保つのは非常に難しい。感覚的にいうと、僕の場合で適量 はせいぜい2杯/週といったところだろう。最近は明らかに食べ過ぎなので、ちょっと習慣を改善していかなくてはと考えている。

糖尿病や動脈硬化は一度発病してしまえばあとはそれとうまく折り合いをつけて行くしかなく、治療は非常に困難である。当然嗜好品にもドクターストップがかかるので、隠れて食べるにしても、気持ちよくラーメンを食べる、ということはなかなか出来なくなる。自分がラーメン屋であるとか、そういったなんらかの理由があって食べざるをえない人を除いては、「時々美味しいラーメンを食べて、人生を潤わせる」というのがごく普通 のラーメンの楽しみ方だと思う。美味しいラーメンでもまずいラーメンでもほぼ同じように健康をそこなう可能性があるのであれば、「まずいラーメンを食べること」は大きな損失である。したがって、ある程度ベーシックな知見(例えば「トンコツ系が好き」だとか、「味噌ラーメンが好き」だとか、そういった自分の嗜好が把握できる程度の知見)を収集した後には、テレビ、雑誌、ホームページ等の各種情報ツールを有効利用して、なるべく美味しいものだけを食べたいものである。例えば魔人ブウ*ラーメンデータベースを参考にするのなら、やはり3点以下の店は避けたほうが無難であろう。なかにはうまい店もあるかもしれないが、その可能性は例えば8点の店に比較すれば著しく低い。味というのは個人の主観であるから「絶対評価」というのは勿論有り得ないのだが、「一つの可能性の提示」として、有効利用していただければ幸いである。

97.9.23

TOKYO1週間登場記念特別記事

第壱話 ブウ*の評価の信憑性

「味」という主観的な切り口でラーメンを評価する、ということにはいくつかの問題がある。その「味を評価する」ことの問題点について考えてみる。

第一に、提供する側の問題点。

例えば、スープは様々な材料からだしをとって作り上げるわけで、当然出来、不出来がある。この要因は材料の質の変化、店主のやり方、店の混雑具合など、様々なファクターが原因となりうる。また、麺も、茹で加減や湯の切り方、麺そのものの出来などによって変化する。チャーシューも同じ肉塊から切り出しても場所によって味が異なる。例えば、製造業においては商品の内容にばらつきは本来ないのが当たり前だが、飲食業ではこうした変化はある程度避けられないものである。

次に提供される側の問題点。

最大の問題点は「個人によってその嗜好は千差万別である」ということである。したがって、一人の人間が「美味しい」と評価したところで、それは真理として万人に適用することは不可能である。料理の鉄人が「旨い」と評したからといって、誰が食べても旨いか、というと決してそうではない。これは、鉄人がおかしいのでも、「旨くない」と判断した人がおかしいのでもない。また、同一個人に限ってみてもその体調等によって、全く同じ物でも全く別 の評価になりうる。例えばお腹が空いているときとお腹が一杯のとき、健康なときと病気のとき、同一人物が同一の物を食べてもその食事から受ける印象は異なるのが普通 である。

つまり、味を評価する、ということは様々な要因により影響を受け、少なからずばらつきが生じる物だということになる。厳密な評価をするためには一つの店に何度も通 って、味のバラ付きを含めてテイスティングする必要がある。

もし、十分なテイスティングを実施せずにその味を評価するとしたら、それ相応のリスクを背負うことになる。「ブウ*のラーメンデータベース」は、その半分以上がたった一度のテイスティングによって評価されており、その意味で厳密性に欠けると言わざるをえない。「旨い」と感じた店は大抵の場合何度もリピートしているし、麺の墓場送りにするときなどは特に慎重にくり返し調査してはいるものの、本データベースのランキングがこうした構造的問題点を内包していることは理解しておいていただきたい。

97.11.27

第弐話 食べ物の「評価」は何故存在する?

食べ物の評価の構造上の問題点についてパート1で論じたが、この他に、「評価する人間」が実は非常に大きな問題である。例えば個人の嗜好という物は必ず存在するはずであり、この嗜好によって味の評価もなされるわけである。「なんでもかんでも、口に入れられる物は全て美味しい」という人では、味の評価は不可能である。逆に、特異な嗜好を持っている人や、好ききらいが激しい人、つまり味覚が優れていたとしても「辛い物は苦手」とか、「肉は食べられない」という人であれば、すべての種類の料理を適切に評価することは難しい。例えば、ワインの評価に関しては非常に優秀なソムリエでも、もし辛い物が苦手だとしたら、その人にタイ料理やキムチの評価をしろ、というのは全くもって無理な話である。

したがって、様々な種類の料理を公平かつ適正に評価するためには、「ほぼ万人の平均的な嗜好を持ち、ほぼ全ての物を好ききらいなく食べることが出来る」ということが要求される。ただし、この「万人の平均」というのがまた曲者で、世の中に「万人の平均」という人がいるかどうか疑問だし、いたとしてもかなり少数なはずである。その少数の人間だけが「万人の平均」の評価の恩恵を享受できる、というのであれば、それはそれで妙なことである。ある人にとって最も適切な評価とは自分と全く同じ嗜好を持った人の評価となるから、「絶対的に適切な評価」というのは存在しない。

こうして考えてくると、「料理の評価というものは信憑性が低いし、そもそも価値がないものである」という結論に達してしまう気がする。ところが、世の中にはミシュランを筆頭に、食べ物を評価する団体、書物は後を絶たない。この「評価無用論」と現実との間には大きな溝があるのだが、僕自身はこの溝を埋められるような適切な理論を持っていない。そこで、僕の個人的な感覚だけで述べてみるが、この溝を橋渡しするものは「権威に頼りたい人間の弱さ」になるのではないかと考えている。その道の権威が「あそこは旨い」と評価してくれたとき、人はそれを参考にし、実際に試し、自分の感覚に安心したり、自分の感覚を修正したり、場合によってはそのずれを楽しんだりしているのではないだろうか。その、自分の感覚を真理に近いものとして信用しきれない弱さが、本来価値がないはずの「評価のニーズ」を生み出していると考えるのである。

97.11.27

第参話 特務機関ブウ*

本ウェブページの最大の特徴はあくまでも「評価」である。沢山の店を網羅的に食べ歩いてデータベースを構築しているわけでもないし、口コミ情報を収集、発信しているわけでもない。そういった特性が皆無であるとはいわないが、そうした視点からは非常に優れたウェブページが他に幾つか存在しており(例:とらさん、ジャンボのラーメンのページ等)、今更同工のウェブページが必要だとは思えない。となると、評価3題パート1、パート2の文章はこのウェブページの唯一にして最大のレーゾンデートルを否定するものになる。

そこで、この曖昧な「ラーメンの味」について、少しでもスタンダードを提示し、その理想像の提案を行うことにより、多少なりとも評価を価値のあるものにしたいと考える。以下に、僕の提案する「ラーメンの理想像」を提示したいと思う(ここではトンコツが良い、トリガラが良い、といった個別 各論ではなく、一般的な特性についての提示である)。勿論、本データベースの評価はこの基準にのっとった形で行われている。

柔らかすぎない

固すぎない

粘り強さがあり、しかも簡単に噛み切れる

スープが絡み、麺とスープの一体感が味わえる

食べ始めと食べ終わりで食感の変化が少ない

かんすいなど味以外の目的で添加された物が味を乱していない

スープ

ダシの味が楽しめる

過剰に調味料(塩、醤油、味噌、化学調味料等)に頼っていない

麺に絡む

熱い

保存剤など味以外の目的で添加された物が味を乱していない

具(注文の時点で丼に入ってくるもの)

スープの味を乱さない

スープの味に調和している

保存剤など味以外の目的で添加された物が味を乱していない

さて、以上のラーメンの理想像をあなたが是とした場合(この仮定が重要)、僕の評価はあなたにとってかなりの信憑性を持つと考えている。つまり、僕の評価が高ければ、その店はあなたにとっても美味しいラーメン屋である「可能性」が高い。ここであえて「可能性」としているのは、パート1、パート2で述べた評価の不確実性による。それでもなお、世の中に山ほどあるラーメンガイド、ラーメン評論の中でも屈指の信憑性を持つ「可能性」を提示しているはずである。

なお、個人的に、評価にあたっては特殊な場合(地方のご当地ラーメンを食べる、とか雑誌の取材等)を除いて以下の点に注意し、より適切な評価が出来るように配慮している。

調味料を最初からは使わない

食べるのに無駄に時間をかけない

お腹がすいている状態で食べる

似たようなラーメンを短期間に食べない

短期間に沢山のラーメンを食べない

さらに日頃から、以下の点にも留意している。

ラーメン以外の「美味しいもの」を色々と食べる

ランニング等により体調を整える

好き嫌いをなくす(現在嫌いな物はセロリのみ)

これらの制約があるために、食べ歩きをはじめてから10年以上、データベースが現在の形になってから5年以上経過しているにもかかわらず、登録件数は300余軒である。また、今後も爆発的な登録件数の増加は望めないであろう。また、自分個人の中でもこの10年の間に好みも変わっただろうし、評価基準も変わってきていると思う。しかしながら、一人の人間が作成したラーメンのランキングとしてその価値を認めてもらえるならば、時々このページをチェックしてもらいたいと考えている。

97.11.27

ラ博特別企画「バン麺」(97.12.8〜98.2.23)の評価

もともと、本企画は、ラ博の新機軸と言うよりはリピーターに対するサービスという色が濃い企画なので、いちいち評価したり文句をつけたりするのは筋違いであろう。「いつも来てくれてありがとう、たまにはこういうのも食べてみてくださいよ、こういうものも作れるんですよ」的なスタンスなのだから、「たまには違ったものも食べてみようかな」と食べてみるのが本道なのは百も承知。しかしながら、ここはブウ*のウェブページ、評価せずにはいられない。以下、試食したものについて評価を簡単に書く。ただし、各店独自に趣向を凝らしているし、その中身も様々。普通 通りの麺、スープ、チャーシューという切り口での評価は困難なので、今回は☆の数で直感的に評価する。☆は3つが最高である。

すみれ

麺はバン麺用の特製らしいが、加水率が低めで、スープの少ないバン麺では今ひとつの印象。スープは薄い塩味で味自体悪くはないのだが、一緒に入っている野菜(クレソン、長芋、トマト等)の主張が強すぎてバランスがイマイチ。存在感が薄く感じられてしまう。オムレツ的な姿はバン麺らしからぬ 様相で見た目には楽しめるのだが、いざ箸をつけてみると一度食べればもう十分、次からはいつも通 り味噌チャーシューといった感じである。まぁ、あれだけ完成度の高い、また歴史の長いラーメンと、数ヶ月で開発したこの商品を同列で比較すること自体ナンセンスなのかもしれないが、やはりレギュラーメニューに比べると大きく見劣りする。

評価は「☆」。

六角家

油がオリーブオイル使用で目新しいが、これがラーメンの麺に全くマッチしない。この青臭いような後味がいつまでも尾を引き、僕は全く受け付けない(好みでない)。トッピングの中心がチャーシューなのだが、このチャーシューが家系ならではのまずいものなので、味的に全くいただけないもの。からしマヨネーズ、唐辛子を入れて味を整えると大分マシになるが、とてもリピーターを獲得できるクオリティではない。そもそも、「お好みで調味料を加えて、味を完成させてください」という姿勢がやや投げやりだと思う。確かにマヨネーズをべちょべちょに加えればそれなりだが、それだったら麺を茹でてマヨネーズで和えたものと変わらないよね。

評価は「☆なし」。

新福菜館

油そばと言うよりはスープが少なめのラーメンといった感じ。ラーメンに近い分、食べやすいし美味しく感じるのはラーメンファンとしては仕方のないところか(^^;。味付けも適度だし、トッピングも多すぎず、少なすぎず、で好印象。唯一、ワカメが全体の中で浮いてしまっているので、これは抜いた方が良いと思う。ラーメンの中に入っているとガムみたいでイマイチのチャーシューもこの中だと不思議とマッチしていて好感。「特別 企画」と言う視点からは工夫がないということになるのかもしれないが、はっきりお薦めである。評価は「☆☆☆」。

げんこつ屋

ラー油と白髪葱の辛味が心地好い。シンプルではあるが僕の考えている「油そば」のイメージに非常に近い。脂っこさをやわらげるためか、レタスがやや大目に入っているのだがこれはちょっと減らした方がバランスが良いと思う。多加水系の麺も油そばにマッチしているし、さすがは「料理としてのラーメンをめざす」と豪語するだけのことはあると唸らされる。全体として、やや「辛さ」に頼りすぎているきらいがあり、味的には新福のほうが正統派だが、どちらが良いかは好みの問題。ちなみに僕は新福のほうが好みだが、こちらも評価は「☆☆☆」。

一風堂

一風堂らしからぬ多加水系太麺に「なぜ?」という第一印象。隠し味(?)のオリーブオイルとめんたいの主張が強すぎるのがこれにもましてマイナスポイント。ベースのスープ自体はなかなかだと思うのだが、なにしろめんたいの生臭さが全体のクオリティを下げてしまっているのが残念。一方、九州系らしいネギやキクラゲはこの中においてもそれなりに活躍しており、楽しめないことはない。反則かと思ったが、ニンニククラッシャーで生ニンニクを加えてみたら意外といけたので(^^;、ちょっと物足りないと思った人、めんたいの自己主張を抑えたい人などは試してみると良いかも。それにしてもやはり九州らしい細麺での商品開発はやっぱり難しかったのだろうか?評価は「☆☆」。

97.12.29

青葉

まず、全体的にかなり薄味。味付けを極端に抑え、胡麻油の風味やチャーシューを始めとしたトッピングから出る味によって調味しようと試みている。まず、この胡麻油(オリーブオイルも含まれているそうだ)がかなり大量 で、食感的にどうか疑問。僕にはちょっとしつこすぎる。また、やや細めの麺は少ない汁気の中で塊になってしまい、食べにくいことこのうえない。チャーシューなどのトッピングはそれなりに美味しいのだが、それでも麺を食べることの楽しさを演出するには至らない。評価は「☆」。

勝丸

油がかなり少なめでこの点で青葉とは対照的。味付けはかなり控え目で、大量 にのせられている肉味噌の味が前面に押し出されている。この肉味噌から出てきているのか、かなり水分が多く、べちょべちょした感じになっており、食感はイマイチ。麺はすんなり喉を通 るものでなかなか高品質だが、スープが薄味なのでもうちょっとスープに絡んで欲しい。全体として、トマトを抑えたミートソースをラーメンにかけたような印象。これはこれで一つの見識ではあるが、僕ならこれを食べるよりスパゲッティミートソースを食べた方が満足度が高いだろう。評価は「☆」。

98.1.25

こむらさき

とんこつベースのかなりとろみのあるスープで油そばという雰囲気ではない。どちらかというと天下一品のトンコツ版という趣。味はレギュラーのスープよりも美味しいくらい。麺はそこそこのコシがあるものだが、加水率云々よりも歯ごたえがイマイチ。まぁ、これもノーマルの麺とそれほど変わらないのだが。トッピングはパブリカ、アルファルファ、チャーシューといったところだが、特に工夫らしきものは感じられない。逆に麺と具の一体感が失われており、スープと麺だけの方が良いのでは?と感じてしまうぐらい。当たり障りのない出来だが、新しいチャレンジを試みないのであればもうちょっとレベルが高くてもいい気がする。評価は「☆」。

まとめ

☆☆☆・・・・・・新福菜館、げんこつ屋

☆☆ ・・・・・・一風堂

☆  ・・・・・・青葉、純連、勝丸、こむらさき

なし ・・・・・・六角家

結局、オーソドックスな形で味を追求した2店が上位に来ることになった。同じ路線の一風堂であったが自らのアイデンティティーを放棄してしまったところが残念なところ。純連のチャレンジは称賛に値するが、通 常メニューのレベルが余りにも高いため、「常連さんにたまには変わったものを」といったスタンスで提供するレベルにはなり得なかった。青葉、勝丸、こむらさきといった顔ぶれはそれなりに健闘はしたものの、姿勢、味の両面 で特に評価できる点はなかった。六角家はチャレンジが全く裏目に出てしまったのが残念。自ら「まずいチャーシュー」と自認しているにもかかわらず、そのチャーシューに味の重要な部分を頼ってしまったのが完全に裏目。正直、二度と食べたくないと思うような代物であった。

98.2.22

札幌ラーメンvs旭川ラーメン

北海道系ともなるとその中でも色々なタイプがある。大きく分ければ旭川、札幌、函館となり、その看板はそれぞれ醤油、味噌、塩となるのかもしれない。この中で、僕は本場の函館のラーメンを食べていないので、残りの二つ旭川と札幌について考えてみる。

まず純粋な札幌系というのはトンコツ、トリガラ、もしくはこれらのブレンドのだし汁を使い、中華鍋でモヤシを始めとする野菜を炒めるといった調理法によって作られる。こうした調理法により動物系のダシの中に野菜の旨味を引き込んだスープがベースになっているのが札幌系である。この札幌系の頂点が純連系になると考えている(ここは味噌で非常に有名だし、個人的にも味噌が一番好きだが、真の実力を知るには塩を試すことを勧める)。この他にも有名所では味の三平、東京ではえぞ菊などがあり、どれも味噌ラーメンが有名である。ところが、この味噌ラーメン、大抵の店の味噌ラーメンは味噌汁ラーメンと言うべき、ほとんど味噌の味しかしないようなものになってしまう。先にあげた店の中でも例えばえぞ菊などは味噌ラーメンが非常に有名なのだが、ここの味噌ラーメンは塩ラーメンに比べてはるかに味が落ちる。これは味噌の強力な調味作用によって、折角のダシが死んでしまうことによる。僕の知る限り、味噌ラーメンにしても十分に対抗できるだけのダシの濃さを誇っている札幌系の店は純連系(じゅんれん、すみれ本店、すみれラーメン博物館店の3店)だけである。それでも世の中で味噌ラーメンが好まれるのは、やはり味噌汁を子供の頃から飲んで慣れ親しんでいる国民性によるところが大きいのではないだろうか。もちろん、味噌が好き、だから味噌ラーメンも好き、というのでも一向に構わないのだが、例えばえぞ菊で飲むことが出来る、非常に懐が深く繊細な塩味スープというものも是非試してみてもらいたいと思う。本来、どういう味のするスープなのか、そして味噌を加えることによって、味がどう変わってしまったのか、そして、そうすることによって本当に美味しくなっているのか。札幌系の評価は基本的には塩で行うべきだと思う。ただし、これは矛盾するようだが、札幌系の真価は味噌に負けないかどうかだとも思う。

さて、これに対して旭川系である。こちらの特色は強めのトンコツダシにあると思う。トンコツはトリガラと違って煮込んでもあまり味が出てこないのだが、非常に包容力があるのが特色である。したがって、味噌を加えて味を付けようが、醤油をいれて味を付けようが、何とかそれらを丸め込むだけの強さがある。このことから、店側では色々な工夫をする余地が出来る。返しの和風ダシを強めに効かせてみるとか、独特の味のあわせ味噌を入れてみるとか、様々なトッピングを載せてみるとか、こうしたことが可能になるのである。結果 として、ラーメンは画一的にならず、一言で旭川系といっても、その特徴を網羅的に表現することはかなり難しい。例えば旭川ラーメンの代表店の一つ、かとうラーメンはトンコツダシの中にかなり強めにトリガラダシを取り込むことによって、まるで横浜ラーメン的なスープを作り、それをベースにしている。そして、さらにこれに魚系の強く効いた返しを加えることによって横浜ラーメンとは明らかに一線を画したものを作り上げている。一方、五丈原。こちらは同じとんこつ系でもダシの取り方が全く異なるようで、味わいは九州系、その中でも長浜系に近い。トンコツ中心にスープを沸騰させて作ったスープは非常にマイルドで、トンコツの旨味が前面 に出てきているものである。また、東京でも馴染みの山頭火系。ここはトンコツ中心でトリガラをほとんど加えていないようだが、醤油、味噌などに関しては野菜や魚のダシを加えている。トンコツがそれほど強調されていないため、非常にあっさりとした味わいだ。ここの系列はベースのトンコツが控え目のため、味噌にすると味が落ちるという札幌系の弱点をもっているが、その分微妙なダシを楽しむことが出来る。

このように見てくると、比較的没個性的な札幌系が、包容力に富み個性的な旭川系に押されてしまっている現状は必然であったとも言えるかもしれない。今後も従前のやりかたで札幌系が店を展開していくのであれば、味噌汁が大好きな国民に愛想をつかされることはないにしろ、旭川系にそのテリトリーを大きく侵略されていくことは間違いのないところだろう。「札幌系、危うし」である。

98.9.22

石神君のラーメン本発行にあたって

流行とは、ほとんどのケースで「作られる」ものである。例えば洋服の流行の多くは半年も前にデザイナーたちが次の流行を「提案」し、消費者がそれを受け入れるという手順を踏む。口コミなどで自然発生的に起こる流行もない訳ではないが、各種マスコミも記事を書く際に有識者(デザイナー等)に「次はなんですかね」とおうかがいを立てるわけで、さまざまな情報もその源を突き詰めていけば特定の場所に落ち着くことがほとんどであろう。こうした一種の情報操作は我々の知らないところでもどんどん行われており、例えば何かのスポーツを流行らそうと誰か力のある人間が思い立つと、有名な漫画家を起用して、そのスポーツをテーマとした漫画を連載させる、なんていう手段まで使われる。

さて、ラーメンである。ラーメンの最近の流行というと、旭川ラーメンが挙げられる。そして、現在は和歌山ラーメンが取り上げられることが多い。では、この流行の源泉はどこにあるのだろう。

今、ラーメンの流行を作るものとして挙げられるものは、少々乱暴にまとめると

1 新聞・雑誌

2 テレビ

3 インターネット

4 口コミ

の4つである。これらの情報源について、考察してみる。

まず、新聞・雑誌について。これらの情報源は実は非常に限られている。新聞・雑誌で独自に情報収集しているケースは希で、ライターによる情報収集、もしくはキーパーソンの確保による情報発信がほとんどである。では、ライターはどこに情報源を持っているのか。これも突き詰めていくと結局キーパーソンに落ち着く。ちなみに現在、最も有力なキーパーソンはラーメン博物館の武内伸氏である。新聞・雑誌でラーメンの特集を組みたい、ということになった場合、まず編集者が第一にアクセスするのがここだろう。

次にテレビ。ここも情報源は新聞・雑誌と一緒である。したがって、大抵の場合、突き詰めれば武内氏に行き着く。

次にインターネット。インターネットは素人でも発言のしやすい場で、上の2つのように武内氏に直線的に結びつくケースは少ない。しかし、この色が皆無かといえばそうでもない。インターネットのラーメン情報は、「とらさん」と「ジャンボのらーめんのページ」などの掲示板に代表される掲示板でやり取りされるケースが少なくない。そして、これらのカラーを決定している大崎氏、大村氏といったメンバーは、その情報源として少なからず武内氏の影響を受けている。これは評価とか、好みとかではなく、あくまでも「ラーメン屋さんの情報」という意味で、である。自らHPを作り、情報発信しようとする人間がこれらのページと全く無縁でいられるかと言えばそれはそれで難しい話で、ほとんどの場合で何らかの形で影響を受けるのではないかと思う。これはかく言う僕自身も同様である。

最後に口コミ。かつてはラーメン情報の主流であった。僕が開店直後のなんでんかんでんについて知ったのも、今はなき名店ばってんラーメンについて知ったのも、マスコミ登場拒否を続ける町田の某札幌ラーメンを知ったのも、そのほとんどが口コミであった。今でもこれによって作られる流行は決して少なくないとは思う。しかし、ネットが身近になったことによって、口コミはその重要な部分をインターネットに吸収されてしまった。流行の発端とは成り得ても、それを増幅する機能はほとんどの場合で失われていると言えるのではないだろうか。

以上から、現在、「流行」として取り扱われる程度のラーメンの情報というのは、そのほとんどがラーメン博物館の広報担当である武内氏に行き着くということになる。例えば、和歌山ラーメン。これは個人的には流行とまでは言えないと思うのだが、この仕掛け人はまず間違いなく武内氏である。首都圏で考えてみると和歌山ラーメンの店は都内に1店、和歌山ラーメンを意識し、目指している店が都内に1店、そしてこの10月にオープンしたラーメン博物館に1店の3店しか、僕はその存在を知らない。こんなマイナーな勢力が何故、雑誌、テレビなどで紹介されまくり、「旭川の次は和歌山」などと言われるのか。あらゆるラーメン関係の情報がある一点に集中していることの現われだと考えれば、この現象も容易に説明がつく。

ただ、若干注意が必要なのは、「すべての震源」が武内氏に行き着くわけではないということである。というか、逆に究極的に突き詰めれば、ほとんどの場合で武内氏の先にその芽があるはずである。武内氏はその広範に渡る情報網を駆使ししてラーメン周辺の細かな動きをキャッチし、フットワークの軽さでそれらを確認し、彼のフィルターを通 した上で、その情報をラーメン博物館発の情報として発信しているのである。例えば、最近流行した油そば、これはかなり前から西東京を中心として知る人ぞ知るカルトな食べ物として認知されていた。この動きを察知した武内氏はラーメン博物館で「ばんめん」として短期集中企画を打ち出し、油そばブームを作り出したわけである。武内氏は自ら流行を創出しているのではなく、その萌芽をいち早く察知し、持てるチャンネルによって非常に効果 的に増幅しているのであろう(こうした手法は先に挙げた大崎氏なども掲示板を利用して行っている。現在では大崎氏等、インターネットで情報を吸い上げている人から武内氏にその情報が流れることも少なくないはずである)。 #ちなみに和歌山ラーメンの流行の場合、武内氏がこれに着目した(もちろん、その存在も知っていただろうし、その実力も知っていたであろうが、「旭川の次」として和歌山を取り上げた)のは、98年の正月に放送された「テレビチャンピオン」の特番であろう。 武内氏のことを悪く言う気はもちろんない。しかし、こうした構造の中で、ラーメンに関する情報は確実に画一的になっていると思う。新聞・雑誌・テレビに加え、インターネットという一般 大衆が簡単に参加でき、すばやく情報を入手できるメディアが登場したことにより、通 常なら価値観の多様化が一層進んでもよさそうなものなのに、かえって、価値観の多様化が阻害されているという現状は一見意外である。しかし、実は結果 から溯れば当然である。それは武内伸という存在があまりにも大きく、この世界においては唯一にして絶対の存在になりかけているといっても言い過ぎではないからだ。彼はラーメン界のビル・ゲイツである。このままでは、いや、ほぼ間違いなく、「和歌山」の次も、源泉をたどれば彼に行き着くことになるだろう。

先日食べたラ博の井出商店、決してうまくはなかった。少なくともまっち棒やのりやのほうがレベルは断然上だと思う。にもかかわらず、井出商店は連日行列で、休日ともなれば2時間待ちも珍しくないようだ。おかげですみれの行列時間が短くなる、ということはありがたいことなのだが、2時間待って、ラ博の井出商店を食べて、「行列して良かった」と感じる人がどの程度いるのだろうか。僕は「そう沢山はいないだろうな」と予想するのである。こうした事態は、ラーメンの文化形成において、マイナスにこそなれ、プラスにはならないだろうと僕は感じている。そして、こうした状況を生み出している原因の大きな部分を「ラーメンの情報源にひとりの巨人が君臨している」という事実が占めていると考えている。

さらに、この状況の弊害がもう一つ。それはラーメン博物館の広報としての武内氏のフィルターがかかった情報が流行になる、という点である。例えば、和歌山ラーメンの次の流行が再び旭川ラーメンになる可能性がどの程度あるだろうか。喜多方、福岡あたりが流行する可能性も、同じように低いだろう。それはラーメン博物館からすると「新鮮さ」に欠けるからである。これがもう一つの弊害の具体例である。

さて、この巨人に対抗できる人間はいないのであろうか。実は、個人的にはラーメンチャンピオンの石神氏が唯一、これに面 と向かって対抗できる人材なのではないかと考えている。ラーメン関係の人材が武内氏中心に集中しつつある中で、彼は自らをそこから離れた状態に置いている。マスコミも彼には一目置いている。さらに彼がネット情報にあまり触れていないらしい、というのも強みである。彼は彼で独自の人脈を保持しているようだし、これは一言では表せないが、雑誌の打ち合わせなどで彼と話をしていると、ラーメンへの姿勢も、ありきたりのラーメンオタクとは異なっていると感じさせる。あらゆる意味で、巨人に対抗し得る人材であろう。 こうした意味で、彼にはあくまでも独自の取り組み方、スタンスでラーメン文化に関わり続け、彼によるラーメンの流行を作って欲しいと考えている。独裁から、勢力拮抗の時代へ。先頃発売された石神君のムックは、その期待を抱かせるのに十分なクォリティであったと思う。

98.12.1

ラーメン博物館の「ラーメン登竜門」について

ラーメン博物館の期間限定店を選ぶ企画「ラーメン登竜門」に一般審査員として参加してきました。以下、そのレポートです。

最終審査まで残ったのは落合康友氏@宇都宮どる屋の主人、野本栄二@縁や主人、海老名東人@沼津あまから屋(カレー屋)主人の3人。まず、食べた順番にそれぞれのラーメンの評価と感想。

落合氏のラーメン

5/BAC

麺はかなり細めで微妙によりが入ったもの。最初は適度なコシがあるが、食べ進むうちにどんどん弱くなってくる。スープの絡みは特に問題なし。真意が今一良くわからないのだが麺にはサフランが練り込まれていて、所々茶色くなっていた。スープは豚骨をベースにしたスープにタイの丸干しで強めに風味付けしたもの。他にも野菜などが入っているようだが、とにかく魚介類の生臭さが強い。スープが高温のうちはそれほど気にならないが、冷めてくるとこの生臭さを中心として素材同士が喧嘩を始めてしまうのが残念。ただ、それまではなかなか美味しいスープだった。食器が陶器でなかったため、冷めやすくてちょっと不利だったかも。チャーシューは肉質はなかなかハイクオリティだが、色々とスパイスで手を加えすぎてバランスが悪い。スープに強烈な個性があるわけではないので、もうちょっと肉の質を生かすような使い方の方が良かった。 全体としてはそこそこに美味しいものだが、「金をかけたラーメン」の割にはそれぞれをコーディネートしきれておらず、まとまりのない印象。穿った見方をすれば、3ヶ月という短期出店で店の名前を売ることを目的に、商売を度外視して作ったラーメンという印象も受ける。もちろん、それでも食べる側としては一向に構わないし、問題もないと思うのだが、もうちょっとリファインしないと商品として成り立たないと思う。

野本氏のラーメン

6/ABB

麺は中位の太さの加水率低めの縮れ麺。スープの絡み、コシ、ともに合格点。スープは豚骨ベーストリガラブレンドの醤油味で、いわゆる旭川系。豚骨の押しが強い割には魚系(煮干し?海老?)を中心とする他のダシが弱いのが残念だが、まとまりは非常に良い。ただ、能書きを全然聞かされずに食べるとこれは全く普通 の旭川ラーメンで、それはそれでちょっと意外。牛タンのようなチャーシューはなかなかに美味だったが、これはスープとマッチしない。 全体としては、特に目新しい点がなく、一言で言ってしまうと「美味しい旭川ラーメン」となる。もちろん、それはそれで全然構わないのだが、折角3ヶ月間、ラーメン博物館というラーメンの聖地で営業できるのだから、そして、イベントとしてやるのだから、もうちょっと目に見える、というか「舌で感じられる」工夫が欲しいところ。ただ、純粋に「ラーメン」として、味だけで評価すればそこそこにハイレベルである。

海老名氏のラーメン

4/ACA

麺は加水率が高めのやや太め。コシ、スープの絡みとも良好。スープは豚骨ベース、トリガラブレンドの「カレー」味。恐らく、カレーと醤油の風味を取り除けば大阪の「友翔」みたいな感じだと思う。かなり濃厚で面 白い味だとは思うが、やはりどうしても素材同士が喧嘩をしてしまう。カレーのような「強烈なスパイス」を使っていない分、どうしても中途半端で、素材を丸め込むことが出来ていない。どうせならもっと辛くしたほうが良かっただろう。チャーシューは美味しかった。 ラーメン博物館のイベントものとして考えれば「ラーメンの性質を生かして、全く新たなアプローチを試みた作品」として、最もその主旨にあったものだと思うが、味的には全く未完成であり、とても「旨い」と言えるものではない。そして、これは僕の想像力不足なのかも知れないが、この延長線上に「新しい、そして美味しいラーメン」があるとも思えない。

食べ終えた時点での予想は武蔵、いそがばまわれ系のラーメンを好む、「能書き重視派」は落合氏、とにかく美味しければ良いという「美味追求派」は野本氏、目新しいもの、及び好奇心が強い「エンターテイメント重視派」は海老名氏に投票するだろう、といったもの。審査員300人はこれらが適度にミックスされているようだったが、どれにも属さない、「ただの素人」の浮動票がどこに行くか、というのが結果 を左右すると考えられた。一般的に、この「ただの素人」はどうしても味の濃いものを選ぶ傾向があるので、その点では海老名氏有利、落合氏不利が予想された。

また、ラーメンを構造的に分析すると、落合氏、野本氏のラーメンはすでに完成されているラーメン像の上に新たな付加価値を加えようとした作品、一方、海老名氏のラーメンは完成品同士(ラーメンとカレー)のキメラを作ることによって、全く新しい価値を創造しようとした、と表現できる。この視点からは、当然前2者の完成度が高くなることが予想されるが、落合氏のラーメンはコーディネートが不十分であったし、野本氏のラーメンは結果 として普通の旭川ラーメンになってしまい、新たな価値を創造するには至らなかった。また、海老名氏のラーメンは確かに「新たな価値」を創造していたが、味という視点からの絶対的な評価は決して高くないものだった。

さて、投票。シンクタンクに勤務するものとして「ラーメン博物館において、3ヶ月間限定で営業するのに最も相応しいラーメン」とアドバイスするのであれば間違いなく海老名氏のラーメンを一押しにするところであるが、「審査は味だけで判断して下さい」とのこと。まぁ、これも深読みすれば、色々考えられる表現だが、単刀直入に「一番美味しいと思ったラーメン」であるところの野本氏のラーメンに投票することにした。

さて、開票。結果は海老名氏が1位。残りの二氏は同点で敗退。 海老名氏のラーメン、個人的にはまた食べたいって感じではない。カレー風味にしなければなかなか美味しそうだけど、それだとこうやとか、醤油味を強くすれば家系みたいになっちゃうだろうと思う。まぁ、これから出店までまた少し時間があるわけで、さらに完成度に磨きをかける余裕はあるということ。今後、これがどうなっていくかには、そして、3ヶ月間の営業成績には興味があるところ。 ということで、結果が出ているのだから、これに対してこれ以上あーだこーだいうのは野暮というもの。最後に個人的な希望を書かせてもらうと、

1 カレー味にしないのも出して欲しい。

2 半カレー(半チャーハンのカレー版)を出して欲しい。

ってところでしょうか(^^。

1999.5.11

ネット内グルメ情報の曲がり角

今日、料理の鉄人の最終回を見た。これを見ていてちょっと思い出したのが、料理の鉄人に出てくるような有名シェフの店で食べて「あんまり大したことがなかった」という意見を時々耳にすること。まぁ、口に合わないこともあるだろうし、実際、マスコミでちやほやされているだけで、全然実力がない店っていうのも時にはあるだろう。しかし、あそこの鉄人クラスになると、やっぱり「大したことがない」と感じるのは、食べた側に問題があると思う。食の嗜好というのは非常に難しい。何でも好き嫌いなく食べられる人でなくては料理の評価ができないような気もするし、何でも好き嫌いなく食べることができるのであれば、旨いものとまずいものの区別 もつかない気もする。

どういった人の意見は参考になり、どういった人の意見は参考にならないのか、その取捨選択は非常に困難だ。

最近は素人でもHPを使っていっぱしの意見を言える時代になっちゃった(もちろん、僕もその一人だけど(^^;)。素人が5人も集まって、「あそこは大したことがない」とやれば、あっというまに悪評が立つ。もちろん、正当な手段によって悪評が立つのであればそれはそれで仕方がない面 もあるが、インターネットの匿名性を利用すれば一人で大量の匿名投稿を繰り返すことによって「マス」になりえる。

情報を発信している人間が本当に価値のある情報を発信しているのか、それを見極めるのは非常に難しい。食べる側にとっても、作る側にとっても、すごく複雑な時代になってきた。

2000.3.1

蘊蓄系ラーメンの隆盛に見る、ラーメン文化の浅薄さ

蘊蓄系ラーメンとは、店の中に「当店は●●の昆布を使っております」「当店のスープは△△の煮干しからダシを取っています」「当店は化学調味料を一切利用していません」などと、そのラーメンを作るにあたって利用した素材や、手間暇をアピールしている店のことである。

この手の店、実際にそういう素材を使ったり、化学調味料を使っていなかったりするのかは検証のしようがないのだが、はっきり言えることは、「アピールしなければ客にわかってもらえないことが多い」ということだろう。本当に良い素材を使っていて、誰もがそれを美味しいと感じ、多くの人間がその素材の由来を言い当てることが出来るのであれば、別 に店内でアピールする必要なんてないのである。化学調味料だって、多くの人が「これは無化調である」と断言できるのであれば、別 に「使ってません」と宣伝するほどのものでもない。

昨今、ラーメン文化人達は「徳島の次は塩が来ます」「今年は牛骨が来ます」などとまくし立てているが、実は、徳島なんていうブームはどこにもなく、今あるブームはまさにこの「蘊蓄系」であると思う。

なぜ、この蘊蓄系が流行っているのか。それは、巷に大勢いるラーメンマニア諸氏が、論評しやすいということによるのではないか。「この店の昆布は利尻なんだ」「こっちの店のダシは名古屋コーチンだ」などと、店の言う宣伝文句をそのまま吹聴することによって、「俺はラーメンの造詣が深い」とアピールしやすいわけだ。しかし、その実、その手の内容は、喋っている人のほとんどが「言われなくてはわからない」もので、聞いている人のほとんども「言われてもわからない」のではないか。

今形成されつつあるラーメン文化とは、非常に大きな部分でインターネットの影響を受けている。そして、ネットの中にはこの手の蘊蓄をありがたがって情報発信する人達が山ほどいる。結果 として、「素材にさえこだわれば、化学調味料さえ使わなければ、そこそこに評価され、有名になれる」という図式ができあがりつつあると思う。ラーメンの文化は、今、ただのファッションになりつつある。

2000.3.1

ラーメンブームのインパクト

ラーメンブームの終焉を感じる。

もちろん、ラーメン関連の情報が少なくなったわけではない。逆に、ラーメン本は山ほど出版されているし、テレビ番組でもラーメンを取り上げるケースは非常に多くなっている。そして、行列店と言われる店も少なからず存在している。

では、なぜ終焉を感じるのか。それはメディアの扱いが、「終わりつつあるブームを少しでも長く続かせようとしている」ように感じるからである。誤解がないように述べておくが、ブームが去ることを決してネガティブには捉えていない。栄枯盛衰。Jリーグだって、あんなに盛り上がって、そしてブームは終焉したではないか。ブームが去ることは悪いことではない。要は、「ブームが何をもたらしたか」である。Jリーグのブームは、浦和や鹿島にサッカー文化を根付かせた。ワールドカップの招致も成功した。では、ラーメンブームは何をもたらしたのか。そろそろこういったことを考えてもいい時期に来たと感じるのである。それらを今の時点(2000年3月)で簡単に考察してみたい。

まず、ラーメンブームによって、ラーメン店は旨い店、まずい店の二極化が進んだ。これは不味いラーメン屋が増加した、ということではない。こだわりを持ったプロが本当に美味しいラーメンを食べさせる、そういう店が増えたのである。これは良いインパクトの代表である。

次に、「強烈な個性の店」が少なくなった。ブームの当初、その牽引者は九州とんこつ系と、横浜ラーメン家系だったと思う。これらの豚骨ベースの強烈なスープが発展し、旭川、和歌山などのブームを創出した。しかし、強烈な個性は飽きられるのも早い。ラーメンの主流は徐々に飽きの来ない、東京西部系(魚ダシの強い東京ラーメン)、無化調蘊蓄系にシフトしてきている。今後も、「パンチのある店」よりも、「あっさりしている中に旨味のある店」が増加していくだろう。この、没個性化、ポジティブにもネガティブにも捉えられるが、現時点では評価がつけづらい。もしこれをポジティブに捉えるのが多数派であれば、今後もこの傾向は続くだろう。そして、ネガティブに捉える人が潜在するのであれば、いつかまた個性派が復興してくるに違いない。

次にあげられるのが、ネットによる文化の形成である。ネットを通じた文化形成の事例は他にも存在するが、ラーメン文化が顕著な例の一つとしてあげられることは間違いない。大量 のHPや電子掲示板によって様々なラーメン情報が流通し、文化を醸成した。昨今、そこで取り扱われる情報は平板化し、その価値観は均質化へと向かったが、それでも今後もネット情報はラーメン文化に大きな影響を与えていくだろう。

さて、ラーメンブームのインパクトをまとめたのだから、ついでに今後の、個人的な希望を書いておこうと思う。

まず、一番にあげられるのがら博による文化の掘り起こしである。ラーメン文化にネット情報が大きな影響を与えたのは間違いないし、今後もその影響は多大だろう。しかし、私見では、ラーメン文化を平板なものにしてしまったのもやはりネット情報だったと思う。衆愚政治の言葉もあるように、大衆が主導することが常に正しいとは限らない。そして、大衆によって流れるがままに流れていく文化にはどうしても限界がある。それを悪いとは言わないが、個人的にはつまらないと思う。大衆とは別 の、カリスマによる文化誘導もあって良いのではないか。そして、それが出来るのは、それを職業としてやっているら博の武内氏、北島氏、そして、石神氏の3人だけである。ただ、石神氏は、まだ社会的に力不足であることが否定できない。結果 として、期待が寄せられるのは、当面、ら博ということになる。今後の活動には、継続して注目していきたいと思っている。

次にあげられるのが、地域HPの充実である。もう、首都圏のラーメン情報は十分である。今はニッチとなっている、地方のラーメン文化をアピールするようなページ、それもただラーメンの感想などを述べるようなページではなく、そのラーメンがそこに存在することの必然性までを掘り下げるような、骨太の情報発信が欲しい。

2000.3.7

佐野実氏渾身の「禁断のラーメン」

佐野実氏の渾身のラーメン、一杯3000円を食べる会「禁断のラーメン晩餐会」に参加。一杯3000円と言えばかつ漫の特ヒレ定食よりもラーメン一杯分高い。さて、一体どんなラーメンなのか。

ラ博には20:30に到着。専用の待合いスペースで順番がくるのを待つことになる。

20分ぐらい待たされた後に順番。

まず、スープを一口。なるほど、これは美味しい。恐らく、化学調味料は使っていないんだろうけど、無化調ラーメン独特の味のなさが全然ない。きちんと味がある。無化調の東京系ラーメンで味があるのを食べたのは本当に久しぶり。次に麺を一口。かなり細い麺だけど、コシがあってスープの絡みも良い。確かにこれは絶品だ。その調子で麺を数口食べたあと、今度はチャーシュー。うん、これも味が非常に良い。ただ、ちょっと堅い。これはマイナスポイント。

なるほど、これが現在食べることができる佐野流ラーメンの最高峰か、と思いつつ食べていたが、食べているうちにだんだん麺が緩くなってきた。これはまぁ、仕方がないところか。スープが十分に熱いため、どうしても麺がだれるのが早いんだろう。ということで、禁断のラーメン、評価は驚愕の11/A特AA!

かつ漫のトンカツと比較してどちらが幸せか、というと、このレベルのラーメンをほとんど食べられないという現状から、禁断のラーメンに軍配をあげたいところ。ただし、誰にでも薦められるかというと、そうでもない。色々なラーメンを食べて、ラーメンのハイエンドがどの辺になるのかを知っている人や、ラーメン屋さんのようにラーメンを作ることを職業にしていて、最終理想型をイメージしたい人とかじゃないと、「こんなのに3000円なんて、馬鹿じゃないの?」って感想だろう。

とにかく、スープの面で現状のハイエンドを味わえただけで収穫だった。同じものにもう一度3000円払うかと問われれば答えはNoだが(別 に不満だったわけではない。一度経験すれば十分で、繰り返し食べる必要がないという意味。抽選なんだから、まだ食べていない人で、食べたいと思っている人が食べるべき)、恐らく佐野氏のことだから、また色々と研究して、さらに高みを目指すに違いない。もっと進歩したものが提供されるなら、また食べにいきたいと思う。

世の中には「無化調なら旨みがなくても仕方がない」という暗黙の了解があるようだ。しかし、金をかけ、素材を吟味し、一流の料理人が調理するのであれば、美味しい無化調ラーメンを作ることができるということを示してくれた。一度は食べてみる価値のあるラーメンである。

2002.1.26

僕にとってラーメンとは?

「あなたにとってラーメンとは」と言われても正直なところ、言葉につまる。少なくとも、僕にとってラーメンは「ハレ」の食べ物ではない。以前インターネットラーメン四天王を名乗って情報発信していたとき、他のメンバーが「ラーメンがなくなってしまったら、何をして良いかわからない」という主旨の発言をしたのを聞いて、「あぁ、明らかに人種が違うな」と思った。僕にとってラーメンは唯一無二のものではもちろんないし、ラーメンを食べることを禁止されたとしても別に困らない(もちろん禁止されるなら、禁止されるだけの理由が必要ではあるが)。ラーメンより美味しいものをいくらでも知っているから、ラーメンの代わりに別の美味しいものを食べていれば、何も困ることはない。

でも、これは世の中の人間にとっては全く普通の話で、僕のこういう発言が「え?」というクエスチョンマーク付きで受け取られるのは、「ラーメンマニアとはかくあるべし」という妙な定義が一般人に植えつけられているからに違いない。ここ数年で「年間1000杯食べました」という人がごろごろいるようになり、年間何杯食べたのか、これまで何店食べたのか、がラーメンマニア(ラーメンオタク)のステータスとなっていて、それを世の中の人たちも見聞きしていることも原因だろう。ラーメンオタクは一年に何百杯もラーメンを食べるらしい、ラーメンオタクは一日に何杯もラーメンを食べることがあるらしい、ラーメンオタクは全ての食べ物の中でラーメンが一番好きだ、ラーメンオタクはどこに行ってもまずはラーメンを食べる・・・・・・

しかし、年間1000杯食べていたらラーメンに詳しいのか、いままでに1000軒食べていたらラーメンに詳しいのか、というと、これは別の話である。毎日飲んでいる水だって、「これは地下水が混じっているから埼玉の水だ」とか、わかる人がどの程度いるのか。逆に、毎日飲んでいるからこそわからな
くなることもある。要は、食べる人の感受性の問題であって、数の問題ではない。数という客観的なデータを提示することによって、ある程度、その人が発信する情報の質を担保できるだろうから、それはそれでもちろん構わないのだが、そのようなステレオタイプでの評価でしか情報の質を担保できないとしたら、今のラーメン文化もその程度のもの、ということかもしれない。

僕は別にラーメンを沢山食べたいわけではない。美味しいお店があったとしても毎日のように通いつめたいわけでもない。何で食べるかといえば、時々食べたくなるからだ。この点で、吉野家の牛丼となんら変わりはない。「あぁ、今日はラーメンでも食べてみるか」っていうときに食べる。こんなウェブページを運営しているけど、最近は雑誌に記事を書くわけでもないし、ウェブページに載せるためにラーメンを食べることもない。ただ、もともと調査体質で、さらに折角調査したらそれを人に見せたいという自己顕示欲もあるものだから、こうやってわざわざウェブページ上で情報発信をしている。

こうして「一言でいうとラーメンとは」と聞かれて、自分にとってのラーメンをじっくり考えてみると、「調査の対象、興味の対象ではあるが、所詮は数ある食べもののうちの一品目。毎日食べているお米と位置づけは大して変わらない。」というのがもっとも近いところになる。これではひとことではないか。しかし、「全て」でもなければ「宇宙」でもなければ「祭り」でもない。

ニュアンスとしては、「ただの食べ物」か。こういう意見はラーメン本のコンテンツとして活字にするのは非常に難しいかもしれないが・・・。

ま、何はともあれ、ラーメンとは、1000円札一枚出せばおつりがもらえる程度の食べ物であって、その中にどんな工夫が盛り込まれていようとも、一流の寿司屋で食べる大トロ一カンよりも安いものなのだ。こういってしまえば実もふたもないが、安いということは「客観的な価値が低い」ということでもある。その程度のものを一生懸命食べあさるというのは、普通人から見るとかなり奇異なものにうつるだろう。実際、僕から見ても年間1000杯もラーメンを食べている人はかなりの変人であり、真似をする気にもならない。まぁ、テレビチャンピオンみたいな番組はそういう変人をさらしものにしているわけで、視聴者は視聴者でお茶の間で「こいつら、変だな」と苦笑しつつ、半ば怖いもの観たさで
番組を最後まで見て、翌日友人と「昨日のテレビチャンピオン、観たか?凄かったな」(決して尊敬に値するという意味の「凄い」ではない)などと話の種にするわけである。

ということで、僕にとってのラーメンは一般の人にとってのラーメンにはるかに近く、いわゆる「ラーメンオタク」にとってのラーメンとは大分違うと言える。結局、身の回りにあったもので、世の中の注目を集めそうなものだったから、その点に着目して情報発信してみただけ、というのが正直なところである。その結果、予想どおり、僕が発案して結成した「ラーメン四天王」は、その後の素人によるラーメン本発売や、雑誌での連載につながり、四天王のひとりだった大崎さんは今でもラーメン文化の中心にいる。僕自身は出版社の都合にあわせて発言内容を捻じ曲げられたり、身勝手な製作会社に振り回されたりすることに嫌気がさして、そういったメディアからは距離をおき、ウェブページベースでのんびり情報発信を続けているわけだが、当初、ラーメン四天王の結成を発案したのは、「ラーメンばっかり食べていたいから」では決してなく、そういう活動をすることが「面白そうだったから」である。

そうだな、ここまで書いてきて、ラーメンを一言で言うと何か、の答えがまとまってきた。

「好物のひとつ」

これがぴったりのようだ。

2003.12.31