STOLEN PLEASURES ARE SWEETEST
伊達 梶乃
 退役軍人病院精神病棟の廊下を、看護婦が走ってくる。
 鉄格子をはめたドアの向こうから、彼女を呼ぶ声がする。
「看護婦さぁーん、看護婦さんってば看護婦さぁーん!」
「はいはい、そんなに大声出さなくっても聞こえるわよ。」
「看護婦さーん、かんごふーさん、かんごーふさん、かんーごふさん……。」
「わかってるわよ、全く……待つってこと知らないの?」
 彼女はドアの鍵を開けた。
「かーんごふさん、ーかんごふさん。」
 そして、ドアを開いた。
 病室の中は散らかっていた。と言うよりも、まるで何かを捜していたかのように、全ての家具が壁から離されていた。
「ビリーがいなくなっちまったんだよ!」
 彼は言った。
「ああビリー……どこへ行っちまったんだよォ、帰ってきてくれよ、ビリー……。」
 看護婦は、半ば呆れにも似た困惑の表情を浮かべた。
「でもマードックさん、私に言われても、どうしようもないのよ。先生に話してみましょうね。」
「頼むよ、看護婦さん。俺はビリーがいないと、いても立ってもいられないんだから。」
 担当医のオフィスに向かう彼女の後について、マードックは歩いていった。愛犬ビリーを捜しながら。
 


 オフィスにノックが2度響いた。
“入りなさい”という医師の声に、看護婦はマードックをその中に通し、急いでドアを閉めた。
「どうしたんだね、マードック君?」
「先生……。」
 彼は改まって、落ち着いて見せた。
「ビリーが行方不明なんです……。」
「何だって?」
「今朝から、ビリーの奴の姿が見つからないんだよ。呼んでも来なくって……。きっと、遠出して戻ってこられなくなったか、交通事故か、あるいは犬狩りにやられたか、もしかすると攫われたのかもしんない。……そう、そうだよ先生。誘拐されたんだ、誘拐。あいつがあんまり可愛いもんだから、1人で外に出た隙に、攫われちまったんだ。どうしよう……身代金を請求されても、俺には払えないし、金が手に入らなけりゃ、ビリーは殺される。先生、どうしよう? ねぇ先生、このままじゃ、ビリーは殺されちまうよ! ビリー、死なないでくれよ! そうだ先生、先生が助けてくれりゃ、ビリーは死なないですむんだよ。先生がビリーの身代金を払ってくれりゃいいんだよ。……ねぇ先生?」
「だけどね、マードック君。」
 医師は、コホンと咳払いをした。
「ビリーが誘拐されたという証拠は、何もないんだ。みんな君1人の思い込みだよ。それに何と言っても君、前から言い続けていることだが、ビリーなんていう犬はいないんだ。」
「その通り。だからこうやって俺はここに来て、先生にビリーの身代金を俺の代わりに払ってほしいって頼んでるんじゃないの。だって先生、ビリーがいりゃ、こんなことするはずないじゃんか。」
「違うんだよ、私の言う“ビリーはいない”というのと、君が言っている“ビリーがいない”というのは。」
「先生もわからない人だね。ビリーがいないって事実は同じざんしょ?」
「うーん、何て言ったらいいのか……、君が存在を信じて疑わないビリーという犬は、実は存在しないんだ。わかるか?」
「もちろん。俺のビリーが攫われて、いなくなっちまったってことを、ただ難しく言ってるだけでしょ?」
「違う! そうじゃない! 君の目に見えるビリーは、私たちには見えないということだ!」
「俺の目にもビリーは見えませんって言ってんじゃない! ビリーが見えてたら、ビリーの身代金の話なんて持ち出すわけないでしょうが!」
 互いにエキサイトしてきているのが、医師にはわかった。“大人気ない”と反省しながら、医師はしばらく黙って考えた。
「……それじゃあね、君のお母さんだが、どこにどうしている?」
「死んで天国にいるよ。」
「君のお母さんは、ここにはいないな?」
「先生、どうかしてんじゃない? この部屋にいるのは、先生と俺だけでしょ。」
「そう、お母さんはここにはいない。では、君のお母さんは誘拐されたのか?」
「誘拐なんてされるわけないでしょ? まあ、墓ほじくり返そうってんなら別だけど。」
「そうだ。それと同じだよ、マードック君。ここにいないからと言って、誘拐されたわけじゃあないんだ。ビリーは君のお母さんと同じように、いないんだ。」
「お袋は天国にいるって、さっき言ったじゃんか。いないんじゃないよ。ちゃんと天国って所にいるんだからね。それにビリーだって、死んで天国にいるって決めつけられちゃ可哀相だよ。少なくとも俺は、そう思いたくない。何せ、警察からも保健所からも、ビリーの死亡報告は来てないもんね。だから、ビリーが天国にいるとも限らない。どう先生、反論ある?」
「何も私は、ビリーが天国にいるとは……。」
「ビリーがお袋と同じだって言ったのは先生だろ?」
「言ったことは言ったが、君……。」
「じゃあ何? 俺はビリーから生まれたってえの? 俺はビリーのオッパイ飲んで大きくなったってえの?」
 頭を抱えて、医師は机に向かった。そして、マードックを見上げた。
「違うんだ。」
「何が? 先生は俺が犬だって言いたいんじゃないの? そりゃあ月夜の晩には犬になることもあるけど、でも俺はビリーの子じゃないよ。これだけははっきりしてるからね。ビリーは俺より年下だし、何たってビリーはオスだもん。」
「違うんだよ、マードック君。論点が違うんだ。だから、私が言っているのは……例えばの話だ、ビリーが、君が考えているように誘拐されたのではなく、ただ散歩を終えて、君の所に帰ってきたとしよう。」
「例えば、帰ってきた、と……。」
「君にはビリーが見えるとしよう。」
「例えば、見える、と……。」
「だけれども、私たちには、君以外のみんなには、ビリーの姿は見えないんだ。」
「例えば、俺以外には見えない、と……。」
「そうだ。」
「だけど先生、それは例えばの話だから、事実じゃないよ。」
「いや、事実の凡例だよ、これは。」
「それじゃ言わせてもらうけど、ビリーが俺の所に帰ってきたとする、なんて仮定を作ったのは先生だよねえ? そんなら先生には、ビリーが見えるってわけだ。」
「……マードック君……。」
「先生はビリーの身代金を払いたくないから、そう言って俺をごまかそうとしてるんでしょ。」
「だからね、マードック君。」
「自分だけ見えないっていう犬に身代金払うのが悔しいからって、こうして俺を気違い扱いするんだ……。」
「ちょっと待ってくれ。君のことを気違い扱いしているつもりはないが。」
「じゃあ、ここはどこなの? 学校? ホテル? それとも産婦人科? 精神病院でしょ? ここが精神病院で、先生が医者で俺が患者とくりゃあ、先生は俺を気違い扱いするんだ。精神病院で医者が患者を気違い扱いしないはずがない。絶対そうだ。」
「私は決して、そんなつもりじゃ……。」
「それじゃ、どんなつもりで、ビリーを見殺しになさるおつもり? ビリーはねぇ、この心の荒れすさぶ精神病院の中に閉じ込められている、孤独で可哀相な俺の、たった1匹の友達なんだよ。先生は、俺の友達が死んでも構わないって言うの? 何もせず、ただ座ってくだらないお喋りをしているだけ。これじゃあんまりだよ。捜してやりもしない。警察も呼ばない。保健所にも連絡しない。身代金も用意しない。ひどすぎやしない、これって?」
「だけれども、ビリーっていうのは……。」
「そうだよ、ビリーはただの犬だよ。先生にはただの犬かもしれないけど、俺にとっちゃ大切な友達なんだから……。」
「でもねえ……。」
「先生、あんた冷たい人だよ。そんなので、よく医者が務まるね。……もしビリーが死んじまったら、あんた、奴に祟られるよ。……ビリーが死んだら、俺は……俺は……。」
 色が白くなってしまうまで力一杯握られた両方の拳が、小刻みに震え、マードックはそのまま唇を噛んでいた。
「マードック君……。」
 そんな彼の姿を見て、医者も言葉を詰まらせた。
「その、だね……。私はどうしたら……?」
「……病院の外を捜してもらえます?」
「私がビリーを捜すのか?」
「俺は許可がなけりゃ、ここから出られないんだから……。」
「しかし、私にはビリーが……。」
「ああ、見えないって言うんだよね……。だったら他の人を捜しにやってくれると嬉しいんだけど……。」
「他の人と言ってもだね……。そうだ、どうだね、君がビリーを捜しに行っては?」
「俺、が……?」
「外出許可は出す。」
「……あ、ありがとうございます、先生!」
 マードックは医師と握手を交わし、外出許可証を持ってオフィスを出ると、大急ぎで廊下を駆けていった。
 


 病院の数ブロック先に、紺色に赤いラインの入ったバンが停まっていた。
「モンキー、遅かったじゃないか。」
「だってよ、ハンニバル、フェイスのお迎えがないんだぜ。自力で出てくんの、大変なんだからさ。」
「悪い悪い。手が放せなくてね。で、今後の参考にしようと思うんだけど、一体どうやって出てきたわけ?」
「行方不明のビリーを捜しに来たの。」
「え、じゃあビリーは?」
「エンジェル、心配は御無用。奴はずっと俺の背中におぶさってんだから。……見えないようにね。」
 マードックは親指を立てて背中を示し、ニッと笑った。
「俺って、役者でしょ?」
【おしまい】
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