精神病院大脱走
鈴樹 瑞穂
 ガラスの割れる音に、彼女は振り向いた。
 まず目に入ったのは、自分を食い入るように見つめる男の顔。それから、床の上に飛び散った、コップであったガラス片。
「リズ……!?」
 その男が喘ぐように言った。彼女は少し戸惑った。職業柄、一度会った人間の顔は覚えるようにしているが、その男は記憶になかったからだ。
 この人は私を誰かと間違えているんだ――そう彼女は気づいた。それは、ここ精神病院では、半ば当然とも言える現象だった。でも、と彼女は考えた。この人は暴れたりしないだろうか。
「リズ……どうしてここに?」
 その男はそう言いながら、彼女の方へ歩み寄ってきた。彼女は無意識のうちに後ずさった。彼女は暴れ出した精神病患者を宥める術を知らない。かと言って、助けを呼べる立場でもなかった。看護婦の白衣を着込んではいるものの、彼女は本物の看護婦ではなかったからだ。
「あの……。」
「リズ、エリザベス……、いや、彼女がこんな所にいるはずがない。お前、奴らの回し者だなっ!」
 その男は彼女を追い詰め、首を絞めつけた。
「言えっ、彼女をどこにやったんだっ!」
 彼女は必死に抵抗した。しかし、がっちりとした体格の男は、びくともしない。気が遠くなりかけた時、ふっと体が軽くなった。
「ジェイ、やめときなって。」
 彼女は咳込みながらも、聞き慣れた声に顔を上げた。ジェイと呼ばれた男の後ろに、エアーフォース製ベースボール・キャップを被り、革のボンバー・ジャケットを着込んだ背の高い男が立っている。ジェイは、その男に向かって言った。
「モンキー、邪魔しないでくれ。この女、奴らの回し者なんだ。」
 モンキーと呼ばれた男、マードックは、笑いながら首を振った。
「ジェイ、早とちりはいけねえなあ。うん、いけねえよ。彼女にも言い分はあるだろうし。それに、俺の妖精ちゃんたちも血を見るのは嫌だって言ってんだよ。」
 そう言って、彼はポケットから取り出したドロップの缶の蓋を、少しだけずらしてみせた。
「あんたの戯言は聞き飽きたよ。俺は狂ってなんかいない。奴らの陰謀で恋人を奪われ、こんな所に入れられてんだ。」
「ちょっと待ってよ。奴らって誰? エリザベスって? 私はそんな人たち知らないし、無関係だわ。」
 彼女――エンジェルこと、エイミー・アマンダー・アレン、職業は新聞記者――は、やっと機会を見つけ、口を挟んだ。ジェイはエンジェルの方を振り返り、睨みつけた。
「じゃあなぜここにいる? お前は看護婦じゃないだろう。何の目的で精神病院に潜り込む必要があるっていうんだ。」
「まあまあ、そう怒らずに。彼女はエンジェルって言って、Aチームの仲間なんだよ。それでもって、俺を迎えに来たってわけ。で、エンジェル、今回の仕事、何?」
「違うわ、今回は迎えに来たんじゃないの。ハンニバルに頼まれて、様子を見に来ただけよ。ハンニバルたち、少し遠出するからって。」
「Aチームって、あれは……気違いの作り話じゃ……。」
「実在してんだよ、この通り、な。頼りになるんだから。ホントさ。試しにあんたの悩みも話してみたらどう? きっと楽になるぜ。なんたって、俺たちは天下無敵のAチームなんだから。」
 マードックの言葉に、ジェイは気が抜けたように首を横に振った。
「人生相談所に用はないよ。」
「人生相談所とは、あんまりじゃないですかな。」
 いつの間にか近寄ってきていた掃除夫の老人が、いきなり口を挟んだ。驚いてその顔を見るジェイに、老人はウインクを投げかける。
「ハンニバル! ロスにはいないんじゃなかったの?」
 エンジェルが言うと同時に、掃除夫の曲がっていた腰がしゃんと伸びた。老人特有の間の抜けた表情は、跡形もなく消え去り、瞳に活気が溢れている。掃除夫は――いや、掃除夫に変装したハンニバルは、ニヤリと笑った。
「事件の影のあるところ、Aチームの姿ありってね。頼りになるもならないも、相談する人の胸次第。」
 ポカンとした表情のジェイを尻目に、ハンニバルは悠々と葉巻を咥えた。
 
 

 カントリー・ロードをひた走る紺色のバンの中に、5人の男と1人の女が座っている。
「だけど驚いたな。あの見張りの厳重な病院から抜け出すことができたなんて。」
 ジェイが感謝と驚愕を半々にして言った。
「当然。」
 ハンニバルが嬉しそうに言い放つ。自分の作戦を褒められることが、葉巻の次に好きなのだ。
「で?」
 エンジェルがジェイの方を見る。看護婦の白衣を脱ぎ捨て、あっさりとした綿のシャツとジーンズという気楽な出で立ちである。
「そろそろ事情を話してくれてもいいんじゃない?」
 ジェイは心なしか、少し赤くなった。
「これは失礼。」
 そう言うと、ハンニバルの方に向き直った。
「僕の名前は、ジェイムズ・アトキンスと言います。2年前までは、アトランタでゴルフ・クラブを作る職人をしていました。」
「クラブ? 俺の妖精ちゃんたちも好きだよ、カニ。お友達なんだってさ。」
 マードックが無邪気に混ぜっ返し、エンジェルに睨まれた。
「それがどうして、精神病院なんかに?」
 フェイスマンの問いに、ジェイは言葉を続けた。
「アトランタにはゴルフ場が沢山ありますが、その中でも一番大きなゴルフ場のオーナーは、ミラーズと言って……豚のように貪欲な奴です。」
 嫌悪の表情を剥き出しにして、ジェイは吐き捨てるように言った。
「ゴルフ賭博で八百長試合をして、私腹を肥やしているんです。そのためのクラブを僕に作らせようとして、僕が断ると口封じのために精神病患者に仕立て上げて、病院に押し込んで……僕の恋人は、ミラーズに奪われました。」
「ひどい話だわ。」
 エンジェルが憤慨すると、ジェイは静かに首を横に振った。
「同情はされたくないんです。ただ、奴らに復讐したい。リズを救い出し、奴らの悪事を暴いてやりたいんだ。アトランタには、まだ奴らに強いられて八百長のためのクラブを作らされている職人や、八百長とも知らず賭に興じて身ぐるみ剥がれた人が大勢います。」
「そいつは許せないな。」
 ハンニバルが言うと、助手席のフェイスマンも頷いた。
「ぜひ、俺たちもそのミラーズとやらの悪事を暴く手伝いをさせてもらわなきゃな。」
 ハンニバルの言葉に、運転席のコングも、助手席のフェイスマンも、後部座席のマードックも、無言の同意を表した。
 


「ハンニバル、つけられてるぜ。」
 サイドミラーを見ながら、コングが他人事のように言った。
「礼儀正しい連中だといいんだがな。」
 ハンニバルものんびりと呟いた。
「そうだといいね……ホントに。」
 ぼやくマードックに、フェイスマンがからかうように言った。
「祈ってみる?」
「あ、それいい。」
 マードックは顰めっ面をして十字を切り、何やらぶつぶつ言い始めた。
「ちいっと揺れるぜ。その辺にしっかり掴まってな。」
 コングはそう言うと同時にアクセルを踏み込む。ただでさえ凹凸のある田舎道を、バンはガタガタ言いながら突っ走る。尾行車もスピードを増し、今や並び兼ねない距離に迫っていた。
「ミラーズのとこの三下だ。」
 尾行車の運転手を見て、ジェイが言った。助手席の男が身を乗り出し、ライフルを空に向けて撃った。
「止まれ! 止まらねえと、今度はタイヤを狙うぜ。」
 ふん、と鼻で笑うと、ハンニバルはコングに言った。
「止めてやれ。連中に礼儀を教えとくのも悪くない。」
「わかった。」
 コングは道の端にバンを寄せて停めた。6人がバンを降りると、尾行車の5人も車を降りた。
「久し振りだな、アトキンス。」
 最後に車を降りた、赤ら顔のでっぷりとした男が言った。
「ミラーズ!」
 ジェイが叫び、その男を睨みつけた。
「困るじゃないか、病人が病院を抜け出したりして。心配せんでもエリザベスはワシの所で元気にやっとる。さあ、病院に戻って、ゆっくり療養するんだ。」
「僕はこの通り、至ってマトモさ。それとも僕が病院から出てきちゃまずいことでもあるのかい?」
 ミラーズの顔から余裕の笑みが消えた。
「そうか。そっちがそのつもりなら、こっちは腕ずくでも病院に連れ戻すだけだ。」
「ちょっと待て。」
 手下に合図しかけたミラーズを、ハンニバルが止めた。
「八百長試合で随分儲けてるそうじゃないか。そのうち、こっちの被害の総額を見積もって、明細書を作って持っていくよ。何しろ、こっちには有能な会計士がいるんでねえ。」
「何だと?」
 ミラーズがすうっと目を細める。ハンニバルは、それにはお構いなしに続けた。
「そうそう、まず手始めに礼儀を覚えてもらおうか。」
「それは、こっちの台詞だ。」
 ミラーズがハンニバルを殴って、乱闘の幕は開いた。
 数分後“覚えてやがれ”という決まり文句を残して、ミラーズ一行は去って行った。
 

 
 アトランタのジェイの家。ジェイとAチームの一行が軽い食事を取りながら、作戦を練っている。
「さっき見てきたミラーズ邸の様子からして、一番いいのは夜襲だな。」
 ハンニバルの意見に、コングも同意した。
「そうだな。明日になれば奴らもここを襲ってくるだろうし、今夜が潮時だな。」
「でも、武器もろくにないのに……。」
 ジェイは不安気だった。
「そういうことなら任して。」
 フェイスマンが得意気に胸を叩いてみせる。
「1時間もあれば充分、ってとこかな。」
 そう言うと、フェイスマンはエンジェルを連れて、武器の調達に出かけた。ハンニバル、コング、マードック、ジェイの4人は、既にフェイスマンが調達してきた軽トラックを改造し始めた。
 


「オートライフル5丁、拳銃3丁、手榴弾20個、火薬できるだけ、弾倉沢山……ねえ、どこで調達する気?」
 メモを読み上げながら、エンジェルがフェイスマンに尋ねた。
「決まってるだろ、ミラーズの所。」
「どうやって?」
「そのためにお宅を連れてきたんだから。久々に名演技を見せてもらおうと思ってね。」
 そう言って、フェイスマンはエンジェルに手順を説明し始めた。
 


 水道工事人を装ったフェイスマンとエンジェルは、ミラーズ邸への侵入にあっさりと成功した。ガードマンは、エンジェルのウインク1つで、すぐに通してくれたのだ。
 首尾よく武器を手に入れて、庭を通り過ぎる時、エンジェルが急に立ち止まった。
「フェイス、人がいるわ。」
 そして木の陰に隠れた2人が見たものは、エンジェルによく似た女性が赤ん坊を抱いている姿だった。
「驚いたな……、ホントにそっくりだ。」
 フェイスマンが、エンジェルとその女性を見比べながら囁いた。
「きっと、あの人がエリザベスだわ。」
 エンジェルは、エリザベスを――彼女が赤ん坊に向ける笑みを――見て、胸が痛くなるのを覚えた。その至福の笑みは、略奪されてきた不幸な女性のものとは、とても思えなかった。
 


 武器を調達して戻ってきたフェイスマンとエンジェルに、ハンニバルが言った。
「上出来だ。一体どこから調達してきたんだ?」
 フェイスマンはニヤリと笑った。
「企業秘密……と言いたいとこだけど、何てことはない、ミラーズ邸からだよ。」
 エンジェルがジェイに、遠慮がちに言った。
「……エリザベスを見たわ。」
「本当ですか!?」
 ジェイは目の色を変え、エンジェルに掴みかからんばかりだった。
「ええ……。」
 なぜか、そんなジェイの瞳を真っ直ぐに見ることができなくて、視線を逸らしながら、エンジェルが頷いた。
「それで、リズは……彼女はどんな具合でしたか?」
「……元気そうだったわ……。」
 やっとそれだけ言うと、エンジェルは逃げるようにその場を離れた。
 

 
 ミラーズ側の守りは思ったより固く、その夜の襲撃は、Aチームにとっては珍しく苦戦となった。彼らを乗せた軽トラックがやっとのことで邸内に侵入すると、ジェイがいきなり飛び降り、駆け出した。
「リズ! どこだ!?」
 無理を言ってついてきたエンジェルは、ジェイの後を追った。
 ハンニバルたちは、ミラーズ一派の制圧に、どうにか成功したようだった。邸内にはほとんど人気はなく、あちこちで物の焦げる嫌な臭いがした。
 2階の一番奥の部屋で、ジェイはエリザベスを見つけた。ベビーベッドの傍に立ち尽くし、震えているエリザベスを。
「リズ!」
「ジェイ! ……生きて、いたのね……。」
「リズ、助けに来たんだ。さあ、こんな所から一刻も早く抜け出そう。」
 ジェイはエリザベスに歩み寄り、手を差し伸べた。エンジェルはジェイを追って来たものの、どうしても部屋に入れず、ドアの陰からその光景を見ていた。
「駄目よ……。私は行けないわ。」
 エリザベスは悲し気に首を振り、それでもきっぱりと言った。
「どうして!?」
 思ってもいなかった拒絶に、ジェイは信じられないといった表情だった。
「この子がいるもの……。」
 エリザベスは、ベビーベッドの中を指し示した。丸々と太った赤ん坊が、外界の変化にも気付かずに、すやすやと眠っている。
「ミラーズの子か……。」
 エリザベスは頷いた。
「……愛してるの、あの人を。どんなに悪人でも、愛しているのよ。……昔、あなたを愛したように……。」
 エリザベスの頬を、涙が伝って落ちた。
 ジェイは無言のまま彼女に背を向けると、その部屋を後にした。
 


 ジェイが重い足取りで、階段を下りていく。少し後からエンジェルがついてくるのにも、全く気がつかないようだった。
 庭に出て、少し歩いた時、木の陰からミラーズの残党が躍り出た。かなり錯乱しているようだった。エンジェルが悲鳴を上げた。振り返ったジェイが、突き飛ばすようにしてエンジェルを庇う。
「危ない、リズ!」
 次の瞬間、ジェイの胸が赤く染まり、その体はゆっくりと地面に倒れ込んだ。
「ジェイッ!」
 エンジェルの悲鳴と銃声に駆けつけたハンニバルが、ジェイを撃った男を取り押さえた。
 エンジェルはジェイに駆け寄り、ぐったりとした重い体を抱き起こした。
「リズ……良かった……幸せに……。」
 ジェイが苦し気な息の下から、切れ切れに言う。
「ジェイ、ジェイ! しっかりして。私よ、リズよっ!」
 エンジェルは思わず叫んでいた。
「ジェイ、愛してるわ。死なないで……。」
 ジェイは微かに笑ったようだった。
「ありがとう、エンジェル……。」
 そう言って、ジェイは逝った。
 

 
 目の前にバラの花束を差し出されて、エンジェルは顔を上げた。
「お嬢さん、デートしない?」
「フェイス……。」
「落ち込んでばかりじゃよくないぜ。やっぱりエンジェルは笑ってるのが一番素敵だよ。」
「気障ね。……美味しいお店、連れてってくれる?」
「OK、お姫さま。」
 エンジェルは、にっこりと微笑んで立ち上がった。
【おしまい】
上へ
The A'-Team, all rights reserved