SUFFERING OF NOT-SO-YOUNG MURDOCK


(若くなきマードックの悩み)
伊達 梶乃
 対話法――それは自らと対話することによって、心の内の悩みを解決していく方法である(多分、そうだったと思う)。
 退役軍人病院精神科では、対話法を応用した治療(専門家の間では『会話法』と呼ばれる)が試みられている。ある程度マトモな精神構造をした者にとってのみ、対話法は有効なのであり、精神科の患者が1人で対話法を行えば、自分自身が今何を考えているのだか、何を言っているのだか、わからなくなってしまうおそれがある。
 看護婦に連れられて、マードックは、医師の待つ治療室に入っていった。治療室とは言え、6畳ぐらいの部屋に机と椅子(これは医師専用のもの)、それと治療台と称される倒されたままの床屋の椅子が設置されているだけの、粗末な部屋だ。
 マードックは、看護婦に促されて、その怪しげな治療台に横になった。
「こんにちは、マードックさん。」
 いかにも新米といった感じの医師は、カルテの“凶暴性/最近は、なし”という文字を目に留めると、安心しきった表情で、にこやかに言った。
「今日の治療は、対話法の応用をやってみます。本来なら、あなた1人でやってもらうものなんですが、今日は初めてですので、私も参加します。」
「何すりゃいいの、俺は?」
「まあ、簡単に言えば、カウンセリングと同じです。あなたは私に自分の悩みを打ち明け、私はあなたの相談役になる、という。」
「それじゃ、対話法の応用なんて言わないで、カウンセリングって言えばいいのに。」
「うーん、根本の理念が、ちょっと違うんですよ。」
「俺にとっちゃ、どっちだっていいんだけどさ。痛くなきゃ、ね。痛い治療はゴメンだよ、電気ショック療法とかはさ。」
「痛くないから、大丈夫。さあ、悩みを話してください。何でもいいですよ。」
「悩みって言われてもねえ……ロシアの将来のこと、とか。」
「そんな他人事じゃなくて、自分のことでは何かないんですか?」
「病院の食事が不味いってこと。」
「それは私も承知しています。今度、調理責任者に言っておきます。他には?」
「そうねえ……。聞かれても、すぐには出てこないしなあ。最近は頭ん中で歌う奴らも出てこなくなっちまったし……あ、あったあった、髪のことだよ、先生。」
「髪、ですか。どんな髪の悩みなんです?」
「ほら、俺ってさ、前髪が後退してきてるだろ、それが悩みなんだよな。」
「ああ、髪が薄いのが悩みなんですね、それは大変な悩みですねえ。」
「いや違うって。それもまあ多少は悩みなんだけどさ。問題は後退の原因。毎晩、俺が眠りに就くとよ、窓からあの切り裂きジャックが入ってきて、イーストエンドのホワイトチャペル地区で5人の女を殺したそのナイフで、俺の前髪を少しだけ剃っていくんだ。さらに恐ろしいことに、その場所には、もう二度と髪が生えてこないんだぜ。」
「……切り裂きジャックを追い払おうとはしないんですか?」
「そんなこと、誰ができるかってんだ。ジャックに歯向かったら、腹を切り裂かれて内臓を引きずり出されるか、手足をバラバラにされちまう。そんな殺され方をするぐらいなら、俺はハゲになる方を選ぶぜ。ハゲになっちまえば、もうジャックは来ないからね。……でも、ハゲになんのも遠慮したいよなあ。俺の頭皮ちゃんは寂しがりやなんだ。」
「カツラを被ればいいじゃないですか。」
「俺にカツラを被れってえの? それじゃ、まるでフック船長じゃんかよ。」
「フック船長は、カツラじゃなくて義手だったような気がしますが……。」
「義手も義足も、カツラもコンタクトレンズも人工肛門も、俺にとっちゃ同じなの。」
「そう言われてみれば、そんな気もしますけど……。」
「フック船長と同じって言われちゃ、俺は黙ってられないぜ。何てったって、ウェンディをサメのエサにしようとした奴だもんな。あっ、そう言えば、ティンカー・ベルはどこへ行った? ティンカーに謝りたいことがあるんだ。俺とウェンディは、何の関係もない。そりゃ最初、少しは心が傾いた時があった。だけど、今はお前だけを愛してる。ウェンディをフック船長に売ったことなんて、全然気にしてないさ。俺のところへ帰ってきてくれよ、ティンカー・ベル!」
『帰ってきてくれ、ティンカー・ベル』と、まるで女房に逃げられた夫のように叫び続けるマードックを病室に戻すよう、看護婦に指示し、医師は対話法の応用に関する論文の原稿に、こうつけ加えた。
――応用対話法(会話法)は精神病患者の妄想・幻覚を悪化させるため、臨床での使用には注意を要する。しかし、病状の確認には有効。――
【おしまい】
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