病院へ行こう
伊達 梶乃
「ねえ、兄貴、本当にあの病院に押し入るつもりなのかい?」
 廃ビルの地下室、それが彼らのアジトだった。普段は配管工事屋のブッチ・キャシディとサンダンス・キッド。名前だけは有名だが、彼らはちっとも有名でない。あくまでも、ただの配管工事屋だ。
「他にどの病院があるってんだよ。この近辺で一番大きな病院って言ったら、あそこしかねえんだ。あそこなら、俺たちの狙うブツがある。」
「それって、絶対確実な情報なの?」
「情報屋に10ドルも払ったんだ。ガセネタなはず、あるもんか。キッド、俺を信じろ。」
 たかが10ドルに“も”をつけるところから、ブッチは、相当な貧乏であるということが窺われる。
「考えてもみろ、大学の化学科を中退した俺と、薬学科を中退したお前とでできる、一気に金持ちになる方法って言ったら、これしかないだろうが。幸い俺たちには、学校からガメてきた大量の実験器具がある。」
 もしかしたらブッチは実験マニアかもしれない。
「覚醒剤製造および販売……、でも兄貴、それって違法だと思うんだけど……。」
「大丈夫だ、キッド。法は破るためにあるんだ。大抵の金持ちは、法に反してるんだぞ。金さえありゃ、法なんて関係ないんだ。」
「そういうものなのかなあ……。」
 そういうものなのだよ、キッド。法は常に、金持ちに有利に働くものだ。でも、貧乏人には、恐ろしく不利にできている。法とは、そういうものだ。
「アンフェタミンにエフェドリン、うー、ぞくぞくするぜ。」
「俺はエタノールなんか好きだけどなあ。」
 やはり、こいつら危ない。



 大型食料品店の駐車場に停めた車に向かって、フェイスマンとマードックは、重い足取りで、今にも倒れんばかりによろめきつつ、歩を進めていた。
「何で、へっっくし、俺たちがこんな、っっくしょォい……っとォ。」
 マスクの奥でくしゃみをするフェイスマンは、両手に抱えた紙袋をマードックに押しつけ、ポケットからティシューを出すと、マスクをずらして鼻をかんだ。
「何で俺たちがこんな風邪を引いている時に、大量の買い出しをしなきゃなんないの?」
「ほんだし? ほんだしは買ってねーよ。」
 鼻の頭を真っ赤にしたマードックが、紙袋をフェイスマンに突き返しながら聞いた。両方のこめかみには、ジャパニーズ・ドライ・プラムが貼りつけてあり(今は見えないが、実はヘソにも貼ってある)、頭にはアイスノン・ベルトを巻いている。
「誰がフンドシの話をしてるんだよ!?」
 2人とも、風邪のせいで耳が遠くなっている。
「怒鳴るなよ〜。それじゃなくったって、知恵熱で頭がガンガンしてんだからさあ。」
「悪い。俺も自分の声が頭に響いた。」
 あまりの頭痛に、中腰になってしまう2人であった。
「風邪だからって、1週間前から買い出しをさぼってた俺がいけないんだけどさ。それは反省してるよ。こんなに風邪が長引くとは思わなかったしね。それに、俺たちはハンニバルたちより、ずっと具合がいい。だからと言って、この買い物の量は何なの?」
 1人、グチを溢すフェイスマン。
「その買い物につき合わされた俺は何なんよ。」
 文句を垂れるマードック。
「普通、下痢している奴が、牛乳10本も頼むか?」
「仕方ねえよ。コングだもん。」
「卵2ダースとパン4斤はいいとして。バナナとオレンジは何で買わなきゃならなかったんだ?」
「安かったから。」
「ま、いいでしょ。レバーとホウレン草、バターとアプリコットジャム。これも、まあいい。で、タラっていうのは?」
「白身魚は消化にいいんだよ。夕飯は俺の特製、タラとレバーとホウレンソウのリゾットを作ってやっから。」
「よろしい。」
 年中食事当番のフェイスマンには、嬉しい発言であった。
「それで、コーヒー豆。ま、これもいいでしょ。洗面器、コング用。」
「コングちゃん、吐くから。」
「ふむ。ボックスティシュー5箱組をとりあえず3つ、と。」
「それはフェイス専用だろ?」
「それと、トイレットペーパー12ロール。」
「それも、コングちゃんの。」
「えもんかけ4本セット。」
「何となく買ってみただけ。」
「あ……あーっ!!」
 レシートと買い物リストを照らし合わせて、フェイスマンが叫んだ。何が起こったのか、フェイスマン!
「大根、買い忘れた!!」
「マジ!?」
「……ま、いいさ。別にそれほど欲しい物じゃなかったし。」
「そんなら叫ぶなよなー。」
「申し訳ない。ちょっとショックだったから。」
「わかるよ、その気持ち。」
「で、次は薬ね。ちゃんとファーマシーに行ってきた?」
「もっちろん。ドラッグストアなんかじゃなくって、ファーマシーまで行って、買ってきましたよ。鎮痛剤、止瀉薬、整腸剤、葛根湯を始めとする感冒薬、鼻炎カプセル、鎮咳薬、湿布、これでいいんだよね?」
「OK。買い忘れたのは、大根だけか……。」
 レシートをコンテスの財布に押し込み、バーバリーのコートの内ポケットにしまった。
「じゃ、帰るか。」
「ハンニバルとコングちゃん、死んでなきゃいいけど。」
 風邪引きには辛すぎる、幌の壊れたコンパチに乗り、2人は帰途に就くのであった。



 所変わって、ここは豪邸。年末年始のバカンスと称して、3カ月も家族と使用人と犬まで連れて、リビエラの別荘に行ってしまうという、超金持ちの家。でも、それが誰なのか、Aチームの誰も知らない。家を調達してきたフェイスマンすら知らないのである。
 その豪邸では、ハンニバルとコングが臥せっている。豪華な天蓋つきの寝台が鎮座ましましている寝室で寝てればいいものを、貧乏性が板についたAチームの面々は、食堂の脇にある、トイレも近い、使用人用の大部屋で、病の床に臥している。半数は、無理矢理、買い出しに行かされたが。
 病に臥しているとは言え、パジャマ類を持たない彼らは、普段と変わらぬ服装で床についている。
 ハンニバルは上半身を起こした状態で、肩の辺りまで毛布にくるまり、ただひたすらに宙の一点を凝視しているが、これは起きていたくて上半身を起こしているわけではなく、横になっていると、ただでさえ炎症を起こして腫れている気管や気管支が自重で潰れて、より息苦しくなるので、仕方なく起きているのである。即ち彼は、風邪の結果、気管支炎をこじらせており、今日で丸1週間、横になっていない。珍しいことに、トレードマークの葉巻も、1週間、口にしていない。
 さて、超下痢嘔吐野郎のコングはと言うと、今まで団子虫のように丸まって寝ていたのだが、むぐうと一声唸って起き上がると、よたつく足取りで部屋を出て行った。
 静寂が訪れる。ハンニバルの呼吸の、ヒューヒューいう音だけが、寂しく響いていた。
 コングが戻ってきた。先刻に輪をかけて、ふらふらしている。眉間の皺は、グランド・キャニオンよりも深い。
 ハンニバルが顔だけをコングの方へ向けて、蚊の鳴くような声で聞いた。
「どうだ、腹の調子は?」
 言葉を発した後のハンニバルは、さながらフル・マラソンのゴールで喘いでいるランナーのようであった。体全体を使って息をしている。
「調子いいわけねえぜ、畜生。」
 コングがベッドに横たわりながら答えた。
「上からも下からも、もうロクなモン、出てきやしねえ。胃液も底ついて、今度は胆汁だぜ。苦ェの苦くねえのって、まいっちまったよ、全く。……ケツも痛えしよ。」
 答える声も、心なしか力ない。
「夏にカキ食いすぎた時よりひでえや。」
 実際、約半年の間、無病息災であったコング。たまにかかる病は重い。
 ハンニバルは深く頷いた。何か言いたげだが、呼吸をするだけで精一杯の状態では、何も言えない。
 もう出す物が何もない、スーパー・スペシャル・グレート下痢のコングに、優しい言葉もかけてやることのできないハンニバル。体調がよくても、優しい言葉なぞかけてやらないだろうが、それでもやはり、寂しい光景である。
「ただいばー、げほがふぉっ。」
 と菌を撒き散らしながら、フェイスマンが帰ってきた。マードックも後から続く。
「おう、牛乳買ってきたか?」
 答えも聞かず、コングが紙袋の中から牛乳を引っ張り出し、一気に1パックを飲み干した。牛乳中毒の禁断症状が現れる寸前の彼である。
「やっぱ牛乳は美味えや。…………。」
「どしたの、コング?」
「……………………便所っ!!」
 叫ぶなり、切羽詰まった小走りで厠に向かう。全く、コングも無茶である。
「ほら、フェイス、ぼやぼやしてねーでハンニバルの背中と胸に湿布貼ってやんなよ。」
 今回、恐ろしく真面目なマードックは、湿布の箱をフェイスマンに投げて寄越すと、黙々と、珍しくも黙々と、レバーと卵とタラと牛乳9本を冷蔵庫にしまい込み、ホウレンソウを茹でる準備を始めた。
「けふっけふっ……がっがっがふっ。げへえっ。」
 ハンニバルの死にそうな咳。枕元のティシューを取って、痰を吐く。
「ひどいね、ハンニバル。まさか肺炎になんてなってなきゃいいけど。」
 湿布の箱を開けながら、フェイスマンがハンニバルに向かって言った。
「……血痰が出た……。」
 ティシューに吐き出した痰を見て、ハンニバルが悲壮な面持ちでフェイスマンに訴える。
「ええっ!?」
 ハンニバルの服をまくり上げて、背中に湿布を貼ってやっていたフェイスマンは、手を止めてこの重病人の顔を見た。
「血痰?」
 怪我には強いAチームも、病気には弱い。
「やっぱり肺炎だよ、ハンニバル。熱はある?」
「ちょっとな。」
 フェイスマンは、ハンニバルの額に手を当てた。
「何が“ちょっと”だよ。だいぶあるじゃない。やばいよ、これ。40度近いんじゃないの?」
 きっ、と背を正すと、フェイスマンは全員に聞こえるような声で言った。少し涙目になっているが。
「病院へ行こう!」
 そして鼻をかんだ。



 セントラル総合病院。この界隈で最も大きく、かつ信頼できる病院である。そこの内科の待合室にAチーム4人が並んで座っている。
 健康保険被保険者証のない彼らにとって、医者にかかるということは、とても勇気のいることだった。特にフェイスマンにとっては。何せ、全額自己負担になるのだから!
 一番に診察を受けたコングは、胃と腸に風邪の菌が入ったということだった。脱水症状を起こしているのでリンゲル液の点滴を勧められたが、彼は、水分の補給は怠らない、と医者に約束をし、点滴を逃れた。
 2番手のフェイスマンは、風邪から来る普通の鼻炎。治療室で点鼻薬を差され、不快な思いでいるところに、喉の炎症も少しあるので、と、喉に薬を塗られて、最高に不快な気分になっていた。
 3番目のマードックは、多少風邪も引いているが、頭痛の原因はやはり知恵熱によるものと診断され、少し喜んでいる。
 そして次はハンニバルの番である。
「気をつけてね、ハンニバル。」
 まるで永遠に離れ離れにならなければいけない状況に陥った恋人たちの、女性のように、フェイスマンは悲し気な目をして、ハンニバルに言った。ハンニバルも、それに対して、寂しく微笑むだけであった。
 診察室のドアの前まで、彼の体を支えてきてくれたフェイスマンの手から離れると、ハンニバルはドアの向こうへゆっくりと消えていった。



 一張羅の背広に学生時代の白衣を着たブッチとキッドは、セントラル総合病院の裏口に立っていた。手には、別の病院のゴミ捨て場から拾ってきた山のような製薬会社の段ボール箱を抱えている。
「こんなので、大丈夫なのかな。」
「作戦は完璧だ。メトロポリタン製薬会社の社員から名刺をすり取ってきたしな。」
「何、そのメトロポリタン製薬会社って?」
「お前の持っている、その箱に書いてあるだろうが。」
「あ、そうか。じゃ、俺たちは、薬の配達に来た製薬会社の社員ってわけだね。」
「……お前、打ち合わせの時、俺の話を聞いてなかったろ?」
「へへへ、ごめん、兄貴。」
「それじゃ、行くぜ。」
「うん。」
 ブッチは、裏口のチャイムを鳴らした。
『はい?』
 インターホンから、看護婦の声が聞こえた。
「メトロポリタン製薬会社の者ですが、薬の配達にまいりました。」
『今、開けます。』
 すぐにドアが開いた。
「ご苦労さま。あら、いつもの人じゃないのね。」
「はい、担当が変わりまして。私、今回からこちらの病院の担当となりました、ドナルド・デューイと申します。」
 と、ブッチは名刺を看護婦に差し出した。
「ドナルド・デューイさんね。この廊下を真っ直ぐ行って左に曲がったところに薬剤室があるから、そこに運んでちょうだい。鍵は開いてるから。じゃ、よろしくね。」
 と看護婦は2人を残して、忙しそうに去っていった。
「やったじゃん、兄貴。」
「まだ喜ぶのは早いぞ。」
 2人は看護婦に言われた通り、薬剤室に向かった。



「ジョン・スミスさん?」
 診察室の椅子に座ったハンニバルは、医者に問われて、頷いた。
「どうしました?」
「息ができなくて、痰が出て、さっき血痰が出た。背中も痛いし、熱もあるらしい。」
 力を振り絞って、症状を訴えた。
「ちょっと喉を見せて下さい。」
 医者が、口を大きく開いたハンニバルの喉を覗き込む。
「ふーむ。」
 次に医者は聴診器を耳にはめ、ハンニバルの心音や呼吸音を聞いた。
「ふむふむ。では、スミスさん、治療室で熱を計って、吸入をした後、レントゲン室で胸部レントゲンを撮って、もう一度、ここに来て下さい。」
 サラサラとカルテに何か書き込むと、医者は看護婦にそれを渡した。
「では、スミスさん、治療室に行きましょう。歩くのは苦しいですか?」
 あまり美人ではない看護婦が、優しくハンニバルに尋ねた。素直にハンニバルは頷く。
「ちょっと待って下さいね、車椅子を用意しますから。」
 しばらくして、看護婦が車椅子を押して戻ってきた。
「はい、スミスさん、座ってください。」
 車椅子に座ったハンニバルは、自分は本当に病気なんだなあ、と実感した。
 熱は、ちょうど40度だった。吸入を終え、少し呼吸が楽になったハンニバルは、レントゲン撮影も無事に終了し、診察室に戻ってきた。
「少しだけ肺炎です。」
 先刻の医者が、胸部X線撮影写真を見ながら、ハンニバルに告げた。
「ほら、これが肺で、ここのところが少し白くなっているでしょう。ここだけが肺炎を起こしてるんですよ。」
 写真を、伸びるボールペンの先で指し示し、医者が楽しそうにハンニバルに説明した。
「ほう。」
「それから、完全に気管支が炎症を起こしています。しかしそれよりも、熱が高いというところが危ないですね。解熱剤を処方しておきます。座薬ですがね。また明日、吸入に来て下さい。車椅子は、当分の間、お貸しいたします。……では、お大事に。」
「ありがとうございました。」
 車椅子に乗ったハンニバルは、医者に礼を述べると、診察室の裏口から治療室を通り、薬剤処方室に向かった。



 一方、薬剤室のブッチとキッドは、部屋一杯の薬品に興奮していた。
「すげえ、すげえよ、兄貴。俺、感動しちゃった。」
「すげえな、キッド。俺、何か、泣けてきたよ。」
「やっぱり薬品とか薬剤って素晴らしいよね。」
「ああ、美しい。見てみろよ、あのブドウ糖の大壜、鳥肌が立つほど見事なフォルムじゃないか。」
「兄貴、あのエタノールのガロン壜……俺、失神しそう。」
 変な奴ら。
「そうだ、感動している場合じゃない。目的のブツを捜そうぜ。」
 捜すと言っても、薬剤の数は生半可じゃない。
「普通、そういう物は鍵のかかる場所にしまうんだよね。」
「キッド、お前、冴えてるじゃねえか。」
 と、2人は鍵のかかった薬品庫の前に立った。
「鍵が問題だな。」
 ガチャガチャと薬品庫の把手を回すが、開く気配もない。
「兄貴、俺、工具持ってきてるんだけど。」
「キッド、お前、冴えまくりじゃねえか。」
 てなわけで、薬品庫を壊そうということに落ち着いた。さすがは配管工事屋である。
 破壊工作に夢中になっている2人をじっと見つめる男がいた。病院内で迷子になってしまった、車椅子のハンニバルである。
 今、彼は迷っていた。どう見ても不審な2人組がいると病院側に報告しようか、自らの手で解決しようか、と。そして決断した。病気であろうとも、自分らしさを失ってはいけない。ということで、ハンニバルは病院側には秘密にしたまま、自分で解決するべく、2人の後ろに忍び寄った。もちろん、車椅子に乗ったまま。
「これこれ、何をしてるんだい? いけないなあ、金庫破りなんかしちゃあ。」
「誰だてめえ?」
「通りすがりの者だがね。」
 吸入をして楽になったハンニバル、久し振りに喋るのがとても嬉しいようだ。
「そう言う君たちこそ、一体何者なんだね?」
「何者だっていいだろ。」
「うーん、ますます怪しいねえ。」
「兄貴、やばいよ。ずらかろうよ、ねえ。」
「その発言、ますますもって怪しい。どう見ても、薬品泥棒だな。お前たちのような悪人は、この俺が神に代わって成敗してやろうじゃないの。」
「キッド、薬品庫はお前に任せた。俺はこいつを黙らせる。」
「わかった、兄貴、頑張ってね。」
 こいつら、ハンニバルの話を聞いてないだろう。
「畏れ多くも、この俺は神出鬼没の特攻野郎Aチームのリーダー、ハンニバル・むぐむぐむむむむ。」
 ブッチはハンニバルの口に、薄汚れた自分のハンケチを押し込むと、床に転がっていた布ガムテープで封をした。
 格闘となるとコングの次に強いハンニバルだが、病気となると話は別。あっさりとブッチに布ガムテープ巻きにされてしまった。
 布ガムテープで車椅子に固定されたハンニバルは、見事なまでに動きが取れない。
「キッド、そっちはどうだ?」
 テープの芯を床に放り投げ、ブッチはキッドの方に振り向いて聞いた。
「ばっちり開いたよ。」
「よし、じゃ、持ってきた箱にブツを詰めるんだ。」
「了解。」
 各種のアルカロイドを箱に詰め込むキッド。ブッチは製造と精製に使うエタノールなどの溶媒を、別の箱に詰め込んだ。
「こっちは終わったよ。」
「こっちもだ。さ、ずらかるぜ。」
「うん。でも、このおじさん、どうすんの?」
「そうだな……一仕事終わるまで人質になってもらうか。悪く思うなよ、じじい。」
 この“じじい”という一言で、ハンニバルは心底怒った。
「キッド、ちょっと2階の病棟へ行って、毛布とタコ帽子を捜してこい。」
「タコ帽子?」
「スキーや釣りの時に被る、顔まで隠れる防寒用のニットの帽子だよ。知らねえのか?」
「ああ、あれね。知ってる、知ってる。でも、あれをタコ帽子って言うのは知らなかったよ。兄貴って物知りだなあ。」
「とにかく早く持ってこい!」
 キッドの去った後、ブッチは部屋の脇に立てかけてあった台車を広げると、薬品を詰めた段ボール箱をその上に積み上げた。
「持ってきたよー。」
「じゃ、じじいに被せろ。」
 ハンニバルはタコ帽子を被せられ、毛布で巻かれた。もう外からガムテープは見えない。ハンニバルだとも、もうわからない。
「俺は薬を持って、裏口から出て、車を表に回す。お前はじじいと一緒に表から出るんだ。」
「大丈夫かなあ。」
「心配するな。白衣を着てりゃ、誰だって医者だと思うさ。まさか、配管工事屋だってわかるわけねえだろ。」
「それもそうだよね。」
 心配性のキッドはハンニバルを連れて表玄関に向かい、ブッチは薬を持って裏口から出て行った。



「ハンニバル、遅いねえ。」
 待合室で痺れを切らしたマードックが言った。
「こんなに検査が長いわけねえよな。」
 コングも、病院のトイレとの往復にほとほと嫌気が差していた。
「まさか、ひどい病気だって言うんじゃないよね。肺ガンとかさあ……。」
 フェイスマンの顔色が悪い。あまりにもハンニバルが心配で、顔が真っ青。
 3人が待合室に根を生やしていると、にわかに病院関係者たちの間に騒ぎが持ち上がった。
 その会話に耳を傾けていたフェイスマンが、コングとマードックに言った。
「薬品庫から大量のアルカロイドとエタノールが盗まれたみたいだね。」
 その口振りは、さも自分たちには関係ない、といった様子だった。ハンニバルのことじゃないなら、別にいいや、という感じである。
「アルカロイドとエタノールなんて、覚醒剤でも作る気なのかねえ。」
 マードックも、他人事だから、という口調。知恵熱が出ただけあって、頭の働きは悪くない。
「そんなに難しい事じゃねえからな。」
 コングも、ぼーっとして言う。
「もし……もしもだよ、ハンニバルがその盗んだ犯人と会ってたりしたら、やっぱりハンニバルのことだから、いくら病気でもちょっかい出すよねえ。」
「ああ、ハンニバルなら、やりかねねえな。」
「俺、ちょっと薬品庫の方に行ってみるわ。」
 フェイスマンは椅子から立ち上がり、そそくさと薬剤室に向かった。
「じゃあ、俺たちは聞き込みでもすっかね。」
「おう。」
 マードックとコングも席を立った。



「やっぱり、そうみたいだよ。」
 焦りを隠せないフェイスマンが2人に告げた。
「薬剤室の方でうろうろしているハンニバルらしい患者を見かけたって。看護婦さんが教えてくれたんだけどさ……。」
「入院病棟で、毛布とタコ帽子がなくなったって。きっとハンニバルに被せて、連れてったんじゃないかな。」
 マードックが真面目に言う。
「コングは? 何か収穫あった?」
「済まねえ、ずっと便所にいた。」
「大丈夫?」
 フェイスマンとマードックが声を合わせて聞く。
「……多分な。」
 自分の体に自信がないコングであった。
「とりあえず帰ってみよう。ハンニバルが自分の意思でついて行ったのなら、何か連絡が入っているかもしれない。」
 フェイスマン、次期リーダーは君だ!



「やったぜ、俺たち、金持ちだ!」
 浮かれるキッド。
「まあ、この覚醒剤の原料をそのまま売ったって、かなりの額になるだろうな。しかーし! 覚醒剤の方が、もっともっと高く売れる。キッド、早速始めるぜ。実験だ!!」
 実験じゃないと思うのだが。ニュアンスがちょっと、ね。
「わーい、実験だ、実験だーい!!」
 ちなみに、キッドもブッチも20代半ばの設定である。
「というわけで、じじい、俺たちはしばらくの間、実験室に籠もる。大人しくしてるんだぞ。」
 実験室と言えど、たかが廃ビルの地下室。大したものじゃない。
 ブッチとキッドの2人は、喜び勇んで、自称実験室に入っていった。重い金属の扉の向こうで、2人は薬品を愛でているに違いない。
 でも、それはハンニバルには関係のないことだった。彼は渾身の力を振り絞って、腕と車椅子とを縛りつけているガムテープをメリメリと破り取った。布ガムテープは、一旦破けると脆い。すっかり手が自由になったハンニバルは、熱苦しい毛布とタコ帽子を脱ぎ捨てた。次に足のテープを剥がし、口に貼りつけられたテープもベリッと音を立てて剥ぎ取ったが、かなり痛かったので、ぐっと涙を堪えた。唾液でノメノメになったハンケチを吐き出すと、すっかり元気な、いつものハンニバル。肺炎も気管支炎も、どこかへ行ってしまったようだ。周りに転がっているガレキを積み上げて人間の形を作り、タコ帽子を被せて、毛布でくるんだ。これでダミーの一丁上がり。どこから見ても、ハンニバルである。そして、間抜けなブッチとキッドに気づかれないように、そっと彼は表に出ていった。



「ハンニバルから連絡入らないね……。」
 豪邸の電話番号も知らないのに、どうやって連絡をするのだろうか。矢文か? 狼煙か?
「どうしよう……どこへ行ったのかもわからないし……。」
 途方に暮れるフェイスマン。その肩は、がっくりと下がっている。
「薬品泥棒の身元と行方がわかれば、ハンニバルの居場所もわかるんだろ? 俺、もう1回、病院に行って調べてみる。フェイスはここで、ハンニバルからの連絡を待っててよ。コングちゃんは、下痢止め飲んで寝てな。」
 どうしたマードック、今回真面目すぎるぞ。変だぞ、おい。
「ホンットに済まねえな、何の力にもなれなくてよ。」
「モンキー……よろしく頼む。」
「任せときなって。俺だってやる時ァやるんだから。」
 ウィンク1つ残して、マードックは颯爽と外に出て行った。フェイスマンの次期リーダーの座、危うし! 次期リーダーはマードックか!? そうだといいな。



「犯行に用いられた車は、確かにメトロポリタン製薬会社所有の物だったんだけど、製薬会社の工場に聞き込みに行ったら、車が1台、2時間ほど行方不明になってたんだって。で、その間、近くに駐車してあった車がなかったか聞いてみたところ、これが1台だけあってね。配管工事屋の車で、社名が珍しかったんで覚えてた人がいたってワケ。」
 調査から帰ってきたマードックが、2人に報告した。
「それで、その社名は?」
 フェイスマンが身を乗り出して尋ねる。
「"BUTCH CASSIDY AND THE SUNDANCE KID"――『明日に向かって撃て!』ってヤツだ。」
「ふざけた名前の配管工事屋だな。」
「それが、ちっともふざけてないんだよな、コングちゃん。その配管工事屋のメンバー2人の名前が、ブッチ・キャシディとサンダンス・キッドなんよ。」
「じゃ、そいつらがハンニバルを?」
「多分。でもねー、その2人のヤサが、よくわかんないんだな、これが。特にオフィスがあるわけでもないみたいだしさあ。……困ったもんだ。」
「でも、一応、配管工事屋なんだろ?」
「そうらしいけど……?」
「なら話は簡単。タウンページで電話番号探して、工事をお願いすればいいんじゃん。」
 さすが、Aチームの知恵袋、フェイスマン。知恵熱のマードックも、これには頭が下がった。ダテに鼻水垂らしてないぞ!!



 ピーピーピーピーピーピーと、ブッチのポケットベルが、けたたましく鳴り響いた。楽しい実験の最中である。
「仕事の電話だよ、きっと。」
 キッドが保護メガネの曇りを拭いながら言った。
「面白いとこなのにな。ちょっくら電話に出てくるか。」
 ブッチは嫌々実験室を出ると、ダミー・ハンニバルに一瞥を向け、駐車場に向かった。
 廃ビルの駐車場にポツンと1台だけ停めてある彼らの車の中に、配管工事屋唯一の電話がある。電話のベルは、まだ鳴り響いている。
「はい、お待たせしました、ブッチ&キッド配管工事屋です。上水管から下水管、果てはガス管、排気管まで、管のことなら何でもお任せ。どんなご用事でしょうか?」
 ブッチの口から営業臭い台詞が流暢に流れ出る。こんな配管工事屋、あるのだろうか。
「セントラル・ヒーティングの具合が悪いんですけど、電気工事の人に見てもらったら、配管工事の分野だって言うもんで……あの、寒いので、すぐ来てもらえませんでしょうか。」
「はい、了解いたしました。お名前とご住所は? …………はい。では、30分、いえ15分以内にお伺いいたします。」
 電話脇のメモに住所と名前を控えると、ブッチは実験室へ戻った。
「キッド、仕事が入ったんで俺は行くけど、お前どうする?」
「蒸留の温度管理をしなきゃならないから残ってるよ。ここまできたら止められないし。」
「失敗するなよ。」
「平気さ。」
 キッドを実験室に残し、仕事に出かけるブッチであった。



「15分以内に来るって。」
 フェイスマンが受話器を置き、マードックの方を振り向いて言った。
「犯人は2人組らしいって看護婦が言ってたよね。」
 と、フェイスマンは続けた。
「ブッチとキッドの2人ね。」
 マードックが台所でリゾットを作りながら呟く。
「もし2人で来たら、捕まえてハンニバルの居場所を聞き出す。もし1人だったら、泳がせて尾行して、ハンニバルの居場所を突き止める。」
 フェイスマンが拳を握り締めて力説する。
「そりゃ1人で来た奴から居場所を聞き出した後、俺たちが大佐を保護する前に相棒に連絡でもされたら、一大事だもんなあ。」
 下茹でしたタラの身をほぐしながら、骨を取るマードック。
「一体、警察は何やってるんだよ。」
 台所で歩き回っているフェイスマン。
「お役所仕事が遅いのは、どこでも同じよ。それに病院側だって、あまり世間に知られたくないだろうしね。」
 ほぐしたタラをスープの中に入れるマードック。
「コングは、またトイレ?」
 抱えたボックスティシューから2枚抜き取り、勢いよく鼻をかむフェイスマン。
「さっきっから籠もったまんま。ところでフェイス、何で大根買い忘れたんだよ。」
 リゾットにもおろし大根を入れた方が、さっぱりしていいだろうと気づいたマードック。
「あの時は、ぼーっとしてたんだよ。それに大根が欲しかったのは俺の方なんだからね。」
 と、その時。
 ピーン…………ポーン。
 間延びしたドア・チャイムの音。
「配管工事屋でーす。」
「来たっ! モンキー、車の準備頼む。1人だったら金を握らせて帰らせる。2人だったら、家にお招きしとくから。」
「あいよ。」
 フェイスマンが玄関のドアを開けた。いかにも豪邸の主人的な態度で。そう言えば、着ている服も値の張る物ばかり。
“表に停めてある車にも人影なし。こりゃ1人だね。”
 門の向こうの車をちらりと見て、フェイスマンは“1人の場合”の応対を開始した。
「来てもらってすぐに申し訳ないが、私はこれからすぐに出かけなければならない用事ができてしまったんだよ。使用人にも暇を出してしまったし……。また明日にでも来てくれないかね。」
「はあ、そう言われましてもねえ。」
 あからさまに嫌な顔をして渋るブッチ。
「君も仕事だということは十分承知しているよ。とりあえず今日のところは、来てもらった手間賃として、これでどうだね?」
 フェイスマンは涙を飲んで、財布から500ドルを出すと、この極貧乏配管工事屋に渡した。貧乏者にとって、500ドルは気の遠のく大金である。
「はい、ではまた明日、お伺いいたします!」
 喜びのあまり、足が地についていないブッチ。この分では、尾行にも気づかないだろう。
 ドアを閉めると、フェイスマンは裏口に走った。裏門の脇では、既にマードックが車のエンジンをかけて待機している。
「1人だった。尾行するよ。」
 車はフェイスマンが飛び乗るとすぐに走り出した。
「あれ、コングは?」
「ああ、コングちゃんね……忘れてきちゃった。リゾットの火を止めなきゃいけないってコトで、頭が一杯だったから。」
 彼にとって、コングはリゾット以下の存在であった。



 ブッチとキッドのアジトはわかった。ハンニバルの居場所も、きっと、そこである。
「あそこ乗り込むには、まず、煙幕が必要だね。」
 豪邸に戻って、フェイスマンとマードックの話し合いが始まった。コングは未だに、某所に籠もっている。
「それから、銃も必要じゃねえの?」
 台所のテーブルに向かい、マードックが、煙幕、とメモを取る。
「狭いビルだったから、ライフルは必要ないよね。」
 フェイスマンは、鼻をかみながら、コーヒーを淹れる準備をしている。
「拳銃じゃなきゃダメだよ、あそこじゃ。銃身を短くした散弾銃ってのは、どう?」
 メモ帳に、拳銃、散弾銃、と書く。
「それ、いいね。手榴弾は、いるかな?」
 やかんを火にかけ、コーヒー豆を挽く。
「手榴弾使ったら、あんなボロいビル、壊れちまうぜ。」
 手榴弾、と一度メモに書いて、バツをつける。
「暗そうだから、赤外線スコープは? ハンニバル、熱でてるから、すぐに識別できるし。」
 ひたすら豆を挽く。
「んなモン、買わなきゃないじゃん。金あんの?」
 バツをつける用意をしながら、赤外線スコープ、金、とメモを取る。
「ない。さっき500ドル渡したからオケラ状態だよ。」
 まだまだ豆を挽く。
「うーん……散弾銃と拳銃、弾は車に積んであるからいいとして、煙幕はあったっけ?」
 メモを書くのをやめ、コーヒーフィルターを折るマードック。ペーパーフィルターを折るのが趣味らしい。
「えーと、煙幕はねえ……先月使い切ったと思う。」
 豆を挽き終え、それをセットしたフィルターに入れるフェイスマン。
「煙幕買う金はあんの?」
 その上から沸騰した湯をそっと注ぐマードック。
「さっきオケラだって言ったろ。もうガムを買う金も残ってないよ。」
 コーヒーカップを3人分用意して、ふと気づき、カップを1つ棚に戻すフェイスマンであった。(もちろん、コーヒーの飲めないコングは数に入っていない。)
「煙幕、作るしかねーな……。」
「ハンニバル、大丈夫かなあ……。」



 だいぶ腹具合のよくなったコングを加えて、煙幕作りが始まった。
(Aチームのテーマ曲、流れる。)
 台所やガレージに置いてあった物と、持ち合わせの火薬、近所の薬屋からくすねてきた薬品を材料に、発煙筒、発煙弾、発煙弾を射ち出す小型ロケットランチャーもどきを作るAチーム。トイレットペーパーの芯にベルゲル混合物を詰め、黒色火薬を包んだこよりを差し込み、新聞紙で巻いて、発煙筒を作るフェイスマン。同じ材料を丸く包み上げ、発煙弾を作るマードック。どこから外してきたのか、太めのパイプを使って火縄銃の原理のロケットランチャーを作るコング、まだ時々トイレに立つ。
(テーマ曲、終わる。)
「モンキー、パイプの太さに合った弾を作れって言ってんのがわかんねえのかよ。」
「そうそう。その大きさじゃ、まるで打ち上げ花火だよ。」
「フェイスこそ、大半の発煙筒、こよりが抜けてるぜ。」
「じゃあ、何で留めろってのよ。材料が揃わないんだから仕方ないだろ。」
「その材料を調達してくるのが、お前の役目じゃないのか?」
「俺ァ、自分でパイプ探してきたんだぜ。」
「俺様だって、湿ってない新聞紙を探してきたり、トイレットペーパーの芯を抜いたりして、大変だったんだぜ。」
「こういう糊になる適当な物がない時はだな、フェイス、飯粒で貼りつけて、よく乾かせばいいんだ。」
「あ、なるほどね。乾けばそんなに問題ないんじゃん。そっか。ちょうどリゾットのために、ライス炊いたし。サンキュー、ハンニバル……?」
「ハンニバル?」
「ハンニバル!?」
「何だ、今頃気づいたのか。」
 3人の周りを徘徊しながら、そこここに助言を与えていたハンニバルは、腕組みをしてニッカリと笑った。
「いやいや、遅くなって申し訳ない。金がなかったもんで歩いて帰ってこようと思ったんだが、途中で道に迷ってしまってねえ。帰ってきたら帰ってきたで、みんなが真剣に何か作ってるじゃないか。嬉しかったよ、あたしゃ。我が子が一人立ちをしたようで……。」
「そんなことは置いといて。無事で何よりだよ……。具合もいいようだし。――ハンニバルが戻ってきたんなら、別に発煙筒を作る必要もないね。」
 発煙筒製作に少し嫌気が差していたフェイスマンが、にこやかに立ち上がって服の埃を払った。
「いいや、作るの。」
「作るの、ってハンニバル……?」
 半分微笑み、半分困った顔のフェイスマン。
「俺を人質にするなんて、もってのほか。全く信じられん奴らだ。であるからして――。」
 ハンニバルの次の句を、3人は固唾を飲んで待った。
――報復措置。」
 ゆっくりとした言葉の中には、自分をじじいと呼んだことに対しての、汚いハンケチを口に詰め込んだことに対しての、口に粘着力の強い布ガムテープを貼ったことに対しての、町で被るとみっともないタコ帽子を被せたことに対しての、多大なる怒り・怨み・つらみが籠もっていた。ハンニバルは優しい表情の裏で、無茶苦茶怒っているのである。



 豪快な音を立てて実験室の重い扉が倒れ、実験室内にもうもうと黒い煙が立ち込めた。
「何だ? 何が起こったんだ!?」
 ブッチが慌てて、フラスコを加熱していたマントルヒーターのスイッチを切った。
「兄貴……実験、失敗?」
「いや、こんなに炭素が遊離するはずはない。きっとこれは外的要素によるものだ。」
 煙に咳込みながらも何だかんだ言っている2人に向かって、拡声機を通した声が遠くから響いた。
「ブッチとキッド! お前たちは包囲されている。大人しく手を挙げて出てこい。」
「警察かい、兄貴?」
「警察なら、こんな荒技は使わない。せめて催涙弾くらいだ。こっちには人質がいるし、一斉射撃されるような事はない。安心しろ。」
「それより俺、反応系内への炭素の混入が心配だよ。」
「実は俺もだ。」
「もう一度言う! 手を挙げて大人しく出てこい! それから、人質に指一本でも触れてみろ、ただじゃおかないぞ!!」
 拡声機を手にハンニバルが悠然と立つここは、ビルの1階にある駐車場。ちょうど実験室の真上だ。突撃部隊と称するコングとマードックは、それぞれロケットランチャーと発煙弾、発煙筒を手に、実験室の前に仁王立ちしている。ちょっと下がった所で散弾銃を構えるフェイスマン。
 それから約5分の沈黙の後、再びハンニバルの声が響く。
「人質は無事救出した。お前たちに残された道は1つしかない。我々に従うことだ!」
「どうする、兄貴。人質、取られちゃったよ。」
「銃でもあれば、何とかなるんだが。……ここには実験器具しかないからな。爆薬を作る材料はないし。こんな炭素の粉塵の中じゃ、爆発する恐れがあるから火も使えないし。ましてや、実験器具を投げつけるくらいだったら、死んだ方がマシだし。…………仕方ない、降参しよう。いいだろ、キッド?」
「うん、兄貴がいいんなら。」
 ブッチとキッドの2人は、深い溜息をつくと、手を挙げて実験室を出た。



 散弾銃を突きつけられて、2人は駐車場に連行された。
 真っ黒に煤が付着した実験用ゴーグルと防護メガネを取った彼らの姿は、あたかも逆パンダのようであった。
「やあ! お久し振り!」
 ハンニバルはまだ拡声機を使っている。
「その声……じじい、あんただったのか。――じゃあ、あの車椅子に座ってたのは?」
 ブッチが意外だったという顔で、不思議そうに尋ねた。
「ダミーだよ! いい出来だったろう?!」
「ハンニバル、うるさいから、もう拡声機やめてよ。」
 フェイスマンが耳を押さえて抗議すると、ハンニバルはさも残念そうに拡声機のスイッチをオフにした。
「いつの間に逃げちゃったの? 気づかなかったなあ。」
 最後の最後まで馬鹿みたいなキッド。憎めない奴。
「お前たちが実験室に入ってすぐにね。」
 そしてハンニバルは、フェイスマンの方に向き直った。
「フェイス、確か車にガムテープがあったろ。あれを持ってこい。コング、モンキー、ハンケチは持ってるか?」
 コングとマードックが差し出したハンケチ。それはそれは汚く、まるで、この世の物とは思えないような代物。
「はい、ガムテープ持ってきたよ。」
「よし。それじゃあ、まず、こいつらの手をテープで縛れ。足もだ。」
「コナコナしてて、くっつかないよ、ハンニバル。」
「雑巾持ってきて拭けばいいだろ。コング、洗車用の雑巾を湿らせてこい。」
 コングの持ってきた雑巾、これもまた、とんでもなく汚い。
「服は簡単でいいから、顔をよーく拭いてさしあげろ。」
 拭いたそばから、フェイスマンがテープを巻いてゆく。
「手と足は終わったな。では次に口だ。モンキー、このハンケチをこいつらの口に押し込め。仕上げに、フェイス、テープをぺっっっっったりと貼ってやれ。――これで完璧だな。」
 心底幸せそうなハンニバルが、1週間ぶりに葉巻を銜え、火を点けて深々と一服する。
「作戦の後の一服、最高だねえ……。」
「肺炎も気管支炎も治ってよかったね、ハンニバル。で、実験室はどうすんの?」
 ハンニバルの幸せはみんなの幸せ、といった顔で、フェイスマンが聞く。
「後日、じっくり壊させてもらう。何て言ったって、こいつらの大切な宝物だからな。1つ残らず、バキバキのグチャグチャのメッタメタに壊してやる。」
 それを聞いたブッチとキッドは、涙をボロボロと流して泣き出した。
「さてと、警察の前にでもゴミ捨てに行きましょうか。」
 数十分後、警察の前に打ち捨てられたブッチとキッドには、背中に『私たちがセントラル総合病院から人質を取ってまでして薬品を盗んだ犯人です』と書いた紙が貼られ、町で被るには恥ずかしくもみっともないタコ帽子が被せられていた。そして、彼らは未だに涙を流している。これが、ハンニバルを人質に取った報いなのである。



「さあて、作戦も終わったし、いつの間にかみんな全快しちゃったし、夕飯にしましょうかね。」
 フェイスマンが浮き浮きとテーブル・セッティングを始めた。
「タラとレバーとホウレンソウのリゾット・大根おろし抜きのできあがりっと。」
 まだ大根にこだわりたいマードック。
「牛乳、牛乳! 牛乳飲むぞー!!」
 いくら腹の調子がよくっても、あまり飲むと、また下痢をすると思うが、どうだろうか、コング。
 ハンニバルは、静かに1週間分の葉巻を、深呼吸と共に、ひたすら吸い続けている。
「フェイス、何かすっげー浮かれてない?」
 リゾットを取り分けながら、マードックが尋ねた。
「あ、やっぱり、わかるー?」
 デザート用のオレンジを剥きつつも、フェイスマンの足は踊っている。
「実はね、ブッチに渡した500ドルも取り戻した上に、いろいろ失敬してきちゃってさあ。」
「あー、コングちゃん! 一度に牛乳2本も飲んじゃダメだってば!! ……で、何持ってきたのさ?」
 マードックがコングを叱りつけ、フェイスマンの話を聞く。
「まず配管工事の工具、これをAチームの所有物にしただろ。それから、車についてた電話を売り払って――これはそんな大した金額にならなかったけどね。そいでもって、車。これも売っちゃったワケ。裏のルートだったから、ちょっと安いけど、それでも物が大きいだけに、なかなかの収入だよ。」
「じゃあ今回は黒字ってわけだ。」
「今回の作戦っていう意味ではね。でも今日は食費や雑費や医療費がかかったから、とんとんってとこ。」
 すべてのオレンジを剥いたフェイスマンは、タオルで手を拭いて、にっこりと微笑んだ。
「でも、赤字じゃないだけいいさ。ハンニバルも帰ってきたしね。」
 そして、グラス棚からシャンペングラスを4つ取り出し、テーブルの上に並べた。
「今夜は牛乳で乾杯だ!」 
【おしまい】
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