ウスターソースの謎
鈴樹 瑞穂
「わからない。」
 眉をハの字に寄せて、フェイスマンは呟いた。腕組みしている彼の視線の先にあるもの――それはテーブルの上にぽつんと置かれた容器だった。
 白い半透明の丸いフォルム、滑らかなボディの中程にはうんざりするほどに芸術的な輪状の凸凹が数本刻まれ、プラスチックのフタときたら、素敵に晴れた空の色だ。要するに――大衆食堂によくある、液体調味料入れだった。薄い皮膚を透かして、中に暗い液体が半分ほど入っているのが手に取るようにわかる。
 問題は、その中身だ。色と質感からして、中に入っているのはソイソースかウスターソースと見た。どちらであるかは……ああ、この問題は難しすぎて、いかに天才詐欺師といえども、お手上げだ。
 彼の本能は“フタが青いのはウスターソースで、赤いのがソイソース”と告げている。それは物心ついて以来、長年に渡って培われてきた常識の声だ。だが、詐欺師としての勘は囁く。
“と、見ーせーかーけーてー、こっちがソイソースかもしれない。”
 何しろ、台所中の液体調味料を卓上容器に詰め替えたのは、ハンニバルなのだ。
「どっちかな……? ソイソース、ウスターソース……はたまたその混合物……?」
 フェイスマンは難しい顔つきで考え続けた。彼の前では、朝食の目玉焼きが所在なさそうに身を縮めている。すっかり冷えた黄身の表面が、白っぽく乾いて固まっていた。



「それで朝食を食べ損ねたわけ?」
 マードックが呆れたように言った。彼はスプリングがゴキゲンなソファの上で肘をついて、よいしょと足を上げ、新しい足芸を開発している。ちょうど、自転車漕ぎの美容体操の要領だ。
「食べ損ねてなんかいないさ。ちゃんといただきましたよ、美味しい目玉焼きもね。」
 フェイスマンが両手を広げて言う。同時に鼻に皺を寄せ、マードックに文句を言うのも忘れていない。
「よせ、モンキー。そのソファ、高級なんだぞ。」
「気にすんなって。お前のソファじゃないだろ?」
 マードックの言ももっともだった。Aチーム様ご一行が今いる所は、とある女優所有の別荘。例に漏れず、フェイスマンの口先で借りる寸法になったものだ。
「で、青いフタの中身はウスターソース? それともソイソース?」
「知らないよ。」
 フェイスマンのあっさりとした返事に、マードックは思わず体操をやめて起き上がった。
「知らない? んなわけねえだろ、かけたらわかるじゃんか。」
「だから、かけてない。」
「かけてないー?」
 フクロウのように目を丸くしているマードックに、フェイスマンは顔を突き出して言った。
「かけないで食べたの! 俺は、目玉焼きに、ソイソースが、かかるなんて、絶対に、絶っっ対に、認めないからな! BVDの白いブリーフと同じくらい、認めない!」
 彼はミスター・ジュンコの黒いブリーフの愛用者だった。この際、そんなことはどうでもいいが。
 緊迫した空気が流れ、呆気なく破られた。
「おう、仕事が入ったぜ。」
 勢いよく開いたドアから、腕輪と指輪がジャラジャラしているぶっとい黒腕が2人を呼んでいる。
「この話はお預けだな。」
 スチャッと立ち上がり、人差し指を振るフェイスマン。言い終わるや、くるっとターンして、鮮やかな足取りで先に立って歩いていく。もちろんマードックの返事なんて、聞いちゃいない。
「お預けって、終わったんじゃなかったの……?」
 小さく呟くマードック。まるっきり、いつもと立場が逆転している。ウスターソースとソイソースの違いがかかっている以上、マードックがフェイスマンに勝てるわけがない。
 しかし、このままで引き下がるつもりは、マードックにはなかった。彼は小走りにキッチンに駆け込むと、テーブルに放置されていた問題のプラスチックボトルをむんずと掴み、左右を見回した。そして、おもむろにサランラップを手に取ると、きっちりと注ぎ口をくるみ、おまけに輪ゴムでぐるぐる巻きにする。こうして、完璧なモレ対策を施した容器を懐に入れ、彼は表に寄せてあるバンに急いだ。



 今回の依頼主は、シスターだった。孤児院を兼ねた教会で子供たちの世話をしている、小さな丸眼鏡をかけた年配のシスター・レナと、青い目が印象的な妙齢のシスター・マリアの2人である。さらにお約束なことに、マリアはそこで育った孤児なのであった。
 だが、この際それは大した問題ではなく、むしろ清楚なシスターを前にフェイスマンの機嫌がぐぐっと上向いたことの方に意味がある。
 フェイスマンはにこやかに爽やかに善人振って微笑んだ。
「あなたのような美しい人を困らせる奴がいるなんて。でも、大丈夫。私(わたくし)、テンプルトン・ペックと愉快な仲間たち――もとい。」
 わざとらしく咳払いなどして続ける。
「Aチームに任せていただければ、すぐさま、あなたに心の平安をお約束いたしましょう!」
「まあ。」
 大きな瞳を見開いて、シスター・マリアは微笑んだ。
「ありがたいことですわ。あなたに神のお恵みがありますように。」
 シスター・マリアが十字を切ると、すかさず唱和するフェイスマン。
――アーメン。」
 フェイスマンは口を開けずに、その両端だけをきゅうっと上げて笑った。彼の目は三日月形に下がっており、俯いて祈っているシスター・マリアに見られなかったことは、誠に幸いであったと言えよう。



 ところで、2人のシスターおよび子供たちを脅しているのは、少し離れた所で酒場を営む、ビル・ビーンズという男である。フレンチカンカンと銘打った際どいレビューが受けて、商売はそこそこに繁盛しており、2号店を計画中。そこで目をつけたのが、立地条件バツグンの教会だった。さすがにクリスチャンの端くれであったビーンズは教会自体を取り壊すつもりはなかったが、敷地内に建っている孤児院を取り壊して酒場を造り、シスター姿の踊り子たちにフレンチカンカンをさせるのも受けるかも、などと立派に冒涜的なことを目論んでいた。
 そこでビーンズは、まず寄付という名目で教会にいくらかの金を払い、それから、孤児たちのために用立てて下さい、とシスターたちにまとまった金額を渡した。世間知らずのシスターを騙すのは簡単で、後は土地を担保にした借金の証書をでっち上げてしまえばよかった。
 ビーンズはシスターたちに立ち退きを迫り、圧力をかけてきた。犬猫の死骸を放り込む、礼拝に来た信者を脅す、遂には子供たちの身を脅かす気配まで見せる始末。そこで、シスターたちは新聞記者のエンジェルを通じて、Aチームに助けを求めてきたというわけである。



 広がり始めた夕暮れに、モミの木の飾りが輝いている。教会の入口にある木を、子供たちがクリスマスツリーに見立てて、午後中かかって飾った力作だ。今年はコングとマードックが手を貸したので、例年になく本格的なイルミネーションが実現されていた。
 シスターと子供たち、それにAチームの面々がその力作を見上げていた時、門の前に1台のトラックが派手に乗りつけた。
「ほっほーう。こりゃあ、なかなか綺麗なもんだ。」
 ビール腹をゆさゆささせながら助手席から降り立った男がビーンズである。運転席から出てきたのが、息子のトーマス。荷台からわらわらと飛び降りきたのは、ビーンズ親子が雇ったゴロツキ連中であった。
「よくできてる。」
 トーマスがわざとらしくモミの木に近寄り、しみじみと見上げる。シスター・レナとシスター・マリアは、怯える子供たちを背中に庇って、ビーンズ・ジュニアを睨みつけた。
「何のご用です? 懺悔の時間はもう過ぎていますよ。」
 マリアが言うと、トーマスは大袈裟に腹を抱えて笑った。
「いや何、このどでかいツリーのイルミネーションがあんまり眩しくって、うちの店のネオンサインが見えなくなっちまうんでね。」
 そう言うなり、トーマスはコングが作ったイルミネーションの線に無造作に手をかけて、引き千切った。
「ああっ!」
 色とりどりの光が、途端に消える。子供たちの間から、一斉に溜息や泣き声が上がった。
 が、力作を粗末にされて、コングが黙っているはずがない。
「何しやがる。」
 トーマスの肩に手をかけてコングが凄む。余談ながら、闇夜のコングは、白目と歯と、アクセサリーだけが浮かび上がってなかなか恐い。
 だが、無謀なトーマスは鼻で笑って、コングに拳を繰り出した。体格だけなら、トーマスもコングにそう負けてはいなかったのだ。
 コングはそのへなちょこパンチをひょいとかわして、お返しにいささか強烈な一発をお見舞いした。
 それが、乱闘の幕開けになった。
 シスター・レナは慌てて建物の中に子供たちを連れて逃げ込んだが、好奇心一杯の子供のこと、窓という窓は“今年最後の見もの”を見物しようとする小さな顔で押し合いになる。
 コングが体格のよいゴロツキたちを、次々に殴り倒していく。
 ハンニバルはビーンズの足をすくい、倒れ込んだビーンズはもがいているが、超肥満体形が災いして起き上がることができない。そこを止めとばかりに踏みつけるハンニバルは、いやに楽しそうだ。これで俺の仕事は終わったとでも言うように、おもむろに葉巻に火を点ける。
 マードックとフェイスマンは、コングの手が回り切らないゴロツキたちを相手にしていた。フェイスマンが、なかなかタフな相手を何度も殴りつけて、ようやくノックアウトさせ、呼吸を整えている。その背後から、起き上がったトーマスが襲いかかろうとした。
 ゴンッ!
 鈍い音が響いた。慌てて振り返ったフェイスマンの目に、へなへなと崩れるトーマスと、頬を紅潮させているシスター・マリアの姿が映った。彼女の手には、しっかりとフライパンが握られている。
「かっ、神の家を冒涜すると、天罰が当たりますわよ!」
 呼吸を弾ませながら、シスターは言った。空いた方の手で、胸の十字架を高く掲げている。だが、その言葉は、脳天に会心の一撃を食らって失神しているトーマスの耳には届いていないようだ。
――つ、強い……。”
 フェイスマンは呆然と、その雄々しい姿を見つめていることしかできなかった。



「さて、こいつらをどうするかな。」
 縛り上げたビーンズ一味を見下ろし、ハンニバルが重々しく言った。
「でっち上げた借用書、返してもらわなきゃ。」
 と、フェイスマン。
「は〜い、俺に任してちょ!」
 元気よく立ち上がったマードックが、懐から青いフタのプラスチック容器を取り出した。
「あ、モンキー、それっ!?」
 フェイスマンが指差して叫ぶのには構わず、マードックは未だに反抗的な目つきで見上げているトーマスの鼻を摘んだ。口が開くのを待って、中の液体をどばーっと注ぎ込む。
「ブッ! はんら、こへはっ?」
 たっぷり飲まされた液体に噎せながら、トーマスが叫ぶ。どうやら、何だこれは、と喚いているようだ。
「それはこっちが聞いてるの! いいか、こいつは極めて重要な問題なんだぜ。ソイソースかウスターソースか、はたまたその混合物か。悪いことした奴は“毒見して判別してもらいましょう”の刑。」
 そう言い、再びマードックは容器の中身をトーマスの口に流し込む。
「ひいいっ!」
 トーマスは釣り上げられたマグロのように暴れ、身も世もない悲鳴を上げた。それを見たビーンズ、さすがに親として耐えられないものがあったのか、がっくりと肩を落として叫ぶ。
「やめてくれ! 頼む、もうこの教会に手出しはしない。借用書はもちろん返す。そうだ、迷惑料として毎月孤児院の食費を寄付しよう!」
 ビーンズの必死の訴えに、ハンニバルは鷹揚に頷いた。
「いいだろう。モンキー、その辺にしておけ。」
「ちぇっ。」
 マードックは渋々とトーマスを解放したが、恐ろしいことに、その時にはもう容器は空になっていた。
「で、これソースだったかソイソースだったか教えてくんない? ねえ、ちょっと!」
 マードックはトーマスの襟首を掴んで揺さぶったが、返事を聞くことはできなかった。ビーンズ・ジュニアは白目を剥いて失神していたからだ。



 清楚なシスター・マリアの感謝の眼差しを振り切るようにして、フェイスマンとAチームの面々は別荘への帰途に就いた。
「で、あの容器の中身は何だったんでい?」
 運転席のコングが聞く。
「あ、それ、俺も知りたい。」
「俺も。」
 口を揃えるマードックとフェイスマン。
「どうしてもと言うなら、特別に教えてやるが、他人には絶対に言うんじゃないぞ。」
 ハンニバルは一同の顔を見回して、厳かに言った。
「ウスターソース200cc、ソイソース200cc、アップルビネガー100cc、塩少々、砂糖大さじ1。ジョン・スミス特製“目玉焼きによく合うソース”だ!」
 車内を沈黙が支配する。――彼らはすっかり忘れていたのだ。長年、戦地で培われたハンニバルの、この一種独特な味のセンスを。
 コングも、フェイスマンも、そして当のマードックさえも、そんなものを容器一杯飲まされたビーンズ・ジュニアに、今更ながら深く同情した。
 ハンニバルは1人、胸を張って得意気だった。
【おしまい】
上へ
The A'-Team, all rights reserved