1枚の写真から
伊達 梶乃
*−2*

 夕食後の気だるい雰囲気の中で、ハンニバルは読書、フェイスマンは洗い物、コングは深呼吸に勤しんでいた。
 その安らかな空間が廊下を走るけたたましい音に包まれた。このマンションの廊下は確かに長いが、住人の性質上、廊下を走る者は未だかつていなかったのだが……。
 ダッダッダッという音と並行して、ダカラッダカラッダカラッという音も聞こえる。
「どこのどいつでい、近所迷惑じゃねえか。取っ捕まえて注意してやる。」
 コングが玄関に向かい、扉のノブに手を伸ばした瞬間、鍵のかかっていなかったドアが急に開き、何か大きくて薄いものがコングに飛びついた。
「何だこりゃあ?!」
 勢いで床に倒れ込んだコングの上に乗って、既に落ち着いている大きくて薄いもの――それはボルゾイだった。そしてコングとボルゾイを跨いで、息を切らせたマードックが雑誌を片手に台所へ消えた。
「やっぱモンキーの野郎か! 早くこの犬を退かしやがれ、アホンダラ!!」
 コングが怒鳴っても何も反応がない。台所で何が起こっているのであろうか。
「一体何だっていうんだ?」
 この騒動に、リビングからハンニバルが現れた。右手には、読みかけの『ウラル語統語論』を持っている。
「どうしたコング、お前そんなに犬好きだったっけか?」
 倒れたままの黒い塊は、最早、犬のベッドと化していた。
「この犬、退かそうとすっと唸りやがる。何とかしてくれ。」
 ハンニバルはコングの上の犬を退かそうとしてみた。しかし、体に手をかけると唸り、移動させようとすると牙を剥いて吠える。
「あ、こりゃダメだわ。」
 台所からの話し声に惹かれたハンニバルは、瞬時にして諦め、コングと犬を放置することに決定した。枕代わりに『ウラル語統語論』をコングの頭の下に置いて。


「ああ、ハンニバルも見てよ。」
 キッチンに入るなりマードックに差し出された雑誌を受け取り、ハンニバルは複雑な表情のフェイスマン(エプロン姿)に目をやった。
「この雑誌がどうかしたのか?」
「ほら、ここ。」
 マードックが指差すページに、ハンニバルは目を移した。『ポップ・イン』読者投稿による“街のナイスガイ特集”。
「『ポッピン』って何だ?」
「『ポッピン』じゃなくて『ポップ・イン』、この雑誌の名前。今、女子中高生から女子大生にまでウケてんだよ。」
 どうしてマードックがそんな本を読むのかわからないが、精神病院生活は暇だから、とハンニバルは納得してみる。
 さて読み進めてみるか、と思っても、読むところはもうほとんどない。あとは、所狭しと並べられた素人写真がメイン。写真の左肩に1から100までナンバリングしてあるところを見ると、100枚あるということになる。そしてそこには100人の素人ナイスガイが写っている。
「どこ見てんのさ、大佐、55番の写真だよ。」
 ナンバー55の写真を捜す。
「これ……フェイスか?」
 スーパーマーケットの紙袋を両手に抱えた男の写真は、100枚の写真の中で異彩を放っていた。
「そう。誰か女子中高生あるいは女子大生が、買い物帰りのフェイスのことを“あ、あの人カッコイ〜”とか思って写真に撮って応募したんじゃ……。」
「でもさー、その写真はないよね。一言言ってくれれば、ちゃんとした場所でちゃんとした格好したのにさあ。」
 喋り続けようとしているマードックを遮って、無言だったフェイスマンが口を挟んだ。
「お前、それでさっきあんな顔してたのか?」
 ハンニバルが少しムッとして聞いた。
「俺はまた、“この写真をデッカーに見られたらどうしよう、みんなに迷惑かけちゃうなー”とか心配しているもんだとばっかり思っていたが。」
「いや俺だってね、もちろんそれは考えたよ。でも、よく考えてごらんよ、ハンニバル。デッカーやMPがこんな雑誌読む? もし娘がいたとしても、“お父さんは32番のナイスガイがいいな。えーっ、私は55番の人がいいわ”なんてシチュエーションになると思う? だから俺は、熟考した上で、デッカーに見つかる可能性はないと判断したの。文句ある?」
 返事をする代わりに肩を竦めて見せ、ハンニバルはリビングに戻った。
「来月号では、読者の投票で、この中からナンバーワンを選ぶんだって。」
 マードックがフェイスマンに向かってニヤッと笑いかけたが、フェイスマンの反応は素っ気なかった。
「ふうん。きっと84番がナンバーワンだよ。」
 しかし翌日には、郵便局に向かうフェイスマンがコングによって目撃されたのだった。
「畜生! いい加減にこいつを退かせってんだ!!」
 突然の怒声に、マードックは踵を返した。
「いけね、俺、犬の散歩の途中だったんだ。」
「へえ、犬なんか飼えるご身分なの?」
 フェイスマンが皿洗いを続行しながら聞く。
「病院も経営困難でね、国からの援助だけじゃやって行けないってんで、俺たちにアルバイトさせてんの。」
「で、犬の散歩のバイトをやってる、と。」
「そういうこと。」


 玄関のドアの前で、マードックは犬の頭を左手で撫でながら、右手で引き綱を持った。
「さあ、スティード、散歩の続きだよ。」
 スティードという名のボルゾイは、自ら立ち上がった。
「こん畜生、何で俺の上に寝そべりやがったんだ?」
 毛だらけになったコングはマードックに掴みかかろうとしたが、犬の一声で阻止された。
「こいつのお気に入りのクッションが、ちょうどコングちゃんくらいの大きさで、コングちゃん色してて、さらにこいつ、光ってるもんが好きなんだ。それに俺たち親友だから、ねえスティード。」
「ワフン!」
 見つめ合う犬と人(多分)。コングの握り拳に力が入る。
「さっさと散歩に行け!」
 激昂するコングを残し、ボルゾイを連れたマードックは優雅な足取りで帰っていった。



*−1*

 1カ月後。
 ドアチャイムの音に対応に出たフェイスマンを押し退け、来訪者はコング目がけてまっしぐら。そう、引き綱を引きずったスティードである。そして2分置いて、マードックが肩で息をしながら入ってきた。どうやら途中でスティードの速さに追いつけなくなった様子。
「まぁた来たのかよ、このワン公め!」
 コングはリビングの真ん中でクッション代わりにされていた。牛乳を飲もうとしていたところを押し倒されたらしく、フローリングの床には牛乳が飛び散り、それをスティードが首を伸ばして舐めている。
「モンキー、チャイム鳴らした?」
 怪訝な顔をしてフェイスマンが尋ねる。
「はあ、はあ、いや、鳴らして、ねえよ。」
「じゃあ、もしかして、あの犬が鳴らしたとか……。」
「ひい、ひい、あいつね、押すんだよ、ボタンを。だから、エレベーターにも、乗れるし、電子レンジも、使える。」
 息も絶え絶えに説明するマードック。
「すごいじゃん。」
「ふう、ふう、今、計算機の、使い方、教えてる、とこなんだ。ところで、これ見た?」
 汗で表紙のふやけた『ポップ・イン』最新号。
「いや、まだ。」
「フェイス、お前、ビリじゃ、なかったぜ。」
「どれ?」
 マードックの手から『ポップ・イン』を引ったくり、“街のナイスガイ特集パートU”のページを開く。
 55番を捜してずっとランキング表を見ていくと、それは76位にあった。4票も入っている。年齢の割には立派な成績である。何てったって、“ナイスガイ特集”であって“ナイスミドル特集”じゃないんだから。それに、対象が中高大生なんだし。対象がキャリアウーマンとか主婦だったなら、上位ランキングは確実だったろうに。
「76位かあ……。」
 フェイスマンが感慨深く呟く。マードックはその呟きを、“もっと葉書を出しておけば……”という意味に受け取った。
 因みにその内訳は、写真を撮った女子高校生とその友人で2票、本人1票、不明1票であったのだが。



*0*

 それから2年の月日が流れ、『ポップ・イン』は廃刊となり、55番のナイスガイが76位であったことなど、Aチームの記憶からは消え去っていた。
「おーい、フェイス、夕飯はまだか?」
 リビングで『ウラル語統語論』(まだ読み終わっていない)を読んでいたハンニバルが、空腹に耐えかねて叫んだ。しかし、返事はない。
「全く、あいつめ、何してんだろねえ。」
 ハンニバルは再び本の上に目を落とした。
 7、8ページほど読み進んだ頃、玄関のドアの鍵を開ける音が聞こえ、彼は“遅くなってごめん、すぐに夕飯の準備するから”あるいは“ちょっと出かけてたら遅くなっちゃったんで、夕飯、でき合いのでいいかな”もしくは“仕事が入ったから今日はピザでも頼もうか”という声を期待した。だが、期待というものは往々にして裏切られる。
「帰ったぞ。メシできてっか?」
 コングだった。表向きの仕事(今回は工場で携帯電話造り)から帰ってきた彼は、ハンニバル同様、空腹らしい。
「フェイスは?」
 リビングにハンニバルを見つけ、コングが聞く。
「さあ。」
 空腹のあまり怒りを帯びたコングが、むかつきながら部屋という部屋を捜し回る。トイレに至っては、ドアが壊れるまでノックした。
「いねえや。」
 ボスッとソファに沈み込み、彼は天井を見上げて呟いた。
「……女の尻でも追っかけてんじゃねえか。」
「こんな時間からか?」
「でなきゃ普通、行き先くらい言ってくだろ。フェイスから何か聞いてねえのか、ハンニバル。」
「聞いたよ。」
「何て?」
「夕飯は7時、メニューはタンドリーチキンとプローン・カジュカレーだ、ってね。」
 プローン・カジュカレーとは、エビと粉末カシューナッツの入った、マイルドなカレーである。
「もう8時ちょい前だぜ。買い物に行ったにしちゃ帰りが遅いよな。」
 コングは立ち上がって台所へ行った。
「やったぜ、ハンニバル!」
「どうした、コング?」
「カレーができてるぜ。冷蔵庫にはナンも入ってっから、後ぁオーブンで焼くだけだ。」
「チキンは?」
「……浸ってる。」
「何?」
 ハンニバルも台所を覗く。確かに、チキンは生の状態でタンドリーソース(ヨーグルトに各種スパイス等を混ぜた物)の中に浸っていた。これを焼く技術はコングにもハンニバルにもないので、そのまま放っておくことに決めた。
 ナンをオーブンで焼き、カレーを温め、2人は一応空腹を満たした。
「このカレー、美味いな。もう1杯食っていいか?」
「どうぞどうぞ。ついでにビールを持ってきてくれ。」
 胃袋を満足させた彼らは、フェイスマンの不在などすっかり忘れてしまっていた。次に思い出すのは朝食の時だろう。


“……やっぱりボアのシーツに羽布団、羽枕は気持ちいいなあ。マットレスも硬質スプリングだから腰に来ないし。……ところで、ここはどこ?”
 気持ちよく眠っていたフェイスマンは、見知らぬベッドの中で目を覚ました。真っ暗な部屋の中だが、ぼうっと辺りの様子がわかる。広い部屋に最低限数の高級家具調度品、やけに静かで、少しカビ臭い。となると、郊外にある豪邸の客間といったところか。
“タマネギとチャツネとサニーレタスを買いに街に出て、それからどうしたんだっけ……。そうだ、紳士風の人に道を聞かれて、それに答えて……それからの記憶がないんだよな……。”
 しばらくの間、考え込んでいたフェイスマンは、1つの結論に達した。
“もしかして、これって誘拐?”
 誘拐されたにしては最上級の扱いを受けていることと、誘拐される理由が思い当たらないことが、次の疑問点である。被誘拐者が意識を取り戻してから20分以上も誘拐されたことに気がつかないとは、何と巧妙でスマートな誘拐だろう。
“どうしよう……ハンニバルもコングもお腹空いて怒ってるだろーな……。いや、それよりも、これからどうしたらいいんだろ……。”
 人並みに脱出方法などを考えてみたが、羽布団が心地よく、行動に至らないフェイスマンであった。


「朝メシはどうした!?」
 昨晩のままの食卓を見るなり、早朝からコングは不機嫌。
「フェイスがいない。だから、朝食はなし。」
 ハンニバルの返事に荒々しい鼻息を吐いて、コングは冷蔵庫から牛乳を取り出し、ガロン壜のきっかり4分の1を一気飲みした。
「ちょっくら走ってくるぜ。ついでに何か買ってくるか?」
 TVの『高校講座・化学』に見入っていたハンニバルが、実験が終わるのを見届けてから、コングの方を向いて答える。
「インスタントコーヒーとカップスープとパンがあれば十分だが、美味そうなおかずがあればなおいい。」
「おし、わかった。」



*1*

「おはようございます。よくお休みになれましたか?」
 いつの間にか再度眠ってしまったフェイスマンは、静かな男の声で目覚めた。
 シャッと音を立ててカーテンが開かれると、温かな冬の朝の日差しが部屋一杯に差し込んだ。眩しさに目を細め、フェイスマンは生まれてこの方味わったことのない高貴なムードに困惑している最中だった。
「えーと、おはよう……ございます。」
 ここはどこ? 私は誰? の心境である。
 フェイスマンがぼんやりしていると、いかにもメイドといった服装の女性が部屋に入ってきて、彼のベッドの上に朝食のトレイを乗せた。ホームメイド・オレンジジュースと牛乳のグラスが並び、籠の中にはハースブレッド(厚さ1インチ)が軽くトーストされており、プレートの上にはホウレンソウのバターソテーとボイルしたベーコンと硬めのスクランブルエッグ(鶏卵Mサイズ2個使用)、脇のサラダボウルにはローメインレタスとプチトマトと薄切りセロリと乱切りキュウリのグリーンサラダ(ドレッシングはイタリアン)、銀のポットの中身は香りからしてコーヒー、それもコロンビアの深煎り3、コロンビアの中煎り1、マンデリンの深煎り1をブレンドしたものだろう。どれもこれもフェイスマンの好みのもので、食欲が刺激される以前に、不思議な感覚に囚われた。
「さ、冷めないうちにどうぞ。」
「……いただきます。」
 先刻の静かな声に促され、フェイスマンは牛乳を一口、口に含んだ。
“これ……コングに飲ませてやりたい!”
 まったりとしたコク、適度な甘さ、それでいて爽やかな喉越し、温度、全く申し分のない牛乳だった。知らず知らずのうちに飲み干してしまい、気がついた時には既に飲んでしまったことがもったいなく感じる。諺で言われるところの“食べてしまったちらし寿司”である。


 夢中で朝食を終え、苦いコーヒーの余韻を味わいながら、どうしたもんかと思っているフェイスマンに、先ほどの男が自己紹介した。
「申し遅れましたが、私(わたくし)、このコールリッジ家の執事、アレグザンダー・アトキンスと申します。アレックス、とお呼び下さい。」
「あ、どうも。えーっと僕は……。」
「テンプルトン・ペック様でございましょう? それともフェイスマン様とお呼びしましょうか? あるいはアル・ブレナー様とお呼びした方がよろしいでしょうか?」
 フェイスマンは額に縦縞の影を落とした。――そこまで知られているとは……。
「……どうでもいいです。」
「では、ぺック様とお呼びしても?」
「どうぞ、ご自由に。」
“どういう状況なんだよ、これは?”
 フェイスマンの胸は高鳴っていた。自分の呼び名を3つ以上知っている者に、手厚いもてなしを受けたことがなかったからだ。その種の方々には、違う意味での手厚い“おもてなし”を受けるのが普通だったので。
「あと30分ほどでコールリッジ家の弁護士、ブラッド・バウマン氏がこちらに到着いたします。それまでに、あちらのバスルームで身支度をなさって下さい。今、メイドが着替えの服を持って参ります。その他にご入り用の物があれば、何なりとお申しつけを。その後、なぜあなた様をこちらにお連れしたか、お話しましょう。」
 こくこくと頷きながらベッドを出たフェイスマンは、ベッド下に置いてあった室内履きをつっかけた。
 アレックスが掌を上に向けて示しているバスルームへ向かう途中で、メイドが服を持って入ってきた。
「失礼します、スーツをお持ちしました。」
 アレックスがそれを受け取り、クロゼットの1つにかけ、何事かメイドに耳打ちする。
「ぺック様、失礼ながら私、下がらせていただきます。後のことはこのメイドに。」
 彼女はスカートの両端をほんの少し摘み上げ、上品な一礼をした。
「何なりと私(わたくし)めに。」
「うん、よろしく。」
 堅苦しい執事が部屋の外に出たのを確認して、フェイスマンは指示を待っているメイドに話しかけた。
「君、名前は?」
「はい、エレンと申します、ペック様。何かご用は?」
 用を頼まれることはあっても、誰かに用を頼む癖のついていないフェイスマンはしばし考えた。
「シャワー浴びたいんだけどさ。」
「必要なものは全てバスルームに揃えてあります。参りましょう。」
 メイドのエレンに導かれ、彼はバスルームに足を踏み入れた。そこは総大理石張りで、それはもう広かった。まず洗面台があったが、それも広ければ、そのずっと奥にある白木の扉を開けた所のトイレも広くピカピカで、反対側の白木のドアの向こうは、気が遠くなるほど豪華な浴室、もちろん大きな浴槽にライオンの吐水口。
“この浴槽……モンキーだったら泳ぐよな。”
「シャワーだけでよろしいでしょうか?」
 ぼんやりしているフェイスマンに、エレンが問いかける。
「あ、ああ、シャワーだけにしとく。時間ないみたいだし、そんなに寒くもないから。」
 しかし、いつもよりは寒かった。
“どこか北部の山の中かな……?”
「バスタオルとフェイスタオルは……。」
 と言って、彼女は笑いを堪えようと努力している。
「どうしたの?」
「失礼、下らないことを考えてしまいましたので。」
「何?」
「いえ、本当にフェイスタオルね、と。」
「フェイスマンが使うフェイスタオルって? 君も僕の名前、全部知ってんの?」
「ええ、ぺック様の係になることが決まっていましたから。」
「じゃあさ、ぺック様なんて呼ばないで、フェイスって呼んでよ。様はつけないで。」
「よろしいんでしょうか?」
「もちろん。」
 フェイスマンはBランクの笑顔を彼女に向けた。金にはならなそうだからAランクではない。後で役に立ちそうだからCランクでもない。
「はい、わかりました。」
 彼女は白い頬を桃色に染めた。推定年齢18歳の女性にも、フェイスマンの微笑みは有効らしい。
「タオルはこちらの籠にお出ししておきました。シャワーはすぐにお湯が出るようになっております。温度調節や水量調節は、見ていただければおわかりになると思います。シャンプー、コンディショナー、ボディソープはご愛用のものをご用意いたしました。シェービングクリーム、アフターシェーブローション、ボディローション、ヘアトニック、シェーバー、歯ブラシ、歯磨き粉、ヘアブラシ、オーデコロン、ドライヤーはこちらにございます。バスローブはあちらの開きに。お脱ぎになった衣類は、脱衣籠に残しておいて下さいませ。」
 照れたように早口で説明する。オーデコロンは、オー・ソバージュとパコ・ラバンヌと4711が並んでいた。いずれもフェイスマンが普段使っているものだ。中年のご婦人が相手の時はパコ・ラバンヌ、20〜30代の女性が相手の時にはオー・ソバージュ、ハンニバルと一緒の時は4711、作戦中は何もつけない。
「ねえ、エレン。」
 バスルームを出ていこうとする彼女を、フェイスマンが呼び止める。
「君、どのコロンが好き?」
 エレンは足を止め、フェイスマンの方を振り返った。
「私、ですか? 個人的には4711が好みですけど、今日はオー・ソバージュがよろしいかと……。」
「どういうこと?」
「……それは後ほどおわかりになると思いますので……失礼。」
 彼女はそそくさと立ち去り、ドアを閉めた。


 シャワーを浴び、ヒゲを剃り、髪を整えたバスローブ姿のフェイスマンは、数々の疑問を抱いたままバスルームを出た。
 部屋ではエレンが、中国風木彫り細工の入ったパーテーションを立て、そこにスーツ、シャツ、ネクタイ等をかけていた。
「これから僕はどうすればいいのかな?」
「こちらでお召し替え下さい。」
「……ねえ、せめて2人っきりの時はさ、“こちらでお召し替え下さい”なんて言わないで“こっちで着替えて”って言おうよ。じゃないと、どうも肩が凝って……。」
 しばらくの間、エレンはどうしようかと考えていたが、大きく息を吸って明るい顔を見せた。
「いいわ、そうしましょう。それじゃ、フェイス、もうすぐバウマンさんが来るから、早いとこ着替えて。上から下までゴージャスかつシックなのを揃えといたから。」
「OK。黒いレザーのストリングビキニなんかじゃないだろうね?」
「何言ってんのよ、あなたに似合うのは青いシルクのセミビキニでしょ。マッチョじゃないんだから、ストリングビキニなんて無理しないでよ。」
 エレンのいきなりな変わりように、フェイスマンは多少、自分の発言を呪った。



*2*

「CQCQ、こちらクレイジー・モンキー。感度いかが?」
 アマチュア無線機に向かうマードックは、もちろん退役軍人病院精神科の個室に入院中。だが、無線機は本物、通信も妄想ではなくて本物。通信相手はハンニバル。
「どうしたんよ大佐、慌てちゃってさ。何? フェイスが行方不明? どっか女のとこじゃないの? 本当の行方不明だって? 正真正銘? 命に賭けても? わかったよ、すぐ行くから落ち着いて。今の音、何? コーヒーが引っ繰り返った? 手掛かりは? え〜、ないの〜? 今、犬連れてこいって言ったのコングちゃん? 連れてっても文句言わない、殴らないって約束してくれればOKだよ。OK? じゃ30分で行くから。じゃあね〜。」
 マードックは無線機のスイッチを切って、引き綱を手に立ち上がった。現在もまだ犬の散歩のアルバイトは続行しているので、病院の出入りは楽である。


「お待たせ〜。」
 マードックと犬が、ぴったり30分後にやって来た。犬はボルゾイ。
「もしかして、こいつ、あのスティードとかいうヤツか?」
 コングがすり足で後退し、背中を壁に密着させる。年月を経ても、2度あることは3度あるから。
「ああ、スティードだよ。よく覚えてたじゃん。でも大丈夫、こいつ大人になったから、もうクッションと光り物は卒業したんだってさ。」
“だってさ”と言うからには、意思の疎通が可能らしい。
「で、ハンニバルは?」
 スティードを“伏せ”の体勢にさせて、マードックが聞く。
「便所で考えてやがる。一体、何考えてんだか。」
 ドアに開いた穴から中を覗くと、確かにハンニバルが便座に腰を下ろし、頭を抱えて考え込んでいた。しかし、パンツもズボンも穿いているので、彼の威厳が失われることはない。
「大佐、来ましたよ〜。」
 はっと頭を上げて、ハンニバルは穴から覗くマードックの顔を見た。
「モンキーか! 犬は?」
「いるよ〜ん。」
「それじゃ早速、捜査開始だ。名づけて『早く美味い飯が食いたいもんだ、一体あいつはどこへ行った、フェイスマン捜索作戦』!」
 どうやらハンニバルは、トイレに籠もって、この名称を考えていたようだ。こんなリーダーでいいのかね。



*3*

 エレンに連れられて応接間に向かうフェイスマンであったが、部屋数と曲がり角の多さに方向感覚を失っていた。
“パン屑でも撒いてこうかな……。”
 観音開きの扉の前で、彼女は立ち止まった。ノックを2回。
「ぺック様でございます。」
「フェイスだよ〜。」
 エレンの横でフェイスマンが呟く。
 全くもう、という顔で振り返った彼女が、つっと彼に手を伸ばす。フェイスマンは一瞬たじろいで、一歩下がった。
「ネクタイ、曲がってるわよ。」
 小声で言って、ネクタイの位置を直す。バーバリーのスーツに身を包んだフェイスマンは、憧れのエグゼクティブの気分だった。
 内側から扉が開いた。アレックスの山羊のような顔が覗く。
「どうぞ、ぺック様。バウマン氏がお待ちです。」
 エレンを戸口に残し、フェイスマンが部屋の中に入っていくと、そこには見覚えのある紳士がにこやかに立っていた。
「あんたは……?!」
 彼こそ、フェイスマンが意識を失う直前に道を尋ねてきた紳士だった。
「いや、あの時は済まなかった。しかし、こうでもしなければ、君は我々の話を聞いてくれないだろうからね。本当に申し訳ない。弁護士のブラッド・バウマンだ。」
 バウマンと名乗る男は右手を差し出した。それに応えながらフェイスマンが聞く。
「でも……どうやって?」
「私が君に何をしたのかということかい? 簡単だよ。君が丁寧に道を教えてくれている間、私は黙って頷いていただけだったろう。」
「……そう言えば……。」
「その時、私の鞄の中には即効性催眠ガスのボンベが入っていた。私はただ、君の教えてくれる道を地図に書き記すためにペンを鞄から出し、そのついでにボンベのコックを開き、息を止めただけだ。それから君は眠気を感じるより早く眠りに陥り、よろけたところを、通行人を装っていた私の部下の者に支えさせ、アレックスのいるここに運んだというわけだ。」
「……即効性の催眠ガスか……。」
“ぜひともAチームに1本欲しいよなあ……後で入手方法、教えてもらおーっと。”
 とフェイスマンは思った。コングを飛行機に乗せるために。
「さて、では本題に入るとしよう。」
 そう言ってバウマンは、まるで自分の家であるかのように、フェイスマンにソファを勧めた。フェイスマンの向かい側にバウマンが座り、横にはアレックスが立っている。
「まず君は何から知りたい?」
 バウマンが問いかける。
「……ここがどこかってこと、ですかね。」
 沈みすぎるソファに埋もれ、尻をもぞもぞさせる。
「ここはスイス、ベルン郊外、コールリッジ家の別荘だ。」
「スイス!?」
 フェイスマンが目を丸くした。道理でロサンゼルスよりも寒いはずだ。
“あー、どうしよ。スイスなんかじゃ、ハンニバル、捜しに来てくんないかも。”
 絶望の淵に立たされるフェイスマン。
「神より金を信じる君のことだから、コールリッジ財閥の名は聞いたことがあるだろう。財閥と言っても、血族関係は全くないんだが。」
 金という響きが、絶望の淵から彼を掬い上げる。
「……何年か前まで、長者番付に必ず入っていた、あのコールリッジ家? ……オナシスには負けてたけど。」
「そう、そのコールリッジ家だ。」
 それで、このもてなし方も頷けた。
「でも、コールリッジ財閥は解散して、コールリッジ氏も確か亡くなったでしょう。夫人共々、飛行機事故で。」
「よく知ってるね、さすがはぺック君だ。その通り、財閥は解散し、コールリッジ氏は全ての物を売り払った。企業も株も、いくつかの土地や別荘も。」
 その時に動いた金と、それにかかる税金の額を考えて、フェイスマンは気が遠のく一方、口許が弛んだ。
「なぜ財閥が解散したか知ってるかい?」
「後継者がいなかったから。」
 フェイスマンには、その記事をゴシップ誌と新聞の両方で読んだ記憶があった。
「そう、コールリッジ夫妻には嫡子がいなかった。しかし公にはなっていないが、夫妻は今からちょうど10年前、事故で亡くなる4年前だが、1人の孤児を養女にしていたんだ。」
「それは初耳だなあ。……その子を後継者にするつもりで?」
「いや、彼女が貰われてきたのは、財閥が解散した後のことだ。仕事のなくなった老夫妻としては寂しかったんだろう。」
 場がしんみりとした。
「……すると、失礼かもしれないけど、その子には莫大な遺産が残されたってこと……ですよね?」
 場の暗さに耐えきれず、フェイスマンが口を開いた。
「それはもちろん。相続税で大分減ってしまったが、それでも我々一般人から見ればかなりの額だ。事故で保険金も入ったしね。しかしだ、私が言いたいのは、そのことじゃない。」
 バウマンは語調を強めた。
「私が言いたいのは、彼女、シンディと言うんだが、彼女が再び孤児になってしまったということだ。厳密に言うと、裁判所の決定では、彼女が成人するまでは私とアレックスの2人で彼女の身柄を保護せよ、ということになっているんで、従って我々が親代わりなんだがね。」
「普通は、コールリッジ家の親戚が保護するんじゃ……?」
 孤児出身のフェイスマンが意見する。
「普通ならそうなんだ。だが、コールリッジ氏にも夫人にも、親類は1人もいなかった。皆、アンダーグラウンドでね。」
 アンダーグラウンドというと、地下活動を行っている犯罪者と、文字通り地面の下に永眠している人とがいるが、この場合は後者であろう。Aチームは前者ね。
「……それが俺、いや僕とどんな関係があるの……ですか?」
 バウマンは葉巻に火を点け、深々と吸った。ハンニバルよりはずっとエレガントに。
「アレックス、あれを。」
 執事がポケットから出したハンケチには、銀のペンダントが包まれていた。錆び方から見て、純銀に違いない。
「これを見てくれ。」
 ペンダントヘッドはロケットになっていた。それを開けると……。
「あ、これ……!」
 2年前の記憶が、フェイスマンの意識の上に鮮明に現れる。
「君の写真だね? 2年前、雑誌に載ったものだ。」
「それがどうして、このロケットの中に……?」
「これはシンディの物だ。どうも彼女は君の写真を見て、一目惚れしてしまったらしい。それで失礼ながら、我々は2年間、君の身辺調査をした。お尋ね者だということを除けば、容姿・才能・性格の点では君は合格だ。」
 一体、何を合格基準にしているのかはわからないが。
「合格って?」
 嫌な予感がして、恐る恐るフェイスマンが尋ねる。
「お嬢様の結婚相手として、私たちが認めるということでございます、ぺック様。」
 いきなり横からアレックスが説明した。
「……結婚相手ぇぇぇ〜?!」
 開いた口が塞がらないフェイスマンの前で、事もなさそうにバウマンが言う。
「君がシンディと結婚してくれれば、彼女も寂しい思いをしなくて済む。親代わりだというのに何もしてやれなかった我々から彼女への、せめてものプレゼントだ。頼むよ。」
 あわあわとしているフェイスマンは、何か言わなくては、と口を開いた。
「あのですね、頼むよ、と言われましても、何ですか、その、俺、いや、僕は……。」
「Aチームだから、と言いたいんだろう? 大丈夫、君たちの無実は証明してあげるよ、私だって弁護士だ、そのくらいのお礼はしなければね。そうすれば君は幸せにシンディと、人並み、いいや、それ以上の生活ができる。」
 あまりある金に囲まれた生活は捨て難いけれど、結婚してしまったら女遊びは制限されるだろうし、第一ハンニバルはほとんど趣味でAチームの活動をしているから、お尋ね者じゃなくなっても今までの暮らし方を続けるだろうし、ということで、まだフェイスマンは抵抗を試みる。
「……でも、仲間に相談してみないことには……。」
「ジョン・ハンニバル・スミス君にかい? まあ彼は、君の上司兼父親的存在だからな。いいだろう、彼も君のことを心配していると思うから、電話してきたまえ。アレックス、ぺック君を電話のある部屋に案内してやってくれ。」
「はい、バウマン様。ではぺック様、こちらへ。」
 と2人が応接間を出ようとした時、外からノックがあった。
「お嬢様がご到着です。」
 エレンの声だった。
「シンディがやっと来たか! ぺック君、電話は後だ。すぐに彼女と会いたまえ、明日にでも結婚したくなるだろう。」
 妙にバウマン氏ははしゃいでいる。フェイスマンは胃が痛くなってきた。朝食を食べすぎたためではないだろう。



*4*

 ロサンゼルス市警察の制服(ハンニバルが盗んできた物)に身を包んだハンニバル、コング、マードックは、スティードを先頭に街を徘徊していた。フェイスマンの匂いを追って。
「昨日の匂いじゃダメかもしんないよ。」
 と言うマードックに、スティードが首を横に振る。
「あっそう、平気なの。」
「こいつ、言葉がわかんのか?」
 コングはマードックに尋ねたが、スティードが首を縦に振って答えた。コング、服がきつそう。
「でも喋れないから、今、一生懸命タイプ覚えてんだ。偉いよね、こいつ、向学心あって。」
 ショッピングセンターの駐車場付近を嗅ぎ回っていたスティードは、遂に自然食スーパーマーケットの前で足を止め、Aチーム(マイナス1人)に向かって一声吠えた。
「なるほど、奴は買い物に出かけたんだな。」
 スーパーマーケットに目を向け、ハンニバルが頷く。
「それから奴はどこへ行ったんだ?」
「クウ〜ン?」
 スティードが首を傾げる。
「もうこれ以上わからないみたい。」
 マードックが解説した。
「ここで何者かに連れ去られたって可能性があるな。」
「そうだな、コング。よし、ここからは聞き込みだ。」
 3人は散らばって、道行く人々に声をかけ始めた。ちゃんと前もってフェイスマンの写真は3枚用意してある(ハンニバルの私物らしいが……)。


 警察の服を着ていると民間人は協力的になる。1時間もしないうちに目撃者が現れた。目撃者を発見したのはコング。
「このオジサンたちに、さっき教えてくれた話をもう一度喋ってくんないかな、ボク?」
 目撃者は、昨日の夕方、駐車場で遊んでいた、探偵気取りの近所の子供。彼は、一旦コングに洗いざらい話したことを、もう一度繰り返して言った。
「あのねえ、昨日の夕方、う〜んと6時頃かなあ、この人が僕のおじいちゃんくらいの年の男の人に話しかけられてねえ、きっと道を聞かれたんじゃないかなあ、おじいちゃんが地図を持ってたから、でねえ、この人がぐにゃぐにゃってなっちゃったら周りから男の人がわーっと集まってねえ、5人くらいかなあ、んでねえ、車に乗っけて行っちゃったの。僕ねえ、事件かなって思って車のナンバー書いといたんだよ。すごいでしょう。僕、TVに出られる?」
「ああ、いつかは出られるさ。で、ナンバーは?」
 とろ臭い子供の喋り方に痺れを切らせまくっていたハンニバルが、右手をグーにして聞いた。その握り拳は血管が浮き出ていて、少し震えている。
「あっちのコンクリートにチョークで書いてあったぜ。雨が降んねえでよかったな。」
 コングがナンバーを控えたメモをハンニバルに見せた。
「僕の名前はねえ、あのねえ……。」
「じゃあな、ボク。ありがとうよ。」
 ちゃっ、と右手を挙げるコング。
「あ、お巡りさん、僕の名前はあ?」
 名もない子供は、3人の警察官(ニセ)と犬の後ろ姿を、母親に横っ面を叩かれるまで見つめていた。


 ちょうど警察官の制服も着ていることだし、彼らは何気なく警察署に入り(スティードは外で出待ち)、コンピュータを無断使用させてもらった。車のナンバーを入力すると、すぐに持ち主の名前と住所がわかるという、あの検索機だ。コングが、メモを見ながらナンバーを入力する。数秒後にはディスプレイが変わり、ハンニバルの前にあるドットプリンタがガーッと印字を始めた。
「クイック・レンタカー株式会社の車か。」
 ナンバーを見た時にレンタカーだとは思ったが、どこの会社のものかはわからなかった。しかし、これでレンタカー会社の場所もわかったので、彼らはプリントアウトされた紙を引き千切って、そこに示された住所に向かうことにした。


「警察の者です。少々お伺いしてもよろしいでしょうか?」
 ハンニバルが警察の身分証明書つきバッジ(証明書の写真だけは本物)をちらりと見せ、クイック・レンタカー会社の店員に聞いた。
「何でしょう?」
「このナンバーの車、おたくのですよね?」
 グッドタイミングで、コングがメモを店員に見せる。
「……少々お待ち下さい。」
 店員はカウンターの上の分厚い台帳を捲った。
「はい、そうです……が、この車が何か?」
「我々の追っている殺人犯が、この車を使用した可能性が強いんですよ。無論、絶対に使ったとは言い切れませんがね。」
 それを聞いた店員は、最近この界隈で起きたどの殺人事件なのか思い巡らせている様子だった。
「それでですね、企業秘密だとは思いますが、ここ数日の間でその車を借りた人物の住所・氏名・電話番号と走行距離を教えてもらえませんでしょうかね?」
「ええ、どうぞ。ご覧下さい。ここ数日の間……と言ったら、この方だけです。」
 ペラペラと台帳を捲って確認した後、彼はハンニバルの方に台帳を向けた。店員が指差した先の住所・氏名・電話番号と走行距離を、コングがメモする。
「どうもご協力ありがとうございました。必ずや犯人を見つけてみせますから、ご心配なく。」
 彼らが立ち去った後、店員はボルゾイでも警察犬になれることに感心した。


 マンションに戻った3人は、それぞれの作業を行っていた。コングは地図を前に、走行距離からフェイスマンの連れ去られた先を推定している。ハンニバルは、住所・氏名・電話番号の確認。マードックは、スティードに餌をやっている。
「現在、この電話は使われていないそうだ。」
 受話器を置いて、ハンニバルが言い捨てた。
「番号案内にかけて、住所と名前から電話番号を聞いてみれば?」
 ペディグリーチャムの缶を洗い終えたマードックが発案し、再びハンニバルは電話に向かう。
「走行距離÷2を半径にして、レンタカー会社を中心に円を描いてみたけどよ、何か思い当たるとこはねえか?」
 テーブルの上に広げられた地図と睨めっこをしているコング。それを覗き込んで、マードックが自信たっぷりに指差す。
「これ、な〜んだ? 答え、飛行場。ただし、小規模。」
「そうか、飛行場か! ……飛行場〜?」
 喜んだのも束の間、コングは眉間に皺を寄せた。
「何か収穫あったか?」
 ハンニバルがむっつりとした表情で続ける。
「こっちはダメだ。電話番号案内嬢に住所を言ったら、そんな住所はない、と言われた。名前だけで捜してもらったが、珍しいことに該当者が全くなかった。偽物の免許証だったってわけだ。……それで、そっちは?」
「スティードは餌を食い終わった。片づけてくる。」
「そんなことは報告せんでいい。コングはどうだ?」
「見てくれ、ハンニバル。飛行場じゃねえかと思うんだが。」
「思いついたのは俺様だぜ〜!」
 キッチンからマードックが叫ぶ。
「よし、飛行場で聞き込みだ!」
 また聞き込みかよ、というコングの舌打ちは、ハンニバルには聞こえなかったようだが、スティードには聞こえていた。だからと言って、スティードは告げ口したりなんかしない、何てったって大人だもんね。


 飛行場は小さく、暇そうだった。事務所という名のプレハブ小屋の前に、3人の制服だけ警官は立ちはだかった。出入口の扉に看板がかかっている。
ロング・ロング・ディスタンス運送会社
人も荷物も、近距離から長距離まで運びます
「これって、国外もOKなのかな?」
 周囲のオンボロ飛行機や欠陥ヘリコプターを一瞥して、マードックが首を捻る。スティードはマンションでお留守番。
「だとしたら、ヤバイ商売なんじゃねえか?」
「まあ、行ってみましょ。」
 ハンニバルが事務所のドアを、ノックもなしに開いた。その途端、ガタガタガタという音がプレハブ小屋を揺さぶる。
「や、やあ、お巡りさん、この会社に、な、何か用事でも?」
 事務所の奥の方で引きつった笑みを浮かべているのは、ロング・ロング・ディスタンス運送会社の社長らしき男。左手で後ろのスチール棚の扉を押さえ、右手はデスクの引き出しの中に突っ込まれており、目は宙を彷徨っている。いかにも怪しい。さらに部屋の中央辺りでは、パイロットと思しき男が数人、フライトジャケットの左脇や背中の方に右手を回している。銃を持っていることがバレバレ。
「だから言ったろ、ハンニバル、ヤバイ商売なんじゃねえかって。こんな服着てたら、協力してくれるわけねえだろ。」
 コングがグチる。本来ならフェイスマンの役割。
「そう言ったってねえ、コング、誰だって時には失敗することがあるでしょう。それが俺たちにとっては今だってだけで。」
「それで、どうすんの、大佐あ?」
「とりあえず、こいつらが悪人だという前提で話し合ってみましょうか。」
「勝手にやってくれ。」
「では、コホン……俺たちはAチーム! 噂は知ってるよね?」
 ハンニバルが堂々と名乗りを挙げてみる。
「あんたら警察じゃないのか? Aチーム? ……知らんな。みんな知ってるか?」
「いや、全然。」
 少なくとも警察が踏み込んできたわけではないことに安心して、彼らは銃から手を放した。
「コーング、やっておしまい。モンキーも。」
 隙を突いたのか、気分を害したのか、ハンニバルはそう命令を下した。
「おうっ!」
「あいよっ!」
 コングとマードックはパイロットたちに飛びかかり、あっと言う間に殴り倒した。ハンニバルはホルスターから銃(自前)を抜き、社長らしき男に突きつける。彼はホールドアップの姿勢のまま、スチール棚にへばりついた。
「本当はね、俺たちは争いは好まないんだ。あんたたちがどんな商売をしてようと構わない。察するに、違法な手段で国外に出たい人の手助けをしてるようだけど。そんなことは俺たちとは関係ない。俺たちの関心は唯一……この男、見たことある?」
 ハンニバルが懐からフェイスマンの写真を出し、社長(としておこう)の目の前に掲げる。
「いや……ない。見たことない。」
「本当のこと言ってよ。じゃないと、人差し指に力が入っちゃうじゃないの。」
「本当だ、記憶にない。あいつらなら知ってるかも……。」
 社長は、パイロットたちの方を顎でしゃくった。
「コング、ちょっとそちらのお兄さん方に聞いてみて。」
 ハンニバルが振り向きもせず言う。
「おい、こら、起きろ。こいつ知らねえか?」
 殴られて気絶しているパイロットの頬をペチペチと叩いて、コングはフェイスマンの写真を見せた。マードックも、コングと同じ行動を取っている。
「ああ、俺、こいつ運んだよ。」
 1人のパイロットがボソリと言った。
「覚えてることを全部話すんだな。」
 コングが写真と拳を取り替え、凄味を利かせる。
「昨日の昼頃かな、この会社には珍しく身なりのいいオッサンが1人で来てさ、夜の7時前には出発したいって言ってきたんだ。俺が目的地と人数を聞いたら、2人、スイスのベルン辺りの道路沿いならどこでもって言うから、少し安くしてやったんだ。向こうで飛行場に着陸しなきゃなんないと、ちょっと面倒だからさ。わかるよね?」
 コングとマードックが頷く。特にマードックは、心底同意した。
「そんでもって、俺が飛行機の準備をして待ってたら、6時半頃にそのオッサンがやって来た。事務所の前に乗りつけた車には何人か乗ってたけど、その写真の男1人だけを俺に押しつけて、他の奴らは車に乗ったまんま帰っちまったんだ。そいつ、最初死んでんのかと思ったけど、よく見たら薬でも嗅がされたんだか全く意識がなかっただけなんで、俺がそいつを担いで飛行機に乗せたのさ。だから、よく覚えてるよ。チップも弾んでもらったしね。」
「それからどうした?」
 コングが促す。
「一旦カナダの仲間の所で給油して、その後スイスのベルンから少し南西に行った所で客を降ろした。それで、俺はついさっき帰ってきたとこだ。」
「そん時の地図に、降ろした位置は書いてあんの?」
 マードックがパイロットとして尋ねる。
「降りたい位置をオッサンが書き込んだからな。そこのファイルん中に入ってるよ。」
 ファイルの中を確認し、隠匿するマードック。
「2人を降ろした時に何か言ってなかったか?」
 ハンニバルが、離れた場所から大声で聞く。
「道路脇に降りて、そいつはまだ意識が戻ってなかったから毛布でくるんで平らな所に寝かせてやったんだけど、かなり寒かったんで、俺はオッサンに大丈夫かって聞いたんだ。そしたらオッサンが、鞄から携帯電話だか無線機だかを出して、すぐに迎えの車が来るから心配には及ばないって。」
「そのオッサンの身元はわからねえのか?」
 もう既に拳を下ろしたコングが問う。
「人間の国外空輸は身元を聞かないのが、この会社の方針でね。何せ、飛び込みの客もいるから。予約の時でも、荷物の顔が1人でもわかりゃそれでいいってことになってる。」
「他には?」
「いや、そいつについて知ってんのは、それだけだ。」
「……そうか。」
 ハンニバルが残念そうに呟いた。フェイスマンが凍え死んでいないか心配で。
「それじゃ帰るとしよう。お邪魔さまでした。」
 相手に銃を向けながら、3人は運送会社を後にしようとしていた。
「ちょくちょく飛行機借りにくるから、その時はよろしく!」
 ドアから顔を覗かせて、マードックがそう言い残す。
 しばらくして、社長とパイロットたちは顔を見合わせて頷き合った。
「……Aチームか……覚えておこう。」


 再び、Aチームの本拠地、マンションにて。
「スイスまでは飛行機で行くんだろ、それもモンキーの操縦で。俺ァ絶対行かねえからな!」
 相変わらず、コングがごねている。
「いいでしょう。今回はコング、留守番ね。」
「……いいのか? ほんっとーに、いいのか?」
 さっぱりと許可するハンニバル。コングは信じていない。
「その代わり、スティード、一緒に行きましょう。スイスは牛乳が美味しいって話だから、沢山飲ませてあげよう。」
 ハンニバルにすり寄るスティードは、とても嬉しそう。コングは、というと、牛乳と飛行機との間で心の葛藤が生じて悶々としている。
「モンキー、フライトプランはできたか?」
 今度はマードックが、テーブルの上に地図を広げて悩んでいた。
「大佐、こんな距離だし、コングちゃんも一緒じゃないってんだったら、民間航空機で行かない?」
 それが、パイロット・マードックの結論だった。
「よし、そうしよう。では皆の者、ああコングは別ね、荷作りターイム!」
 リーダーの言葉で、マードックとスティードは行動を開始した。チャーンチャラッチャーン、チャラッ、ラー(Aチームのテーマ曲、流れる)。鞄に自分の靴下とパンツを詰め、フェイスマンのパンツを手に唇を噛むハンニバル。スーツケースにペディグリーチャムとビーフジャーキーを詰めるスティード。ショルダーバッグにチューイングガムとハーシーのチョコレートとプリングルスと麸菓子を詰めるマードック。諦めがついて、ダンベルをボストンバッグに詰めるコング。



*5*

 シンディという女性、3日後には20歳になると聞いたが、その落ち着いた雰囲気は25、6歳、あるいはもっと上に見えた。彼女を唯一若く見せているのは、ハニーブロンドのストレートな髪を短めのボブにした髪形だけだった。
「はじめまして、ミス・コールリッジ。テンプルトン・ぺックです。」
 フェイスマンの顔を見て、シンディは、はっと息を飲んだ。
「……はじめまして、ミスター・ぺック。」
 彼女が右手を差し出したので、フェイスマンは跪き、その手にキスをした。驚いて手を引いた彼女も、数秒後には手を胸に、頬を染め、フェイスマンから視線を逸らせた。
「若い2人に老体は邪魔だろう、我々は引っ込むとしよう。」
 微笑ましげに2人を見ていたバウマンとアレックスは、迷宮のような廊下の奥に引き上げた。再びまた、どうしようかと思うフェイスマンに、シンディが提案した。
「馬に乗って、滝を見に行きません? この先に、それは美しい滝があるんですの。」


 フェイスマンは慣れない馬に跨がっていた。シンディは見事な手綱さばきで馬を操り、薄く雪で覆われた急斜面を登っていく。彼の乗っている馬は、何もしなくても前を行く馬の後を追っていくので楽なのだが、何か虚しい。
「さあ、ここよ。」
 斜面を登り切った所に、滝はあった。辺りには全く人気がない。滝からはどうどうと水が流れ落ち、ライブハウスやディスコ並みにうるさい。
「ここに座って話しましょう。」
 シンディがフェイスマンに耳打ちした。そうしなければ、滝の音が邪魔をして、相手の言葉が聞き取れないからだ。
「OK。」
 2人は冷たい岩の上に腰を下ろした。衣服の尻が濡れているのがわかる。
「あのジジイどもから、何か吹き込まれた?」
 そう耳打ちされて、フェイスマンはシンディの変わりように驚いた。被っていた猫を脱いだようだ。
「何かって?」
 耳打ち返すフェイスマン。ここからはずっと耳打ち合っているので、よろしく。
「私の結婚相手にどうのこうのってことよ。はっきり言っとくけど、私には結婚を約束した人がいるんだからね。」
「そんなの聞いてなかったよ!? 君が寂しがってるから、結婚してやってくれとしか……。」
「あのキツネども、あんたと私を結婚させておいてから、あんたを通して遺産に手をつけようって魂胆なのよ。」
「え? ホント?」
「私がここにあんたを連れてきて、こうやって話してるのも、盗聴されないためなんだから。あそこの別荘、電話から何から盗聴器だらけでね。シスコの本宅もそうだけど。普通に話してたんじゃ、どんな話もあの2人に筒抜けよ。」
「でも何で、あの2人が……?」
「私が20歳になるまでは、じーちゃんとばーちゃんの、つまり私の養父母ね、その遺産は裁判所の命令で凍結されていて、今は私の養育費として月に3000ドルずつ、あの2人に渡るのよ。それでさえ大半をあの2人が使ってるし、その他にも奴らには遺産からいくらかずつ入ってきてるの。でも私が成人した日からは、遺産は全て私のものになって、奴らには一銭も行かなくなってしまう。4年しかつき合いのない小娘に全額、何十年も尽くしてきた執事と弁護士には0。当然、腹も立つでしょうけどね。……でも、じーちゃんとばーちゃんが死んだのが私が14の時で、その時にそれを聞いてからというもの、気が気じゃなかったわ。だって、私が20歳になった時に、何が起こるかわかったもんじゃないでしょう? だから、農学専攻から法学に乗り換えて……。」
「ちょっと待ってよ、それって君、14歳の時の話だろ?」
「私、スキップ進級したのよ。10歳の時に農学部に入って、14歳までには2つ3つの特許を取ったから、あいつらに養育費をごまかされても、何とか特許料で学費を賄ってこられたの。農学にも未練はあったけど、やっぱり自分の身が可愛いから、法学を学んで仲間を増やして、今では弁護士や会計士、税理士の友達が大勢いるわ。それで、私が20歳になったら効力を持つ公式の遺言状を作ってもらったのよ。20歳以降、病気・事故・自殺・故意による他殺にかかわらず私が死んだ場合、私の全財産は環境保護団体と世界各地の孤児院に振り分けられるっていう。」
「しっかりしてんだ。で、僕の写真がなぜあんなとこに?」
「たまたま見た雑誌にあんたの写真があって、一目でAチームのフェイスマンだってことがわかったわ。それで、私がああやって持っていれば、2人のジジイが協力して、私の結婚相手としてあんたを連れてくるだろうと思ったのよ。あんたなら、同情心と大金欲しさに絶対釣られるから。別にあのジジイらにとっては、言いなりになるダミーの夫役なら誰でもよかったんだけど、私がそれを婉曲に指名しただけ。あんたがどっちにつくかはわからないけど、これは賭けだったのよ。上手く行けば私の味方になってくれるかもしれないし。どう?」
「どう……って?」
「あんた、どっちにつく? 私の希望……って言うかAチームへの依頼は、私が20歳になった後、奴らの妨害から私を守り、私と、同じ大学院のフレディ・ファーガソンとを無事結婚させ、それ以後も2人のジジイに決して手を出させないようにすること。報酬は10万ドル。……Aチームの相場がわからないんだけど、安いかしら?」
「いや、多いくらいだけど、値切られたら困るよなあ。」
 2人は湿っぽくなった耳を拭って笑った。笑い声が、滝の音に掻き消される。
「君もさ、心に決めた人がいるんなら、何で早々に結婚しちゃわなかったの?」
「もしかして、あんたバカ? 20歳未満だと、結婚届に保護者の承諾のサインが必要なのよ。常識でしょ? だからこそ、私にとって何もかも、20歳がターニング・ポイントなの。20歳になったら、とっとと結婚してやるんだから。って言っても、簡単にはできないと思うんだ。」
「どうしてさ? 紙切れ1枚、役所に提出すれば、それでおしまいだろ?」
「確かにお役所の窓口にまで辿りつければ、それでおしまいだろうけど、辿りつけるかどうかが問題なのよ。」
 シンディはナーバスな溜息をついた。
「車か電車で役所前まで行って、後は右足と左足を交互に出すだけじゃないのかい?」
「バカなこと言わないでよ。……あのね、あの弁護士のバウマンって奴が曲者で、黒服を何人か抱えてんの。大学の構内以外では、いつも私、そいつらに見張られてるのよ。きっとそいつらが妨害してくると思うわ、武力行使して。」
 今度はフェイスマンが溜息をつく番だった。2度もバカと言われたからでは、決してない。相手は天才だし。
「それじゃあ一筋縄じゃ行かないよね……。」
「多分ね。」
「そんな暗い顔しないで、シンディ、仕事は受けるよ。ただ、僕1人じゃ難しいから……それに作戦を立てるにも盗聴器が邪魔だし……。」
「それなら、こういう風にしたらどう?」
「実は、僕にも1つ案があるんだ。」
 日が暮れるまで、耳打ちは延々と続いた。


 馬小屋から別荘までの暗くなった夜道を、2人は手を繋いで帰ってきた。2人って言っても、若い2人の方で、老人の方ではないぞ。
「これはこれは、すっかり仲よくなって。こんな時間まで、一体何を話し込んでたんだい、シンディ?」
 バウマンがほくほく顔で2人を出迎えた。
「え……学校のことですとか、お料理のことですとか……そう、ぺック様はお料理がとてもお上手だそうなので、いろいろと教えてもらってましたの。」
 シンディの背中に猫が覆い被さっている。
「あと、僕たちの将来のこととかね。」
 フェイスマンがシンディにニッと笑いかける。
「……ということは……?」
 期待に満ちた眼差し、というよりは、嫌らしい助平ジジイのような眼差しを向けて、バウマンが聞く。
「はい、僕たち、結婚することにしました。」
「そうか! 私が言った通りだろう、ぺック君。おい、アレックス、シャンパンを用意してくれ。」
 浮かれ立つバウマンに、フェイスマンとシンディは必要以上にベタベタして見せる。
「それでですね、バウマンさん、仲間に連絡を取りたいのでちょっと電話してきたいんですが。」
「おお、そうだったな。シンディ、彼を電話に案内してやりなさい。」
「私も友人に連絡したいと思いますので……。ご一緒に参りましょう、ぺック様。」
「ほらシンディ、僕のことはテンプルトンと呼んでくれって、さっき言ったばかりじゃないか。それともダーリンと呼んでくれるかい、ハニー?」
 ちょっと棒読み気味の台詞回しじゃないかい、ええ、フェイスマン。
「そうでしたわね、ごめんなさい……ダーリン。」
 シンディが消え入りそうな声で言い、キャッと両手で頬を押さえる。フェイスマンに比べ、演技派である。
「さ、行こうか、ハニー。」
 寄り添って歩み去る2人を眺め、バウマンとアレックスがニヤリと口の端で笑った。



*6*

 荷作りの途中で電話が鳴った。ハンニバルが手にしていたパンツを無意識にポケットに突っ込み、受話器を取る。
『もしもしー、俺だけどー。』
 引きずる語尾で、フェイスマンだとわかった。
「フェイスだな。生きてんのか?」
『あ、ハンニバル? 生きてるよ。とっても元気。連絡できなくってゴメンね。今、スイス、ベルン郊外のコールリッジ家の別荘にいるんだ。あれ、何か雑音入ってない?』
 盗聴されてるってことだな、とハンニバルは思った。長年のAチーム生活で暗黙の了解となってしまった、暗号のようなものだ。さらに“ハンニバル”と言っているところから、Aチームのフェイスマンだということが周囲にバレていることがわかる。
「長距離電話だからだろ。」
『サンフランシスコにある本宅からならクリアーなのにね。……今、何してた?』
「お前を捜してるところだ。何かあったのか?」
『俺ね、近いうちに結婚するから。』
「またご婦人を騙してんのか?」
『偽装結婚なんかじゃないよ。今度こそ、ホントに結婚すんの。マジで。絶対に。何があろうとも。』
 ここまで念を押すところを見ると、偽装結婚らしい。
「相手は誰だ?」
『コールリッジ家のシンディって子。元コールリッジ財閥の、だよ。今スイスにいるけど、アメリカ人。まだ学生なんだ、それも20歳で農学博士と法学修士を持ってる才媛でさ。』
「お前さんねえ、結婚届出すの、これで何回目?」
『やだなあ、ハンニバル、届を出したのはまだ2回だよ。』
 これは、結婚届を2通用意しておけということ。
「式はどうすんだ? スイスでやるのか?」
『まだどうなるかわかんない。でも、コングは大丈夫かな?』
「スイスだったらコングは行かんだろ。」
 行く気でいることは黙っておく。フェイスマンの方からコングの名前を出したということは、来られない方が都合がいいということだから。
『そうかあ。そうだよなあ。やっぱシスコでやった方がいいよね。やっと俺が本気で結婚するんだから、Aチーム全員列席してもらいたいもんなあ。……そう言えば、この前の仕事の報酬10万ドル、貰ってきてくれた?』
「済まん、忘れてた。お前がいなくなっちまったんでな。」
 報酬10万ドルの仕事を請け負ったということが、ハンニバルにも伝わった。俄に気が入る。
『早くしてくれよ、ハンニバル。あんなに調査したのにさ。』
 急いで調査しろ、の意味。
「わかった。やっておく。」
『それじゃ、また何か決まったら連絡するから、そこの電話番号、キープしといてよ。』
 電話代とマンションの家賃を払っておけ、の意味。
「ああ、何とかしておくよ。じゃあな、生水飲むなよ。」
 電話が切れた。
「計画変更だ! コング、モンキー、集合!! スティードは寝ていてよし!」
 リーダーはリビングに向かって叫んだ。


 フェイスマンとシンディは、リビングルームでアツアツの素振りを装いながら、バウマンとアレックスに電話の結果を報告していた。本当は報告なんかしなくても、そのうち2人の老人にはわかってしまうことだが、盗聴されていることを知らない振りも装う。
「……というわけで、スイスで式を挙げるとなると、仲間全員は出席できないんで、僕としましては、できればサンフランシスコの方がいいんですよ。」
「私もそうです。仲のよい友人に聞いてみましたところ、スイスまでは行けそうもないということでした。それに、解散したとは言いましても、元財閥関係の企業の方々にもお越しいただきたいですし、そうなればますます皆様の交通の便から申しまして、本宅で式を挙げた方がよろしいかと。」
 2人で、スイスで結婚式は嫌だと当たり障りなく言い張る。
「アレックスはどう思う? 私は確かに2人の言う通り、来客のことを考えると、シスコで式を挙げた方がいいと思うんだが。」
「私も本宅に賛成です。あそこなら大広間もありますし。多少寒いかとは思いますが、天気さえよければ、ガーデンパーティも可能ですから。」
 さすがに金持ちは自分の家で結婚式が挙げられる。家を式場として貸し出せばいいのに、というのは貧乏人の考え。
 こうして結婚という手順の中で最も面倒な、式の段取りが決まっていった。



*7*

「ただいまー!」
 久し振りにフェイスマンが帰ってきた。心労で痩せているかと思いきや、美味しいものを食べて、心なしかゆったりとした体形になっている。
「フェイス!!」
 ハンニバルが『ウラル語統語論』(まだ読んでいた)を放り出して駆け寄ってきたが、再会の抱擁は思い止まった。このようにハンニバルが思い止まったというのに、フェイスマンの方から抱擁に挑んだ。抱擁しつつ、耳元で囁く。
「盗聴器、仕掛けられてない?」
 ハンニバルも囁き返す。
「誰がどうやってこの部屋に盗聴器をつけるんだ?」
「夜、寝静まっている間とか、留守にしている間とかに忍び込めば仕掛けられるだろ。相手はもう、ここのマンションがAチームの本拠地だってことを知ってんだから。」
「相手って?」
「コールリッジ家の執事と弁護士。名前は、執事がアレックス・アトキンス、弁護士がブラッド・バウマン。」
 長い抱擁が終わり、2人は盗聴器を探した。ハンニバルの予想に反して、出てくる出てくる、延長コードのタップ、TVの裏、電話の中、ベッドの足やマットレスの間、チェストの裏、電灯の傘の裏、エアコンの中、ソファの間、額縁の裏、裏という裏、中という中、間という間から、無数の盗聴器が発見された。見る見るうちに、テーブルの上に盗聴器の山ができる。
 それでも安心できないフェイスマンは、狭いバスルーム(でも普通サイズ)にハンニバルの袖口を引いて入り、ドアを閉めた後、シャワーの栓を全開にした。
「このマンションの中で、調査したことを口にしたりしなかったろうね?」
 ひそひそとフェイスマンが尋ねる。
「ああ、盗聴器には気づかなかったが、偶然にも、一言も声には出さなかった。全て書類にして、俺が肌身離さず持っていたからな。風呂に入る時は別だぞ。ここのところ、女にも縁がなかったし。」
 ハンニバルはひそひそ声を返し、シャツを捲った。コルセットと背中の肉の間から、紙の束を取り出す。最近、腹の肉のせいで腰が痛くなっているハンニバルであった。
 それをハンニバルから受け取り、少し匂いを嗅いだ後(ハンニバルの匂いがした)、フェイスマンはそれを読んだ。
「他のみんなは、この内容、理解してる?」
「ああ、一通り読ませた。理解したかどうかはわからん。特にモンキーは。スティードは頷きながら読んでたが。」
「スティード? もしかして、あのお利口なボルゾイ?」
「そう、あのスティードだ。今回は彼が協力してくれてる。」
「コングは嫌がってないの?」
 2年前の2度の出来事を思い出し、フェイスマンが聞いた。
「今はもうスティードも大人になって、コングをクッション代わりにはしないんでな。コングは、モンキーより役に立つと言ってるくらいだ。それで、そっちはどうなんだ、式の方は。」
「うん、来週の日曜日にシスコの本宅でやることになった。」
「で、作戦は?」
 フェイスマンは、事の次第と作戦計画をリーダーに語った。


 同じ頃、シンディの方でも、盗聴器や監視を気にしながら、ひそひそと耳打ちで計画が進められていた。



*8*

 日曜日、正午。サンフランシスコの空は抜けるように青く澄んで、冬にしては上々の日差しが降り注いでいる。コールリッジ家の庭では、結婚式を目前に、列席客たちがビュッフェスタイルのランチを楽しんでいた。農学関係者と法学関係者と大企業の会長・社長・取締役とAチームと犬。変な取り合わせかもしれない。
「せっかくお呼びいただいたのに、1人来られなくなって済んませんねえ。」
 フォーマルウェアのハンニバルが、右手にシャンパングラス、左手にサンドイッチを持ち、口の端に葉巻を銜えて、もごもごと言った。どれか1つにすればいいのに。
「いやいや、ぺック君から聞きましたよ。マードック君でしょう? 何でも、発作が出て入院とか。退役軍人病院精神科でしたっけな?」
 バウマンが、アレックスからシャンパンのお代わりを貰いながら答える。今朝方、彼の部下が病院まで行って、中庭で拘束服を着たままスキップをしているマードックを確認し、それがバウマンの耳にも入っていたからだ。
「よく調べてらっしゃる。」
 苦笑いをするハンニバル。
「ハンニバル! その服、似合うじゃない。レンタル?」
 白い燕尾服でフェイスマン登場。こちらはオーダーメイドなので優越感一杯。
「あれ、シンディはまだなの、バウマンさん?」
「お嬢様はお支度に手間取っておりますので。」
 フェイスマンはバウマンに聞いたが、それに答えたのはメイド長のオールド・ミス・ダルトリーだった。
「そうだな、シンディは化粧っ気のない子だし、ヒラヒラとしたドレスにも慣れていないから、仕方ないだろう。」
 それを聞いてバウマンは、まるで我が子のことを話す父親のように顔を弛ませた(振り)。
「いえ、それだけではございません。」
 ダルトリー老婦人がきっぱりとした口調で言う。
「メイドたちはお客様のお相手や、お料理運び等で手一杯なもので、お嬢様にはエレンしかついておりません。だから先日も、メイキャップの者を雇った方がいいと申しましたのに。」
 後ろのセンテンスを小声で言うダルトリー。しかしバウマンは、それについては知らん顔をした。
 しばらくして客の間から歓声が沸き起こった。花嫁が姿を見せたのだ。純白のウェディングドレスは、幾多のベールで包まれ、以前に見た滝のようだった。豪勢なカスケードブーケは、コングのダンベルほどの重さがあると見受けられる。
「ご来客の皆さん、ご着席下さい。」
 バウマンがマイクを取って言った。その声が増幅され、スピーカーから流れる。
 庭の中央には、教会と同じように椅子や祭壇、十字架が設えてあり、唯一ないのはステンドグラスだけだった。


 向かって左側から、フェイスマンがハンニバルに付き添われて入場してきた。コングが本格的ビデオカメラでクローズアップする。スティードが頭に括りつけたマイクを向ける(レコーダーは体に荒縄で縛ってある)。
 右側からは、シンディがバウマンに付き添われ、静々と入場。ベールを持つのはダルトリー老乙女だ。
 付添人が2人から離れると、牧師の入場である。コールリッジ家はプロテスタントなのだろう。
 主役が揃い、厳かなムードが漂う。
「汝テンプルトン・ぺック、汝はシンディ・コールリッジを妻とし、健やかなる時も病める時も、これを慈しみ、死が2人を分かつまで共に過ごしますか?」
 牧師が決まり文句を始める。
「はい。」
 かったるそうにフェイスマンが答えた。
「汝シンディ・コールリッジ、汝はテンプルトン・ぺックを夫とし、健やかなる時も病める時も、これを慈しみ、死が2人を分かつまで共に過ごしますか?」
「はい。」
 緊張のせいか、震える声でシンディが答える。
「では、指輪の交換を。」
 シンプルすぎるデザインの指輪にコングの食指は動かない。
「誓いの口づけを。」
 待ってましたとフェイスマン。シンディがベールをほんの少し持ち上げ、新郎に形のよい唇を見せた。彼の目は唇に釘づけ。唇を重ね、10秒経過。舌が入っている。20秒経過。新婦がブーケを落とし、重そうな音が響く。30秒経過。彼女は悶えている。40秒……50秒……1分経過。
「もうやめなさい。」
 牧師が囁き、2人はやっと唇を離した。上下する花嫁の肩。
「では、神の御前において、2人が夫婦であると宣言いたします。」
 牧師が退場し、代わりにバウマンがマイクを持って立ち上がった。
「これから、新郎新婦が書類にサインをいたします。ご面倒ですが、お立ち会い下さい。」
 アレックスが署名台を持って登場し、恭しく2人の前にそれを置いた。台の上にあるのは、結婚届と結婚誓約書。念には念が入っている。
 フェイスマンが2枚の書類にさらさらとサインした。テンプルトン・ぺック、と。それが戸籍上の名前なのか?
「はい、シンディ。」
 ペンを渡すフェイスマン。しかし、シンディはそれを受け取らず、嗚咽を漏らした。次第にそれは大泣きになる。
「……ごめんなさい、フェイス。」
 列席客一同が怪訝な表情に変わった。と、その時……。
 キキーッ! バタバタバタ……。
 黒服の男たち(全員集合、10人前後)が、ジーンズにセーターというラフスタイルの男女を連れて、庭に駆け込んできた。
「シンディ!?」
「フレディも!?」
「じゃあ、あの花嫁は誰だ?」
 客席から声が上がった。庭の中がざわめく。
「私なの。エレンよ。」
 花嫁は頭のベールを脱ぎ捨てた。確かにメイドのエレンだ。
「騙してしまってごめんなさい、フェイス。お嬢様がどうしても代わってほしいと仰られたので……。」
 それから彼女は、連行されたシンディの方を向いた。シンディとフレディは、持っていた結婚届をバウマンに奪われて地団駄を踏んでいる。エレンの震える唇が動く。
「お嬢様にも……申し訳ございませんでした。バウマン様とアトキンス様には内緒にしてほしいとのことでしたが、私、お2人には弱みを握られているもので。……実は私、3年前コールリッジ家に忍び込んだ泥棒だったんです。それをアトキンス様に見つけられて、ここでメイドをすれば警察には黙っていてやる、と……。それで先ほど、式が始まる直前に全てお2人に話してしまいました。……本当に申し訳ございません!」
 泣き崩れるエレン。フェイスマンが屈み込んで、彼女の肩に手を置き、慰めるように囁いた。
「いいんだよ、エレン。黒服の奴ら全員と本当の新郎新婦をここに集める作戦なんだから。計画通りだ。」
「え……フェイスも私たちが入れ代わったこと知ってたの?」
「そりゃあ僕の立てた作戦だからね。それに君が昔、泥棒の常習犯だったってことは調べでわかってたし、あの2人に脅されてるってことも知ってた。もし君が言わなくても、奴らは盗聴器を通して、そのことを聞いてたと思うよ。」
 そこへ大音響と大風を伴って、ヘリコプターが飛んできた。庭の上空でホバリングしている。誰もかも、Aチームとシンディとフレディ以外は、ヘリを見上げた。
「今だ、コング! フェイス! スティード!」
 ハンニバルが命令し、3人と1匹は黒服の男たちに殴りかかった。相手は隙を突かれてシンディとフレディから手を離し、2人を追う間もなく乱闘を余儀なくされた。
 コングがテーブルを投げつける。フェイスマンがフライング・ボディ・アタックに失敗し、真っ白な燕尾服を泥だらけにする。ハンニバルがシャンパンのボトルを手に、次々と黒服の男たちの鼻骨を折る。スティードが走り回り、手当たり次第に噛みつく。
 その間に、ついさっき病院を抜け出してきたばかりのマードックが操縦するヘリからは縄梯子が下ろされ、シンディとフレディがそれに登っていく。
「お前たち、シンディが逃げるぞ! 早く車で追うんだ! 遺産が丸々あいつらの手に渡ってしまったら、お前たちには1ドルたりとも金を払わんからな!!」
 バウマンが叫ぶが、黒服たちは乱闘の真っ最中で、全然聞いちゃいない。この叫びを聞いていたのは、ちゃっかりと彼の傍に来ていたスティードとマイクと、ハンニバルだけだった。
「どこの馬の骨ともわからん奴に遺産は渡さん!」
 アレックスが叫び、年代物の銃をフレディに向ける。ハンニバルの行動が少し遅れた。
 パーン!!
 乾いた音が響き、全員が動きを止め、そちらに目を向ける。危機一髪、機敏な動作で、スティードがアレックスの手に噛みついてくれた。弾はフレディには当たらず、どこかへ飛んでいってしまったようだ。
 これを機に何人かの黒服男が車に乗ったが、動き出した途端、タイヤが4つともパンクした。スティードが走り回っている間に、彼らの車のタイヤ周囲に撒きびしを置いたのだ。こういう時に運転手は、ハンドルを叩くのが常。
 ヘリコプターに無事乗り込んだシンディとフレディ。シンディは、ざまあ見ろ、という風にもう1通の結婚届をひらつかせた。ヘリはどんどんと役所の方へ向かっていく。もう10分もすれば、2人は法の下において正式な夫婦となるだろう。
「今のあんたたちの発言とエレンの告白は、テープに録らせてもらった。これを警察や法廷に出されたくなかったら、この先あの2人にちょっかいを出すのはやめてもらおう。」
 ハンニバルが、スティードから受け取ったカセットテープを振りながら言う。アレックスとバウマンは、悪役らしくもなく、すぐに観念した。老人だけに、分別はある。
「それから、シンディの作成した公式書類によると、あんたたちクビだってさ。この豪邸からも、さよならだね。アレックス、あんたの後はエレンが引き継ぐから。」
 フェイスマンはそう言って、ぐちゃぐちゃになった燕尾服の懐から、恒例の“もう手出ししません”の誓約書を取り出し、2人の老人にサインさせた。
「ご列席の皆さん!」
 ハンニバルが、バウマンの使っていたマイクを持ち、脇の方へ避難していた列席客に向かって司会者を装う。
「本日はご足労さまでした。これにて結婚劇をお開きにしたいと思います。本物の結婚式については、後日ご連絡いたします。」
 そしてマイクのスイッチを切り、新しい葉巻に火を点けた。
「これにて、作戦終了。」



*9*

「シンディから手紙が来てたよ。」
 買い物から帰ってきたフェイスマンが、荷物を台所に置き、手紙の封を切った。
「……結婚式はやらないんだって。何、遺産のほとんどを寄付しちゃったあ? 報酬は小切手で郵送する……んならいいや。……えっ、別荘も本宅も売っちゃって、大学の近くに普通の家を買ったの? もったいないなあ。エレンは1人だけメイドとして残ってもらいました、か。それから……。」
 手紙を読み上げているんだか、ぶつぶつ言っているんだかわからないが、フェイスマンは最後に言葉を濁した。
「それから何だって?」
 TVを見ていたハンニバルが、フェイスマンから手紙を奪った。画面ではマードックとスティードが、タイプライターを前に司会者と話をしている。テロップは『タイプで会話する犬、スティード君』。
「どこだ、どこだ? ああ、ここか。……それから、エレンがあなたに恋煩いをしています。時々会いに来てやって下さい。……会いに行ってやれよ、フェイス、元泥棒と現詐欺師のカップルなんてオツじゃないか。」
「やだよ、俺。金になんないもん。」
 フェイスマンは口を尖らせて、台所に引っ込んだ。コングはベランダで、先日のカスケードブーケをダンベル代わりにトレーニングしている。ハンニバルはTVを消して、『ウラル語統語論』の最終章に目を落とした。
【おしまい】
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