思案投げ首、多事多端
伊達 梶乃
 マイアミはハリケーンの直撃を受けていた。気象台始まって以来の記録的な低気圧に人々は恐れおののき、家の窓に板を打ちつけた。パームツリーが風になぎ倒され、波の高いビーチには人影もない。
 しかし、ロサンゼルスの天候は平和そのものだったので、マイアミの悪天候はAチームには関係ない。
 そんな夕方、トゥ・カーサのウィークリー・マンションの入口で、買い物帰りのコングと、仕事帰りのフェイスマンと、散歩帰りのハンニバルは、ばったりと出会った。3人並んで世間話をしながら部屋へと向かい、ドアを開けようとした瞬間、ノブに手をかけたハンニバルをフェイスマンが止めた。
「ちょっと待った。俺が部屋を出る時にドアに挟んでおいた紙が落ちてる。……ってことは、誰かがドアを開けたってことだよね。」
 神妙な顔で見つめ合う3人。この部屋に侵入者が……?
「……よく考えてみろ、フェイス。」
 ハンニバルがフェイスマンの肩に手を置き、諭すように続ける。
「お前が部屋を出たのは、午前中だったな?」
 頷くフェイスマン。
「俺とコングは、その時まだ部屋の中にいた。そして今、俺達はここにいる。ということは、どういうことだと思う?」
「はいはい判りましたよ。俺がバカでした。」
 口先のみで反省するフェイスマンであった。
「けどよ、ハンニバル。部屋ん中から話し声が聞こえるぜ。」
 ドアに耳を寄せ、コングが口を開く。
「それはだな、コング、最後に部屋を出た俺がTVを消し忘れたからだ。」
 胸を張って言うハンニバル。威張って言うことではないと思うが。
「いいか2人共、世の中には素直に受け取っていいことと、落ち着いて考えなければいけないことと、裏を読まなければいけないこととがある。あらゆる場合について、的確な判断が必要だということは言うまでもないが、経験を積まない限り、この判断力は得られず……。」
「ねえハンニバル、鍵が開いてるけど?」
「ドアの鍵が開いているということは、誰かが開けたか、元々開いていたかだ。後者は一般的に鍵の閉め忘れと言う。ここで鍵について考察してみると、我々の持っている鍵は、スペアキーを含めて2つ。フェイスの持っている鍵と、最後に部屋を出た俺が持っている鍵だ。」
「俺が先に帰ってきたらどうするつもりだったんでいっ!」
「まあ、それはいいとして。」
 詰め寄るコングを、ハンニバルがさらりと受け流す。
「確かに俺は鍵をかけて外に出た。ところが、現在、鍵が開いている。つまり、誰かが鍵を開けたことになる。まず1つ考えられることとして、従業員がマスターキーで鍵を開け、掃除等の業務の後に鍵を閉め忘れたということが挙げられる。しかし、ここはホテルではないので、このようなサービスはあり得ない。第2に、我々に敵意を持った何者かが侵入した場合だが、我々を捕獲するにしても殺傷するにしても、侵入した形跡を残して感づかれないよう、鍵は一旦開けた後に閉めておくのが常套手段と言うものだ。」
「じゃあ何で鍵が開いてんの?」
「判らん。」
 長々と講釈を垂れた後だというのに。
「誰が何のために鍵を開けたかは判らんが、以上の考察により、我々に危害を与えようという輩の仕業ではないはずだ。」
「もしMPが、ハンニバルならこう考えるだろう、と裏を書いたとしたら?」
 フェイスマンの言葉に、ハンニバルがニヤリと笑う。
「MPに、そこまで頭の回る奴がいるとは思えんがな。リンチ然り、デッカー然り。」
「んなこたあ、どーでもいいぜ。早くこの荷物を何とかしねえと、冷凍食品がすっかり融けちまわあ。」
 抱えた紙袋の底面に滲み出した水が、コングの指の間から滴り落ちる。
「それじゃ、開けましょう。」
 用心に用心を重ねて、フェイスマンがドアの右側に、コングが左側に身を隠し、ハンニバルが手に銃を構えてドアを蹴り開けた。



 女性が1人、備えつけの来客用ソファに腰を下ろしている。推定年齢30代後半。身なりからすると、まあまあの金持ち。テーブルの上に、飲みかけのコーヒー。彼女の向かいに座って、彼女と何やら語り合っているのは、ハウリング・マッド・マードック氏。
「モンキー?!」
 ハンニバルとフェイスマンが、同時に素っ頓狂な声を上げた。1人コングは嫌そうに唸り声を発しつつ、紙袋を抱えて台所へと退場。
「は〜い、みんな遅かったじゃん。こちら、Aチームに仕事を依頼したいっていうアップチャーチ夫人。」
 仲間の登場に片手を振り、マードックは向かいのご婦人を彼らに紹介した。
「ああ、ようこそお出で下さいました、私、Aチームのテンプルトン・ぺックと申します。いやあ、これ程までに気品溢れるご婦人にお会いするのは初めてですよ。気高いだけでなく、何とお美しい……(以下略)。」
 クライアントの応対はフェイスマンに任せて、ハンニバルはマードックを手招いて聞いた。
「鍵開けたの、お前?」
「そう、俺。」
「どうやって?」
「彼女からヘアピン借りて。……フェイスじゃないから5分位かかっちゃったけどね。」
「てことは、彼女とは前から知り合いだったわけか?」
「まあね。」
「どこで?」
「病院。」
「……そう言えば、お前、どうやって病院から抜け出してきたんだ?」
「彼女に外出願いを書いてもらったんよ。」
「一体何者なんだ、彼女は?」
「大佐、万年中尉って覚えてる?」
「もちろん。俺と同期だ。俺の方が随分年下だけどな。手柄を挙げても、ちっとも昇進しなかった奴だろ。敵の攻撃をまともに食らって、外傷は皆無だったが、頭を強打して脳震盪を起こしてから、失語症になったとか何とか聞いてるが。」
「そんだけ情報があれば十分。で、奴さん、俺と同じ病院に入ってんだけど、彼女、その万年中尉の末娘なんだ。よく面会に来てて、それで知り合ったわけ。」
「万年中尉は金持ちだったのか? 彼女はどう見ても、リッチ・ピープルだぞ。」
 ハンニバルがちらりと婦人の方を見る。
「彼女の旦那が超金持ちでさ。依頼されてる仕事ってのも、旦那絡みで……。」
「どんな仕事なんだ?」
「……旦那の素行調査。いわゆる浮気の調査ってヤツ。」
「おい、モンキー、Aチームは探偵じゃないんだぞ。我々Aチームには、もっと壮大な悪人退治という仕事がある……もっとも今はないがな。……どうせ依頼人を連れてくるんなら、パーッと華やかな仕事のを頼むよ。」
「んな、俺に言われても。それって、フェイスの役割だろ?」
「ところで話は変わるが、あのコーヒーはお前がお出ししたのか? あのインスタント・コーヒー、この間見た時、蟻がたかってたぞ。」
「そう言や、淹れる時に大きい粒々が浮いてたっけ。まあ、いいじゃん、ブルマン風味ってことで。死にゃしないって。」
 一抹の不安を残すハンニバルは、マードックと共に、フェイスマン達の話の方に合流した。2人の話は、色気も何もない“Aチームの料金制度について”に変わっていた。
「どうしたフェイス、愛を語るのはやめたのか?」
「いいかいハンニバル、俺の愛には2つあってね、1つは美しい女性に対する愛で、もう1つはお金に対する愛なの。」
 小声のやり取りの後、フェイスマンは彼女に料金制度(対富豪料金)を納得させ、話は仕事内容へと進んでいく。
「先ほどぺックさんにはお話しましたが、私の名前はクレア・アップチャーチ、旧姓をマクマホンと申します。夫はケニー・アップチャーチ、アップスの社長をしております。」
「アップスの社長!?」
 3人が驚くのも無理はない。アップスとは数年前に上場した小売チェーンだが、アメリカのチェーンストア界では老舗のシアーズやKマート等を抜いてトップランクの業績を上げ、株価は天井知らずと言っていい程に上昇を続け、今一番話題になっている企業だ。
「あの万年中尉のお嬢さんが社長夫人とはねえ……。」
 つくづくハンニバルが、人生とは不思議なものだ、という風に呟く。
「まだ会社が小さかった頃、社長秘書をしていたのが縁で夫と結婚し、もうすぐ10年になります。その間に会社は大きくなり、生活も安定したので、子供を2人設けました。私達、とても幸せだったんです。でも……。」
 夫人は一旦言葉を切り、例のコーヒーを口に含むと、顔を顰めた。
「でも、2、3カ月前からというもの、夫はなかなか家に帰ってこない上に、帰ってきてもろくに口も利いてくれなくて……。私、夫が浮気しているんじゃないかと思うんです。それで、先月、思い切って探偵を雇って調べてもらったんですけど、調査できないと断られてしまって。」
「なぜ?」
 ハンニバルが葉巻の煙を吐き出しながら尋ねた。
「仕事が仕事、肩書が肩書なものですから、夫には常時ボディガードがついているんです。労組問題や首切りなどで恨みを買っているらしく、今まで何度も命を狙われてきたもので……。そのボディガードのせいで調査ができないということを理由に、どこの探偵社も依頼を受けてくれなくて、それで最後の頼みの綱だと思い、マードックさんにAチームと連絡を取ってもらうようお願いしたんです。」
「……奥さん、あんた、旦那さんの浮気が本当なら、離婚するつもりなんでしょ? それで多額の慰謝料を要求するために、確たる証拠が欲しい、ということかな?」
「ハンニバル、そりゃ失礼だよ!」
「いいんですよ、ぺックさん。」
 勢いづくフェイスマンを、夫人は柔らかな物腰で制した。
「私が離婚を決意しているのは事実です。夫が私以外の女性を愛しているのなら仕方ありません。ただ不安なのは、2人の子供達です。心情的には私が2人共引き取りたいんですけれど、お金のことを考えると、私1人ならともかく、子供を2人も養っていける自信はありません。かと言って、2人を手放すつもりはありません。ですから、万が一の場合、少しでも余計に子供達の養育費が欲しいんです……。」
 夫人の目に涙が浮かぶ。壁の陰では、台所から出てきていたコングが、熱い目頭を押さえ、鼻の頭に力を入れていた。
「お願いします。ここに1万ドルあります。今、私が自由にできるお金はこれだけなんです……どうか……。」
 フェイスマンは1万ドル払ってでも手に入れたい養育費が一体月額いくらなんだろうかと、胸をときめかせている。
「判った、引き受けよう。」
 難しい顔をしていたハンニバルが、表情を変えずに言った。
「ただし、浮気調査は専門外だから上手くいかないかもしれん。成功した暁には1万ドル戴こう。失敗した場合にも、規定料金だけは払ってもらう。これでもいいかな?」
「はい、喜んで!」



 翌日、ウィークリーマンションを解約したAチーム4人とアップチャーチ夫人は、ロサンゼルス郊外(ひどく田舎)にあるアップチャーチ邸の応接間にいた。旦那が滅多に帰ってこないのをいいことに、ここをアジトにしようという決定がなされたのである。
 最近になって裕福な生活を手に入れた、悪く言えば“成金”ではあっても、金持ちは金持ちだから、と豪華な邸宅と内装を期待していたフェイスマンの胸は、早々と萎んでいた。
“調度品の1つ2つは失敬しようと思ったのに……。”
 実質的で無駄のない家は確かに広かったが、余分に高価な装飾品など1つとしてなかった。庭から切ってきた草花が差してある花瓶は、アップスで5ドルの品。ホーム・ファニシングも、アップスのプライベート・ブランドで揃えられている。家具は北欧風なので、イケアのRTAだろう。壁にはリトグラフがかかっているが、無名の画家の作品である。額縁は多少奮発して50ドル前後とフェイスマンは判断した。家政婦すらいない。どう見ても、アメリカの平均的な中流家庭だ。ただ違うのは、応接間が5つと書斎が2つ、それと客間が10人分あるところ。車庫はバスケットボールのコートが2面は取れそうな広さで、屋外駐車場はアメリカン・フットボールさえできそうだ。そして家の裏には、自家用飛行機とヘリコプターがある。
 それを見て喜んだのは、もちろんマードック。眉を顰めたのは、言うまでもなくコング。しかし今回は、ヘリや飛行機が活躍できるような依頼ではない。
「まずはオフィスに盗聴器を仕掛けよう。」
 ハンニバルが、基本をしっかり押さえた作戦を提案した。
「コング、盗聴器を用意。フェイスはそれを仕掛ける役だ。」
「大佐、俺っちは?」
 マードックが夫人手製のクッキーをサクサクと食べながら尋ねる。
 応接間のテーブルにはトレイ一杯のクッキーとコーヒー、そして牛乳。ゆで卵の黄身がたっぷり入ったサブレ・ノルマンディを既に平らげてしまったマードックが今食べているのは、チェリーとアンゼリカの乗った絞り出しクッキー。フェイスマンのお気に入りは、アーモンド・プードルとバニラの香りが漂う、軽くて口溶けのいい、馬蹄形をしたバニラ・キッフェルン。コングは、クルミとアーモンドが山程入ったブローニーを抱え込んでいる。使用しているココアは、ヴァン・ホウテンではなく、アメリカ人好みのハーシー。甘い物を控えさせられているハンニバルまでが、メープルシロップとブラウンシュガーの芳ばしいジンジャーマン・クッキーを、懐かしそうにかじっている。バリバリボリボリザクザクという音がひっきりなしに響く。
「モンキーは俺と一緒に、本社のお掃除だ。」
「掃除〜?」
 リーダーの決定に嫌とは言えない辛い身分。
「では、作戦開始。」
 Aチームの4人は、それぞれクッキーをハンケチに包んでポケットに入れ、行動を開始した。
 小1時間後、掃除婦(老婆)の変装をしたハンニバルは、アップス本社ビル2階の会議室脇給湯室で流しを洗っていた。同じ頃、同ビル5階の窓の外には、窓拭きに興じるマードックの姿があった。ハンニバルは社内の噂話をチェックしようとしているのであり、マードックはカメラと集音・録音機器を足元のバケツに隠して、これはというチャンスを狙っているのであるが、今はただ掃除しているに過ぎない。



『受付ですが、電話工事の方がいらっしゃっています。』
 秘書室のインターホンから受付嬢の声が聞こえた。アップス社長付第1秘書ダイアン・ミルフォードが本日の予定表に目を落とし、綺麗に整えられた爪の乗ったすらりとした指で旧式インターホンのボタンを押して返事をする。
「そんなの聞いてないわよ。何の用件かしら?」
『電話の機能拡張工事だそうです。……あ、何するんですか、ちょっと、やめて下さい!』
 受付嬢が取り乱し、スイッチが入ったり切れたりするプツプツという音と、攻防戦が行われているようなドタバタという音がスピーカーに響いた。受付で一悶着あったようだ。そして騒ぎは収まり、勝者の声がダイアンに届く。
『こっちにもスケジュールってもんがあるんだ。とにかく、そっちに行かしてもらうぜ。』
 それから数分して、電話工事会社のツナギを着てヘルメットを被った男が、工具箱を手に、社長室と廊下の間に位置する秘書室のドアをノックもなしに開いた。
「社長さんは?」
 男は辺りを見回し、社長室と書かれた扉の方へ足を進める。
「只今社長は席を外しておりますので、代わりに私がお話を伺いましょう。」
 デスクに向かっていた女性が豊かなブルネットを揺らして腰を上げ、素早い動きで彼の前に立ちはだかった。その容姿に男は顔を綻ばせ、下品に口笛をヒュウッと鳴らす。
「こりゃあ驚いた、こんなイカしたギャル(死語)久し振りじゃん。今晩、一緒にどう? 腰が抜けるまで可愛がってやるぜ。……ところで、あんた誰?」
「社長付第1秘書のミルフォードと申します。早速のお誘い、折角ですがご辞退させて戴きます。他にご用件は?」
「そう、そうだった。社長室の電話をちょいと……。」
 ツナギの懐から4つ折りにされたパンフレットを出し、秘書に見せる。
「おたくの社長さん、この機能を使いたいってんだが、今の電話のままじゃ無理なんで、ちょっくら改造をね。」
 秘書はパンフレットを受け取り、さっと内容を黙読した。要約すれば、電話で会議ができる(4人まで)というものである。この男の言う通り、ちゃんと下の方に《電話機種によってはご使用できない場合もあります》と記されている。
 急激に会社が大きくなり、社内外コミュニケーションが不充分かつパソコンの導入が遅れているアップス社にとって、魅力のある機能であると彼女は判断した。しかし、社長からは何も聞いていないし、その本人は目下重要な会議に出席しており、事前に、緊急の事態以外は一切連絡を入れないように、と念を押されている。
「本当に社長がそう仰ったんでしょうか?」
「何? この俺を疑ってんのかい? これ見てくれよ。」
 脇に挟んだファイルから、申込書を取り出す。
「電話で申し込んできたから書いたのは局の女の子だけど、名前も生年月日も自宅と会社の住所も電話番号も書いてあるから確認してみ。」
 彼女は全ての項目において正しく記入されていることを認めた。さらに、その申込書の下部には、電話局がどこの電話工事会社に工事を依頼したかも、同じ筆跡で記入されており、それは彼女の眼前にいる男が着ているツナギの右胸に縫い取られている社名と一致していた。
「社長さん本人じゃなきゃ、ここまで書けないだろ?」
「判りました。……どういった工事なんでしょうか?」
 パンフレットと申込書を突き返して、秘書が尋ねる。
「工事って程のもんじゃなくてね。電話機の裏蓋を外して、基盤を取り替えて、小っちゃい部品を2、3つないで、裏蓋を閉じるだけさ。10分もありゃあ終わっちまう。でも、これさえやっときゃ、他の電話はそのまんまで使えるんだから。」
 普通、使えないと思うが、秘書はその言葉に頷き、社長室のドアを開けた。
「では、こちらにどうぞ。」
 こうして夫人の陰なる協力のお蔭で、フェイスマンは社長室の電話と、ついでに社長用インターホンと机の裏に盗聴器を仕掛けることに成功した。帰り際に秘書をもう一口説きしがてら、秘書のデスク裏にも盗聴器を仕掛け、かてて加えて地下駐車場に寄り道し、社長の車に発信器を取りつける。
 有難いことに秘書は、この電話工事の一件は既に社長の了解済みだと思い込み、報告しないでいた。



 フェイスマンが一仕事している頃、コングはアップチャーチ邸の応接間に、夫人と2人切りでいた。子供達はまだ、学校と幼稚園から帰ってきていない。
「なあ、奥さん。」
 段ボール箱に詰まった無数の機械や部品の中から、コングは何かを探している様子である。
「“奥さん”はよしてちょうだい、“クレア”でいいわよ。」
 花瓶の花の枯れた部分を摘まみ取りながら、彼女は微笑んでそう言った。
「じゃあ……なあ、クレア。」
 少し照れた風に、コングが彼女の名を口にする。
「何かしら?」
「旦那はここ何日、家に帰ってねえんだ?」
 彼女は壁の微かな染みを見つめ、しばらく考えていた。
「そう……最後に会ったのは先週の日曜の朝だったから、もう1週間半になるわね。」
「ちょうどいい。だったら、そろそろ旦那に着替えでも持ってってやんねえか?」
「着替え? どうして? あの人、会社に何着もスーツを置いてあるのよ。」
「ここんとこ暑くなってきたし、たまにゃあ別のスーツも着たくなるぜ。ネクタイも……タイピンもな。」
 と言って、コングが箱の中から探し出して彼女に見せたものは、ネクタイピン(盗聴器つき)とカフスボタンのセットだった。



 インターホンがビーッと鳴り、会議から戻ってきたばかりのケニー・アップチャーチ社長は、ボタンを押してマイクに口を近づけた。
「何だ?」
『奥様からお荷物が届いております。』
「持ってきてくれ。」
 程なく、コンコンと社長室のドアがノックされ、秘書がスーツケースを手に現れた。
「そりゃ何だい?」
「替えのスーツとその他の着替えということです。危険物は入っていないと保安部から連絡がありました。」
 彼は机の上に散らばった書類を手早く片付け、空いたスペースにスーツケースを乗せる。ケースを開けると、麻のスーツのセルリアンブルーが目に飛び込んできた。その上に、1枚のカードが乗っている。
《夏服を持ってきました。仕事が忙しくても、季節と私達のことは忘れないでね。クレアより愛を込めて。追伸、シンプルなデザインだけど涼しげな色合いのネクタイピンとカフスボタンを見つけたのでプレゼントします。》
 彼はほんの一瞬微笑み、衣類の間から小さな箱を探り当て、中身を確かめた。それは結構、彼の好みの品だった。
「ダイアン、これをしまっておいてくれないか。」
 早速タイピンを取り替えながら、彼は秘書にそう命じた。
「判りました。」
 スーツケースを閉じて片手に下げ、ドアに向かった彼女は、空いている方の手をドアノブにかけて振り返った。
「社長、今晩7時以降の予定が入っていませんが。」
「そうだったっけか。じゃあ、そうだな……ロスに向かう国道沿いにハンガリー料理店があっただろう、あそこに夕食の予約を入れておいてくれ、2人分。」
「どなたといらっしゃるご予定で?」
「何言ってるんだい……君とだよ、ダイアン。」
 アップチャーチ氏はウインクしようとしたが、顔の片側が歪んだだけに終わった。彼女はキューピッドの弓形をした唇の両端をくいっと持ち上げて満足そうに微笑むと、ドアの向こうに消えていった。
 この時マードックは社長室の窓ガラスの外側にいたのだが、防弾二重窓にブラインドが降りていたため中の様子は見えず聞こえず、おまけにカメラ及び集音・録音機器はバケツごと下の歩道に落としてしまっていたので、全く成果なし。
 しかし、タイピンの中の盗聴器と、フェイスマンが仕掛けた3つの盗聴器は、今の社長と秘書の会話を全て拾っていた。



「浮気のお相手は、あの秘書か……。秘書との浮気なんて月並みだけど、やるもんだねえ、旦那も。」
 バンの後部で5台の盗聴レシーバーに対峙していたフェイスマンが、助手席のハンニバル(未だ掃除婦姿)の方へ呟く。
「俺の聞いたところによると、あの社長、女に関しちゃ堅物で、どんな女の子の誘いにも乗らないって話だったがね。女房持ちだってのに、女性からの人気は社内一らしい。」
 30代で上場企業の社長で、それなりにハンサムで体形がスマートとなれば無理もないこと。
「そりゃハンニバル、奥さんは優しくて美人、なおかつ、愛人はセクシーでゴージャスなグラマラスでそれでいて有能ときたら、普通、他の女の子になんか目もくれないよ。」
「じゃ何かい、その秘書ってのはセクシーでゴージャスなグラマラスだってのか?」
 社員の井戸端会議がよく行われる給湯室と会議後の会議室とトイレと更衣室とコピー室にしか足を運ばず、社長付第1秘書を目撃していないハンニバルが、かなり真剣に聞く。
「年は27、8。身の丈、5フィート8インチ。スリーサイズはセンチメートル法で言って、98−61−93ってとこかな。緩くウェイヴした黒髪で、眉はきりっとして、顎がすらっとして、アーモンド形の目には睫毛がバサバサしてて、瞳ははしばみ色で、絵に描いたような口許をしてて、ミルフォードなんて名字だけど、どう見てもスパニッシュ入ってる。」
 細かい部分は細かいが、大雑把な部分の多い描写をしてくれるフェイスマン。
「そりゃあ、是非ともお近づきになりたいな。」
 今の説明で秘書の容姿が十二分に想像できたハンニバル。
「さて……と、それじゃあ次の作戦に移るとしますか。」
 無論、仕事の方も忘れない。次なる作戦は、尾行。
「フェイス、モンキーを呼んできて。それから、このバンは目立つからコングに返して、車を3台ばかり調達してきてくれ、地味なヤツをな。」
 フェイスマンの扱いは相変わらずなハンニバルである。



 社長と秘書はボディガードを振り切り、さらに彼らの尾行を撒いて、国道沿いのハンガリー料理店ファターニェーロシュに向かっていた。ボディーガードと違って、車につけた発信器もあり、目的地も判っているAチームは、3台の車に分かれて、トランシーバーを手に、気楽に2人を追っている。
 目的地に着いて、店に入る2人を見届けたマードックが、後続のハンニバルにお伺いを立てた。
「大佐、今、店の前だけど、どうする? 夕飯にすんの?」
『ハンガリー料理か……。どんなんだっけ?』
「パプリカ入り牛肉のシチュー、パプリカ入り朝鮮アザミのスープ、パプリカ入り鯉の蒸し煮、パプリカつき各種肉の蒸し焼き、パプリカ入り酢漬けキャベツ、肉と米の酢漬けキャベツ巻き、粉菓子のキャベツ巻きなど。」
『パプリカとキャベツの入ってない料理はないのか?』
「エスプレッソコーヒー。」
『……よし、店の周りで待とう。』
 というわけで、Aチームの3人はファターニェーロシュには入らずに、店の周囲(前と両脇)に車を停めて、2人が出てくるのを待つことにした。百戦錬磨の強者のリーダー、ハンニバルだけあって、素晴らしい判断である。〔作者はパプリカの入ったシチュー、グィヤーシュの作り方しか知らず、ハンガリー料理の資料としてあるのは『ハンガリー語四週間』だけであるが、数年前に自由が丘で食べたハンガリー料理は大して美味しくなかったと記憶している。〕



 プルルルル、プルルルル、プルルルル……。
 アップチャーチ邸の電話が鳴っている。応接間にいたクレアとコングは部屋を出て、そこから最も近い電話のある部屋、リビングルームまで走った。家が広いと健康にいい。
「お待たせしました、アップチャーチです。」
『娘は預かった。』
 聞き覚えのない嗄れた声が、そう告げる。
「……何ですって?」
 とっさに彼女は電話の録音ボタンを押した。
『おたくのお嬢さんはここにいる。返してほしければ、1時間以内に100万ドル用意するんだ。』
「もう銀行は閉まっているのよ、100万ドルなんて無理だわ。」
『……手元にいくらある?』
 ちらりとコングの方を見て、クレアがおずおずと口を開く。
「1万ドルなら……。」
『よし、可愛いお嬢さんに免じて、1万ドルに割り引いてやろう。受け渡し方法は、追って指示する。』
「シビルの、娘の声を聞かせて。」
 やや間があり、耳に愛娘の声が聞こえた。
『ママ?』
「ああ、シビル、大丈夫? どこも痛くない?」
『うん。早くお家に帰りたい。』
『では、後程。』
 電話が切れた。クレアは震える指で録音を止めて、コングの方を振り返った。
「あなた方には悪いけれど、1万ドル、使わせてもらうわ。」
「おう、俺は構わねえぜ。こんな事態だもんな。」
 気丈な振りをしていても、クレアの手と唇が震えているのをコングは見て取り、その細い肩にしっかりと腕を回した。
「ハンニバルなら、きっといい手を考えてくれるぜ……。」



 軍用高性能トランシーバーでコングからの連絡を受けたハンニバルは、ケニー・アップチャーチ氏とダイアン・ミルフォード嬢の方はフェイスマンとマードックに任せて、アップチャーチ邸に戻ってきている。電話の録音テープを聞き、彼は腕組みをして考え込んでいた。
「何黙りこくってんだ?」
 多少苛ついているコングが、リーダーのお言葉を待ち切れずに尋ねる。
「……最初100万ドルを要求しておきながら、1万ドルで手を打つなんざ、この犯行、金目当てじゃないかもしれんな。」
「じゃ何が目的だってんでい?」
「おチビちゃんも元気そうだし、涙声でもなかった。待遇は悪くなさそうだ。こんな時間なのに、空腹も訴えていない。ということは、つまり、子供を手に入れること自体が目的だと考えられなくもない。」
「子供を売り飛ばそうってのか?」
「いやいや、子供を売り飛ばすような奴は金に困っているから、身代金の値引きなんかせずに、1日待ってでも要求額を通すだろう。……奥さん、旦那は子供を可愛がっていたか否か教えてもらいたい。」
「ええ、とても可愛がっていたわ。私によりもずっと、子供達の方に愛情を注いでいたと言ってもいい位。……もしかしてハンニバルさん、これは夫の仕組んだ狂言誘拐だと仰りたいんじゃない?」
 1万ドルを数えながら2人の話を聞いていたクレアが言う。
「その通り、鋭いねえ。従って、金は隠れ蓑かあるいは現行犯の個人的な単独行動であり、金を持っていっても子供が解放される可能性は少ない。」
「でも、持っていかないよりはましだわ。」
 1万ドルを茶封筒に入れて、テープで封をする。
「子供を救出して犯人を捕まえる方が、さらにまし。」
 ハンニバルが、ここに来て初めてにっかりと笑った。



 ファターニェーロシュから2人が出てきたのを見て、店の向かい側(反対車線)の路傍にワゴン車を停めていたフェイスマンが、店の脇にいるはずのマードックに連絡を入れた。
「モンキー、出てきたよ。」
『了解。尾行開始しま〜す。』
 マードックがしばらく尾行を続けていると、やっとのことでUターンをして追いついてきたフェイスマンの車が、バックミラーに映った。時々交代しながら、社長の車を追う。
 国道を逸れ、州道に入り、さらに市道を行き、獣道に近くなった所で車が停まった。そこはモーテルの駐車場だった。
「お決まりのコースってヤツ?」
「芸がないねえ。もっと個性的にやらなきゃ。例えば、ロマンチックな夕食の後は、海辺へ行ってナマコをいじめるとか、フナムシの数を数えるとか。」
「……モンキー、その道のオーソリティーである俺が助言するけどな、それ、実行しない方がいいぞ。」
 物陰に車を隠してきたフェイスマンとマードックが、ケニーとダイアンの入っていった部屋の裏窓に忍び寄る。
「新しいカメラ、電池とフィルム入ってるか?」
 フェイスマンの問いに、マードックが首から下げたカメラのバッテリー確認ボタンを押し、フィルムカウンターを見る。
「両方とも入ってる。フィルムは高感度36枚撮り。」
「すぐにフラッシュ焚けるか?」
 フラッシュのスイッチを入れる。
「あと10秒待って。…………はいOK。」
 マードックにしては完璧である。こういう時に限って、カーテンがびっちり閉まっていて、中が見えなかったりする。
「お前、ここで待ってろ。俺は車に戻って、中の物音なり会話なりを聞いてみるから。」
 フェイスマンが中腰のまま、車の方に去っていった。マードックはカメラを窓に向けて構え、カーテンが開く時を心待ちにして、その場に座り込んだ。



 プルルルル、プルルルル。
 2度のコールでクレアが受話器を取り、録音ボタンを押す。
「はい、アップチャーチです。」
『奥さん、俺は誘拐犯だ。』
 嗄れ声ではなく、よく通るバリトンだった。
「あなた、さっきの人じゃないわね。1万ドルは用意できたわ。どうすればいいのかしら? 娘には何もしていないでしょうね? もう一度、娘の声を聞かせてちょうだい。」
 電話の向こうで、しばしの沈黙と、続いて何か言い合いが起こる。
『娘は寝ている。代わりに、旦那の声を聞かせてやろう。』
「ケニーの?」
『そうだ、旦那も預かっている。』
『クレアか? 俺だ。むむむぐーっ!』
 旦那が猿轡を噛まされた様子。
『その1万ドルに加えて、旦那の身代金として、おたくの書斎の金庫に入っている株券を全て持ってきてもらおう。用意は30分もあればできるな? その頃また電話する。』
 受話器を握り締めたまま、クレアはコングとハンニバルを振り返り、呆然とした表情で呟いた。
「今度は夫まで誘拐されたわ……。」
「旦那にゃフェイスとモンキーが張りついてんじゃなかったのか?」
 コングがくず折れそうな彼女を支えて、ハンニバルを見る。
「どうなってんのか、聞いてみましょ。」
 ハンニバルは、トランシーバーのスイッチを入れた。
「フェイス? 俺だ。そっち、何か変わったことなかった?」
『あの2人、モーテルに入ってったんだけど、中の様子は判んないし、タイピンの盗聴器は壊れちゃったみたいで……。』
「手掛かりになりそうなことは?」
『今、盗聴したのを録音しといたテープ聞いてたら、部屋に入ってすぐ、旦那が“誰だ、お前は?”って言って、その直後に盗聴器が壊れてんだよね。』
「子供の声とかは録音されてないか?」
『子供の声? 何で?』
「お嬢さんだけじゃなくて、旦那まで誘拐された。今さっき電話があってな。」
『……それホント? だって、旦那の車、まだここにあるし、旦那がモーテル出ていった気配もないんだよ。』
「じゃあ旦那はそこにいるんだな?」
『十中八九、いるね。子供はいるかどうか判んないけど。』
「よし、引き続き見張ってろ。」
 トランシーバーを切り、ハンニバルがクレアに向き直る。
「旦那の居所は判ってるが、子供の方は判らん。……それにしても、何がどうなっているのやら、さっぱりだ。シビルちゃんの誘拐は旦那の差し金じゃなかったらしいな。」
 再び腕組みをして考え込むハンニバル。
「取りあえず、私、株券を用意してきます……。」
 書斎に向かうクレアの後ろ姿を、コングは無言でじっと見つめていた。



 プルル。
「はい、アップチャーチです。」
 1回目のコールの途中で、クレアは受話器を取った。もちろん、録音ボタンを押すのも忘れない。
『用意はできたな。』
 最初に電話をかけてきた嗄れ声の男だった。
「できました。」
『受け渡し場所を言う。メモの用意はいいか。』
「どうぞ。」
 犯人の告げた場所を書き留める。
『そこから車で10分もあれば着けるはずだ。1人で来い。』
 電話が切れ、早速クレアは金を入れた封筒と、株券を入れた封筒を抱えて家を出ようとしたが、玄関に至る一歩手前でコングに呼び止められた。
「……クレア、これ、お守りだと思ってつけてくれ。」
 コングが彼女に差し出したのは、花のような(でも何だか判らない)形をしたブローチだった。
「有難う。つけてくれる?」
 薄緑色のワンピースの襟元に、体に触れないようにそっとブローチをつける。
「じゃあ行ってくるわね。」
「気をつけてな。」
 玄関の扉が閉まった。
「コング、敵に気づかれないようにするんだぞ。」
「発信器があるから大丈夫でい。」
 今し方クレアにつけたブローチは、発信器つきであったのである。でなければ、デザインもヘンテコだし、Aチームが、特にコングがわざわざそんなことをするはずがない――いや、するかも。
「も少ししたら追いかけるぜ。」



 5分後、クレアの後を追おうと外に出たコングが見たものは、彼女が乗っていくはずの車だった。しかし、発信器から出る信号は、着実に遠ざかっている。
「ハンニバル、てえへんだっ!」
 慌ててリビングルームに飛び込むコング。応接間は電話がないので、作戦室(アジトとも言う)はリビングルームに変更されている。
「クレアがどっか行っちまった!」
「何?!」
 レシーバーを覗き込んだ後、ハンニバルは指定された受け渡し場所の住所を見た。
「丸っ切り違う方向じゃないか。どうしたんだい、奥方は?」
 クレアを追おうにも、子供の誘拐が狂言でなく、旦那も誘拐されているとあっては、金の受け渡し方法と場所が急遽変更になったのかもしれないし、彼女1人で来るように言われている以上、犯人にこちらの姿を見られては困る。どうすべきか、ハンニバルにも判らなくなっていた。コングにも判らない。ソファに沈み込む2人。静かに時が流れていく。
 プルルルル、プ。
 ハンニバルが受話器を取った。
「はい、アップチャーチです。」
『貴様、誰だ?』
 嗄れ声が尋ねる。ハンニバルは一瞬戸惑ったが、録音ボタンを探し当て、それを押した。
「留守番の者だが、あんた誘拐犯人?」
『そうだ。早く金を持ってこい。』
 ハンニバルは腕時計にちらりと目をやった。
「20分前に出たが、まだそっちに着いてないのか?」
『まだ来ていないから、こうして電話しているんだ。』
「1つ確認しておきたいんだが、受け渡し場所はさっきの電話の時にメモした場所でいいんだな? ここにメモがあるんで読み上げるぞ。」
 はきはきと読み上げるハンニバル。少し軍隊調。
『間違いない。一体どうしたんだ?』
「道に迷っているのか、車が故障したのか……。とにかく、彼女が持つものを持って家を出たのは確かだから、もう少し待ってみてくれ。」
『……仕方ない。もうしばらく待ってやる。』
 受話器を置いたハンニバルがコングに向かって口を開きかけ、コングもハンニバルに何か言おうとした時、またもや電話が鳴った。
 プル。
「はい、アップチャーチだ。」
『あんた誰?』
 失礼極まりない電話の主は、若い女性のようだった。
「ジョン・スミス。アップチャーチ夫人の友人で、今は留守番を頼まれている。そちらさんこそ何者?」
『誘拐犯。奥さんの身柄、あたしらが預かってるから。こっちの要求、まだまとまってないし、また明日連絡するわ。じゃあね、スミスさん。』
 再度受話器を置き、録音を停止させ、今度こそはコングに言いたいことを言おうとしたハンニバルだったが、先を越された。
「ハンニバル、クレアからの信号、動かなくなったぜ。」
「だろうな。今の電話、夫人を誘拐した犯人からだったよ。幸いにも、まだ金と株券には気づいていないようだ。」
 信号の発信源が動かなくなって当然である。この時代、まだ自動車電話は高級品だったし、携帯電話も登場していない。クレア誘拐犯からの電話は、通話も手短だったし、周囲の雑音からして公衆電話でかけられたものであろう。
「コング、旦那と子供の方の誘拐犯は金の受け渡し場所を変更していないし、夫人も誘拐されたと確定した。よって、軍曹、夫人救出を命ずる。金と株券もな。」
 リーダーの命令を聞き、コングはニヤリと笑って拳に力を込め、ドカドカと部屋を出ていった。



 リビングルームに1人残り、ハンニバルが柄にもなく宙に向かって呟く。
「しかし息子とやらは一体どこへ行ったんだろう……? アップチャーチ家の最後の1人まで誘拐されていないといいんだが……。」
 そして彼は頭の中で、今までの出来事と、アップチャーチ家の背景を整理し始めた。
“旦那のケニーは大企業の社長だから、金目当ての誘拐も怨恨の線も考えられる。娘のシビルはまだ4歳だから、怨恨は関係ない。夫人のクレアも、人柄から言って、他人から恨みを買うようなことはあり得ない。息子ラルフ7歳は全くの行方不明。現在、4人家族の4人共が不在。あと、夫人から聞いた話では、旦那側の両親は既に他界、兄弟もなし。夫人サイドでは、兄弟姉妹は遠方に在住、母親は他界、父親は例の万年中尉。ひょっとすると、マクマホン中尉も危ないかもしれん。ガードをつけておくべきだな。さて、犯人に関してだが、電話をかけてきたのが3人。男2人に女1人。女の方は話からして2、3人の、それも女ばかりだろう。男2人の方は、同日に同じ家の者が誘拐されたからってだけで同一グループだと信じ込んでいたが、個別なのかもしれんな。何せ、現に別口の犯人が夫人を誘拐したんだ。同じ日の内に別々の犯人がファミリーのそれぞれを誘拐する可能性がないとは言い切れん。フェイスの話からしても電話口の様子からしても、旦那のいる場所に子供がいる気配はなかったし、今さっきの電話でも“金を持ってこい”とは言っていたが“金と株券を持ってこい”とは言わなかった。嗄れ声の男が子供をさらって金を要求し、通る声の男が旦那をさらって株券を要求していて、さらに通る声の男は、夫人の話から子供も誘拐されていると知って、それに便乗したわけだ。こう考えると、電話の録音内容も結構納得がいくな。……ところで秘書はどういう立場なんだろうか。旦那とモーテルに入ったところでたまたま強盗に遭い、その強盗犯が旦那の身分を知って誘拐に及んだのか、誘拐犯が秘書を脅して旦那を誘惑させて連れ出したのか、秘書もグルなのか……。そう言えば、旦那のボディーガードは何をしてるんだ?”
 頭のこんがらがりが大分ほぐれてきたので、ハンニバルはトランシーバーを手に取った。
「あー、フェイス? そっちは何か変化あった?」
『全然ないよ。静かなもんさ。そっちは?』
「夫人まで誘拐されて、今、コングが救出に行ってる。お前かモンキーか、どっちか手空いてない?」
『どっちも空いてるよ。何?』
「万年中尉の護衛をしてもらいたいんだが。」
『何で、あんな爺さんを?』
「アップチャーチ家関係者でこの近辺にいて、行方不明や誘拐されてない最後の1人だ。事情通なら彼を狙うかもしれんし、既に誘拐犯となっている輩がこの状況を察知して、身代金の要求が彼に行くかもしれん。」
『失語症なのに?』
「失語症だからだ。誘拐しやすい上に、要求は絶対に飲まない……いや飲めないから、判断はアップス社に任せられるだろう。会社は万年中尉より金持ちだ。」
『なるほどね。』
「というわけで、1人病院に行ってくれ。」
『OK、了解。』



 フェイスマンとマードックの2人は、モーテルの裏では監視しにくいため表側の木陰に隠れている。今、フェイスマンがマードックに事情を説明し終わり、どちらが退役軍人病院に行くかを決定すべく、じゃんけんが行われようとしていた。
「勝った方が行くか残るかを選ぶ。いいな、1回勝負だぞ。」
「あいこの時は?」
「だからー、どっちかが勝つか負けるかするまでやるの。」
 2人の場合、どちらかが勝てば、もう一方は必然的に負けるに決まっているのだが。
「グーはチョキに勝って、チョキはパーに勝って、パーはグーに勝つんだよね。」
「そーだよ、古今東西の常識だろ。」
「オールマイティーは禁止?」
「何、そのオールマイティーってのは?」
「あれ、知らない? これ。」
 とマードックが実演して見せる。親指と人差指でチョキを作り、残った指を掌にかからないように握ってグーを示し、掌がパー。一度に3種類が出せる。
「そんなローカル・ルールはなし。じゃあやるぞ、じゃーんけーん……。」
「“ちっけった”じゃないの?」
「“ちっけった”とか“ちっちのち”とか“石紙鋏”とかはローカルなの!」
「“ちっちのち”はベーゴマじゃなかったっけ?」
「どーでもいーでしょ、そんなこと。はい、やるよ、じゃーんけーん……。」
「じゃんけんの後は、ぽん? それとも、ぽい?」
「普通、ぽん、だろ?」
「最初はグー、は?」
「なし。」
「チョキの手の形は?」
「人差指と中指。親指と人差指はローカルなの。」
「人差指と中指の角度は?」
「20度から30度の間。他に質問は?」
 首を横に振るマードック。
「何でじゃんけん一つにこんな時間かけなきゃいけないんだよ。それじゃあ行くよ。じゃーんけーんぽん!」
 マードックがチョキで、フェイスマンがグー。
「はは、やった、勝ったぞ。」
 何だか異常に喜んでいるフェイスマン。
「俺は残るからな。お前、病院に行け。」
「行ってきま〜す。」
 マードックはカメラをフェイスマンに押しつけ、車を隠しておいた方角へと闇の中を歩んでいった。



 既に寝静まっているが時として奇声の聞こえる退役軍人病院に潜り込んだマードックは、廊下を忍び足で進み、マクマホン中尉の病室の方へと向かっている。
 その時、懐中電灯の眩しい光が彼の姿を照らしだした。
「マードックさん、こんな所で何してるんですか?」
 見回りの看護夫が、彼の腕を取る。
「病室に戻りましょう。」
「いや、俺はちゃんと外出許可が出てて……。」
「外出許可は昨日一杯ですよ。」
「でも病室でじっとしてるわけにはいかないんだよね、俺。」
 マードックは掴まれている手を振りほどこうとしただけなのに、はずみで看護夫の顎を殴ってしまった。床に倒れた看護夫が体勢を立て直し、壁の非常ボタンを押す。あれよあれよという間に、屈強な看護夫がマードックを取り囲み、拘束服が着せられ、簡易移動ベッドにストラップで固定され、病室に放り込まれ、鍵をかけられた。
 こうしてAチームは、貴重な人員を1人失ったのである。



 誘拐犯からの電話の後、クレアの居場所を示す発信器からの信号は、またもや動き出してからすぐに止まった。それを追って、コングはロサンゼルス市内に入っていた。
 いかにも場末といった雰囲気の廃ビルが建ち並ぶ一角、この辺りに彼女はいる、と赤いランプの点滅が告げている。彼は車を停め、バンの後部から拳銃を1梃取ると、淀んだ空気の中を進んでいった。足元をドブネズミが駆け抜けていく。
 角を曲がると、車が1台停めてあった。場違いな程に光り輝いているそれは、決して大衆車ではなかった。怪しい、と思ったコングが周辺を見回すと、以前はテネメントであったろう朽ちかけた建物の2階から、微かな明かりが漏れている。
 軋む階段をできる限り静かに登って2階に上がると、目的の部屋のドアは開け放たれたままだった。扉自体がないのかもしれない。部屋の中からは、女の話し声がする。
「てめえら、観念しろっ!」
 コングが銃を構え、戸口に立ちはだかる。“きゃーっ!”という甲高い声が上がるのを予期していたが、それはなかった。Tシャツに擦り切れたジーンズ、サンダルといった姿の若い女が2人、木箱の上に座って渋々と両手を上げている。2人の間にはテーブル代わりの大きな段ボール箱。その上に金の入った封筒と株券の入った封筒が置いてあり、既に両方とも封が開いている。奥の壁際に、両手両足を縛られ猿轡を噛まされたクレアが横たわっていた。
「あんた何者? サツじゃないね?」
 少し年かさの女が尋ねる。
「あの人を助けに来ただけだ。サツじゃねえ。」
 クレアの方を顎で指し、コングが答える。
「でも、あたしらをサツに突き出すんだろ?」
「さあな、あんた達の出方次第だ。さ、あの人の縄を解け。」
「マーサ、解いてやんな。」
 マーサと呼ばれた女は、“動いていい?”という顔で、ちらりとコングを見た。コングがそれに頷くと、彼女はクレアの傍らに跪き、ロープと格闘し始めた。
「あんた達の名前は?」
 コングはマーサの座っていた木箱に座りながら聞いた。銃の狙いを外さずに。
「名前聞いてどうすんのさ。」
「そうさな、今すぐ引っ張ってかねえまでも、後でサツに垂れ込んでやろうか?」
 クックッとコングが笑う。どうやら冗談のようだ。
「……あたしはノーマ・ダービン、あっちは妹のマーサ。」
「ハーイ、あたしマーサ。よろしくね。」
 ロープを解きながらマーサが笑顔で振り返って挨拶する。
「で、どうして誘拐なんかしたんでい?」
「どうしてって? お金が欲しいからに決まってるでしょ。……ま、何でだか知らないけど、この人、大金持ってたから、ホントはこれだけ貰って帰してあげてもよかったんだけど、ちょっと欲が出てさ。ほら、貰えるもんなら貰っときたいし、お金なんていくらあっても、ある分には困らないし。」
「それにしても、何で今この人を誘拐なんか……。」
「この際だから全部喋っちゃうけど、あの豪邸の先にショッピングセンターがあるじゃない、あそこにすごく安い店があるんで、あたし達この通り貧乏だから、そこに買い物に行ったのよ。食べ物も尽きてきたし、ここ電気もガスもないからロウソクも必要だしね。行きは歩いてって、帰りは適当な車を盗んで帰ることになっててさ、もちろん車は後で売っ払うんだけど、帰りがけにあの家の前で、いつかはこんな家に住みたいねってマーサと話してたら、ちょうどこの人が出てきて、前に雑誌を立ち読みしてアップス社長夫人の顔は覚えてたから、誘拐しちゃおうかってことになって。」
「せめて電気とガスと水道のある所に住みたいからね。」
 ノーマの後にマーサが続けた。この部屋は仮のアジトではなく、本当の住処らしい。
「じゃあ、あなた方、トイレとお風呂はどうしているの?」
 猿轡の外れたクレアが不思議そうに尋ね、未だ手首のロープに手間取っているマーサが答える。
「トイレは公衆便所や店のトイレで済まして、お風呂は週に1回、バストイレつきの家に住んでる友達の所で借りてる。」
「まあ、大変ね。今度は家にいらっしゃい。そうだ、あなた方、子供は嫌いじゃないわよね。」
「あたしも姉さんも数年前まで孤児院暮らしだったんだから、子供嫌いじゃやってらんなかったわよ。散々小さい子の世話もしたしね。」
「お掃除とかお洗濯とかお料理とかはできるかしら?」
「掃除も洗濯も皿洗いも料理も、バイトで仕込まれたから完璧よ。いつも店長との相性が悪くて馘になってたけどね。」
「ちょうどいいわ。そんなにお給料は出せないけれど、家で住み込みの家政婦さんをやってみない?」
「おい、クレア……。」
 コングが“何言い出すんだ、この人は。離婚するつもりじゃなかったのか”と止めようとしたが無駄だった。
「これも何かの縁よ。今はちょっとゴタゴタしているから無理だけど、近い内に、どう?」
「あの家に住めるの? 毎日お風呂に入れる?」
 クレアがマーサに微笑んで頷く。
「あたしやりたい。姉さんはどうする?」
「もちろんあたしだって。こう言っちゃ何だけど、アイロンかけはマーサよりあたしの方が上手いんだから。」
「それは嬉しいわ。私、本当のこと言うと、アイロンかけって大嫌いなのよ。かと言って、何もかもクリーニングに出すとお金がかかるでしょう?」
「クレア。」
 話が長引きそうな気配を感じ、コングがストップをかける。
「先方がお待ちかねだぜ。」
「そうだったわね。それじゃあ悪いけれど、ノーマ、マーサ、お金と株券は返してもらうわ。」
 クレアが封筒に手を伸ばすと、ダービン姉妹の表情が暗くなる。それを見たコングはネックレスを一本外して、段ボール箱の上に置いた。
「18金だ。売れば500ドルにはなる。しばらくはこれで食いつないでろ。」
「サンキュー、黒いの。恩に着るよ。」
 ノーマはネックレスを手に取り、その重さを楽しんだ。
「じゃあまたね、奥さん。誘拐しちゃってゴメンね。」
 マーサが立ち去ろうとするクレアに手を振る。
「また会いましょう、マーサにノーマ。」
 コングとクレアはカビ臭い部屋を後にした。



 アップチャーチ邸で電話番をしていたハンニバルは、コングからクレア救出の知らせを聞き、直接取引の場所に向かうよう指示した後、マードックはどうしたのだろうかと訝りながらもトランシーバーを取り、フェイスマンに連絡を入れた。
「そっちに何か動きはあったか?」
『相変わらず何もなし。ああ、モンキーが病院に向かったけど、何か連絡入ってる?』
「いや、何も。……さてはモンキーの奴、見つかって監禁されちまったかな。」
『あり得るね。で、そっちは?』
「夫人を奪回した。今、彼女とコングは金の受け渡し場所に向かっている。」
『こっちにはそんな動きないよ。誰も部屋から出てないし。』
「ということは、旦那と子供の誘拐は別口だな。……よし、フェイス、よく聞け。その部屋の中には、旦那と秘書と犯人しかいないはずだ。そこでだ、お前、旦那を救出しろ。」
『俺1人で?! 銃もないのに? 犯人は何人?』
「1人か2人か3人程度だろう。ともかく何とかするんだ。」
 フェイスマンに言い訳する隙を与えずに、ハンニバルは通信を切った。



 モーテルの前で、フェイスマンは途方に暮れていた。腕力に自信のない彼としては、何か頼る道具が欲しかったが、ここにあるものと言えば、車とカメラだけだ。意を決して、彼はカメラを片手にドアをノックした。
「誰だ?」
 部屋の中から男の声が答える。旦那の声ではない。ましてや秘書の声でもない。
「ルームサービスです。只今の期間、お泊まりの皆さんに氷をサービスしているんですが。」
「ちょっと待て、今開ける。」
 カメラを目の高さに構えて待機するフェイスマン。チェーンを外す音と鍵を開ける音が聞こえる。
「ちょうど氷が欲しかったところだったんだ。」
 男がドアから顔を覗かせた瞬間、フェイスマンはシャッターボタンを押した。
 パシャッ!
 目の前で自動フラッシュが焚かれ、男は両手で目を押さえた。がら空きになったボディにフェイスマンが膝蹴りを食らわせ、男は呻きながら体を2つに折り曲げる。その後頭部にカメラで一撃を加える。
「動かないで、社長を撃つわよ。」
 部屋の中では、ダイアンがケニー・アップチャーチのこめかみに拳銃を突きつけていた。ベッドの上に転がっている旦那かつ社長のケニーは、猿轡に両手両足を縛られているといった古典的人質の姿。首から外されたネクタイは猿轡の役目を負っており、タイピンはドアの脇に落ちて踏まれている。
「……あなた、電話工事の人じゃない。」
 しげしげとフェイスマンの顔を見るダイアン。
「あは、覚えててくれた? 光栄だね。」
「その顔、忘れようったって忘れられないわ。」
 フェイスマンの方に気を取られているダイアンの持つ銃の下で、ケニーが目を開き、目線で合図をした。彼女に気取られないよう、小さく微かに頷くフェイスマン。
 突然ケニーが体をひねりながら腹筋を使って飛び起き、フェイスマンはダイアンの手元を狙ってカメラを投げた。見事カメラは彼女の手から銃を跳ね飛ばし、それを拾おうと屈んだ彼女にケニーが渾身のタックルを加える。
 左手で銃を拾ったフェイスマンが銃口をダイアンに向け、右手でケニーの猿轡を外す。
「助けてくれて有難う。君は……?」
「アップチャーチ夫人に別件で雇われてたんだけど、成り行き上、肉体労働を強いられた者、とでも言いましょうか。」
 手足のロープも解け、自由の身となったケニーは、手首をさすりながら立ち上がった。
「クレアには悪いことをしたな。あいつがいながら、こんな女に騙されてしまって……。」
「それは直接奥さんに謝って。ほら、この銃持って彼女に向けてて。動いたら撃ってもいいよ。」
 フェイスマンは銃をケニーに渡すと、ロープを持って、未だ気絶している男の上に屈み込み、その手足を縛った。
「次はあんたの番だよ、ミス・ミルフォード。」
 涎にまみれたネクタイを片手に持ち、もう一方の手でダイアンの腕を取ったフェイスマンは、彼女と共にバスルームに入っていった。その後をケニーが興味深そうについてくる。ネクタイを使って、シャワーフックとダイアンの両手首とをしっかりと縛りつけ、フェイスマンは彼女に優しく尋ねた。
「あの男は何者?」
 ダイアンは口を閉ざしている。
「アップチャーチさん、銃。」
 そう言われて銃を渡すケニー。銃を手にしたフェイスマンは、慣れた手つきでセーフティをロックし、マガジンを抜いて残り弾数を確認、スライドを引いてチャンバーの点検の後に、マガジンを戻してスライドを引き、セーフティ・ロックを解除した。
「もう1回聞くよ。あの男は誰?」
 眉間に銃口を突きつける。
「ウォーレン・スティール。ハイスクール時代からの私のボーイフレンドで、今はフィアンセです。」
「誘拐したのは社長だけ?」
「電話で子供が何とかとウォーレンは言っていたけれど、私達が誘拐したのは社長だけです。」
「何で社長を誘拐したの?」
「アップス本社ビルのある土地は、元々スティール家のものだったんです。およそ10年前までは、あそこに彼の一家の住まいと代々続いてきた大きな仕立屋があったんですが、それが無理矢理二束三文でアップス社に買い取られて即刻立ち退きを命じられ、仕事も家も奪われた彼の両親は心労で一挙に体を壊し、相次いで亡くなりました。」
「それは知らなかったな。申し訳ない、悪いことをした。」
 とケニーが頭を下げた。
「それで恨みに思って……?」
 フェイスマンが話を促す。
「ええ。ちょうど私は秘書の資格を持っていたので、アップス社に就職し、復讐の期が熟すまで待っていたんです。でも、その間に社長ご本人は悪くはないということが判りました。あの一件に関しては、財務に不正があったんです。」
「何だって! それは本当かい?」
 フェイスマンを押し退けるように、ケニーが前に出る。
「本当です。証拠も、私のデスクの中にあります。」
「それじゃ早速、社に戻って……。」
 そこにフェイスマンが割って入る。
「あのさ、盛り上がっているところ水を注すようで悪いんだけど、おたくのお嬢さんも誘拐されてて、ついさっきまでは奥さんも誘拐されてて、結構切迫した状況なんだけど。」
「何だって! それは本当かい?」
 デ・ジャ・ヴュ。
「済まないがダイアン、その話はまた明日でいいかな? そうだ、明日の昼食、ウォーレン君も呼んでくれ。場所は君に任せた。じゃ、また明日。おやすみ。」
 早足で出ていこうとする2人に、ダイアンが叫んだ。
「社長! これを解いて下さい!」



 フェイスマンからの報告を聞き、シビルをさらった犯人の要求は金だけだと確信したハンニバルは、その旨をコングに伝えた。留守番にも飽きたので、もう電話がかかってくることもないだろうという正当な理由をつけて、彼はトランシーバー片手に、マードックの様子を見に行くことにした。



 ひっそりと人気ない空き地には、背の高い雑草がぼうぼうと生えている。紺色地に赤いラインの入ったバンが指定された取引場所の前に停まった。運転席にはクレア。コングは後部シートの間に隠れている(本人はそのつもり)。
 彼女は金の入った方の封筒1つを手に取り、車を降りた。
「遅かったな。」
 雑草の向こうから、微かに嗄れた声がした。
「金をそこに置いて帰れ。」
「娘は?」
「私が無事に帰りついたら解放する。」
「必ず帰してくれるのかしら?」
「絶対だ。約束しよう。……何をしている?」
 クレアが何かごそごそとやっている。
「封が開いてしまったから止めているのよ、ブローチで。私がここに封筒を置いて、あなたがそれを取るまでの間に、風が吹いてお金がばらばらに飛んでしまったら大変でしょう?」
 彼女は封筒を逆さに振って見せた。
「これで大丈夫。」
 足元の密生したカタバミの上に封筒を置く。
「約束よ、必ず娘を帰して。」
「判った。」
 踵を返して、クレアは車に乗り込んだ。すぐにエンジンをかけると、Uターンし、元来た道を戻る。
「シビルは犯人が戻ってから帰されるようよ。封筒にブローチをつけておいたわ。」
 後部座席から助手席へと移動してきたコングの方に一瞥を向け、クレアは視線を前へ向けた。
「発信器の説明を聞いておいてよかったわね。」
「ああ。……そろそろ運転代わらねえか?」
 角を曲がった所で車を停め、運転席と助手席を交代する。ちょうどその時、発信器からの信号が動き始めた。
「追跡開始だ。」
 コングはゆるゆるとバンを発進させた。



 ダイアンの縛めを解き、モーテルを後にしようと表に出たフェイスマンとケニーの行く手を、4、5人の男達が遮った。
「あんた、アップスの社長さんだよな。」
 中の1人が、前に進み出て言う。
「何だい、君達は?」
「おたくの会社に因縁つけられたメーカーの者だがね、お蔭でどこの小売店もうちの商品を扱ってくれなくなっちまって、こちとら商売上がったりだ。」
「因縁を? 何かの間違いだろう。一体、何て会社だい?」
「ロックウッド・ウォーター有限会社だ。俺は社長のステイシー・ロックウッド。後ろの奴らは側近の幹部共だ。」
「ああ、あの10ガロン入りミネラルウォーターの。あれは仕方ないよ。ラベル通りシエラネバダ山脈の湧き水には違いないし、成分表示も間違っちゃいないけど、微生物から小動物や昆虫の死骸まで入っていたんだから。」
「だから、ちゃんと《飲用には不向き》と書いてあるだろ。」
「箱の底面に茶色い4ポイントの活字で書いてあっても、誰も気がつかないよ。うちの社員だって、たまたま階段から落としてしまったから、下敷きになった者が偶然気づいたまでで……2人、怪我人が出たが……。そう、それにあれは大きすぎる。パッケージ含めて40キロもあるんだからね。」
「どうしても、うちと取引しねえってのか?」
「どうしても、おたくとは取引できないね。」
「……そう言われて引き下がる俺様じゃねえからな。」
 手に手に鉄パイプやバットを持った野蛮な社長とその幹部連中は、今にも襲いかからんばかりの体勢で、ケニーとフェイスマンを取り囲んだ。
「野郎共、やっちまえい!」
 ロックウッド社長がそう叫んだが、誰も鈍器を振り下ろそうとはしなかった。フェイスマンが銃をロックウッドに向けたからだ。
「旦那、先に車に乗ってエンジンかけといて。」
 フェイスマンはケニーを先に円陣から出して行かせ、ロックウッドの襟首を掴んで胸に銃口を押し当てた。その姿勢のままじりじりと車の所まで後退する。運転席のケニーが、助手席のドアを開けた。ロックウッドを突き飛ばし、素早く乗り込むフェイスマン。
「早く出して!」
 ロックウッドの頭に銃を投げつけ、ドアを閉めながらフェイスマンが言うと、ケニーはアクセルを思いっ切り踏み込んだ。後ろでロックウッド他数名が口々に叫んでいる。
「待て! 逃げる気か?! 契約書にサインしろ!」
 やれやれとシートに身を沈めようとしたフェイスマンは、バックミラーに、2台の車に分かれて追ってくる彼らの姿を認めた。ケニーも、それに気づいたようだ。
「何で銃を投げつけたんだ? 持っていればよかったのに。」
「あれ、不良品なんだよね。バレルが歪んでて、弾が飛ばないだけじゃなくて、撃つと右手が吹き飛んじゃうかも。」
 バン!!
 後方で短い破裂音が聞こえ、2台の後続車の内の先頭を走っていた方の車が道を逸れて停まった。
「ほらね。」
 フェイスマンはケニーに笑って見せた。



 発信器の信号を追って車を走らせていたコングとクレアは、やっとのことで発信源のすぐ近くまで辿り着いた。
「あら、大分遠回りしたけれど、ここ、家の近くよ。……ねえ、あそこじゃない?」
 クレアが比較的新しい分譲住宅のコロニーを指差した。他に家らしい建物がないのだから、そうに違いない。
 2人は車を停めて歩道の上に降り立った。赤ランプの点滅が歩みを進める度に速くなり、遂には点灯に変わる。
「この家だな。」
《ベン・タッカー》と表札が出ている家の前で、コングは足を止めた。ドアチャイムのボタンを押す。間違って関係ない人の家のドアを蹴破るのは、コングでも嫌だったから。
『はい?』
 スピーカーから聞こえたのは、聞き慣れたあの嗄れ声だった。間違いない、ドアを蹴破っても許される。そこで、コングはドアを蹴破った。
 その音に驚いて、慌ててインターホンのある台所から飛び出してきたのは、白髪混じりの初老の男、タッカー氏だった。
「シビルはどこだ?」
 銃口を向けられて、彼はホールドアップの姿勢を取った。
「に、2階の寝室で眠っている。今、家まで送っていこうと思ったところだ。」
 クレアが階段を駆け登っていく。
「金を返してもらおうか。」
 コングは左手をタッカー氏の方に突き出した。
「台所のテーブルの上だ。」
「じゃそっちに行け。」
 台所に入っていくタッカー氏の背に狙いを定めたまま、その後をついて行くコング。白木のテーブルの上に、ブローチを上に向けた封筒が、手つかずの状態で置いてあった。
「私は……警察に行くのか?」
「クレア次第だな。」
 封筒を持ったコングが、項垂れたタッカー氏に答える。
「……クレアと言うのか、社長の奥方は。知らなかったな。」
「あんた……アップスの社員か?」
「元社員だ。半年前までは社員だったが、人員削減で馘になった。私が1日かけてやる仕事を、コンピュータが1分でこなすようになったからな。」
「馘になった恨みを晴らそうって魂胆か。」
「いや違う。馘にはなっても、直々に新しい職場を紹介してもらったので、アップチャーチ社長を恨んではいない。」
「じゃ何で誘拐なんか……?」
「金が欲しかったんだ。その新しい職場が先月潰れて、この家のローンも、車のローンも残っているし、私の微々たる貯金だけでは心許なくて……。妻も子供も、私に愛想を尽かして出ていってしまった。」
「奥さんも子供もいねえんなら、この家、売っ払っちまって、その金で、あんたはもっと小せえアパートか何かを買って住みゃあいいだろ。仕事だって、あんた真面目そうだから、選り好みしなきゃ何かしらあるぜ。」
「……そうか……そうだな。なぜそのことに気がつかなかったんだろう。いやあ、有難う、君。お蔭で目が覚めたよ。」
 その時、シビルを抱いたクレアが台所に顔を出した。
「奥様、済みませんでした。」
 いきなり謝られて、彼女が驚いた表情を見せる。その後、優しい笑顔を浮かべた彼女は、タッカー氏に近寄った。
「いいのよ、お金も戻ってきたし、シビルも元気だし……おねむだけど。私も、あそこの空き地で蚊に食われただけだから。あと、靴が少し汚れたかしら。」
「それじゃあ、警察には……?」
「警察に話したら、騒ぎが大きくなるだけでしょう? もうこんなことしないって約束してくれれば、それでいいわ。」
「有難うございます。約束します、もうこんなことは二度といたしません。」
 クレアの優しさに心を打たれ、感涙に咽ぶタッカー氏。コングはその間を利用して、彼が犯行に及んだ事情をクレアに説明した。
「ねえ、タッカーさん。何か趣味とか特技とかある?」
 シビルをコングに押しつけたクレアは、タッカー氏の顔を覗き込んで聞いた。
「特技は簿記と珠算、趣味は庭いじりです。」
「庭いじり?」
「小さな裏庭しかありませんが……。」
 その裏庭を見に、クレアが庭に面した窓に駆け寄る。アジサイの季節は終わってしまったので青系統の花はないが、色とりどりのバラ、オニユリ、カノコユリ、マツバボタン、ホウセンカ、タチアオイ、小振りのヒマワリなどが、狭い庭を飾っていた。もっとも今は夜なので、大方の花が閉じている上に、暗くてよく見えない。
「お願い、タッカーさん。庭師として雇われて。そして、あんな素敵なお庭、うちにも作って。」
 台所に駆け戻ってきて、クレアが言う。コングが、またかよ、という顔をする。
「いいですけれども……本当に私なんかでよろしいんでしょうか……?」
「何を言うの、私はあなただからそう言ったのよ。あなたがいいの。明日からでも来てくれるかしら? ああ、コング、後で表のドアを直して差し上げて。」
「本当に何から何まで有難うございます、奥様。」
「こちらこそ、よろしく。うちの庭、広いわよ。覚悟しておいてね。」
 ぎゅっと手を握り合う2人。コングは早く帰りたかった。多分、シビルもそう思っているだろうが、今はコングの腕に抱かれて熟睡している。



 アップチャーチ邸へと向かうバンの運転席にはコング、倒した後部シートには熟睡中のシビル、その隣の席にはクレア。
 あと数十メートルで敷地内という所で、コングが車のスピードを落とし、2人は前方に目を凝らした。一本道の遠く正面から、車が猛進してくる。
「ケニーの車よ! 追われているのかしら?」
「多分そうだろ。後ろに蠅がくっついてるぜ。」
「コング、銃を借りるわ。」
 助手席のシートに乗せてあった拳銃を掴むなり、クレアはサンルーフを開け、シートの上に足を乗せると、ルーフに身を乗り出して銃を構えた。
「クレア、撃つんならタイヤかラジエーターを狙え!」
「判ってるわよ!」
 コングの助言に、頭上から返事が返る。
 バキューン!!
 弾はタイヤに当たり、ロックウッド達を乗せた車は勢いよく3回横転した後、ゆっくりと前転を半分して逆様になった。
「やるもんだな。」
 サンルーフを閉めて、銃を元あった場所に戻すクレアに、コングが彼なりの賛辞を贈った。
「そりゃあね。万年中尉の娘ですもの。」



 フェイスマンとコングはポーチの階段に腰を下ろして、2台の車の間で久々の再会に長い抱擁を続けているクレアとケニーを眺めていた。コングの膝の上には、依然として眠っているシビル。
「離婚の話、どうなっちまったんでい?」
「それよりも今回の仕事、ハードだった部分は契約外なんだけど、別料金催促していいのかなあ?」
「……おい、フェイス、旦那が謝ってるみてえだぞ。」
「浮気の件だよ。あの様子だと、離婚はしないんじゃない? ……あれ、今度は夫人が何か説得してるようだけど?」
「ああ、途中で3人ばかり使用人を雇っちまったからな。」
「ところで、ハンニバルとモンキーは?」
「……帰ってきたようだぜ。」
 ハンニバル運転の車が、助手席に拘束服姿のままのマードックを乗せて現れた。
「いや、遅くなって済まんね。万年中尉の方は、思ったより厳重に監禁されていたから大丈夫。そっちは一件落着した?」
 ポーチにどっかりと座り込むハンニバルに、フェイスマンがクレアとケニーを指し示す。
「……したようね。あ、その子が噂のシビルちゃん?」
 コングが深々と頷く。その時、玄関の扉が内側から開き、1人の少年が恐る恐る顔を覗かせた。
「……おじさん達、誰? そこで何してんの? ………あっ、ママ! パパ!」
 クレアとケニーをママ、パパと呼ぶ少年こそ、完全に行方不明だったラルフである。
「ラルフ!」
 駆け寄ってくる両親。
「あなた、遅くまでどこ行ってたの?」
「ママこそ。僕、家中捜しちゃったんだよ。」
 事情を知らないラルフは、クレアの頬ずりを受け、少し怪訝な顔をしている。
「連絡しないで遅くまで遊んでたことは謝るよ。ごめんなさい。放課後にベースボールした後、ウィルと一緒に公園で遊んで、その後、奴の家で夕飯をご馳走になって、それからずっとゲームしてたら遅くなっちゃったんだ。」
「じゃあ、明日ウォーカーさんのお家にお礼の電話をしないとね。今度からは、遅くなる時には必ず連絡してよ。」
「うん、判った。……そうだママ、あのね、ウィルのママもウィルのママのお姉さんも、結婚するまでハンガリーの人だったんだって。それで、夕飯の後にウィルのママのお姉さんが来て、お店の残り物だけど夜食に、って言って、赤い色した変なシチューをほんのちょっとくれたんだけど、あんまり美味しくなかった。でも、僕、美味しいですね、って言ったの。その人ね、この近くでハンガリー料理のお店やってるんだって。ねえ、知ってる? ファター何とかって言うの。」
「ええ、知ってるわよ。ファターニェーロシュでしょう?」
 ハンニバルとフェイスマンが、ちらっとケニーの顔色を窺ったが、彼は素知らぬ振りをして夜空の星を眺めていた。
「それそれ。それって英語じゃないよね?」
「ハンガリー語のお料理の名前よ。今度食べに行く?」
「ううん。あんなの、もう食べたくないよ。ママがお店開いたら絶対食べに行くけどさ。ママの料理、最高だもん。」
「有難う。でも、お店なんて開かなくても、あなた毎日食べているじゃないの。」
「あ、そうか。」
 母親との話が終わったラルフを、今度は父親が手招きした。
「ここのところ忙しくて、日曜にも遊んでやれなくてごめんな。その代わり、パパ一杯働いたから、夏休みが取れるようになったんだ。」
「ホント? やったね!」
「お前、どこに行きたい? ハワイか? マイアミか?」
「マイアミは、天気予報で大嵐だって言ってたからやだな。」
 別にずっと嵐だというわけではないんだが、7歳の判断力ならそんなものか。
「うーん、そうだなあ……。僕、涼しいとこがいい。」
「じゃあ、アラスカで鮭でも釣るか。」
 それ、涼しすぎ。
「さあ、みんな、いつまでもこんな所で話してないで、家に入りましょう。Aチームの皆さんも、ご苦労さまでした。中でアイスコーヒーでもいかが? クッキーもまだあるわよ。」
 ちょっと重い腰を上げたAチームと、家族の和が保たれたアップチャーチ一家が、ぞろぞろと家の中に入っていく。
 拘束服のマードックは、まだ車のドアを開けられないでいる。



 それから1週間が経った。またもやウィークリー・マンション住まいのAチーム3人(マードック除く)は、アップチャーチ夫妻との会食を終えて、今、マンションの廊下をゆったりと歩いている。
「見てよ、これ……2万ドルの小切手!」
《仕事の報酬とお礼》と書かれた封筒を開いたフェイスマンが、小切手をひらつかせながら、ステップを踏んで喜ぶ。
「ノーマもマーサもタッカーさんも、アップチャーチ家で真面目に働いてるようでよかったぜ。おい、ここ読んでみろよ、ハンニバル、シビルの奴やたらとタッカーさんに懐いてるんだってよ。ノーマとマーサは駐車場にフープ作って、ラルフとバスケしてるってえしよ。」
 コングが手にしているのは、今朝方集まって書いたという、3人からの手紙である。
「あっそう。」
 彼らと面識のないハンニバルは、あまり面白くなさそうに、気のない返事をする。
「……ねえハンニバル、鍵が開いてるよ。」
 彼らの部屋のドアノブに手をかけたフェイスマンが、さっと顔色を変えた。ノブから手を離し、耳をそばだてる。
「部屋の中で物音もする……。」
 フェイスマンは後ろのコングとハンニバルを振り返って、自分の記憶を確認する。
「俺達、3人揃って部屋を出たよね。鍵も、ちゃんとかけたよね。TVもラジオも目覚ましも、全部消したよね。」
「フェイス、何ビクビクしてんの。またモンキーが来てんでしょ。」
 薄笑いを浮かべたハンニバルがそう言いながら、カチャッと扉を開いた。
「動くな! 手を挙げろ、Aチーム!」
 部屋の中では、デッカー率いるMPの一団が彼らに向かって銃を構えていた。“動くな”に従うと“手を挙げろ”はできないことをMPは知らない。
「今度こそ観念しろ、スミス……。」
 デッカーが憎々しげに呟く。
「違ったみたい。」
 ハンニバルは慌てて扉を閉め、3人は廊下を走っていった。
【おしまい】
上へ
The A'-Team, all rights reserved