追い詰められちゃって
伊達 梶乃
 奥様の名前はブリギット、旦那様の名前は忘れたけど確か変な名前。名前以外ごく普通の2人は、レタス畑に囲まれたごく普通の豪邸に住んでいて、年上の旦那様は仕事一筋で奥様のことなんか放っぽっといてて、まだ若い美人の奥様は毎日退屈してて、そんなわけで、奥様はカモだったのです。
 最初のうちはね、と、純白のコンパチに乗ってロサンゼルス市内へと帰っていくフェイスマンは思った。
 事の始まりは1カ月くらい前。サンフランシスコに依頼を受けに行った帰り、あともうちょっとでロスなのに、という所で車がガス欠でエンコして、レタス畑の中にポツンと建っている豪邸の前で俺は途方に暮れていた。自動車電話はコングに壊されたまんまだったし、携帯電話はハンニバルに貸したまんまだったから。その時、彼女が車で出かけようとして、屋敷の門が開いて、俺たちは出会った。ガスを分けてもらって、お礼に食事に誘ったら奢ってもらえて、“ラッキー、脈あり”と思っていたのに……だいぶふんだくれる上に楽しめるなと思っていたのに――いつの間にか、俺の方が惚れちまってた。俺ともあろう者が。詐欺師だってのに、カモに心奪われるなんて。
 俺は彼女の名前をいつも間違える。ブリギット。何でブリジットじゃないんだろう? 俺が間違える度に、彼女は俺のことをトンプルテンと呼ぶ。この間、彼女に愛称をつけてやろうとして彼女のことを“ブリー”と呼んだら、それから約3時間、俺たちはベッドの中でチーズについて延々と語り合うこととなってしまった。
 俺は彼女のことをあまり知らない。彼女も俺のことをあまり知らない。彼女にとっての俺は、単なる楽しい浮気相手。でも、俺にとっての彼女は……何なんだろう?
 彼女は俺のことを知りたがらない。俺が話したことをきちんと記憶しているだけ。昔の仕事仲間と一緒にロスに住んでいて、今はみんな別の仕事をしていて、俺はみんなの身の回りの世話をしている――彼女は俺のことをそう理解している。今回、俺はほとんど嘘をついていない。有名な芸術家でもなければ、実業家でもない俺。夕飯を作るために帰っていく俺。それを無理矢理引き止めたりしない彼女。
 それでも俺たちは毎日会っていて、彼女は俺に毎日何かしらプレゼントをくれる。今日はトースターを貰った。俺が、トースター壊れちゃってフライパンでトースト焼いてるって話したから。溶かしバターたっぷりの中で焼いたパンも美味しいけど、大の男3人分焼くのは面倒臭いもんね。
 ちょっと変わってるブリー。「食べ頃のブリーチーズみたいにとろけてる」って言ったら、「垂れてる、の間違いでしょ」って笑ってた。ちょっと垂れてるかもしれないけど、まだまだ君は魅力的だよ。
 明日は、あの家のキッチンを借りて、俺が俺たちのためにランチを作る約束をした。あの家の使用人たちも、俺にすごく親切だ。一生、あの家に住めたらなあ、なんて考えたりしている――俺、かなり重症かな?



 午後5時30分。フェイスマンはアジトに向かって車を走らせていた。
 最近住まっているアジトは、ハンニバルが調達してきたもの。誰からどうやって拝借してきたのだかはわからないが、とにかく「来い」と言われた場所がそこだった。屋根も壁もある。最低限の家具調度品もある。窓は壊れていない。毎夏恒例の、クーラーの故障もない。家としては完璧で、一同、ハンニバルを見直した。唯一責めるべきことは、クーラー自体がなかったことだ。更に、素晴らしく壊れていない窓は、開きもしない(それを人は“壊れている”と言うのかもしれないが)。従って、日当たり良好一等地のこの家は、今や丸ごとサウナだった。
 そういったわけで、ハンニバルとコングは、毎日毎日飽きもせず真っ当な仕事に出ている。マードックは、病院から抜け出してこない――でもサイクルからして、そろそろ現れそうな気もする。
 あの蒸し暑い台所で夕食の準備をしなければならないなんて、毎日やっていることだけど、ぞっとする。
 ハンニバルもコングも、クタクタになって帰ってきて、外食はしたくないと言う。デリバリーは飽きたと言う。だから、フェイスマンは仕方なく夕食を作っていた。それだけでなく、朝食を作り、更には弁当まで作って持たせ、2人が家を出た後は、洗濯して、家中の掃除をして、買い物に出て(この辺りはサボり気味)……。まるで主婦の生活。アメリカの専業主婦は絶滅しかけていると言うのに。
 帰りたくないあまり車をノロノロと走らせ、種々の思いを頭に巡らせていたフェイスマンは、坂道に差しかかった所で、飽くまでも反射的にブレーキペダルを踏んだ。
 スカ。
“……スカ……って?”
 何度もペダルを踏み込んでみるが、足応えがない。
“ここで飛び出したら、俺は助かるかもしんないけど、車は助からないだろうなあ……。”
 こういう事態には、仕事柄、割と慣れている。
“ま、ギリギリまで頑張ってみましょうか……って、ハンニバルの口調移ってるよ〜。”
 坂道でブレーキパイプが故障していて、ここまで平常心を保てる人間は、そう多くない。“冷静”の域を越えている。
 坂道は約30度の下り坂。遥か下方に見える坂下はT字路。ハンドルを切り忘れても、標識に激突して、車のボンネットが凹んで……。
“修理に1000ドルはかかるよなあ。下手すると5000ドルくらい行くかも(涙)。”
 コングもハンニバルも働いている今、個人的な出費だけは何としてでも避けたいフェイスマンであった。
 ぐんぐんスピードが増してきて、現在、時速100マイルを多少超えたところ。ありがたいことに対向車はない――今のところ。右か左かにハンドルを切れば、左右に拡がるレタス畑に乗り上げて停まるかもしれない。が、側溝にはまって車ごと前転してしまうかもしれないし、側転まで加わるかもしれない。
 そうしているうちに、現在、時速120マイル、引っ込みのつかない速度。
“この後、車壊れなかったとしても、ブレーキパイプの修理代はかかるんじゃん!”
 それなら尚更、これ以上車を壊したくない。
 T字路はもう目前。どうする、フェイスマン!? 話は始まったばかりだ!!


〈オープニング入る。〉


「は〜……。」
 大きな溜息とともに、フェイスマンはアジトに帰り着いた。表には、壊れてはいないが(ブレーキパイプは別)泥だらけの車、フェイスマン自身は全身泥まみれで、頭にアメリカザリガニが乗っている。ジャケットのポケットから覗いているのは、カエルの下顎。トースターは行方不明。
「もー、やだっ!」
 グチる相手不在のため、それだけ言って、シャワールームにとぼとぼと向かうフェイスマンであった。



 シャワーを浴びて泥を落とし〔サービスシーン〕人心地ついたフェイスマンは、軽い部屋着を着て、室内履き代わりのエスパドリーユに素足を滑り込ませた。
「痛っ!!」
 両足の裏に鋭い痛みを感じて、本能的に靴を脱ぐ。見ると、両足の裏に1つずつ画鋲が刺さっていた。
「何だよこれ〜!?」
 画鋲の針は途中が一部太くなっているので、刺さったのを抜くのがまた痛い。刺さっている間はそう痛くないんだけどね。しかし、抜かねばならない。
「く〜……(涙)。」
 風呂に入る前だったら、破傷風にかかるところだった。ふう、危ない危ない。
「こんな悪戯、今時ないよなあ……。」
 独り言を言って、抜いた画鋲2個を壁に刺す。傷口には、念のためキップ・パイロール(フロ〜ム・ニュージャージー)を塗っておいた。



 指に残っているパイロールの臭いを嗅ぎながら台所に向かう途中で、ドアチャイムが鳴った。まだハンニバルやコングが帰ってくる時間ではない。表情を険しくしたフェイスマンは、システムキッチンの引き出しからベレッタを取り、ベルトに挟んでシャツで隠して、玄関に向かった。
 覗き窓から外を見ると、花を抱えた青年が1人。
「テンプルトン・ペック様にお花のお届けです。」
「花? 誰から?」
「ブリジット・オコノリー様からです。」
「ブリジット?」
「あ、ブリギット、です。」
 フェイスマンはドアを開けた。一抱えもある花束は、ヒマワリ、ストレリチア、インコアナナスにノウゼンカズラが巻きついていて、所々に青々としたイネが配してあって、モンステラで覆ってあって……少なくともバラの姿は見えなかった。いかにも彼女の趣味らしい。
 花束を受け取り、配達人にチップを渡したフェイスマンは、ドアの内側で、女性から花を貰うのも悪くないもんだな、と1人ニンマリした。
“でも、俺、彼女にここの住所教えたっけ? ……教えたかもな。”
 フィルムを外して両手で抱え、どこにどうやって飾ろうかとうろうろしていたのも束の間、信じ難いほどの痒みが両手を襲った。取り敢えず花束をバスタブに入れて、洗面所で手を冷やすように洗う。……この痒みは、多分、ウルシ……。
 次第に腫れぼったくなっていく両手両前膊を見つめ、フェイスマンは痒みを噛み締めながら天を仰いだ。
“何で彼女からの花束にウルシ塗ってあんだよ〜? これじゃ夕飯作れないじゃん。……あ、夕飯作んないでいいのか。作れないんだもんね。”
 オーマイゴッドがラッキーに変わる。
「ただいま帰りましたよ。」
 玄関の方でハンニバルの声が聞こえた。
「フェイス? ……フェイス! ……おーい、フェイス!!」
 フェイスマンのことを探し回っている様子。
「洗面所!」
 居所を告げると、程なくハンニバルがひょっこりと顔を覗かせた。
「フェイス、今日の夕飯は何だ? ……お前さん、どしたの、その手。」
 ぷっくりと赤いフェイスマンの手を見て、ハンニバルが目を丸くする。
「かぶれた。だから、今日は夕飯作れない。よって、夕飯なし。いいよね?」
 フェイスマンは痒い手をわきわきさせながら、きっぱりと言った。
「……そりゃあその手じゃ仕方ないが……俺は腹が減ってるんだぞ、1日の労働を終えて。」
 ハンニバルだって多少は分別のある大人、折れる部分は折れるが、折れたくない部分もある。
「外食してきて。」



 今、フェイスマンとハンニバルはリビングルームにいた。2人の間には医療キット。両手に包帯ぐるぐる巻きのフェイスマン。キットを片づけるハンニバル。
「お前もメシ食いに出るか?」
「そりゃお腹空いてるけど、この手で食べられると思う?」
 そう言って掲げられた両手は、陸軍大佐御自らの治療により、ありがたいことにミトン状態にはなっていない。
「和食、中華、ドーナツ、ハンバーガー、タコス、ピザは諦めることにしよう。フォークは持てるだろう?」
「……多分。」
 こうして、コングに書き置きをして、2人で食事に行くこととなった。
「コングへ。サムズ・ダイナーに行ってる。夕飯は作ってない。何だったら合流されたし。――これでいい?」
 再び着替えたフェイスマンが、ハンニバルに紙を突きつける。へろへろな字で書かれたそれを一瞥し、ハンニバルは苦笑を浮かべて頷いた。



“外食は嫌だ”と言っていても、やむにやまれぬ事情で外食を強いられることは、ここに住み着いてからも何度となくあった。そんな時に利用しているのが、徒歩10分ほどのサムズ・ダイナー。ちょっと歩くし、コーヒーは不味いが、料理はそう不味くない上に安い。
 ハンニバルとフェイスマンは2人並んでぽてぽてと歩いていた。今日あったことをお互いに話しながら。
 と、その時……。
「危ないっ!」
「え?」
 ハンニバルがフェイスマンにタックルを食らわせる。その直後、フェイスマンがいた辺りに地響きを上げて鉄骨が落ちてきた。ごくり、と唾を飲むフェイスマン。
 ハンニバルが立ち上がって、呆然としているフェイスマンに手を差し出した。
「大丈夫だったか?」
「あ……うん、ありがと……。」
 手を引かれて立ち上がったフェイスマンは、頭上を見上げた。建築中のビルの上の方で、切れたワイヤーが揺れている。いくら人通りの少ない裏道だからと言って、あまりにも不用心だ。危険極まりない。
「お前……狙われてるんじゃないか?」
 次に鉄骨を見つめていたフェイスマンに、膝の汚れを叩きつつハンニバルが聞いた。
「俺が? 何で?」
 フェイスマンは“そんなこと今まで思いも寄らなかった”という表情を一瞬だけ見せたが、それをすぐに曇らせる。
「何でかは知らんが、それ、お前めがけて落ちてきたし――
 それ、とハンニバルが顎で鉄骨を示す。コングより細身だが、コングより長く、コングより重そうな鉄骨。そして何よりも、鉄はコングより硬い(恐らく)。
「ブレーキパイプが切れてて、靴に画鋲が入ってて、花束にウルシが塗ってあったっていうのは、どう考えても、誰かの恨みを買っていない限り、1日のうちに偶然に続けて起こり得るもんじゃないぞ。」
 一生のうちにどれか1つだけでも、十分に恨まれているのでは、というのは一般人の考え。
「今後起こるであろうことは、植木鉢が降ってくる、靴が隠される、下駄箱の中に猫の死体が入っている、机の上にキクの花が飾ってある、机の中にヘビが入っている……。」
 それは校内いじめ。ショックを受けてるっぽいフェイスマンを元気づけるように冗談を言ってあげているのかもしれないけど、残念ながらフェイスマンは聞いてません。
「誰だろう、こんなに大がかりに狙ってくるなんて……。」
 見当つきすぎて、絞りきれない。
「差し当たっては――
 依然として鉄骨を見つめているフェイスマンの肩を、ハンニバルがポンと叩いた。
「メシを食おう。」



 サムズ・ダイナーから、フェイスマンはハンニバルに背負われて帰宅した。食後のコーヒーに痺れ薬が入っていたからだ。気がついたのは、コーヒーを全部飲んでしまった後。薬が入っていたのに気づかないくらい、サムズ・ダイナーのコーヒーは不味いのである。
「ごめんね、ハンニバル……。」
 ソファに寝かせられたフェイスマンが宙を見据えて言う。まだ手足は痺れているし、呂律も十分に回らない。でも、頭ははっきりしている。
「気にしなさんな。あそこに置いてくるわけにゃ行きませんからねえ。」
 今日のハンニバルは何だかとても優しくて、それが余計にフェイスマンには辛かった。〔これ、Aチームだよな?〕
「俺が不注意なばっかりに……。」
「お前さんがちょっとばかし不注意だってことは、昔っから知ってますよ。」
 ハンニバルは柔らかく微笑み、フェイスマンの額にかかった髪を指先で払い上げた。じっとフェイスマンの瞳を見つめるハンニバル。電灯がハンニバルに遮られる。
「……瞳孔は正常、1時間もすれば治りますって。」
「……だといいけど。」
 と、その時……。
“ガッシャーン!”
 壊れていない窓を壊して、何かが投げ入れられた。
「発煙弾だ!」
 ハンニバルが叫んで、煙を出している大本を探したが、既に煙モウモウで何がどこにあるのかわからない。諦めて窓に駆け寄り、窓を開けようと必死になる。
「ハンニバル、窓開かないんだってば!」
 ソファの上からフェイスマンが示唆する。
「そうか。」
 その事実を思い出して、今度はドアを開けに玄関へ行く。右手にはコルト・ガバメントを構えて。
 銃声がすることもなく、煙は玄関の方へ流れていった。
「大丈夫か、フェイス!」
 戻ってきたのはハンニバルではなく、コングだった。煙に燻された涙目で、フェイスマンは咳込んでいる。
「……お帰り、コング。ハンニバルは?」
 咳が治まってから、息をついてフェイスマンが言う。
「その辺見回りしてるぜ。もちっと早く帰ってくりゃよかったな。」
「……夕飯ないんだ、ごめん。」
「心配すんねえ。仕事仲間と食ってきたぜ。」
 コングがフェイスマンの肩を軽くポンと叩くと、彼は眉を顰めた。
「悪ィ、痛かったか? ハンニバルから聞いたぜ、今日お前、散々だったんだって?」
「……痺れが抜けてきてるとこなんで……悪いけど触んないでくれるかな。」
 フェイスマンはあやふやな笑みを向け、コングはホッとしたような顔を見せた。



 翌朝、コーヒーとコーンフレークのみの食卓(コングには牛乳)で、不十分に身だしなみを整えた、つまり身だしなみが整っていないフェイスマンが、真剣な表情でハンニバルとコングに告げた。
「報酬は1人1000ドル。」
「1000ドル? 一体依頼人はどこの子だ? それとも低額所得者か?」
 新聞の向こうからハンニバルが尋ねる(差別的発言)。
「子供や金に困ってる奴らは無理しねえでもいいのによ。」
 コングが2箱目のコーンフレークを開ける。
「依頼人は俺。」
 コーヒーを啜って、フェイスマンが言った。ハンニバルが新聞を下ろし、コングが箱を引き裂く。
「お前が!?」
 声を合わせて聞く。
「お前が1人あたり1000ドル払うってのか? お前の個人口座から?」
 限りなく疑惑に近い疑問に、ハンニバルが困惑する。
「お前が依頼するってんだったら、無理してでも1人につき1000ドル払えよ。」
 コングは飛び散ったコーンフレークを掻き集めている。
「俺が、俺の口座から、俺の貯めた金から、1人1000ドル払って仕事を依頼する。受けてくれるよね?」
 フェイスマンは、口許だけの笑みを、ハンニバルとコングに1回ずつ向けた。



 依頼人は、テンプルトン・ぺック、通称フェ〜イスマ〜ン。依頼内容は、彼を恨み、彼の命を脅かす犯人を割り出し、捕獲すること。加えて、彼の身辺警護。報酬は、1人1000ドル。ハンニバルは、前金で50パーセント支払うよう要求を出し、フェイスマンはそれを飲んだ。
「……しかし、何でまた、お前ともあろう者が、自腹切ってまで……?」
 本気で契約書(フェイスマン作成)に依頼事項を書き込んでいるフェイスマンに、ハンニバルが尋ねる。
「死にたくないから。」
「♪死にたくーない死にたくーない死にたくーないーとー、叫ぶおー前その声ーが小さくなってゆくぅ〜!」(c Jobless)
 玄関のドアをバーンと開けて、ギター抱えたマードック登場。
「てめえ、どうやって病院から出てきやがった!?」
 朝から血圧の上がるコングちゃん。
「昨日、中庭でライブコンサート開いてたんよ。そしたら、芸能プロダクション専務を名乗る怪しい男がオイラのこと誘拐して、地下室に閉じ込めて、オリジナル曲書かなきゃ命はねえって。だからオイラ、必死になって逃げてきて、今に至る。な、サイモン。」
 アコースティック・ギターに同意を求めると、彼(サイモン)はAm add9で応えた。
「……モンキー、それってどこからどこまでが嘘?」
 フェイスマンが興味をそそられ、無駄な気もするけど聞いてみる。
「ぜ〜んぶホントに決まってんだろ! ……俺っちの頭ん中ではね。あ、でも、コンサート開いたのはホントにホント。」
「じゃ、仕事行くとしますか。」
「俺も。」
 マードックを無視して、ハンニバルとコングがガタガタッと立ち上がった。
「仕事って、どっちの?」
 8時20分ちょっと前の眉毛でフェイスマンが尋ねた。
「撮影。」
「工場。」
「俺の依頼した仕事は?」
「何? フェイスが今回の依頼人?」
「まだ前金貰ってないからな。」
「現金で頼むぜ。」
「俺っちにも?」
「じゃあ俺、どうすればいいんだよ? これじゃ、金取りに銀行にも行けないじゃんか!」
「今日のところは特別料金でモンキーについててもらえ。」
「いいの? 俺も入って。」
「よかねえだろうけどな。」
「よかないよ、モンキーだけなんて!」
「サイモンもいるぜ。」
「心配ご無用。昼はホットドッグか何か買って食べるから。」
「ハンニバルの昼ご飯の心配なんかしてる場合じゃないんだってば。俺は俺のことだけで精一杯なんだからね!」
「帰りにアルバートソンで何か買ってきてやろうか?」
「あ、サンキュ、コング。牛乳とパンと卵と……待って、今メモするから。字、のたくってるけど我慢してね。モンキーの字よりは読めると思うけどさ。」
「俺、字、汚い?」
「字なんてもんじゃねえよ、ありゃあ。」
「お先に。」
「いってらっしゃい。……ねえ、コング、ターゲットで一番安いトースター買ってきてよ。」
「お安いご用だ。」
「じゃ、これ、メモとお金ね。」
「おう、行ってくるぜ。」
「いってらっしゃい。」
 そうして、フェイスマンとマードックだけが残った。
「で、フェイス、依頼って何なのよ?」
「あっ、そうだった! 忘れてた!!」
 しかし既にハンニバルとコングの姿はなく、この頼りないさすらいのシンガーソングライターだけがフェイスマンの唯一無二の心の拠り所となってしまったのだった――少なくとも夕方までは。



 そして夕方。
「帰ったぜ!」
 コングが食料品とトースターを抱えて帰ってきた時、家の中には膨れっ面で葉巻を吹かしているハンニバルと、ギターを弾いているマードックしかいなかった。それと、弾かれているサイモン。
「フェイスの野郎はどうした?」
 怪訝な顔で、留守番だったはずのマードックに尋ねる。
「出かけてった。」
「銀行にか? 何でお前ついてかなかった?」
「オイラ、さっき大佐に聞くまで、依頼内容知んなかったんだよ。……それに、フェイス、彼女んとこ行ってくるって。」
「彼女ォ?!」
 コングは吠えた。命を狙われている男が自ら遊びに行くなんて。朝はあんな真剣な顔をしていたくせに。
「ああ、みんな帰ってたんだ!」
 明るい顔でフェイスマンご帰宅。
「前金持ってきたよ。はい、これがハンニバルの分。で、これがコングの分。モンキーのも。よろしくね。」
 各々が500ドル入りの封筒の中を改め、ムッとした顔でフェイスマンを見る。別に金額が足りなかったわけではない。
「なあ、フェイス、お前さん俺たちに身辺警護を依頼したんだよな?」
 ハンニバルが葉巻を揉み消して聞く。
「そうだよ。だから、こうやってお金持ってきたんじゃん。明日からはちゃんとやってよね。」
しらっとした顔で、フェイスマンが答える。
「お前、命狙われてんだろ?」
 そう聞いたのはコング。
「うん、今日は全然何もなかったけどさ。」
「何であのバカ連れてかなかったんだ?」
 バカ、とコングに指差されて、マードックはうんうんと頷いた。……やっぱりバカだ。
「そうだよ、水臭いぜ、フェイス。事情話してくれればついてったのによお。」
「ああ、ごめんごめん。でも、デートだったし。」
 全く悪気なくフェイスマンが謝る。
「フェイス!」
 ハンニバルの強めの語調に、フェイスマンのみならず残りの2人も少なからずビクッとする。
「今日は仕方なかったにせよ、明日からは俺たちがお前の身辺警護に当たる。そこで、我々の指示には従ってもらいたいと思うんだが、どうだろう?」
「うん。何?」
「お前個人のことでよそのご婦人にまで迷惑をかけたくはなかろう。」
 ソファに座ったまま、顔だけをフェイスマンの方に向け、一呼吸置いてからハンニバルは続けた。
「ということで、明日からはデートなしだ。」
「ええ〜?」
 すっごく嫌そうなフェイスマン。不平不満ありありといったところ。
 その時、電話が鳴った。一番電話に近い所にいたマードックが受話器を取る。
「ハロー、こちらサイモン&ガー。あ、こんばんはー。いえいえ、そんな、とんでもない。えっ? そうそうそう。そうでなきゃ。やっぱり。(中略)でしょー? うん、それでそれで? なるほどねー。(後略)」
 すっかり話し込んでいるマードック。既に通話時間20分を超えている。
 コングはTVのスイッチをオンにし、フェイスマンはコングが買ってきたものを未だ包帯ぐるぐる巻きの手で少しずつ台所に運び始め、ハンニバルは再び葉巻に火を点けた。誰もがマードックにかかってきた電話だと思っていた。でも、どこの誰から? 精神病院から? それとも別の世界から?
 それから更に10分後。
「フェイス、お前に電話! ブリーさんから。」
「えっ、彼女からだったの? 何でお前が彼女と長々と話し込んでんだよ?」
 電話に駆け寄り、マードックの手から受話器をもぎ取る。
「だって……話しやすい人だったし、話は楽しいし……。」
 マードックの言葉に、フェイスマンが顔を綻ばせる。そう、話しやすくて楽しい人なのだ、ブリギットは。
「だろ? ……ハロー、俺。何? 明日、時間変更? うん、いいよ。何時? OK、3時ね。」
 フェイスマンの声に耳をそばだて、こめかみに怒ってるマークを浮かべるハンニバルとコングであった。



「フェイス!」
 フェイスマンが受話器を置くなり、ハンニバルが声を荒らげた(再)。
「メリーさんだかブリーさんだか知らんが、デートなしって言ったばかりだろう! 何が“OK、3時ね”だ!!」
「でもォ……。」
 口を尖らせるフェイスマン。
「デモはウッドストックの時代だけで十分だ! 俺がデートなしって言ったらなしなんだ!!」
 珍しくテンション高いハンニバル。たった1000ドルの依頼なのに。個人的に怒っている模様。
「……わかったよ、ハンニバル。」
 不貞腐れた表情でフェイスマンが言う。
「行かなきゃいいんでしょ、行かなきゃ!」
 そして彼は台所に引っ込んでしまった。……まるで子供。
 溜息をつくハンニバル。
「……何様のつもりなんでい、あいつ。」
 コングがTVの方を向いたまま呟いた。
「ご苦労様。」
 マードックが呟き返し、E7 sus4で止めた。お願いだから中途半端なコードで止めないでくれ。



 翌朝、手の腫れが引き始めたフェイスマンは、昨夜の揉め事などすっかり忘れた様子で、甲斐甲斐しく全員分の朝食を用意していた。そんなフェイスマンに昨夜のことを敢えて蒸し返すほど、他の3人は大人げなくはなかった。そうでない部分もなきにしもあらずだけど。
「いつもの癖でランチ作っちゃったんだけど、今日、ハンニバルとコングは仕事どうするの?」
 食後、テーブルの上を片づけながら、フェイスマンが聞いてきた。やけに殊勝な態度で。
「そう言うお前は、今日どうするんだ?」
 3時からのデートの約束はどうするつもりなんだろう、と思いつつ、ハンニバルも問う。
「俺? ずっとここにいるよ。掃除して、洗濯して。ああ、アイロンもかけなきゃね。」
「そうか……じゃあ仕事行かせてもらうかな。実は今、撮りが押しに押してて、抜けられない状態なんだわ。俺がいなくても、お前、平気か?」
 フェイスマンが寂しそうな微笑みで、こっくりと頷く。
「何かあったら電話するんだぞ。」
 そんな態度を取られては、優しくならざるを得ない。
「わかった。モンキーもいるし、大丈夫だと思うけど。……コングは?」
 冷蔵庫に牛乳を戻しているコングの方を向く。
「いや、俺もちっとばかし忙しくてな。みんな休み取ったもんで、今、工場の人手、半分以下んなっちまって、フォークリフト扱えんの、俺しかいなくてよォ。」
 申し訳なさそうに身を縮めてコングが答える。
「じゃ、工場行かなきゃね……。頑張って。」
 そうしてハンニバルとコングは、それぞれの仕事に出かけていった。弁当持参で。



 だけど、戻ってきてみたら――哀れなマードックは縛られて床に転がっていた。
「何があったんだ、モンキー? 誰にやられた? フェイスはどうした?」
 コングがマードックの猿轡を外してやり、ハンニバルが立て続けに尋ねる。
「……フェイスの奴にやられた。」
 ロープを解いてもらいながら、マードックが答える。
「あいつ、2時頃だったか、俺を騙して縛り上げて、そんで出てった。」
 一体どう騙したのか、どう騙されたのか。
「3時のデートだな……。」
 ハンニバルの鼻から上は激怒していたが、鼻から下は少し微笑んでいた。それは、時代劇的悪の微笑みに近いものであった。



 ……あれ? 俺、どうしたんだろ? 確かブリーとのデートから戻ってきて、家のドアを開けて……それからどうなったんだ? 変だな、全然記憶がない。それに、ここはどこ?
 フェイスマンは薄く目を開けた。小さな山小屋の中、に見える。テーブルが1つ、椅子が2つ、オイルランプが1つ、大きな袋が2つ、木の長椅子が1つ。そして恐らく、今彼が寝ているのも同様な長椅子だろう。窓の外は、爽やかな山の朝の風景。
 自分のことを恨み、命を狙っている犯人に、拉致監禁されたのかと思ったが、そうではないようだ。マードックが1人、ギターも持たず、ぼんやりと椅子に座っている。犯人らしき人物の姿はない。
「……ここどこ?」
 フェイスマンは上体を起こして、マードックに尋ねた。
「やっと起きたん?」
「どこなの?」
「知らね、俺もちょっと前に起きたとこ。どっかの山ん中だろうね。説明書によると、ロスから車で1時間。」
「説明書?」
 マードックは、テーブルの上にあった1枚の紙をフェイスマンに渡した。
「何々……“おはよう、フェイス、モンキー”。」
「おはようさんです。」
 ――依頼人(フェイスマン)保護作戦において、女性の存在は作戦遂行の妨げとなるため、依頼人を隔離することにした。マードック大尉には、依頼人の身辺警護の任務を命じる。勝手に戻ってこないように、2人とも薬で眠らせて連れていったことを、もし遺憾に思ったならば、水に流してくれたまえ。1週間分の食糧を用意したので、ゆっくりとマウンテン・ライフをエンジョイしてほしい。こっちはこっちで、何とか解決してみせましょう。1週間したら迎えに行く。質問・ご意見は一切受けつけません。ただし、何か切羽詰まったことがあった場合には、下記に連絡されたし。1時間で駆けつける。電話/スミス大佐(職場)xxx-xxx-xxxx、バラカス軍曹(職場)xxx-xxx-xxxx 以上。
「……何考えてんだよ、ハンニバルは!?」
 説明書をテーブルの上に置き、置いてあった携帯電話(フェイスマンの私物だったはずのもの)で重しをする。こんな山の中では、携帯電話は通じないかもしれないと言うのに。そうなってしまったら、これはただの重しでしかない。
「わかんね。……やっぱさ、あの2人、大雑把だわ。」
「うん、それは知ってるけど?」
「1週間分の食糧2人分ってったら、俺様計算によると、おおよそ42食。」
 合ってる。計算過程は違うかもしれないが。
「なのに、さっき数えたところによると、ここには14食分しかないわけよ。カンパンも缶詰も水も。」
 1週間は7日。そして2人分。7×2=14。ありがちなミス。
「1日1食?」
「もしくは、1日3食で2日ちょい。あとは我慢。」
「ま、こんな山ん中なら何か食べるもんあるだろうし、その辺はいいんじゃない? で、ここにあるのは、それだけ?」
 と、フェイスマンは袋を指差した。
「それだけ。」
 頷くマードック。
「武器は?」
「なし。ギターもなし。TVもなし。」
「殺し屋が来たら、どうすりゃいいのさ?」
 いつの間に“殺し屋”が来ることになったのだろう?
「大佐とコングちゃんに電話して、1時間逃げる……しかない?」
「ないね。電話が通じなかったら、もっと絶望的。」
 そこで、何か武器になるようなものはないかと、持ち物を確認する。フェイスマン――財布(カード、キャッシュ)、鍵、手帳、ペン、電卓、時計、ハンケチ、櫛、紳士の嗜み。マードック――ギターピック、ピッチパイプ、ハンケチ、バンダナ、ペンライト。さあ、これで何ができるか?
「ライターがありゃ完璧なのにな。」
 テーブルの上に並んだ品々を見て、マードックが呟いた。何がどう完璧なのか。
「よし、決まり!」
 フェイスマンが手をパン、と叩いた。
「歩いて帰ろう。車で1時間ってことは、丸1日も歩けば帰れるってことだろ? 西へ西へ歩いてけば、山から下りられるはずだよ。幸い晴れてるから東西南北わかるし。」
「丸1日歩くのかあ……。」
 飛行機乗りのマードックは、ちょっと嫌そう。
「途中でヒッチハイクしてもいいし、もしかしたら途中でヘリ借りられるかもしれないよ?」
「んならいいや。」
 持ち物を装備し(ポケットに戻す、とも言う)、携帯電話と食糧を持って、2人は山小屋を出た。



 出た途端……。
“タタタタタタ!”
 オートライフルの銃声がして、足元の土が跳ね上がった。慌てて小屋の中に戻る2人。
「何で!?」
「知らねえよ! 犯人、情報通なんじゃねえの?」
 @ハンニバルたちが尾行されていた。Aフェイスマンに発信器がついている。B犯人は超能力者。Cこれは夢。――@が一番あり得そう。
 理由はともかく、狙われたことに間違いはない。フェイスマンは携帯電話のボタンをプッシュした。
『はいはい、スミスです。』
 運よく、電話が通じる。呑気なハンニバルの声。
「ハンニバル、助けて〜!」
『フェイスか、どうした?』
「撃たれた撃たれた!」
『容体は?』
「いや、撃たれてケガしたんじゃなくって、まだ平気だけど、撃ってきたんだよ〜!」
『わかった、すぐ行く。何とか持ち堪えてろ。』
 電話が切れた。
「持ち堪えてろって言われても〜!」
 壁板は思っていたより薄く、時々弾丸が小屋の中まで飛び込んでくる。このままでは、小屋が穴だらけになって、フェイスマンやマードックに弾が当たる確率もどんどん高くなっていく。
 テーブルを倒して楯にし、その陰で頭を巡らせる2人。
「ずっとここにいた方がいいと思う?」
「いんや。」
「じゃ、逃げるに決定ね。で、どうやって逃げる?」
「取り敢えず、あの窓からってのは?」
 窓1つ。他に出入口は蜂の巣になりかけてるドアのみ。
 テーブルごとじりじりと移動し、マードックが窓から帽子を突き出してみる。反応なし。
「行ける。」
 椅子を投げて窓枠ごとガラスを割り、2人は外に躍り出た。



〈Aチーム作業曲かかる。〉
 森の中を走っていくフェイスマンとマードック。足がワイヤーに引っかかり、竹槍つきの丸太が横から襲ってくるのを屈んで避ける。
 落とし穴にはまりかける2人。草に掴まって、九死に一生を得る。せっかく持ってきた14食分の食糧は、穴の下で竹槍に刺さり、食べ物・飲み物としての使命を果たさないまま……もう、ゴミ。
 撮影現場で、怪獣の着ぐるみの頭を脱ぐハンニバル。汗が流れ落ちる。
 アナログの時計と太陽の位置とで方向を確認するフェイスマン。西の方角をビッと示す。
 足元を掠める竹槍。ボロボロになっている2人のズボン。マードックの靴下は白、フェイスマンのは水色。
 工場でフォークリフトを操縦しているコング。頭には黄色い安全帽。
 炸裂する手榴弾、吹き飛ぶフェイスマンとマードック。しかし、その後、むくりと起き上がり、何事もなかったかのように西を目指す。
 NGを出すハンニバル。監督に怒られて頭を下げる。
 竹槍つきの戸板が後ろから追いかけてきて、一目散に逃げるフェイスマンとマードック。走り方はハンナ・バーベラ風。
 工場の食堂で昼食を摂るコング。大盛りカレーライスと牛乳(大ジョッキ)。
 頭上から竹槍つきの竹垣が降ってきて、左右対称に飛び退くフェイスマンとマードック。
 着ぐるみを着たまま、ハンバーガーにかぶりつくハンニバル。もう一方の手にはミネラルウォーターのボトルが握られている。
 マードックがワイヤーに足を引っかけ、緊迫した面持ちの2人。しかし、何も起こらない。
〈Aチーム作業曲終わる。〉



 数々のブービートラップをすんでのところで避けつつ、フェイスマンとマードックは西へ西へと逃げていた。普通の人間だったら、だいぶ前に死んでいることだろう。しかし、彼らは百戦錬磨のツワモノ(一応)。ズタボロになりながらも辛うじてトラップを躱し続けていた。
「俺っち、もうダメ〜……。」
 足元をふらつかせ、フェイスマンの後ろでマードックが訴える。
「俺もダメに近い……でも、もうすぐハンニバルたちが――
 と言って振り向いた時……そこにマードックはいなかった。
「……フェ〜イス〜……。」
 声がする方、遥か頭上を見上げると、立派な大木の枝に、彼は逆さ吊りになっていた――片手で帽子を押さえて。
「待ってて、モンキー、今助けに――!」
 銃声とともに足元の土が抉れ、湿った土が跳ね飛ぶ。
「あとで助けに来るからね!」
 そう言い残すと、フェイスマンは疲れきった脱兎の如く逃げ去った。



 そして今、フェイスマンは崖っぷちにぶら下がっていた。
 確かに、ロサンゼルス近辺は東側に山、もっと東は砂漠、西側に市街や海があるのだが、必ずしも山と海がなだらかな斜面でつながっているわけではない。その事実を、フェイスマンは見落としていた。
 その上フェイスマンは、トラップと銃弾に神経質になるあまり、それ以外のものに対する注意を怠っていた。だから、そこが崖っぷちだとは気づかずに、足を滑らせた。
 下を見ると、気が遠退きそうなほど下に岩棚が1段あり、その更に下には林と言うか森と言うか、ともかく木が繁っている。上を見ると、夏だと言うのに黒づくめでフランケンシュタインのゴムマスクを被った怪しい人物が、こちらに銃口を向けている。
「テンプルトン・ペック――
 変声器を通した機械的な声がそう呼びかける。
「やだなあ、人違いですって。」
 力なく笑ってみせるも効果なし。
「嘘をつくな。お前がテンプルトン・ぺックだということはわかっているんだ。」
「じゃあ一歩譲って、そうだったとしましょう。」
「ふざけるな。」
 男がフェイスマンの片手を踏みつけた。
「単刀直入にボスの意向を伝える。」
「ボス? 誰?」
「それは契約上、機密事項だ。」
「ま、いいや。……どうでもいいから、早くその意向とやらを言ってよ。聞く前に落ちそう……。」
 本当にヤバい感じ。手に力が入らなくなってきている。
「オコノリー夫人と別れろ。そして、もう二度と会うんじゃない。」
 フェイスマンは、まず“オコノリー夫人”が誰なのか考えた。ブリギット、愛称ブリーのことだと思い当たるまでに、約15秒。それから、ボスが誰かということは置いといて、彼女と別れてもいいかどうかを考えた。彼女に会えないのは実に辛い。彼女の屈託のない笑顔、彼女との楽しい会話、彼女の肌の温もり、彼女のお金と家――思い起こす幸せだった日々。でも、死んじゃ元も子もない。生きてさえいれば、彼女のような別の女性に巡り合えるかもしれない。もっとステキな女性に巡り合えるかもしれない。この間、25五秒。
「わかった。別れる。二度と会わない。」
「その言葉に偽りはないな?」
「ないない。ホント。」
「では、私はボスにその旨伝える。もしお前が再び夫人と会うようならば、どこかで私と再会することになるだろう。」
「神に誓って、もうブリーとは会わない。絶対に!」
 男は頷いて、姿を消した。



 それから約1分間、フェイスマンは登ろうと努力したが、どうしても手に力が入らず、自分の最期を覚悟した。
 と、その時……。
「フェイス! どこだ!? フェーイス!!」
 ハンニバルの声が遠くから聞こえてきた。
「ここだよ、ハンニバル! 早く助けて!!」
 力の限りに叫ぶ。
「ここってどこだ、フェイス!」
 少し声が近くなってくる。
「ここって、ここ! 崖んとこ!」
「崖って、ここか!?」
「そう! 多分そこ!」
「崖のどこ!?」
「崖っぷち、の、下!」
 既に上を見上げる気力もない。網戸に爪を引っかけてぶら下がっている猫にさも似たり。
「……フェイス発見。ちょっと待ってろ、木にロープ縛りつけてくる。」
 程なく、命綱をつけたハンニバルによって、フェイスマンは引き上げられた。
「ホントに死ぬかと思った〜……。」
 仰向けに引っ繰り返って、90度に曲がったまま戻らない指先を見つめる。ハンニバルはそんなフェイスマンの隣に腰を下ろして、葉巻に火を点けた。
「来るの遅いよ、ハンニバル。一体何してたの?」
「アクアドラゴンの姉妹作、サスペンダー・サラマンダーの撮影。これでも飛んできたんですよ。お前さんがちゃんとあの小屋にいないから、探すのに時間かかっちゃってね。」
「あの小屋にずっといたら、こうやってハンニバルに文句も言えなかったと思うけど?」
「……確かにそうかもな。」
 青い空に白い雲が流れていく。葉巻の煙も一緒に流れていく。体がぐったりとだるい。乾いた熱い風が、乱れた髪を更に乱していく。
「……事件解決したけど、作戦が成功したわけじゃないから、残りの50パーセントは払わないよ。」
「どういうことだ?」
「俺、さっき犯人と会って、向こうの出してきた条件飲んだからさ。死にそうになりながらもね。だから、この依頼はこれでおしまい。……前金なんか払わなきゃよかったよ。」
「そうか……。で、誰が犯人だったんだ?」
「実行犯の名前は知らない。でも、トラップの手口とかからすると、ベトナムで会ったことある奴かも。顔隠してたしね。黒幕は、多分、ブリーの旦那でしょ。彼女に二度と会うな、って言われたんだから。」
 ハンニバルは考え込んでいるのか、何も言わなかった。
「おおい、ハンニバル! フェイス!」
 コングの声が響いてきて、2人は声のした方に顔を向けた。
「こっちだ、コング!」
 ハンニバルの声を頼りに、コングが姿を現す。その背には、ぐったりとしたマードックが。
「回収できたか。お見事。」
「したかなかったけどよ。」
「ああ、モンキーのこと忘れてた……。」
「頭ふらふら〜、鼻血出そ〜、気持ち悪い〜。」
「ここで鼻血なんか出しやがったらタダじゃ置かねえぞ。」
「吐くかも……。」
「吐いたら殺す!」
 長いこと逆さ吊りになっていたマードックは、頭に血が昇りすぎているらしい。顔が赤く浮腫んでいる。
「ほんじゃ、ま、帰るとしますか。」
 葉巻を消して、ハンニバルが腰を上げた。
 それに倣ってフェイスマンも立ち上がったが、よろけて崖から落ちそうになるのを、ハンニバルが咄嗟に抱き留める。
「こんな崖っぷちで危ない。」
「ハハ……結構足にも来てるみたい。」
「おぶってやろうか?」
「……肩貸してくれるだけでいいよ。」
 フェイスマンはハンニバルの肩に手を回した。ハンニバルの手がフェイスマンの体を支える。
「遠慮しなくていいんだぞ。前金は貰ったんだからな。」
 ハンニバルが笑い、フェイスマンも釣られて笑った。
「……あれ? ハンニバル、新しい怪獣の着ぐるみってゴム製なの?」
 フェイスマンが鼻をひくつかせる。
「ほとんどウレタンだが? 何でだ?」
「すっごくゴム臭い。」
 ハンニバルも鼻をクンクンさせる。
「本当だ。……ま、家帰ったら風呂入るから、それまで辛抱してくれ。」
「それについて1つ言わせてもらえるかな?」
「何だ?」
「風呂入んの、俺が先ね。」
 軽く肩を竦めてハンニバルは鼻で笑った。
「今日のところは譲るとしましょう。」



 それから数日。
 新作映画の撮影が一段落したハンニバルは、窓ガラスが割れて多少は涼しくなった家で、TVを点けっ放しにして本を読んでいた。フェイスマンは、取り込んできた洗濯物を畳みながら、TVを見ていた。マードックは病院に帰っていったし、コングは相変わらず工場に働きに行っている。
「何でさ、ニュースの時間帯ってどの局もニュースしかやんないんだろ?」
 靴下で神経衰弱をしつつ、聞いてみる。
「そりゃ愚問だぞ、フェイス。ニュースの時間帯だからに決まってるじゃないか。ニュースでない番組が半数以上あったら、それはニュースの時間帯とは言わんだろう。」
 本から目を上げないまま、ハンニバルが答える。
「そうか、なるほどね。」
『次のニュースです。つい先程、ロサンゼルス市郊外にある民家がアイルランドのテログループによって爆破されました。爆破されたオコノリー家の主人フィン・オコノリーはアイルランド出身で、当局の調べによると、アイルランドの複数のテログループに長年に渡り武器弾薬を売り渡していた疑いがあり、そのことが事件の原因になっているのではないかとの見方で現在捜査が進められています。また、この家にはオコノリー夫妻と使用人十数名が住んでいたにも関わらず、事件後の調べでは生存者・死傷者ともになく、関係者の行方は、被害者・加害者双方、依然掴めていません。テロリズム評論家によりますと、夫妻は既に殺されている可能性が高いということですが、詳細がわかり次第、追ってお伝えいたします。』
 このニュースを聞いて、フェイスマンはショックのあまり、しばらくの間、言葉を失っていた。
 ブリギット・オコノリーの夫の名前は、フィンだった。今聞いてやっと思い出した。レタス栽培をしているのかと思っていたら、そんなにキナ臭いことをやっていたなんて……。
 彼女はもういないのかもしれないと思うと、少し寂しい。でも、会えないのだから、会っちゃいけないのだから、生きていようが死んでいようが同じという気もする。
「今のニュース、聞いてた?」
「ああ。アイルランドのテロリストは恐いねえ。」
「あの爆破された家ってブリーの家だよ。ブリーはオコノリー夫人ね。俺が狙われた原因の彼女。」
「ほう。」
「……もし、あの男が、彼女と二度と会うなって俺を脅迫しに来なかったら、俺、あの家に通い続けてて、この事件に巻き込まれてたかもしれないんだよね。」
「そうだな。」
 真剣に話をしているのに、ハンニバルは生返事しかしてくれなかった。
「ねえ、ハンニバル。……このテロ活動が起こるってこと、いつから知ってたの?」
 思い切って聞いてみる。ハンニバルは本から顔を上げ、フェイスマンの方を向いて、真面目な表情を見せた。眉間に皺が寄る。
「……何だって?」
 飽くまでも隠し通す気らしい、この御仁は。
「……ううん……何でもないよ。ただの独り言。」
 フェイスマンは微笑んで、首を横に振った。
【おしまい】
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