怒涛の青汁! 攫われたコング!
フル川 四万
*1*

 毎度のことだが8月は暑い。そして、ジムの中は+5度くらい更に暑い。っちゅうか熱い。ここ、ロサンゼルス郊外の総合格闘技ジムでは、夏だというのにサウナパンツ穿いた男たちが、思い思いにタイ式縄跳びやシャドーボクシングに励んでいる。B.A.バラカスは、サンドバッグを殴り終えて、ふう、と額の汗を拭いた。
「やってるな、兄弟。」
 ゴツい男がコングの肩を叩いた。
「よう、ベア。次の試合に向けての仕上がりはどうでい。」
 ベアと呼ばれた男、フルネームはモハメド・ベア。このジムのオーナーにして、元パシフィック・アメリカン・ヘビー級チャンピオンである。今は、総合格闘技のジムを経営する傍ら、自らも打撃・関節技何でもありのアルティメット系の試合に出場し、専ら無敗を誇る猛者である。コングを地味にして(つまりアクセサリーを外して)ちょっと大きくしたような容姿のナイスガイだ。
「ああ順調だよ。来週の試合では必ず勝ってメアリたちに馬をプレゼントしなきゃいけないからね。」
 メアリとは、ベアが支援している孤児院の女の子だ。彼は、次の試合で勝ったら、ファイトマネーで彼女たちに馬を買ってやる約束をしていた。馬を買って、孤児院の敷地で小さな乗馬教室を開き、経営資金の足しにしようというのだ。つまりは、そういうボランティア精神全開なとこまで、ベアはコングとそっくり。こんなナイスガイとコングが意気投合しないはずもなく、2人は、今ではお互いに「兄弟」と呼び合う大の親友同士である。心なしか顔まで似てきたような……。
「流石だな、兄弟。きっと試合は上手くいくぜ。俺も応援に行くからな。」
「ありがとうよ、兄弟。じゃ、俺はスパーだ。敵は柔術家、今のうちに寝技の対策を万全にしておきたいんでね。」
「おう、頑張れよ。俺はそろそろ上がるぜ。」
 ベアは、もう一度コングの肩を叩くと、スパーリングのためにその場を離れた。コングは、しばしベアの後ろ姿を見送っていたが、約束の時間が迫っているのを思い出し、シャワールームへと向かった。今日は、仕事の話でフェイスマンから呼び出しがかかっているのだ。



 コングは、シャワー室に向かいながら、壁中に貼ってある試合のポスターに目を止めた。
『第1回 アルティメット・ファイト ロサンゼルス大会 元ボクシング・チャンピオン モハメド・ベア vs. 神秘の柔術家 フランソワーズ・モレイシー』
 試合は3日後の土曜日だった。次の依頼が今日明日中で終われば、応援には行けるだろう。急いでシャワーを浴びて服を着替えたコングは、ジムを飛び出した。約束の場所は5ブロック先の映画撮影所。約束の時間まであと15分。走れば何とか間に合うかもしれない。
「仕方ねえな、走るか。」
 コングは、ボクシング・グローブとデイパックを背負い直すと、歩道を走り出した。
 1台のバンが物陰から姿を現した。コングを追って徐行に移ると、運転席の窓が開き、男の手が差し出される。手には、ぶっとい注射器。コングは気づいていない。車は背後からコングに近づき、運転席から伸びた手と注射針は、正確にコングの首筋を捕らえた。
「痛っ、てめえ、何しやが……。」
 お馴染みの痛みに振り返ったコングは、全部言い終わらないうちに昏倒した。



*2*

「というわけで、婚約者の浮気が発覚して途方に暮れる可憐なヒロインが、新しい恋人を見つけるためにブラインド・デートに出かけるわけだな。そこでアクアドラゴンと運命的な出会いをし、恋に落ちる。しかし、彼女の婚約者は、勤務先の工場で産業廃棄物を浴びて凶悪なモンスターに変身しちまっており、ヒロインを襲いにやって来るんだ。そして、正義の怪獣アクアドラゴンとモンスターの壮絶な戦いが繰り広げられる。どうだ、斬新な話だろう。」
 ハンニバルは、差し入れのスイカジュースをちゅうう、と啜りながら言った。ここは撮影所の裏手の資材置き場。ハンニバルの首から下はアクアドラゴンである。
「……それ、『悪魔の毒々モンスター』と『ブラインド・デート』そのまんまじゃない?」
 夏なのにジャケットと革のハンチングという映画監督スタイルのフェイスマンが問うた。
「そんなことはありませんよ。このアイデアはあたしのオリジナル。なぜなら、『悪魔の毒々モンスター』にはアクアドラゴンは出てないし、キム・ベイシンガーも、もちろんミス・アクアドラゴンじゃない。そりゃ、彼女が出演したいって言ってきたら、考えてやらんでもないけどね。」
「そりゃ200%ないでしょ。どうせパクるなら、もうちょっとマシな組み合わせにならなかったのかなあ。まあ、その2つをきっちり足して2で割ったっつうのは斬新だけどね。」
「だろ? これでクリスマス映画の収益ナンバーワンは決まったも同然、てな具合。むふふふふ。」
 何やらトラタヌな想像をして気色悪い笑いを漏らすハンニバルであった。
「あのー。」
 ふと、誰かがおずおずと手を挙げた。注目する2人。
「ああ、悪かったね、ウラジミール。ごめんごめん。もう1人がなかなか来ないもんだから、退屈しちゃってさ。ホントに、コングの奴、何やってるんだろうね。」
「そろそろ依頼の話をしていいですか? 僕、道場に帰らないといけないもので……。」
「悪かったな。じゃあ、聞こうじゃないか。コングには、後で話せばいいし。どうせマードックにも後で話すんだから、1人増えても一緒だろ。」
 それはその通りだね。
「じゃあ……。」
 今回の依頼人、ウラジミールは話し始めた。長身痩躯、デザイナーブランドのスーツを着たナイスガイだ。
「僕の家は、この近所で小さな道場をやっています。種目はサンボです。家族でアメリカに渡って3年、やっと経営も軌道に乗り、去年は遂に小さな大会を開催できるまでになりました。」
「君の故郷はどこだっけ?」
「ロシアです。僕のお祖父さんは、ソ連軍でコマンド・サンボの教官をしています。」
「ほう、コマンド・サンボと言えば、素手で熊が倒せるという実践用格闘技だな。」
 ハンニバルも、ベトナムの地下闘技場でその噂は聞いていた。いつ、どんな所から攻められても、一瞬にして逆転し、相手の息の根を止めると言う。
「いえ、熊は倒せません。なぜなら、熊の動きは先が読めないからです。コマンド・サンボが倒すのは人間、それも兵士です。それで、国の開放政策が進み、渡航も比較的楽になったので、この素晴らしいサンボを世界に広めよう! と思って両親と僕はアメリカに渡ってきました。」
「感心な心がけだな。で、道場は上手く行ってるんだろう? 今日の依頼ってのは何だい?」
「はい……。こんなこと他人に頼むのは格闘家としてお恥ずかしい限りなのですが……。」
 ウラジミールは肩を落とした。
「実は最近、家の近所にヌーベル柔術の道場ができまして。」
「ヌーベル柔術?」
「ええ。モレイシー一族っていう胡散臭い集団がやってる武術なんですが、何でも、日本の伝統的な柔道に、パリのエスプリを加えたものだとか。」
「パリの、エスプリを?」
 ハンニバルが聞いた。
「柔道に?」
 フェイスマンも続ける。流石のAチームも、その武術はちょっと想像がつかない。
「ええ、何だかよくわからないんですけど、そういうことらしくて……。それで、その道場がうちのサンボ道場から徒歩5秒のところにできまして。どこか別でやってくれれば、うちも無視できたんですが、月謝が安いのか、ここ半年で弟子はそっちに流れていっちゃうし、向こうのお弟子さんたちがうちの道場の前にアイスの棒やお菓子の食べカスを撒き散らすんで掃除が大変だし、ここは1つサンボの威信にかけて対決だ! ということになりまして、先週親父が単身で敵陣に乗り込みました。」
「ほう。道場破りだな。それで?」
「やられました。」
 ウラジミールは、あっさり言い放った。
「やられちゃったのか。」
「ええ。」
「コマンド・サンボが?」
「はい、そりゃもうコテンパンに。奴ら、兵士じゃなかったんですね。さっぱり動きが読めなくて。それで、父は全身複雑骨折で病院送り。あ、向こうにも負傷者くらいは出てたみたいですけど。その上、国を出る時に祖父ちゃんが描いてくれた大切な看板まで取られました。」
「そりゃ災難だったな。で、俺たちにどうしろと? サンボと柔術の威信をかけた戦いなら、門外漢の俺たちの出る幕じゃあないと思いますけどね。君かお弟子さんが汚名を晴らすべくリベンジ・マッチ! っていうのが筋じゃあないかい?」
「それはそうなんですけど……リベンジしようにも父が回復するまでにはあと半年はかかりますし、お弟子さんたちも恐がって行きません。」
 それでいいのか、コマンド・サンボ。弟子、育ってないぞ。
「君はどうなんだ、ウラジミール。君が跡取なんだろう?」
「僕? 僕は会計係です。」
 って、君、事務方かい。
「どうも乱暴は性に合わなくて……。でも、親父も、これからの道場は経営も大事だって言ってくれてて、僕は今、経営を学びに大学院に行っています。おかげで、道場の経営は順調でした……奴らが来るまでは。」
「で、俺たちにどうしろと?」
「お願いです、あの、せめて、看板だけでも取り返して下さい。報酬は、10万払います。」
 10万、と聞いた途端、フェイスマンの耳がぴくぴく動いた。看板を、取り戻すだけで、10万?
「あのー。それって、単位は?」
 忌まわしい記憶でもあるのか、単位にはうるさいフェイスマンである。
「もちろんドルですよ。もし何なら、ポンドか、円でお払いしても構いませんが? 今アメリカドル弱いですからね。」
「いえ、ドルで結構。ドルが好きです。じゃあ、半額は前金ってことで。期限は?」
「期限は特に考えてませんが、できれば早い方が。はい、これ前金の5万ドル。それと、こっちが気障で小粋な柔術家を自称するアンドレ・モレイシーと、その9人の息子たちの資料。その他に、屈強な弟子が100人います。お願いします、スミスさん、ペックさん、道場の魂、看板を取り戻して下さい!」
 ウラジミールに写真と地図を渡されたフェイスマンは、意気揚々と撮影所を後にした。(ハンニバルは、今日は撮影の続きだから別行動。)何と言っても、看板1枚取り返すだけで10万ドルである。美味しい仕事である。
「それにしても、コング、来なかったなあ。」
 コングが約束をすっぽかすなんて珍しいこともあるもんだ。
「そういや今日はジムに行くとか言ってたっけ。モンキーを連れ出したら、行ってみようっと。」



*3*

 その頃コングは、暗い部屋で目を覚ましていた。朦朧とした意識の中で、いつものように現状把握に努める。自分は、今床に転がっている。よくあることだ。両手は後ろ手に縛られており……これもまあ、よくあること。口にはご丁寧に猿轡までされている。
 猿轡ぁ? 畜生、フェイスの奴、いくら何でもこりゃやりすぎだろ。それに、ここは一体どこなんでい? まさか、まだ飛行機の中なんてことは……ねえよな?
 体中に走る嫌な予感を振り払いつつ、コングは体を起こした。床は揺れていない。ということは、少なくともここは上空ではない。よかった。少し安心したコングは、周りを見回した。どうやら、どこかの事務所のようだ。
 その時、ふと、天井の監視カメラが目に入った。
 監視カメラ? モンキーのイタズラか?
 コングが悪態をつこうとしたその時、ドアが開いて、1人の青年が姿を現した。予想に反して、それはフェイスマンでもマードックでもなかった。もちろんハンニバルでもない。その男は、柔道着に、頭に派手な色(コングには判別不能だが、実は日本の西陣織)のターバンといった個性的な出で立ちで、仕草は妙に優雅だ。
「おー目覚めでーすかぁ? コマンタレブゥ?」
 青年が口を開いた。
「うぐうぐうぐ。(訳/はい、お目覚めですとも。あなたは誰ですか?)」
「おや? 何か言いたいようですね。いいでしょう。」
 青年は、コングの猿轡を外した。
「ぺっ、お目覚めだとも! てめえは一体誰なんでい! そしてここはどこなんでい!」
「おやおや、耄碌したようだね、モハメド・ベア。宿敵モレイシー一族の顔を忘れるだなんて。」
 そう言って男は笑った。
「モレイシー?」
 コングの眉間に皺が寄る。そりゃ誰だ?
「お忘れのようだから自己紹介をしておきましょうか。僕は、モレイシー家の九男、ヴィクトール・モレイシー。偉大なるアンドレ・モレイシーの息子で、敬愛する兄、フランソワーズ、ジャン・ポール、クロード、アラン、ジェラール、ミシェル、シャンタル、ニコルの弟だ。」
「ああ、思い出したぜ。今度ベアと戦うっていうあの柔術家のフランソワーズ・モレイシーの弟か。ふん、ベアと戦うのが恐くなって誘拐したってわけか。とんだ腰抜けじゃねえか。それに、敵の顔も覚えてねえなんて、オツムの方も大したこたなさそうだな。残念だが、俺はモハメド・ベアじゃねえぜ。」
「ベアじゃ、ない?」
 と、ヴィクトール。
「ああ、でも、似てるかもしれねえな。人種と髪型は一緒だからな。でも俺はベアじゃねえ。B.A.バラカスっていう、単なるベアのジム生だ。」
「何ですと!?」
 ヴィクトールの顔色が変わった。
「そ、そんな、兄さん、兄さあ〜ん!」
「どうした弟!」
「どうしたの?」
「大丈夫か!」
「ヴィクトール!」
「待ってろ! 今行くぞ!」
 ヴィクトールの叫びに呼応して次々に声が上がり、やって来た男たちで狭い部屋は一杯になってしまった。男たちは、皆柔道着を着て、頭に思い思いの色のターバンを巻き、耳からはでかいイヤリングを下げている者もいる(コングには判別不能だが、実は日本の七宝焼き)。
「兄さん、間違えちゃったよう。こいつ、ベアじゃない。」
 ヴィクトールが訴えた。
「そのようだな。」
「そうだな。」
「本当ね。」
「確かにな。」
 兄さんたち(ジャン・ポール、クロード、アラン、ジェラール、ミシェル、シャンタル、ニコル)は口々に同意した。
「作戦を変更しなきゃいかんな。」
「そうだな。」
「作戦だな。」
「変更ね。」
「新しい戦略を考えないとな。」
「巻き返しだな。」
「変更だな。」
 などなど。
 見下ろす約8名のターバン・柔道着男の下で、今後の展開がさっぱり読めないコングは、ただただ見上げるばかりなのであった。



*4*

 病院の夕食は早い。そして味気ない。だがしかーし! ここはアメリカの英雄たちが集う退役軍人精神病院。英雄には、その栄誉を称えて、時として思いがけないプレゼントが届けられることがある。そして今日のプレゼントは、アメリカ一の薬膳料理人ミスター・チャンが作るスペシャル、アーンド、ビューティフルな薬膳料理(もちろん偽)。ミスター・チャンの華麗な包丁さばきのおかげで、退役軍人病院の食堂には今、何とも言いようがない摩訶不思議な匂いが漂っちゃっている。
「えー、オホン。これが、私が皆さんのためにこしらえたスペシャル薬膳料理、一口飲めば頭スッキリ、記憶ばっちり。名づけてブルー・スープです。さあ、お召し上がり下さい!」
 胡散臭いとしか言いようのない赤のチャイナ服を着たフェイスマンが、もったいぶった口調でそう告げた。フェイスマンの横には大鍋がぐつぐつ泡を飛ばしならが控えている。職員が、実に嫌な顔をしながらも素早くテーブルにブルー・スープを配った。食堂に集う毎度個性豊かな面々は、手に手に箸やスプーンを持ち、我先にとボウルに取りかかる。
「うお、何だこりゃ!」
 患者の1人が叫んだ。
「ま、ずーい!」
「にがーい!」
「し、痺れる〜。」
 患者たちは口々に叫ぶ。
「不味い? 苦い? そりゃそうだよ、これ青汁だもん。痺れるのは何でだかわかんないけど。」
 フェイスマンが言った。
「あのね皆さん、体にいいモノは口に苦いの! 苦いからこそ体に効くの!」
 『良薬口に苦し』……薬膳料理についてフェイスマンの脳味噌が持っていたちっぽけな事前情報は、ただその一言だけ。そして、それだけを頼りに、彼は食材を買い込み、ここにやって来たのだ。因みに、その食材とは、ケール(青汁の元)と苦瓜と太田胃散(ジャパニーズ・フェイマス・メディスン・フォー・ストマックエイク)。で、結局できたものは、青汁。
「ま・ずーーい! アッチョーッ!!」
 その時、1人の患者が頓狂な叫び声を上げた。不味い、はわかる。しかし、アッチョーッ!! とは一体何事であろうか。
「オアターッ! フ〜。」
 食堂の後ろの列からひとっ飛びで、ぴょーんとフェイスマンの横に着地したその革ジャン&キャップの人物は、太極拳と少林寺拳法を合わせたような妙な動きでフェイスマンを威嚇している。
「シェ〜……。」
 ソックスを嵌めた両手首から先は直角に曲げられて、まるでヘビのようにフェイスマンの動きを窺い、素足にスニーカーの足元はまるで酔っ払いのように覚束ない。
「彼は?」
 フェイスマンは、手にした患者ファイルを捲りながら職員に尋ねた。
「マードックです。先週、テレビでジャッキー・チェンの『酔拳』を見てからすっかりその気になってしまって、新しい拳法の型だとか言って、他の患者に飛び蹴りを食らわしたり、職員の腋の下を突然くすぐったりで、迷惑してるんです。」
(腋の下をくすぐるのは、拳法ではないのでは?)
 思いつつ、フェイスマンは、マードックの方に向き直った。
「あー、マードック君。」
「何ぃ? 今忙しいんだから話かけないでっ。やっと、俺様の体に武道の神様が乗り移ったんだから。ジャッキーはアルコールの力を借りる酔拳だったけど、俺様のは一味違うね。この青汁の不味さを原動力として、爆発的な力を生み出し、敵を倒す! 名づけて、青汁拳。」
 マードックは、手にしたボウルから、青汁を一口啜った。
「に・がーいっ! オアチョーーっ!」
 マードックはそのまま飛び上がると、目の前のテーブルに向かって拳を振り下ろした。テーブルは、真っ二つに割れた。更に汁を一口含む。
「ま・ずーい! ホアーッ!」
 今度は後ろ回し蹴りが職員の胃の辺りにヒットした。哀れな職員は、口から泡を吹いてその場に崩れ落ちた。
「あー、マードック君。君はそーとーに重症みたいね。そんな君にはアホが治る特別料理を作ってあげるから、今すぐ別室に来なさい。」
 フェイスマンは、そう言ってマードックの腕を引っ掴むと、職員が起き上がらないうちに、そそくさとその場を退散した。



*5*

 翌朝。ベアのジム。
「何! バラカスを誘拐しただと!?」
 モハメド・ベアは受話器に向かって叫んだ。電話の相手は、モレイシー一族の次男、ベアの対戦相手のフランソワーズのすぐ下の弟、ジャン・ポール・モレイシーである。
「そう。誘拐したの。」
 彼は、モレイシー道場に隣接する白いロココ調のテラスでカフェオレを飲みつつ優雅に受話器を握っている。
「最初はあなたを誘拐するはずだったのよ、ベア。……でも、まあいいわ、効果は一緒でしょうから。」
「何を言ってるんだ。うちのジム生を誘拐するなんて、貴様ら、何が目的だ。」
「目的はただ1つよ、うふ。」
 ジャン・ポールは言った。
「明後日のフランソワーズとの試合に負けてほしいの。」
「何だって!?」
 ベアは叫んだ。
「貴様、俺に八百長試合をしろと言うのか! そんなことができるわけがないだろう。次の試合は、俺にとっちゃ大切な試合なんだ。実力で負けるならともかく、八百長に加担するなんて真っ平ごめんだ!」
「あら勇ましいこと。でもね、あの試合があなたにとって大切な試合であるのと同じくらいに、僕らの兄、フランソワーズにとっても、モレイシー一族にとっても、そして、その他いろんな人にとっても、とおっても大事な試合なのよん。」
「貴様ら、俺たちの試合で賭博をしてやがるのか!」
「賭博だなんて失礼ね。サイドビジネスと言って頂戴。」
「大体フランソワーズは何て言ってるんだ。調印式で奴は俺と正々堂々と戦うと誓ったはずだ。」
「その時はそうだったわ。でもね、その後、事情が変わったの。フランソワーズはね、今、怪我をしているの。この前、ロシア人との道場マッチで肘を痛めたのよ。それに、元々私たち柔術家は、あなたみたいなハードパンチャーとは相性が悪いの。パンチなんて、顔に食らいでもしたら、生きていけないわ。顔はフランス男の命ですもの。」
「何ケツが痒くなるようなこと言ってやがるんだ。格闘家の命は腕とプライドだけだ!」
「うーん、そうね。プライドも大事。だからこそ、無敗を誇るモレイシー伝説に、傷をつけるわけにはいかないのよ。わかってちょうだいね、おほほほほ。」
 今気づいたが、ジャン・ポールはオネエだった。
「じゃ、もう一度言うわね。B.A.バラカスの命が惜しくば、明後日の試合で負けること。簡単よ。フランソワーズの寝技に捕まってじっとしてれば、兄が天国に連れてってくれるわ。ううん、苦しくなんてない。むしろ快・感(ハート)。瞼の裏に白いお花畑が見えるはずよ。」
 それはもう、かなり、天国に近い状態ではないでしょうか、ジャン・ポール。
「もし、あなたが勝つようなことがあったら、可愛いバラカスちゃんの命は保証しないゾ! なぁんてね、キャッ僕ったら男らしいっ!」
 自分で言って自分で照れてるジャン・ポール。
「じゃあね、ベア。くれぐれも頼んだわよ。」
「おい、ちょっと待て、モレイシー! モレ……。」
 電話は既に切られていた。
 モハメド・ベアは天を仰いだ。あの気のいいバラカスが、俺の身代わりに攫われたなんて!
「畜生モレイシーの奴め、許しちゃおかん。バラカス、待ってろ。俺がすぐに助けに行くぞ!」
 拳を握りしめ心に誓うモハメド・ベアであった。



*6*

「あそこか、モレイシー道場ってのは。」
 ハンニバルが葉巻を咥えて双眼鏡を覗いている。ここは、ウラジミールん家のサンボ道場の2階の事務室である。
「うへえ、すごいね。あんなのが道場なの。」
 フェイスマンが呟いた。確かに、バラのツタが絡まる白いアーチに象徴されるように、とても格闘技の道場とは思えない優雅な建物ではある。
「ところでフェイス、コングとは連絡が取れたのか?」
「いや、それがまだなんだ。さっきジムに寄ってきたら、昨日の2時前に帰ったっきり、今朝は来てないって言われたし、アジトにも帰ってない。一体どこ行っちゃったんだろ。事故に遭ったりしてなきゃいいけど。」
「牛乳にあたって病院に担ぎ込まれてるとか? こないだコングちゃん、この季節に1晩出しっ放しだった牛乳、もったいないって飲んじゃってたじゃん? 俺みたいに、牛乳の代わりに青汁飲むようにすりゃ体にもいいのにさ。」
 マードックが持参の水筒から、ぐびり、と一口青汁を飲んだ。フェイスマンにおねだりして、また作ってもらったのだ。部屋中に青臭い匂いが立ち上る。隅の事務机で計算機を叩いていたウラジミールが、口を押さえてトイレに駆け込んだ。
「マードック、それ、体の前に神経がダメになる気がするから大概にしとけ。……まあいい、幸い今回は簡単な依頼だ。コングのことは後で探すとして、とりあえずウラジミールの看板を先に取り戻してしまいましょうや。」
 ハンニバルが建設的な意見を述べた。
「よし、じゃあ行くか。」
「おう。」
 3人は、おもむろに立ち上がり、準備運動を始めた。
「今回は相手が武道家だ。こっちも武器はなしで、素手で行きますよ、素手で。ベトナムで鳴らした俺たちAチーム、パリのエスプリが恐くてこの稼業やってられますかってんだ。」
 言いながらハンニバルがゴキゴキ首を鳴らした。
「願ったりだね。青汁拳の使い手として目覚めたからには、黒帯が何人来たってお茶の子サイサイさあ。」
 マードックも不可思議なポーズでそれに続いた。
「俺はいまいち自信ないなあ……コングがいてくれりゃあな……って、ハンニバル!!」
 フェイスマンが突然叫んだ。
「ほら見て! あそこにいるの、コングだよ! ほら!」
「何?」
「何だって?」
 指さす方向は、モレイシー道場の入口。1人のモヒカン男性が今にも乗り込まんと指を鳴らして立っている。相対しているのは、モレイシー道場の猛者十数名。
「んん? 何言ってんのさ、フェイス。ありゃコングちゃんじゃないよ。」
 マードックが双眼鏡を覗いて言った。
「え? 違う?」
「ああ、違うな。コングにしては少し大きいし、顔がコングじゃない。コングはもっとこう、眉間に皺が寄ってるし、唇はタラコだし。」
 とハンニバル。
「あ、そう? でも大体の粗筋としてはそっくりじゃない?」
 顔の粗筋って何だ、フェイスマン。
「兄弟かもしれませんぜ、腹違いの。」
「もしかしたらコングちゃん、整形したのかもね。」
「それもあり得るな。」
 3人がそうこう言っているうちに、モレイシー道場の前では乱闘が始まった。かかってくるモレイシー門下生を素早いパンチでなぎ倒していくコングもどき君。しかし、次から次へと蟻のように湧いてくる門下生の群に苦戦している。
「多勢に無勢、ハンニバルゥ、あれ、あまりにも不公平じゃない?」
 フェイスマンが言った。
「そうだな、助っ人に行こうか。」
「じゃあ、参りましょうかね。」
 3人は、モレイシー道場へと駆け出した。



 バキッ!
 モハメド・ベアのアッパーパンチが門下生の顎を捕らえた。殴られた門下生はもんどり打って倒れた。
「さあ、次は誰の番か……ウッ!」
 言いかけたベアの足に、別の門下生のローキックが入った。それをきっかけに、数十名の門下生たちが一斉にベアに襲いかかった。
 ドカッ! ギウッ! ミシッ!
 彼らの得意技は関節。5人の門下生が、それぞれベアの手足と首に取りついて絞めにかかっている。
「畜生、卑怯だぞ、てめえ……ら……。」
 首を絞められたベアの瞼の裏には、うっすらとお花畑が浮かびかけていた。と、そこに……。
「ちょおーっと待ったあ!」
 駆けつけたハンニバルとマードック。モレイシーの弟子たちも人数を増やし、たちまち乱闘の輪は大きくなっていったのであった。



*7*

 ここはロデオ・ドライブの洋服屋の2階。現在のAチームのアジトである。
 顔のいたる所に青アザや引っ掻き傷を作ったハンニバル、フェイスマン、そしてモハメド・ベアの3人は、冷たい濡れタオルで傷を冷やしてぐったりしていた。ただマードックだけは、青汁で作った冷たいパックで顔を真緑に染めていた。
 乱闘は、結局、モレイシー道場の人数に押し切られ、一同は、コングも看板も取り戻せないまま、今、傷心を抱えてここにいる。
「てことは、コングは、君と間違われて攫われたわけね。」
 フェイスマンが、ハンニバルの額のタオルを取り替えながら言った。
「ああそうだ。」
 ベアが言った。
「あんたたちも見てわかるだろうが、俺とバラカスはよく似ている。特に後ろ姿はそっくりだ。それで間違えたんだろうな。」
「で、奴らの要求は?」
 ソファに横になったまま額の青タンを冷やしていたハンニバルが身を起こした。
「明後日の試合での、俺の八百長負け。フランソワーズに勝たせねえと、バラカスの命はねえってさ。大がかりな賭博組織が絡んでると見たぜ。」
「で、君としては、八百長する気は全くない、と。」
「当たり前だろ。俺は根っからのファイターだ。リングに上がったからには、八百長なんか、死んでもやるもんか。それに、今回の試合は、俺にとっても大事な試合なんだ。勝ったファイトマネーで、孤児院の子供たちに馬を買ってやる約束をしているんだからな。」
「ファイトマネーはいくらなんだい?」
「勝者に10万ドル、敗者に50ドルだ。」
「10万か。俺たちの報酬と一緒だな……。」
 ハンニバルが呟いた。フェイスマンは、嫌な予感がした。「ね、ねえハンニバル、まさか、僕らの報酬を孤児院に……なんて殊勝なこと考えてないだろうね?」
「それもいい案だね。気に入ったよ、フェイス。」
 ハンニバルは遠い目をした。フェイスマンの頭の中では、早くも、この仕事の報酬が入らなかった場合のローンの支払いや遣り繰りの算段が始まってしまった。貧乏性な奴。
「ベア、済まないが、今回の試合は諦めてくれないか。」
 しばし考えていたハンニバルが唐突に言った。
「何だって? 俺に八百長しろって言うのかい。」
「いや、そうは言っちゃいないさ。ただ、連中は、君に試合で勝ってほしくないんだろ?」
「ああ。」
「じゃ、君は、勝たなければいい。」
「てことはやっぱり……。」
 ベアが気色ばむ。
「早合点しなさんな。君は勝たないって言ったんだ。つまり、フランソワーズ・モレイシーには、別の武道家が勝てばいい。そして、彼のファイトマネーは孤児院へ。」
「別の武道家だと?」
「……だって?」
 ベアとフェイスマンは声を揃えた。
「そこにいるじゃないか、ほら、新進気鋭の拳法家の先生がさ。青汁拳だっけ? 斬新だよねえ、むっふふふふ。」
 嫌らしい笑いを漏らすハンニバルの視線の先には、青汁パックで真緑になってあまつさえ異臭すら放っている、ちょっと額が後退気味のお茶目な拳法家がいた。……そんなんで勝てるのか?



*8*

 翌日。モレイシー道場は、上を下への大騒ぎになっていた。
「急に対戦相手が変更になったって、どういうことだ!」
 フランソワーズ・モレイシーがシャンタルに向かって叫んだ。シャンタルは、今さっき大会運営委員会から、対戦相手の変更の電話を受けたばかりなのだ。
「そうよ、どういうこと?」
 ジャン・ポールも金切り声を上げる。
「何でも、スポンサーの強力なプッシュで、ベアの代わりに珍しい中国拳法の達人が急にブッキングされることになったって。」
「中国拳法?」
「試合は明日だよ? そんな急に言われても……。」
 兄弟は、またもや大騒ぎとなった。
 と、その時。
「まあ、よいではないか。」
 甲高い嗄れ声に兄弟が動きを止めた。
「父さん!」
「父上!」
「パパ!」
 兄弟の父、モレイシー柔術の開祖、アンドレ・モレイシーは、小柄ながら背筋をしゃんと伸ばしてニコニコと微笑みながら立っていた。
「もとよりモレイシー柔術は、どんな武道にも対抗できるオールマイティな武道じゃ。それに、大概の中国拳法ならわしもよく知っておる。フランソワーズにはベアより与しやすい相手じゃろ。来なさい、フランソワーズ。つけ焼刃にはなるが、有名な中国拳法の流派について教えておこう。もちろん、ちょっぴりエスプリを効かせてな。」
 お茶目な老人は、長男に向かってウィンクをした。
「はい、パパ。」
 フランソワーズとアンドレは連れ立って部屋を出て行った。
「ジャン・ポール兄さん……。」
 ヴィクトールがおずおずと口を開いた。
「あの男、どうしよう。」
「そうね、事態がこうなってしまっては、バラカスは既に用済みね。」
 ジャン・ポールが忌々しげに舌打ちした。
「明日の試合が終わるまで監禁して、その後は近くの川にでも捨てちゃいなさい。」
「ウィ。」
 ひどい奴らだなあ。



 その頃、コングはと言えば、暗い小部屋の片隅で、後ろ手に縛られて転がっていた。
 俺がここに監禁されてたんじゃ、ベアは安心して試合できねえ。何としてでも、明日までに脱出しなけりゃ……。
 頭では焦るものの、今は何もいい手立てが見つからない。
 ハンニバル、フェイス、モンキー……誰か助けに来い、畜生め……。



*9*

 翌日は快晴。ここロサンゼルス・アリーナでは、『第1回 アルティメット・ファイト ロサンゼルス大会』が今夜開催される。試合は夕方からなのに、会場の周りには当日券とダフ屋のチケットを求める人々が朝からたむろし、急遽差し替えられたマードックとモレイシーの試合も、かえってコアな格闘技ファンの憶測を呼び、大会の前評判は上々だ。
 ハンニバル、フェイスマン、ベア、そして青汁拳の達人・ミスター・モンキーは、控え室で緊張した時を過ごしていた。彼らの試合は、休憩前の第4試合だ。
「モンキー、緊張してる?」
 フェイスマンが問うた。
「いんや全然?」
「あ、そう。じゃ、はい、これ。」
 フェイスマンが、マードックに何かを手渡した。
「何これ?」
「今日のコスチュームと覆面。」
「覆面?」
「そう、覆面。君は、この緑の武術着と緑の覆面で戦うの。」
 フェイスマンが得意げに言った。
「コスチュームはいいとしてさ、俺様、覆面なんてヤだぜ? 何でこの俺のカッコイイ顔を隠さなきゃいけないのさ?」
 マードックが口を尖らせた。
「マードック、言うことを聞け。」
 ハンニバルが口を挟んだ。
「今日の観客は推定1万人。そして俺たちはお尋ね者。何がきっかけでデッカーたちが動き出すかわからんからな。素顔は隠しておくんだ。」
「なーる。」
 納得したマードックは、緑の覆面を被ってみた。緑ラメ地に目と鼻と口が出るだけのシンプルなデザインだが、額に輝く「汁」の文字が途轍もなくいかしている。
「ベア、君はどうするんだ?」
 ハンニバルが問うた。
「俺か。俺は、マードックのセコンドにつくぜ。この3カ月、モレイシー対策は十分に練ってきた。俺の指示通りに動けば、有利に試合が進められるはずだ。」
「じゃあ、君も覆面だな。白熊仮面でいいか?」
「他には何があるんだ?」
「レーガン大統領、ミッキーマウス、ミル・マスカラス、ケンケン。」
「是非、白熊を被らせてくれ。」
 ベアが真剣な眼差しで訴えた。
 と、その時、控え室の電話が鳴る。フェイスマンが受話器を取り、一言二言話をすると、すぐに受話器を置いた。
「モンキー、出番だってよ。」



 カンカンカンカン!
 会場に選手入場のゴングが鳴り響く。1万人(主催者発表)の観客から大歓声が上がった。タキシード姿のリングアナウンサーが、リング中央でマイクを取った。
「中国4000年の秘技が今、蘇る! ミスター・モンキー選手の入場です!」
 大音響でローリングストーンズが流れ、入場ゲートにマードックとベアが姿を現した。全身真緑の上、でかい瓶を提げたマードックは、両手に白靴下を嵌めた例の格好で、演舞を決めながら花道を進んでくる。花道サイドの観客に十二分にアッピールしながら、マードックがリングインした。瓶をセコンドのベアに渡すと、軽くジャンプをし、体をほぐす。
「花開くフランスの芸術! 無敗神話は崩れないのか!? フランソワーズ・モレイシー選手の入場です!」
 音楽が、フレンチ・カンカンに変わった。花道からモレイシー一族が姿を現す。父アンドレを先頭に、フランソワーズ、ジャン・ポール、クロード、アラン、ジェラール、ミシェル、シャンタル、ニコル、ヴィクトールが列をなし、真っ直ぐ伸ばした左手で前の兄弟の左肩を掴み、羽扇子を持った右手は高く頭上に掲げられている。顔には貼りついたような笑顔を浮かべ、足はフレンチ・カンカンに合わせて複雑なステップを踏みつつ、踊るように花道を進んでくる。服装は、全員白い柔道着にターバンである。
「何だい、ありゃあ。」
 リングサイドで観客に混じって座っていたハンニバルが呟いた。
「『モレイシー・トレイン』って言うんだって。一族の結束を表すフォーメーションで、兄弟の誰かが試合をする時には、必ずああやって全員で入場してくるんだってさ。」
「ほほう。フェイス、詳しいじゃないか。そんな情報、どこで仕入れた。」
「さっきマニアな格闘技ファンの女の子とお近づきになって教えてもらった。」
「ほう。そりゃご苦労でしたね。」
 ハンニバルの口調には明らかにイヤミ混じってる。
「……てことは、道場は今、空か。」
 ハンニバル、いい点に気づいたね。
「そうだね、弟子もみんな見に来てるだろうし。常識的に言って、空なんじゃないかな。」
 フェイスマンが答えた。てことは……。
「行くぞ、フェイス。今がチャンスだ。コングを助け出して、ついでに看板を取り戻してくるとしましょう。」
「え? でもマードックの試合は?」
「青汁とベアがついてりゃ、何とかなるでしょ。」
「そうだね。」
 2人は、会場を後にした。



 リングではマードックとフランソワーズが向かい合っていた。リングアナのコールも終わり、後はゴングを待つばかり。
「いいか、マードック、止まるな。ちょっとでも止まったら、奴のタックルで倒される。倒されちまったら、素人が奴の関節技を凌ぐのは難しい。とにかく動いて、打撃でいいのを何発か入れろ。特に顔面の打撃には弱いはずだ。」
「OK、わかった。」
 マードックは、瓶から青汁を一口口に含んだ。じっくりと味わい、その苦さを噛み締める。
 カーン!
 試合開始のゴングが鳴った。フランソワーズが、軽いフットワークで前に出……ようとしたその時。
「ま、ずーーい!」
 青汁を飲み下したマードックの飛び膝蹴りがフランソワーズの顔面を捕らえた。仰向けに倒れるフランソワーズ。
「兄さん!」
「兄さん!」
 セコンドの兄弟たちが口々に叫ぶ。
 フランソワーズは、鼻血を垂らしながら何とか立ち上がった。腰を低く保ち、マードックを掴もうと間合いを計って手を伸ばしてくる。
「ハーッ! ワチョオーっ!」
 マードックは、手首から先を直角に曲げた例のポーズで、腰を落とし、フラミンゴのよう威嚇しつつリング内を歩き回っている。フランソワーズが膝タックルをかけた。
「あらよっと。」
 それをひらりとかわすマードック。
「ううむ、見たこともない拳法じゃ……。」
 リングサイドでアンドレ爺が唸った。そりゃあ見たことないだろうさ。一昨日生まれたんだもん。
 フランソワーズが、2度目のタックルを仕かけてきた。ひょい、とかわしたはずのマードックであったが、うっかり胴着の端を掴まれ、リングに引き倒されてしまった。
「まずいぞ、逃げろ、マードック!」
 ベアが叫ぶ。
「逃げろ、っつったって、どこに逃げんのよ。」
 フランソワーズは、いとも簡単に倒れたマードックのマウントを取り、そのまま四方固めに持っていこうと体を捻った。強烈な香水(シャネルNo.5)の匂いがマードックを襲う。
「あ、これ、ちょっとヤバイかも……。早くこのラウンド終わってくんないかな。」
 押さえ込まれたマードックは、何とか首をロックされまいともがいた。しかし、そこは寝業師フランソワーズ、あっさり捕まって、肩と首を決められてしまう。息が苦しい。
「あ、もう限界かも。青汁の効力も切れてきたし……って、あれ?」
 意識が遠退きかけたマードックは、力を振り絞って……フランソワーズの腋の下をくすぐった。腋の下全開だったのだ。
「や、やめろっ! くすぐったいっ! ひゃはははは……。」
 フランソワーズが、マードックの上から飛び退いた。マードックは、すかさず体を翻して立ち上がる。その時……。
 カーン!
 1ラウンド終了を告げるゴングが鳴り響いた。マードックとフランソワーズは、それぞれのコーナーに戻った。
「いいぞ、マードック。次のラウンドも絶対捕まるな。」
「疲れた……。これ、何回戦だっけ?」
「10分、5ラウンドだ。」
「ほええ。まだ40分も戦うの、俺。」
「なあに、ノックアウトすりゃその時が試合終了だよ。絶対いけるって、頑張れ。」
 ベアは、マードックに青汁の瓶を差し出した。ごきゅり、とマードックが青い液体を飲み下す。
「よし、行け!」
 第2ラウンド開始のゴングと共にに、マードックはリング中央に躍り出た。中央にいた方がポジションが取りやすい。これもベアの入れ知恵だった。
「アヒョオーッ!」
 マードックのハイキック一閃。緑のサンダルがフランソワーズの顎をかすった。向こうもマードックのキックには警戒を強めているらしい。セコンドから引っ切りなしに注意が飛んでいる。2人は睨み合ったまま、じりじりとリングの中を回り始めた。



*10*

 モレイシー道場の入り口で、留守番の門下生を4人ほど伸したハンニバルとフェイスマンは、道場を横切って事務所に躍り込んだ。
「コング!」
 フェイスマンが叫んだ。
「コング! いないのか!」
 ハンニバルも叫ぶ。
「おう、俺はここでい! 早く助けてくれ!」
 コングが叫び返した。フェイスマンとハンニバルは、一瞬顔を見合わせると、声のする奥の部屋へと急いだ。
「コング! 大丈夫か!」
 ハンニバルが倒れているコングに駆け寄り、彼を抱き起こした。
「待ってね、今ロープを解くから。」
 フェイスマンが後ろに回り、コングの腕からロープを解く。
「ふぅ、済まねえな、ドジしちまって。」
「事情はベアから聞いたよ。災難だったな。」
「ベア! そう言やベアとモレイシーの試合はもう始まってるのか!」
「始まってると言えば……始まってるかな。」
「そうね、モレイシーと戦ってるのはベアじゃないけどね。」
「何だと! じゃ、一体モレイシーとは誰が戦ってるんだ!」
「ええと、ミスター……モンキー。」
「何だって?」



*11*

 フランソワーズ vs. マードックの試合は膠着し、第5ラウンドまでもつれ込んでいた。
 フランソワーズは、時折食らうマードックの打撃で顔面を腫らし、マードックは、フランソワーズの関節技で意外と体力を消耗していた。
「ベア、これ、判定になったらどっちが勝ち?」
「わからんな。手数では勝ってるが、奴は綺麗な関節を入れてきてるからな。とにかく、5ラウンド中のノックアウトを狙うしかない。チャンスを見て重い1発を叩き込め!」
 ベアは、マードックに青汁の瓶を渡した。既に飲みすぎて胃がタポタポしているマードックは、それでもホンの一口を含むと、ふらつく足でリング中央へと踏み出した。
 カーン!
 最終ラウンドのゴングが鳴った。



 と、その時……。
「モォレイシイイイイー!!」
 地を割くような咆哮と共に花道を駆けてくるゴツい人影、それはもちろん、B.A.バラカスその人であった。
「げっ! あいつ、どうやって逃げたのかしら!」
 ジャン・ポールが叫んだ。
「誰だ? あいつ。」
 フランソワーズが一瞬コングに気を取られたその時!
「マ・ズゥゥゥゥゥーイ、キーック!!」
 最後の力を振り絞って青汁を飲み下したマードックの、起死回生のローリング・ソバットが、油断したフランソワーズの横ッ面を的確に捕らえた。
「げぇぅ。」
 微妙な声を漏らしてリング上にくず折れるフランソワーズ。
「ワン、ツー、スリー……。」
 レフリーのカウントが入る。
「……ナイン、テン!」
 テンカウントのコール! レフリーがゴングを要請した。
「やった、KO勝ちだ!」
「勝った? へ、俺、勝ったの?」
 ベアが叫び、マードックがセコンドを振り返る。
「兄さん!」
「兄貴!」
「フランソワーズ!」
 モレイシー一族がリングに躍り込む。
「モレイシイイイ!」
 それを追ってコングもストレートにリング内へ。
「この野郎! よくも俺を監禁してくれたな!」
 コングがジャン・ポールの襟首を掴んで揺さぶる。
「あっ、兄さんに何するんだ!」
 弟たちが次々にコングに飛びかかる。
「バラカス!」
 ベアもその集団に飛びかかっていく。
「と、父さんのカタキ!」
 何を思ったかウラジミールまでもが乱入。
 そして、リングは大乱闘になった。



「いててて、畜生、何しやがんだ!」
 ミシェルに肘関節を決められたコングが叫ぶ。
「コングちゃん、これ! 牛乳だから!」
 そう言ってマードックがコングに青汁の瓶を投げた。ごくり、とコングがそれを飲み下す。
「な、何だこりゃ、ま、まじーーーっ!」
 コングはそう叫ぶと、自分の体に取りついていた4人のモレイシーを一気に跳ね飛ばした。
「ぎゃーっ!」
「あーれー!」
 くるくると四隅に飛んでいくモレイシーズ。



「……何か、えらいことになってますな。」
 リング下で、ハンニバルが言った。手には、しっかりコマンド・サンボ道場の看板が。
「そうだね。何かもう、収拾つかないけどね……。」
 フェイスマンが溜息をついた。
「フェイスー! 青汁、すっごく効いたぜ〜!」
 リングの上から、マードックが親指を突き出した。



*12*

 数日後。
「というわけで、青汁で新しいパワーを得たアクアドラゴンは、毒々モンスター(そのまんまかい)を倒し、彼女と2人でドラゴンボールを探す旅に出ましたとさ。めでたしめでたし。どうだい、感動的だろ?」
「ハンニバル、それ、『悪魔の毒々モンスター』と『ブラインド・デート』に、更に青汁と最近のジャパニーズ・コミック混じってる。」
 ここはウラジミールのコマンド・サンボ道場の2階。めでたく看板を取り返したAチームは、ウラジミールから残りの報酬を貰うべくここを訪れたのであった。
「本当にありがとうございました。これでまた、道場の営業ができます。」
 ウラジミールがぺこりと頭を下げた。
「じゃあ、これ、残りの5万ドルです。」
 ウラジミールが引き出しから小切手を取り出した。
「じゃ、遠慮なく……。」
「いいってことよ。」
 伸ばされたフェイスマンの手を押し退け、コングが小切手を受け取る。
「この報酬は、ベアが面倒見てる孤児院に寄付するぜ。それでいいんだろ? ハンニバル。」
 コングが言った。
「異存なし。レッツ寄付しちゃって下さいよ。」
 ハンニバルがにっこり笑って言った。
「え? ちょっと待ってよ、孤児院への寄付はマードックのファイトマネーを充てるんじゃなかったの?」
 フェイスマンが叫んだ。
「仕方ねえだろ、乱闘で壊したリングや備品、弁償すると、ほとんど手元には残らねえんだよ。」
「そ、そんなあ……。」
 あまりのショックに、へなへなと崩れ落ちるフェイスマンであった。
【おしまい】
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