頑張れ、恋のキューピッド(スチューピッド)
伊達 梶乃
 ロサンゼルス市街、午後5時。フェイスマンはこれからおデート。今回のお相手は、理知的女性、職業はランジェリーデザイン会社の社長。彼女が車で迎えに来てくれるので、フェイスマンは徒歩。〔私は瑞穂ではないので、ここで「トホホ」とは書かない。〕
 待ち合わせ場所まであともう少し。待ち合わせ時刻は午後5時半。彼女は「何があっても、5時半に必ず迎えに行くわ」と言っていた。会議が長引いても、接待に出向かなくてはならなくても、ストッキングがやぶけても、ヒールがもげても。フェイスマンは彼女を信じた(振りをした)。従って、あと約30分、フェイスマンはぶらぶらとその辺を散歩することに決めた。



 ロサンゼルス市外、午後3時。コングは車の修理の真っ最中。手をオイルで真っ黒にして、車の下に潜っていた。無論、コングの背の下にはキャスターつきの板。逆さ匍匐前進は結構難しいので。
「おーい、新入り、休憩だ!」
 その声を聞いて、コングが車の下からガラガラッと出てきた。その目の前に、タオルと1杯の牛乳。グラスの周りには水滴がついていて、いかにも美味そうだ。腹には悪そうだが。
「こりゃあありがてえ。」
 コングは左手でタオルを、右手でグラスを取り、こめかみに伝う汗をタオルで拭いつつ、グラスに口をつけた。彼は、タオルとグラスを差し出した人物が逆光の中でニヤリと笑ったのを知らなかった。



 ハリウッドからちょっと(だいぶ)離れた撮影スタジオ、午後6時。ハンニバルはアクアドラゴンの中でぐったりしていた。監督と脚本家が、今日17回目の言い合いを始めたからだ。アクアドラゴンが沼から上がった時に、尻尾を右に流すのがいいのか、左に流すのがいいのか。始終こんな調子なので、撮影に入ってから既に10日経つのに、アクアドラゴンは未だ沼から上がれていない。
 普段のハンニバルなら、文句をつけて勝手に演じていただろうが、今回彼はやけに機嫌がよかった。自分でも最近どうしてこんなに機嫌がいいのか不思議に思ったぐらいだ。(それは、実は、ウエストが1インチ細くなったとフェイスマンに報告したら、フェイスマンがとても喜んで、ご褒美に脂ギトギトのステーキを鱈腹食べさせてくれて、それが原因でウエストが1.5インチ太くなったからに他ならない。)
「監督、俳優の皆さんにはもう上がってもらうってことで、どうでしょう? 後の話し合いは我々だけで。」
 気を利かせてくれたのか、助監督がそう言った。彼の手は「1杯飲みながら」と示している。監督も脚本家もそれに賛成して、今日の撮影はこれまで。
「お疲れさま!」
 誰かがアクアドラゴンに向けて缶ビールを投げて寄越した。それを難なくキャッチ。
「誰だか知らないけど、遠慮なくいただきますよ。」
 ハンニバルはそう独り言を呟くと、アクアドラゴンの手で四苦八苦してプルタブを引き、顔の前の小窓(?)を開けてビールを呷った。アクアドラゴンから数フィート離れた所で雑用係がニヤリと笑ったのを、ハンニバルは知らなかった。



 ロサンゼルス市内、某病院、午後7時。まだ外は太陽も沈んでいないというのに、病院内は寝静まっていた。いや、寝静まされているはずなのに、かなり騒がしかった。
「♪かーのじょをハッピーにしたけりゃー、ナーイロンのドレスを買ってやんなよー。そーすりゃ彼女はあんただけのもん。ナイロン、買ってやんなよー。」/『ナイロンドレス』by 3ムスタファズ3(訳詞・伊達梶乃)
 ピンクに白い水玉模様のナイロンドレス(フレアのワンピ)を着てくるくる回っているのは、誰あろう、マードック。靴は相変わらずコンバースだし、いつものキャップを被ってはいるが。今回キャップには、ドレスとお揃いのリボンを結んだポニーテールが針金で留めてある。見ようによっては、プロムを前にしてダンスの練習をしている数十年前の女子高校生に見えなくもない……わけはない。
「♪ナイロンドレスってーのはステキなドレス。ナイロンドレスってーのはハッピーなドレス。」
「マアアアアドックさん!」
 当然ながら、注意が入った。
「もうみんな寝静まっている時間なんですから、静かにして下さい!」
 看護婦が険しい表情でそう言い、マードックは、「寝静まってるって? これのどこが?」と文句を言うために、口を閉じて耳を澄ませた。
「カーニばーさーみーをー、カーニばーさーみーをー、あーざーやかーにー、ダチにーきーめーてーさ。」
 誰かが国歌(12番まであるうちの第12番目)を歌っている。元米国陸軍大尉として、これに加わらない手はない。
「カーニばーさーみーをー、カーニばーさーみーをー、むーりーやりーにー、カニにーかーけーてーさ。」
「カニばーさーみーよー、カニばーさーみーよー、そーのーつよーきーカニばーさーみーよー。」
 別の病室から続く声が聞こえた。
「ガーキーをーしめたーりー、ワーニをたおしたーりー。」
 次第に唱和する声が多くなってくる。
「カーニーばさみよー、えいえーんなーれー。」
 最後は大合唱になっていた。感動的であった。思わず涙ぐむマードック。
 その腕に注射針がプチ、と刺さった。
「何?」
「鎮静剤です。」
「なーんだ、びっくりした。」
 看護婦とマードックの後ろでアンプルを持った看護夫がニヤリと笑ったのを、誰も知る術はなかった。ニヤリと笑った本人以外は。



 頬に痒みを感じてフェイスマンは目を覚ました。痒いのもそのはず、湿った木の床の上でうつ伏せている。
 あれ? 俺、何でこんなとこに寝てんの?
 今までの自分の動向を思い出そうとした。花屋の店先で、彼女に贈る花を物色していた……少なくとも午後5時10分の時点では。店頭にあったバラが、どれもこれも冴えない色をしていたので、この際ストレリチアでもいいかな、いーや、よくないよ、と思ったところまでは覚えていた。が、その後の記憶がない。
 ここは……どこなんだろ?
 うつ伏せていては、現状把握ができない。なので、フェイスマンは寝返りを打った。これで頬の痒みは多少治まった。
 湿っぽい、そして薄暗い部屋の中だった。三方は木の壁だが、1つの壁には鉄格子、ではなく木の格子が嵌められていて、それでやっと「牢」だということがわかる。木の天井からは裸電球が吊り下がっているが、電灯が灯っているわけではない。灯るかどうかも定かではない。木の格子と反対側の壁には窓が設えてあり、もちろんそこにも格子が嵌められている。そこから入ってくる明かりで今が昼なんだということがわかった。腕時計を見てみたら、やはり午後1時を少し回ったところだった。
 湿っぽいし気温も高いが、何となく爽やかだ。窓から入ってくる風が蒸れた部屋に心地好い。風の匂いも、まるで高原にいるようだ。
 しかし、いかんせん蒸れているのだ、この部屋、もとい、牢は。それは一体なぜか。それは、気温が高いからとか湿度が高いからといった問題だけではなく、フェイスマン以外に大の男が3人いて、この狭い牢でぐーすか寝ているからである。3人、即ち、ハンニバル、コング&マードック。それと、マードックが抱えているカモノハシの縫いぐるみ(白地にピンクの水玉模様)……これは「3人」に含まないか。
 花屋の前にいた時点では、彼ら(カモノハシ含む)は行動を共にしていなかった。フェイスマンにとっては、彼らがその時どこにいたのかさえも不明。しかし、今はみんな一緒にここにいる。
 聞き慣れた鼾の3部合唱の中で、フェイスマンは体育座りをしたまま、じっと3人の寝姿を見つめていた。



 1時間ほどすると、まずハンニバルが目を覚まし、続いてコングが目を覚ました。
「おはよう、フェイス。」
 むっくりと上半身を起こして、ハンニバルがぼんやりとした声で言う。
「ハンニバル、もう昼すぎてんだけど?」
「ふむ、少し寝坊してしまったようだな。昼飯はどうした? もう食べ終わったのか、みんなは。」
 珍しくハンニバルは寝惚けていた。
「昼ご飯については、格子の向こうにいるお兄さんに聞いてよ。俺、当番じゃないから。」
 ハンニバルとフェイスマンの妙に日常チックな会話を耳にして、コングがだるそうに言った。
「牛乳飲みてえ。」
 そこで仕方なく、フェイスマンは格子の向こう側に肩と腕だけ見えている人物に向かって声をかけた。
「ねえ、お兄さん、昼ご飯って貰えるの? せめて牛乳だけでもくれないと、暴れるかもしれないよ。」
 見張りと思しき男が、自動小銃を構えて振り返った。
英語はわかんねえよ。
 フェイスマン、ハンニバル、コングの3人は顔を見合わせた。フェイスマンは『叫び』のポーズで、ハンニバルは肩を竦めて、コングは眉間に皺を寄せて。
 ここはスペイン語圏だ! だけど一体、スペイン語圏のどこだ?
腹が減ったので、食事を出してほしい。望むらくは冷えた牛乳も。
 流暢なスペイン語でハンニバルが言った。スペイン語訛の英語が得意なハンニバルは、スペイン語もいくらかできる。
ああ、食事か。待ってな、何か持ってきてもらうよ。ろくなもんねえけどな。まず牛乳はないと思うぜ。
 見張りはスペイン語でそう答えると、廊下の向こうに「食事持ってきてくれ! 牛乳もな!」と叫んだ。
「なかなか親切じゃないか。」
 ハンニバルは満足そうに言い、コングも微笑と共に頷いた。だが、スペイン語を十分に理解しないフェイスマンは、何が何だか現状を把握できないまま。



 パンとコーヒーと塩漬け肉で腹も満たされ、「今、麓の村まで牛乳を買いに行ってもらってる」と聞いて、コングの機嫌も悪くはなかった。
 しかし、どうも解せない。誰が何のために、Aチームをこんなところに押し込め、おもてなししてくれているのだろうか? そして一体ここはどこなんだろうか? 加えて、なぜマードックは起きないのだろうか?
 ハンニバルは、見張りの青年にそういった疑問点を聞いてみた。
俺にもわかんねえ。ボスがあんたたちを連れてきて、ここに閉じ込めて、で、俺に見張ってろって言っただけなんでね。ここの場所は……えーと、何て言やいいんだ? 住所はわかんねえ。メリダとサンクリストバルの間くらいかな。そいつが起きねえのは……寝不足だったんじゃねえ?
 非常に親切に教えてくれたはいいが、ハンニバルたちには何のプラスにもならないことばかり。メリダとかサンクリストバルがどこにあるのかも知らないし。マードックが寝不足なんてあり得ないし。ただ、ボスがいる、というのはわかった。
ボスって何者なんだい?
 リラックスした口調で、ハンニバルが尋ねる。
ボス? それが、俺にもよくわかんねえんだ。
 自分のボスぐらいわかっておけ! と無言で小鼻を膨らませるハンニバル&コング。フェイスマンはずっとチンプンカンプン。
 と、その時。
パコ、お喋りはそのくらいにしておけ。
 強面のアニキ登場。これがボスか?
ボスがお呼びだ、フェイスマン。
 彼がボスではないらしい。
「何? 俺?」
 名前を呼ばれたことしか、フェイスマンにはわからなかった。ハンニバルが通訳する。
「ボスがお前のこと呼んでるって言ってるぞ。お前、ボスと知り合いなのか?」
「ボス? 誰?」
 今までの話が全然わかっていないのだから仕方ないが、ハンニバルとコングにはフェイスマンが大ボケ野郎に見えた。
「……いい。行ってこい。」
 そうしてフェイスマンは、アニキに腕を掴まれて連れ去られていった。
「そのボスとやら、英語話せるといいんだが。」
 ハンニバルがボソリと呟いた。



 フェイスマンが案内された部屋には机も椅子もあり、窓にはガラスも嵌まっていた。机の向こう、窓の前には、いかにも「ゲリラのボス」といった感じの男がサングラス+ベレー帽+鬱蒼たるヒゲ+戦闘服という出で立ちで座っている。夕陽を背負ったその姿は、まるで映画のワンシーンのようで、思わずフェイスマンは息を飲んだ。
 彼は何も言わず、ただサングラスの奥からじっとフェイスマンを見つめていた。少なくとも、フェイスマンにはそう思えた。もしかしたら、フェイスマンの後ろに立っているアニキを見つめているのかもしれないけど。もしかしたら、アニキの後ろにあるドアにトカゲか何かがへばりついていて、それが気になって仕様がないのかもしれないけど。とにかく、夕陽で真っ赤に染まった部屋の中は、時が止まったかのように静かだった。
カルロス、お前は下がっていい。
 掠れた声が呟くように言った。フェイスマンには意味がわからなかったが。
はっ。
 後ろのアニキが部屋の外に出た。これで部屋の中には、ボスと思しき人物とフェイスマンの2人切り。……ではない。もう1人、影の薄い男が窓辺にいた。今の今までフェイスマンが気づかなかったぐらい、ひっそりとした小柄な男だ。参謀なのかもしれない。意味ありげに窓の外を見つめている。
「Aチームの一員、フェイスマンことテンプルトン・ペック。」
「はい?」
「まだわからないか?」
 英語だったが、フェイスマンには何のことやらさっぱり。
「俺は君のことを知っているし、君も俺のことを知っているはずだ。」
「えーと……どこでお会いしましたっけ?」
 女性の顔はすぐに覚えるが、男性の顔はなかなか覚えられないフェイスマン、失礼がない程度に聞いてみる。
「電話で、だ。直接顔を合わせるのは、これが初めてだと思う。しかし、俺の顔写真も君のも、会報には何度となく載っている。」
 会報? 何の? ゲリラのことが載っている会報なんて取ってたっけ? 新聞じゃなくて?
 矢鱈滅鱈手当たり次第に会報を(局留で)購読しているフェイスマンには、見当のつけようがなかった。
「えー、会報っていうのは……その、どの会報ですかね?」
「裏世界闇物資調達係組合の会報だよ。」
「裏闇調組の?」
 フェイスマンの声は引っ繰り返っていた。特に「チョー」の辺りが。
「まだわからないかなあ。俺だよ、俺。」
 親しげに彼は言った。しかし、表情は変わっていない。そして、口も動いていない。もしや、と思い、フェイスマンは窓辺の小男に視線を移した。
 このだらしないハゲ具合、この許し難い顎の弛み、知っているかもしれない。裏闇調組の会報でよく見るこの顔(正面写真しか知らないけど)……。
「じゃあ、ヒント。『飛行機返却できないってどういうことなんだ? 壊しちまったのか? 同じ機種なら何でもいいから、早いとこ返却してくれ。次の予約が詰まってんだ!』……これでわかったか?」
「もしかして……ラウル・ドミンゲス?」
「その通り!」
 ハゲチビややデブのラウル・ドミンゲスは、満面の笑みで振り返った。それは確かに、裏闇調組の会報に毎回「南米支部ナンバーワン」として写真が載っている、あのラウル・ドミンゲスの顔だった。因みに、裏闇調組会報のラウル・ドミンゲスの写真の横には必ずフェイスマンの顔写真が「北米支部ナンバーワン」として載っている。そしてフェイスマンは、その月とスッポン具合に満足していた。
「あんたがいるってことは、ここ、ボリビア?」
「いや、ベネズエラだ。」
「はー、ベネズエラねえ。」
 問題、1つ解決。フェイスマンにはボリビアとベネズエラの違いがあまりよくわかっていないにせよ。
「で、この人は何?」
 と、フェイスマンは机に向かったまま微動だにしない「いかにもゲリラのボス」に目を向けた。
「彼は表面上のボス。実質的には俺がボスらしいんだけどね。俺の見た目がこうだから、先代のボスがこうした方がいいって言ってさ。表向きには彼がボスで俺は参謀、本当は俺がボスで彼はボディガード。」
「彼とかみんな、ゲリラ……だよね? あんたゲリラだったっけ?」
「いや、ゲリラの手伝いをしているだけだよ。先代が俺によくしてくれたし、ここには俺も武器類の調達を頼まれてしょっちゅう出入りしてたからさ。後継者の育成が間に合わなかったもんで、俺が知恵を貸してるってだけ。銃器の扱いも、俺の方が彼らより慣れてるしね。君がAチームの仕事をしながら、他の何だか芸術的な仕事もしながら、物資調達の仕事をしているのと同じだよ。」
 ラウル・ドミンゲスは、そう話しつつ、フェイスマンに椅子を勧め、自分も窓枠に尻を乗せた。
「別にあんたの仕事に口出しする気はないけど、ここで物資調達の仕事できんの?」
「できるさ。電話さえかけられればいいわけだろ? ボリビアの俺んちにいるのと大差ないよ。ボリビアよりもベネズエラの方が都市化が進んでるしね、カラカスとマラカイボに限って言えば。それに、最近はコロンビアのお客さんが多いし。」
 以前にアルゼンチンでの依頼の件で調達を頼んだ時にも思ったことだが、ラウル・ドミンゲスは口数が多い。
「先代のボスは? あんたにゲリラ活動任せて引退したわけ?」
「半年ぐらい前だったっけかな、残念ながら亡くなったよ。」
「ゲリラ活動のせいで?」
「糖尿病で。元々腎臓が悪かったんだが、甘いものに目がなくてね。特にアメリカのミルキーウェイが好きだった。パンにはいつもイタリアのヌテッラをたっぷり塗ってたし。」
 彼は遠い目をした。
「俺は、甘いものを控えるように言ったんだけどね。調達してくるのがお前の仕事だろう、って言われてさ。俺の体のことは気にしなくていい、お前はお前の仕事を全うしろ、って。まるで親父に叱られたみたいな気分だったよ。」
「親父さんも糖尿病で亡くなってるとか?」
「親父? ニースで元気にしてるよ。」
「ニース!」
 ニース、それはフェイスマン憧れの地。
「あんたの親父さん、何者?」
 ボリビアの一親父がニースにいるなんて、フェイスマンには許し難いことであった。
「裏闇調組のトップ、アレハンドロ・ホルヘ・ドミンゲス=イ=アクーニャ。知らなかった? 今は調達係は引退してるけどね。その親父のコネのおかげで、今の俺があるってわけ。」
 心からラウル・ドミンゲスが羨ましいフェイスマン。彼は裏闇調界のサラブレッド、一方フェイスマンは現場叩き上げ。ゼロから全部独力で築き上げてきたのだ、フェイスマンらしくもなく。
 自分のやってきたことが全然スマートじゃないように思えて、彼は俄に不機嫌になった。そして思った。ハンニバルに出会わなければ、こんなお尋ね者の暮らしをしないで済んだはずだ。詐欺やら調達係やらをしないで済んだはずだ。裏闇調組なんか知らないまま、ニースでバカンスを楽しめたはずだ。おニューのスーツを泥だらけにすることもなかったはずだ。ベネズエラのゲリラに捕まったり……はするかもね。
「で、あんたは俺たちAチームに何をさせようっての?」
 不機嫌さを如実に顔に出し、フェイスマンは尋ねた。
「あ、わかる?」
「俺たちをわざわざ個別に連れてきて、そのまま放っておくのは、世界中であの間抜けなMPくらいだよ。」
「MPの場合、マードックは捕らえないだろ?」
 流石にラウル・ドミンゲスは情報通。フェイスマンは余計にむっとした。
「……ベネズエラ政府を叩くってのは、いくらAチームでも荷が重いよ?」
「あーあー、そんなことされたら、彼ら反政府ゲリラは困っちゃうよ。」
 ラウル・ドミンゲスは、「わかっちゃいないねえ、全く」という顔で、手をひらひらと振った。
「何で? 反政府ゲリラの目的は、政府を叩くことだろ?」
「そうだけど、目的が達成された後、彼らはどうなる? もうゲリラではいられなくなるし、かと言って仕事もない。新しく職に就けるほどの職歴も学歴も知識もない。今この状況なら、政府要人を拉致監禁して金品を巻き上げて、何とか彼らも生活できるし、国民も彼らに好意的だ。まあ、新政府が国民に諸手を挙げて受け入れられるって可能性は皆無だけどね。多少でも新政府が国民に支持されると、ゲリラ側としては困るんだ。矛盾することだけど。」
 そこまでは頭が回らなかったフェイスマン、口がO。
「……じゃ、一体どうして俺たちを? 商売敵がいるとか?」
「商売敵って言うか、敵対組織はあるよ。でも、君たちに来てもらったのは……個人的なことなんだ。」
 ラウル・ドミンゲスは言い難そうだったが、フェイスマンは意地悪く、話を促さなかった。放っておいても、遅かれ早かれこいつは喋るだろう、と踏んで。
「政府を叩くとか敵対組織を叩くっていうのをAチームに頼むんなら、正攻法で依頼すればいいわけだろ? 彼らゲリラに金はなくても、俺にはあるんだし。俺は金貸しもしてるしね。」
 そうか! こいつ、金持ちなんだ!
 そう思った瞬間、不機嫌は一気に吹き飛び、フェイスマンの頭の中一面に花が咲き乱れた。その中をスキップするフェイスマン。
「だけど、俺の個人的な依頼だし、Aチームが承諾してくれそうもないことだし、それに……実のところ、必要なのは君だけなんだ。」
「何、俺だけ?」
 顔面の筋肉を駆使して、フェイスマンは込み上げてくる笑顔を押さえ込んだ。依頼人=金持ち、必要人員=フェイスマン1人、∴丸儲けかつ独り占め。ビバ!
「そう、君1人だけがいればいいんだ。他の3人は、君が承知してくれなかった場合の人質として連れてきただけで。」
「うーん、承知するかどうかは、依頼内容によるね。」
 既に承知する気でいるフェイスマンだが、格好をつけるためにそう言っておく。そして、つけ加える。
「それと、当然ながら、謝礼にもよる。」
「ああ、謝礼ね。それはもちろん。」
 と、ラウル・ドミンゲスは開襟シャツの胸ポケットから電卓を取り出した。全く同じタイミングで、フェイスマンもスーツの内ポケットから電卓を取り出す。近寄る2人。
「ペペポポポ、と、こんなもんで?」
「それ、単位何?」
「アメリカドル。」
「もうちょっと色つけない?」
「じゃあ、ペピポポポ、と。どう?」
「経費込み?」
「いや、経費はこっちで持つ。」
「ならOK。」
 商談成立、固い握手を交わす2名。
「それで、依頼内容なんだけど、今更断るのはナシだぞ。」
「ご心配なく、報酬分はちゃーんと働きますともさ。何なりとお申しつけ下さい。」
「……これ。」
 ラウル・ドミンゲスは電卓ケースの隙間から1枚の写真を取り出し、フェイスマンに手渡した。隠し撮りしたと思しきその写真には、1人の女性が写っている。ラテン系の濃い顔立ちをした彼女は、質素な身なりで、年は20代後半だろうか。濃い顔だが、決して美人ではない。ま、悪くないかな、という程度。
「誰?」
「彼女の名はマリアエレナ。麓の村で雑貨屋を切り盛りしている。」
「それで? 彼女が政府側のスパイだとか?」
「いやいや、全然全くそんなんじゃない。ただの慎ましやかな女性だ。」
 そう言うラウル・ドミンゲスの顔は真っ赤だった。耳の先まで真っ赤。フェイスマンの脳味噌に「ゆでダコ」とテロップが出て点滅した。
「ただの、ねえ……。」
 フェイスマンがニタニタと笑う。
「笑わないでくれよ。そりゃあ俺は君みたいにハンサムじゃないし、背も低いし、太ってるし、頭髪も寂しい。それは嫌ってほどわかってる。でも、彼女に対する気持ちは本気なんだ。本気だけど……どうしたらいいかわからないんだ。」
「だから、俺に仲を取り持ってほしい、と。そういうわけね。」
「そう。君にとっては簡単なことだろう?」
「簡単だよ、声をかけるのはね。彼女が俺に惚れちゃわなきゃいいけど。」
「彼女に限って、そんなことはない!」
「そうとも言い切れないよ。女ってのはよくわからない生き物だから。知らなかった?」
「ああ……。恥ずかしい話、恋をするなんて初めてなんだ。この年まで、心が時めくなんて思い、したことがなかった。」
「遅い春だっていいと思うよ。……因みに、あんたいくつ? 彼女とは10くらい違うように見えるけど。」
「俺? 29。」
「にじゅうくううううう?」
「老けて見えるってよく言われるんだ。」
 そのまましばらくフェイスマンは固まっていた。



「フェイスの奴、遅いな。」
 牢の中を行ったり来たりしながらハンニバルが言った。
「ボスって奴、英語できねえんじゃねえか?」
 暇を持て余して、コングは腕立て伏せをしている。
「もしそうだとしたら、話にならないだろうから、即刻ここに戻されるだろう。」
「違えねえ。」
「それにしても、何でそのボスとやらはフェイスのことを知ってるんだ?」
「さあてねえ。」
「俺たちは単なるオマケか?」
「かもしれねえな。」
「フェイスが何か情報を握っていて、それを聞き出そうっていう腹か?」
「あり得る。」
「コング、お前、今何も考えてないだろう。」
「いんや、考えてるぜ。あんたがいつ、ここを出ようって言ってくれるかって。それと、こいつがいつ起きるのか。」
 コングは伏せたまま後ろを見やった。その視線の先では、未だにマードックがすやすやと眠っていた。カモノハシを抱き枕にして。
「ここを出るのは、フェイスが戻ってきてからだ。何か掴んだかもしれないしな。」
 そして2人はまた黙々とそれぞれの運動をするのであった。



「とにかく、詳しいことは明日になってからだね。」
 フェイスマンが揉み手をして言った。
「彼女の店に行く用事もあるから、その時に一緒に行ってくれよ。」
 すっかり日も落ち、ラウル・ドミンゲスは部屋の電気を点けた。
「ああ、そりゃもうドーンと大船に乗った気でいて。あ、それと、この話、他の3人には秘密ね。俺だけが仕事を受けたってこと自体、内密に。」
「わかった。君の言う通りにするよ。で、君はこれからどうする? 牢に戻るか、別の部屋に泊まるか。」
「牢に戻ろうかな。みんな心配してると思うし。……血糊とかある?」
「あるさ、いろいろと。拉致した要人の家族を脅すためのやつが。変装道具も多少はあるよ。」
「それ貸して。必要経費にスーツ代含んでいい?」
 ラウル・ドミンゲスが頷いたのを見るや否や、フェイスマンは着ていたスーツとシャツを引き裂いた。
「契約書、ちゃんと書いてね。」



おい、へたばってないで、さっさと歩け。
 スペイン語でそう言うのが聞こえ、スクワットをやっていたハンニバルとコングは格子に寄った。ズタボロのフェイスマンが廊下の向こうからこちらによたよたと壁伝いにやって来る……のは、ハンニバルとコングには見えなかったが。
パコ、扉を開けろ。
 見張りの青年が錠を外し、扉を開く。カルロスは、格子に掴まってやっと立っていたフェイスマンを、ぐい、と引き寄せ、牢の中に突き飛ばした。腰高の扉からそのまま床に倒れ込んだフェイスマンをコングが抱き起こす。
 扉が鈍い音を立てて閉じられ、パコは再び錠をかけた。カルロスが何も言わずに廊下の向こうへ消える。一瞬、3人の方へ目を向けたパコだったが、バツが悪そうにして、彼らに背を向けた。
「大丈夫か、フェイス。」
 肩に回されたコングの手に力が入り、フェイスマンは眉を顰めた。
「……痛いから、あんまり触んないでくれるかな、ハハッ。」
 フェイスマンが力なく笑う。
「済まねえ。」
 コングは壊れ物を扱うようにして、フェイスマンが床に座り壁に凭れるのに手を貸した。フェイスマンは、ゆっくりとした動きで注意深くポケットからハンケチを出し、口許を拭ってから、頬骨の辺りを押さえた。
「あーいて。」
「だいぶやられたな。」
「ああ。でも、骨も歯も折れてなさそう。」
 少し安心して、コングが息をついた。
「何か収穫はあったか?」
 フェイスマンの前に跪いてハンニバルが聞く。
「俺、スペイン語わかんないから、あんまし。ボスらしき男には会ったよ。いかにもゲリラって感じ。……そうそう、ここ、ベネズエラらしい。奴らが話してる言葉ん中で、それだけはわかった。もしかしたら、ここがベネズエラなんじゃなくて、奴ら、ベネズエラに用があるだけなのかもしれない。」
「ここがベネズエラだって気も、しなくもないな。で、ボスとは知り合いだったのか?」
「俺の方は見覚えないんだけど、何だか俺のこと知ってるみたい。」
「ベネズエラン・ゲリラに恨まれるようなことをした覚えはないし……。フェイス、お前、そのボスのコレに手を出したんじゃないか?」
 ハンニバルが小指を立てる。
「そんな、わかんないよ。『私、ベネズエラン・ゲリラのボスの愛人なの』なんて言われたことないし。」
「普通、言わねえよな。」
「ううむ……奴らの目的がわからんことにゃ、こっちも動きようがない。」
「動くって、こっから逃げるって以外に何しようってんだ?」
「ただ黙って何もせずに逃げるのは、Aチームの主義に反するでしょう。」
 コングとフェイスマンは、「反してない(ねえ)よ」と心の中で思ったが、口には出さなかった。
「向こうさんの意図がはっきりするまで、ここで様子を見るというのはどうかな?」
「……そうだな。まだ起きねえ奴もいるしよ。」
 マードックの方を振り返って、コングがハンニバルに同意する。
「あらら、まだ寝てるの、モンキー。」
 フェイスマンが、やれやれ、といった風に小さく首を振ると、その振動で唇の間から血(糊)が垂れた。



 昼すぎに目覚めたAチームは、夜の間眠れなかった。だが、日が昇ってしばらくすると、強烈な睡魔が彼らを襲った。〔私は瑞穂ではないので、ここで「スウィマーが?」とは書かない。〕
 さあ寝るか、と思った時に、朝食が運ばれてきた。硬いパン、硬い燻製肉、ぬるいコーヒー、ぬるい牛乳、傷んだ果物。ベネズエラン・ゲリラの朝食としてはステキすぎるが、それらはAチームに全くアッピールしなかった。昨日の塩漬け肉の方がまだよかった。あれは、塩っぱくて多少硬いだけだった。燻製肉は、著しく硬い上に、塩っぱくて、更に臭い。牛乳もまたひどい代物だった。色は白いが、それだけ。コーヒーだけは、ぬるくとも美味かった。
 なので、Aチームは想像力をフルに使って、朝食を食べた。元々眠いのだから、半ば眠りながら、今食べたいものを夢見て、もぐもぐもぐもぐ。ハンニバルは、脂の乗ったスパイシーなスペアリブを夢見つつ、燻製肉をいつまでもいつまでも噛んでいた。コングは、冷たい本物の牛乳のかかったコンボを夢見つつ、口の中で硬パンとぬるい牛乳のようなものをじっくりと混ぜ合わせていた。フェイスマンは、ポアレした平目のゼリー寄せチコリ添えを夢見つつ、半分ミドリカビに覆われたオレンジに親指をぶっ刺して寝こけていた。
 と、その時。
食事は済んだか?
 カルロスが姿を現し、閉じようとする瞼を必死に開いて身構えるコングとハンニバル。「今日はどっちの番だ?」「さあてね」と、目で会話する。フェイスマンは、緊張感のかけらもなく、完全に眠っている。
フェイスマン、来い。
 ハンニバルとコングの思惑に反して、再度フェイスマンが呼ばれた。
「またフェイスか?」
 ハンニバルは少しがっかりしたように言い、コングは眉間に皺を寄せた。
フェイスマン!
 カルロスが声を荒げる。横でパコがびくっとした。
「あ? ……ああ、寝ちゃってたわ。ん、何?」
 小さく伸びをして、フェイスマンがカルロスの方を見る。
来い。
「俺、指名されたの?」
 今度はハンニバルの方を見る。
「ああ、またしてもお前をご所望のようだ。気をつけろよ。無理するんじゃないぞ。だが、奴らの目的と、ここいらの地理についての情報を掴んでくること。」
「わかってるって。英語で話してくれればね。じゃなかったら、フランス語かドイツ語の超初級会話か何か。」
 言いながらフェイスマンはのろのろと立ち上がり、オレンジを指に刺したまま、カルロスに連れられていった。
「敵さん、だいぶフェイスにご執心のようだな。」
 こっくりとコングが頷く。
「で、あの阿呆は一体いつ起きるんだ?」
 2人は未だ眠っているマードックの方を見やった。
「さあてねえ。フェイスがスペイン語を覚えた後、じゃないか?」



ブエノス・ディアス、フェイスマン!
 ラウル・ドミンゲスは寝起きのいい男のようだ。カルロスを下がらせた後、爽やかにそう言う。
「うあよ。」
 大きなあくびを1つ。オレンジに気づいて、それを指から外し、デスクに乗せる。
「もう行くの? まだ7時ちょいすぎだよ?」
「彼女のいる麓の村までは、ここから車で2時間ぐらいかかるからね。それに君、着替えたいだろう?」
「シャワー浴びて、ヒゲ剃って、歯磨きたいな。」
「よし、用意させよう。君が彼らに協力するのに同意したってことにすればいい。何をどう協力するかは、君と参謀である俺だけの秘密にしておいてさ。」
「俺とあんただけ? この人は? ずっと俺たちの話、聞いてるけど。」
 フェイスマンは、定位置に座って微動だにしない「いかにもゲリラのボス」を顎でしゃくって示した。
「こいつ、エンリケは、英語がてんでダメだから大丈夫。」
 ラウル・ドミンゲスは微笑んで、エンリケの肩をポンと叩いた。
エンリケ、こちらはペックさん。我々の組織に協力してくれるそうだ。実に心強い助っ人だよ。俺が仕事の面で、親父の次に尊敬している人で、その上、こう見えても戦闘のプロだ。
 珍しく褒められているのに、フェイスマンには、自分のことが説明されているんだろうな、程度しかわからなかった。
 エンリケは、じっとラウル・ドミンゲスの話を聞き、しばらく間を置いてから、ガタッと立ち上がった。咄嗟に飛び退くフェイスマン。サングラスとベレー帽をかなぐり捨て、エンリケはフェイスマンの方に手を差し出した。恐る恐る近づいて、その手を取る。固い握手……骨が折れそうなくらいに。更に、相手はラテン民族、握手だけでは済まされず、引き寄せられて熱い抱擁。フェイスマンは、抵抗するのは諦めて、されるがままになっていた。
 エンリケの腕の中で眠ってしまう事態だけは避けたい、と頑張っていたフェイスマンだったが、頑張った甲斐あって、フェイスマンの上下の瞼が合わさる前に、抱擁は解かれた。
彼のことはカルロスには話したのか?
 エンリケの声は、太く、渋く、格好よかった。カルロスの声も、冷たく響くハンサム・ヴォイスなのだが。
いや、まだだ。
俺から紹介させてくれないか?
いいとも。
 フェイスマンの肩を抱いて放そうとしないエンリケが、ドアの方に顔を向ける。
カルロス!
何でしょう?
 ドアの向こうで待機していたカルロスが入ってくる。
このお方はセニョール・ペック。ラウルが尊敬してやまない調達と戦いのプロだ。俺たちの組織のために、命をも捨てる覚悟だそうだ。
 フェイスマンにはわけもわからぬまま、再度固すぎる握手と熱すぎる抱擁。
さて、エンリケ、カルロス。
 ラウル・ドミンゲスが、永遠に続きそうな抱擁にストップをかけてくれた。
ペックさんはシャワーを浴びてヒゲを剃り歯を磨き、清潔で小洒落た服に着替えたいそうだ。みんなで準備してくれないかな? ああ、それから、ペックさんの仲間たちには、ペックさんが我々に協力してくれることを黙っていてくれ。ちょっと思うところがあるんでね。
 ラウル・ドミンゲスが、小ずるい笑みを浮かべる。
 そして、熱いラテン・ゲリラズに挟まれたフェイスマンは、依然として両方から肩を抱かれたまま、シャワー室へ連行されていった。どこに連れていかれるのかわからないので、かなりドキドキ。果たしてフェイスマンはシャワーを1人で浴びることができるのだろうか?



 牢ではハンニバルとコングが眠っていた。眠れる時に寝ておくというのは、軍人として正しい行いかもしれない。
 そんな折、マードックはぱちっと目を覚ました。キョロキョロと辺りを窺う。彼が自力でわかったこと=@ここは病院じゃない、Aハンニバルとコングは安眠している、Bフェイスマンはいない、C今は夜ではない、Dこの頭痛は睡眠薬の過剰投与によるもの、E腹減った。
 壁際に、茶色く細長いものが落ちているのを発見。太さ約2インチ、長さ10インチ強。
 ……犬の? 人の? まさか……コングちゃんの……?
 しかし、そこから甘い匂いが漂ってくる。
 ……ハンニバル、糖尿? あ、尿じゃないか。
 よくよく見れば、それはバナナだった。キリンバナナを通り越して、真っ茶色なバナナ。オー、ミステイク。かつ、ミステリアス。なぜにバナナがこんな所に?
 だけど彼はクレイジー・モンキー、そんなことは気にせず、そのバナナを食べた。ちょっと腐っていたけど、気にしない。気になるのは、まだまだ空腹なのに、もう食べ物は見当たらない、ということのみ。
 口を尖らせて、マードックは床にぺたんと座り、膝の上にカモノハシの縫いぐるみを乗せた。
「こんちは。はじめまして。俺はクレイジー・モンキー、またの名をジェニファー。君は?」
「こんにちはー。僕はアヒルのロニー。はじめましてー。」
 アヒルとカモノハシを間違えているのはまあいいとして、どうやらこの縫いぐるみはマードックのものではなかったようだ。じゃあ一体誰がこの縫いぐるみをマードックにあてがったんだ?(解答は半年後に!)
「なあ、ロニー、俺たちどこにいるんだろね?」
「ここー。」
「そうだね、でも、ここってどこなんだろね?」
「ここー。」
 エンドレス。
「話変えよっか。俺、ちっと頭痛えんだけど、どうしたらいいと思う?」
「僕を頭に乗せるのー。そしたら痛くなくなるよー。」
 ロニーがそう言うので、マードックは彼を頭の上に乗せた。気のせいか(気のせいだ)頭痛が和らいだ。
 蛇足ながら、ロニーは全長3.5フィート。アヒルにしては大きい。カモノハシにしても大きい。そして、ロニーの中身はビーズなので、彼は常にくったりしている。加えて、割と重い。
「うん、だいぶ痛くなくなってきた。サンキュ。」
「どういたしましてー。」
 この1人と1個の会話を聞いて、居眠りしていたパコが目を覚ました。
やっと起きたのか。死んでなくておめでとう。
「こんちは、はじめまして。」
「こんにちはー、はじめましてー。」
1人で退屈してんのか? そっちの2人、寝ちまったからな。今、もう1人がボスんとこ行ってる。こってり拷問されてんだと思うぜ。
「ここ、どこなん? 何で俺たちここにいんの?」
「僕お腹空いたー。ミミズ食べたーい。」
今日はちょっと曇ってるけど、こんくらいが過ごしやすくていいよな。
「なるほど。俺様のステップに恐れをなしての犯行か。」
「メダカでもいーよ。ちっちゃい魚、ちゅるん、って。」
けどよ、何であんたそんな格好してんだ? アメリカじゃ今そういうのが流行なのか?
「やっぱ! そうじゃないかと思ってたんだよ。チリにはピーマン入れなきゃダメ。常識だよな。」
「僕のパパはフォアグラになっちゃったんだー。」
 こんな調子で、2人と1個の会話はずっと続いていた。
 ハンニバルは人の声で目を覚ましたが、起きるに起きられず、寝た振りをしていた。この全く噛み合っていない意思の疎通皆無な会話を止めるのも気が引けたし、かと言って、この会話に加われる自信はなかった(ハンニバルともあろうお人が)。そして思った。
 パコってば、ちょっと足りない奴だったんだ……。



 ジープのハンドルを握っているのはカルロス、助手席にはエンリケ、後部シートにはラウル・ドミンゲスとフェイスマン。ガタゴトと山道を走ること1時間55分。あと5分ほどで目的地に到着の予定。
 1時間と55分以上、フェイスマンは自分の「小洒落た」服装を気にしていた。
 下着まではかなり完璧だったのに……。
 ベネズエラの山奥、ゲリラのアジトで、まさか新品の柄物トランクスに穿き替えられるなんて、思ってもみなかった。嬉しい驚きだ。
 だが、彼のためにベネズエラン・ゲリラが用意してくれた服一式は、白いぴっかぴかのエナメルの靴に、純白のスラックス、白い靴下(薄地)、そして、珍妙な柄の開襟シャツ。アロハシャツの柄が素っ頓狂なものを想像したなら、それがこれだ。シャツの柄がなかったなら、何とか許せた。シャツが普通のアロハシャツだったなら、どう見てもハワイアン・バンドのメンバーだが、それでもまあいいとしよう。しかし、この柄は……。フェイスマンは前面しか観察していないが、そこにある柄だけでも頭を抱えたくなった。橙色をベースに、およそ関連のない50余種のものが所狭しと描かれている。
 着替えを急かされた上に、薄暗い部屋で着替えたので、背面の柄はよく見ていなかった。
 確か、色は黄色で、柄あったっけかなあ……?
 気になって、フェイスマンはラウル・ドミンゲスに尋ねた。
「これ、後ろ側ってどんな柄? 前面と同じ?」
 体を捩って背中を見せる。
「黄色地に、ハンガーの絵が描いてある。」
「それだけ? ハンガー1個?」
「ああ。……あ、ハンガーで思い出した!」
 ラウル・ドミンゲスが、パンッと腿を叩いた。肉づきがいいので、いい音がする。
「彼女、英語できない。と思う。」
「え? じゃあ俺と彼女、どうやって話すの? 俺、スペイン語わかんないよ?」
「……通訳が必要だな。」
「仲間内に誰かいんの、通訳できそうな奴。」
「今のところ、国内にいるのは俺だけだ。英語できる奴はみんな英語圏で潜入捜査してる。」
 それを聞いて、Aチーム全員がすんなりと無傷で拉致監禁された事実に納得が行った。彼らは、ただのゲリラではないのだ! ベネズエラの反政府ゲリラが何のために英語圏で潜入捜査しているかは不明なれど。
 そうこうしているうちに、4人を乗せたジープは村に到着した。村と言うか、集落? とりあえず、木造の建物がいくつかはある。そう多くはない。
 4人はジープを降り、ラウル・ドミンゲスが先頭に立って歩き出した。その斜め後ろにフェイスマンが続き、2人の後ろに残り2名がついて来る。
 1軒の家のポーチに上がり、ラウル・ドミンゲスは足を止めた。
エンリケとカルロスは、ここで見張っていてくれるかな?
 黙って頷き、ドアの両側にすちゃっと着く。
「よろしく頼むよ。」
 ドアノブに手をかけてフェイスマンにそう言うと、ラウル・ドミンゲスは扉を引いた。



 カラン、とドアに吊るされたカウベルが鳴った。
ブエノス・ディアス、セニョール・ドミンゲス。
 棚に向かって背伸びをしていた女性が振り返って言った。マリアエレナだ。手にしているのはコーンフレークの箱。
ブエノス・ディアス、セニョリータ。それを棚に乗せるのかい? 手伝おうか?
ええ、でも……。
 ええ、でも、ラウル・ドミンゲスはマリアエレナよりだいぶ背が低い。
「フェイスマン、頼む。」
「オッケ。」
 フェイスマンは紳士的笑みを湛えつつ彼女の傍らへ行き、コーンフレークの箱を棚の上に乗せた。
グラシアス、セニョール。
「どういたしまして。おやすいご用です。」
 英語を聞いて、彼女は目を丸くし、フェイスマンの顔を見上げた。
あなた……外国の方?
 そうね、フェイスマンはベネズエラ人には見えないね。
「アメリカから来ましたテンプルトン・ペックと言います。以後、お見知り置きを、お嬢さん。」
 マリアエレナの手を取り、手の甲に軽くキスをする。……なぜか言葉通じてるし。
 それを見てむっとするラウル・ドミンゲス。のしのしと2人の方へやって来て、間に割って入った。
彼は僕の友人でね。スペイン語ができないんだ、許してやってくれ。
 しかし、時既に遅し。マリアエレナの目はハート型になっていた。そうなるのも仕方あるまい。ベネズエラ人は概してアメリカに憧れている。特にベネズエラ女性はアメリカ男性に憧れている。その上、マリアエレナはこの村で生まれ育ち、週に一度、サンクリストバルまで仕入れに行きはするが、それ以外は村人とゲリラの顔ぐらいしか知らない。アメリカ人で、フェイスマンの顔で、コーンフレークの箱を棚に乗せてくれて、ジェントルに手にチュー、となれば、すっとーんとラヴってしまっても、誰も文句は言えまい。ラウル・ドミンゲス以外は。
マリアエレナ、昨日は牛乳をどうもありがとう。この間注文した圧力鍋はまだなのかい?
まだよ。
 最高に素っ気なく彼女は答えた。目はフェイスマンを見つめたまま。
……そうか。早く届けるよう言っておいてくれよ。今日は、そうだな、いつものパンとコーヒー豆と、それから野菜用の肥料と、ザルを1ダースばかり、あとマグカップと皿を4つずつ貰おうか。
わかったわ。
 彼女は名残惜しそうに視線をフェイスマンから外すと、てきぱきと言われたものを揃え始めた。
 マグカップと皿とザルの入った大袋が1つ、コーヒー豆とパンの入った大袋が2つ、野菜用の肥料(特大サイズ)が床にどすんと置かれた。マリアエレナ、力持ちである。彼女はカウンターの中に入って、旧式のレジを叩いた。
全部で税込み3万4817ボリバー。
 暗い顔で支払いを済ませたラウル・ドミンゲスは、エンリケとカルロスを呼んで、荷物を車に運ばせた。その間すらも、マリアエレナはフェイスマンを見つめていたのであった。



 4人と荷物を乗せたジープは、山道をガタゴトと登っていた。山道と言っても、木が生えていない所をぬって走っているだけなので、行きと帰りは道が違う。カルロスの勘だけが頼り。
「……だから最初に言ったろ。彼女が俺に惚れちゃわなきゃいいけど、って。」
 パンの入った一番軽い袋を抱えたフェイスマンが、袋の向こうのラウル・ドミンゲスに言う。
「ああ……。」
 パンとコーヒー豆の入った袋を抱えて肥料の上に座ったラウル・ドミンゲスが暗く答える。
「あんた、ちゃんと彼女と話できるじゃん。俺がいなくたってさ。」
「買い物の話ならね……。」
「……今になって言うのも何だけど……俺、行かない方がよかった気がする。」
「……俺もそう思う。」
 それから1時間55分、車内は実に静かだった。



 コングが目を覚ましたので、2人と1個の妙な会話はおしまいになり(コングが拳骨を振り回しつつマードックのことを追い回し始めたから)、やっとのことでハンニバルも起き上がることができた。
「さて、どうしましょうかねえ。」
 フェイスマンが情報を掴んで戻ってくるのを待つつもりだったが、ハンニバルは非常に退屈していた。
「皆の者、一暴れしたいとは思わないかね?」



 ラウル・ドミンゲス他3名が戻ってきた時、アジトは大変な騒ぎになっていた。
何だ?」(×3)
「多分、みんなが牢から出ちゃったんだと思うよ。」
 下っ端1名が、彼らが帰ってきたのを見て、駆け寄ってきた。
大変です! アメリカ人の捕虜3名が脱走して、裏の畑で暴れてます!
 フェイスマンの予想通り、Aチームは破壊の限りを尽くしていた。予想外だったのは、その現場が野菜畑だったこと。
 離れの牢から脱走したAチームは、納屋を破壊し、営舎を破壊し、本部や倉庫の手前にある野菜畑で、ゲリラたちと肉弾戦となっていた。結構広いのである、このアジト。
 既にエンリケはジープから飛び降りて、野菜畑の方に猛ダッシュ。何だか妙に楽しそう/嬉しそうな後ろ姿。
パコはどうした?
 カルロスが下っ端に尋ねる。
牢の格子に絡まっています。
 仕方なさそうに溜息をついて、カルロスが牢の方へ向かっていく。
「なあ、フェイスマン。君に銃を向けていいかな? 絶対撃たないからさ。」
 難しい顔を袋の横から覗かせて、ラウル・ドミンゲスが尋ねる。
「俺を人質にして、騒ぎを収めるって魂胆? ま、いいや。でも、脇腹と顔以外にしてね。銃で脇腹小突かれると、くすぐったいじゃん?」
「わかった、背中にするよ。」
 ラウル・ドミンゲスは下っ端から自動小銃を借り、代わりにジープを車庫に戻して荷物を適切な場所に運び入れておくよう命じると、フェイスマンと共に野菜畑に向かった。



 野菜畑はひどいことになっていた。収穫間近だったトマトは踏み潰され、ナスは方々に散らばっていて、瓜類は割れていた。根菜類も、地上部分は全滅に近い。
 ゲリラを2人一遍に放り投げるコング、ゲリラの足の甲を踏みつけておいてから顔面や腹にパンチをお見舞いするハンニバル、スカート姿だというのに飛び蹴りを食らわせるマードック、パコから取り上げた自動小銃を構えてくったりしているロニー。投げられても投げられても泣きながらコングに立ち向かっていく男は、恐らくこの野菜畑の管理係だろう。エンリケは既にトマト塗れなのか血塗れなのか判別し難い姿で、ラディッシュの上に倒れている。
「そこまでだ、Aチーム!」
 ラウル・ドミンゲスが叫んだ。ホールドアップしているフェイスマンの背を銃で突つく。
「こいつの命が惜しかったら、即刻両手を挙げ、地面に伏せろ! 誰か1人でも妙な動きをしたら、トリガーを引くぞ!」
「フェイス!」(×3)
 ハンニバル、コング、マードックは、トホホな顔で銃を突きつけられているフェイスマンを見た。銃口は確実に背骨に押し当てられている。今トリガーを引かれたら、フェイスマンは、死なないまでも一生下半身不随だ。それはとってもプアーだ。
 おとなしくホールドアップし、地面に伏せるハンニバル。コングとマードックも、リーダーに倣った。
こいつらを縛り上げて、牢に戻しておけ。
 ラウル・ドミンゲスが部下に命じる。何とか動けるゲリラたちは、それに従い、わらわらと動き出した。



 本部の廊下は、怪我人で溢れ返っていた。営舎を破壊されてしまったので、寝かせておく場所が足りないのだ。
パコは両手を骨折したので、入院させました。
 カルロスはそう報告して、部屋を出ていった。エンリケは顔の左側を濡れタオルで冷やしながら、相変わらずの席に着いている。
「みんなはどうしてる?」
 フェイスマンがラウル・ドミンゲスに聞いた。
「ロープでぐるぐる巻きにされて、ミイラみたいに牢に転がされてるよ。」
「それでも安心しちゃダメだからね。あの3人が揃ってたら、やろうと思ったことは何でもやっちゃうから。」
「MPがてこずってるわけがわかったよ……。」
 肩を落として溜息をつき、ラウル・ドミンゲスが頭を掻く。
「どこか遠くに捨ててきた方が安全だと思うなあ。」
「捨てる……そりゃいい考えだ。だけど、どこに?」
「自力じゃ帰ってこられないような所?」
 と、その時、切羽詰まったノックが響いた。エンリケがラウル・ドミンゲスとフェイスマンの方を振り返り、2人が頷くのを確認してから言った。
入れ。
失礼します。
 それは、野菜を買いに村まで行かされていた下っ端だった。夕飯に間に合うよう、往復4時間の道程を2時間で行き来するためにだけに選ばれた「特技・車の運転」という男。
報告します。野菜は入手できませんでした。
なぜだ? 村まで行ったんだろう? 八百屋のバルガスさんは、午前中までは確かに店を開けてたぞ。
 エンリケがもそもそと言う。歯を数本折られ、口を開くのも痛いのである。
村は……今それどころではない状況です。反資本主義ゲリラたちが村に押し入り、商店を全て破壊し、商品を奪い取り、村の年頃の女性を全員攫っていったという話です。
何だと!
 突然ラウル・ドミンゲスが大声を出したので、フェイスマンは少なからず驚いた。
「何? どうしたの?」
 フェイスマンにラウル・ドミンゲスが英語で説明する。
「それ、ヤバいんじゃない? マリアエレナも当然……。」
「反資本主義ゲリラの野郎どもの所に……。」
 2人が頭を寄せ合って対策を考え始めたので、エンリケは下っ端に礼を言って、彼を下がらせた。「今日の夕飯はガスパチョなしだ」と言い添えて。
 彼ら反政府ゲリラは、村の人たちに比較的温かく迎えられている。それが反資本主義ゲリラの気に障ったようだ。兵力も、資本も、メンバーの質も、反政府ゲリラの方が断然上だ(これでも)。普段なら、もし反政府ゲリラが反資本主義ゲリラのアジトを襲撃したなら、簡単に壊滅に追い込めるくらいに。しかし今はAチームのせいで兵力90%ダウン。
「Aチームさえ大暴れしてくれなければ、事は至極簡単に解決できたのにな。」
「そうだね、解決すべきことも、ここまで多くはなかっただろうし……。」
 Aチームさえ、Aチームのせいで、Aチームに、Aチームを、Aチームが?
「……そうだ、みんなにやらせりゃいいんだよ。」
「Aチームに? どうやって? 仕事を依頼するのかい?」
「ノーノーノー。」
 フェイスマンは、チッチッチッと人差し指を振った。
「一芝居打って、反資本主義ゲリラのアジトを反政府ゲリラのアジト別館だと思い込ませて、そこで暴れてもらって、そのままお帰り願う、と。」
「……案としてはいいね。でも、上手く行くかな?」
「上手く行かせるんだよ。」
 それからフェイスマンとラウル・ドミンゲスは急いでシナリオを書き、演劇経験者を募り(案外結構いた)、芝居の稽古をつけた。



 夜10時、Aチームの牢の前に、エンリケ(被演技指導済み)が姿を現した。パコの代わりに見張りを買って出ているカルロスに、扉を開けるように言う。
何をするんです?
こいつらを極秘で別の場所に移すんだ。ちゃんと銃を向けてろよ、ロープを解くからな。
 エンリケは細心の注意を払いながら、まずはロニーのロープを解き、次にマードックのロープを、それからハンニバルのロープを、最後にコングのロープを解いた。そして、コング、ハンニバル、マードックの両手を、それぞれ前で縛る。ロニーをマードックの背に括りつけて、ふう、と額の汗を拭う。ボス自らご苦労さまです。
よし、お前ら、歩け。カルロス、車の所まで一緒に来い。
はっ。



 ジープに乗せられた3人と1個は、そこで猿轡を噛まされ、目隠しをされた。
じゃ、気をつけて行ってくれ。向こうの奴らによろしくな。
 エンリケが言う。
はい、わかりました。」(×2)
 下っ端(被演技指導済み)2名が声を揃えて言う。
 そしてジープは闇の中へと出発した。



向こうのアジトに行くのも久し振りだなあ。
 ハンドルを握っている男がのんびりと言った。
何でも、向こうには、今日、村で捕まえた女がわんさといるらしいぜ。
 助手席の男が答える。
ホントかい。そりゃあ楽しみだ。
俺たちゃラッキーだぜ。先に向こう行ってる奴らは、もうお楽しみの最中だろうな。
先に? ああ、そうか、あの優男を連れてった奴らね。
そうそう。……にしても、あいつも運が悪いよな。こいつらがおとなしくしていれば、向こうのボスにやられずに済んだのによ。
向こうのボスの拷問はひどいもんな。うちのボスは、根は優しいからね。俺たちにも親切だし。
何にしろ、こっちのアジトを直して、寝込んでる奴らが治るまでの辛抱さ。
それまでにあいつ殺されちまうよ。
かもな。じゃなかったら、ラ・グアイラに送られるか。
ああ、ラ・グアイラ送りになるって可能性もあるか。年行ってたけど、そんな感じだったもんな。
絶対あいつ、ラ・グアイラ行きの顔だぜ。
 スペイン語がわかるハンニバルとコングは、じっとこの2人の話を聞いていた。ラ・グアイラに何があるのか、気になって仕方がない。何となく推測できないこともないが、その推測はできれば当たってほしくなかった。
 しばらく走り続けていたジープがギッと停まった。
ここからは歩きか。
不便だよな。
 ゲリラ2人は、3人と1個の目隠しだけを外すと、ジープから降りて銃を構えた。
降りろ。
 ハンニバルとコングはそれに従い、マードックも続いた。
 ゲリラA、ハンニバル、コング、マードック(+ロニー)、ゲリラBの順に縦1列になり、ぞろぞろと樹木の間を歩いていく。
あ、悪い。尿意。
 ゲリラBが行軍にストップをかけた。
おーい、もうちょいで着くんだぜ?
我慢できるかと思ったんだけど、限界間近だ。ちょっと離脱させてもらうよ。
 ゲリラBは、大木の向こうに姿を隠した。
 ハンニバルとコングが小さく頷き合う。ハンニバルはゲリラAに両手アッパーパンチをお見舞いし、ゲリラAがよろけたところに、コングがタックル。ゲリラAは、もう起き上がらなかった。
何の音だい?
 ファスナーを上げつつあるゲリラBに、マードックが回し蹴り+踵落としの連続技を食らわせる。
 それから3人はロープを解き合い、猿轡を外した。
「どうする、ハンニバル?」
 コングは、ゲリラA&Bの持っていた銃を拾い上げ、片方をハンニバルに渡して尋ねた。
「行くしかないでしょう、向こうのアジト。そして、お嬢さん方とフェイスを救出する。」
 コングがこっくりと頷くのを見て、マードックも、わけがわからないにせよ、こくこくと頷いた。



 チャーンチャラッチャーン(デッデケデケ)、チャラッ・ラーン(デッデケデケ)。
 Aチームのテーマ曲が流れる中、ゲリラのアジトに突入するAチーム(徒歩で)。敵さんたち、みんな寝ているのか、村の女性に無体を働くのに忙しいのか、なかなか姿を現さない。拍子抜けしたAチームは、遠慮なくアジトを破壊し始めた。
 乗り込んでいって、爆薬をしこたま発見するハンニバル。ポケットを探って、葉巻とライターを手に、ニッカリ笑う。
 乗り込んでいって、いきなり村の女性たちを発見するコング。危険の及ばない場所に避難させる。
 乗り込んでいって、ゲリラと鉢合わせするマードック。丸腰なのに気づいて、ロニーで殴る。一撃で倒れるゲリラ。
 あれよあれよという間に、反資本主義ゲリラのアジトは壊滅状態に追い込まれた。燃え上がる建物、収穫されたニンジンのように山と詰まれた気絶ゲリラズ。感謝の目でAチームを見つめる村の女性たち、推定年齢15歳から45歳まで。
「フェイス、いなかったな。」
 葉巻に火は点けたが、ハンニバルはいつものように笑ってはいなかった。
「おう、どこにもいなかったぜ。」
「ってことは、既にラ・グアイラに送られた……か?」
「そうじゃねえことを祈るぜ。」
「じゃないとしたら、どこにいるんだ?」
「わかんねえ。」
「たーいさー!」
 マードックが叫んだ。一般人と思しき服装のオジサン2人を連れて、林の中から姿を現す。
「向こうに岩室があってさ、そこにこの人たちが閉じ込められてた。」
 彼らの話によれば、彼らはアメリカ企業の社長と日本企業の社長で、どちらの会社もベネズエラに子会社を置いており、彼らの社の商品を国内で販売している。子会社を訪問した際に、ゲリラに誘拐され、監禁されていた、ということだ。
「そこにフェイスはいなかったか?」
 ハンニバルがマードックに尋ねる。
「いなかった。いたら連れてきてるって。」
「ううむ……。」
 腕組みをするハンニバルの頭の中では、ラ・グアイラについての推測が渦巻いている。
「とにかくよお、ハンニバル。」
 コングが痺れを切らして言った。
「こいつらを村に帰そうぜ。聞いたら、村まで歩いて4時間ぐらいだってよ。ジープんとこまで行って、そっからはピストン輸送したっていいしな。」
 ここで考え込んでいても仕方ないので、建設的なコングの意見に従い、一同は既に鎮火したアジトを後にした。



 ジープの所まで戻ってみたところ、不可解にもゲリラA&Bは姿を消していたが、ジープはキーを挿したまま置いてあった。
 コングが運転席に着き、ここいらの地理に詳しい村の女性を助手席に座らせ、疲労の激しい社長2人をまず乗せ、あと2名、年の順に(自己申告制)女性を乗せた。そして、徒歩組は更に黙々と歩いていくのであった。



 ハンニバルとマードックが半壊した村に到着したのは、夜明け寸前だった。
「ここで村の再建を手伝ってやりたいのは山々だが、社長さんたちを送ってかにゃならんな。」
「それと、フェイス探し、だろ? ラ・グアイラに行ってみようぜ。」
 ハンニバルとコングが、「もう一丁頑張ろう」という風に顔を見合わせる。
「たーいさー。」
 マードックがハンニバルを呼ぶ。どうしてこいつはちょろちょろと別行動してるかね。
「このお姉さん、何か話があるみたいだぜ。」
 マードックが指差したのは、マリアエレナその人であった。



 徒歩でアジトに戻ってきたゲリラA&Bの報告を聞いて、ゴキゲンなフェイスマンとラウル・ドミンゲス。A&Bは、Aチームが女性たちを救出するところまで、木陰から確認したのだった。
「これで1つ、肩の荷が下りたよ。」
 A&Bが部屋を出ていってから、ラウル・ドミンゲスが疲れた顔で微笑む。
「1つ? 他に何かあったっけ?」
「あるともさ、ああ、あるとも、山のようにね。営舎を建て直す、納屋を建て直す、野菜畑を何とかする、そして、彼女のこと。」
「ハハ、忘れてたよ。彼女のこと以外は、俺は無関係だしね。」
 責任の所在についてはうるさいフェイスマン。
「無関係じゃないぞ。営舎がないってことは、俺も君も、ここでザコ寝するしかないんだからな。もしくは、あの牢で。それに、シャワーもなし。便所もなし。食事に野菜は入らない。これでも無関係って言うのかい?」
「困りはするけど、俺のせいじゃないよ。俺の仕事でもないし。」
「作業を手伝ってくれれば、現時点で彼女が君に惚れてる件について、水に流してやってもいい。」
「わかった、手伝う。」
「ありがとう。とにかく一眠りしよう。幸い、倉庫に毛布がある。それを敷けば、床に寝てもそう痛くはないだろう。」
 そうして、2人+エンリケは、自ら倉庫に毛布を取りに行き、それを床に敷いて寝たのであった。



 彼らが目を覚ましたのは、昼すぎだった。表では既にカルロスの指揮の下、営舎と納屋の再建作業が始まっていた。今のところは撤去作業でしかないが。重役3人も、ぶらぶらと本部建物内の調理場へ行き、コーヒーとパンで腹ごしらえをしてから、適当な作業を手伝う。その日は、それだけで終わってしまった。
 夜、ラウル・ドミンゲスがいかつい機械に対峙しているので、フェイスマンはそれが何か尋ねた。
「これ? 電話。この辺り、電話線ないだろ? この建物の屋根に取りつけたパラボラアンテナから衛星を経由して電話をかけるんだ。」
「はー。ハイテク駆使してんだ。」
「水は井戸掘って汲み上げてるけどね。電気は自家発電。」
「で、どこに電話すんの? 彼女んとこ?」
「物資の調達だよ。木材やらパイプやら何やら、足りないものは沢山あるからね。木は周りに嫌ってほどあるけど、生木で建物建てるわけにもいかないし。仮設便所も1つ注文しておこうかと思うんだ。」
「そんなの、どうやってここまで運んでくんの? トラックやトレーラーじゃここまで登ってこらんないだろ?」
「輸送用ヘリで。表側の広場に十分着陸できるよ。送料がかかるから、あまり頼みたくないんだけどさ。」
 回線が繋がったのか、ラウル・ドミンゲスがマイクに向かってスペイン語を話し始めたので、フェイスマンは口を閉じた。



 それから数日間、フェイスマンはゲリラたちと共に忙しく暮らした。スペイン語も何となくわかるようになってきた。
「食料も底を突いてきてるし、村の状態も気になるから、これから村に行ってみようかと思うんだけど、君も一緒に行くかい?」
 納屋の扉に蝶番を取りつけていたフェイスマンは、口にネジを咥えて頷いた。
 村の様子は、未だ痛々しかった。商店の建物は、板壁の方々に穴が開いたままで、ガラスは割れたままだった。それでも店は開いているようだ。
 エンリケとカルロスを半壊のドアの両脇に待たせ、ラウル・ドミンゲスとフェイスマンはマリアエレナの店に入っていった。店の中は、まだ雑貨屋と呼べるほどの品揃えには戻っていなかった。
ブエナス・タルデス……セニョーラ。
 そこに、マリアエレナはいなかった。代わりに、老婆が1人、曲がった腰で、よたよたと店の中に商品を並べている。
ブエナス・タルデス、セニョール。
 老婆がラウル・ドミンゲスの方に方向転換して言った。
マリアエレナは?
奥にいるよ。待ってな、今呼ぶから。マリアエレーナ! お待ちかねの人が来たよ!
お待ちかね?
 ラウル・ドミンゲスは眉間に皺を寄せてフェイスマンに顔を向け、フェイスマンは肩を竦めた。
「あたしも待ってたんですよ、あんたたちが来るのをね。」
 と、老婆がショールをバッと取った。それは何と、ハンニバルの変装だったのだ! 彼の手には既に銃が握られ、銃口はラウル・ドミンゲスとフェイスマンの方に向いている。
「一体どういうことなんだ、フェイス。」
 げっ、という表情のフェイスマン。
テンプルトン!
 奥から出てきたマリアエレナがフェイスマンに駆け寄ろうとするのを、ハンニバルが左腕で止める。
「説明してもらおうか。この男、確かゲリラのアジトでお前に銃を突きつけていた奴だろう? どうしてお前がそんな男と仲良くお買い物に来ているのか。……このお嬢さんは、お前のことを知りたがっていて、偶然知り合った俺たちが英語を喋っていたんで、何か関係があるのかと思って、藁にも縋る思いで俺たちに聞いてきたんだ。『セニョール・テンプルトン・ペックのことを何かご存知ですか?』ってね。だいぶ知ってるつもりだったが、知らないことも多い……そうじゃないか、フェイス。で、彼女が、数日前にお前がこの店に来て、一緒に来たラウル・ドミンゲスはしばしばこの店で買い物をしていると言うんで、ここで張り込んでいたんだ。彼は、お前のお友達か? 彼女はそう聞いたと言ってたぞ。ゲリラのお友達がいたとは知らなかったな。」
「ちょ、ちょっと待ってよ、ハンニバル。えーと、何から話したらいいかな?」
「どこからでもいいぞ。俺たちを騙したところからでもいいし、俺たちを利用したところからでもいいし、ラ・グアイラに送られなかったところからでもいい。」
 店の中の様子がおかしいことに気づいたエンリケとカルロスは、扉の穴から中を覗いてみた。牢にいたオヤジが、ボス(参謀)と勇敢で有能な仲間に銃を向けているではないか。その上、ボス(参謀)とセニョール・ペックは丸腰だ。エンリケとカルロスは、銃を構えて店の中に突入し、二人に駆け寄った。
 ゲリラに銃を向けられ、ハンニバルは咄嗟に照準を乱入者たちの方へ移すと、小銃のトリガーを引いた。そうして撃ち合いが始まった。その音を聞きつけて、コングとマードック(+ロニー)も奥から出てきて、銃撃戦に加わる。
 ハンニバルが油断した隙に、マリアエレナが銃弾の嵐もものともせず、フェイスマンに駆け寄る。
危ない!
 ラウル・ドミンゲスが信じられないほどの機敏な動きで飛び出し、彼女を床に引き倒すと、小さな体で彼女を庇いつつ、テーブルを引き寄せてバリケードを作った。
ムーチャス・グラシアス、セニョール・ドミンゲス。
全く、無茶しないでくれよ、マリアエレナ。
 既に別のテーブルでバリケードを築いたフェイスマンは、床に伏せてじっくり考えていた。どうすればラウル・ドミンゲスからの報酬を手に入れ、かつ、ハンニバルを説得できるか。ポイントは「かつ」。
 ゲリラに洗脳されてたとか、催眠術をかけられてたってのはどうだろう? それで俺はゲリラに協力していた。……ちょっと突飛かなあ。でも、このままだと、絶対ゲリラ側の方が負けて、ハンニバルたちはあのアジトも見つけ出して破壊して、そうしたらラウル・ドミンゲスは俺に報酬を払うどころじゃなくなるだろうし。
 と、その時。
「ここにいるんでしょ、Aチーム!」
 半壊のドアをバーンと開けて、エンジェル登場。この勢いで、半壊の扉は全壊に至った。
 エンジェルの姿を見て、フェイスマンの頭はフル回転した。
 誰もエンジェルのことは撃たないはずだ。いくらエンリケとカルロスでも、一般人女性に銃を向けはしないだろう。俺のことも、誰も本気で撃ちゃしない……はず、多分。ここでエンジェルを助ける振りをして表に出る。表に出れば、彼女が乗ってきた車があるはずだ。最悪の場合、ゲリラのジープもある。それに乗ってトンズラする。ハンニバルへの言い訳をゆっくり考えてから電話で話して許してもらって、ラウル・ドミンゲスにも電話して、後日再度マリアエレナにトライして、依頼を完了させて、報酬を貰う。よし、ナイス・アイデア!
 この間、わずかコンマ1秒であった。
「危ない、エンジェル!」
 フェイスマンは計画通り、エンジェルを助ける振りをして飛び出した。予想通り、誰もエンジェルを撃ちはしなかったし、フェイスマンを撃ちもしなかった。
 ただ、フェイスマンの予想に反して、エンジェルは脇にすっと退いた。まるで「フェイスに庇ってもらいたかないわよ」といった感じで。そして、その先にあるはずの扉はなかった。なのに、足元にはないはずの木片があった。フェイスマンはその木片に蹴つまずいた。しかし、ポーチに倒れ込む程度で済むだろう、というフェイスマンの思惑は外れた。なぜなら、過日の反資本主義ゲリラの狼藉で、ポーチの奥行は半分以下になっていたのだから。つまり、フェイスマンの下半身はポーチに倒れ込めたのだが、上半身はそれより下に落ちざるを得ず、さらに不運なことに、ちょうどその位置には、壊れたポーチの階段の代わりとして、いくつかの大石が置いてあった。マリアエレナは気が利く女性なのだ。
 結果、フェイスマンは大石に頭を強かに打ちつけて気を失い、ハンニバル、コング、マードック、エンリケ、カルロスの5人は、そんなフェイスマンの姿を見て戦意を失った。



 フェイスマンが意識を取り戻したのは、病院のベッドの上でだった。
「……あれ? 俺……?」
「あれ? じゃありませんよ、全く。」
 ハンニバルが怒っていた。
「ここどこ? カラカス?」
「ロス。」
「ロス? 俺、どのくらい気絶してた?」
「2週間、意識不明だった。一時は、このまま植物人間になるかもしれないとまで言われたんだぞ。」
「え、そんなにひどかったの?」
「誰も、お前がそんなにひどく頭を打ったとは思ってなかったんだがな。お前が頭を打った後、エンジェルの車でカルロスが運転して、お前をサンクリストバルの病院まで連れていったら、そこで『ここの施設では無理だが一刻を争う』と言われて、エンジェルとラウル・ドミンゲスがコネをフルに使ってカラカスの脳外科専門病院を確保して、ラウル・ドミンゲスはその上、医療用高速ヘリまでチャーターしてくれたんだぞ。その病院で治療して、しばらく様子を見て、容態が安定してきたんで、ここに転院したんだ。」
「……そんな一気に言われても……頭痛い……。」
「ああ、済まん。ともかく、事情は全部ラウル・ドミンゲスから聞いたよ。彼から手紙も預かってる。」
 と、ハンニバルは懐から封筒を出して、枕許に置いた。
「具合のいい時にゆっくり読むといい。」
「サンキュ。」
「お前が心配するといけないから、あと1つだけ言っておこう。」
「うん、何?」
「入院費と治療費のことは気にしなくていい。反資本主義ゲリラのとこから救出した社長さんたちがたっぷり謝礼をくれたからな。」
「何、その社長さんって。謝礼? お金入ったの?」
「そのうち話すよ。」
「みんなはどうしてる?」
「元気だよ。ラウル・ドミンゲスとマリアエレナのことは、そこに書いてあると思う。」
 ハンニバルは封筒の方を顎でしゃくって示した。
「コングは働きに出てる。モンキーはロニーと一緒に病院に帰った。」
「ロニー? 誰だっけ、それ。」
「カモノハシの縫いぐるみ。エンジェルは、まだベネズエラにいる。」
「彼女、俺たちに何か用だったの?」
「俺たちじゃなく、ベネズエラン・ゲリラに用があったんだと。反資本主義ゲリラが一夜にして壊滅したんで、俺たちの仕業じゃないかと踏んで来たらしい。今は反政府ゲリラの活動を現地取材してるよ。」
「で、ハンニバル、あんたは? 撮影はどうなった?」
「しばらく連絡してなかったんで、監督にこってり絞られたが、今はアクアドラゴンのシーンの撮りの真っ最中。これからスタジオに行ってくる。」
「あのさ……まだ怒ってる? 俺のこと。」
「いや、全く。事情はわかったし、もう終わったことだしな。」
「じゃあ、医者呼んでよ。俺が意識取り戻したって。ナースコールのボタン押すだけでもいいからさ。」
「そのくらい、自分でできるでしょ。」
 やはりハンニバルは多少怒っているようだ。
「そいじゃ、撮影に行ってきますか。終わったら、また来るからな。」
「行ってらっしゃい。」
 ハンニバルが病室を出ていった後、フェイスマンは種々の管が繋がった腕を何とか動かして、ナースコールのボタンを押そうとしたが、少し考えてから、ボタンは押さずにラウル・ドミンゲスからの封筒を手に取った。いや、取ろうと思った瞬間、再度意識を失った。丸々2週間意識がなかったというのに、いきなり沢山のことを聞いたり話したりしたせいだ。極論すれば、ハンニバルのせいである。



 それから1週間が経過した。フェイスマン、意識不明期間、合計3週間。今度こそ植物人間だ、と医者から囁かれていたのだが、ぴったり1週間後に意識を取り戻した。
 今回の復活の場には、ハンニバルだけでなく運良く看護婦もいたため、フェイスマンは三たび意識不明に陥らずに済んだ。しかし、1週間前にハンニバルから聞いたことを脳味噌に残せなかったフェイスマンは、「説明は1回まで!」とハンニバルに怒られた。そして、ハンニバルは看護婦に怒られた。
 ハンニバルは怒って帰ってしまった。看護婦や医者も、しばらくは検査やら何やらで忙しそうにしていたが、今はもう病室から消えてしまった。シーンとした個室に、フェイスマン1人切り……と、ロニー。意識不明の間に、マードックが面会に来たらしい。サイドテーブルにはリボンのかかったダンベルが置いてある。コングも見舞いに来てくれたようだ。
 フェイスマンは退屈していた。何もやることがない。テレビを見るのも、ラジオを聞くのも、本を読むのも、新聞を読むのも禁止されている。体には無数の管が繋がれていて、とてもベッドから下りられそうもない。それどころか、寝返りさえも打てない。そんな時、枕許の封筒が目に入った。
 ……何、これ?
 もちろんフェイスマンは、1週間前にハンニバルがそれをそこに置いたことも、覚えていなかった。だが、封筒の表には『テンプルトン・ペック氏へ』と書いてあったし、裏には『ラウル・アンヘル・ドミンゲス=イ=エチェベリーア』と差出人のフルネームがあったので、5分ほど考えて、それがラウル・ドミンゲスからの手紙だということがわかった。
 フェイスマンは、思い通りに動かない指を駆使して、30分かけてその封筒を開いた。中には、便箋の束と、3万ドルの小切手。便箋には、こうあった。



《時候の挨拶と、フェイスマンの体を形式上気遣っているだけの文章なので前略》君があの撃ち合いの時にエンジェルさんを庇って飛び出したんで、マリアエレナは、彼女が君の大切な人なんだと勘違いして、君のことは諦めたようだ。それに、転んで気絶した君も、言っちゃ悪いけど、かなり格好悪かったしね(写真に撮っておくんだったって後悔してるよ。そうすれば、君を強請れただろうし)。そして、あの時、俺がマリアエレナを庇ったんで、やっと彼女も俺の気持ちに気づいてくれた。今はまだ「常連客+α」って程度だけどね。でも、彼女、何でも俺に相談してくれるようになったよ。《単なるノロケが延々と続くので中略》つまり、俺が君に依頼した仕事は、君は大して何もしなかったにせよ、一応成功したってわけだ。だから、俺としては不承不承ではあるけど、報酬を支払うよ。約束の報酬額+経費(スーツ代)+見舞い金として、3万ドルの小切手を同封した。文句はないね? 文句があったら、電話してくれ。《ゲリラたちのこととアジト再建についてなので後略》



 フェイスマンは3万ドルの小切手を手にニヤニヤしていた。だが、それも束の間、嬉しさのあまり感情の昂ぶりが病み上がりの脳に異常な負担をかけてしまい、またもやフェイスマンは意識を失ってしまったのであった。
 因みに、フェイスマンが次に意識を取り戻すのは3日半後であり、意識を失っている間に、3万ドルの小切手はハンニバルによって発見・没収される予定である。
【おしまい】
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