I'm not a lumberjack and I'm not OK
伊達 梶乃
 路地裏のクリーニング屋に木こりが1人。いかにも木こり。クラシックでオーソドックスな木こり。赤く日焼けした顔、無造作な金髪、生気溢れる瞳、がっしりとした長身、そして赤いネルシャツ。
 リー老人は半ば俯いたまま、ずり落ちた老眼鏡の上から、その木こりを一瞥した。そしてズボンを1本プレスする。
「何じゃね?」
 何も言わずにいる木こりに、リー老人は尋ねた。用がないなら出てってくれ、とでも言いたげに。
「Aチームに頼みたいことがあるんだ。」
 木こりが、木こりらしい爽やかさで言う。
 リー老人は「やはりそうか」というように溜息をついた。あまり木こりはロサンゼルスにいないし、万が一ロサンゼルスに木こりがいたとしても、木こりはクリーニング屋と縁遠い。チェックのネルシャツは、クリーニング不要だし。
 老人がそれ以上何も言わずにズボンを畳んでいるので、木こりは顔に不安の色を浮かべた。
「ここでいいんだろ? Aチームに頼みたいことがある時には、ここに来ればいいって。」
「……誰からそんなこと聞いたんじゃ?」
「エイミー。新聞記者のエイミー・アマンダー・アレン。」
「奴の知り合いかね?」
「知り合いって言うか、高校の時から文通してる。」
「ぶ……文通?」
「うん、年1通ずつのペースで。」
 エンジェル(=エイミー・アマンダー・アレン。念のため)の高校時代からの文通友達なら、ロサンゼルスで木こりの服装をしていてもおかしくない、と、リー老人(=ハンニバル。念のため)は思った。
「……話は急ぎか?」
「できるだけ急いでほしい。でも、無理にとは言わない。」
「運よく、今Aチームは割と暇じゃ。話を聞いてくれるじゃろう。」
「ありがとう。」
 話を聞くだけ聞いて、つまらなかったら断ろう、とハンニバルは思い、木こりを手招いた。
「こっちへ。ええと、名前は?」
「レイモンド・フィッツパトリック。」
「よし、ミスター、ここでしばし待たれい。」
 木こり(=レイモンド)を店舗裏手の倉庫に押し込み、ドアを勢いよく閉めると、ハンニバルはつけヒゲを剥がし、眼鏡とカツラを取った。



 真っ暗だった倉庫に明かりが点き、レイモンドは目を細めた。倉庫と言っても、クリーニング前の洗濯物やクリーニングを終えた衣類が所狭しと押し込んである部屋。衣類を掻き分けて、ハンニバル登場。
「Aチームに仕事を頼みたいっていうのは君か?」
「……さっきのクリーニング屋の人?」
「違う。似ているかもしれないが、断じて違う。俺は、Aチームのリーダー、ジョン・ハンニバル・スミスだ。さっきのはリーと言って、まあ親戚みたいなもんかな。君は?」
「カナダのブリティッシュ・コロンビアから来た、レイモンド・フィッツパトリック。レイって呼んでくれ。Aチームに助けてほしくって。」
「ふむ、カナダか。それも、ブリティッシュ・コロンビア。なるほどね。」
 レイモンドの服装を上から下まで見て、頷く。ハンニバルの頭の中では、「ブリティッシュ・コロンビア → 男は皆、木こり」となっている。
「で、俺たちに助けてもらいたいことっていうのは? いや、待て、当ててやろう。……木こりの縄張り争いに決着を着けたい……そんな感じか?」
 そんなものは、木こり同士が勝手に決着を着ければいいことで、Aチームの助けが必要な事態ではない。ある木こりのバックに大物の黒幕がいる、ということでもない限りは。もしくは、密輸組織が絡んでいない限りは。あるいは、町役場の汚職絡みでもない限りは。
「こう見えても、俺、木こりじゃないんだよな。」
「木こり、じゃあ、ない?」
 ハンニバルが眉間に皺を寄せたのを見て、レイモンドはネルシャツを摘んでつけ加えた。
「この服、うちのペンションの従業員の制服なんだ。」
 普通、ペンションの従業員の制服をロサンゼルスに来る時にまで着たりはしないものだが、過去に軍服慣れしてしまったハンニバルには、それだけの理由でOKだった。
「ほう。となると、ペンション乗っ取り事件か? さもなくば、土地に関するいざこざか?」
「乗っ取られてもいないし、土地に関するいざこざも特にはない、と思う。少なくとも、うちの土地では。」
「じゃあ、何をすればいいんだ、Aチームは? ペンションでただ従業員として働くってのはなしだぞ。求人広告を出す手伝いぐらいはしてやってもいいが。」
「従業員はギリギリ足りてる、今んとこ。」
「じゃあ……客寄せか?」
「お客さんも、それなりに来てる、ありがたいことに。」
 ハンニバルは行き詰まった。他にAチームに仕事を頼むとなると……。
「ブリティッシュ・コロンビアと言ったら……サーモンか!」
「そう、近くの川でサーモン釣りも楽しめるんだよね、うちのペンション。」
 楽しんでどうする、Aチーム。
「待て待て、サーモンと来たら熊だな。……熊が人を襲って仕方ない、と!」
「熊もいるけど、滅多に人は襲わないよ。」
 滅多に人は襲わない、は、たまには人を襲う、または、しばしば人以外のものを襲う、と言い換えられるのかどうか。
「木こりでもサーモンでも熊でもないとなると……。」
 もう何も思い浮かばない。あと思い浮かぶのは、悪事と全く関係のないことばかり。例えば、雪を被った山々、スキー客、緑深い森林、カエデ、メープルシロップ、ヘラジカ、キツネ、ハドソン湾の夕陽……。
「参った、降参だ。」
 案外ハンニバル、諦めが早い。
「じゃ、詳細はカナダで、ってことで。」
 結局、どんな仕事かわからずにカナダへ行くことになったAチームである。
 因みに、ハンニバルは、依頼の内容を知りたいがために行く気満々。大自然愛好家のコングは、「ブリティッシュ・コロンビアなら何とか車で行けらあ」と、一部分において消極的ではあれど一応乗り気。フェイスマンは、ハンニバルに「報酬のこと、何も聞かなかったでしょ」と言っても今更どうにもならないことは重々承知しているので、溜息と共に退役軍人精神病院へ。



 白衣を着て病院に一歩足を踏み入れたフェイスマン(偽医師)は、クンクンと辺りの匂いを嗅いだ。焼けた小麦粉とバターの匂い。これは……パンケーキだ! と思った瞬間。
 べち!
 横っ面に熱いものが当たってへばりついた。火傷をするほど熱くはないが、体温よりはだいぶ熱い。そして、そのぶつかった衝撃たるや、なかなかのものだった。女性の平手打ちよりも痛い。物理的には。
 フェイスマンは、顔に手をやり、へばりついているその物体を取った。やはりパンケーキ。ズレた伊達眼鏡をかけ直す。
 見ると、廊下のそこここにパンケーキが落ちている。廊下を歩く患者は、手に手にパンケーキを抱えている。そうこうしている間にも、患者たちはフェイスマンに向かってパンケーキを投げつけてくる。
 べち! べちべち!
 フェイスマンの姿を見つけた看護婦が、ナースセンターから走り出てきた。片手にトレイを楯のように持ち、パンケーキ攻撃を避けながら。
「先生、こちらへ!」
 看護婦に腕を掴まれ、ナースセンターに引っ張られていく。
「ワシントン州立精神病院のミルフォードだけど。」
 ナースセンターに入って白衣の襟を正したフェイスマンは、胸の身分証明書を示して看護婦に名乗った。
「はい、ドクター・ミルフォード、どういったご用でしょう?」
「どういったご用って、君……もしかして、まだ書類が届いてないというのか!」
 フェイスマンは大袈裟に、手を額にやった。目を閉じ、頭を横に振る。
「だから、速達で送れと言ったんだ! 金曜の午後4時半に!」
 そんな芝居がかった仕草を見て、看護婦はキョトンとしている。と言うか、引いている。
「あの……どのような書類なんでしょうか?」
 恐る恐る看護婦が尋ねると、フェイスマンは深呼吸を1つして、冷静に言った。
「ここにハウリング・マッド・マードックという患者が入院しているね?」
「マードックさんですね、ええ、おります。」
「彼を臨床実験のために1週間ほどお借りしたい、ということだったんだが……。」
 すると、ざわめきが起こった。
「すぐに! 今すぐに! マードックさんを連れていって下さい!」
 ナースセンターに避難していた看護婦・看護士全員が口を揃え、期待に満ちた瞳をフェイスマンに向けた。
「手続き書類は、こちらで早急に作成いたします。」
「移送の準備をします。」
「睡眠薬は必要ですか?」
「拘束服、用意できました。」
 看護婦・看護士が一体となって、てきぱきと作業をしている。
「では先生、行きましょう。」
 看護婦長らしき年輩の婦人が、準備を終えた看護婦・看護士の先頭に立ち、フェイスマンを促した。何が起こっているのか釈然としなかったが、フェイスマンはおとなしく従うことにした。用箋挟みの楯を両手に持って。
 マードックの病室内を格子つきの小窓から覗き込んで、やっとこさフェイスマンは事態を把握した。部屋の中で、マードックが黙々とパンケーキを焼いている。そして、焼き上がったパンケーキを次々と窓の下に落とす。恐らく、窓の下には自由に出歩ける患者たちが待機していて、パンケーキを受け取り、医師や看護婦に投げつけているのだろう。
 一団となった看護婦・看護士たちの動きは見事だった。ドアを開けるなり部屋の中に飛び込み、マードックに向かって毛布で包み込むようにタックルし、腕に睡眠薬を注射する。その間、2秒弱。まるでSWAT部隊だ。ぐったりするまでマードックを押さえ込み、動かなくなったところで拘束服を着せて、台車に乗せ、ゴムバンドで結束。
「素晴らしい!」
 満面の笑顔を作り、フェイスマンは看護婦・看護士に拍手を贈った。
「何という手際のよさ! 何というチームワーク!」
「いえ、それほどでも。」
 看護婦長が照れたように微笑んで頭を振った。
「それにしても、先生が来て下さって助かりましたわ。このパンケーキのせいで、ドクターたちが皆、部屋から出てこようとしなくて。」
 こうしている間にも、ドアの外からフェイスマンの背にはパンケーキが投げつけられている。
 べち! べち!
「これでパンケーキも片づけられます。」
「それはよかった。……では私はこの辺で。ご協力感謝いたします。」
 かくしてフェイスマンは、マードックを乗せた台車を押してエレベーターに乗り込むに至ったのであった。1階に到着したエレベーターのドアが開いた瞬間、待ち伏せしていた患者からパンケーキの集中砲火を受けたのは、言うまでもない。



 5日後。
 紺色のバンが1軒のペンションの前に停まった。車から降り立つ男2人、ハンニバル&コング。辺りの景色をぐるーりと見回す。
「ほう、こりゃいい所だ。」
 葉巻を咥えたまま、大きく伸びをする。
「ああ、町からそんな離れてねえのにな。」
 コングも大きく深呼吸。
 眼前には白いヨーロッパ風のペンション、2階建て。その横にはログハウスがいくつも並んでいる。そのログハウスィズの間から、湖が見える。その向こうには森と山。青い空と白い雲。そして、目を足元に戻すと、猫。横手の林から姿を現した大柄な猫が、コングの足に体を擦りつけている。
「どうしたぃ? 腹減ってんのか?」
 猫はコングに撫でられて、ゴロゴロと喉を鳴らした。
「このペンションで飼ってる猫か?」
 しゃがみ込んでいるコングを見下ろし、ハンニバルが呟く。
 猫が林に向かって短く数回鳴くと、子猫がわらわらと出てきて、コングを取り囲んだ。
「おうおう、チビどももいたのか。よしよし。」
 猫たちはとてもよく馴れていて、ネックレスにじゃれついたり、腹を撫でられたりしている。コングの背中から登って、モヒカンの上で落ち着いている子猫さえいるくらいだ。
 可愛い猫たちに懐かれてデレデレになっているコングに対して、ちっとも猫に構ってもらえずにただ猫とコングを見つめるだけのハンニバル。ふと、違和感を覚えた。
 何か違う。猫ってこんなんだったっけか?
 猫にしては妙に大きい。子猫も、あどけない姿をしてはいるが、何だか大きい。親も子も、嫌に脚が長くて太い。鼻は広く、頬に変なヒゲが生えているし、色も地味すぎる。
「なあ、コングや。」
「何でい?」
「ちょっと聞くが、それは猫か?」
「何言ってんだ、ハンニバル。これが犬に見えるか?」
「そりゃ犬には見えないが、猫とも何か違うような気がするんだが。」
 そう言われて、コングは親猫の顔を両手でがしっと掴まえ、じっと見た。耳が大きく、耳の外側の毛が長くて黒い。他の毛は地味な黄土色。灰色の毛も混じっている。
「ハンニバル……こりゃあただの猫じゃねえぜ。山猫だ。」
「やはりそうか。」
 ハンニバルは満足げに、うむっと頷いた。
 猫だろうと山猫だろうと可愛いものは可愛いので(多少ゴツいけど)、コングは山猫を引き連れ、ハンニバルと共にペンションのポーチを上がった。



「こんにちは。」
 静かなペンションの中に入り、ハンニバルが声を大にして言った。
「いらっしゃいませ。……って、何だ、ハンニバルか。」
 そう答えたのは、木こりルックのフェイスマン。両手一杯にリネンを抱え、2階から降りてくる。
「遅かったじゃん。」
 アジトに残されていた置き手紙には「3日後、現地集合。我々は車で行く」とハンニバルの字で書いてあった。つまりハンニバル&コング、2日の遅刻ということになる。
「済まん。途中でいろいろあってな。」
 素直に謝るハンニバル。しかし、「いろいろ」の具体例について話そうという気は毛頭ないらしい。
「お前は、ここの手伝いをしてるのか?」
 フェイスマンの服装を見て、ハンニバルが問う。
「俺が趣味でこんな格好してると思う? ハンニバルたちが遅いもんだから、先に報酬の話も終わらせちゃったし、依頼の内容も聞いて、それでもまだ来ないから、仕方なく手伝いしてたってわけ。モンキーは、朝早くから忙しくしてたんで、今はテラスんとこで休憩中。」
「レイモンドは?」
「コテージの掃除して回ってる。」
 と、フェイスマンはログハウス群の方を顎で示したが、次の瞬間、コングの足元に目を向ける。
「コング、それ、外に出して。」
 フェイスマンにしてはきっぱりとした口調で。
「『それ』って、こいつらか?」
 コングは、両足の間で8の字にぐるぐるしている山猫たちと、頭の上の子山猫を指差した。
「そう、その山猫。敷地内立入禁止。それが今回の仕事。」
「何だと?」
 ハンニバルとコングは声を揃えて言った。



 ペンションのダイニングルームで、ハンニバルはコーヒーを、コングは冷たい牛乳を飲んでいる。ここの牛乳は、最高とは言えないにせよ、ロサンゼルスのスーパーマーケットで買うものに比べれば各段に美味い。その横で、フェイスマンがスプーンやフォーク、ナイフを磨いている。ハンニバルの正面では、レイモンドがナプキンを畳んでいる。その横では、レイモンドの妻エセルがグラスを磨いている。窓ガラスの向こうにはテラスがあり、デッキチェアが並んでいる。そのうちの一つに、顔の上に本を乗せたマードックが寝ている。その本のタイトルは、『マイケル・J・フォックスによるレシピも収録〜カナディアン・パンケーキ・レシピ集』、カナダではベストセラーになっている本だ。
「フェイスとモンキーには一昨日話したけど、もう1回大雑把に話すと、要は山猫を何とかしてほしいってことなんだ。」
 レイモンドが話しながらも正確にナプキンを折る。
「山猫ねえ。想像だにしなかったな。」
 ハンニバルは、盲点を突かれた、という気分。
「山猫が何か悪さ仕出かすのか?」
 と、コングが聞く。
「建物で爪を研いだり、その辺に糞尿をしたり、ゴミを漁ったり、釣りをしているお客さんの獲物を掻っ攫ったり、そりゃもうひどいもんだよ。」
「可愛いもんだから、お客さんが建物の中に入れてしまうことも度々ですし、食べ物を貰うことも覚えてしまって。」
 レイモンドの後に、エセルが続けた。エセルは見たところ30代前半、化粧っ気はないが気の強そうなはっきりしたラテン混じりの顔立ちで、豊かな赤毛を後ろで束ねている。フェイスマンが興味なさそうにしているのは、人妻だからか、それとも既に何かあったからなのか。
「今まで山猫は、向こうの山に棲んでたんだ。それが最近、この界隈に出没するようになって、今じゃこの通りさ。」
 振り返って山を指し示し、その指をつつっと下げる。指の先のテラスには、何家族もの山猫が。1匹がレイモンドの指に気づき、近寄ってきてガラスをキーキーと引っ掻く。
「確か猫ってのは、柑橘系の匂いが苦手だろ。」
 コングに案が閃いたようだ。
「そう言われていますね、一般には。でも、この山猫たちは、オレンジもグレープフルーツも食べるんですよ。まさかこんなものまで食べはしないだろうと思って、外に果物の入った段ボール箱を置いておいたら、すっかり食べられてしまいました。箱もボロボロに噛み破られて。」
「手つかずで残ってたのは、パイナップルの上んとこだけだったな。」
 せっかくのコングのアイデアも、飢えた雑食山猫には無効。
「捕まえてどこかに捨ててくるっていうのはどうだ?」
 ハンニバルがシンプルな提案をする。
「俺たちも山猫を捕まえてみたことがあるんだけど、動物愛護団体や自然保護団体がうるさくて大変だったよ。監視カメラか何かがあるみたいに、目敏く見つけて抗議してくるんだよね。俺たち、山猫に害を与えるつもりで捕まえたわけじゃなくて、山猫を守ろうとしてケージに入れただけなのにさ。俺たちのせいじゃなくても、山猫に何かあると文句言われるし。」
 レイモンドの言葉に、エセルが何度も頷く。
「山猫が熊に襲われる度に、電話で苦情を言われたり、非難の手紙が来たりするんです。」
「熊に?」
 口から葉巻を離して、ハンニバルが尋ねた。
「そう、熊に。この辺の熊は、滅多に人は襲わない。前にも言ったよな? でも、山猫やキツネはよくやられるんだ。」
「熊たちはみんないい子ですよ。段ボール箱を荒らしたりしませんしね。人がいない時に、湖で魚を捕まえていることもありますけど、そういうことでもない限りは、まず森や林から出てきませんし。」
「山猫の方が、熊のテリトリーを荒らしてんだよな。」
「ふむ。そこの湖には魚が沢山いるのか?」
 キラキラと細波の光る水面に、ハンニバルは目を細めた。
「ハンニバル、釣りしようっての?」
 黙々とスプーンを磨いていたフェイスマンが、小声で問う。
「いやいや、釣りをするわけじゃない。ただ、その何だ、ちょっとした好奇心ってやつだ。」
 フェイスマンは横目でチロリとハンニバルを見たが、それ以上のことは言わなかった。
「前はそんなにいなかったはずだけど、ここんとこよく釣れるって話だな。」
「釣り目的のお客さんも増えてるわね。」
「……よし。」
 ハンニバルが腿をパンと叩いた。
「フェイス、町に行って、この辺の詳しい地図を手に入れてこい。等高線、河川や湖、山道、その手の情報がきっちり載ってるやつが要る。それから、ここら一帯の土地所有者を調べて、ここ数年内に譲渡や売買があった場合は、その記録も。」
「OK。コング、車貸して。」
 コングが頷き、キーを渡す。
「軍曹、お前は標識およびポスター作りだ。客が山猫を可愛がらないように、餌をやらないようにな。」
「あ、あと。」
 と、フェイスマンが挙手。
「キッチン裏のゴミ捨て場、山猫がゴミを漁るんで、何とかした方がいいと思う。」
「わかった。コング、目の細かいフェンスで猫が近づけないようにしておいてくれ。」
「おう。簡単でい。」
「モンキーは……。」
 と、ハンニバルがテラスのマードックに目をやった。
「モンキー、借りられるかな?」
 ハンニバルがマードックの作業を決める前に、レイモンドが尋ねた。
「キッチン要員として必要なんだ。一昨昨日、コックのエドガーが肩やられちまって入院してるんで、今週中だけでも。」
「ああ、そりゃ構わんが、モンキーなんかで役に立つのか?」
「彼、相当の腕だよ。」
 ハンニバルとコングが顔を見合わせる。マードックの料理は、決して下手ではないが、一般のお客様にお出ししていいものかどうか。
「そのエドガーとやら、肩をやられたってのは、持病か何かか? 脱臼が癖になってるとか。」
「持病じゃなくて、奴さん、熊に……。」
 言おうとした先を、エセルに「シッ」と止められた。
「熊に?」
 3人が声を合わせる。先に来ていたフェイスマンも、コックの怪我の原因までは聞いていなかった。
「そう言えば、滅多に人は襲わないって言ってたな。」
 滅多に、を強調してハンニバルが言う。
「違う違う、襲われたんじゃなくて、あれは……何て言ったらいいんだ?」
 レイモンドはエセルの方を見た。溜息をついて、エセルがゆっくりと話し始める。
「あれは、力加減がわからなかっただけでしょう。エドガーは熊と仲がよくて、いつも一緒にベリーを採っていたんですよ。恐らく、熊は、『ほら、エドガー、こっちにラズベリーが沢山なってるよ』と肩を叩こうとしたんじゃないかと思います。ですから、皆さんは大丈夫です。熊のテリトリーを荒らさない限りは。」
 エセルの説明も、あまり説得力はなかった。
「ともかく、熊に近づかなきゃいいってこったな。」
 と、コング。腕っ節には自信のあるコングだが、熊のような爪は彼には生えてないし。
「そうです。こちらが何もしなければ、安全だと思います。私だって、熊に怪我を負わされたことなんて……。」
 彼女のヘイゼルの瞳が宙を漂った。その後、表情が一瞬固まり、しかしすぐに作り笑いに変わる。
「一度たりともありません。」
「お、俺もだな。」
 ね、と顔を見合わせる夫妻。
「まあ熊のことはいいとして。早速行動開始と行きますか。」
 リーダーの号令に、フェイスマンとコングは席を立った。マードックはまだ寝ている。腹の上に山猫を乗せて。



〈Aチームの作業テーマ曲、かかる。〉
 メモを手にホームセンターで買い物をしているフェイスマン、巻いた大きな地図を腋に挟んでいる。その地図が積み上げられたペンキ缶にぶつかり、缶の山が崩れ、あたふたする。
 慎重に『山猫に餌をやらないで下さい』のポスターを書いているコング。描いてある絵は、山猫というよりむしろ猪。
 ダイニングテーブルに地図を広げ、何やら書き込んでいるハンニバル。窓の外の山をじっと見つめ、再び地図に向かう。
 大きなボウルに粉をふるうマードック。キッチンの窓辺では、何か貰おうと山猫が待機している。
 役所であっちへ行ったりこっちへ行ったりしている地味なスーツ姿のフェイスマン。ハラリと落ちた書類を女性に拾ってもらい、二人見つめ合う。
 ポーチに座って、立て札に『山猫立入禁止』マークをペンキで描くコング。その作業を山猫が見守っている。
 山の中を歩いているハンニバル。時々立ち止まっては、小さく折り畳んだ地図に書き込みをしていく。その姿を、遠くから熊が見ている。
 卵をいくつもいくつもボウルに割り入れるマードック。窓の外では山猫が興奮気味。そんな山猫に、舌を出して見せる。
 町中のお洒落なカフェで、書類を拾ってくれた女性とコーヒーを飲みつつ談笑中のフェイスマン。すちゃっと眼鏡を外し、取って置きの微笑み。
 ゴミ集積場(生ゴミ処理機含む)にフェンスを作るコング。まるで檻の中にコングが入っているよう。金網を張った端から、山猫が登って遊ぶ。
 まだまだ山歩きをしているハンニバル。川の魚の数をチェック。向こう岸では熊が魚を獲っている。
 大量のパンケーキを次から次へと焼いていくマードック。その反対側では、エセルが魚を三枚に下ろしており、他の従業員たちは野菜の下ごしらえをしている。レイモンドは食卓のセッティングに忙しい。
〈Aチームの作業テーマ曲、終わる。〉



 5日前からフェイスマンとマードックが泊まっているログハウス(もちろん宿泊料無料)で、Aチームの作戦会議が行われている。夕食後の幸せな一時でもあり、手作りのフカフカアツアツのパンにたっぷりと無塩発酵バターを乗せたのは美味かったなあ、とか、サーモンとポテトとホウレンソウのクリームグラタンは微妙な塩加減とハーブの香りが何とも言えなかった、とか、クルミを散らしたクレソンとマッシュルームのサラダにはヨーグルトとクリームチーズのドレッシングが最高にマッチしていた、とか、様々なフルーツのダイスをリキュールで和えたのを乗せたパンケーキが明日も食べられるといいなあ、とか、それぞれに思いつつも、真面目な顔を見せているAチーム一同であった。
「この地図を見てくれ。」
 ハンニバルが半日使い込んだ地図を、ベッドの上に広げた。
「地図によれば、そこの湖に流れ込んでいる川の上流は、ここだ。」
 ペンのキャップの先で、湖から出ている青い線をずっと辿っていく。
「それは問題ない。と言うか、問題じゃない。しかし、だ。」
 と、その線に沿って、再び湖の方へ戻る。
「ここで川が二股になっている。こっちでも二股になっている。つまり、海からやって来たサーモンがこの川をこう遡ってきて、この辺りで産卵する。遡る時に道を間違えたサーモンが、こっちの湖に来たり、もう1つのこっちの湖に来たりすることも多分にあり得る。また、産卵を終えて力尽きた雌サーモンは、この辺りで死亡。なので、この周辺には熊が多い。雄サーモンは、やることをやった後、道を間違えた場合は、やはりこっちかこっちの湖に到着。この川で生まれた子供サーモンも、海に出ようとして道を間違えると、こっちかこっちの湖に到着。ここまでいいか?」
「ああ。つまり、そこにある湖と同じような湖がもう1つあって、サーモンが二分されるってこったな。」
「サーモンが二分されるんじゃなくて、道を間違えたサーモンのうち、一部がそこの湖に来ちゃって、残りはもう1つの湖に行くってことだよね?」
「そうだ、フェイス。今、サーモンの例だけで話したが、他の魚も同じようなもんで、このメインの川の魚が、そこの湖に来ることもあれば、向こうの湖に行くこともある。」
 ハンニバルはメンバーの顔を見回した。
「大丈夫か、モンキー?」
 マードックは食事中。みんなが食事をしている時にはキッチンで働いていたため、今、冷えたパンと冷えたグラタンとぬるいサラダを食べている。
「だいじょぶ。聞いてるし、理解できてる。今んとこ。」
「じゃあ続けるぞ。この、もう1つの湖がなくなったら、魚はどうすると思う?」
 地図上の、もう1つの湖を、ハンニバルは手で覆い隠した。
「どうするって……こっちの湖に来る可能性が高くなる?」
 フェイスマンの答えに、ハンニバルが頷く。
「だから、そこの湖の魚が増えたのか!」
「その通り。で、この、もう1つの湖ってのは、実際の位置としちゃ、そこの後ろの山のちょっと上がった辺りなんだな。山猫は元々どこにいた?」
「レイの話によれば……後ろの山……。」
「猫は何を食べる?」
「魚か! ってことは、あの山にある湖が埋め立てられるか何かして、魚がいなくなっちまって、そんで山猫どもは餌を求めてここに下りてきたってのか。」
「恐らくな。でも、まだ湖は埋め立てられちゃいませんでしたよ。ここに堰があって、流れが堰き止められてるだけで。」
 既に川を表す線の上につけてあった印を、ハンニバルは大きくグリグリと丸で囲んだ。
「フェイス、この辺りの所有者はどなたかな?」
「ちょい待ち。」
 フェイスマンは書類の束に目を通した。だが、この辺りには明確な住所表示があるわけでもなく、それぞれの書類に添付された地図をベッドの上の地図と照らし合わせていかなければならないので、この作業は難航した。ハンニバルとコングも手助けし、マードックも食事しながら書類を繰る。
「あった、これだー!」
 部屋中に書類が散らばっている中で、フェイスマンが一束の書類を高々と掲げた。他の書類を片づけて、元の位置に戻るAチーム一同。この間に、マードックは食事を終えた。
「ええと、土地の所有者は、ジャン・ルイ・ジルベルマン氏。約1年前にマイケル・ボンフィス氏から買い取ってる。」
「臭いな。もっと詳しいことはわからんか?」
「わかんない。明日調べてくるよ。」
「よし、頼んだぞ。」
「ねえ大佐、レイに聞けばいいんじゃないの?」
 お腹一杯のマードックが発言。血液が胃に行っているため、頭は余計なことを考える余裕がないと見た。
「いいところに気づいたな。地元民を招集するとしよう。」



 というわけで、Aチームはダイニングルームに移動した。定員4名のログハウスに4人+フィッツパトリック夫妻の合計6名はちと狭いので。
 ダイニングルームでは、チェスを楽しんでいるお客や、一杯やりながら釣りの話に興じているお客もいたが、彼らを全く気にせず、6人は真剣な面持ちでテーブルに着いていた。
「レイ、マイケル・ボンフィスという人を知ってるか?」
 ハンニバルが口火を切った。書記係はフェイスマン。
「知ってるも何も、お義父さんだよ。」
 幾分、驚きの表情を見せている面々に、エセルも言う。
「ええ、マイケル・ボンフィスというのは私の父です。……父がどうかしました?」
「およそ1年前、そこの山の土地権をジャン・ルイ・ジルベルマンという人物に売ったのはご存知かな?」
「知ってます。売ったと言うより、あれは騙し取られたようなもんです。」
「違うよ、エセル。お義父さんは、俺の知る限り、騙されちゃいなかった。脅し取られたんだ。」
 余計悪いわ、と突っ込むには深刻な話題。
「レイの言う通り、脅し取られたと言うのが正しいかもしれませんね。あの時、父は、肋骨7本、鎖骨1本、上腕骨1本、尺骨1本、橈骨1本、脛骨2本、腓骨2本、合計15本、骨を折られましたから。」
「それと、肩甲骨と骨盤にヒビ。」
 レイモンドがつけ足す。
「一体何があったんでい、そんなひでえ怪我。」
 コングが眉間に皺を寄せて、忌々しそうに尋ねる。
「詳しくはわからないんですが、父の話によると、半値で土地を譲れとジルベルマンに迫られて、断ったら、そうなったんだそうです。でも、父の怪我が思いの外ひどくて、結局ジルベルマンは評価額の8割で手を打ち、父の治療費や入院費、それに父が入院している間の母の生活費も、全額負担してくれたんです。だから、そう悪い人でもないと思うんですよ。」
 ジルベルマン、いい奴なんだか悪い奴なんだかわかりにくい。
「エセル、親父さんと会って話を聞きたいんだが。」
「今、電話してみます。まだ起きてるといいけど。」
 ハンニバルにそう言って、エセルは席を立った。
「ジルベルマンについて、他に知ってることはないか?」
 続けてハンニバルはレイモンドに尋ねた。
「金持ちで、でっかい屋敷に住んでる。ほら、こっから町に行く道沿いにあるだろ、でっかくて綺麗な家が。あれがジルベルマン屋敷。仕事は、建築だか建設だか、そんなとこ。町に奴の会社があるよ。これがまたでっかいビルでさ。マダム・ジルベルマンは、何年前だったっけかな、病気で亡くなった。線の細い、綺麗な人だったよ。品があって優しくてね。一人娘がいて、俺たちよりいくつか年下だったかな、町で働いてる。父親の会社じゃないとこで。」
「もしかして、その子の名前、ミレーヌとか言う?」
 フェイスマンが顔を上げて、恐る恐る尋ねる。
「そうそう、ミレーヌ。知ってんの?」
「……少しだけ。」
「フェーイス。」
 ハンニバルがフェイスマンの肩に腕を回した。
「な、何?」
「いつ、どこでお知り合いになったのかな、彼女とは。」
「え、今日、役所で。書類落としたのを拾ってくれて。」
「それだけでどうして名前を知ってるのかな? ん?」
「それは、その、名刺貰ったんで。ほら、名刺、名前書いてあるじゃん?」
 そらまあ、名刺には名前書いてあるわなあ。
「で?」
 ずずいと詰め寄るハンニバル。フェイスマンは肩をがっしりと掴まれているので、逃げるに逃げられない。
「で?」
「……30分ぐらいお茶飲んだ。でも、それ、コングに頼まれた物、全部買って届けた後だったし、資料も全部集めた後だったし、少しぐらいならいいかなと思って。別に俺、サボってたわけじゃないからね。」
「お茶だけ?」
「だけ! ホント、お茶しただけ。だって俺、夕飯にはちゃんと帰ってきただろ?」
「じゃ命令。明日、彼女に会って、もっと仲よしになること。明日の夕飯は、彼女と食べること。」
「……いいの?」
 フェイスマンが、あからさまに嬉しそうな顔をする。
「ただし、ジルベルマンの悪事を事細かに調べ上げた後でな。」
「ハンニバル、ジルベルマンが悪党だって決めてかかっていいのか?」
 コングが欠伸を噛み締めて尋ねる。
「ああ、あたしの勘じゃ、奴さん、かなりの悪党よ。」
 人生経験豊かなハンニバルの勘がそう言ってるんなら、ジルベルマンは悪党なのだろう、きっと、多分、恐らく。
「ハンニバルさん、父が、明日の昼食を一緒に食べようと言っていました。お昼前に、車で実家までお送りします。」
 電話を終えて戻ってきたエセルが報告する。
「モンキー、お昼前の忙しい時に私いなくて大丈夫?」
「平っちゃらさあ。やることわかってるし、明日の昼飯ここで食うの、10人ぐらいっしょ? オイラに任せて、ゆっくりしてきなって。弁当23個は7時締切だっけ?」
「そう。サンドイッチの具は作ってあるから、朝食の準備を含めても4時起きで間に合うわね。」
 この後、エセルとマードックの話は延々と続くが、メニューについて、買っておくべき食材とその量について、タイム・スケジュールについて、といったことなので、省略。
 レイモンドは、先刻、タオルが足りないと客に呼ばれて、一旦は戻ってきたが、今度はトイレが詰まったと呼ばれて、再度席を立った。
「モンキーは忙しそうなので、フェイス。」
「うん?」
「お前は、明日のおデートに備えておけ。」
「わかった。」
 フェイスマンが力強く頷く。具体的に何をどうするのかは不明。ワイシャツにアイロンをかけるとか?
「コング。」
「何でい、これからもう一仕事しようってのか?」
「いや、我々は寝ることにしよう。そして、3時起きでジルベルマン屋敷の偵察だ。」
 キッチン要員と起床時間を張り合っているのだろうか。それとも、ご老体には3時起きは当然のことなのだろうか。
 とりあえず解散するAチーム一同+αであった。



 翌朝。
 セルフサービスの朝食の席で、メープルシロップたっぷりのパンケーキ、シャキシャキのグリーンサラダ、色とりどりのフルーツサラダなどを前に、Aチームの3人は完璧に目が覚めていた。
「ジルベルマン屋敷の警備は結構厳しかったぞ。」
 マードックに頼んで特別にハムソテー(目玉焼き添え)を作ってもらったハンニバルは、モリモリとハムを食べている。
「セキュリティ・システムが曲者だったな。ありゃあ外から攻めるのはきついぜ。フェイス、中から崩せそうか?」
 シロップでべしょべしょのパンケーキと冷たい牛乳とを交互に口に運ぶコング。右手に持ったフォークと左手に持ったジョッキ。何も持っていなければ、その動きはモンキーダンスにも見えるかもしれない。
「OK、やってみる。警備員や犬なんかはいなかった?」
 フルーツサラダをボウルでかっ食らっているフェイスマン。ビタミンCはお肌によろしいので。
「犬はいなかったな。警備員は数名。」
 そう言うと、ハンニバルは目玉焼きの黄身(半熟。味つけは塩コショウ)を口の中に放り込んだ。
 窓の外では、コングお手製のポスターや立て札のせいで宿泊客に食事を恵んでもらえない山猫が、訴えるようにギャーギャー鳴いている。
「今日の予定は? ハンニバル。」
 山猫の声を無視しようと努めて、コングが尋ねる。
「フェイスは、昨日言ったように、調べ物とデート。コング、お前は、そうだな、ゴミ捨て場のフェンスをチェックして、山猫の様子を見て回った後、例の堰を見に行ってみてくれ。一応、人様の土地なわけだから、こっそりとな。俺は、一休みして、エセルの親父さんと会食だ。」
 言い終え、ハンニバルはコーヒーをくーっと飲み干した。



 昼下がり。
 調査を一通り終え、夜のデートの約束も取りつけたフェイスマンが、一旦ペンションに戻ってきた。この時間、ペンションはがらんとしている。宿泊客は外出しているし、従業員は忙しく働いている。
 テラスのデッキチェアで、マードックが寝ているのが見えた。その横のデッキチェアでは、コングも丸まって寝ている。
――コング、朝早くって言うかまだ暗いうちから、ハンニバルと偵察に行ってたもんな。
 レイモンドはログハウスの掃除に回っていることだろう。ハンニバルの姿が見えないということは、エセルもまだ外出中のはず。
 フェイスマンはダイニングテーブルにファイルを投げ、セルフサービスのコーヒーをカップに注いだ。と、その時。
「おう、フェイス。調べ物は終わったのか?」
 玄関ホールの方からコングがドタドタと姿を現した。裸足にスニーカーを突っかけて、腰から下はずぶ濡れ、首からタオルをかけている。
「俺ぁこれから山行って、例の堰ってのを見てくるぜ。ハンニバルに会ったら、ゴミ捨て場のフェンスは異状なし、山猫は腹空かせて湖の魚を獲ろうとして水難事故続出だって伝えといてくれ。」
「うん、わかった。」
 と答え、ハッとしてフェイスマンはテラスを見た。コングは今、ホールの方からダイニングルームに入ってきて、再びホールへと向かった。それじゃあデッキチェアで寝てるコングは誰?
「ギャア〜!」
 キャンバス地を割くような男の悲鳴。玄関から出てログハウスに行こうとしていたコングが駆け戻ってきた。
「どうした、フェイス!」
「熊っ! 熊っ!」
 胸と腹にコーヒー色の染みをつけたフェイスマンが、真っ青な顔でテラスの方を指し示している。左手にはコーヒーカップを握ったまま。
 コングも窓の外を見て、事態を把握した。まずいことに、フェイスマンの叫び声で熊が目を覚ましたようだ。デッキチェアの上でもぞもぞと動いている。一方マードックはちっとも起きやしない。
 コングは考えた。熊は蜂蜜やメープルシロップが大好物だ。それを舐めさせておいて、その隙にマードックを救出する。グッド・アイデア!
「フェイス! 台所からメープルシロップ持ってこい!」
「わ、わかった!」
 そっと窓の鍵を開けつつも、じっと窓の外の熊を見つめるコング。瞬きさえもせずに。熊がマードックに襲いかかりそうになったら、身を挺してでも助けなければならない。視線を熊から外さずに、スニーカーをしっかりと履く。
「コング! はい、メープルシロップ!」
 フェイスマンの声にコングは右手を斜め後ろに伸ばした。掌を上にして。その上に、大ぶりのビンが乗せられた。どっしりと重い。十分な量だろう。この中身を勢いよくテラスに撒けばいい。それも、マードックがいるのとは反対側に。つまり、熊のいる方に。
 コングは左手で窓をガラッと開けた。そして次の瞬間、右手に持ったビンの中身、メープルシロップを振り撒くべく、ボールを投げるような動きで勢いよく右手を振り下ろし――
 ゴンッ!
 緊張したコングの手は、汗でびっしょりだった。それも、脂汗。ビンは、片手でがっちりとホールドするには大きすぎた。したがって、コングの手からすっぽ抜けたビンは、そのまま飛んでいき、熊の顎に見事(?)ヒットした。熊がむくりと起き上がる。
 更に悪いことに、コングは、フェイスマンがビンの蓋を開けてから渡してくれたものと信じ込んでいた。そしてフェイスマンは、コングが自分でビンの蓋を開けるのかと思っていた。デッキチェアの上に、ゴロンと転がっているメープルシロップのビン。その蓋はしっかりと閉まっており、中身が漏れ出す気配すらない。
 熊が怒ったように吠えた。危うし、マードック!
「モンキー!」
 窓の所から叫ぶコングとフェイスマン。その表情は恐怖に歪み、フェイスマンの目には涙さえ浮かんでいる。
「なあに〜? 呼んだあ〜?」
 顔の上の本を取り上げながら、マードックが寝起きの声を出し、上半身を起こす。
「モンキー、熊! 熊! 熊!」
 コングとフェイスマンが指差す方向に緩慢な動きで目をやるマードック。デッキチェアから下りて立ち上がった熊と、その手前にメープルシロップのビン。
「やあ、こんちは。えっとリリーちゃんだっけ? これ食べたいの? 待ってな、今開けてやるから。」
 マードックは驚いた様子もなく寝惚けた声で言うと、ビンに手を伸ばし、蓋を開けた。
「あー、このまんまじゃ食べにくいよな。フェイス、スープ皿持ってきて。」
 動転しつつもキッチンにスープ皿を取りに行くフェイスマン。駆け戻ってきて、窓から皿を持った手を伸ばす。
「ども。」
 それを受け取り、マードックはメープルシロップを半分ほど皿に移し、熊の前に置いた。
「ボナペティ〜(お召し上がりあれ)。」
 おとなしく待っていた熊が、シロップを舐め始める。マードックは、蓋を閉めたビンをフェイスマンに渡した。
「今何時?」
 聞かれてフェイスマンが腕時計を見る。この動作で、コーヒーカップ(まだ握っていた)に残っていたコーヒーは全て床に零れ落ちた。
「……2時45分。」
「あと45分寝られるわ。おやすみ。」
 デッキチェアに戻り、マードックは再び本を開いて顔の上に乗せると、すぐに鼾をかき始めた。その横では、熊のリリーちゃんがテラスにお座りをして、両手で持ったスープ皿をいつまでもいつまでも舐めていた。
「……何あれ?」
 拍子抜けしたフェイスマンがコングに聞いた。
「滅多に人は襲わないってのはホントらしいな。」
 コングが窓を閉めつつ答える。マードックを“人”の範疇に含めていいかどうかというのは置いておくとして。
「ま、何事もなくてよかったけどね。」
 依然として握っていたコーヒーカップをテーブルに置く。
「お前、その服、何事もなかったって言っていいのか?」
 コングの指摘に、フェイスマンは自分の服を見下ろした。
「ああ〜、急いで洗濯しなきゃ。替えのワイシャツ持ってきてないし。約束の時間までに間に合うかな?」
「新しいの買ってきたらどうだ? じゃなきゃ、レイに借りるって手もあるぜ。」
「レイのワイシャツじゃサイズ合わないよ。どうしよう? レイにTシャツか何か借りて買いに行くかなあ。あの制服着てくのはやだし。」
「買いに行くなら、ついでに俺のカーゴパンツと靴下も買ってきてくれ。それと、10キロの獲物でも掬えるぐらいの釣り用の網も頼むぜ。柄はできるだけ長えやつがいいな。」
 頼まれ物があると、買い物にも多少は張り合いが出る。
「しょうがない、買い物行ってくるよ。」
 眉毛をハの字にしたまま、フェイスマンは頷いた。



〈Aチームの作業テーマ曲、再びかかる。〉
 ぶかぶかのTシャツと裾を折り返したぶかぶかのブルージーンズに上等なVチップという、ちょっと知り合いには見つかりたくない服装で、紳士フォーマルウェア売場を行き来するフェイスマン。
 山に分け入るコング。下半身は未だ湿っている。首にかけたタオルで顔の汗を拭う。モヒカンの上には子山猫。その姿を遠くから熊が見ている。
 見事な包丁さばきでタマネギを刻むマードック。水中眼鏡をかけ、シュノーケルを咥えている。時計を見上げて首を傾げる。
 マイケル・ボンフィス氏と意気投合しているハンニバル。ラジオから流れる曲(『トリオ・ザ・ミルク』)に合わせてタップダンスを披露するボンフィス・パパ。怪我は完璧に全快のご様子。ハンニバルは曲に合わせて、葉巻の煙をドーナツ型に飛ばしている。時計を見上げて溜息をつくエセル。
 紳士カジュアルウェア売場で手に取ったカーゴパンツを腰に当てるフェイスマン。左の脇から前に回して、右脇を通過し、裏に回って背骨まで。うん、と頷き、籠に入れる。
 開けた崖っぷちに立ち、両手を腰に当てるコング。雄大な自然の中で、大きく深呼吸をし、おもむろに地図を開く。どうやら道に迷ったらしい。
 フロントで、受話器を肩に、困った顔で話をしているマードック。左腕には大きなボウルが抱えられており、右手ではその中身を練っている。夕飯はハンバーグステーキかな、ミートローフかな。ケバブ……ではないな。
 電話を切るエセル。怒ったようにハンニバルに車のキーを渡し、勢いよくドアを開け、山道をざくざくと歩いていく。肩を竦めるマイケル・ボンフィス氏とハンニバル。2人の間には、釣り竿と猟銃と分厚いアルバムの山。テーブルの上に開いて置かれているアルバムには、獲物(魚、鳥、獣)を掲げて得意げなボンフィス氏の写真が並んでいる。
〈Aチームの作業テーマ曲、再び終わる。〉



 ハンニバルがエセルの車でペンションに戻ってきたのは、既に太陽が西の山々の向こうに姿を隠し始めている頃だった。湖にコングの姿が見えたので、そちらへ向かう。
 コングは、フェイスマンが買ってきた網を用いて、山猫を1匹救出したところだった。網の中から転がり出てきた山猫が、体をブルブルブルッと震わせ、そして何事もなかったかのような顔で毛づくろいを始める。
「どうしたんだ、この猫は? 泳ぎの練習をするには、まだ寒いだろうに。」
 ハンニバルの問いに、コングが説明する。
「(前略)ってわけなんだ、ハンニバル。早く何とかしねえと、俺だって四六時中見張ってるわけにゃいかねえし、いつか猫たち、溺れ死んじまわあ。」
 そうなると、また動物愛護団体やらがうるさいしな。
「よし、鋭意検討するとしよう。で、フェイスは?」
「(前略)ってわけで、今、支度中だ。調査結果はファイルしてあるってよ。」
 と、コングは、ログハウスの方を親指で指し示した。
「よろしい。モンキーは……忙しいんだろうな、この時間。」
「ああ、モンキーのくせしてカリカリしてやがる。牛乳1杯くれやしねえ。……そうだ、モンキーって言えば、(中略)ってことがあってよ。ありゃあ驚いたぜ。」
「ほう、熊がねえ。」
 と、笑顔で興味深そうに聞いていたハンニバルが言う。
「いつの間にか、いなくなっちまったけどな。」
「見物できなくて残念。……それはそれ、堰は見てきたか?」
「おう。でかいハンマーか何かがありゃ、すぐにでも壊せるぜ。で、エセルの親父さんは何て言ってた?」
 ハンニバルは視線をキッチンの方へ向けたが、窓には山猫が張りついていて、エセルの姿は見えなかった。コングに向き直り、マイケル・ボンフィス氏から聞いた話を要約する。
「ジルベルマンは、あの場所にホテルを建てる予定なんだそうだ。このペンションが流行ってるのに目をつけたらしい。ジルベルマンの奴、計画を洗いざらい打ち明けた上で、エセルの親父さんと交渉に入ったって話だ。」
「なのに、親父さんが首を縦に振らなかったんで、脅しにかかったのか。」
「ああ、確かに脅されたと言ってた。ジルベルマンの会社の社員にな。問題の土地を親父さんが案内している最中に、バールのようなもので。」
「……バールのようなもんで? それで15カ所骨折か?」
 コングが「カルシウムが足りねえんじゃねえか?」という言葉を口にする前に、ハンニバルが続ける。
「骨折は全部、バールのようなものによる一撃を避けようとして足を滑らせた親父さんが谷に落ちた時に負ったものなんだと。その社員ってのが、親父さんが谷に落ちたってことをジルベルマンに連絡して、ジルベルマンが救助隊を呼んでくれたんだとさ。この件に関して略式の裁判も既に行われて、その社員ってのは、バールのようなものを人様に対して振り回したかどにより服役中。ジルベルマンは、脅迫するよう命令はしたものの、結局親父さんの救助に一役買ったわけだし、親父さんが病院に運ばれた段階で費用の支払いを申し出ていたってことで、取り調べのために数日拘留された以外はわずかな罰金だけだったそうだ。」
 話を聞いて、しばらくの間、遠くを見つめていたコングが、視線をハンニバルに戻して言った。
「……じゃあ、ジルベルマンってのは、俺たちが退治しなきゃなんねえほど悪い奴じゃねえんじゃねえか。」
「この件に関してだけならな。余罪があるかもしれんから、フェイスが調べてきたのに目を通してから判断しましょ。」
 コングが深く頷く。そして2人は、腹がグーと鳴ったので、ダイニングルームに最短距離で移動すべくテラスに向かった。



 が、しかし、夕飯にはまだ早かったようだ。ダイニングルームでハンニバルとコングが松の実を摘んで空腹を紛らわせていると、支度を終えたフェイスマンが顔を覗かせた。2人を見つけて、部屋に入ってくる。
「どう、これ?」
 どうってことない紺スーツ上下+白いワイシャツ+レジメンタル・タイ+黒縁伊達眼鏡のフェイスマンが、2人の前でクルンとターンする。
「夜のデートにしちゃ地味じゃないか。地方都市の新入社員みたいだぞ。」
「そう、それでいいのさ。今回の俺、冴えない土地調査員って役柄だから。」
「そんなんじゃ、すぐに振られちまわねえか?」
「甘いね、コング。」
 フェイスマンは人差し指をチッチッと振った。
「蓼食う虫も好き好きって言うだろ。女性の好みを瞬時にして把握し、好みのタイプになり切る。それでこそ詐欺師。」
 結婚詐欺師じゃん、それ。
「ジルベルマンの娘は、冴えない男が好みなのか?」
「真面目だけど、ちょっと抜けてて、母性本能を擽るタイプがお好みと見たね。彼女、しっかりしたキャリアウーマンって感じだし。」
「細い眼鏡かけてて、髪はシニヨン?」
「そうそう、でも美人。スタイル抜群で、ハニーブロンド。」
「シニヨンを解いて髪を下ろす、あの瞬間がたまらんですなあ、むふふふ。」
「ハンニバルもそう思う? 俺も、ほら、髪を下ろした後にこうやってファサファサって髪を広げるだろ、あれがすっごく好きでさ。」
 フェイスマンが動作で示す。とってもセクスィ〜に。
 向こうの方で、偶然それを目撃してしまった泊まり客のお婆ちゃんが目を丸くする。ええもん見してもろうたわい、なんまいだなんまいだ。
「おい、フェイス、行かねえでいいのか?」
 顔を見合わせてニマニマしているフェイスマンとハンニバルに、コングが時計を指して言う。
「ああ、そうだ、行かなきゃね。」
「リード線とドライバーとニッパーは持ったか?」
 胸ポケットに手をやるフェイスマン。
「持った持った。じゃ、行ってきます。」
「屋敷に着いたら電話入れろよ。」
 頷いて、フェイスマンはダイニングルームを出ていった。



 夕食後。
 コングは堰を壊しに行った。ハンニバルは、フロントに座って、フェイスマンからの電話を待っている。
 ジリリリリリ!
 旧式黒電話がけたたましく鳴った。
「ハロー、ペンション・フィッツパトリックです。」
 ハンニバルが受話器を取って言う。
『部屋を予約したいんだが、明日の午前中からでも構わないか?』
 フェイスマンからではなかった。仕方なくハンニバルは予約表のファイルを開いた。
「はいはい、何名様で?」
『2人だ。ツインで。』
「ログハウスのコテージと、本館のペンションと、どちらがよろしいでしょうか?」
『ペンションの方を。』
「はい、明日の午前から本館のツインルームお1つ。いつまでご滞在のご予定で?」
『1週間、大丈夫かな?』
「はい、大丈夫です。お食事は明日の昼食から、1日3食つきになりますが。2食コース、1食コースもございます。」
『3食頼む。』
 ハンニバルは予約表の203号室の欄に、1週間分、ビシイッと線を引き、その線の上に大きく「3食」と書いた。
「失礼ですが、お客様のお名前、ご住所、お電話番号をいただけませんか。」
『ああ、済まん、デッカーだ。』
「はい、デッカー様で……デ、デッカー?!」
 驚きつつも、予約表にちゃんと「デッカー夫妻」と書く。
『デッカーだ、デデッカーじゃないぞ。綴りはわかるな?』
 そう思って聞けば、確かにこの声はデッカーの声。
『住所は、アメリカ、カリフォルニア州ロスアラミトス、ロスアラミトス大通り73。書き取れたか?』
「はい、ロスアラミトス大通り73ですね。」
 その後、電話番号を書き取ったハンニバルは、予約内容の確認をした。
『急な予約で済まないな。休暇が取れるっていきなり決まって、それをうちの奴に話したら、すぐに旅行に行こうってことになってしまって。』
「いえ、お気になさらずに。このペンションのことは、ガイドブックか何かで?」
『そうだ。うちのが、前もってガイドブックに丸をつけててな。いくつかあったうちで一番交通の便がよさそうだったんで、お宅に決めたんだ。』
「それはそれは、ありがとうございます。」
『それじゃあ、明日から1週間、よろしく頼むよ。』
「はい、お待ちしております。」
 ハンニバルは受話器を置いて、予約表に「新規」の付箋を貼った。Aチームにとっては宿敵のデッカーだが、レイモンドとエセルにとっては大事なお客様だ。それに、明日の午前なら、Aチームはとっくにカナダからトンズラしている予定。マードックはともかくとして。
――料理してるのがモンキーだとわかった時のデッカーの顔を見てみたいもんだな。
 そんなことを思う余裕すらあるハンニバル。黙っておいた方が面白そうなので、マードックにはデッカーが来ることを伝えないでおくことにする。
 ジリリリリリ!
 またもや電話が鳴った。
「ハロー、ペンション・フィッツパトリックです。」
『ハンニバル? 俺。今、屋敷。』
 今度こそフェイスマンからだった。
『この先、どうする? どうも俺、泊まってっていいみたいなんだけど。』
「ほう、だいぶ気に入られたようだな。」
『そりゃまあね。何時に来る?』
「0時ちょうどっていうのはどうだ?」
『OK、0時ぴったりから3分間、門と玄関のセキュリティ・システムの回路を迂回させるよ。正面の門と玄関のドア以外には触っちゃダメだからね。3分したら元に戻す。いいね?』
「わかった。で、お前、今、屋敷のどこにいるんだ? ゆっくり電話してて平気なのか?」
『ここ、ミレーヌの部屋で、彼女、今シャワー浴びてる。あ、誰か来た。家政婦かな? じゃ、0時にね。』
「頑張れよ。」
 何を頑張るのやら、とハンニバルは思いながら、受話器を置いた。
 ちょうどいいタイミングでコングが戻ってきた。
「堰、壊してきたぜ。」
「ご苦労。……どうしたんだ、ずぶ濡れじゃないか。山猫と一緒に魚獲ってたのか?」
「川に落ちて、危うく湖まで流されるとこだったんでな。」
「そりゃあ散々だったな。」
「ああ、ネックレスとハンマーのせいで、死ぬかと思ったぜ。」
 よく生きていたものです。
「着替える時間あるか?」
「0時に潜入だ。時間は十分にある。」
 そうしてハンニバルとコングは、ログハウスに向かった。コングはシャワーを浴びて着替えるために、ハンニバルはフェイスマンが調べてきたジルベルマンの悪事に関する資料に目を通すために。



 コングのバンはフェイスマンが乗って行ってしまったので、ハンニバルとコング、そしてコック帽を被ったマードックは、エセルの車に乗ってジルベルマン屋敷に向かった。実はハンニバルったら、車のキーをエセルから預かったきり返していなかったのである。
 黒づくめでも何でもない普段着の3人、夜の闇にちっとも姿が隠されていない。通行人がいるわけでも、屋敷の見張りが大勢いるわけでもないのだが、一応、門の脇の茂みに潜んでみたりしている。
 アウトドア仕様の腕時計をじっと見つめていたコングが、手振りでカウント・ダウンする。
 5、4、3、2、1、0。
 3人は行動を開始した。門扉に張りつき、よじ登るコングとマードック。内側に飛び降りた2人、コングはドアに向かってダッシュ。マードックは針金でチョイチョイと門の鍵を開け、ハンニバルを中に入れてやり、門を元通り閉めた。侵入者に気づいた警備員が数名、駆け寄ってきた。が、あっと言う間にコングの拳に倒れる。コングが警備員をロープで縛り上げている間に、マードックが再び針金を用いてドアの鍵を開ける。ハンニバルはただゆっくりと歩いているのみ。
 0時3分、3人は屋敷の中に侵入し終えていた。屋敷内はシンと静まっている。奥からフェイスマンが走り出てきた。
「ジルベルマンは2階。」
 と、階上を指し示す。
 フェイスマンの案内で、一際豪勢なドアの前に立つAチーム一同。
「屋敷にいるのは、ミレーヌとジルベルマンと警備員5人、家政婦3人。ミレーヌは睡眠薬で眠ってて、朝まで起きないはず。家政婦3人も同様。」
「警備員、4人しかいなかったぞ?」
 コングが、つい数分前の記憶を辿り、指を3本立てる。
「じゃあ残りの1人、詰め所で寝てるのかも。」
 かも、じゃ困るAチームの活動。しかしリーダーは悠然と言い放った。
「警備員の1人くらい、いいでしょう。」
 そしてハンニバルは「ゴー!」というように、重厚なドアを指差した。



 バーン!
 観音開きのドアをコングが蹴破った。その途端。
 ビーッ! ビーッ! ビーッ! ビーッ!
「こんなとこまでセキュリティ入ってんのか?」
 慌てて辺りを見回すコング。
「これ、セキュリティ・システムの警報音じゃないよ。」
 フェイスマンが言う。セキュリティ・システムによるものでないのなら安心。こうやっていても警察は来ない。
「それに、この音、屋敷ん中でしてるんじゃないんじゃん? 俺様の山猫イヤーによると……あっちの方から聞こえる。」
 それでも十分に大音響なのだが。
 謎の音が鳴り響く中、月明かりに照らされた部屋を見渡す。Aチーム以外、誰もいない。そして、左右にドアが1つずつ。
「どっちだ?」
 ハンニバルがフェイスマンに聞いた。
「わかんない。」
「じゃあ右だ。」
 根拠なくハンニバルが言い、一同は右のドアに進んだ。再びコングがドアを蹴り破る。
 バーン!
 しかし、右側は無人の書斎。ハズレ。
「左だったようだな。」
 元の部屋に戻ろうと回れ右したAチーム一同が見たものは! ――部屋一杯の肉体労働者の群れ。廊下にまではみ出している。
 屋敷裏のプレハブ小屋で寝泊まりしている、ジルベルマン建設会社のアルバイターたちだ。こういった非常時には、社長のボディガードも兼ねる。あの(この?)警報は、彼らを招集する合図だったのだ。
 警備員(残りの1名)がAチームの前に進み出た。屈強な男たちに囲まれ、やけに華奢に見える。
「誰だ、お前たちは!」
「俺たちはAチーム。ジルベルマンと話をしに来た。」
「話があるなら、アポを取ってから昼間に来い。」
「そうしたいのも山々なんだが、俺たち、夜が明けたらカナダを出る予定なんでねえ。」
「急ぎの用なのか?」
「ああ、急ぎも急ぎ。急用だ。」
 ハンニバルと警備員がとぼけた会話を交わしている向こうでは、血の気の多い男どもが「強盗なんじゃねえか」とか「社長の命を狙って来たんじゃねえか」とかと言っている。
 と、その時!
 不用意にもフェイスマンが手を後ろに回した。腰の辺りが痒かったのだ。
 その動作を、臨時ボディガードたちは、銃を抜く動作と勘違いした。「やられる前にやっちまえ」、それが彼らの世界の掟。男たちは一斉にAチームに襲いかかった。



〈Aチームのテーマ曲、かかる。〉
 何事かと取り乱す警備員を右ストレート1発で床に沈めるハンニバル。続いて左フックをボディガードの腹に叩き込む。
 殴りかかってきた男の拳を軽くかわし、逆にベルトと胸倉を掴んで高々と持ち上げ、投げ飛ばすコング。投げられた男は、巻き添えになった男たち4人と共に壁に激突。
 瞬時に羽交い締めにされたフェイスマン、その姿勢のまま、前方にいる男たち数名をキックで倒し、床に足をついた反動を利用して、後ろの男の顔面に後頭部の一撃を与える。
 コック帽を脇に抱えたマードックが、デスクの上に登り、帽子にぎっちりと詰めてあったパンケーキを投げまくる。冷えて固くなったパンケーキもまた痛い。
 以下略。
〈Aチームのテーマ曲、終わる。〉



 死屍累々といった態の部屋を渡って左側の部屋へ向かうAチーム。無惨にも打ち倒され、無情にも踏みつけられている男たちの山から、Aチーム一同が一歩進むごとに「ぐえっ」とか「うがっ」という声が聞こえる。因みに、警報音は既にやんでいる。
「行くぞ。」
 ハンニバルの指示に、コングが頷き、ドアを蹴破る。
 バーン!
 やっと辿り着いたジルベルマンの寝室で、パジャマの上にガウンを羽織った姿のジルベルマンは、煌々と明るい部屋で、ベッドに座って監視カメラのモニターを見ていた。すっくと立ち上がり、笑顔で言う。
「強いねえ、君たちは。」
 真っ直ぐにハンニバルに歩み寄り、右手を差し出す。
「ジャン・ルイ・ジルベルマンだ。」
 ハンニバルがその右手を力強く握る。
「ジョン・ハンニバル・スミス、Aチームのリーダーだ。こっちから順に、コング、フェイスマン、モンキー。」
 空いている左手で部下を指し示す。
「それで、私にどんな用事なんだ? こんな時間に人の屋敷に忍び込み、一暴れしたからには、それなりの話でないと、こちらとしても納得できんからな。」
「率直に言おう。計画中のホテル建設を諦めてもらいたい。」
「ホテル? ああ、あのボンフィス氏の土地だった所のか。」
「そうだ。既に、あんたが堰き止めてた川を元に戻させてもらった。」
「何だと? なぜそんなことを?」
「あの川とその先の湖の周辺は、山猫の棲息地だったんだ。あんたが川を堰き止めたんで、餌にありつけなくなった山猫が大挙して下山してきた。」
「それは知らなかった。気づいて報告してくれて感謝する。あの川と湖を埋め立てて巨大ホテルを建てようと思ってたんだが、計画を変更しないといかん。山猫の棲息地ということは、木々を伐採するのもまずいな。」
 見れば、ジルベルマン氏のパジャマには、黒猫の絵が細かくプリントされている。ガウンの胸の部分にも、猫のアップリケ。ベッドサイドの写真立てには、猫を抱いた家族の写真。更に、ベッドの上には猫が3匹。黒猫とシャム猫とアメショ。
「巨大ホテルじゃなくて、レイんとこみたいなペンションとコテージにしたらどう? ターゲット客が被っちゃうけど。」
 と、フェイスマンが口を出す。
「レイモンド君を知ってるのか?」
「ああ、彼の所に滞在させてもらってる。」
 ハンニバルが答えた。
「彼は私のことをよく知らないと思うが、私は以前から彼の商才に一目置いているんだよ。妻は――もう亡くなったんだがね――彼をうちの娘の婿にしたいと言っていたぐらいだ。あの辺り一帯の大地主であるボンフィス氏のお嬢さんと結婚したと聞いた時には、がっかりしたもんだ。」
「じゃあ、レイは、土地を手に入れるためにエセルと結婚したの?」
 マードックが尋ねる。
「最初は私もそう思ったがね、レイモンド君はボンフィス氏の土地に全く手をつけていないんだ。あのペンションも、フィッツパトリック家の土地だけでやっているしな。それに、よくよく考えてみれば、レイモンド君は政略結婚なんかする性格じゃない。だろう?」
 Aチーム一同が揃って頷く。
「ボンフィス氏に大怪我までさせて手に入れた土地だが、ホテル計画は断念するよ。ペンションも建てない。山猫の土地は、山猫の好きなように使ってもらおう。」
 ジルベルマン氏は、寂しく微笑んだ。
「山猫資料館か何か作ったらどうだ? あの土地全部に山猫が棲んでるってわけじゃねえし、動物が棲んでねえとこに何か建てたって構わねえだろ。獣道を避けて道引いてよ。」
「ふむ、それは面白そうだな。実は私はこの通り猫が大好きでねえ。山猫も好きなんだ。」
 と、ジルベルマン氏は自分の寝室を見渡した。言われなくてもわかるって、という表情の四人。
「早速、山猫の分布を調べさせて、山猫資料館の設立を検討しよう。」
「きっと、その辺をうろついてる動物愛護団体や自然保護団体のメンバーが協力してくれるさ。」
「なるほど、そういった団体と協力し合うのもいいな。忘れないうちに書き留めておかねば。」
 ジルベルマン氏は寝室を出て、未だ倒れている男たちの山を乗り越え、書斎に入っていった。その後を追うAチーム。
「あのー、ジルベルマンさん。」
 デスクに向かってペンを握るジルベルマンに、フェイスマンがおずおずと声をかけた。
「俺たち、もう帰っていいのかな?」
「ああ、どうもありがとう。君たちの助言、とてもためになったよ。」
「絶対、川と湖、埋め立てない?」
「神に誓って、埋め立てないよ。山猫にも誓う。」
 フェイスマンは懐から誓約書を出して、ジルベルマンに近寄った。
「一応、ここにサイン貰えるかな?」
「ん? どれどれ?」
 ジルベルマンは顔を上げて、誓約書に目を通し、笑顔でサインをした。
「あのお尋ね者のAチームか。やっと思い出したよ。済まんね、アメリカの事情に疎くて。」
 と、サインを終えた誓約書をフェイスマンに渡す。
「いや、お尋ね者としちゃ、知られていない方が都合がいいんでね。」
 そうは言ったものの、名乗った時に反応がないのも寂しいものである。
「それからもう1つお願いがあるんだけど。」
 フェイスマンがジルベルマンにおねだりする。
「何だね?」
「セキュリティ・システム切ってくれる? じゃないと俺たち、帰ろうにも帰れなくて。」
 頷いて、ジルベルマンはデスク袖にある装置のボタンをいくつか押した。
「解除した。鍵も開いてる。」
「サンキュ。」
「邪魔したな。」
「ご機嫌よう。」
 フェイスマン、コング、マードックが部屋を出ていき、最後にハンニバルが言った。
「もう少しマトモな警備員とボディガードを雇った方がいいぞ。」
「ご忠告ありがとう。私も常々そう思ってるんだが、君たちのような優れた人材は、そうそういるもんじゃないんでね。」
 ハンニバルはフッと笑って踵を返した。クールな感じで。



 バンにコングとハンニバルが乗り、エセルの車にフェイスマンとマードックが乗って、一行はペンションに戻ってきた。
「なあ、ハンニバル。ジルベルマンの奴、あれでよかったのか?」
 腑に落ちない、といった顔でコングが尋ねる。
「何が?」
「他にあくどいことしてたんじゃなかったのか?」
「いや、してなかった。フェイスの調べによれば、ジルベルマン本人は実に真っ当な男だ。ただ、仕事上、抱えてるのが荒くれ者ばかりなんで、しょっちゅういざこざに巻き込まれてるみたいだけどな。ボンフィス氏を脅せっていう命令も、本当は奴自身じゃなくて、奴の秘書が指示したらしい。」
「じゃあ、あんたの勘、大ハズレじゃねえか。」
「あたしの勘?」
「言っただろ? あんたの勘によると、奴はかなりの悪党だって。」
「そんなこと言いましたっけかねえ?」
 とぼけつつ、たらたらと歩いていくハンニバル。コングはその後ろ姿を見ながら、「確かに言ったぜ」と呟いた。
「ハンニバル〜。」
 そんなハンニバルをフェイスマンが呼び止める。
「例の堰、壊したんだよね? 川と湖、元通りにしたんだよね?」
「元通りになったかどうかは知らんが、堰は壊したってコングが言ってたぞ。一体どうしたんだ?」
「山猫、まだいるよ。全然減ってない。」
「なぬ?」
 エセルの車を定位置に停めて、ハンニバルたちの方に歩いてくるマードックの周りには、それはもう山猫。『ハーメルンの笛吹き男』の鼠が山猫になったら、きっとこんな感じ。食べ物を作る人、と知れ渡っているからか、パンケーキの匂いが染みついているからか。「食いもん寄越せー」という風に跳びついてくる山猫も多数。
「そうか! 前に棲んでた所に餌が戻ってきたってことが、奴らにはわからないんだ!」
 さも「重大発見をしたぞ」というように、ハンニバルが言う。「それは気がつかなかったな」というように、フェイスマンが頷く。いつの間にか合流していたコングも頷く。マードックは山猫に囲まれて動けない。
「それじゃ、山猫を捕まえて、あの山に連れていけば……。」
「どんな理由にせよ、山猫を捕まえると苦情が来るんじゃなかったか?」
 フェイスマンの発案を、ハンニバルが即刻却下。
「山猫を捕まえずに、あの山に連れていくなんて、どうすりゃいいんだ?」
 コングの問いに、ハンニバルはマードックの方を見てニッカリと笑った。
「方法はありますよ。」



〈Aチームの作業テーマ曲、三たびかかる。〉
 巨大ボウルに小麦粉をふるうフェイスマン。全身が白っぽくなっている。
 黙々と卵をボウルに割り入れるコング。卵を握り潰している、とも言う。
 大鍋で溶かしバターを作るハンニバル。それを巨大ボウルに流し入れ、コングが力任せに掻き混ぜる。
 次々とパンケーキを焼いていくマードック。心なしか、フライパンを握る左腕が逞しくなっている。
〈Aチームの作業テーマ曲、三たび終わる。〉



 体にいくつものパンケーキを括りつけたパンケーキ男、4名。パンケーキを抱えて準備万端。それぞれ思い思いの場所に懐中電灯をも括りつけて。
「さあ、行くぞ!」
「おう!」(×3)
 元気のいい掛け声とは裏腹に、パンケークスはのそのそと歩き出した。アクションを大きくすると、パンケーキが落ちるからだ。落ちない工夫をする時間はありませんでした。
 1匹の山猫が鼻をヒクヒクとさせ、パンケーキ男たちの方を見た。美味しそうなものが歩いてるじゃあーりませんか! 子供たちを呼んで、山猫母ちゃんはパンケーキ男を追いかけ始めた。他の山猫たちも、次第にパンケーキの匂いに気づいて、パンケーキ男を追いかける。
「あっ、やられた!」
 フェイスマンが悔しそうな声を上げる。脹脛のパンケーキを山猫に取られたからだ。
「もう取られちまったのかよ。」
 そう言うコングは、山猫が脛のパンケーキを取ろうと手を出してきたところを、股関節の動きだけでスッとかわす。
 フェイスマンから奪ったパンケーキに群がっていた山猫たちも、瞬時に食べ終えてしまい、この美味しいものを更にゲットせんがために、パンケーキ男の一団を再度追いかける。
「ひー、またやられたあ!」
 列の一番後ろに位置しているフェイスマンが最も犠牲になっている序盤戦。このレース(?)、どうなるのでしょうか?!
 トップを行くのはリーダー、ハンニバル。最初に歩き始めたからトップだってだけで、この後どうなるかは彼のカリスマ性と贅肉の下に秘められた筋肉にかかっております。2番手はマードック。奇抜で奇怪な行動を常とする彼は、パンケーキを纏ってさえも、通常のペースで歩き続けております。しかし持久力に欠けることにおいては定評のあるマードック、いつ疲れが出始めるか、それが問題です。3番手のコング、体力勝負にかけてはピカイチの彼ですが、奇行には全く慣れておりません。パンケーキを体に巻きつけるなど、彼の人生において最初で最後の経験でしょう。ビリっけつはフェイスマン。既に膝から下は無防備な状態になっております。薄手のスラックスと薄手の靴下は、山猫の爪の前ではティッシュペーパー程度の防壁でしかありません。叫んでおります、フェイスマン、痛そうです。子山猫が爪を立ててぶら下がっております。膝下のパンケーキを失って歩きやすい状態になったにも関わらずビリをキープ。……実況中継はこれくらいでいい?
 パンケーキ男たちは、湖に到着した。体の周りに残っているパンケーキと、抱えていたパンケーキを、湖の周辺と川沿いに置いていく。
 山猫はパンケーキに殺到し、思う存分パンケーキを食べ、喉が渇いていたのか、湖の水を飲んだ。そして魚を発見。腹は減っていないが、動いているものを狩る習性ゆえに、一撃で仕留める。陸上に叩き出されビチビチと跳ねている魚に、まだ満腹になっていなかった山猫が駆け寄る。ウニャウニャウニャウニャ。久し振りの生魚は美味しかったらしい。
 それを見ていたコングが、不思議そうにして湖のほとりに寄り、懐中電灯で照らした。ペンション裏の湖では、山猫は魚を捕まえられずにダイブするだけだった。ここは何がどう違うのだろうか。
 ペンション裏の湖は、岸からすぐに深くなっていた。一番浅くても水深2フィート強。しかし、ここの湖は遠浅になっており、その上、そこここに岩がゴロゴロとしている。山猫にとっては、それが絶好の飛び石になっているのだ。見ると、川も、川岸近くには飛び石が多く、そこから足を滑らせない限りは水難事故にはならなそうだ。
「なるほどなあ。」
 感心したコングは、腕組みして何度も頷いた。コング自身が溺れかけていた時には全く気づかなかったことなので、余計に。よく岩にぶつからずに済んだものだのう。
「大佐ぁ、俺っち、朝ゴハンの支度しに戻るよ。」
 マードックがそわそわとして、地べたに座っていたハンニバルに言う。
「ああ、わかった。俺たちもすぐに戻る。」
 ハンニバルの返事を聞くなり、マードックは獣道を駆け下りていった。
「じゃ、我々も戻るとしますか。」
 そう言ってハンニバルが腰を上げ、辺りを懐中電灯で照らすと、フェイスマンは木に凭れてグースカ寝ていたし、コングは足を滑らせて川に落ち、その場で呆然と立ち尽くしているところだった。ハンニバルは肩を竦め、葉巻に火を点けた。



 朝。ペンション前。
 朝食も帰り支度も済ませたハンニバルとコング、そして脛に生傷持つフェイスマン。もちろん、シャワーも浴びたし、仕事の報告も終えたし、経費込みの請求書も渡したし、もうすぐデッカーが来ることもわかっているし(マードック以外は)。
「本当にどうもありがとうございました。」
 レイモンドとエセルが深々と頭を下げた。
「山猫も、すっかり向こうの山に戻ったようで。」
 未だ信じられない、といった表情で、エセルが言う。
「約束の料金は、後日、小切手でお送りします。」
 レイモンドの言葉に、フェイスマンが頷く。
「モンキーは置いてくから、好きなように使ってやって。」
 ハンニバルがそう言って、バンに乗り込んだ。その後にフェイスマンが続く。最後にコングが運転席に着く。
「何から何まで、ありがとうございます。」
 再度頭を下げるフィッツパトリック夫妻。
 紺色のバンはゆっくりと(しかし内心急いで)山道を下っていったのであった。



 後日。
 ロサンゼルス中心街の高級マンションの一室。
「ふふふふふふふふふ。」
 郵便局からスキップで帰ってきたフェイスマンが、心から楽しそうに封筒の口を切る。
 ダンベルを上げ下げしながら腹筋運動をしているコングと、アクアドラゴンの台本を手に演技の練習をしているハンニバルには、その封筒がどこから送られてきたのか、すぐにわかった。
 封筒から小切手を引き抜き、額面を見てニマーッと笑うフェイスマン。
「レイって、ホント、ジルベルマンに見込まれてるだけあるよね。請求額、きちんと払ってくれるなんてさ。珍しくない? 俺の指定した金額、間違いなく払ってくれる人って。」
「珍しいよな、お前の請求書を額面通り受け取る奴なんざ。」
 コングが、それでも幾分嬉しそうな顔で言う。
「贋物じゃないだろうな? 見せてみろ。」
「レイが贋物送ってくるわけないって。不渡りって可能性は、換金するまで捨て切れないけど。」
 と、フェイスマンは小切手をハンニバルに渡した。
「なあ、フェイス。」
 じっと小切手を見て、ハンニバルは口を開いた。
「お前、レイに“アメリカドルで”って言ったか?」
「え? あ……。」
 フェイスマンは気がついた。アメリカもカナダも通貨単位はドル。しかし、カナダドルはアメリカドルの75%程度。
「アメリカドルのつもりで“ドル”としか言ってなかった……。」
「レイはカナダドルでこれ書いてくれたぞ。」
 ハンニバルの指差す先には、しっかりと「CAD」の文字が。がっくりと肩を落とすフェイスマン。つまり、フェイスマンが期待していた額の約75%しか収入がなかった、ということである。
「カナダドルってったって、ホンコンドルよりゃマシだろ?」
 ホンコンドルはアメリカドルの15%程度。
「そうだぞ、フェイス。ジンバブエドルじゃなかっただけよかったと思え。」
 ジンバブエドルはアメリカドルの0.1%強。ppmで表した方がいいかもしれないくらい。
 フェイスマンは涙をぐっと拭って顔を上げた。
「大丈夫。俺、全部2割5分増しで請求したし。」
 儚げな笑顔で、阿漕な事実を告げる。
「じゃあ、どうってことねえじゃねえか。」
「よかったな、フェイス。転ばぬ先の杖ってやつだ。」
 優しく微笑みかけるコングとハンニバル。
 2割5分増しの75%がいくつになるのか、誰も暗算できないAチームであった。



 その頃マードックは、まだカナダでパンケーキを焼いているのであった。デッカーも大絶賛のパンケーキを。
【おしまい】
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