エピソード1 〜驚異の腹巻〜
伊達 梶乃
 西海岸はパワーヨガのメッカである。多くの人々が、健康を求め、美を追求し、インド的な香を焚き込めた室内で激しく妙ちきりんなポーズを取ってメディテーションに勤しんでいる。もちろん、そのポーズの1つ1つには意味がある。リンパの通りをよくするだの、自立神経を刺激するだの、ヨガのポーズは無理な姿勢なだけでなく、奥が深いのである。
「連行される凶悪犯のポーズ!」
 床にあぐら(蓮のポーズではない)をかき、両手を後ろにし、片方の肘を心持ち上げて、斜め後ろを振り向く。歯を剥いて。その姿勢のまま、目を閉じ、メディテーション。焚いているのは、香ではなく、ベーコン等を薫蒸する時のチップ。なので、かなり煙たい。
 言うまでもなく、ここは退役軍人病院の精神科棟。そして、言うまでもなく、ヨガ(?)に勤しむ御仁はハウリング・マッド・マードック氏。
 昨日までは、ハムやベーコンを作るのに凝っていた彼。病室内で火を焚いていいのかと言うと、常識から考えればいいはずはないのだが、彼にかかっては医師たちも「そのぐらい、いいんじゃない?」というスタンスでいる。「病室そのものを焼くわけじゃなし」とさえ、医師たちは思っていた。従って、彼の病室の中は、あちこちが、焼けてこそいないが、焦げてはいるのであった。
「陸に上がったアカハライモリのポーズ!」
 うつ伏せになり、手足を四方に伸ばし、微妙に体を浮かせる。これは結構キツそうだ。が、それがヨガなのかどうか、甚だ怪しい。と言うか、ヨガじゃないよ、それ。ポーズ名を叫ぶ時点で、もうヨガじゃない。
 その時、偶然にも、看護婦が鉄格子つき小窓から中を覗いた。煙がもうもうと立ち込める中、床にばったりとうつ伏して微動だにしない患者1名。体はわずかに浮いているのだが、そんなところまで彼女に見て取れるわけがない。看護婦は慌ててナースセンターに駆け戻り、消防署に電話をかけた。
「火災は発生していませんが、恐らく一酸化炭素中毒者が出ました!」
 新米看護婦は、ここが病院であり、一酸化炭素中毒の処置ぐらい、消防署に頼らずとも可能であることを、すっかり失念していた。



 十数分後。
「いじめられている亀のポーズ!」
 下降するエレベーターの中。担架に乗せられたマードックは、手足を縮こめて、口に当てられた酸素ボンベを抱え込んだ。
「車に乗るまで、そうやってろよ。」
 担架の脇には、消防服を着たフェイスマンとコング。エレベーターの扉が開くなり、担架を押して猛ダッシュし、消防車と救急車および本物の消防士と医師・看護士の間を「どいたどいた!」と通り抜け、その向こうに停めてあった紺色のバンの中に駆け込んだ。マードックも担架から飛び降りて、バンの中に転げ込む。間髪入れず、バンが発進した。



 バンの後部座席には、今回の仕事の依頼人がひっそりといらっしゃった。立派なヒゲを蓄え、肌の色は褐色で、濃い眉毛の下には黒い瞳。どう見ても、インド系である。頭にターバンが巻いてあれば、もう完璧。
「ナマスカール。」
 マードックはヒンディー語で挨拶をした。
「はじめまして、こんにちは。サヒッド・アリ・カーンと申します。どうぞよろしく。」
 依頼人は、ステキなクィーンズ・イングリッシュで答えた。
「これ、モンキーね。」
 消防服を脱ぎながら、フェイスマンが紹介する。
「ハンニバル、運転代わるぜ。」
 消防服を脱ぎ終えたコングが運転席のハンニバルに言うと、ハンニバルはバンを路肩に停め、コングと席を替わった。
「さて、全員揃ったとこで、お話を伺うとしましょうか。」
 リーダーの言葉に、部下たちの顔がキリリと引き締まったような気がしないでもないが、まさかそんなこともあるまい。



 ロサンゼルスの町を適当に走り続けるバンの中で、依頼人は話を始めた。
「神出鬼没で不可能を可能にする皆さんに、こんなつまらないことをお願いするのも申し訳ないと思うんですが……率直に言えば、売れるとは思えない商品を売れるようにしていただきたいんです。」
「わかった、ヨガグッズっしょ?」
 口を挟むマードック。
「んなわけあるか。ヨガグッズなら売れねえわきゃねえだろ。」
 つい大枚叩いてヨガ用のラグを買ってしまったコングが、運転席から言う。床に雑魚寝する際に重宝しているのだが。
「そうだよねえ、流行ってるもんね、ヨガ。」
 溜息混じりのフェイスマン。彼とヨガの間に何があったのだろうか。
「ヨガ関係じゃないとなると、あれか。カレー。」
 ハンニバルでさえ、そんな調子。みんな、インド人を何だと思ってるんだろう。
「いいえ、腹巻です。」
 すっぱりとサヒッドが正解を出した。
「腹巻ぃ?」
 4人が4人とも、素っ頓狂な声を上げる。
「ええ、腹巻。寒い地方ならともかく、この温暖なロサンゼルスで腹巻が売れるとは、私には思えないんです。でも、妻が……。」
 依頼人は一旦、言葉を切って、頭を横に振った。
「冷えは女の敵だ、と言って聞かないんです。既に腹巻を売る気満々で、家事そっちのけで販売ルートを調べたり、材料の仕入れ先を当たったり、私にはもう彼女を止めることができません。」
「止めてはみたのか?」
 と、コング。
「ええ、もちろん。ロサンゼルスではいかに腹巻が売れないか、私なりに調査をして彼女に訴えてみました。現在のところ、私の調べによりますと、ロサンゼルスで腹巻を扱っている店は皆無。コルセットや、それに似た体形補正下着はあるんですが、彼女の言う、暖を取るための腹巻は、どこにも売っていません。」
「それで諦めなかったわけ?」
 と、フェイスマン。
「諦めないどころか、どこも扱っていないのなら真空マーケットだから売れるに違いない、とさえ言い出す始末でして……。」
「そう言われれば、そうだね。」
 納得してしまうフェイスマンであった。
「資金はどうする気なんだ? お宅の稼いだ金を資金とするんなら、ストップをかける権利があるだろうに。」
 そう聞いたのはハンニバル。
「それも言ってはみたんですよ。私の稼ぎからでも資金を出せないわけではないんですが、将来のことも考えて、今は冒険に出るより手堅く貯蓄に回そう、と提案もしました。しかし、彼女の実家が資産家でして、どうもそっちから資金を出させるようです。となると、私はあまり口出しできませんからね。」
「なら、奥さん、放っときゃいいんじゃん?」
「そういうわけにも行きません。」
 マードックの無責任な発言を、きっぱりと跳ね除ける。
「無鉄砲だとは思いますが、彼女は彼女なりに頑張っているんです。こうなったら、不本意ながら私も何か力になってやりたいんですが、何分、私の専門とはかけ離れていることなんで……。」
「お宅の専門ってのは? カレー屋か何かか?」
 どうしてもカレーに繋げたいハンニバル。空腹なのかもしれない。
「ヨガのインストラクターでしょ?」
 どうしてもヨガに繋げたいマードック。
 そんな失礼な2人に、サヒッドは嫌な顔一つせずに答えた。
「医者です。外科医をやっておりまして。」
 聞くなり、フェイスマンの脳内にOKサインが光った。医師=金持ち。さらに、奥さんの実家は資産家。
「そうだよね。どうせ商売を始めるなら、上手く行った方がいいし。資金に心配はなくったって、儲けが多い方がいいしね。」
 俄然、やる気を見せるフェイスマン。
「そう、その通りです。それに、私もだいぶ彼女を諦めさせようとはしましたが、今ほど生き生きとしている彼女を見たことはありません。と申しますか、実は、妻は以前、難病を患っておりまして、私と出会ったのも病院でだったんです。」
「酷い病気だったのか?」
 人知れず眉間に皺を寄せて、振り返らずにコングが尋ねる。
「ええ、婦人科系の病気ですので、プライバシー上、多くは申し上げられませんが、私も何度か執刀しました。当時、治療法が確立されておらず、試行錯誤で何とか彼女の命を繋いでいたようなものです。それでも幾度となくショック状態に陥り、ご両親には『今夜も峠かもしれない』と何度電話が行ったことか……担当医ではなかったので詳細は知りませんが。」
「でも、今は元気なんしょ? 効果的治療法が見つかったとか?」
「それが……我々はお手上げだったんです。もうどうすることもできなくて。ですが、ある日、彼女の古くからの友人が見舞いにやって来て、腹巻を1枚プレゼントしていったんです。開腹手術の傷も癒えてはいなかったんですが、彼女のたっての願いで、その腹巻を身につけたところ……。」
「劇的に治ったとか?」
「そうなんです。どういう理屈なのかわからないんですが、事実、彼女は短期間で全快して、今ではほぼ健康体です。腹巻は手放せませんけどね。」
「それで腹巻にこだわってるわけね、なるほどなるほど。」
 感心したように言うハンニバル。運転席のコングの頬には、つつっと涙が伝っている。マードックも心打たれているようだ。フェイスマンは、先刻から瞳にドルマークが浮かんだまま。
「そんな理由があるんじゃ、奥さんの腹巻を広めたい気持ちも、わからなくもない。悪党退治でパーッと一暴れしたい気もなくはないが、どうかな、皆の者?」
 頷く3名。Aチームは、悪党退治だけでなく、何でもやってのけてくれるのだ。
「よし、この依頼、お受けしましょう。」
「ありがとうございます!」
 そんなわけで、今回アジトのなかったAチームは、早速サヒッドの家へ向かうのであった。



 ダウンタウンを少し外れた住宅街。ビバリーヒルズほどではないが、それなりに高級そうな家が並んでいる。この時間(実は夕方)、各家庭からは夕食のいい匂いが漂っていた。
 そのうちの1軒、それがサヒッドの家だった。そこそこ広い庭、そこそこステキな住宅。カレーやヨガや聖なる牛の影は微塵もない。
 その内部、リビングルームでは、Aチームの面々が寛いで……はいなかった。サヒッドの妻、シャルマが、彼らが「不可能を可能にするチーム」であり、彼女の夫が彼らを雇ったと知るや否や、テーブルの上にジャルジーラとグラスをでんと出しただけで、茶菓子も出さずに、腹巻販売の夢と現実とを語り出したからである。
 因みに、ジャルジーラとはスパイスや塩の入った水であり、慣れないと臭くて飲めた代物ではない。が、慣れてしまうと、これなしではいられないらしい。もちろん、不可能を可能にする4人はジャルジーラに慣れていないので、臭くて飲めなかった。ジャルジーラを飲めない、という不可能を可能にするほど、Aチームは万能ではないのである。
 ところでシャルマだが。サヒッド同様、褐色の肌に漆黒の髪、大きな黒い瞳、鼻ピアスこそないものの、一目でインド系だとわかる。ほっそりとしていて、彫りが深く、なかなかの美人だ。しかしながら、爽やかなブルーグリーンのサマードレスの上に腹巻。それも、子熊柄の毛糸の腹巻(ベージュ)だ。女性に甘いフェイスマンでさえ、「これはちょっとどうかと思うなあ」と、口には出さないまま、眉を顰めたほど。
 ここでもう一度書こう、今は夕食時である。子供のいない家庭だから、夕食は少し遅い時刻に摂る習慣なのかもしれないが、その準備をしているはずの妻は、全世界のアパレル界における腹巻の位置づけについて、一心不乱に語っている。使用人がキッチンで夕食を作っている気配もない。
 グー。グルルルル。キュ〜。
 男5人の腹が、そりゃもう盛大に鳴っている。しかし、紅一点はそれに気づいてなさそうだ。恐らく、旦那の留守中に、何か食べていたんじゃなかろうか。専業主婦ってそういうものだよね?
 腹が減っているだけならば、ベトナムで鳴らしたAチーム、さほど不機嫌になりはしない。だが、飲み物と言えば、臭くて飲めないジャルジーラのみ。牛乳もコーヒーもない。はっきり言って、喉が渇いている。加えて、シャルマの体調維持のためか、室温がやけに高く、エアコンも入っていない。
「ちょっと、シャルマ、いいかい?」
 サンダルウッドの香りとジャルジーラの悪臭がむわんむわん立ち込める場で、サヒッドが椅子から腰を上げた。
「着替えたいんで、席を外させてもらうよ。」
 シャルマは言葉を止めないまま頷いた。一方、残された4人は「逃げる気だな?」と各々が心の中で思った。
 サヒッドはなかなか戻ってこなかった。そして、ようやくリビングに姿を現した彼の手には、何と! サンドイッチらしき物体が! それに、多分、普通の飲み物も!
「ここいらで一息入れなさい。Aチームの皆さんも、どうぞ。」
 全く遠慮なく、食べ物に群がってしまうAチーム一同であった。



「ごめんなさいね。私、熱中してしまうと、周りのことが何もわからなくなってしまうんです。」
 しゅんとして、シャルマはチャイを啜った。悪い人ではないのである。ただ、猪突猛進すぎるだけで。
「いいんですよ、奥さん。僕たちも、その、奥さんの熱気に圧倒されてしまって。」
 こういう時にフォローを入れるのは、フェイスマンの役目。ちっとも「いいんですよ」とは思っていないにしても。
「そう言って下さると助かりますわ。ここのところ、ずっと腹巻の方にかかりきりで、サヒッドにも迷惑をかけてばかり……。」
 窓を開けて空気を入れ換えていたサヒッドは、優しい微笑みを妻に向けて、首を横に振り、テーブルに着いた。
「私のことは気にしなくていいと言っているじゃないか、シャルマ。」
 そうして、Aチームの方を向いて、言葉を続ける。
「済みませんね、簡単なものしかできなくて。」
「いやいや、これで充分。うむ、美味いですよ、これ。」
 蒸した鶏をタマネギとスパイスとで和えたフィリングに、ハンニバルはいたく感銘を受けたようである。
「冷えたビールに合いそうですな。」
 と、アイスコーヒーをグビグビ飲む。
「ビールの方がよろしければ、お持ちしますよ。」
「おっ、ありがたいねえ。」
「旦那、この緑のは何でい?」
 キッチンへビールを取りに行こうとしたサヒッドに、コングが尋ねる。
「それは、チャナ豆をグリーンチャツネで和えたものです。」
「チャナ豆? ヒヨコ豆じゃねえのか?」
「こちらではヒヨコ豆って言うんでしたっけね。そう、その豆です。」
 納得したのか、コングはそのサンドイッチにかぶりついた。
「……変わった匂いだが、悪かねえ。」
 フェイスマンは、サンドイッチを1つ1つ捲っては首を傾げている。
「ねえ、モンキー、これオクラだよね?」
「あ、それ美味かった。スパイシーなオクラ炒め。」
「こっちの何だろ?」
「スパイシーなカリフラワー。かなり細かく刻んであるんで、さすがの俺っちでも、この白いのが何なんだか考えちゃったね。」
 今回の彼、ヨガだけでなくインド料理にも造詣が深いらしい。明日はどうだか知らないが。
「これは……キーマカレー?」
「そ、挽肉のカレーね。かなり辛いんで気ィつけな。」
「このオレンジ色は……ニンジンかな?」
「ピンポーン。ニンジンの甘煮。牛乳で煮てあっからマイルドよ〜。」
「今、牛乳って言ったか?」
 そう反応したのは、当然、コング。
「言った言った。このサンドイッチ、ニンジンと牛乳使ってる。」
「それ寄越せ。」
「ほいよ、甘いぜ。……あと、甘いのは、これだな。」
 と、マードックがサンドイッチの断面を見て指差す。
「バナナのマンゴー和え。」
「それ、俺、食いたい。他に、あんまり辛くないやつってない?」
「えっとね、この豆のやつ、ムング豆ってんだけどさ、ジンジャーが効いてっけど辛かねえよ。」
「じゃ、それ取って。」
「ほい。」
「皆さーん、シークカバブを焼いたら、召し上がりますかー?」
 キッチンの方からサヒッドの声が響いた。
「食う食う!」
「もちろんだとも!」
「当然だ!」
「辛くないとこを少しいただけますか?」
 次第に「簡単なもの」の域を外れてきているのではなかろうか。
 タマネギのアチャールをシャクシャク食べていたシャルマが、キッチンに向かって言った。
「あなた、冷蔵庫にビリヤニの残りがあったと思うんだけど、温めて下さらない? それと、トマトのライタをいただきたいわ。」
「はいはい。」
 サヒッドの返事は、何だか嬉しそうだった。



 すっかり満腹なAチームとシャルマ。サヒッドはキッチンで洗い物をしている。よくできた旦那さんだ。
「さて、腹巻についてだが、皆の者、何かいい案は?」
 葉巻を銜えて腹をさすりさすり、ハンニバルが問う。
「ヨガグッズとして売るのがいいんじゃん?」
 早速、マードックが提案した。
「ほら、ヨガってさ、暑いとこのスポーツだろ?」
 いや、スポーツじゃないと思うんだが。
「流派によっちゃ、室温を高くしてやるヨガもあるらしいから、それに頭寒足熱を取り入れてさ、この暖かいロスでも腹巻でより腹を温めて、ヨガの効果を上げるっての、どうかな?」
 多少おかしいところもあるが、マードックの案にしては、一応道理に適っている。
「そりゃいいかもな。」
 と同意したのは、何とコング。普段ならマードックの意見は、何が何でも却下するはずなのに。
「腰や腹を温めんのは何にせよ悪かねえし、脂肪を燃焼させる効率もよくなるはずだ。それに加えて、ヘソの下にゃタンデンってのがあるらしいぜ。」
「タンデン?」
 初耳の言葉を、ハンニバルが繰り返した。ちょうど彼にとって聞き捨てならない話でもあったし。
「ああ、何でもドイツ語で、力の源、とか、命の根源、とかいう意味だったか、よく覚えちゃいねえんだが、要するに大事なとこらしい。そこに何かあるってわけじゃねえようだけどよ、タンデンに意識を集中させると、いつも以上に力が出たりすんだ。」
 コングが言うと、やけに説得力がある。ふむふむ、と納得する一同。(丹田はドイツ語でないので誤解なきよう。)
「だけどよ、これが意識を集中させにくいんだ。ヘソになら、そこがヘソだってわかるんで、意識を集中させられるんだが、タンデンにゃ何もねえ。」
「そうか、腹巻に何かくっつけて、それがタンデンの位置に当たるようにしておけば……。」
 コングの意図を理解して、フェイスマンが口を挟んだ。
「そうだ、そこに何かありゃあ、意識を集中させやすくなる。」
「磁石なんかいいんじゃん? 磁力で血行もよくなるしさ。」
「それいいね、モンキー。」
 フェイスマンがさらさらとメモを取る。
「あたしも1つ、いいですかな?」
 シャルマがサンプルに、と出してきた腹巻を検分していたハンニバルが、人差し指を立てて口を開いた。
「この毛糸っていうのが、どうかと思うんですよね。確かに毛糸は温かい。だが、素肌に触れて気持ちのいいもんじゃない。高級なアンゴラやアルパカの毛糸でも使うとなれば別なんだが、そうすると耐久性や値段に問題が出る。それに、このロスじゃ、みんな薄着ですしね。」
「うん、それは俺も思った。」
 同意するフェイスマン。
「もっと薄地で伸縮性があって、それでいて保温性のある素材だって、多分あると思うんだ。肌触りももちろん大切だし。あとね、見た目に響かないやつじゃないと、女性には売れないんじゃないかって思うんだよね。ああ、これはヨガグッズとしての腹巻じゃなくて、普段から常に身につける腹巻のことだけどね。ヨガグッズの腹巻の方は、逆に『腹巻、巻いてます!』ってアピールするようなのがいいかもね。」
「素材の開発は、フェイス、できそうか?」
「アパレル関係の知り合いに当たってみるよ。ついでに、デザイン的なこともアドバイスをしてもらえるように頼んでみる。」
 メモにピリオドを打って、フェイスマンは腕時計に目をやった。
「じゃあ早速、今、電話してみる。ちょうどいい時間だし。」
 席を立つフェイスマンに、ハンニバルはこっくりと頷いた。
「奥さん、電話借りられる?」
「はい、電話は玄関ホールのところです。」
 スマイルを返事に替え、フェイスマンはリビングを出ていった。
「車にボタン型磁石があったはずだ。探してみる。」
 続いてコングも席を立ち、リビングを出ていった。
「そいじゃ奥さん、店舗のことですがね、候補地をピックアップしたって聞きましたが。」
「ええ、ちょっとお待ち下さい……はい、これがそのリストです。」
 シャルマから紙を受け取り、ハンニバルはその住所をざっと眺めた。
「モンキー、車から地図取ってきて。ロス市街の詳細なやつ。」
「ラジャー。」
 マードックが敬礼して、駆け出していく。
「いやあ、皆さん本当によくして下さって、ありがとうございます。」
 布巾で手を拭いながら、キッチンからサヒッドが戻ってきた。
「こんなに親身になって腹巻のことを考えていただけるとは思っておりませんでしたよ。」
 そう言われて、ハンニバルは我に返った。受けた依頼は完遂するAチームではあるが、なぜここまで本気になって真剣に腹巻販売について討論し行動しているのだろう? なぜ腹巻をロサンゼルスに広めたくて広めたくて仕方がないのだろう? なぜ腹巻がこんなにも素晴らしいものだと思うのだろう? なぜ、今この腹に腹巻を巻きたいのだろう?
(……やられた……。)
 百戦錬磨のツワモノどものリーダーは、気がついてしまった――洗脳されていたことに。
 暑い部屋、空腹+喉の渇き、じっと座って話を聞いている状況、延々と続く腹巻論。極限状態で何もろくに考えられなくなった頭に、腹巻の素晴らしさが刷り込まれてしまったようだ。
 相手を洗脳しやすい状況設定というのは、陸軍大佐なのだから、知っている。だが、それをこんな平和な住宅地で仕掛けられるとは、思ってもみなかった。
 サヒッドとシャルマはAチームを洗脳しようだなんて、思ってはいなかっただろう。しかし、結果として彼らを洗脳してしまった。ま、結果オーライってことで。



 フェイスマンは未だに電話を続けている。
 コングはシャルマと、腹巻のどの辺りにどうやって磁石を取りつければいいか、話し合っている。また、男物の腹巻のサイズについても。ハンニバルの方をチラチラと窺いながら。
 ハンニバルとマードックは、テーブルの上に地図を広げて、店舗候補地に印をつけ、人の動線や周囲の環境を考慮しつつ、候補地をよりセレクトしていっている最中。
「奥さん、明日、あたしとフェイスとが候補地を回ってみて、これってとこがあったら話を進めていいですかね?」
「ええ、是非お願いします。」
 ハンニバルの問いかけに、シャルマが答える。「これってとこ」というのは即ち、フェイスマンが書類に小細工して、安値で彼女の所有物(所有地)にできそうな店、ということ。賃貸だと、ショバ代も馬鹿にならないし。
「あれ? ハンニバル、明日は仕事入ってるんじゃなかったっけ?」
 ちょうど電話を終えてリビングに戻ってきたフェイスマンが、秘書よろしくハンニバルに告げた。
「ありゃ、そうだったか?」
「何とかパークで潜るって言ってたような……。」
「そうだ、そうだった。撮影じゃないんで、すっかり忘れてたわ。スタジオからアクアドラゴンを持ってこんとな。」
「アクアドラゴン? 今、アクアドラゴンって言いましたか?」
 ソファで論文を読んでいたサヒッドが、急に顔を上げた。その唐突さに、さすがのハンニバルも少し戸惑い気味。
「あ、ああ、言ったが。アクアドラゴン。スタジオに置きっ放しなんでな。」
 置きっ放しも何も、ハンニバルの私物じゃないだろ、あれは。
「もしかして、ハンニバルさん、アクアドラゴンの関係者か何かで……?」
「まあ、関係者って言えば関係者かな。」
「大佐はね、アクアドラゴンの中身なんよ。」
 何だか興味を示しているサヒッドに、マードックがさくっと説明した。
「でも、よく知ってるね、アクアドラゴンなんて。」
 フェイスマンが驚いたように言う。アクアドラゴンのことを前もって知っていた依頼人は初めてかもしれない。
「いや、あの、ええと、実は私……。」
 外科医サヒッドは、照れてモジモジくねくねしている。
「アクアドラゴンの大ファンなんです!」
 きゃっ、言っちゃった、という風に顔を手で覆い隠す40男。
 一瞬、場が静まった。そして。
「何だって?」(×4)
 そう叫んだ後、ツワモノ4人は口を開けたまま、たっぷり5分間は固まっていた。



 ハンニバルからサインを貰って、すっごく嬉しそうなサヒッド。そんな夫を見つめるシャルマも嬉しそうだ。
「ああ! 夢みたいです! 憧れのアクアドラゴンの中身の方とこうしてお話ができて、サインまでいただけるなんて!」
「いやあ、アクアドラゴンのファンは非常に大勢いるんだが(嘘)、みんなシャイでね。君みたいに自分から名乗りを上げてくるのは初めてだったもんで、こんなファンもいるのかと驚いてしまったよ。」
 こちらもまた、すっごく嬉しそうなハンニバル。そんなリーダーが嘘をつきまくっているのを見つめる部下3名の眼差しは、夏の水道水のような生ぬるさだった。
「アクアドラゴンシリーズは全部見ました。少なくとも10回ずつは見ています。」
「そうかい、どうもありがとう。今度、監督に会ったら、君のことを話しておくよ。きっと喜んでくれるはずだ。」
「監督にまで! よろしくお願いします! 次回作も期待しているとお伝え下さい!」
 次回作、予定ないんだが……。
「先ほどお話していた、何とかパークで潜る、というのは、次回作の撮影ではないんですね?」
「ああ、単なるアルバイトだ。ほら、ビーチの近くに新しく遊園地ができたろ。あそこのアトラクションに是非参加してほしいって頼まれてね。池の水面をカートが半ば潜って走り抜けるんだが、その池にアクアドラゴンが出没するってシナリオらしい。」
「でも、ハンニバルさんは明日、フェイスマンさんと店の候補地を回る予定だと……。」
「俺1人で回ってもいいんだけどさ、俺の一存で店を決めちゃっていいのかどうか……やっぱり決定はハンニバルにしてもらいたいし……。」
 責任感が重くて、フェイスマンは「ハンニバル、一緒に来てよ」という表情。
「行ってやりたいのは山々だが、アクアドラゴンがなあ。延期してもらえるってもんでもないし。うーむ。」
 アクアドラゴンが池に出没する期間は、もう決まってしまっているのである。明日から1週間、限定で出没。翌週は別の怪物が出没します。
「……ハンニバルさん、私にアクアドラゴン役を譲ってもらえないでしょうか?」
 真剣な顔で、サヒッドがハンニバルに詰め寄った。
「君が? アクアドラゴンに入るのか?」
「はい、こう見えましても私、学生時代には演劇もやっておりまして、アルバイトで、あの有名な遊園地の、あの有名な鼠の仲間に入っていたこともあるんです。まあ、あの例の鼠の仲間ですから、アクアドラゴンとは格も違いますし、難易度も違うとわかっています。でも! でも、私はこの機会を逃したくないんです! どうか、お願いします!」
 床に膝をつき、土下座するサヒッド。
「お願いです、ハンニバルさん。」
 シャルマも駆け寄ってきて、ハンニバルに縋りつく。
「サヒッドの望みを叶えてあげて下さい。そうだわ、2階の部屋をご覧になって下さいな。あなた、ほら、案内して差し上げて。」
 彼女は土下座する夫の肩に手をかけ、頭を上げさせた。
「うん、そうだね、シャルマ。恥ずかしいけど、見ていただこう。」
 既に、2階に何があるのかハンニバルには薄々わかってしまっていた。が、それがどの程度のものなのか知りたくもあった。
「行こうじゃないか、サヒッド、2階へ。」
「はい!」
 2階へ上がっていくサヒッドとハンニバル。
「ここが、私の自室です。散らかっていますが……。」
 ドアを開け、電気を点けるサヒッド。
「うっわ。」
 その部屋は、全体的イメージとしては深緑色だった。正面のデスクにはコンピュータと書類。その横の本棚には医学書がぎっしり。問題は、それ以外。壁面にはびっしりとアクアドラゴンのスチール写真。天井から下がっているのは、手作りと思しきアクアドラゴン(ミニサイズ)のモビール。そして、等身大アクアドラゴンまであったが、それは着ぐるみではないようだった。その他、デフォルメされたアクアドラゴンの縫いぐるみや、アクアドラゴンが刺繍されたクッションカバーまで。映画の前売り券やチラシ、ポスター、パンフレット、数少ないノベルティグッズまで、きちんと整理され、管理されていた。
「……すごいコレクション量だな。」
「ええ、世界一かと自負しております。」
「ふむ。君のアクアドラゴンへの愛情の深さはわかった。しかし、アクアドラゴンの中に入って動くのは、愛情だけでは無理だ。学生時代に着ぐるみに入った経験があると言っても、それから十数年経ってるんだろう? 体力が衰えているに違いない。」
「なるほど、その点をご心配でしたか。わかりました、では勝負しませんか?」
「勝負?」
「どちらがアクアドラゴンに入るか、を賭けて、体力勝負を。」
「面白い、受けて立ちましょう。」



 フェイスマンは相変わらず電話をかけまくっている。コングは磁石を肌触りいいように削っている。マードックはシャルマにヨガを教えている。
 そして、サヒッドとハンニバルは体力勝負をしている。
 現在のところ、1マイル走・サヒッドの勝利、反復横跳び・サヒッドの勝利、踏み段昇降・サヒッドの勝利、垂直跳び・サヒッドの勝利、障害物競争・ハンニバルの勝利、2階から懸垂・サヒッドの勝利、1人バケツリレー・ハンニバルの勝利、と、どう見てもサヒッドが優勢。だが、この勝負、ハンニバルが降参しない限り、サヒッドの勝ちとは認められないのだ。
 もう2人とも疲労困憊。サヒッドは昼間、きちんとお勤めしてきた後だし。多分、これが最後の勝負であろう。競技種目は、面被り。と言っても、お面を被ろうってわけではない。そんなことはマードックにでも任せておけばいい。こちらの面被りとは、洗面器に水を張って、どちらが長く顔を水につけていられるか、という、小学生が夏休みによくやるアレだ。
 キッチンの流し脇の調理台に、2人は並んでいた。水を張った洗面器2つを前にして。
「合図は頼んだぞ。」
 そうハンニバルが言った。合図をすれば、その分、肺に溜める空気の量が減る。ズル賢いね、ハンニバル。
「わかりました。」
 サヒッドは金属製ボウルを引き寄せて、片手にお玉を持った。
「お玉でボウルを打ちますので、それを、顔を沈める合図としましょう。」
 こちらの方が知能が高かったようだ。一応、医者だしな。
「よろしい。」
「では……用〜意。」
 2人は息を吸った。
 カン!
 冴えないゴングが鳴り、2人は同時に洗面器に顔を突っ込んだ。
 30秒経過。1分経過。(中略。)3分経過……。
「ぷはあっ!」
 先に顔を上げたのは、ハンニバルだった。横を見ると、サヒッドは未だ洗面器に顔を沈めている。泡をポコポコ出しながら。
「はあっ、はあっ、サヒッド、はあっ、もう、いいぞ。あたしの負けだ。」
 そう言われて、サヒッドも顔を上げた。
「ぶはーっ、はあっ、はあっ、じゃあ、アクアドラ、はあっ、ドラゴンは、はあっ、はあっ。」
「ああ、あんたに任せよう、はあっ、はあっ。よろしく、はあっ、頼んだぞ、はあっ、はあっ。」
「ぃやったーっ! はあっ、はあっ。」
 ガッツポーズを決めるサヒッド(有能外科医)。
 そうして、対決を終えた2人は、荒い息を隠すこともなく、ぐったりとキッチンの床に座り込んだ。



 翌日、早朝に病院へ行き、勤務スケジュールを無理矢理にも調整して今日1日を休みとしたサヒッドは、ハンニバルに教えられた通り、スタジオへ行き、ハンニバルからの一筆を見せて、生アクアドラゴンを手にした。そのアクアドラゴンを車に乗せて、遊園地へ行く。ここでもまたハンニバルの一筆を見せて、代理の者だと承認してもらい、アトラクション責任者と打ち合わせをした後、アクアドラゴンを着る。
 夢にまで見たこの一瞬! ……アクアドラゴンは、思いの外、葉巻臭かった。
 そして午前10時、開園。池の中でカートが来るのを待つ。カートが近づいてくる音が聞こえたら、水の中に潜る。ちょうどカートが彼の前を通る時、効果的に姿を現す。
 ザバァッ!
 キャーッ!
 小気味よかった。水の中なので、動くのには重いが、暑くはない。快適快適。
 5分に1回、カートが池を通る。つまり、5分に1回、ザバァッとやればいい。1時間に12回。開園時間は午前10時から午後7時。今日1日、100と8回、サバァッとやらなければいけないのである。煩悩の数と同じなのは偶然だが、こんなにもザバァッとやっていれば、煩悩も吹き飛ぶだろうて。
 休憩や食事については、何も言われなかった。ということは、休憩も食事もなしだろう。10時間を超える長丁場の手術も多いサヒッドだが、手術の時は集中しているので、空腹や疲労もさほど感じない。しかし、この仕事はかなり単調で退屈だ。
 午前10時10分、サヒッドは後悔し始めていた。



 一方、ハンニバルとフェイスマンは、腹巻店候補地を回っていた。既に当たりはつけてあるので、そう多くを回るわけではない。途中で小洒落たカフェに寄ってみたり、洋品店や小物屋をひやかしたり。なかなか楽しいデート仕事である。
 すべてを午前中に回り終え、レストランでランチを摂りながら、2人は作戦を練っていた。
「ここがいいんじゃないか? 周りに華やかなブティックが多いし、女性が大勢通ってたしな。」
 ローストビーフたっぷりのサラダ(パンつき)を前にして、ハンニバルがフォークの先でリストを差した。
「うん、俺もそこがいいんじゃないかと思ってたんだ。広すぎず狭すぎず、腹巻屋にぴったり。ほら、だって、腹巻しかないわけだろ? 他の商品を扱わないなら、広すぎない方がいいんだよ。」
 フェイスマンがシーフードのパスタをぐるぐる掻き回して、聞かれてもいないのに理由を説明する。
「トマトやるから、帆立くれ。」
「どうぞ。それとね、通りの反対側にちょっと大きめのジムがあったでしょ。あそこの人が案外、通りのこっち側に渡ってきててさ。」
 テーブルの上に広げた地図をフォークの先で辿るフェイスマンの話を聞きつつも、ハンニバルはフェイスマンの皿の具(帆立に留まらず)と自分の皿の野菜とを交換している。
「じゃ、そこに決まり。いつもの手筈で、ちゃちゃっと手に入れちゃって。3時にはコングたちに入ってもらってもいいかな?」
「わかった、3時までには押さえとく。」
 フォークに差した帆立と海老をぱくっと食べて、ハンニバルは、うむ、と頷いた。



〈Aチームの作業テーマ曲、かかる。〉
 不動産屋でにこやかに脅しをかけるフェイスマン。不動産屋は泣きそうな顔で電話をかけまくっている。
 店の前にバンが停まり、コングとマードックが降りてくる。バンの後部から材木や壁紙、ペンキなどを出し、店の中に運び込む。
 新作の腹巻を身につけるハンニバル。兎の柄が横に伸び広がって、白熊のように見える。苦笑するシャルマ。畏れることなく、ハンニバルの胴回りをメジャーで計測。
 ザバァッと池から現れるアクアドラゴン。
 美人デザイナーに腹巻のデザインをしてもらうフェイスマン。描かれている絵は、どうも腹巻とはほど遠い。あれこれと注文をつけ、その代わりに最上の微笑みを向けてやる。
 店内をリフォームするコング。ショーウィンドウを磨くマードック。と思いきや、ショーウィンドウにはガラスが填まっていなかった!
 新品のガラスを車で運んでくるハンニバル。その腹には、白いモヘアの腹巻が。割と可愛らしい。
 ザバァッと池から現れるアクアドラゴン。
 様々な素材の布を、引っ張ったり腹に巻いてみたりしているフェイスマン。それぞれの物性データを、インテリ風の美人が説明してくれている。
 ガラスを窓枠に填めるハンニバルとマードック。いつの間にかマードックの腹にも何か巻かれているが、それは腹巻ではなくサッシェだ。そして、コングの腹に巻かれているのは、犬印妊婦帯。コングがハンニバルに近寄り、何事か相談し、お互いの腹に巻かれているものを交換。ハンニバルの腹にほどよくフィットする妊婦帯。コングの腹に可愛いモヘア。
 新しい素材のサンプルを手にして、瞳を輝かせるシャルマ。得意げなフェイスマン。2人の周りには、数々の腹巻デザイン画が。
 ザバァッと池から現れるアクアドラゴン。
 木製の棚を作るコング。電気の配線をいじくっているハンニバル。壁紙を貼るマードック。マードックの腹には、今や、壁紙が巻かれている。サッシェはどこに? それはコングちゃんの頭に。
 ミシンで斬新な腹巻を縫うシャルマ。その手伝いをするフェイスマン。
 ザバッと池から現れるアクアドラゴン。
 店のリフォームが終了し、いい汗を煌かせて頷き合うハンニバル、コング、マードック。3人の、腹と言わず様々なところに、様々なものが巻かれている。ラップフィルムとかガムテープとか乳バン……ゲフンゲフン。
 直接フレアスカートに移行する腹巻を身につけ、いたくお気に入りなご様子のシャルマ。スリムなボディに、とてもよく似合っている。思わず、フェイスマンの手を取ってダンスを踊ってしまう。
 ザバァと池から現れるアクアドラゴン。
 シャルマの手料理に舌鼓を打つAチーム。と言っても、庭でバーベキューなのだが。近所の方々も加わり、肉が追加されたり、ビールが追加されたり。もちろん、カバブやスパイスに漬けられたチキンも焼かれている。子供たちに野菜を取り分けるコング。3軒先の若奥さんの隣に陣取ってデレデレしているフェイスマン。旦那方と輪になって、ビールを飲みまくっているハンニバル。シャルマの手伝いをしている振りをして、変なもの(パンとか団子とか海苔とか)まで焼いているマードック。チョコバーは焼くと減る、とは学んだようだが。
 ザバーと池から現れるアクアドラゴン。もう勢いはない。
〈Aチームの作業テーマ曲、終わる。〉



 すっかりと日も落ち、庭には消火済みバーベキューセットと、片づけをするAチーム。と、そこへ、サヒッドの車が滑り込んできた。ビールの空き缶が入ったゴミ袋をフェイスマンに押しつけ、ハンニバルは運転席を覗き込んだ。
「いやあ、ご苦労ご苦労。」
 後部シートには、湿っぽいアクアドラゴンも乗っている。
「どうだった? アクアドラゴンを動かした感想は?」
「……疲れました。」
「じゃ、今日のところはもう休んで、明日もよろしく頼むよ。」
「明日も? 今日だけじゃなかったんですか?」
「あたしゃ今日だけのつもりだったんだが、さっきニールに電話したら、ああ、ニールってのはこの週替わり怪獣出没企画の責任者ね、奴さんホントに喜んでてねえ。休憩も食事もなしで開園から閉園までずっと池にいてくれたって、もうすんごく感謝してましてね。明日も明後日も是非あの人に、って言われたんですわ。」
「しかし、私にも仕事が……。」
「それは任せて!」
 そう言って進み出てきたのは、シャルマ。
「明日、明後日ぐらいなら、私が何とかします。」
「君が? どうやって?」
 シャルマは「ついて来て」という身振りをすると、ハンニバルおよび車から降りたサヒッドの前に立って家の中に入った。そして、玄関ホールで電話脇のスツールに腰を下ろすと、アドレス帳を繰り、ダイヤルを回した。
「もしもし、夜分畏れ入ります、院長先生のお宅でしょうか。私、シャルマ・スンダラ・カーンと申します。以前は院長先生には大変お世話になり……はい、お願いします。」
「院長だって? 院長に電話して、君、一体……。」
 シャルマに詰め寄ろうとしたサヒッドに、彼女は「静かに」と身振りで示した。
「コホン、ケホン、院長先生? お久し振りです、シャルマです。コホッ。」
『おお、シャルマ、元気かね……いや、どうしたんだ、その咳は?』
「え、ええ、ちょっと風邪を、ゴホゲホカーッ、ケッケッ。」
『えらく辛そうな咳だ、大丈夫かね?』
「あの頃に比べれば、ケホッ、大したことはありませんカーッ。ペッ。ちょっと冷凍食品売場が、ゴッ、ゴゴゴゴゴゴホッ、寒すぎただけですの。エエエエエキシッ!」
『ブレス・ユー。』
「ありがとうございます。ズズズビッ。それで、うちの夫のことなんですが、もしかすると、今日、出勤予定だったのを急に休んだとか……? ブェェキシッ!」
『ああ、その通りだ。急用だとか言ってたな。』
「ばあばあザビッドっだら! 失礼。(ズビビビーム。ビムッ、ビムッ。)あの人、私が風邪引いたからって……。仕事に出ているはずの彼が、1日中、家にいるもんで、おかしいと思ってお電話差し上げたんでェックシュ! 全くあの人ったら……どうも済みません。」
『いやいや、謝る必要はないよ、シャルマ。私も君の体調が気がかりだ。カーン君に代わってくれないかね? 君の元主治医として、聞いておきたいことがある。』
「それが、夫は、コンコンケンケンガフッ、ゲゲガフッ、今ちょうど入浴中でして……それで私、彼の目を盗んでベッドから出てきたんですのよ。」
『おお、早くベッドに戻りなさい。腹巻はしているね?』
「ええックシュッ、もちろんですわ。」
『よろしい。君の風邪がよくなるまで、カーン君は、そうだな、サマーバケーションということで有給休暇扱いにしておこう。とりあえず、明日、明後日、明々後日の3日でいいかな。3日してよくならなかったら、入院しに来ること。いいね?』
「はい、わかりました。どうもありがとうございます。それでは、お休みなさい。」
『お休み、お大事にな。』
 チン、とシャルマは電話を切った。
「あと3日、休めるわ。私を看病するための有給休暇。院長先生直々のお達しよ。」
 と、サヒッドとハンニバルを見上げる。
「お見事。」
 ハンニバルがにこやかに、軽く拍手を贈る。
「ただし、サヒッド、あなた、あとで院長先生に私の病状について報告すること。単なる鼻風邪ですからね。私が服用しているはずの薬は、それなりのものを考えておいて。そして3日後には、私は治ります。」
 ビシッと言い切るシャルマ。
「……嘘をついたのか? 院長に……。」
 不安げに問うサヒッド。
「嘘じゃないわ、演技よ。私が演じたのを、院長先生が勝手に信じただけ。」
 冷ややかに微笑むシャルマ。サヒッドは一瞬ゾッとした。
「片づけ終わったよー!」
 そんな場を瞬時にして和やかなものにしたのは、庭の片づけを終えた部下3名。
「ご苦労さま、皆さん。」
 立ち上がるシャルマは、和やかで穏やかな表情。そこには、先刻の冷たい微笑など、全く残っていなかった。
「さ、次の作業だ。」
 ポンと手を打つフェイスマン。



〈Aチームの作業テーマ曲、再びかかる。〉
 くたくたなのに、空腹なのに、何もわからぬまま着替えさせられるサヒッド。黒い短パンに腹巻、頭にはターバン。
 リビングルームのテーブルとソファを脇に移動させるハンニバルとフェイスマン。そこに、ロールスクリーンを張るコングと、ライトをセッティングするマードック。
 できあがった仮設撮影スタジオの中央に引っ張り出されるサヒッド、マードックの指示に従い、蓮のポーズを取る。カメラのシャッターを切るフェイスマン。組んだ足を抱えて、胎児のポーズ。続いて、牛の顔のポーズ。体を伸ばして、聖人のポーズ。腕力にものを言わせて、鶴のポーズ。開脚系ポーズは無理でした。バランス系ポーズも今一つ。最後に逆立ちをさせられるサヒッド。
〈Aチームの作業テーマ曲、再び終わる。〉



「その写真、どうするんですか?」
 薄手のガウンを羽織りながら、サヒッドがフェイスマンに尋ねた。
「ん? これ? チラシにすんの。」
 さも当然というように答えつつ、カメラと三脚を片づけるフェイスマン。
「チラシ? 腹巻屋の?」
「そう。俺たち、ヨガ教室開くわけじゃないしね。」
「でも、それ、私の顔が出てるじゃないですか。」
「それは大丈夫よ、サヒッド。」
 そう言ったのは、撮影の様子をずっと眺めていたシャルマ。
「全部目を閉じているから、目に消し線が入っているのと同じこと。それに、あなたの顔、特徴があるけど、正確に覚えている人がいて?」
 何かキツイことを言われちゃったですよ、旦那。
「あなたは大概、病院ではマスクをしているでしょう? 私だって、あなたの顔をまじまじと見たの、結婚してからですもの。」
「だ、だけど、私にも仕事以外の友達がいて、彼らなら……。」
「そう、その人たちなら、あなたが腹巻屋のチラシに出ていても、笑って『これ、サヒッドに似てるな』と言ってくれるでしょう。まさか、あなた本人だとは思わずに。そこが、ミソ。私たち以外、何ぴとたりとも、あなた本人が胡散臭いヨガのポーズを取っているとは思いません!」
 ビシッ。
「う……。そ、そういうことなら……まあ、いいか……。」
 丸め込まれてしまった人物、1名。
「あなたの今日の仕事は以上です。シャワーを浴びて、早く就寝なさい。明日、出がけに院長先生に電話することを忘れずに。」
「き、君はまだ寝ないのかい、シャルマ。」
「私とAチームには、まだまだ腹巻開発が残っています。先に休みなさい。」
 ビッ、と2階を指差され、サヒッドは「お休み」と言ってリビングを出るしかなかった。空腹なのに……。



 明け方の道路を南へと走る小型トラック1台。その荷台には段ボール箱が乗っており、それぞれの箱の表面には、中に入っているものの名称が黒マジックで書かれている。その半分くらいは毛糸の名であり、あと半分は合成繊維の名である。
 運転席の男は、徹夜明けなのか、眠そうに目を擦って、ラジオのボリュームつまみに手を伸ばした。カントリーミュージックが、狭い車内に大音量で鳴り響く。
 市街地を外れ、今や車道の周囲は雑木林。早朝にカーラジオをガンガン鳴らしていても、近隣の迷惑にはなるまい。この先には縫製工場群ぐらいしかない上に、そこに行き着くにもまだ1時間近くかかる。
 男は、ハンドルを握ったまま伸びをした。と、その時、林の中からチョロチョロッと小さな塊が現れ、続いて少し大きめの塊も、のっそりと姿を現した。小さな塊が、車に臆することもなく、車道へと走り出てくる。
 狸の親子連れだ!
 そう気づいた男は、ブレーキペダルを踏み込み、ハンドルを切った。
 次の瞬間、車は林の中に突っ込んで木に激突し、男が運転席から転げ出るや否や、爆発炎上した。炎に包まれ、自らもメラメラと燃え上がる段ボール箱と、その中身。助けを呼ぶ手段もなく、男は呆然として炎を見つめているしかなかった。



「おはようさん。」
 ハンニバルが2階の客間から下りてくると、キッチンでは、サヒッドが必死になって大量の朝食を摂っているところだった。
「そう言えば、食事な、遊園地のカフェテリアに言っとけば、支給されるぞ。アトラクションとこまで持ってきてくれる。」
 大事なことを、さらりとハンニバルが言う。それも、あくびを交えつつ。
「ふぉ?」
 口一杯に豆を頬張ったサヒッドが顔を上げた。
「休憩を入れたい時には、カートを操作してる奴に合図すればいい。そうすれば『怪獣は休憩中です』の札を出してくれる。律義に1日中、出没しなくたっていいんだ。」
 豆を飲み下し、サヒッドがトホホな表情になった。
「それを早く教えて下さいよ!」
「聞かれなかったからな。それに、まさか、休みを入れずにぶっ通しで出没するとは思わなかったんで。」
「わかりました、今日は休憩も取るし、食事もします。じゃ、もう時間ですので、行ってきます。」
 と、サヒッドは豆の丼を流しに置いて、遊園地に出かけていった。アクアドラゴンと共に。
 入れ替わりにキッチンに入ってきたのは、夜のうちから出かけていたフェイスマン。
「はい、チラシできたよ。」
 床にドサリと段ボール箱を置く。
「それと、朝ご飯。ドーナツでよかった?」
「おお、いいですねえ、ドーナツ。アメリカの朝って感じで。」
 紙袋からドーナツ2個を取り出し、紙ナプキンで包んで、ハンニバルの手に乗せる。
「あと、普通のコーヒー。」
 紙コップに入ったコーヒーを、蓋つきのまま渡す。
「コングの牛乳とモンキーのメロンソーダは冷蔵庫に入れとくよ。ドーナツ、全部で12個買ってきたから、あと10個、コングとモンキーとで仲よく分けるように言っといて。」
「お前さんは? ドーナツ、もう食ったのか?」
「チラシ印刷しながらホットドッグ食った。」
「あ、それもいいですな。」
 そこに、シャルマも起きてきた。
「おはよう……あら、ドーナツ。」
「お1つどうですかな?」
「いただきますわ。」
 ハンニバルに袋を差し出され、シャルマは手を突っ込んでドーナツを1つ取り出すと、スパイス棚からシナモンパウダーとカルダモンパウダーを選び取り、流しの上でバフバフとドーナツにかけた。そのドーナツに、ぱくっとかぶりつく。
「ん、美味しい。」
 片手でドーナツを持ったまま、シャルマは冷蔵庫からジャルジーラを出してグラスに注いだ。キッチンにジャルジーラの匂いが充満する。
「そうだ、奥さん、チラシ見る?」
「もうできたの? 早いわね。見せて。」
 グラスを調理台に置き、濡れた手を腹巻で拭う。
 それを見逃さなかったフェイスマンは、「タオル地の腹巻もいいかも」と思った。
 さて、シャルマの腹巻屋のチラシは、焦げ茶とオレンジの2色刷り。コピーではなく平版印刷だ。フェイスマンの知り合いの印刷屋に、印刷機を自分で操作することを条件に、業務開始前のこの時間、印刷機を貸してもらったのだ。インクも紙も、無料で使い放題。ただしインクは基本色のみ、紙は上質紙もしくは色上質紙の中厚口まで。
『ヨガの達人も大絶賛!』
 チラシには、大きくそう書いてあった。その周りには、ヨガっぽいポーズを取るサヒッドの写真。
「上手くできてるな。いかにもヨガの達人に見えるぞ。」
 ハンニバルがそう言うのを聞いて、フェイスマンはチッチッチと人差し指を振った。
「『ヨガの達人も大絶賛!』とは書いてあるけど、この写真の人物がヨガの達人であるとは、どこにも書いてないよ。さらに言えば、ヨガの達人が腹巻を大絶賛しているとも書いてない。でも、ヨガの達人であるどこかの誰かが、何かを大絶賛していないとは言い切れない。」
 それはズルいよ、フェイスマン。
「ホント、そう言われてみれば、このチラシには何も嘘が書いてないわね。」
「そう、誇大広告じゃない、決して。」
 写真が並んでいるのが上半分で、下には腹巻の効能や、それぞれの腹巻の特徴と値段が書いてある。端には、店の地図と住所・電話番号。それから、もちろん店名も入っている。「シャルマズ・ボディウォーマー・ショップ」と。加えて、「開店記念セールにつき30%オフ」とも書いてある。その下に小さく「開店当日午前中に限り」とも。
「この『粗品』ってのは? もう準備してあるのか?」
 チラシの最下部の小さな文字を見て、ハンニバルが聞いた。「このチラシをご持参の方には、先着20名様に粗品を差し上げます」とある。
「うん、シャルマが用意してくれたものなんだけどね。」
 と、フェイスマンは彼女の方を見た。
「日本旅行に行った友人が、腹巻を手放せない私のために、新発売の使い捨てカイロを沢山買ってきてくれたんです。画期的なものですよ。オイルも要らないし、火も使わないカイロなんです。冬場でも腹巻に挟むと、非常に暖かくて、もう、うっとりしてしまいます。」
「ほう、そりゃレアものじゃないですか。そんなものを20個も?」
「ええ、あと段ボール箱に5つほどありますから。」
 どうやら船便でどさっと送られてきたようです。
「して、肝心の腹巻の方は、どんな調子だ?」
「ラインナップはチラシにある通り。縫製工場に話は通したし、原料も縫製工場に届けるよう手配してあるから、今日中には店に陳列する分ぐらいは完成する予定。夜に工場に取りに行って、チェックしながら陳列して、明日の開店に間に合う、よね?」
「ああ、間に合いそうだな。ご苦労。」
 ハンニバルは満足げに頷いた。
「じゃあ、俺、寝る。チラシ配り、よろしくね。」
 徹夜で何やかやと走り回っていたフェイスマンは、大あくびを残して、客間へと去っていった。
「それじゃ、あたしたちは、コングとモンキーを起こして、店の方へ行くとしますか。」
「どんなお店になっているか、楽しみですわ。」
 シャルマが、フフ、と笑った。ジャルジーラ臭かった。



 午前11時、遊園地。
 今日は休憩も取り、快調だった。昨日より客の反応もよく、アドリブのアクションにも力が入った。中には「アクアドラゴンだ!」と叫んでくれる客もいたし、写真を撮ってくれる客もいた。
(役者冥利に尽きる、というのは、こういうことなんだな。)
 そんなことを考えていた時、レールの向こうから喚き声が聞こえた。「うわー」とか「きゃー」とかではなく。
「ふはははは、今日こそお縄を頂戴しろォ、スミスー!」
 MPのリンチ大佐である。が、サヒッドには彼が誰なのか、さっぱりわからない。
「その怪獣の中身が、スミス、貴様だということは、既に割れている! おとなしく縛につけーっ!」
 サヒッドは困っていた。
(お尋ね者のAチームを追っている人に違いない。そして、このアクアドラゴンにはハンニバルさんが入っていると思っている。この場合、私はどうすれば……。)
 ともあれ、カートが来たようなので、水に潜る。カートが最も近づく瞬間を狙って……。
 ザバァッ!
 ヒュ〜〜〜〜〜〜ン。
「おのれ、スミス〜〜〜〜〜〜ッ!」
「うわ〜〜〜〜〜〜〜っ!」(×3)
 解説しよう。このアトラクション、ジェットコースターほど速度は出ていないものの、4人乗りのカート(ライドとも呼ばれる)はかなりの速さで走る。お猿の電車に比べれば、ずっと速い。池の手前は高台になっており、そこから自由落下に近い状態で、カートが落ちてくる。レールは水深1フット程度のところにあるので、カートは水の中に落ち、水飛沫を上げる。水飛沫が収まったところで、怪獣(今週はアクアドラゴン)が現れる。その直後、レールは急カーブを描いて怪獣から離れ、ジャングル風の密林の中に突入しつつ陸に上がる。この急カーブがクセモノで、怪獣に目が行っている客にはレールの先がどちらに向かっているか、わからないと言うか見極めている時間がない。設計サイドは、客がこのカーブでカートから飛んでいかないよう、細心の注意を払って、安全バーをカートに取りつけてあるし、看板には「ムチウチ症にご注意下さい」と明記もしている。カート内にも、同様の注意書きがなされている。
 なのに、リンチ大佐とその部下3名は、シートの上に立ち上がっていた。恐らく、係員はMP4名の愚行を止めようとしただろう。「それは危険です、座って安全バーを下ろして下さい」とか何とか。しかし、彼らは係員の指示に従わなかった。安全バーを下ろした状態でシートの上に立ち、出発してしまった。
 そして、くだんの急カーブで吹っ飛んだ。アクアドラゴンの後方の藪、つまりは陸地に向かって。
 その後、彼らがどうなったか、サヒッドは知らない。少なくとも、彼らが池の中に入ってくることも、再度カートに乗って現れることもなかった。



 ジリリリリ、ジリリリリ……。
 旧式の電話機が鳴っていた。バタン! と客間のドアが開き、フェイスマンが階段を駆け下りてくる。
「はい、もしもし、お待たせしました。」
 電話の主は、布問屋だった。縫製工場に直送するはずの毛糸と布が、道中の事故により、工場に届いていないばかりか、すべて燃えてしまった、と伝えられる。
「それじゃあ、すぐに代わりを送って下さい。大急ぎで。」
『ええ、そうしたいのは山々なんですが、いくつかはもうこちらに在庫がなく……。』
「在庫がない? そりゃ痛いな……。どこになら在庫がある?」
『うちの社の倉庫で一番近いのは、そうですね……ああ、ベーカーズフィールドにあります。ここの倉庫になら、すべてが充分に揃っております。』
「わかった。そこの住所教えて。うん、うん、はいはい。じゃ、ロスの方に在庫があるやつも、全部ベーカーズフィールドの方から貰うことにするわ。あっちの倉庫に、漏れなく揃えて待機しておくように伝えといて。工場には届けなくていい、こっちで届ける。何とかするよ。じゃ、よろしく。」
 電話を切ると、フェイスマンは縫製工場に電話をして、「しばらく待機」と伝えた。工員さんたちには、待機中の時給も払うという条件で。
 そしてフェイスマンは、ヨレヨレのスーツ姿のまま、表に飛び出していった。



「まあ、可愛いお店ね。ステキだわ。」
 リフォームした店を見て、最初にシャルマはそう言った。しかし、それから1時間ほど経った今、ハンニバルとシャルマによってデコレーションを施された店は、最早、可愛くなくなっていた。ある意味、ステキかもしれないが。特殊な趣味の一部の方々にとっては。
 あちこちに貼られたサヒッドの写真、棚に敷かれたインドコットン、レジカウンターに置かれた香炉、天井からは曼陀羅が垂れ下がっている。これではどう見ても、腹巻の店ではなく、ヨガグッズの店。それでもハンニバルとシャルマが満足そうなので、よしとしよう。
「大変だ、ハンニバル!」
 そこへ駆け込んできたのは、髪もボサボサに乱れたフェイスマン。かくかくしかじか、と状況を説明する。
「うむ、そりゃ非常事態だ。」
 その割には、ゆったりと構えている御大。さすがである。
「モンキーはどこ?」
「その辺でチラシを配ってるんじゃないか?」
「ああ、もう、こういう時に限って真面目なんだから!」
 と、フェイスマンは店を飛び出していった。
「そういうことなら、私は家に戻って、あり合わせの材料で腹巻を作りますわ。」
「あたしも協力しましょう。」
 力強く頷き合い、ハンニバルとシャルマは颯爽と、店の戸締りをした。



〈Aチームの作業テーマ曲、三たびかかる。〉
 マードックを探して、町を走り回るフェイスマン。ちょっと離れた場所で、郵便受けにチラシを入れて回っているマードック。さらに離れた場所で、道行く人にむっつりとチラシを渡すコング。
 リビングのテーブルに伸縮性のある布を広げ、鋏をシャキーンと掲げるシャルマ。その横で、編み機のハンドルを左右に動かすハンニバル。
 ザバァッと池から現れるアクアドラゴン。
 やっとのことでマードックを発見し、コルベットでヘリポートに向かうフェイスマンとマードック。途中でコングを発見、車に乗せる。
 唸る足踏みミシン、揺れるハンニバルの腹。次々と完成していく腹巻。ただし、柄も何もなし。
 ザバァッと池から現れて、陸に上がり、引っ繰り返って休憩しているアクアドラゴン。
 ヘリポートで暴れるコング。その隙に、資材運搬用ヘリコプターに乗り込むマードックとフェイスマン。2人が飛び去ったのを確認して、コルベットに飛び乗り、走り去るコング。
 使い捨てカイロを「粗品」と書かれた封筒に詰めるハンニバル。鉤針を使って、すごい勢いでニットの端の処理をするシャルマ。
 ザバァッと池に戻るアクアドラゴン。
 ベーカーズフィールド郊外の野原で布と毛糸を受け取り、縫製工場を目指して南へ飛ぶヘリ。コルベットをその辺に停め、何食わぬ顔でチラシ配りを再開するコング。
 近所のお宅を回って、余っている布や毛糸を貰って歩くシャルマ。再び編み機に対峙し、腹を揺らすハンニバル。
 事故現場に集まっている警察官と、それを横目に、虫を捕まえては食べる狸の親子。
 ミシンの前でお喋りしている縫製工場の皆さん(メキシコからの不法就労者)。そこに、段ボール箱を抱えたフェイスマンとマードックが駆け込んできて、工場が稼働を始める。工場長と支払いについて真剣に話し合っているフェイスマンをチラ見しては頬を染める、工場のほぼ全員。最寄のガソリンスタンドでヘリに給油してもらっているマードック。
 アクアドラゴンを着たまま、物陰でカレーを食べているサヒッド。
〈Aチームの作業テーマ曲、三たび終わる。〉



 時は流れ、今は夜。
「何とか明日の朝までには完成しそう、ですって。」
 縫製工場のフェイスマンからの電話連絡を受け、シャルマがハンニバルにそう報告した。
「腹巻ができあがったら、ヘリコプターで運んで下さるそうよ。」
「ってことは、モンキーも向こうで待機か。」
 それを聞いて、ハンニバルはよっこらしょ、と腰を上げた。
「コングもまだチラシ配りしてるしな。どうです、奥さん、これから一丁、美味しいものでも食べに行きませんか?」
「でも、サヒッドがまだ……。」
「彼なら今頃、遊園地で無料ディナーを楽しんでることでしょう。」
「そういうことでしたら。」
 と、シャルマはハンニバルと共に、夜の町に繰り出していった。
 その頃、噂のサヒッドは、閉園後の遊園地の片隅で、アクアドラゴンを乾かしながら、カフェテリアの残り物を1人寂しく食べていたのであった。

 ロブスターを食べて戻ってきた2人を迎えたのは、玄関ホールで落ち着かない様子のサヒッドだった。
「ああ、ハンニバルさん、先ほどフェイスマンさんからお電話がありまして、『磁石のこと、忘れてた』だそうです。」
「そう言やそうだな。で?」
「ええと、『こっちで調達できなそうだから、ヘリでそっちに一旦戻って磁石を手に入れて、また工場に戻る。この遅れのせいで、開店の10時には間に合わないかもしれない』ということだったんですが、どうしましょう?」
「どうしようもないだろ、こっちはただ待つしかない。向こうの連絡先もわからんしな。」
「それに、棚を一通り埋めるくらいの腹巻はありますしね。」
 シャルマもそう言う。棚を一通り埋めるくらいの腹巻は、現在リビングを一通り埋めている。
「でも、念のため、もう少し作っておきましょうか。」
「そうだな、まだ材料も残っているし。」
 念のため、もう少し、のはずの追加腹巻製造は、結局、ストップするタイミングを掴めないまま、朝まで続いてしまった。



 朝6時、電話が鳴り、相変わらず編み機を左右に動かしていたハンニバルが電話に出た。
「あー、もしもし。」
『ハンニバル? 俺。』
「フェイスか、どうだ進捗具合は。」
『磁石の件は聞いた?』
「ああ、聞いたよ。」
『磁石つき以外の腹巻は完成してるんだけど、磁石は今、運び込んだとこなんで、10時の開店には間に合いそうもないや、ゴメン。』
「お前さんねえ、何も全部一気に運ばなくてもいいのよ。どうせヘリで片道1時間ぐらいでしょ。今もうできてる分は先に運んじゃって。」
『あ、そっか。何か俺、ボケてる。』
「睡眠が足りてない証拠。じゃあ、できてる分はスタジオんとこに落としてちょうだい。時刻は、そうねえ、余裕持って7時半。」
『了解。』
 そして、時は進み、7時半。
 ハンニバル行きつけのスタジオの屋外撮影所で、ハンニバル、コング、シャルマの3人は、ブルーのウレタンキューブを地面に敷き詰めて、空を見上げていた。各々、ヘルメットを被って軍手を嵌めて。そこへ飛んできたヘリコプター。ウレタンキューブの真上でホバリングし、怪しまれない程度に高度を下げる。下降が止まり、段ボール箱が降ってきた。
 ヒュ〜〜〜〜〜〜、ボヨ〜ン。
 次々と降ってきては跳ねる段ボール箱を掴まえる地上待機班の3名。すべての段ボール箱を落とし終えたヘリコプターは、高度を上げ、南の方角へ飛んでいった。段ボール箱をスタジオの外に停めてあったバンに運び込み、ウレタンキューブを片づける。そして、スタジオ関係者が姿を現す前に、3人はこっそりとスタジオを出ていった。



 午前9時半すぎ。スタジオから店に直行した3人は、箱の中の腹巻を検品しつつ検数し、棚に納める作業も一段落。家から持ってきた腹巻をも陳列し終え、床に座って遅めの朝食を摂っているところ。あと少しで、シャルマ念願の腹巻屋の開店である。
 その後のフェイスマンからの連絡によると、縫製工場の皆さんの頑張りによって、午前10時くらいには磁石つき腹巻も直接搬入できるそうだ。直接搬入、というところに多少の不安もあるが、まあこの手のことはフェイスマンに任せておけば間違いない……でしょう。
 道行く女性がショーウィンドウを覗き込んだが、ハンニバルがウィンドウ越しに作り笑いを向けると、彼女は気まずそうにして去ってしまった。それを見ていたコングが、プッと笑う。と、その時、店の電話が鳴った。
「フェイス、何か伝え忘れたかな?」
「何かまたマズいことでも起こったんじゃねえだろうな? やっぱ10時にゃ間に合わねえとかよ。」
 ハンニバルとコングの言葉のせいではないが、受話器に手を伸ばすシャルマも、嫌な予感がしていた。
「……はい、もしもし。あら、あなた? もう遊園地に行く時間でしょ? 何、ハンニバルさんと代われ? ……ハンニバルさん、サヒッドからです。何だかすごく慌てていて。」
「ん? アクアドラゴンの頭でもモゲたか? はいはい、お電話代わりましたよ。……え? MPが?」
 サヒッドの話の要点は、こうだ。一昨日、遊園地にMPが現れたが、すっ飛んでいった。そのMPが、先刻、サヒッドの家にやって来た。彼はもちろん、ハンニバルの名もAチームのことも一切口にしなかった。だが、MPは、玄関のところに落ちていた腹巻屋のチラシを手に入れた。もしかすると、MPが腹巻屋に現れるかもしれない。
「話から察するに、そのMPってのはリンチって奴だろうけど、まあ奴さんの頭じゃ、この腹巻屋とAチームとを繋げて考えられんでしょう。んな、落ちていたチラシを見たぐらいで……何? チラシを見るなり車に駆け込んで急発進していった? あー、そりゃ何か掴んだのかもしれませんねえ。リンチが、じゃなくて、部下の誰かが。そう、リンチには無理。絶対無理。」
 ファンファンファンファン……。
 遠くから聞こえてくるMPカーのサイレン。
「やべえ、ハンニバル。MPだ。」
「コング、車は?」
「ちっと離れたとこに停めてきちまった。」
「じゃ先に行ってくれ。」
「おう!」
 通りに出て駆け出していくコング。
「ハンニバルさんはどうなさるんですか?」
 心配そうにシャルマが問う。
「ま、どうにかなりますって。……ああ、サヒッド、MP来ちゃったわ。アクアドラゴン、今日明日もよろしく。そんじゃ。」
 受話器を置いたハンニバルの耳に、サイレンに混じって、ヘリコプターのローター音が聞こえてきた。
「おお、もう10時か。グッド・タイミング。」
 店の外に出ると、通りの向こうからMPが大挙して押し寄せてはいたが、上空にはヘリコプターの姿が見えた。そこから、するするとロープが下りてくる。その先には、段ボール箱が1つ。
「最後の品が届きましたよ。」
 段ボール箱を上手くキャッチしてロープから外し、ハンニバルは箱を店の中に投げ入れた。そして、今し方まで箱を結わえていたロープの輪にハンニバルが足をかけると、ロープはぐんぐんと上昇していった。
「それじゃ奥さん、またお会いしましょう!」
 ハンニバルが片手を振って高らかに別れを告げると共に、上空のヘリコプターからバサッと垂れ幕が下ろされた。
『シャルマの腹巻屋、開店おめでとう! ビバ、腹巻!』
 店の外に走り出たシャルマは、垂れ幕を見上げ、ヘリの方に手を振った。
「どうもありがとう、Aチームの皆さん!」
「待てェ、スミスーっ! 追えーっ、あのヘリを追うんだーっ!」
 MP一同はシャルマと腹巻屋を素通りして、遠ざかっていくヘリコプターを追いかけていった。



 後日、シャルマとサヒッドから充分な額の小切手(アメリカドル建て)と手紙とが、MPから無事逃げおおせたAチームの許に送られてきた。
 手紙によると、腹巻屋は大繁盛と言うほどではないにせよ、そこそこ繁盛しているそうである。女性誌や地方新聞の取材も来たとのこと。腹巻旋風がロサンゼルスに吹くまで、もう少し時間がかかりそうだ。
 フェイスマンが手紙を読み上げるのを聞きながら、ハンニバルは不貞腐れていた。なぜなら、「後半のアクアドラゴンよりも前半の方がよかった」と、遊園地の職員を始め、遊園地を訪れた客、メディア、アクアドラゴンシリーズの監督にまで言われてしまったからである。
「見る目がないんですよ、みんな。」
 シャルマから貰った腹巻に、胴だけでなく両手をも突っ込み、肩をすぼめて、ハンニバルは悲しげにそう言うのだった。
【おしまい】
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