真夏のフェロモン大作戦
フル川 四万
 とある雑居ビル。エイミー・アマンダー・アレンは急いでいた。とにかく時間がないのだ。敏腕新聞記者である彼女、ここんとこ超多忙。寝る時間も食べる時間も風呂に入る時間もない。それどころか、話題のレストランにもケーキ屋さんにも行っていない。エステにも行っていないから、自慢のお肌は乾燥気味だし、目の下は隈だし。
「ああ、ほんっと忙しいったらありゃしない。これじゃエステに行く時間もないわ。自慢のお肌がボロボロよ。やだ見て、この目の下の隈!」
 コティのコンパクトで顔を確認して、エンジェルが叫んだ。その独り言があまりに大声だったため、廊下を歩くビジネスマン&ウーマンが次々と振り返る。しかし、そんな状況もお構いなし、彼女はコンパクトを鞄にしまうと、代わりに手帳を取り出してせわしなくページを捲りつつ、前も見ずに廊下を進んでいく。
 と、その時、前から歩いてきた1人の小柄な男。白衣に眼鏡の、いかにも研究員風もやしっ子。片手にビーカーを持ち、もう片手に持った紙の束に目を落とし、これまた前も見ないでスタスタと進んでくる。2人が衝突するのは自明の理だった。
「痛っ。」
「あうっ。」
 ぶつかった2人は、共に転がって床に倒れた。その拍子に白衣の男が持っていたビーカーの緑色の中身がエンジェルの上着にぶちまけられる。
「ちょっとお、何これ! 新しいジャケットが台なしじゃない!」
「す、済みません、つい資料に夢中になっちゃって。クリーニング代をお支払いしますので、もしよかったら僕の研究室に……。」
 白衣の男は、エンジェルの迫力に気圧されて後ずさりしながら言った。
「もう! そんな悠長なことは言ってられないの。あたし忙しいんだから。今日のところは勘弁してあげるから、これから気をつけなさいよっ。」
 そう言って素早く立ち上がり、靴音高く去るエンジェル。
「その服、早く洗った方がいいですよー。」
 青年の言葉は、エンジェルには届かなかった。



「ええと、この取材を終わらせたら、次はお隣に住んでいながら40年間一度も顔を合わせなかった元恋人同士の取材で、その後は、異常発生したムクドリの話でしょ、それから、毎朝自分で卵を割って目玉焼きを作っているというお利口なベローシファカの写真を撮りに行って、それから、自分のみならず家族全員ジョン・トラボルタ顔に整形しちゃった中国人一家にインタビューに行って……あれ? 整形したのがベローシファカだったかしら。違うわ、じゃあ、目玉焼きを自分で作れるお利口さんは中国人? いや、そんなわけないわ。ああ、そうだわ、異常発生したのが中国人だったわね。……違ったかしら? ま、いいわ。とにかくこのサプリメント会社の取材をとっとと終わらせてしまわなくちゃ。ええと、ミラクルサプリメント社はどこかしら。」
 キョロキョロと廊下を見回すエンジェル。
 と、1つのドアが開き、長身の男性が顔を出した。ちょうどいい、あの人に訊こう、とエンジェルが口を開きかけた途端、長身の彼氏がエンジェルに気づいた。そして、びっくりしたような顔で彼女を見つめると、こう言った。
「あ、あなたこそ運命の人だ。僕と結婚して下さい!」



 真っ暗な倉庫の中をローランは恐る恐る歩いていた。手には懐中電灯。時折見える人影らしきものがマネキンであることはわかっている。だってここはマネキン会社の廃品置き場。
 だからと言って、時折懐中電灯に照らし出される人型ののっぺりした無表情が不気味でないはずもなく、小心者のローランは、いちいち「ひっ」とか「うおっ」とか声を上げながら、林立するマネキンを掻き分けて暗い中を進んでいた。
 行く当てがあるわけではない。何せ「10時から11時まで、マネキン倉庫の中をブラブラしててネ」なのだから。変な約束だ。てことは、これから会う予定の神出鬼没な人たちも、それに似合うくらい変なのだろうか。ローランの胸に不安が過ぎる。
 変と言えば、マネキンも変だ。懐中電灯で照らし出されるのは、頭髪もなく、衣服もつけていない老若男女が、思い思いのポーズでにこやかに佇んでいる姿。偶然の組み合わせで談笑しているように見せる女性たちもあれば、逆に、満面の笑みなのに今にも掴み合いの喧嘩を始めそうな男たちもいる。
 と、一体のマネキンが目に留まった。白人男性のマネキンだ。なぜか黒ビキニのパンツを穿いている。そして頭髪もある。少々薄くはあるが。胸毛すらあり、あまつさえ野球帽まで被っている。何よりおかしいのが足元だ。そのマネキンの足元には、今し方、下ろしたばかりのようにズボンが落とされていて、古びたコンバースの上でくしゃくしゃに丸まっている。そんな出で立ちで、片手は腰、片手は彼方をびしっと指差す「来たれ! 自衛隊」のポーズ。表情は、口、への字、鼻の穴、膨らみまくりの凛々しさよ。
 その3体右の男のマネキンにも頭髪あり。綺麗に撫でつけた鳶色の髪。男前を意識した作りなのに、何でこんなに、と思うほどの下がり眉毛。ビキニの海水パンツはピンクで、足元は白のエナメルだ。そして片膝をついて真紅のバラ(造花)を差し出し、「お嬢様、踊って下さいませんか」のポーズで微笑んでいる。
「用途がわかんないぞ、ここのマネキン。」
 思わずそう呟くと、ローランは、懐中電灯で辺りをぐるりと照らした。次に手が止まったのは、マネキンと言うには、あまりにマッチョなモヒカン。しかも、今度は完全なる着衣 with 金銀鋼。と、その時。
「ひいっ!」
 ローランは、誰かに不意に腕を掴まれて飛び上がった。掴まれた手を懐中電灯で照らしてみる。と、そこには、自分の服の袖に引っかかっているマネキンの細い指先。
「な、何だマネキンか。ああびっくりした。落ち着け、ローラン。落ち着け。」
 そう言ってローランは、自分の周りをぐるりと懐中電灯で照らした。老若男女人種国籍あらゆる種類のマネキンが、てんでバラバラな方向を向いて立っている。若い白人女性、いかにもスポーツマンタイプの胸板厚い男性。笑顔でポーズを取る子供。葉巻を銜え、なぜかお腹を思いっきり引っ込めた感じの壮年の男性(しかもデカパン着用)。……マネキンが、葉巻?
 不思議に思い、そのマネキンにもう一度懐中電灯を向けるローラン。と、そのマネキンがニヤリと笑ったように見えた。思わず飛び退くローラン。
「合言葉は?」
 マネキンが言った。
「モ、モヒカンと軍曹。」
「よし、合格! おーい、電気。やあローラン、あたしがジョン・スミスだ。」
 急に明かりが点いた倉庫の中。眩しさに目を細めるローランに、マネキンが4体、笑顔(1人顰めっ面)で近づいてきた。



 マネキン倉庫の片隅の少し広くなった場所に、フェイスマンがどっからか調達したイームズの高級家具が配置されている。テレビも冷蔵庫も洗濯機もあり、片隅には猫足のゴージャスな浴槽まであり、ちょっとした豪邸気分のここが、今回のAチームの隠れ家である。もちろん電気は倉庫の電源からいただいているし、家賃もタダ。冷房も利くし、何より周りは数百体のマネキン。いざという時、マネキンの振りをして逃げられるから大丈夫。……大丈夫?
「へっくしゅん!」
 フェイスマンがクシャミをした。急いでシャツを着込み、カーディガンを羽織る。
「どうしたフェイス、風邪か?」
 シャツのボタンを留め終わったハンニバルが言った。
「風邪ぐらい引くよ。こんな寒い倉庫の中で裸で1時間もいたんだから。」
「別に裸になれと命令した覚えはありませんがね。」
「だってモンキーが、倉庫にいるマネキンは裸じゃなきゃおかしいって言うから。」
「当ったり前だろ。マネキンってのは、裸が日常。服を着るのは、晴れの舞台であるブティックのウィンドウの中だけさ、なあチャーリー。」
 と、マネキン(白人男性/推定25歳/全裸)の肩を抱くマードック。チャーリーとは、そのマネキンの名前らしい。
「あのう。」
 ローランが、恐る恐る口を開いた。
「そろそろ僕のお願いを聞いてもらえないでしょうか。」
 Aチームの4人が、今気づいたかのようにローランを見た。



「僕には、好きな人がいます。ジェニーって言います。僕、ウエストサイドのデリでコックをしてるんですけれども、ジェニーは、そこの売り子です。とにかくすごく可愛い子で、お客さんにも大人気。先週だけで4人のお客さんにデートに誘われたって言ってました。で、僕もジェニーのこと、いいなって思って、つき合ってくれって言ったんですけど、タイプじゃないって一蹴されまして。」
「フラれたんだ。」
「ええ、率直に言うとそういうことです。それでも諦めきれなかった僕は、ある日、雑誌の広告で、このチョコを見つけて。」
 と、ローランが鞄から取り出したのは、リボン包みされた小さなチョコレート。テーブルの上にザラザラと出されたそれは、包みを通してもカカオのいい香りがしてくる。
「いただき。」
 と、マードックが手を出した。俺も俺もと手が伸び、ローランが止める間もなく、Aチームの4人は、チョコレートをぱくりといただいてしまった。
「美味いっ。高級なカカオの風味に、コニャックと、何だろう、何かのハーブが効いてる。パリのピエール・エルモにも近い味だね。」
「ふむ。口の中で蕩ける具合もほどよいし、甘すぎないところもいいな。」
「ああ、このチョコなら牛乳にも合いそうだぜ。」
「も1個ちょうだい。」
「やめて下さい!」
 マードックがお代わりに伸ばした手を、ローランがぺしっと叩いた。
「いいじゃん、チョコの1個ぐらい。」
「1個17ドルするんです!」
 ローランが悲痛な声を上げた。
「17ドルって、この1粒が?」
 マードックがびっくりして手を引っ込めた。反対に、17ドルと聞いて素早く数個確保するフェイスマン。
「ええ、1粒17ドル。それにチョコレートじゃなくて薬だし。」
「薬? 薬って何の薬だ?」
「……惚れ薬です。」
「惚れ薬だって?」
「だと?」
「ですと?」
「惚れ薬って、あれ? 食べると誰かに惚れるってこと?」
「そうです。このチョコを食べて30分後に最初に見た人を好きになるんです。いや、なるはずだったんです。」
 そう言うとローランは、1冊の雑誌を取り出した。
「ヒーロー・コミック10月号。ティーン向けの漫画雑誌だな。これが何か?」
「裏を見て下さい。」
 ローランが雑誌を裏返すと、そこには、お決まりの通販広告が。竹林の写真をバックに、「驚」だの「貴重」だのという真っ赤な漢字が躍っている。マードックが取り上げて読み上げる。
「何々、『全米で大人気! 中国4000年の歴史が生み出した、史上最強の惚れ薬・ミラクルカカオ! このチョコレート味のサプリメントを1粒食べさせるだけで、世の中の女はみんな、あなたの虜!』……いかにも怪しいねえ。」
「眉唾だな。」
「偽物に決まってるぜ。」
「1箱1ダースで200ドルだって? ぼったくりもいいとこ。天才的詐欺師の俺に言わせると、こんなもの、引っかかる奴の方が悪いんだよ。」
 言いたい放題言ってるAチームである。ローランは、肩を落として大きく溜息をついた。
「今なら、僕にだって、これが偽物だってことくらいわかります。でも、その時はジェニーとつき合いたい一心で……見えるはずのものが見えなかったんですね。」
「で、君は、これをジェニーに食べさせたわけだね。」
「ええ。ジェニーと僕は帰りの方向が一緒だったんで、いつも僕の車でジェニーを家まで送っていたんです。それがちょうど30分少しなものですから、車に乗った時にこのチョコを1粒あげて、降りる時に、お疲れさま、って彼女の顔を見てたんですが、いつも、ありがと、バーイ、で終わってしまって、全く進展のないまま、1年。」
「1年? 君は1年間毎日、このチョコをジェニーに食べさせ続けたのか?」
「毎日じゃありません。シフトがありますから、大体200日くらいでしょうか。毎日1粒。かなり美味しいのでもっと欲しがった時もあったんですが、一応、薬なんだから用量は守らなきゃと思って、多くても2粒。昨日数えてみたら、この1年間でジェニーにあげたチョコの数は、ちょうど365粒でした。」
「365粒、ちょうど1年分か。ええと、1粒17ドルだから、ええっ、6200ドル? 君、このちっちゃなチョコレートに6200ドルも使ったの?」
「面目ない。」
「なさすぎだよ!」
 フェイスマンが叫んだ。無駄遣いの話は、赤の他人のそれでも許せないらしい。
「まあ落ち着け、フェイス。で、ローラン。俺たちにどうしてほしいんだ?」
「僕、何度も製造元に問い合わせたんです。本当に効くのかって。実際に作ってる会社に行ってもみました。ミラクルサプリ社って言うんですけど、そしたら社長だって言う女の人が出てきて、絶対効くはずだ、私を信じて続けてみて、って。」
「それで君は信じたわけだ。」
「ええ、綺麗な人だったんで、つい。そうですよね、僕が悪いのはわかってるんです。でも1年間で6000ドル以上ですよ? 効かない薬をそんな値段で売りつけるなんて、ひどいじゃないですか。消費者センターに訴えても、クーリングオフの期間も過ぎているし、これから気をつけるしかないって言われてしまって。それで店の常連のアレンさんに相談したら、これは記事になるわって、スミスさんを紹介してくれて、僕は今日ここに来たってわけです。」
「アレンさん?」
 と、フェイスマン。
「エンジェルのことだ。」
「ああ、そう言えば彼女、そんな苗字だったね。で、どうすればいいの? 6000ドルを取り返せばいいのかい?」
「そうじゃないんです。お金はいいんです。もし取り返せたら、報酬に合わせてそっくり皆さんにお支払いします。僕はただ、知りたいだけなんです。この薬が、本当に偽物だったのか。そして偽物だったなら、一言謝ってほしいんです。」
「謝るって、それだけでいいのか?」
「ええ。実はジェニー、来週結婚するんです。僕の知らない男と。だからこの1年間は、本当に無駄だったってことですよね。それが悔しくて。事実を知りたいんです。そして、偽物だったら、皆さんの手であいつらを懲らしめてやってほしいんです。」
 ローランは、そう言うと、膝の上で拳を握り締めた。
 困惑するAチーム。そりゃま、エンジェルの紹介とあらばお役に立てないこともないが、今回の件、どう考えてもローランにも非がある。
「あ、そうだ。さっき皆さん、チョコ食べましたよね。」
 しばし悔しさを噛み締めていたローランが、不意に顔を上げて言った。
「ああ、そう言えば食べたな。」
「そろそろ30分を過ぎました。どうでしょう? 最初に見た人のこと、好きになりましたか?」
 言われて、顔を見合わせるハンニバルとフェイスマン。30分を経過後に最初に見た人間……て誰だ?
「俺は、この角度でこうやってあんたと喋ってたわけだから、最初に見たのはローラン、あんただな。」
 と、コング。
「どうです、僕のこと、好ましく感じるようになりましたか?」
「いや、どっちかってえと、イライラするぜ、お前の馬鹿さ加減にな。」
 容赦ないな、コングちゃん。
「あたしも、最初に見たのはローラン、君だ。特に好きも嫌いもない。可哀想だとは思うがね。フェイス、お前はどうだ?」
 振られたフェイスマンが、う、と口籠った。最初に見たのはハンニバルだった。どうだろう、何だか男前に見えるような気もするが、それを本人に言うのはかなり悔しい。
「俺が最初に見たのは、ハンニバル、だと思う。」
「ふむ。で、どうだった?」
「……ちょっとお腹、凹んだかなって思ったけど。」
「腹は実際凹んでいるんですよ、最近。トレーニングしてるから。だから、それはお前の好意じゃなくて、厳然たる事実。」
 ふん、とお腹を引っ込めたハンニバルが得意げにそう言い放った。
「はいはい、そうでしょうよ。」
 フェイスマンは、厭味ったらしくハンニバルの腹に目をやってそう言った。
「てことは、やっぱり効かねえんだな。」
「ふむ、そのようだな。おいモンキー、お前はどうだ?」
 振り向いたコングの目に飛び込んできたのは、チャーリー(マネキン/ポーズはバンザーイ!)を膝の上に抱き、熱烈なキスを交わすマードックの姿。
「惚れ薬、約1名、効いたみたいだぜ。」
 忌々しそうにコングが言った。



「何ですって、マイク! もう一度言ってみなさいよ!」
 白衣の女が叫んだ。彼女の名前はカルメン。健康食品販売業、ミラクルサプリ社の社長である。この会社、最近では、チョコレート味の惚れ薬であるミラクルカカオの大ヒットで左団扇。
「だから! 僕、この人と結婚するんです! そう決めたんです!」
 マイクと呼ばれた若い男は、そう言ってエンジェルの腕をぐいっと持ち上げた。エンジェルが忌々しそうにその腕を振り払おうとするが、マイクは身長6フィート4インチの大男。エンジェルの抵抗など屁でもない。
「どうして仕事中にいきなりそういうことになるのよ! その前に、誰なのよ、その女!」
「ええっと、自己紹介させてもらっていいかしら?」
「あなたは黙っててちょうだい!」
 一喝されたエンジェルは、ムッとして黙り込んだ。
『一体何なのよ、これ。近所のデリのコックから聞いた偽惚れ薬の会社を取材に来ただけなのに、変な液体はかけられるわ、タイプでもない大男に出合い頭にプロポーズされるわ……。』
「大体ねえ、あなた、さっき地下の実験室に資料を取りに行くって言って部屋を出ようとしてたのよね。で、そこのドアを開けたと思ったらすぐに戻ってきて、『この人と結婚します』って、わけがわからないわよ。頼んだ資料はどうしたの?」
「ああ、資料か。済みません社長、資料は後で取りに行きます。けど今はただ、僕の未来の花嫁に会えたのが嬉しくって。とにかく僕この人と結婚するって決めたんです。もちろん、結婚式には社長も来て下さいね! ブーケトスでは全力で社長を狙いますから!」
 因みにカルメン、32歳独身である。
「いつあたしがあなたと結婚するって言ったのよ! 結婚っていうのはねえ、2人の同意があってこそ成り立つものでしょう。」
 2人に割って入るようにエンジェルが叫んだ。
「あなたは黙っててって言ったでしょう! マイク、あなたまさか、ミラクルカカオ食べたんじゃないでしょうね?」
 ミラクルカカオという言葉にハッとしたエンジェル。
『まさか、ここがミラクルサプリ社なの?』
「食べてませんよ。僕がチョコレート嫌いなの、社長だってわかってるでしょう? 僕は、純粋にこの人に一目惚れしたんです。もちろん、あなたもだよね? ええと、名前、何だっけ?」
「この手を離してくれたら言うわ。」
 エンジェルがそう言うと、マイクは、「ああごめんよ、ハニー」と言って、やっと手を離した。
「ったく、誰がハニーやねん。あたしはね、エイミー・アマンダー・アレン、新聞記者よ。あなたがミラクルサプリ社の社長、カルメン・イーヴァンね。」
「そうよ。私がこのミラクルサプリ社の社長よ。新聞記者って……ああ、昨日電話してきた人? うちの商品を偽物だとか詐偽だとか根も葉もないことを言ってた。何であなたがここにいるのよ? 取材は断ったはずよ。」
「断られたくらいで諦める記者がいると思う?」
「諦めなさいよ、断ったんだから!」
「嫌よ。」
「嫌って何よ、ずうずうしい!」
「ずうずうしいって何よ!」
「まあまあ、社長もハニーも落ち着いて。」
 今にも取っ組み合いを始めそうな女2人の間に割って入るマイク。
「だから、ハニーって呼ぶのやめてって言ったでしょ!」
「怒っちゃった? ごめんよハニー。でもうちの会社は、偽物なんか作ってないよ。真面目に研究して、すごくよく効く薬だけを売っているんだ。ほら、これとか、これとか。」
 マイクはそう言って、デスクの上からいくつかの箱を取り上げた。
「これが、ミラクルプリン。粉末だけど、溶かしてプリンにすると、コラーゲン効果でお肌ツルツルになるんだ。こっちがミラクルシェイプ。一見、普通のステーキ用シーズニングみたいに見えるけど、これをかけると肉の脂分を人体が吸収できない分子構造に変える。あとこっちが……。」
「やめなさい、マイク。」
 カルメンが言った。
「うちの商品を偽物呼ばわりする記者に商品の紹介なんかする必要はないわ。」
「だって偽物なんでしょう、ミラクルカカオって! 300個以上も食べて何の効果もなかったって言う証人だっているのよ!」
「何ですって!」
「何だって!」
 カルメンとマイクが同時に叫んだ。
「どこのどいつよ! そんなデタラメを言うのは!」
「そうだそうだ、あの薬は、臨床実験でも80%以上の成功率を誇っているんだぞ。300個も摂取して効かないなんて、そんなことあり得ない。いくらハニーでも、根拠のない中傷は許さないぞ。証人がいるのなら、僕たちの前に連れてきてもらおうじゃないかっ。」
 激昂するマイク。その勢いに押されて思わず後ずさるエンジェル。と、その時。



「証人なら、ここにいるっ!」
 ババーンとドアを蹴り開けて登場したのは、Aチームの面々(と、ローランとチャーリー)。
「話は廊下で聞かせてもらった!」
 って、聞いてたなら早く入ってくればいいのに、ハンニバル。
「何だか取り込み中みたいなんで遠慮してた!」
 そうですか。
「えーと、まずはエンジェル、婚約おめでとう。いやあ、水臭いじゃないか。言ってくれれば婚約パーティくらい開いてあげたのに。」
 と、フェイスマン。
「ああ君、誰だか知らないけど、僕たちの婚約を祝福してくれてありがとう!」
 マイクが一歩前に進み出て、フェイスマンに握手を求めた。フェイスマンも、にこやかに前に進み出て、それに応える。
「だから違うって! 中途半端な立ち聞きなら、しなさんな。」
 2人の間に割って入ったエンジェルが、2人の手を引き離した。
「あたしは婚約なんてしてないの! 何だか知らないけど、この人に一目惚れされてこんなことになってるけど、あたしは、ローランが言ってた偽薬の取材に来てただけなのよ。」
「一目惚れだあ?」
 コングが胡散臭げにマイクを見上げた。
「ティーンじゃあるまいし、今時一目惚れだ? しかもエンジェルにぃ?」
 フェイスマンも、マイクとエンジェルを交互に見つつ半笑いだ。彼氏、こういう表情させると平均以上に憎たらしい。
「何、その失礼な顔!」
「顔に失礼て!」
「まあ落ち着け、皆の者。マイク、まさか君、ミラクルカカオを食べていました、なんて落ちが着くんじゃないだろうな?」
「食べてません。僕、チョコレートは大嫌いなんです。自分で開発しといて何なんですけど。彼女、エイミーには、本当に純粋に、一目惚れなんです。」
 力説するマイク。
「そういうことってあるよな。オイラだってチャーリーに会うまでは、まさか自分がマネキンと赤い糸で結ばれてるなんて思いもしなかったもんね。」
 そう言うマードックの背中には、チャーリーが赤い糸ならぬ梱包用の紐でぐるぐる巻きにされて背負われている。しかも上下逆さに。ちっとも愛情の感じられない背負い方。
「てめえのは、ミラクルカカオのせいじゃねえか。」
 と、コングが唸った。
「ほら! やっぱり効くんじゃないの、うちのミラクルカカオは。変な言いがかりつけないでほしいわ。」
 カルメンが、我が意を得たりとハンニバルの前にズズズイと進み出る。
「こいつは特別でね、プラシーボの申し子みたいなもんだから、普通のチョコ食べただけでも思い込みで効いちまうんだ。ほら、イワシの頭も信心からって言うだろう。もしくは、馬の耳に念仏な。どっちも中国の古い言い伝えだが。」
 それは微妙に違う気が。
「そ、そうですよ! この人は特別です。現に、ジェニーには全く効かなかったんですから! 365個も食べさせたのに!」
 ローランの言葉に、カルメンは驚きの声を上げた。
「あなただったの! お1人様1箱限定のミラクルカカオを、偽名や親戚の名前やらを使って30箱も買った人。」
「げっ、バ、バレてたんですか。」
「そりゃバレるわよ、名前だけ変えても、送り先は一緒なんだから! 何に使うのかと思ってたのよ。よっぽどいろんな女にモテたい遊び人なのかしら、とか。」
「ち、違います、僕はジェニー一筋ですっ!」
 そう言って、ローランは事の顛末を再び語り始めた。
「……てわけだ。どう考えても、あんたんとこのミラクルカカオ、効いていないだろう。」
「そうね。その人の話を信じるなら、そういうことになるわね。」
 カルメンは、大きく溜息をついた。
「いいでしょう。本当は企業秘密なんだけれど、ミラクルサプリの製造工場を見せてあげましょう。それで納得してくれるとは思えないけれど、理解の助けにはなるわよね。」
「話がわかるな。」
「その代わり、あとでそのミラクルカカオが効かなかったって子に会わせてちょうだい。話を聞いてみたいの。あと血液のサンプルも貰いたいわね。」



 ミラクルサプリ社の工場は、同じ雑居ビルの地下にあった。
 1階でエレベーターを降りると、あとは階段で地下3階へ。地下1階が管理室で、地下2階がボイラー室だから、地下3階に製薬工場があるとは、普通、思いつきもしないだろう。
「見るからに怪しいな。まるで麻薬か何かの秘密工場じゃないか。」
 カルメンを追って階段を下りながら、ハンニバルが言った。
「別に他意はないのよ。家賃が安かったのと、チョコレートを保存するのに湿度がちょうどよかっただけ。着いたわ。」
 階段を下りきると、そこには重厚な鉄扉が。マイクが、扉の横の電話を取り上げた。一言二言何かを言うと、鉄扉の向こうでガチャリと音がして、マイクとは正反対の小柄な青年が顔を出した。
「何ですか、社長。」
「研究中ごめんなさいね、フランク。ちょっとこの記者さんたちにミラクルカカオの製造工程を見せてあげたいの。」
「新製品のテスト中なんだけどなあ。」
 青年は、ブツブツ言いながら扉を開けた。



 室内は、さながら小さな秘密基地のようだった。
 100平米程度の室内の外周にぐるりと回されたベルトコンベアには、様々な機械が嵌め込まれており、ゆっくりと回りながら小さなチョコレートをポロポロと生み出している。部屋の左半分の手前には大きなテーブルがあり、白衣にシャワーキャップのご婦人たちが数名、出来上がったミラクルカカオを箱詰めしていた。そして右半分には、いくつかに区切られた大きなプールが、何とも言えない匂いを漂わせながら横たわっている。
「これが、我が社の製造ライン。まずはこっちを見て。」
 カルメンが、ベルトコンベアの始点にある小さなタンクへと一同を誘った。タンクの中では、チョコレートがぐるぐると掻き回されて、甘い芳香を放っている。
「これがベースとなるチョコレートよ。ベルギー産の最高級品。このチョコを固めただけでも、1粒2ドルは下らないわ。」
「そんなに高いチョコを使っているのか。うん、美味い。」
 融けたチョコに指を突っ込んで舐めてみるハンニバル。
「美味しいでしょう。薬とは言え、口に入れるものは美味しくないとね。」
「いい心がけだぜ。」
 コングも、大胆にチョコに突っ込んだ指を舐めて頷いた。
「ここで液状のチョコレートに、薬品成分を投入するの。成分は、こっち。」
 と、カルメンが次の機械を指差した。それは、ドスドスと音を立てて何かを砕いている。
「ここでフランス産のハーブと、中国産の漢方薬を砕いて、チョコに混ぜ込むの。ハーブは大して高くないんだけど、鹿の角とか虎の睾丸とか、中国産の漢方がやたら高くてね。この段階で、ミラクルカカオは1粒10ドルを超えるわ。原価でよ。それに人件費とか宣伝費とか乗っかって、あの値段になってるってわけ。はい、これが成分表。見るだけよ、あげないわよ。」
「見せて。」
 そう言って、フェイスマンがハンニバルの手から成分表を取り上げた。
「ええと、虎に鹿に蟻の粉、それからあれとこれと……確かに、中国でよく媚薬に使われる成分だね。即効性がありそうだ。まあ効果は科学的には実証できないかもしれないけど、偽薬って言うほど偽物じゃないよ。」
「お前、何で媚薬に詳しいんだ?」
 ハンニバルが、怪訝な視線を向ける。
「いろいろあんだよ、色男にはさ。」
 フェイスマンが、さらりと追究を躱してローランに向き直った。
「ローラン、可哀想だけど、これ偽薬じゃないね。」
「そ、そんなあ。」
 ローランが、ヘナヘナと崩れ落ちた。
「わかったでしょう、そこの新聞記者さん。くれぐれも変な記事は書かないようにねっ。さあ次は、あなたの番よ、ローラン君。ミラクルカカオが効かなかったっていう子のところに案内してもらおうじゃないの。」
「……わかりました。」
 ローランが立ち上がった。ふらつくローランを支えつつ、Aチームとエンジェルたちが工場を後にしようとしたその時。



「あっ、あなたは、さっきの人!」
 右手のプールで何やら緑色の液体を掻き回していた小柄な青年が、エンジェルを見て叫んだ。
「あら、あなた、さっき廊下でぶつかった人ね。」
「大丈夫でしたか?」
「大丈夫って……転んだだけですもの、大丈夫よ。」
「そうじゃなくって、ミラクルフェロモンですよ!」
「ミラクル……フェロモン?」
「さっき、かかっちゃった薬です。あれ、今開発中の我が社の新製品で、ミラクルフェロモンって言うんです。」
「新製品?」
「ええ、この液体、人間の体温で温まると強力なフェロモンを発して、匂いを嗅いだ人を恋の虜にしてしまうんです。まだ試作品なので効力は弱いんですけど。だから何か変なこと起きなかったかなと思って。」
「何だって?」
「何ですって?」
 マイクとエンジェルがほぼ同時に叫んだ。
「じゃあ、僕がこの人に惚れたのは、フランク、君が作った新製品のせいだって言うのか?」
「何だ、マイク。君が引っかかったのか。瞬間的に恋に落ちたんだったら、多分そうだよ。それに君、いつもは、おしとやかなお嬢様タイプがいいって言ってたじゃないか。彼女はその……ちょっと違うようだし。」
「そんなはずはない! 彼女こそ、僕の理想の女性なんだ。」
 うろたえるマイク。エンジェルは、フランクとマイクのやり取りを呆気に取られて見ている。
「ええっと、あなた、さっき薬がかかったのって、どこだっけ?」
 フランクの問いかけに、エンジェルが自分の体を点検する。すると、ジャケットの裾にうっすらと緑色の染みを発見。
「上着だけみたいね。」
「じゃ、脱いでみてくれますか。」
「わかったわ。」
 エンジェルが、言われた通りジャケットを脱いだ。途端に、マイクの表情が沈んでいく。その落胆っぷりったら、傍で見ているハンニバルたちも可哀想になるくらい。
「……違う……。」
 がっくりと膝をつきながらマイクが言った。
「違うって、何がよ?」
 と、エンジェル。
「彼女……僕の運命の女性じゃ……ない……。」
「だから、最初からそう言ってるでしょっ! 本当にもう、男って!」
 エンジェルの怒声が工場に響き渡った。
 そして工場を立ち去る間際、ハンニバルが、さりげなくミラクルフェロモンの水槽に手を突っ込み、自分のズボンやシャツになすりつけたのを、目敏いフェイスマンは決して見逃さなかった。



 紺色のバンが街中をひた走っている。乗っているのは、Aチームの4人(+チャーリー)、エンジェル、ローラン、そしてカルメンの、7人と1体である。バンの中、かなりギュウギュウ。
「ジェニーの家は、そこの角を曲がってすぐです。」
 ハンドルを握るコングに、後席からローランが指示を出す。
「待って、その前にローラン、あなたのお店に行ってちょうだい。」
 おう、とハンドルを切りかけたコングをカルメンが制した。そして、助手席のハンニバルを見て、あら、と声を上げた。
「気がつかなかったけど、あなたいい男ね。」
「そりゃどうも。」
 と、ニカッと笑うハンニバル。面白くないのはフェイスマンである。さっき、ミラクルフェロモンをなすりつけるところを見てしまった故。
「何でローランの店に行くんでい。」
「時間を計りたいの。ローランは、店でジェニーを車に乗せて、すぐにミラクルカカオを食べさせたんでしょ?」
「ええ、店からジェニーの家まで30分はかかるので、ちょうどいいかと思って。」
「本当に30分だったのかどうかよ。車だと、思ったより早く着くってことだってあり得るもの。」
「確かに。」
 車は、ローランの店の前を通過した。
「はい、今が3時10分。」
 後席からマードックが言った。
「普通に運転してね。急がないで。」
「おう。」
 紺色のバンは、いつもより幾分安全運転で、ジェニーの家を目指す。角をいくつか曲がり、信号にも3回捕まって、しかしまあ、さしたる支障もなくジェニーの家の前に着いた。
「モンキー、今何時だ?」
「3時半。」
「えっ?」
 ローランが素っ頓狂な声を上げた。
「3時半? あんなにゆっくり走って、20分しか経ってねえぜ。お前の計り間違いじゃねえのか、この猿。なあハンニバル?」
 と、助手席のハンニバルを見たコングの顔が歪んだ。
「どうしたんでい、今日、やけに若々しく見えるぜ。」
「若々しいんじゃなくて、若いの。」
 ハンニバルは、笑顔でそう返すと、ローランを振り返った。
「ローラン、安全運転で走ったが、店からここまで20分だったぞ。君が時間を読み間違えたんじゃないのか?」
「そんなはずはありません。ジェニーを誘う前に、ちゃんと予行演習したんですから。あの時は30分以上かかったんです。」
「何かあったんじゃないのか、通行止めとか、車線規制とか。」
 ローランは、しばらく考えてから、あ、と声を上げた。
「……1箇所、工事中で遠回りさせられた道があったような気がします。」
 それでわかったわ、と、カルメンが言った。
「ミラクルカカオはちゃんと効いている。だけど、あまりに早く家に送り届けてしまったせいで、効果が現れる前にローランはジェニーの前から去ってしまった。」
「そんなあ。」
 カルメンの解説に、ローランは情けない声を出した。



 ジェニーの家は、古いアパートの一室だった。時代物の銀行の建物をイノベーションして、独身者用の賃貸マンションにした近頃流行の物件だ。
 ピンポーン。
 ドアホンを鳴らすと、軽やかな足音と共に扉が開き、麗しのジェニー登場。ストレートの金髪を腰まで垂らした美少女である。
「あら、ローラン、どうしたの?」
「やあ、ジェニー、ええと、あの……。」
「どうしたんだ、ジェニー?」
 ローランが次の言葉を探している間に、ジェニーの背後に1人の男性が現れた。男性雑誌のグラビアから抜け出たようなハンサムガイ……ではなく、頭髪に憂いが生じ始めたお年頃の、ごく普通の男性である。
「ヘクター、こちら、うちのお店の料理長のローラン。いつも家まで送ってくれてるのは彼よ。ローラン、こちら婚約者のヘクター。」
「始めまして、ローラン。いつもジェニーがお世話になってます。」
「あ、いや……ステキな人だね、ジェニー。」
「ありがとう。実は彼、お隣に住んでるのよ。」
「隣に?」
「そう。ちょうど仕事が終わって帰ってきた時間と、彼の帰り時間が合って、いつも顔合わせてるうちに、何だか、この人が運命の人かなー、なんて思うようになっちゃって、思い切って私から告白したの。」
「それもこれも、君のおかげだよ、ローラン。」
 と、ヘクター。
「君がジェニーを車で送ってくれていなかったら、僕とジェニーが会うこともなかっただろうからね。僕は今、本当に幸せなんだ。こんな冴えない男にジェニーみたいな美女が惚れてくれるなんて、まるで人生の奇跡さ。」
「あら、あなたはとっても魅力的よ、ヘクター。本当、魅力的なところが具体的には思いつかないくらい、強烈に、すっごくステキ。」
 ローランの後ろで、全員が「あちゃー」と顔を顰めた。
「ほら見なさい、効いてたじゃない、ミラクルカカオ。」
 カルメンが胸を張った。
「別の奴にだったけどね。」
 と、フェイスマン。
「ま、仕方ないでしょ、人生そういうこともあるさ。」
 ハンニバルが、葉巻を銜えてニカッと笑った。
 そのハンニバルに気づいたジェニー、驚いたようにハンニバルを見つめた後、つかつかと彼に歩み寄り、こう言った。
「あなた、ハンサムね。もしかして私の運命の人、ヘクターじゃなくてあなただったかも……。」
「オイオイ。」
 思わずジェニーにそう突っ込みを入れる全員であった。



 その夜のマネキン倉庫。コングはボクシングの練習に行き、マードックはチャーリーと共に家(病院)に戻っていった。アジトに残ったのは、ハンニバルとフェイスマン。
 ハンニバルはゴキゲンだった。それもそのはず、彼氏、あれから家に帰るまでの間に、4人の女性と2人の男性にナンパされたのだ。誰も彼も、そりゃもう情熱的に。1人の女性なぞ、住所と預金残高を教えてくれなかったらこのまま道路に飛び出して死んでやる、とまで仰っており、フェイスマンの口八丁がなければ、危うく警察呼ばれる事態。
「いやあ、あたしも捨てたもんじゃあないですねえ。」
 ルンルンなハンニバルに、フェイスマンは苦虫を噛み潰したような表情。
「ミラクルフェロモンのせいでしょ。もう、鬱陶しいから早く風呂に入って洗ってきてよ。」
「何の何の。まだ匂いは残ってますからね、まだ数日は楽しめますよ。」
「数日って、何日も風呂に入らないつもり?」
「シャワーは浴びますけどね、服を洗わないくらい、いいでしょ。ほらズボンは、あんまり汚れてないし。」
「この夏場に? ダメダメ、ちゃんと洗濯もするからねっ。」
 そう言いつつ、片隅にある浴槽(猫足・シャワーつき)に湯を溜める。
「あんまり気が乗りませんねえ。」
「ダーメっ。」
「……わかりましたよ。入ればいいんでしょ、入れば。」
 と、言いつつ、浴槽とは反対の方向に出て行こうとするハンニバル。
「どこ行くの?」
「ちょっとジョギングでも、と思ってね。お前もいつも言ってるじゃないか、最近運動不足だから、走った方がいいって。」
「そりゃそうだけどさ、何もそんな変なフェロモン振り撒いている時に走らなくても。」
「思い立ったが吉日ですよ。ほいじゃ、行ってきます。」
 イソイソと出かけようとするハンニバルに思案顔のフェイスマン。考えているうちに、ハンニバルは足取りも軽く遠ざかっていく。ジョギング→腹凹む→健康、ここまではOK。ミラクルフェロモン→女性が群がる→騒ぎになる、てことは、当局に嗅ぎつけられる。完全にノットOK。
「やっぱりダメっ。」
 フェイスマンは弾かれたように立ち上がると、そう叫んでハンニバルに駆け寄り、勢いよくハンニバルを浴槽へ突き落とした。
「げほっ、ぐふっ、何すんですか、あーた。」
「お尋ね者なんだから、自覚を持ってよね。じゃ、俺が代わりに女の子引っかけてくるから。見てろってんだ、天然のフェロモンってやつをさ。」
 そう言うとフェイスマンは、ハミングしながら部屋を出ていった。そのポケットに、ミラクルカカオを1個忍ばせていたことを、ハンニバルは知る由もなかった。
【おしまい】
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