サタデー・カウズ・フィーバー 〜あるいは、鯉のマイア火〜
鈴樹 瑞穂
 窓ガラスをノックし、清掃員に変装したフェイスマンが室内に入った時、マードックは取り込み中だった。
 いつもはフェイスマンが迎えに来た途端、嬉々として退役軍人病院の個室――精神科であるからして、独房に近い――から脱出するくせに、今日に限って振り向きもしない。一応、訪問に気づいてはいるのだろう。後ろ手に「あとにしろ」のサインがぴっぴっ、と振られる。
 一体何事かと、後ろから覗き込んだフェイスマンは、胡散臭いものを見た時の半眼になった。
 マードックが座っている前には、病室備えつけの小型テレビ。今時どこからこんなものを? と問いたくなるほどの旧式で、室内アンテナのついたチャンネル式だ。そのどことなく色褪せた画面には、のっぺりとした顔の東洋女性がアップで映っている。一見しただけでフェイスマンにもタイトルがわかってしまうほど、昨今、西海岸で流行っている日本ドラマだ。タイトルは『ニワトコ畑でつかまえて』。分類はソープドラマ、いわるゆ昼メロなのだが、なぜかこれが今、人々のハートを鷲掴みにしているらしい。
 かく言うフェイスマンも一度だけ見たことがある。もちろん、女の子と話を合わせるためだ。が、どうにも受けつけなかった。日本の農村で養鶏を営む若い夫婦の話で、ストーリー的には非常に起伏に乏しい、何ということもない話だ。そもそもニワトコって畑で作るモノだっけ? そんな一歩半ほどズレたネーミングと、どことなく貧乏臭い雰囲気が、フェイスマンの美意識とはかけ離れていた上、夫の決め台詞「庭には2羽、鶏がいる!」というのもいただけない。なぜだか毎回45分になるとその台詞が出てくるルールになっており、おかげで今年の流行語大賞になりそうな勢いだ。
 折しも夫が小脇に鶏を抱え、仁王立ちになってその台詞を言い放っているのを見て、フェイスマンはやれやれ、と息をついた。この分なら、もうすぐ、この回の放映が終わる。そうしたら、マードックを連れ出すことができるだろう。
 それにしても、マードックまで、このドラマにハマっているとは知らなかった。フェイスマンにしてみれば、「モンキー、お前もか!」と芝居がかった口調で言いたいところである。
 長年のつき合いで、マードックが何かに熱中している時は、横から何を言っても無駄であるとわかっている。
 ようやく流れ始めたエンドロールを横目に、フェイスマンはマードックの肩に手をかけた。
「おい、モンキー、仕事だぞ。」
「えっ。何?」
 振り向いたマードックの頭越しに向こうを見て、フェイスマンは唖然とした。画面にはこんな字幕が。
『夏休み特集、ニワトコ畑でつかまえて 一挙5話放映 第1話終了』
「おお〜っと、手が滑った!」
 ささっとマードックの前に回り、体でテレビを隠しながらスイッチを切るフェイスマン。
「どうかした?」
「え、いや、何でもないよ。はは、ははは。とにかく急ぎなんだ。すぐに出られるか?」
「そりゃまあ。」
 今一つ納得の行かない表情のマードックを急き立てるようにして、フェイスマンは病室を脱出した。
――それにしても、一挙5話放映って……連続5時間? 誰が見るんだ!
 密かに心の中で呟いてから振り返り、納得する。そういうことをやりそうな人物が現にここにいるではないか。そして世間のあちこちにも、むしろ沢山いそうな気がして、そこはかとなく恐かった。



 今回の依頼は、マードックのお気に召すであろうと、フェイスマンは予想していた。
 サンディエゴ市内の日本食レストラン経由で来た依頼で、仕入先の危機を救ってほしいというものである。
「『禅』っていうレストランから来た話なんだけど。日本食のさ。」
「『禅』! やる!」
 日本ドラマにハマっているだけあって、フェイスマンの予想通り、マードックの食いつきはよかった。
 因みに、レストラン『禅』はハンニバルの行きつけの店だ。最近、一段と腹周りの恰幅がよくなったハンニバルは、外食に当たっては専らヘルシーな日本食をチョイスしている。ライス好きなコングもそれに異存はないようだが、財政担当のフェイスマンとしてはやや頭が痛い。何しろ、日本食は他の料理と比べてちょっとばかりお高い。ヘルシーなせいか、量も皿数も進むから、家計にとってはかなりのダメージだ。
 大体、日本食がいくらヘルシーだと言っても、大トロ&アボカドマヨネーズ風味握りを一度に10貫も食べるのは、カロリーオーバーではなかろうか。
 そんなフェイスマンの密かな疑問も露知らず、ハンニバル(とコングとフェイスマン)は足繁く『禅』に通った。そして、すっかり親しくなった板前のサブロウが困っているのを見て、今回の依頼に至る。
 サブロウと日本食の危機とあって、ハンニバルとコングも一肌脱ぐ気になっていたし、フェイスマンとしては、彼が約束してくれた謝礼に大いに魅力を感じていた。
 それくらいしか僕にはできませんし、などとサブロウは恐る恐る申し出たものだが、それくらい、というのが素晴らしい。何と「1年分」だ! 日本食レストランで食べ放題1年分! 大食らい3人(ハンニバル、コング、マードック)を抱える身としては、どんなに家計が助かるだろう。そんなわけで、今回は珍しくフェイスマンも仕事に乗り気だった。
 そして、マードックもめでたく乗り気になったわけで、Aチームとサブロウは今、バンに乗って仕入先に向かっている。



「そこを右に曲がって……あとは直進です。もうすぐ着きます。」
 助手席に座って、ハンドルを握るコングにナビをしていたサブロウに、ハンニバルが今更な質問をした。
「ところで、その仕入先ってどんなところだ?」
 農場? 牧場? ひょっとして、養鶏場、だったりして……。マードックの期待が高まる。
「そうでした、肝心のそれをまだお話していませんでしたね。今向かっているのは、うちの仕入先の1つで、魚の養殖場です。」
「魚なら海じゃねえのか?」
 コングが無意味に眉間に皺を寄せ、確認した。現在、彼の運転するバンが走っている道は、海から離れて内陸方向に進んでいる。
「いえ。淡水魚です。鯉とか。」
「鯉か。洗いか鯉こくだな。」
 ハンニバルがうっとりと呟く。そろそろ腹の減る時間帯であった。
「竜田揚げやトマト煮もうちの定番メニューですよ。」
 サブロウは苦笑し、言葉を継いだ。
「でも、この時期は何と言っても鰻です。」
「鰻?」
 それはまだ食べたことがない。そもそもハンニバルたちの認識では、アレは食用魚に分類されていなかった。
 しかし、サブロウはきっぱりと言った。
「ええ、鰻です。もちろん味も美味しいんですが、何より、すごく滋養強壮にいいんです。日本では夏になると『サタデー・カウズ・デイ』というのがありまして、暑気払いに鰻を食べるんですよ。今年は来週末がその日に当たります。」
 因みにこのサブロウ青年、日本食レストランの板前であり、ルックスこそ純粋な日本人(ついでに角刈り)だが、実は日系3世のアメリカ育ちで、日本の土を踏んだことはない。育った家庭は日本スタイルで通しており、日本食にも日本の習慣にも通じているつもりではあるが、所詮祖父母から聞き齧った知識である。
「カウズ・デイなのにイール?」
 思わず確認してしまうフェイスマン。だが、マードックの嬉々とした声でそのささやかな疑問は遮られた。
「知ってる、知ってる! 夏に鰻丼食べるスペシャル・デイの話、『ニワトコ畑』でやってたぜ。」
「ご覧になりましたか。」
 サブロウはちょっと嬉しそうだった。
「今まではそんな習慣、アメリカの人たちは知らなかったでしょう? でも、あのドラマのおかげで、今年は大幅な客足増加が見込めそうです。」
「いいことじゃないか。」
 ハンニバルが葉巻に火を点ける。空腹を紛らわす作戦なのだろう。心は既に半分、鰻丼へと飛びかけている。
「いえ、それがそうでもないんです。客足増加を見越して養殖場に発注をかけようとしたんですが、出荷を増やすどころか、いつもの量も出せるかわからない、と。」
 Aチームの面々は顔を見合わせ(運転席のコングとはミラー越しだったが)、それから一同を代表してフェイスマンが質問した。
「一体、何でまた?」
「水が足りないんだそうです。」
 サブロウは悲愴な表情になって、ぐっと拳を握り締めた。
「詳しい事情は養殖場で聞いていただくとして、何とかこの危機を救って下さい。でないと、僕の店に来る前に、鰻たちがみんな死んでしまいます。」
 水が足りない?
 その時、反射的にハンニバルたちの脳裏に浮かんだ光景は、バケツリレーだった。
 果たして、鰻の危機を救えるのか、Aチーム?



 ほどなくして養殖場『サクライ』に到着したAチームは、依頼内容を聞いて胸を撫で下ろした。
『サクライ』のオーナー、サクライ氏は日系2世ながら、ラテンの香り漂うナイスミドルである。母がイタリア人であると聞いて、納得したフェイスマンだった。
 さて、肝心の依頼内容はと言うと。
 水が足りない原因は、近隣の畑や貯水池、そしてこの養殖場へと水を流している水路を不当に堰き止める不届き者がいるせいだと言う。
 このところの暑さ続きで、例年になく、近隣の畑も農場も水不足だ。それは皆平等に同じで、こんな時こそ譲り合い、支え合っていかねばいけないはずだ。が、この辺りでも、一番大規模な養鶏場を経営している華僑の大物、チャン氏の意見は違ったらしい。水が足りなくなりそうだと見るや、彼はさっさと、自分の養鶏場には潤沢に水が流れるように水路を堰き止めてしまった。
 この行動に対し、サクライ氏始め、ご近所の人々は抗議に行ったが、知らぬ存ぜぬで通され、全く取り合ってもらえなかった。
 堰き止められた水路を実力行使で元に戻そうともしたが、チャン氏の雇った屈強なガードマンが昼夜交代で張り込んでいるものだから、手に負えない。
 それなら、こちらも対応可能な人材を雇うしかない、と、サクライ氏がサブロウに相談し、Aチームが呼ばれたというわけだった。
「どうやらバケツリレー要員というわけではなさそうだな。」
 水が足りないという養殖池に案内されながら、ハンニバルが満足げに呟いた。3人の部下もホッとしたように頷く。
 バケツリレーを厭う気はほんの少し(当社比)しかないが、どちらかと言えば、悪者退治の方がAチームの依頼的には合っている。多分。
 だが、そんな一瞬の安心も、養殖池の惨状を見るまでのことだった。
「こりゃひでえ。」
 思わずコングが漏らした。
「コレ、池……だったんですよね?」
 フェイスマンが乾いた笑いを貼りつけたまま、サクライ氏に確認する。
「そうだがや。」
 憤然と頷くサクライ氏。
 眼前に広がっているのは、ところどころに水溜まりが残っている泥地だった。泥の間から黒いにょろにょろした物体――恐らくあれが鰻――の一部が見え隠れしている。
「うっひゃ〜、こんなんじゃ鰻ちゃんたち、もう死んでんじゃないの?」
 さすがのマードックも寝覚めが悪そうだ。
「まだ大丈夫だぎゃー。泥に湿り気があるうちは、鰻たちは何とか生き延びるぎゃ、泥が乾いちまったらおしまいだでよ。」
 サクライ氏、ラテン系なのは見た目だけかもしれない。
 しかし、泥地の端の方は確実に土が乾いてきており、鰻が危機的状況なのは確かだった。
「よし。」
 腕組みをして養殖池を見回したハンニバルが重々しく頷いた。
「水を流しに行くぞ!」



 チャン氏が水路を堰き止めているというポイントは、サクライ氏に教えられたので、すぐにわかった。おまけに、この暑い中、黒尽くめのガードマン2人が立ち塞がっているというわかりやすさである。
 ハンニバルの合図で、コングとマードックが、既に暑さ負けしかけていたガードマンを殴り倒した。その後ろで、フェイスマンがハンドルを操作して、小さな水門を開ける。
 ここから水路は分岐しており、片方がチャン氏の養鶏場へと続き、もう片方が下流へと流れる路だ。その下流へと続く水門を開けたため、ザーッという涼しげでゴージャスな音と共に、乾いた水路に水が流れ始めた。これまで堰き止められていたせいか、水量は予想よりかなり多い。
「これだけの水量があるんなら、堰き止める必要なかったんじゃない?」
 呆れ顔で呟くフェイスマンに、ハンニバルがとても悪い笑みを浮かべた。
「ま、そうかもしれんが。してもらったことのお返しはキッチリしないとな。」
 一見常識人っぽい台詞をさらりと言い放ち、ハンニバルはコングを振り返った。
「なあ、コング?」
 こういう時のハンニバルには、決して逆らってはいけない。
 コングは黙って進み出て、もう片方――チャン氏の養鶏場へと続く側の水門を閉め始めた。
 水門のハンドルは、金属の円形で、回して開け閉めするようになっている。水が流れている時に水門を閉めるのは、水圧が急にかかってくるため、それなりの力が必要だ。コングの太い腕に筋肉が盛り上がり、水門がゆっくりと下りていく。
 やがて水門が完全に閉まり、向こう側の水路の底が見えるようになっても、コングはハンドルを回す力を緩めなかった。それどころか、ますます渾身の力を込める。
「ふんっ。」
 気合と共に、バッキリとハンドルが取れた。心棒の軸ごと折れてしまっているから、復旧は相当に難しそうだ。そして、復旧しないことには、チャン氏の養鶏場へと続く水路には水が流れないのだった。
 ハンニバル的勘定では、これくらいのお返しは許容範囲内だ。
 罪のない鶏たちには気の毒だが、サクライ養殖場の鰻たちの受けた苦難を思えば、少しくらいは耐えてもらってもいいだろう。



 数時間後、ハンニバルを始めとするAチームの面々は、なみなみと水を湛えた養殖池を満足げに眺めていた。
 鰻たちの反応は今一つ微妙だが、少なくとも、底の方にわずかばかりの泥が残った水溜まりよりは、今の方が居心地はよいに違いない。
「それにしても……。」
 フェイスマンが半ば脱力したように呟いた。
「こんなにいたんだ、鰻。」
「おう。」
 コングも今回ばかりは少し驚いたようだ。
 泥溜まり状態ではチラチラと部分的にしか見えていなかったため、一体この池にどの程度の鰻がいるのか判別し難かったのだが、水が一杯に溜まった今、全容を現した鰻たちは、にょろにょろと気ままに池の中を泳ぎ回っていた。しかし、他の鰻とぶつからずに泳ぐのは相当に難しそうだ。それくらい、この小さな池の中には大量の鰻が、今や所狭しと犇いていた。
「それじゃ、さっきは泥の中に何層も折り重なって……。」
 とても恐い想像になってしまったので、フェイスマンはそれ以上考えるのをやめた。
 鰻の味は泥の味?
 その時。
「おーい、大変だぎゃー。」
「大変です!」
 母屋の方で仕入れの打ち合わせをしていたはずのサクライ氏とサブロウが走ってきた。
「何々、どうしたってーの?」
 マードックの問いに、息を切らせた2人は、代わる代わるに説明する。
「それが、水門を開けた人間をチャンが探してるだぎゃ。」
「先ほどから近隣を1軒ずつ回ってるようです。」
「何や知らん、水門を壊した奴がおるとかいう言いがかりまでつけてるそうだぎゃ。」
 ソレ、言いがかりじゃありませんから。
「とにかく、ここに来るのも時間の問題です。皆さんは一旦どこかに身を隠した方が。」
「そうだぎゃー。えりゃー人数で押しかけてくるでよ。」
 サクライ氏とサブロウの2人は心底心配そうな表情だったが、Aチームの面々は落ち着き払っていた。
「ここは任せてくれ。」
 胸を張るリーダー、ハンニバル。コングとマードックも力強く頷く。
「ハイ、大丈夫だから。危ないから下がってて。」
 フェイスマンがまだ不安げな2人を、後ろの方に引っ張っていく。
 それとほぼ同時に、チャン氏の一行が養殖池に乗り込んできた。



 チャン氏は華僑と聞いていた通り、中国系の小柄な男だった。チャイナ服に黒い丸眼鏡というお約束の格好である。周りを取り巻くその部下たちも一見してアジア系だったが、こちらは屈強な体格揃いで、黒いスーツに身を包んでいる。
 黒スーツの1人が、徐に内ポケットから手帳を取り出し、ハンニバルたちの方を見ながら読み上げた。
「4人組で、1人はモヒカンの黒人、1人は葉巻を吸っていて、1人は野球帽、残る1人は弱そうな男、と。間違いありません、ボス。」
「ちょっと待ってよ。」
 恐らく水門のガードマンをしていた部下から聞き出したであろう人相書きを聞いて、フェイスマンは抗議したい気持ちで一杯だった。だが、もちろん、チャン一味はフェイスマンの抗議などには耳を貸さない。
「ようやく見つけたぞ。」
 進み出たチャン氏は、咳払いを1つして宣言した。
「器物破損に営業妨害、この落とし前、キッチリつけてもらおうか。」
「その台詞、そっくりお返ししますよ。」
 宣言し返すハンニバル。少なくとも、チャン一味側は、器物破損はしていないのだが、まあ、そこはそれ。
 一触即発で睨み合うチャン一味とAチーム。はらはらとそれを後ろから見守るサクライ氏とサブロウ。養殖池には大量の鰻たち。その隣の池にはこれまた大量の鯉がいたりもするのだが、この際、それは省くとしよう。
 ここまで来たら、お互いに後には退けない。
 堪えきれなくなったチャンの部下の1人が、1歩出る。それを合図に、乱闘が始まった。



 懐に手を入れる黒スーツ。その腕を掴むコング。そのままぶんぶんと回して投げる。
 マードックは、別の黒スーツが取り出し、ぶんぶんと回したヌンチャクをしゃがんで避ける。
「うっひょ〜。」
 奇声を上げながら、マードックは相手の足にタックルをかまし、ヒットアンドアウェイでちょこまかと逃げまくる。その動きに翻弄されて熱くなった黒スーツの振り回すヌンチャクが仲間の頭にヒットする。
「飛び道具なんて反則だよー。」
 ヌンチャクは飛び道具ではないと思われるが、フェイスマンはそうぶつくさ言いつつも、相手の背後に回ってヌンチャクを避けながら、足払いをかける。
 一方、ハンニバルはチャンと対峙していた。チャン氏は拳法らしき構えで隙がない。ハンニバルも腰を落とし、互いにじりじりと相手の間合いを窺っている。後ずさりしかけたチャン氏が尻餅をつく。と、見せかけて、土を握り、ハンニバルに投げつける。ハンニバルは咄嗟に顔を庇い、目に土が入るのを避けたが、そこへチャン氏の蹴りが来る。ウェイトは軽そうだが、スピードが乗っているので、なかなかの威力だ。ハンニバルは危うく池に落ちるところだったが、何とか踏み留まった。さらにチャン氏が畳みかけるように伸しかかり、首を絞めようとする。
 すると、その時、池の水面で何かが跳ねた。鰻だ!
 跳ね上がった鰻は宿敵チャン氏に捨て身のタックルをかまし、再び水中へと姿を消した。生臭い攻撃に思わず怯むチャン氏。その隙に、ハンニバルが相手の襟首を掴んで吊り上げる。そして、鮮やかな右ストレートが炸裂した。鰻とハンニバルのタッグの鮮やかな勝利である。
 その頃には粗方、コングたちも黒スーツたちを倒し終えていた。



 ハンニバルに説教されたチャン氏は、項垂れながらも、こう説明した。
 人気ドラマ『ニワトコ畑でつかまえて』を見て、商魂逞しいチャン氏は閃いた。
「そうだ、観光養鶏場にしよう!」
 経営者のチャン氏を始め、養鶏場で働いているのは、全員中国系だった。ドラマと同じ日本人でこそないが、そこはアジア系。そこはかとなくドラマ情緒を醸し出すのには十分と言えよう。
 この目論見が当たり、チャン氏の観光養鶏場は盛況だった。だが、この書き入れ時が今年限りであることも、チャン氏はよくよく理解していた。つまり、この夏のうちに稼げるだけ稼ぎまくらなくては! と強く心に誓ったのである。
 その勝負時に水不足となっては、計画が狂ってしまう。観光養鶏場の鶏たちが水浴びもできずに薄汚れ、飲み水もなくぐったりとしているなんて、大幅なイメージダウンだ。
 そこで、仕方なく、水路を堰き止めたのだと、チャン氏は語った。
 身振り手振りを交えた熱の入った演説は、20分に及んだ。
 それをまともに聞いていたのはサクライ氏とサブロウ、そしてフェイスマンとコングまで。マードックは話の途中で座ったまま居眠りを始め、ハンニバルは手持ち無沙汰なあまり、2本目の葉巻に火を点けた。
「そうだっただがや。そりゃーチャンさんとこも大変だがや。」
「わかってもらえるか。」
「うんうん、わかるよ! 商売ってのは稼ぎ時を逃すわけに行かないからね。商売にはイメージが大事だってのもよ〜くわかる。」
 因みに、フェイスマンの言う「商売」は詐欺稼業のことだったりするのだが、まあ一般的な商売と置き換えても意味として誤ってはいないだろう。
 図らずもチャン氏と意気投合したフェイスマンは、情状酌量の余地をリーダーに上申しようと振り返り、そして、あんぐりと口を開けた。
 いつの間にかハンニバルはベンチに座っており、退屈のあまり、舟を漕ぎ出していたのだ。しかも、手にした葉巻から灰が落ちて、ぷすぷすと服から煙が上がっている。道理で繊維の焦げる嫌な匂いがしたはずだ。
「ねえ、ちょっと、起きてよ、ハンニバル! やばいよ。」
 慌てるフェイスマンの声が聞こえているのかいないのか、ハンニバルは気持ちよく夢の住人と化している。一暴れした後の一服で、よほど寛いだ気分になったらしい。
 そうしている間にも服の焦げ穴は見る見る広がり、遂には炎がチロチロと上がり始めた。
「わーっ、早く消さなきゃ! サクライさん、水! バケツないのっ。」
 バタバタとフェイスマンが手足を振り回すと、サクライ氏は途方に暮れたように池の反対側を指差した。
「あそこにあるだぎゃー。」
「取ってくるぜ。」
 すかさずコングが駆け出す。
 だが、バケツを待っていたら、きっと間に合わない。少なくとも、ハンニバルはかなりの火傷を負ってしまうだろう。
 フェイスマンは一瞬、逡巡した。
 バケツはない。そして、目の前には大量の水。いよいよ本格的に燃えようとしているハンニバルのシャツ。
「えーい、背に腹は替えられない。ごめん、ハンニバル!」
 フェイスマンは一応謝りを入れながらも、この期に及んで寝こけているハンニバルを引き摺り立たせ、鰻で一杯の養殖池に突き落とした――



 見事に晴れ渡った空に、鶏たちの優しい鳴き声が響く。そして、漂うのは、香ばしい、鰻を焼く匂い。
 サタデー・カウズ・デイを迎え、チャン氏の観光養鶏場は大勢の客で混み合っていた。
 あの後、フェイスマンが商魂を働かせ、観光養鶏場に鰻丼を出す屋台を提案し、それがまた大当たりしたのだ。もちろん、鰻の仕入先はサクライ養殖場で、調理担当はサブロウである。
 殊に今日は「鰻丼を食べると暑気当たりを防ぐ」という言い伝えもほどよく流布し、朝から客の入りがよい。
 マネージャーとして利益の一部をちゃっかり懐に入れることに成功し、フェイスマンの機嫌も順調に上昇中だ。
「はーい、順番ですからねー。ちゃんと並んで下さい。大丈夫、数は十分に用意していますから! その代わり、お1人様1点限りですよー。」
 今日の混雑を予想して、急遽、助っ人として呼び寄せたエンジェルの売り子振りも、さすがに手慣れたものだ。
「この分ならエンジェルにバイト代を払っても、十分黒字になるな。」
 目算で客を数えるフェイスマンの向かい側では、簡易テーブルについたコングとマードックが嬉しそうに鰻丼を掻き込んでいる。
「うん、この鰻丼ってやつぁ、ホントーに美味いな。」
「ああ、特にタレの絡んだライスが絶品だ。」
 珍しく意見の一致を見るマードックとコング。
 それを見たフェイスマンは、ふと、隣に座るハンニバルに視線を向けた。
「あれ、ハンニバル、鰻丼食べないの? 奮発して竹にしたのにさ。」
 ハンニバルの前には、手つかずの鰻丼が、ほかほかと湯気を立てている。
「鰻……。」
 ぼそぼそと呟いたハンニバルは、ぶるぶると首を横に振った。
「食う気になるか! フェイス、お前さんも一度鰻だらけの池に突き落としてやろうか。シャツの中までにょろにょろと潜り込んできたんだぞ。」
 恨みがましい視線を向けられ、フェイスマンは慌てて両手を横に振った。
「いや、遠慮しとくよ。て言うか、あの時はああしないと、今頃大火傷だったよ、ハンニバル。」
 当面、養殖池はおろか、普通の池や川にも近づかないようにしようと、フェイスマンは心に誓った。



 これは後日談になるが、サンディエゴ市内のアパート(この夏のアジト)に戻ったAチームの許に、サブロウからどでかい小包が届いた。
 中から出てきたのはチョコレート1年分。
「先日は本当にお世話になりました。お約束通り、謝礼として、僕が先日福引で当てたチョコレート『1年分』をお送りします。」
 添えられていた手紙をマードックが読み上げる。それを聞いて、フェイスマンは体中から力が抜けそうになった。
「1年分って……チョコレート1年分?」
「初めからそう言ってただろうが。」
 不審そうにコングが言う。
 聞いてないよ! と、フェイスマンは叫びたかった。だが、今回は鰻の屋台で臨時収入があったことだし、よしとしよう、と開き直ることにした。
「それにしても、どうすんだよ、これ。」
「チョコフォンデュー!」
 マードックが元気よく手を挙げる。
 当面、おやつには苦労することがなさそうな、夏の昼下がりだった。
【おしまい】
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