熱湯! ミルク風呂に肩まで浸かれ! の巻
フル川 四万
*1*


 フェイスマンは戦っていた。
 ここは、パームスプリングスの目抜き通りにある新しいホテルのボール・ルーム。ホテルのオープンを記念した地元の実業家主宰のパーティ会場である。政治家や経済界の大物、スポーツ選手、ソープ・オペラの人気俳優やモデルたちで賑わうフロアでは、生バンドが軽やかにガーシュインを奏で、着飾った男女が、ダンスに、お喋りにと華やかな時間を過ごしている。その中にあって、踊りもしない、喋りもしないで立ち尽くす人影1つ。テンプルトン・ペック氏その人である。
 このパーティに彼が潜入した目的はただ1つ。『オイシイ話、もしくはカモを探す』である。景気のいい話の少ない昨今、新しいホテルのオープン記念パーティというのは、不況を生き残ったセレブたちとお近づきになる貴重な場であり、そういう場所には、女房(いないけど)を質に入れても駆けつけるのが信条のフェイスマン。今回も、気鋭のCMディレクターになりすまし、このパーティに潜入中であった。そして、ほんの10分前、激しくタイプ(美女、金持ちそう、騙しやすそう)の金髪女性を発見し、お近づきになろうと第一歩を踏み出した主な瞬間――奴が襲ってきたのだ。
 フェイスマンは、震える手で胸ポケットからハンカチーフを引っ張り出し、額の汗を拭いた。お目当ての彼女には、実業家らしい脂ぎった中年男が近づき、強引に話しかけている。彼女が、嫌そうに眉を寄せ、チラリとフェイスマンを見た。その目は、「このつまんない状況からアタシを助け出して、ダーリン」と言っているように思えた。しかしフェイスマンは、彼女の元に駆けつけることができない。なぜなら、彼は今、戦っているからだ――腹痛という名の悪魔と。
 いや、己と、と言い換えてもよかろう。胃の不快感で始まった症状は、最早腹部全体にまで及び、キリキリと差し込む痛みが緩急をつけて襲いかかる。かと言って、バスルームに駆け込むような下腹部の痛みではなく、何と言うかこう、内臓が、主に胃が捩れるような……。
「待っててねベイビー、今、助けに、行く……からね……。」
 蚊の鳴くような声でそう呟いたフェイスマンの眉毛は、普段以上の八の字眉、顔色は果てしなくブルーグレーに近く……。
 金髪の彼女が、フェイスマンの異変に気づいた。中年男の手を振り払い、彼の方につかつかと歩み寄って来る。
「……やぁ、お嬢さん、始めまして……僕はCMディレクターの……。」
「ちょっとアナタ、大丈夫なの? すごい顔色よ!?」
 フェイスマンの渾身の挨拶に被せるように彼女が言った。
「いやあ、こんなの、大したこと、な……い……と、お、も……。」
 フェイスマンは、そこまで言うと、腹を押さえて蹲り、そのまま崩れ落ちるように倒れ伏し、気を失った。



*2*


 気がついたのは、ホテルの一室。タキシードを脱がされ、カマーベルトを外され、ズボンまで脱がされた姿で、ベッドに横たわっている。靴は履いたまま。腹の上には、バスタオルがかけられており、ベッドサイドには水差しとコップ、そして。
「気がついた?」
 不意に声をかけられ、フェイスマンはビクリと声のする方を見た。するとそこには、湯気の上がったカップを差し出しながら、にこやかに微笑む1人の金髪美女。……なぜか白衣姿である。
「よかったわ、急に倒れるんですもの、びっくりしちゃった。はい、これ飲んで。」
 フェイスマンは、言われるままに差し出されたカップを受け取り、口に運んだ。
「よく効くのよ、センブリ茶。」
「ぐふぅう!」
 あまりの苦さに咽そうになるのを必死で堪えてセンブリの煮出し汁を無理矢理飲み込むと、フェイスマンは彼女に目一杯の男前スマイルで応えた。
「ありがとう。ところで俺、どうしちゃったのかな。パーティで君に話しかけたのまでは覚えてるんだけど。」
 シャツの裾を引っ張って丸出しのトランクスを隠しながらフェイスマンがそう言うと、彼女は怪訝な顔で彼を見た。
「声をかけられた覚えはないけど……あなた、お爺ちゃんみたいにヨタヨタとこっちに寄ってきて、急にバターンと倒れたんだもの。びっくりして部屋に運んでもらって診察してみたら、急性胃炎だったわ。とりあえずの処置はしたから、もう少ししたら帰っていいわよ。」
「胃炎? ああ、道理で最近、胃がキリキリ痛むと思ってたんだ。ここんとこパーティ続きだったから胃もたれと、あとはストレスのせいかと思っていたよ。」
 クリスマス休暇(?)でマードックも病院から出てきているし、年末の支払いも立て込んでいるしで、何かとストレスフルな日常を送るフェイスマンである。
「そう、ストレスもあるかもしれないけど、言っちゃ悪いけどあなた相当な胃弱だから、根本的治療が必要だと思うわ。私のクリニックに来たら、ちゃんと治療してあげられるんだけど。……ごめんなさいね、今は開店休業状態なの。」
「クリニックって、君、もしかして、女医さん?」
「そう言えば、まだ名乗ってなかったわね。私はヨアン・フレデリック。スカユ温泉診療所の院長で内科医よ。」
 そう言うと、美人医師は名刺を差し出した。
「スカユ温泉?」
「ええ、サンタロサ山にある温泉なんだけど、入ってよし飲んでよしの、すごくいい硫黄泉なの。そこのホテルに隣接してる消化器科の病院が、私んとこ。」
 女医ヨアンは、そう言うと、フェイスマンのベッドに腰を下ろした。
「来てみたい?」
「う、うん、もちろん。もちろん行きたいさ。温泉も入りたいし、君に治療もしてほしいし。」
 そりゃあ金髪美人の女医に『温泉に行きましょう』と誘われて断る彼氏ではない。
「いいわよ、じゃ、来て。今ちょっと問題があって、道が険しいけど。」
「問題?」
「ええ、アルベルト・スカージの嫌がらせに遭ってて、お客が来ない状態なのよね。」
「スカージ?」
「知らないの? さっきのパーティで私が話してた、いけ好かない奴。」
「ああ、あのおっさん。」
「あいつが経営するホテルが、うちの温泉のすぐ傍にできて、ちょっと困った状態なのよ。その他にもいろいろあって、今日、その辺を奴に直談判しようと思ってこのパーティに来たんだけど、交渉に入る前に、あなたが目の前で倒れちゃったんで、話はそこでおしまい。また出直しだわ。」
「……そりゃ悪かったね。僕にできることなら協力するよ。幸い、揉め事には結構強いし。」
「あなたが!? そんなに胃弱なあなたが!?」
 驚きすぎだろう、先生。
「俺がって言うか……友達が。」
「友達ね、ならいいわ。とりあえずうちの温泉に来なさいよ。胃弱は治してあげるから。来れるもんならだけどね。」
 美人女医ヨアンは、そう言うと自虐的に笑った。



*3*


 分け入っても分け入っても青い山――て言うかジャングル。頭上3m以上に伸びた木々が鬱蒼と茂って陽の光を遮っているせいで、真昼だというのに森は薄暗い。ベトナムのジャングルでさえこうも険しくはなかった、という細い獣道を1列で歩きながら、Aチームの4人は疲れていた。もう2時間以上、こんな道を歩き続けている。因みに、こんな強行軍になると思っていなかった4人の服装は、至って普段着(ハンニバル=チノパンとチェックシャツとジャンパー、フェイスマン=白のスーツに青シャツ。マードック=黄色の猿柄のツナギ、コング=軍パンにタンクトップとMA-1)である。
「うべっ! フェイス、本当にこの道で合っているんだろうな?」
 先頭を歩くハンニバルがフェイスマンを振り返ってそう言った。因みに、最初の「うべっ!」は、撓った木の枝に顔を叩かれた御大の怒りの叫びである。
「道はわかんないけど、地図で言うとこの方向で間違ってないと思う。ねえ、モンキー、合ってるよね?」
 フェイスマンは、ヨアンから渡された地図を、うっすらと差し込む陽に翳した。その地図に道はなく、ただ山の図面に赤マジックで1本ぐにゃぐにゃした線が引いてあるだけである。
「それがさあ、さっきから磁石がぐるぐる回っちゃって、どっちが北かよくわかんないんだよね。」
 マードックがそう言って磁石を見せた。確かに、針がぐるぐると回っている。
「何で磁石が狂うんだ、コンチクショウ。」
「溶岩なんじゃないか、この下。」
 富士の樹海と同じ原理で磁石が狂っているわけで。
「とにかく、この山1つ越えればスカユ温泉のはずだから、ハンニバル、そのまま、真っ直ぐ行っちゃって。」
「そうだな、急がないと日暮れまでに温泉に着けないからな、ペースを上げて……うおおおっ!」
 ハンニバルが急に叫んで立ち止まった。止まりきれずにハンニバルの背中に鼻をぶつけたフェイスマンが、いでっと声を上げた。
「何で急に止まるんだよ、ハンニバル。」
「ない。」
「ない?」
「道が、ない。」
「道がねえだと?」
「ないってどゆこと?」
 そう言ってハンニバルの肩越しに前を覗いた3人が見たものは、見事なまでの断崖絶壁。あまつさえ、地盤が緩いらしく、ハンニバルの足元から、崩れた岩がパラパラと谷底に落ちていっている。
「フェイス、本っ当に道、これでいいんだろうな?」
 片頬を引きつらせながらハンニバルが問うた。
「ええと、ちょっと待って。あ、これだ。」
 フェイスマンが、大雑把な地図の1点を指差す。
「ここにあるギザギザの2本線の間が“谷”だったんだね。初めて知ったよ。てことは、ヨアンが書いてくれたラインは、こっからこう、右に折れて谷を渡ってるから……あ、あれだ。」
 フェイスマンは、右側の1点を指差した。



*4*


「あれか!」
 コングが叫んだ。
「ちょっと待て、アレに乗っていくの? あれって、材木運搬用のゴンドラでしょ?」
 確かに、そこにあるのは、1枚の板の四隅をロープで吊り下げて、そのまま滑車のついたワイヤーを滑らせるタイプのゴンドラ。しかも手動である。
「だって、ここまで来たらもう乗るしかないじゃん。後ろで何か唸ってる気もするし。」
「唸ってるだと?」
 フェイスマンの言葉に、聞き耳を立てる3人。確かに、今来た道の後ろから、何かしら獣のような唸り声がする。そう言えば、この辺り、まだオオカミが出るとか出ないとか……。
「どっかの獣にエサだと思われてるんじゃねえか。サルの格好した馬鹿もいるし。」
「とにかく乗り込め!」
 食われる前に乗れ、とのハンニバルの号令一下、素早くゴンドラに乗り込むAチームである。



「クーリスマスだ、サンタを捕まえろ〜、ほら追っかけろ、そら捕まえろ、さあ、ふん縛れっ! やーつらの袋にゃ、お宝が。」
「うるせえ、人が真剣に漕いでる時に阿呆な歌を歌うな!」
 マードックの素っ頓狂な歌をバックに、手摺りもない板1枚のゴンドラにしがみついた男3人と、その中心で1人立ち上がってロープを引っ張ってゴンドラを“漕ぎ”続けるコング、ユラユラギシギシと心許ない乗り物に乗って、向こう岸を目指す。10分もそうして漕いでいると、ゴンドラは向こう岸にガツンとぶつかって止まった。荷降ろし場であろう10畳ほどのスペースに4人して這い上がる。



「はぁはぁ、け、結構疲れたぜ。フェイス、これからどう進むんだ? 真っ直ぐ行くと、材木を下ろす太い道があるようだが……。」
「いや、左。」
 最早くしゃくしゃになったヨアンの地図を見ていたフェイスマンが、そう言って左側を指差した。そう言われても、少し広くなった荷降ろし場の左右は、更に20mほど切り立った崖が続いているだけである。
「左って、ただの崖じゃないですか。今度はここを登れとでも言うのか?」
「いや、道あることになってるよ、そこ。モンキー、よく見て。」
 心に傷を作りたくないのか、あえて自分では見ようとしないフェイスマンは、顔を逸らしたままマードックに指示。
「……あー。あるねえ道。って言うか、足場? 溝? 段差?」
「道だと!? あの幅20cmくらいの段差が道だと!?」
「……道と言うなら、道なんだろう。」
 ハンニバルが、達観しきった表情で呟いた。
「とにかく、道がそこにあるなら行かねばならん。俺はもう腰も足も限界だ。一刻も早く熱い温泉に浸かりたい。さ、行くぞ。フェイス、お前が先頭だ。」
「えっ、何で俺が?」
「(オンナに目が眩んでこんなところに連れてきた)罰だ。」



*5*

 罰とまで言われてしまっては反論のしようもなく、フェイスマンは、崖に背中を着け、足の大きさより細い、正確には22.5cmの道の上を、そろそろと歩き始めた。続いて、ハンニバル、マードック、コングと続く。
 足元から谷風が吹き抜ける度に、体が揺れて落ちそうになる。それを防ぐために、4人は、しっかりと手を繋いで列になって歩を進めている。男4人、手を取り合うのはかなり気持ちが悪いし、それ以上に、その方法だと1人落ちたら全員巻き添えで、あんまり結果よろしくないのだが、そんなことには既に気の回らない4人である。
 崖下の高さはは50m以上。谷底には、結構な急流が流れ、その所々から湯気が上がっているところを見ると、なるほど温泉地なのだなと思える。4人は、見るなと思っても、つい目が行ってしまうそれらの光景を見ながら、慎重に、一歩一歩前進していく。その間も、マードックの着ぐるみシッポは、恐怖のあまり前に回ったっきりである。



 30分もそうして崖に張りついて進んでいると、川の上流に人工物(フェンス)が。
「ねえ、あれ見て!」
 フェイスマンがそう叫んで谷底を指差した。彼の指し示す先には、川を挟んだ両側に湯気の上がったいくつものどでかいプール。それらは、川の水を取り込んで循環しているようで、サイズによってブルーグリーンから乳白色へのグラデーションに輝いている。そのプールの奥に建つ白亜の豪華なビルは、スイス式のモダンな建物。その上、プールサイドにはなぜか椰子の木が配され、等間隔に並べられたデッキチェアでは、人々が思い思いに寛いでいる。……山間に突如現れた、かなり豪華なリゾート施設である。
「もしかして、あれがスカユ温泉!?」
「随分豪華な温泉じゃねえか。」
「てことは、あの建物がヨアンの病院かな。」
「この山奥によく作ったな、あれを。よし、先を急ごう、温泉に入るぞ!」
「ちょっと待って!」
 イソイソと先を急ぐ3人を、突如制するマードック。
「ハンニバル、アレ見て。」
「ん? あれってどこだ。」
「ビルの、先の方……あれって駐車場……じゃない? クルマ並んでる……。」
「駐車場!?」
「駐車場だと!?」
「だって!?」
 唖然とする4人。
「てことは、ここまで車で来れたってことか! フェイス!」
 コングが叫んだ。
「しょうがないじゃん、ヨアンがくれた地図にはこの道しか書いてなかったんだから!」
「仕方あるまい。ここから飛び下りるわけにも行かん。俺たちはこのルートを進むしかあるまい。おい、先を急ぐぞ。早く着いてあの温泉に入ろう。」
「おう。」
 4人は、またもやソロソロと横移動を開始した。



 更に10分後。崖っぷちのルートはやっと終わりを告げ、道はまたジャングルへと突入していた。出発から既に4時間余り。日は暮れかけており、軽いハイキング程度の心構えで携帯食も持っていない4人の腹の虫も情けない声を上げつつあった。
「まだ着かんのか。迂回にもほどがあるぞ。」
「さっき見たリゾート施設より、かなり上の方に来てるぜ。フェイス、道は本当にこれで合ってんのか?」
「オイラもう、お腹減ったよー。」
「もうそろそろ着くはずなんだけど……あ、看板あった!」
 フェイスマンが木の立て看板を見つけ、走り寄った。
『スカユ温泉 この上30分』
「この上?」
「上、ってことは、さっきの温泉とは逆じゃないのか?」
「一旦上に上がって、それから下るのかもよ。またゴンドラか何かでザザーッと。」
「あり得るな。」
「とにかく行こう。あと30分てことは、俺たちの鍛えた足腰なら、あと15分ってところだろう。」
 最後の力を振り絞り、ずんずん歩き出す4人であった。



*6*


 きっちり45分後、急に開けたジャングルの先に、4人は立ち尽くしていた。
 目の前に広がっているのは、乱暴に切り拓かれ、土が剥き出した200坪ほどの小さな土地。全体的に温泉の湯気が白く立ち込めており、掘りっ放しの池(多分温泉)は、ボコボコと白い泡と煙を生み出している。温泉独特の匂いが充満した空気は、暖かいを通り越して熱いくらいだ。湯気の向こうには、小さな掘っ立て小屋が1つ。この時点で客らしき人影は皆無である。どう見てもリゾートではない。“温泉地”と言うのも怪しいかも、という見事な殺風景である。
 ふと見ると、入口には、45分前に見たのと同じ字体の小さな看板が。
『スカユ温泉 源泉とスパルタ式整体で、日頃の不摂生を叩き直します。胃弱、運動不足、意志薄弱によく効く。ただし有料。』
「不摂生を?」
「叩き直して。」
「意志薄弱を何だって?」
「……何だか雲行きが怪しいぜ。」
「さっきの豪華な温泉は、スカユ温泉じゃなかったってこと?」
「フェイス、本当にここがスカユ温泉か。」
「うん、地図ではそうなってる。とりあえず、依頼主のヨアンを探しに行こう。」
 フェイスマンは、そう言って1人歩み出したが、2mほど進んだ後、ついてこない3人に気づき、くるりと振り返った。
「先に言っておくね、えーと、期待外れなとこに連れてきて、本当にごめん。」
 そう言うフェイスに、冷たい視線を送りつつ、のろのろと歩き出す3人であった。



*7*


 スカユ温泉に併設された宿泊施設兼スパルタ式整体ルーム兼診療所の食堂で、Aチームの4人は、女医ヨアン・フレデリックおよび1人の青年と向かい合っていた。
「胃弱な人、よく来たわね。」
 開口一番、ヨアンが言った。
「えーと、俺まだ名前言ってなかったっけ。」
「聞いてたと思うけど、忘れたわ。」
「ペック。テンプルトン・ペック。君は?」
 フェイスマンは、ヨアンの横にちんまり座る小柄な青年に声をかけた。
「ハイコといいます。この温泉のオーナーで、スパルタ式整体師です。」
 黒髪で小柄な青年は、そう言うと、はにかんだ笑顔を見せた。スパルタ式という言葉に、一抹の不安を覚える4人。
「私はスミスだ。はじめまして、ヨアン、ハイコ。」
「ああ、あなたは胃が丈夫そうね。でもちょっと太りすぎ。それから、そっちの2人も胃は大丈夫そうだけど、あなたは頭髪に来てる。そっちのアナタは、腰が悪いんじゃない? ……しかし4人もいて、胃弱なのは1人だけなのね。」
 ハンニバルの挨拶に被せてそう言うと、ヨアンは小声で、つまんない、とつけ加えた。その台詞を聞かなかったことにして、ハンニバルはヨアンに語りかけた。
「何でも、困ったことがあるとか。うちのフェイスが世話になったようだから、俺たちにできることなら力になろう。」
 ハンニバルがそう言うと、ヨアンは、ふう、と溜息をついた。
「ここまでの道、大変だったでしょう。」
「ホント、滅茶苦茶キツかったぜ。オオカミには喰われそうになるしさ。」
「さっき、ちょっと下で豪華な温泉があったぜ。あそこまで道路が通ってるなら、そこまで車で来れたんじゃなねえのか?」
「……それなのよ。この春までは、麓からここまで繋がる車道があったんだけど、その車道の権利をスカージの奴が買い取って、しかも道路の真上にあの温泉施設を作ったものだから、スカユ温泉に繋がる道路がなくなっちゃったのよ。それで、最短距離で来てもらうと、あのルートになるってわけ。」
「最短距離があの道か。厳しいな。」
「ええ。さすがに、あの道ではお客は来にくいみたいね。」
 そりゃそうだろう。ジャングル+オオカミ+断崖絶壁と来れば、温泉治療と言うより、最早冒険だ。
「それで、どうすればいいんだ? そのスカージって野郎を締め上げて、道路の権利を買い戻せばいいのか?」
「買い戻すお金なんかないわ。」
「じゃ、何か法に触れるようなことは? 突っ込みどころと言うか、攻めどころと言うか。」
「ないと思う。嫌な奴だけど、悪人じゃないから。ちょっと強引なだけで、真っ当な実業家よ。私に、スカユを辞めてあっちの温泉で開業しろってしつこく言ってくるけど、それは私が断ればいいだけの話。こないだのパーティで断るはずが、胃弱な誰かさんのせいでまだ断れてないけどね。」
「じゃ、どうしてほしいんだい? 俺たちにできることって。」
 そう言うと、ヨアンは、何言ってるの、という顔でフェイスマンを見た。
「宣伝よ、宣伝。あの強行軍を乗り切ってでもスカユ温泉に来たい! と思わせる宣伝を打ってほしいの。だってあなた、CMディレクターなんでしょ?」
「CMディレクター?」
 今度はハンニバルが怪訝な顔になる。そう言えば、そんな風に名乗ってたな、フェイスマン。
「え? あ、ああ〜、そう、俺、CMディレクター。わかったよ、じゃ、考えるよ、宣伝。」
 調子よく話を合わせるフェイスマンに、冷たい視線を送る3人。
「そうと決まれば話が早いわ。早速うちの温泉と、ハイコのスパルタ式整体を経験してちょうだい!」
 ヨアンは、そう言うと勢いよく立ち上がった。



*8*


 10分後。水着(ハンニバル=デカパン、フェイスマン=キャンディーピンクのビキニパンツ、マードック=茶色のビキニパンツ猿のシッポつき、コング=黒のショートスパッツ)に着替えさせられ、ブクブク沸き立つミルク色の温泉の前に整列させられた4人。白衣姿のヨアンが、なぜか手に乗馬用の鞭を持ち、4人に対峙している。
「まず、ここのメインであるスカユ温泉に入っていただきます。成分は、酸性硫黄泉(緊張低張性温泉)。ここは源泉かけ流し、て言うか源泉そのものだから、沸いちゃってる場所に入ると熱いわよ。」
「熱いって、どんくらい?」
 と、マードック。
「70度。」
「熱っ。火傷するじゃねえか、そんなもん。」
「大丈夫。48度くらいのところもあるから。さ、入って。まず15分ね。ピーッ!」
 そう言うと、ヨアンが笛を吹いた。すると、どこからともなく現れるダイビングスーツ姿のマッチョな男4人。無言でAチームに近づくと、1on1で張りつき、4人を温泉へ突き落とした。
「うわっ、熱っ!」
「あわわわ、死ぬ、死ぬ!」
「溺れるっ!」
「ひぃ〜! 助けて!」
 慌てる4人の後から、無表情なまま温泉に入った4人のマッチョ。それぞれの担当を取り押さえ、“いい場所”(48度くらいの比較的安全な場所)へと引き摺り、肩を押さえつけて固定する。いい場所とは言え、熱い温泉に入り慣れていないアメリカ人4人に、48度の、しかも濃厚な源泉は拷問である。
「15分我慢!」
 ヨアンが叫んだ。
「言い忘れてたけど、うちの温泉、お客様1人につき1名ずつエスコートがつくの。ステキでしょ。」
 ダイビングスーツを着込んでいるために熱い湯もへっちゃらなエスコートたちは、暴れるAチームをいとも簡単に押さえつける。最後まで抵抗して殴り合いみたいになっていたコングも、10分を超える頃にはグッタリとして押さえつけられたままになってしまった。



「ピーッ! 次、冷泉タイム!」
 ヨアンの号令に、温泉から引き摺り出される4人。間髪入れず、隣の温泉に叩き込まれる。
「んがっ、冷たっ!」
「しっ、心臓が……。」
「ぐはああっ、寒うっ。」
「ん? オイラ結構いいかも。」
 先程と同じようにエスコートに押さえつけられる4人。今度は5度の冷泉である。5度と言えば、真夏のビール飲み頃温度、ヘタすりゃショック死だが、そこはそれ、エスコートが、それぞれの心臓の位置を裏表から拳でガンガン叩いて活を入れ続けるから大丈夫。コングだけ、またもや殴り合いになっていたが、5分もすると寒さに体力を奪われて再びグッタリ。



「ピーッ! はい、2セットめ、開始!」
 15分後、ヨアンの号令に、またもや熱い温泉に叩き込まれる4人。



*9*


 4セットを終えた2時間後、既に夜の9時を回っている。4人は、ボロ雑巾のようになってマッサージルームに放り込まれた。
「フェイス、どうなってるんだ。美人の女医さんの困り事を解決するついでに、温泉で1年の疲れを洗い流そう、って計画じゃなかったのか。」
 マッサージ台によじ登って転がりながらハンニバルが言った。
「だからごめんってば。俺だってこんな展開と知ってたら、いくらヨアンが命の恩人でも来なかったよ。」
 既にマッサージ台の上で茹で上がったタコのように転がっているフェイスマンが言った。命の恩人ってほどでもないだろう、胃炎くらいで。
「大体俺は、温泉ってヤツが気に食わねえんだ。俺はソーセージじゃねえんだからな、あんな熱い湯に浮かべられたってどっこもよくなんかなりゃしねえんだ。」
 と言うコング、既に肌色はアイルランド製のブラックプディングのような赤黒さ。
「そう? 何かオイラ、途中から快適なんだけど。」
 なぜか1人だけ血色がよくなっているマードック。



 と、そこに、マッサージ師のハイコ登場。
「えー、皆様、ここからは僕の出番です。スパルタ式整体と言いまして、昔、スパルタの兵士が戦場で負った打撲や捻挫を、翌日の戦闘までに即座に治すため編み出された整体を、現代医学に鑑みてアレンジした特別メニューになってます。まずは皆様の体をチェックさせていただき、施術に入りたいと思います。」
 既に何か質問する気力もなく、無言で頷く4人。小柄で非力そうなハイコなら、そう酷いことにはならんだろうという予想と共に、ぐったりとマッサージ台に身を投げ出す4人であった。



 1人ひとりの体を、押したり曲げたり伸ばしたりしつつ、入念にチェックするハイコ。
「ええと、スミスさんは、Aの1コース、バラカスさんはスペシャルコース、マードックさんはAの2コース、ペックさんは別メニューになりますので、台から下りてヨアンの所に行ってください。」
「別メニュー?」
「ええ、胃弱の治療です。内臓には、マッサージより内科の治療の方が効くから。」
「そ、そりゃそうだよね、ラッキー。じゃ、俺、ヨアンのとこ行ってくるわ。」
 そう言って、イソイソとマッサージ台を下り、隣の診療室に入っていくフェイスマン。
「じゃあ、残った皆さんは、スパルタ式整体、ゆっくりお楽しみ下さい。」
 そう言って部屋を出て行こうとするハイコを、ハンニバルが呼び止めた。
「ちょっと待て。君がやるんじゃないのか? 整体。」
「ええ、僕は診断するだけです、あとは、エスコートが。」
 ハイコが、そう言って部屋を去るのと入れ替わりに、さっきのエスコート(ダイビングスーツを脱いで、逞しすぎるパンイチ姿)が部屋に入って来た。



 5分後、悲鳴とも雄叫びともつかぬ咆哮の三重唱が、マッサージ室に木霊した。その合間に、バキともベキともつかぬ嫌な骨折れ音が挿入される。悲惨かつ華麗なスパルタ式整体の宴は、深夜まで続いた。



*10*


 一方、こちらヨアンの診療室。ピンクで統一されたその部屋は、狭いながらも、女医の診療室らしいリラックスできる空間を演出してある。マッサージ室からの悲痛な叫びを聞きながら、フェイスマンは、生まれて初めて、胃弱に生んでくれたことを両親に感謝せずにはいられなかった。
「さて、ペックさん、あなたの胃弱体質を一気に治してしまいましょうね。」
 先ほどとは打って変わって優しげな雰囲気のヨアンは、そう言って優しくフェイスマンの手を取った。
「やっぱり来てよかったな。君みたいな名医に直々に診てもらえるなんて、僕は幸せ者だよ。」
 思わぬ展開にフェイスマンの眉毛も下がりに下がる。
「あなたの胃にはね、ペックさん、ピロリ菌っていう菌がいるの。これが胃弱の元凶。放っておくと癌になるかもしれないから、今日はこれを退治します。」
 ヨアンは、そう言うと、フェイスマンの横に据えてある1台のマシンを見やった。
「これ……何?」
「何も怖がることないのよ。あなたは、この管を咥えているだけ。あとは勝手にこの機械がやってくれるわ。」
 そう言うと、フェイスマンの口に、機械から出ている管を押し込み、そのままバンドでフェイスマンの頭に固定した。そして、先ほどと同じように、優しくフェイスマンの両手を取ると、それを機械の両側になぜかついている手錠に繋ぐ。フェイスマンは、80cm四方の機械に抱きついた姿のまま固定されてしまった。
「おげががぎがが(これは何かな)?」
 口に管が押し込まれているので、上手に喋れない。
「うん、ちょっと暴れる人がいるから、こういう形にしてるの。ほら、貴重な薬を使ってるから、零したらもったいないでしょ。それじゃ、行きまーす。ポチっとな。」
 古典的フレーズで機械のスイッチを入れるヨアン。いきなりフェイスマンの喉に流れ込んできたのは、熱い温泉水であった。酸っぱい、しかも、苦い。
「あびあびあび……がぎごえ(あちあちあち……何これ)?」
 苦しさに涙を流しながらフェイスマンが問うた。
「スカユ温泉の源泉に、センブリを煮出したもの。これで胃の中を洗浄すると同時に、ピロリ菌を煮殺します。」
 菌が煮殺される前に、胃壁が煮殺されるような気がするのだが、どうか。
「ぐががが、ぎがぐるじい(胃が苦しい)……。」
「そろそろ一杯ね。じゃ、吸い出します。」
 ヨアンは、そう言うと、V(バキューム)ボタンを押した。今まで注ぎ込まれていたセンブリ温泉水が、ダイソンの掃除機もかくやという勢いで吸い出されていく。
「が、がいごうがずわれう。でぐ、でぐ(な、内臓が吸われる。出る、出る)。」
「はい、入れまーす。」
「あびあびあび……。」
「吸いまーす。」
「でぐ、でぐ……。」
「入れまーす。」
「あびあびあび……。」
「吸いまーす。」
(以下、無限ループ。)
 遠くなっていく意識の中で、フェイスマンは、グギャー、というハンニバルの断末魔の叫びを、微かに聞いたような気がした。



*11*


 4人が解放されたのは、結局、深夜をかなり回った後だった。あてがわれた部屋は、2段ベッドが2台入った粗末な部屋。用済みのボロ雑巾となった4人のうち、誰1人として2段ベッドの上によじ登れる体力の余っている者はなく、あまつさえ下の段の柵すらも乗り越え損ね、4人は二手に分かれてベッドの柵に引っかかった状態で気を失った。



 翌朝。チチチチチ……チュンチュン……。鳥の声が聞こえる。
 ハンニバルは、パチリと目を開けた。そして、ベッドに引っかかったままの体を素早く起こし、立ち上がり、大きく伸びをする。――体が、軽い。試しに、何回かその場でジャンプをしてみる。腕を、ぐるぐる回してみる。首も、足首も、どこも、バキバキ鳴るところはない。そして、目もぱっちり開いている。ふと気づき、部屋の隅に置いてあった体重計に乗ってみた。4kg減ってる!
「こりゃ……こりゃ、すごいぞ。おい、みんな起きろ!」
 ハンニバルは、3人を叩き起こした。すると、普段は寝起きの悪いAチームの面々、全員が瞬時に起床。
「おはよう、ハンニバル。いい朝だね。何か俺、お腹空いちゃった。」
 フェイスマンが起き上がるなりそう言った。
「胃もたれで苦しんでたお前が、朝に腹が減るなんて、随分久し振りじゃないか?」
「あれ、そう言われればそうだね。ここ数カ月、こんなにお腹が空くことってなかったかも。」
「俺も、今朝は腰が全く痛くないぜ。先月スパーで痛めた膝も快調だ。」
 コングが、シャドーボクシングで拳を突き出しながらそう言った。
「俺っち、何か前髪が増えたみたい。て言うか、毛が太くなったみたい。帽子が浮いちゃって。それに、何て言うかこう、いいことしたい! って言うか、世の中のためになることしたい、っていう気分がムラムラと。」
 前髪のコシでキャップが少し浮き上がって見える(錯覚だけど)マードックである。
「確かにあたしも、何十年振りかに何事かを成し遂げたい気分ですよ。やっぱり、健全な精神は健全な肉体に宿るってことですかねえ。ううむ、スカユ温泉、恐るべしですな。こんなに簡単に痩せる(胃弱が治る、腰が治る、髪が増える)なら、あの苦行の数々も屁の河童だ。おい、フェイス、この温泉、宣伝する価値は十分にありますよ。」



 温泉と整体・治療ですっかり元気を取り戻した4人は、ヨアン考案の温泉粥・センブリ温泉卵など、あり得ない味つけの朝食を美味しくいただき、あの険しい道を元気に逆戻り、帰途に就いたのであった。



 その後、フェイスマンが作った広告チラシ『サバイバル! トレーニング! リラックス! アーンド、デトックス! 温泉旅行は冒険だ! 来たれ、足に自信の挑戦者! スカユ温泉へ!』は、ロサンゼルスの一角でひっそりとばら撒かれ、54名の湯治客を集めた。しかし、そのほとんどが道半ばで遭難、捜索に警察ヘリが毎度毎度出動する事態を生む。結果、こんな危ない道を市民に通らせるわけには行かないと判断した州が、スカージが買い取った道路を買い戻し、スカユ温泉への道は図らずも復活したのであった。
【おしまい】
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